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第三〇話    天狐族の里

 




「そう言えば」

「はい! はい! なんでしょうか!? 私の歳ですか!?」

 尻尾を振りながら嬉しさを全身で表現し、何でも聞いてください、と身構えたミユキに、トウカは気後れする。女性が自ら年齢の問題を持ち出してくる例は、今までのトウカの人生にはなかった。

「えっと、私の年齢は六二歳です。因みに誕生日は十月の三〇日ですから」

「いや別に年齢は……六二?」異邦人、言葉に詰まる。

「はい、ぴちぴちの六二歳ですよ!」

 嬉しそうな表情をしている仔狐に、異邦人は頬を引き攣らせる。

 尻尾と狐耳が付いている事を除けば、普通の可愛い年頃の少女だと思っていただけに、この一撃は見事な奇襲となった。そして、その事実に気を重くしている 自身に気付き、更に気を重くする。無論、長命種であるミユキが容姿通りの年齢であるなどとはトウカも考えていなかったが、突然に突き付けられた事実に対し て、即座に言葉を切り返せる程でもなかった。

「……………………」

「ぬ、主様?」

 冷厳な雰囲気へと変じたトウカに、ミユキが怪訝な視線を向ける。

「察してやってはどうか、ミユキ。狐……もとい、狸に化かされた気分なのだ」

「むぅ、御師様だって、乙女を過ぎて幾星霜じゃないですか。え~と、五〇〇歳くらいでしたっけ?」

 ミユキとベルセリカの会話に、トウカは口を挟めない。

 確かにベルセリカに関して言えば、トウカが図書館で見つけた五〇〇年前の英雄譚にも書かれている存在である以上、最低でも五〇〇歳である事は確実であ る。ミユキに関しては言動から自身と同じ年頃だと朧げながらに考えていた。種族毎の成長度合いは、精神にも大きく影響する為、一概に見た目と年齢が合致す るとは限らない。また種族毎の成長も差異が大きい点も踏まえると、容姿などから他種族の年齢を推察する事は不可能とも言える。自国民の種族と民族を乗せた 図鑑が存在する国家の恐ろしさである。

 年齢を暴露されたベルセリカに狐耳を引っ張られて涙目のミユキ。

「もぅ、狸みたいな雑食動物と一緒にしないでくださいよぅ! 私の耳と尻尾はあんな量産品とは違います!」

 ミユキがベルセリカの戒めから逃れ、涙目をそのままに唸る。耳と尻尾に並々ならぬ拘りがある種族は多い。トウカもモフモフに癒されているので否定はしな い。だが、狸の尻尾も触ってみたいと思った事はミユキには伏せる。それもまた、ある種の浮気と捉えかねない勢いであったが故に。

「主様は、もっと年上の狐が良いんですか!? 確かに今は若くて小さな狐ですけど、私だって後、一〇〇年したらもっと魅力的になりまから」

「それは是が非でも一〇〇年は生きないとな……。狐種に連なる種族はそれ程に長生きなのか?」

 話を聞く限り、狐種の寿命は人間種よりも遙かに優越している。尤も皇国は人間種に他種族の血が混じった混血種も多い為、他国と比較すると平均寿命は長い傾向にあった。この国家に於いては純粋な人間種であるトウカこそが異端である。。

「う~ん、隠居した長老様は一〇〇〇歳は超えていると思うんですけど……ここ一〇〇年、誰も姿を見ていないらしくて分かんないです」

「隠居も一〇〇年すると忘れられそうだな」寧ろ、死亡を疑うべきではないのか?

 ベルセリカなどは、五〇〇年近く厭離穢土を決め込んでいたので、その五分の一では驚くに値しない。剣聖が長き歳月を経て、生きながらにして歴史となった以上、一〇〇年程度の隠居は皇国では良く見られる事なのかも知れなかった。

「建国時に活躍した神龍の一柱は、北部のミストヴァルトの密林に隠居しているという噂も御座ったな。長命種にとって己の死とは精神の摩耗に依るところ。身 体だけとなった長命種は、初代天帝陛下の御下に還ると言われておるからな。……その点に於いては人間種が一番幸せやも知れぬ」

 ベルセリカの言葉に、トウカも頷く。その点についてはトウカも同意見であった。

 詰まるところ長命種は、その高い身体能力の為、容易には死ぬ事は叶わないにも関わらず、精神はそれに準ずる程の強大な抗堪性を有してはない。刃では死なずとも、悲劇という事象自体が致命傷に成り得るのだ。

