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第三七話    夫婦喧嘩






「この策を認めろと言うのかッ!?」

 シラヌイの怒声が響き渡る。

 眼前のシラヌイは怒髪天を突くという表現をその佇まいで体現し、トウカと相対する。

 凄まじいまでの殺意の籠った視線だが、短期間で魔導騎士と姫騎士、剣聖などの名立たる人外魔境を相手にしていた異邦人からすれば痛痒を感じる程のもので はないのかも知れない。否、殺意に対しての忌避感が麻痺しているという状態という可能性もある。中々どうして、ヒトという生物は救い難い。本能すら馴れに は叶わない。或いは、自棄になっているのか。

 周囲の天狐達も首を竦めて怯えているが、矛先を向けられている当の本人であるトウカは呆れた様な表情で溜息を漏らすだけである。

 ベルセリカは、二人の遣り取りを壁際で腕を組み眺めていた。

 ――どちらも大莫迦者で御座ろう。

 二人の衝突にベルセリカは嘆息する。

 トウカの提案した策は確かに有効であるが、その物言いは余りにも簡潔で傲岸不遜に過ぎた。挙句の果てに当人は、何故に否定されるのか理解できないと言わ んばかり表情である。しかも、トウカは一戦を終えたこの時期を選んで進言した。この真意は、戦死者が出た後で、尚且つ二度目の攻勢で戦線を支えきれないか もしれないという意識が天孤達の間で生まれ始めたからでもあるとみて間違いない。危機に直面してこそ現実的な判断を強いることができる。

 その真意を察せないシラヌイではない。

 断り難い状況で契約を迫る商人と同じ手法で、シラヌイが首を横に振れない状況まで策を提示しなかった。シラヌイとしては同胞の死まで利用されたと感じているだろうが、その策の有効性を理解する知性も持っている。

 だが、シラヌイは激昂した。

 自然と共に生きる天狐達にとって、森を焼き払うという選択は余りにも受け入れ難いものであった。自然を慈しむ風潮は長命種に強く根付いているが、その中 でも天狐族はその傾向に偏っており、それは大自然に包まれた秘境で発展を捨ててまで生活していることからも分かる。秘境に里が存在する理由は、決して排他 的種族であるからという理由だけではない。

「この策が現状で最も有効であり、戦死者を最も減らせます」

 腹立たしいまでの正論。

 しかし、激昂するものに正論を投げ掛けても火に油を注ぐだけであるとトウカは理解できない。否、もしかするとシラヌイの聡明さを高く買っていたのかも知 れないとベルセリカは考える。ミユキの父としての対応は他種族である人間種のトウカに対しても紳士的なものであった。無論、今この時にあってシラヌイはこ の場に天狐族の族長という立場にある。だからこそ認めざるを得ないとトウカは踏んだのかも知れない。

 ――いや、理解しているはずで御座ろうが……

 その辺りを察せない程にトウカは他者の感情に鈍感ではないが、激昂させて交渉するなど考え難く、話が纏まるはずもなかった。

 トウカに確認するように今一度、シラヌイが問う。

「では、この策は受け入れられないと?」

(くど)い!! 貴様は大いなる自然を我らの都合で犠牲にする心算か!!」

 トウカの襟首を掴み上げたシラヌイにミユキが慌てて止めに入ろうとするが、ベルセリカは肩を掴んで引き止める。

「成らぬ。気持ちは分からぬでもないが、御主が出ても面倒になるだけで御座ろう」

「でもでもっ!」

 ミユキは、喧々諤々の状況の二人に視線を彷徨わせる逡巡していた。ベルセリカは腰に佩いた刀の柄に手をやり、存外に最悪の場合は自分が止めに入ると頷く。実際にトウカに万一のことが起きるまでに、対応できる距離に立っているのはその為であった。