「……辛いですか?」

「いや、これもまた我らの枷なのだ」ベルセリカは肩を竦める。

 完全に勝者としての在り様を体現しているのならば、長命種達は皇国に於いて数多の種族の導き手とは成り得なかった。目視できる存在を完全無欠として扱 い、敬う事は全ての人間にはできない。多くの者が敬う神ですら人前に姿を現す事を極端に避けて神秘性を保全している。神はその権能ではなく、演出に依って こそ神として信徒に認識されるのだ。

 力ある者の義務。

 望まずとも力を持って生れ落ち、否応なく義務を課されるその心情は如何なるものか。無論、その義務は司法や権力が強制するものではなく、己の高潔さ故であるが、その点がトウカには理解し難い。己の正当性を自負するなど、正に狂信と言えよう。

 だが、使えるかも知れない、とトウカは無に徹した表情を以て、ベルセリカへと問う。

「……その枷はミユキの両親にも掛かっていますか?」

 そう、ミユキの両親に会う事は避けられない。既に天弧族の隠れ里へと歩んでいる最中であり、トウカにはその道が死出の旅か、栄光への旅路なのか判断しかねていた。余りにも情報が不足しており、状況に合わせて動くしかない。

 詰まるところ、魔術特性に優れた天狐族と敵対する可能性があるのだ。

 武力面に於いては圧倒的劣勢で、ベルセリカでも分が悪い以上、相手の自制心という名の枷に期待するしかなかった。

「……往生際が悪いな。男ならば、時には我武者羅に相対するのも手で御座ろう」古の騎士が苦笑する。

 戦闘に於いて、長命種に対して何ら長所を持たない人間種が勝つことなどまず不可能。不意を突いたとしても難しい。人間種が長命種に対して圧倒的な優位性(アドバンテージ)を誇る点は、集団戦に於ける数しかない。

「まぁ、期待しています、セリカさん。サクッとお願いします」

「任せよ……と言いたいが、流石にやりすぎではないか?」

 頬を引き攣らせるベルセリカを、トウカは無視する。

 トウカは、娘さんをください、と言った後、殴り殺されたくはない。だが、トウカがどの様に策を弄したところで相手はミユキの父なのだ。無下に扱うことはできないし、まさか刃を突き立てる訳にもいかない。

「主様~。おとさんは優しい人ですから、きっと認めてくれますよ」

 確かにミユキの父親であれば優しいかも知れない。だが、世の中には往々にして親馬鹿というどうしようもない者達が存在する。そうなるとミユキの言も当てにはできない。

「……ああ、そうだな。何とかする」

「大丈夫ですよ。みんな主様を気に入ってくれると思います」

 嬉しそうに尻尾を揺らし、腕に絡み付く仔狐にトウカは曖昧な笑みを浮かべるだけに留める。

 トウカとしては温かく迎え入れられる可能性よりも、貴様に娘をくれてやるものか、と殴られる可能性のほうが高いと考えていた。

 天狐族は、耳長(エルフ)族に負けず劣らず排他的な種族とされ、一部の例外を除いて秘境の最奥や高山の中腹に他種族と関わらぬ様に集落を構えている。それ程に他種族との交流を拒む種族の集落赴いて無事に済むと思うほど、トウカは楽観的な思考回路をしていない。

 だが、何よりも心配なのはミユキの身であった。他種族を集落に連れ帰ったミユキに、何かしらの罰が下る可能性がある。もし、その身に危害が及ぶと言うならば、退路の確保も必須となる。

 言い知れぬ不安が異邦人を襲う。腰の軍刀や背の小銃、懐の輪胴式拳銃……腰に吊るされたファウストが重さを増してゆくような感覚に表情が強張る。傭兵達と出会った際も、似た様な感覚に襲われた。

 その表情を気取ったミユキが、顔を曇らせる。

「私の家族に会うのは嫌ですか?」

「まさか……いずれは挨拶に向かわねばならないとは思っていた。こんなに早くになるとは考えていなかったが」

 トウカとしては、ミユキの父親が大らかな人物である事を祈るばかりである。ミユキの性格や物腰が父親譲りのものでなければ、二、三発殴られる覚悟はして おかねばならない。最悪、駆け落ちすら考えているトウカは、いざとなればミユキの手を引いて逃げ出そうと考えていたが、当のミユキがそれを良しとするはず がなかった。感情的になられると届く言葉も届かず、拳での会話も選択肢としては除外したい。

「……家族への挨拶は次にしようか?」

 もし、祖父の如き人物であれば笑うしかなかった。ミユキの実家の半ばまで進んでおいて往生際が悪いが、不利な状況下で戦野へと赴くことは何としても避け たい。そう、これは軍事的見地から“転進”を求める判断なのだ。誉れ高き帝国海軍とて、水無月島(ミッドウェー島)から名誉ある撤退をしている以上、恥で はない。

「や、です! 母様と約束したんです。運命の人が現れたら一番に紹介するって……」

 俯くミユキ。

 悲しそうな表情の仔狐に異邦人は抗う術を持たない。トウカにとってミユキの言葉とは、無条件で心に響くものであった。仔狐の悲痛な表情は、三個師団の火力に勝るものがある。

 狐耳と尻尾を項垂れさせたミユキに、トウカは精一杯の笑みを向けた。

「冗談だ。避けては通れない道が少し早まったに過ぎない。御前の異邦人は逃げない」

「本当ですか?」

「無論だ」

「本当の本当ですかっ?」

 トウカの腕を掴み「むむっ」と精一杯の思案顔をして見せた。真偽を確かめようとしているのであろうが、その表情は小動物が唸っているようで微笑ましい。横では二人の様子をベルセリカが呆れ半分で眺めている。

 だが、ミユキの胸の感触が両手に伝わると、トウカは気恥ずかしさでそれどころではなくなった。努めて表情と声音に動揺を出さないよう、ミユキを見つめ返す。ここで気恥ずかしさに負けて視線を逸らすほど、トウカは馬鹿ではない。

「信じてくれ。御前の異邦人は約束を護る」

 悠然と微笑みをみせてはいるが、内心では羞恥心に悶えていた。しかし、迂遠な物言いでは仔狐が気付いてくれるか分らない。ベルセリカが、大した詐欺師では御座らんか、と呟いていたが二人には聞こえなかった。

「主様は卑怯ですよぅ。そんな顔して言われたら信じるしかないじゃないですか……もぅ」

 そうは言いつつも、満更ではなさそうな顔をするミユキに、トウカは苦笑を一つ。

 トウカは他者に優しくできるような男ではない。呼吸をするように嘘を吐き、笑顔で刃を振り翳せる異邦人である。祖父や幼馴染の様な例外も存在したが、この世界に於いてその二人は存在しない。

 そんな、トウカであっても……少なくともミユキの前でだけは優しくありたいと思っていた。

 ミユキと出会わなければ、トウカはこの虚飾に満ちた世界を憎んだだろう。
 ミユキと出会わなければ、トウカは人間であることを放棄していただろう。
 ミユキと出会わなければ、トウカは優しき恋を胸に抱くこともなかっただろう。

 異邦人は仔狐を抱き締める。

 慌てるミユキだが、トウカの有無を言わせぬ腕力に静かになる。

 その暖かさは、確かに存在し、トウカの心身を満たす。現金かもしれないが、トウカにとってこの一時こそが至福であり至高であった。

 トウカにとってミユキとは、この殺伐とした世界で唯一の救いに他ならない。
 トウカにとってミユキとは、この腐敗した世界で唯一の赦しに他ならない。
 トウカにとってミユキとは、この血風舞う世界で唯一の奇蹟に他ならない。

「ミユキはどんな未来を望む?」

 それはミユキの未来。
 それはトウカの未来。
 それは世界の未来。

 ミユキが望む未来に叶う限り現実を近づける事こそがトウカの務め。存在意義と適宜されてもトウカは、肯定するだろう。

「私は……主様とみんなが笑っていられる未来がいいです」

 ミユキが紡ぐ。トウカは背筋を伸ばし、自らの未来を指し示すであろう一言を待つ。

「全てなんて傲慢な事は言わないです。でも、瞳に映る人達には平穏であって欲しい。その光景の中に私と主様がいるんです。だから二人で頑張りましょうね」

 何と傲慢なる願いであろうか。
 何と無謀なる願いであろうか。
 何と無垢なる願いであろうか。

 心優しくも限定的な、仔狐らしい言葉。

 だが、現在の皇国がその傲慢にして無謀なる願いを叶える事ができる状況ではないのは明白。ならば、その無垢なる願いの果てに仔狐はいかなる未来を見るのか。

 そして、トウカも言葉を紡ぐ。









「ミユキが望むなら……最大限の努力はしてみせる」

 右手を胸に当て、ゆっくりと、だが確かに頷いたトウカに、ミユキは思わず笑みを零す。何て不器用な人なのだろう、と。

 ただの女誑しであれば鷹揚に頷いて見せ、小心者であれば首を横に振っただろうが、トウカは最大限の努力と言って見せた。自らに驕る事もなく、慢心する事もない。安請け合いする事もなく、最初から失敗の可能性を考慮している。