 ベルセリカには幾つかの打算があった。

 トウカにとって長命種との衝突は長い目で見れば決して悪いことではない。種族の違いや年齢の違いによる経験の相違は、早い段階で実感しておくべきだと考 えていた。トウカとて人の数だけ意見があり主張があり、思想があることを理解しているはずだが、実際に経験することとは大きく違う。一つの経験は百の言葉 に勝る。

 トウカは必要以上に長命種を警戒している。自らより力を持つ者を畏れることをベルセリカは否定しない。そして、根底に根差した強者への猜疑心をベルセリ カは見抜いていた。敬意を払いながらも一歩も引かない姿勢を今も見せ続けているトウカだが、その瞳には常に知性と形容するには暗い色が見て取れるのだ。ミ ユキに対しては皆無であるが、それ以外の長命種……例えベルセリカであっても例外ではない猜疑心。当人は完全に隠せている心算であろうが、シラヌイやマリ アベルが気付かずとも、ベルセリカだけは気付ける。

 嘗て、時代の黒幕を演じた盟友たる魔女の瞳。

 ――成程、得心いった。そうか、クルルに似ておるのか。

 大事を成すと確信はできるものの、控えめに見ても英雄には見えず、当人も偶像を嫌悪している節がある。その可能性が那辺にあるのかと言えば、それは外道と手段を選ばない果断にこそある。今は亡き盟友たる魔女とその点が似ていた。

 彼女は真摯だった。だからこそ隙なく相手を貶めることを厭わない。

 二人の激論を耳に、ベルセリカは内心で頭を抱える。

 結末は容易に想像できる。トウカも受け入れ難い理由を知っている様子だが、死者の増加を見逃してまでとは考えていなかったのだろう。

「貴方は一族に無用の流血を強要する気ですか?」

「そうは言わん! 無暗に自然を焼き払うことを認めておらんだけだ!」

 どちらの言も正しい。

 トウカの策を採用すれば天狐達の流血を最小限に抑えられる可能性がある。だが、自然に犠牲を強いれば秘境の精霊たちは悲しみ、天狐への加護も弱体化するだろう。今を見るか、未来を見るかで二人の意見は分かれていた。ある意味、短命種と長命種の目線の違いとも言える。

 だが、トウカは呆気ないほど容易く身を引く。

「そうですか、残念です」溜息を吐くトウカ。

 その姿にベルセリカは驚きを隠せないでいた。シラヌイも同様で、他の天狐達と共に呆気に取られた表情をしている。ベルセリカだけでなく、大凡の者達の考える展開から外れつつあった。

 トウカは天狐達の鋭い視線という名の批難に耐えられなくなるほどに脆弱ではなく、自らの考えが間違っていないという自負がある。そして、何よりもミユキ に危険が及ぶ可能性をいかなる理由があろうとも看過しない。合理性と戦略的意義を錦の御旗に、彼は引くことをしないはずであった。

 思わずベルセリカは問いかけていた。

「良いのか? ここで引けばミユキに刃が迫ることは避けられぬで御座ろう」

 トウカの言動の真意はベルセリカにも理解できないが、苛立たしげなその佇まいに尋ねたことが失敗であると悟った。

 何よりも予想とは大きくかけ離れた展開に、ベルセリカは重ねて低く唸る。

 衝突しつつも意見を摺合せることで、長命種と短命種の価値観の違いをトウカに体験させるという予定であったが、余りにトウカの素早い引き際に、その目論見は崩れ去った。

 只でさえ不愉快だと言わんばかりに歪んでいた顔が遠目に見ても分る程に大きく歪む。嘲笑と侮蔑と表して差し支えない程の横顔にシラヌイが眉を顰めるが、トウカは既に他者の顔色を窺う気すらないのか、それらを無視してベルセリカの横に立つ。