 卑怯な答え。万人が、そう思うかも知れない。

 しかし、ミユキはそうは思わない。

 ――主様の最大限の努力がどれだけ苛烈か……私は知ってるもん。

 ベルセリカ相手の勝算のない戦いに応じた事は、ミユキにとって嬉しい事でもあり、予想できた事でもあった。無論、トウカが真っ当な戦い方を選択するとは 思っておらず、遠くの屋根に見えた大外套だけの黒い影を見た瞬間に正しかったことは証明され、ミユキは満足したが、次の瞬間にはそれは後悔へと変わる。

 トウカの思惑が、勝利ではなくベルセリカの戦意を喪失、或いは萎えさせるものだということは予想していたが、ベルセリカは余りにも容赦がなかった。自身 の屋敷諸共粉砕する程に苛烈な戦闘を展開し、短時間でトウカを追い詰めた。トウカは、ベルセリカの慢心による隙を見出そうとしていたのだろうが、人間種相 手に過剰な対応をされて追い詰められた。

 結果として、ベルセリカはトウカの本心を引き摺り出すことに成功した。 

 その答えは、ミユキにとって好ましいものであったが、ベルセリカにとっては痛恨の失態であった。強引すぎる手段はトウカをいたく傷付けてしまったのではないかと彼女が溜息を零していたことを、ミユキは知っている。

 そんな依存とも思える想いであったが、ミユキはその狂おしいまでの想いが堪らなく嬉しかった。女性が自分の為に無理する最愛の男性に対して否定的であるはずがない。

「無茶は駄目ですからね?」

「分かっている」微笑むトウカ。

 絶対に分かってはいないだろうが、ミユキはそれを咎めない。自身が止めても聞き入れはしないだろう。

「……せめて人目を憚れ。莫迦者が」

 ベルセリカの声に、ミユキは狐耳を立てて唸る。

 声を掛けるのは後でも良かったではないかと頬を膨らませるが、先程から二人で見つめ合って足を止めているので、ベルセリカはその場で待ち続けていたことになる。

「大丈夫ですよぅ。もう着きましたから」

「ふむ、この先程から熱い視線を送っておる者共は全て狐か」

 ベルセリカは緩やかな笑みを浮かべたまま、腰に帯びた刀の柄に手を添える。トウカは小銃の槓桿(コッキングレバー)を引き、薬室に初弾を装填して射撃体勢に移る。二人はミユキの左右に分かれ、普段なく周囲を見回す。

 濃密な死の気配を漂わせた二人は、完全な迎撃態勢だった。

 対して周囲の密林の闇からは、刺す様な指向性を伴った気配が飛来する。

「も、もぅ、待ってください! どっちも武器から手を離してくださいよぅ!」

「大丈夫だ。無茶はしない」

 ミユキは手を振って、この場にいる者達を諌めようとする。

 森の奥に潜む者達は、天狐族の隠れ里を防衛している守備隊で、無関係の者達が近づかぬように常日頃から見張っている。当然、光学迷彩魔術と広域探知魔術 によって隠蔽されてはいるが、迷い込む者は皆無とは言えない上に、明らかに敵意を持って侵入しようとする者達を敵性戦力として排除をするという役目を担っ ていた。

 守備隊は同族であるミユキがいるとはいえ、他種族の二人がいる為、不用意に接触できなかった。対するトウカとベルセリカも、相手が戦闘態勢を解かない限 り、歩み寄ることは有り得ない。トウカは歴史から、ベルセリカは実体験から、敵対しつつある者達の前で武装を解除する愚を犯すがはずがなかった。

「な、泣いちゃいますよ! 本当に泣いちゃいますよ!」狐耳を立てて怒るミユキ。

 トウカは止むを得ず銃口を下げる。主様だけは分かってくれたと、思った次の瞬間には、トウカの手にファウストが握られていた。赤く輝くファウストは火の 魔力に満ちている。炎弾で森諸共焼き払う心算なのだ。不要な遮蔽物を取り除き射界を確保するというのは軍事的観点では正しいが、今この時ばかりは間違った 判断であった。