「戦闘が終結した後、追ってきてください」

「それは……」意味を計りかねたベルセリカ。

 だが、尋ねようと近づけた顔を、トウカは片手で制してミユキへと向き直る。一転して柔らかい雰囲気を纏ったトウカは、ミユキに謳うように語りかけた。

「敵は中々に優秀です。俺とミユキは戦線とは逆の方角に警戒に出ます」

「馬鹿な! 秘境を回り込むことなどできん!!」

 シラヌイの否定の言葉に、トウカも頷く。

 迂回して里を直撃できる道があるならば、傭兵団はこれを利用したはず。現に秘境は密林地帯であり、同時に自らに友好的ではない殺気立った集団を通すほどに優しい場所ではない。精霊の幻術で延々と同じ場所を歩かされて遭難することは避けられない。

「というのは名目です。あちらには渓流があるので夕食を取ってきます。これ以上、協力できないようなので」

 トウカの一言に天狐達が沸き立つ。狐にとって薩摩揚げはそれほどに魅力らしく、特に雌狐は期待の眼差しでシラヌイを見ている。是非、許可するべきだとの圧力であった。

 対するベルセリカは、トウカの言葉の意味するところを察して驚愕する。

 ――逃げる気かッ! ミユキ以外の総てを捨てて。

 いっそ清々しいまでの思い切りの良さだが、父狐の前で暗にそう宣言するトウカの不遜さに顔を顰める。死にたい者は勝手に死ねと言わんばかりの態度だが、対するトウカに臆した気配はなく当然の対応だという表情をしていた。

 ベルセリカ個人としてはミユキの守護という当初から、一切ぶれることのないトウカの強固な意志は己が悲願を成就させる上で非常に好ましいと感じていた。 しかし、嘗ての騎士としての矜持は、助け得ることのできる者を容易く諦めるという行為に嫌悪感を示す。相反する感情がトウカへの非難を躊躇わせた。

「良いのか?」

「良いも悪いもないのです。俺は目的の為に常に最善を尽くしている。状況に応じて対応を変えることを何故に躊躇わねばならないのですか? それに貴女との盟約は十分に果たす心算です。御心配なく」

 優しい笑みのままに理解できないと苦笑を零すトウカは、ミユキの手を引いてベルセリカの横を通り過ぎる。シラヌイからの否定の言葉は飛んでこない。

 異邦人は、既に方針を固めている。

 恐らく、トウカの目論見は成功する。

 部屋の隅に立て掛けられた自身の軍刀や小銃の動作確認を行うトウカを、シラヌイは厳しい面持ちで見据えるだけであった。士気を上げる為、二人に魚を取ら せてくることも悪くない程度に考えているのだろう。その心中では、トウカの思惑に対する是非を自らに問うているに違いなかった。

 ベルセリカは思う。

 これは、シラヌイ……ミユキにとっても決して悪い話ではない。

 天狐族次期族長であり自らの娘でもあるミユキを万が一失うことは、族長という立場からも父親という立場からも、シラヌイにとって到底見過ごせるものではない。娘が三人いるとは言え、ミユキ以外は未だに物心ついたばかりという有様である。継承者としては心もとない。

 そして、渓流の方角にある秘境の最奥は、その立地と環境ゆえに、何よりも精霊の加護によって外部の者が立ち入ることが極めて難しく、足を踏み入れたが最後、遭難することは容易に想像できる。

 ――ミユキを一時的に避難させるには打って付けと言えような。

 しかも、逃げたとミユキや天狐達に思わせんように魚でも獲ってくるという方便まで用意した。娘達を分散させて族長家の血が断絶する可能性を低減させる……自身の家族だけを避難させるという非難を受けかねない行動を一変させたのだ。

 剣聖は狼耳を垂らす。

 秘境であっても精霊に愛される天狐族のミユキであれば迷わないが、もし傭兵達が万が一にも足を踏み入れたとしても遭難するか、精霊の怒りを買って無惨な 最期を迎えるしかない。何より二人を追撃する為に傭兵団が戦力を割くはずもなく、また最悪の場合、里が陥落するまでに十分な距離を稼ぐことができる。