「ううぅぅっ……っ!」トウカに抱き付いて、ミユキは慌てて止める。

 いざとなれば躊躇わないことは、ベルセリカとの戦闘で嫌という程に思い知った。この場で最も戦わせてはいけないのは、トウカであることは疑いようもない。

「姫様ッ! そのような男に抱き付くなどッ!」

 森の奥から一人の天狐が雪を巻き上げながら駆けてくる。見知った顔。

「あっ、エルヴィン叔父さんだ。久し振りっ!」

 守備隊の隊長を務めているエルヴィンだった。

 長大な戦斧(ハルバード)を手にしたエルヴィンは壮年の巨漢で、トウカが思わず顔を引き攣らせる程の容姿をしていた。頬にある刀傷と、筋骨隆々と称して差し支えない身体を持つ豪快な男性の姿は、トウカの狐に対する幻想を打ち砕いていたが、ミユキは気付かなかない。

「貴様っ! 姫様に無礼なことは許さんぞ!」

「むさ苦しいので少し離れていただけますか?」

 襟首を掴んだエルヴィンに、トウカが冷静に返す。だが、ミユキはトウカの手が、静かに大外套の奥へ消えたことを見逃さなかった。輪胴式(リボルバー)拳銃を取り出そうとしているのだろう。

「主様、メッ、ですよ」

 大外套に隠れたトウカの手を押さえ付ける。驚いた様なトウカの顔もまた初めて見るもので、つい見とれてしまいそうになるが、慌ててエルヴィンに視線を向けた。

「里に案内して、エルヴィン叔父さん」

「むっ、しかし姫様。他種族を里に入れる訳には」エルヴィンが困惑した様子で拒否する。

 狐種に連なる種族の多くが排他的であるように、天狐族もまた例外ではない。ミユキはその数少ない例外であったが、種族全体からみれば異端でしかなかっ た。無論、天狐族が強い猜疑心を持ち合わせている点は、狐の因子をその身に宿しているからか、或いは狐種全体がそのような教育思想の下で子を育んでいる為 か、勉学の悉くから逃げていたミユキには分からない。

「ねぇ、私が帰ってきたんだよ? このまま返しちゃうのはいけないよね?」

 そう、ミユキが里へと足を運んだ理由は、手配書を取り下げさせる為であるが、そもそもの原因である手配書が撒かれた理由は、ミユキを連れ戻したいからで あろうことは疑いない。その理由は不明であったが、まさか眼前にして逃すことは許されないはず……とミユキは踏んでいた。

「むぅ、どうしても通してくれないなら押し通っちゃうよ?」

 右の掌に狐火を揺らめかせ無邪気な笑顔を浮かべたミユキに、エルヴィンの表情が更に大きく歪む。使命と忠義の間で悩むエルヴィンだが、そのどちらもがミユキにとって縁のない言葉であった。

 悩む叔父。笑顔の仔狐。警戒する異邦人と剣聖。

 その均衡を破ったのは第三者だった。









 トウカ達は、巨大な屋敷の和室で美しい女狐と相対していた。

 ベルセリカの屋敷で”和”に近い文化が存在することは知っていたが、トウカの知る”和”と余りにも似すぎていた。神州国発祥の文化であると考えていた が、梁や襖、床や畳に至るまで……挙句の果てには屋敷そのものも見事な神殿造りであり、全てがトウカの知るものと寸分違わぬ造りをしているとなると、気候 や風土が似ているでは済まされない。過去にトウカの世界の文化が齎されるナニカがあった可能性がある。

 そんな益体もないことを考えながら、トウカは女狐を眺める。

「貴女がミユキの……」トウカは二の句が継げない。

 眼前で、ミユキの面影を感じさせる表情で優雅に微笑む女性を見据える。 

 ミユキが幾星霜の時を重ね、落ち着きと妖艶さを身に纏ったかのようなその雰囲気と、それを漂わせるだけの身体つきをした女性に、トウカは目を奪われたが、表情には出さずに一礼する。

 流れる様な白雪の如き髪が浮世離れしたかの様な感覚を助長させる。

 仔狐に気取られないかと心中穏やかでないトウカの懸念を見透かしたかの様に、口元に手を翳して微笑を浮かべるその姿に、曖昧な笑みを浮かべて応じる。

 そして、背中を叩くミユキの尻尾に、慌てて頬を引き締める。

 隣に座るミユキは御機嫌斜めであった。その理由は明白で、目の前の女性が原因であり、だからこそトウカは女性に声を掛けることができなかった。そして、ベルセリカは我関せずと言いたげに既にこの場を去っており、トウカに退路はない。

 だが、このままという訳にもいかず、トウカは話を切り出す。

「貴女がミユキの御母堂なのですか? 思わず姉上殿かと……申し訳ない」

「ふふっ、御上手ね。トウカさんも我儘娘を連れ帰ってきてくれて有難うね。助かりました。天孤族のマイカゼ、この御恩は那由他の限り忘れません」

 微笑むミユキの母――マイカゼにトウカも笑みを返す。

 見ている限りは微笑ましい光景だが、トウカ自らの胸中を晒さないように会話を重ねていた。マイカゼは一見するとおっとりした印象を受けるが、三人を里へと迎え入れた際、一瞬だけ垣間見せた他者の内心を見透かさんとする瞳の色をトウカは見逃さなかった。

 ――賢しい女性か……いや、ミユキもその片鱗は窺い知れた。

 言い包められぬようにしなければならないと、トウカは警戒する。

 そして、内心で如何したものかと、トウカは思い悩む。

 手札はベルセリカという名の“武力”のみだが、ミユキの家族にそれを切る訳にはいかず、またミユキも認めない。だが、ベルセリカと交わした“契約”のよ うな手段は取ることができなかった。舌先三寸で交わしたその“契約”は、未来の事象という空手形によって交わされたもので、返済時期が明確に定められてい ないとはいえ、トウカがその条件を満たすことができないと判断された瞬間、即時に破棄されかねない代物に他ならない。少なくともトウカはそう考えていた。

 冷徹な計算を巡らせるトウカをみたマイカゼは、くすりと笑みを零す。

「トウカさんはミユキのこと、好き?」

「っ! ……好きです。少なくとも天狐族と敵対することを躊躇わない程には」驚愕を抑え込み、異邦人は背筋を伸ばして応じる。

 本来ならば、里へ招き入れることすら許されない他種族の男を連れ帰ってきた以上、その関係が只ならぬものであると予測するのは容易く、またミユキの態度 を見ても明白であった。マイカゼがその点を承知した上で、里へトウカを招き入れたのであれば何かしらの意図があるのだろう。そこに付け入る隙があればいい が、とトウカは思案する。

「敵対……そこまで気負わなくてもいいのよ? 私は娘の想いは尊重するもの」

「それは……心強いです。敵ばかりかと思っていましたので」

 安堵の言葉を漏らすトウカだが、マイカゼの言葉を何処かで疑っていた。

 太腿へとじゃれついてきたミユキの頭を撫でるトウカの姿は、木材と畳、襖などで構成された和風の一室の風景も相まって、縁側で猫を撫でる老人の姿そのものだが指摘する者はいない。

「何故、ミユキを探していたのですか? ミユキが家から飛び出して何年も経っていると聞いています。急に探すということは何かあったのでは?」

「あら、親が行方知れずの娘を探すことは不自然なことではないわ」

「じゃあじゃあ、あの気持ち悪い手配書を取り下げてくださいよぅ」ミユキが唸る。

 最終目的は手配書の撤回であって、両親にトウカを認めさせることではない。ミユキはどちらの条件も満たしたがっているが、後者は不可能な場合、トウカは 駆け落ちすることも止むなしと考えていた。寧ろ、拘束されない自由を求めるならば、ミユキの手を引いて里から飛び出すことが合理的である。

「あら、お見合い写真を使ったのだけど……嫌だったの?」

「嫌に決まってます、もぅ!」

 頬を膨らませて怒る仔狐と、困った表情をする母狐。

「貴女に婚約の話があるのよ。そろそろ身を固めて欲しいと御父さんは思っているの……最近は、物騒だから里に戻ってきて欲しいのよ。口には出さないけど心配しているのよ」

 成るほど、とトウカは嘆息する。

 有り得そうな話である。或いは国情を懸念して屋敷にでも閉じ込めてしまわんとでも目論んでいるのではないかと懸念してもいたが、最悪の展開ではなかっ た。問答無用で仲を引き裂かれる可能性もあったが、相手が先に手を出してきた場合は、正当防衛の範疇でベルセリカが大暴れする以上、懸念も疑念も鎧袖一触 で粉砕してくれるだろうことは想像に難くない。ミユキも望まぬ婚約が先に待ち受けている状況に於いて、手段を選ぶほどお人好しではないはずである。

 つまり挑発次第で、武力行使に持ち込めるのだ。

 ミユキは、魔導砲兵に匹敵する者が里には無数にいると口にしていたが、軍役経験のない者が群がったところで有効な戦術を構築できるとは思えない。打破するのは難しくない。必要とあればベルセリカにマイカゼを拘束させ、人質として撤退を容易なものとすれば良かった。