「良かろ――」シラヌイが絞り出したような声で許可しようとする。

 少なくともシラヌイはトウカの思惑を大凡見切っているが、トウカの提案を保険という意味に捉えて決して不利益にはならないと判断した。トウカもシラヌイが頷けるように最大限言葉を選択しているが、それがまたベルセリカにとり腹立たしい部分と言える。

 だが、ここで異を唱える者が現れる。

「――ならぬ! 御主(おぬし)は戦車の指揮を執れ。魚など他の狐に任せれば良かろう」

 大喝と呼んで差支えない程の大音声で、マリアベルがシラヌイの言葉を否定する。

 天狐達は畏れ慄くが、トウカやシラヌイは口を挟むなと言わんばかりの視線でマリアベルを見据える。前者からすれば民間人に指揮を執らせるなと考えているに違いなく、後者ならば大兵力を連れてこれば良かったのだ、とでも思っているのだろう。

「指揮は伯爵殿が執られるべきでは? そもそも軍籍すら持たない者に指揮を押し付けるなど――」

「問題なかろうて。領邦軍は貴族の刃として在るのだ。貴族たる妾が認めれば全て罷り通る」トウカの表情が曇る。自らの失言を悟ったのだ。

 国軍ではなく私兵集団に過ぎない貴族の軍勢が相手では、規律も軍規も然したる意味を持たない。特に相手が貴族となれば尚更である。しかし、それほどまでに引き止める意味があるのか、或いはどの様に言い逃れるべきかとトウカは悩んでいるのだろう。

 ベルセリカは、無理やり巻き込んでやろうとでもいう稚気でもあるやも知れん、とマリアベルを邪推するが、マリアベルとて皇国に於いて伯爵位を拝命している以上、無能ではないはずであった。

「……セリカさんは残します。何が不満なのですか? 拠点防衛では戦車など野砲と変わらない。誰でも指揮は可能でしょう」

 トウカの言葉通り、マリアベルが率いてきた三輌の中戦車は簡易的な戦車壕を作り固定砲台として運用される予定であった。ベルセリカ共々決定打として期待 されていたが、その役目は機甲戦ではなく砲戦……砲台としての役目であった。最悪の場合は目標の指示だけで良く、シラヌイが直接指示しても良い。

 そのようなことは理解しておるわ、という表情でマリアベルは、ミユキへと視線を向ける。

 その視線に負の感情を感じたトウカは大外套を翻して、ミユキを背に庇う位置へと移動する。

 トウカという異邦人は自らの弱点をよく心得ていた。

 “武”によっても“言”によっても揺らぐことなきトウカであったが、唯一も弱点がある。


 ミユキである。


 トウカにとってミユキという仔狐の存在は、絶対であり不変ものである。いや、そうであらねばならないと努めて思うようにしている節があった。無論、それはトウカだけの基準ではあるが、ミユキの絶対性も不変性もトウカの思考に於いて揺らぐことなき真実として存在する。

 詰まるところ、ミユキが願えばトウカは応じざるを得ない。トウカではなくミユキを頷かせれば全ては解決するのだ。

「のぅ、ミユキ。先の戦でどれほどの狐が命を落としたか知っておるかえ?」

 あくまでも優しく、それでいて限りなく残酷な一言。

 初戦での死者は天狐が四名。魔導障壁の防護範囲外にいた者や、銃弾や砲弾の破片を受けて即死した者達である。即死でさえなければ、天狐の中には高位の治 癒魔術を行使できるものが少なからずいるので死亡する可能性は極めて低い。拠点防御だったこともあり、戦闘後に捕虜が出ることも負傷者が止めを刺されるこ ともなかったことも大きい。

 傭兵側の死者が二〇〇名を超えているであろう状況で、民兵の天狐族戦死者が四名というのは極めて軽微な被害と言える。しかし、それは純軍事的な面から見た場合であり、天狐達は軍人でもなければ軍属ですらない。