「それをミユキが認めると?」

「そうです! 絶対嫌です!」

 トウカの言葉を掻き消さんばかりの大音声でミユキが吠え、襖の外に見えるベルセリカの影が僅かに動く。トウカはミユキの手を取り立ち上がる。

「待って、トウカくん。私もこの婚約には反対なの。協調性のないこの子が、あの神経質な婚約者と上手くやっていけるとは思えないの」

「それは……それもそうですね」

 トウカは襖を開けようとしていた手を止め、マイカゼの最もと言える言葉に頷く。

 ミユキは良くも悪くも自由奔放で、大よそ他者の意見に左右されることはない。トウカやベルセリカの言葉はよく聞き入れるが、それは二人が特別であるからであり、基本的には自身が行いたいことを心の赴くままに行う。相手が神経質と言うのであれば耐えられないだろう。

「もぅ、二人とも酷いですっ!」

「だから……トウカさんがこの子を貰ってくれるなら私は何も言いません」

「幸せにできないかも知れませんよ?」

 二人は視線を交わし、会話を続ける。無視されたミユキが唸っているが、二人は静かなる戦意を漲らせて相対していた。

「あら、その子の幸せは私の決める事かしら? ねぇ、人の子」

「少なくとも、里まで付いてくる程に本気であれば問題ないと?」

 排他的な種族の里に他種族が迎え入れられることは少ない。マイカゼの鶴の一声でトウカは里に迎えられたが、本来であれば追い返されるか、その場で斬り合 いとなることすら何ら不思議ではなかった。種族的差異は、民族的差異と比しても極めて複雑であり、相容れないとする者も少なくない。特に長命種はその傾向 が強く、人間種との関わりを絶っている種族も存在する。人の生は、罪を悔い改め、他者を顧みるには余りにも短い。あくまでも行動基準が自身中心であり、そ の点を長命種達は嫌悪をしているのである。だが、圧倒的な繁殖力を持つ人間種は、この地上に於いて大多数であり、民主主義という名の数の暴力を行使できる 政治体制下に在る国家であるならば政治的には圧倒的であった。

 人間種は群で行動してこそ、その真価を発揮する。

 だが、その真価は他種族を押し潰すことすらあった。他種族が持つ戦闘能力や潜在能力を利用しながらも恐れる。そして、排斥へと繋がる。和解へと舵を切っ ても数世代で風化し、利益や思想を理由に契約は反故にされる。対照的に長命な種族は当事者が存命であることが多い。寿命差を考慮すれば、必ずしも人間種に 落ち度があるという訳ではなく、敢えて罪を問うなら斯様な在り様の世界を許容した神々にこそ原因があった。

「人間種に娘を任せるのですか?」

 寿命にせよ病気にせよ暴力にせよ、人間種は長命種と比して余りにも容易く死を迎える。脆弱なる人間種であるトウカは、ミユキを残してあまりにも早く逝く。そんな異邦人に仔狐を任せようというのか。

 トウカはマイカゼの真意を計りかねた。

 異邦人の在り様を推し量ろうとしているのかとも警戒するが、変わらない笑みから真意を窺い知ることはできなかった。その笑顔を見て、ミユキも将来はこの様な女性になるのだろうか、と複雑な気持ちを抱きながらも、マイカゼの正面に正座する。

 それを見届けたマイカゼは扇子で、自らの膝を打つと、笑みを深める。

 何も背負うモノがなければ、見ている分には目の保養になる微笑であったが、何か企んでいる際のミユキの表情と似ており、策略に嵌ったとトウカは理解した。期せずして引き止められる形となった異邦人。

「そんな顔しないで。別に取って喰おうなんて考えてないから……まぁ、若い男性に惹かれる気持ちもあるけど……」

 擦り寄って肩に頭を預けてきたマイカゼに、トウカは息を詰まらせる。

 仔狐よりも雌を感じさせる身体に、自らが雄であることを意識してしまう程の雌の匂いに、トウカは思わず視線を逸らすが、その仕草を見たマイカゼは色香漂う笑みでトウカの手を握ろうとする。

 だが、トウカの太腿に身体を預けていたミユキが、それを見て頬を膨らませる。

「お母さん! あげないからねっ!」

 抱き付いてきたミユキの腰に手を回し、トウカは意識を持ち直す。

「では、一先ずは信じさせていただきます。……すぐにでも里を出た方が宜しいですか」

「それはダメ。……主人には会っていかないと」

「そうです! それがいいです! そうするべきです!」

 トウカは頬を引き攣らせる。

 気が付けばミユキはトウカの腰に両手を回し、逃げられない様に抱き締めていた。狐の包囲に異邦人は逃れられないと悟る。ミユキが逃がさないと知って、父 親の名を出したのだろうが、余りにも陰湿だった。少なくともミユキに抱き付かれて拘束されれば、トウカに逃れる術はない。ミユキは、トウカをマイカゼから 直ぐにでも引き離したいのか、「さぁ、行っちゃいましょう!」と引き摺って行こうとしている。トウカを惹き付けておいて、ミユキを怒らせたのは、冷静さを 奪う為もあったのだろうし、全てが計算の上での言動だったのだろう。

「御師様は、ここでお母さんと待っていてくださいね」

 襖を開けた先で微動だにせず鞘に収まった刀を抱いて座っていたベルセリカは、ミユキの言葉に黙って頷く。助けてはくれないようだ。

「む、無念……」

 上手く誘導されたトウカは、ミユキに引き摺られて和室から姿を消した。










「マイカゼ殿。御館様は無事なのだな?」剣聖は問う。

 ミユキが傍にいる以上、その身に危険はないだろうし、トウカ自身もそれ程までに状況が悪化するを良しとはしないだろう。ましてや、屋敷に入る際、武器を 全て出せと言われたにも関わらず、袖の下に刃物を隠し、懐には輪胴式拳銃を忍ばせていた。ベルセリカも見逃しそうになるほど自然な動作で一瞬のことだった が、大きめの上着も相まってマイカゼも気付いていないだろう。無論、拳銃如きで天孤の長を止められるとは思えないが、異邦人であれば上手くやるだろうと言 う確信があった。

「大丈夫。主人だって本心では婚約に反対。……トウカくんにも良い顔はしないだろうけど、その感情を利用して有耶無耶にするくらい貴方の御館様はできるでしょう?」

「何か勘違いをしておるな……(それがし)が心配しておるのは御主の伴侶の身の安全だ。某は知らぬからな」

「???」

 マイカゼが首を傾げるが、ベルセリカは黙って御茶を啜る。

 本性を露わにした異邦人と相対せねば、あの瞳を理解できない。傍観者でありながら仔狐が関わると、手段の一切を問わないその在り様は異質としか言い様がなかった。あれ程に異邦人が仔狐に依存している理由は定かではないが、大凡の見当は付く。

 トウカは孤独だったのだ。

 あの優しくも冷徹な異邦人の過去を一切知らないベルセリカに、その真実を推し量ることはできないが、少なくとも今この時、異邦人を人間としての領域に繋ぎ止めているのは、ミユキという鎖に他ならないことだけは理解していた。

 ――危うい……あの時、引き離していればどうなっていたか。

 剣聖は背に冷たいものを感じた。

 戦闘技能は取るに足らぬ相手なのかもしれないが、一人の人間を完全に敵にしてしまったという事実に変わりはないということになる。

 異邦人と敵対することは剣聖にも荷が重い。敵を撃破する為に効率的な手段を講じ続けることができる異邦人は、あらゆる禁忌と外道をも手段として捉えている。

 ベルセリカは戦場で一番、危険な兵士がどの様な者か知っている。

 目的の為に手段を選ばない者だ。無論、軍人としての最低限の一線を護っている者が大半であるが、中には例外もある。そんな例外たちと同じ瞳をしている上に、頭が回る分だけ余計に(たち)が悪い。

「貴女は名のある方とお見受けしたのだけど……トウカくんはそれ程なの?」

 マイカゼの困惑気味の問いに、ベルセリカは鷹揚に頷く。

 ベルセリカの知る限り、永い生の中で初めて出会った悲願を叶えられそうな者。危うい点も多いが、少なくともミユキが傍にいればそれ自体が枷となり得るし、ベルセリカは物理的に降りかかる火の粉だけ払えばいい。

「御館様は良くも悪くも無限の可能性を秘めておられるよ。……英雄になるか魔王になるかはミユキ次第で御座ろうな」

 そう、ミユキ次第だ。

 何かしらの根拠がある訳ではないが、ベルセリカにはトウカに可能性を感じた。無論、その可能性の先にどの様な結末が待ち受けるのかまでは神ならぬ身には 見通すことができない。しかしながら、ベルセリカに誇りという枷があるように、トウカもまたミユキという枷があることは確か。

「貴女とその主人には、軽挙を慎んでもらいたいもので御座るが」

「う~ん、失敗しちゃったかも」思いのほか軽い口調のマイカゼ。

 本当に理解しているのかと疑いたくなるほどに、のほほんとした仕草で御茶を啜るマイカゼに、ベルセリカは言葉を掛ける事はしなかった。

 ――まぁ、ミユキも居るし、問題ないで御座ろう。

 剣聖は、狐母とのとりとめのない会話を続けた。


 

 

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