 故にその四名の戦死者に“僅か”や“軽微”と言葉は使えない。その家族や愛する者にとっては何事にも勝る悲劇であり、軍人でない者に死の覚悟を求めることは間違いと言える。軍人は軍人として扱えるが、民間人を軍人として扱うことは許されない。

 死者の中には、ベルセリカたちが里へと赴いた際、警備を務めていた天狐も含まれている。ミユキはそれを知らない。

「御主はどうしたい? 同胞の死を黙って見過ごすかえ? 少なくとも愛しの主様が指揮すれば被害は最小限に押さえられようて」

「そ、それは……そうだけど……でも……」消え入りそうな声と共に俯くミユキ。

 ミユキは、皆の遣り取りの際も口を挟むことはなかった。それは戦術すら弁えていないという理由ではなく、これから死に往く者達が出るという可能性から逃避しているのではないかとベルセリカは考える。

 ――今にして思えば、某もミユキに武術を指南することはあったが……

 覚悟を語ることはなかった。残極な世を生き抜く為、ミユキに現実を叔父得るべきであったかも知れないと、ベルセリカは尻尾を揺らす。

 剣聖にとって屋敷に転がり込んできた小動物に武術を指南することは、無限とも思える停滞の中にあって一つの手慰みに過ぎなかった。そして、ミユキ自身も 実戦を行う気はなかった為、人の死に対する覚悟や処し方を知らない。長命種の中でも比較的上位に位置する天狐族の基礎能力の高さも手伝って、これまでのミ ユキには不殺と逃走という選択肢が必ずあった。今回は余りにも護るべき者が多く、相手の数や組織的な理由から不殺という手段は選べない。無秩序な匪賊等と は格の違う相手への手加減は己の死を招く。

 或いはトウカは、その辺りを察しているからこそミユキを戦野へ出すことはおろか、死者の話題を出すことすら可能な限り回避していたのだろう。シラヌイもその点に関してはトウカと同じ考えを抱いているのか、死者のことは一切口に出さず、他の天狐もまた同様であった。

 前者は恋心から、後者は親心から出た気遣い。

 それをマリアベルは打ち砕く。

 ――二人の心情を察してやれぬでもなかろうがッ!! この場でミユキを引き合いに出すなど……

 仔狐は昔から大いに甘やかされているが、それはそう振る舞うことが許される立場にいたからであって決して不純なことではない。軍人でもなく、貴族でもなく、政治家でもない、今この時、迫りくる傭兵団に対して責任を負う立場にないのだ。

 だが、ミユキを無邪気で天真爛漫なままで居させようとすればする程に、周囲が負担を強いられる。その負担を周囲に是とさせる資質は真の姫君足り得る資質 に他ならないが、当のミユキは周囲の負担を是としないだろう。トウカもシラヌイも、ミユキにそう感じさせることなく、今の今まで共にいたのだから策士と言 う他ない。

「……主様……助けてくれますか?」

 潤んだ瞳で、ミユキはトウカを見つめる。

 不動の如き姿勢のトウカが揺らぐ。精神的にも肉体的にも。傍から見ても解る様子にベルセリカは、終わった、と判断した。シラヌイが瞑目し、天狐達からは弛緩した空気が流れる。

 決着は付いた……はずだった。


「お断りだ」


 鴻毛の笑みで、浮薄に返答するトウカ。

 瞬間、部屋の空気に罅が入ったような感覚が奔る。

 トウカという異邦人はミユキに対して無条件の恋心を抱いている様に見えてそうではない。少なくとも周囲はそう考えているが、ミユキの為ならば敢えて突き放す事も辞さない覚悟をトウカはこの時、決めていたことをベルセリカは知らなかった。

 剣聖が考えている以上に、異邦人と仔狐にとって皇国は生き難い国であった。長命種と短命種の恋は、禁忌ではないものの忌避される風潮にあり、更には戦火が迫っているとなれば、ミユキの故郷があることを差し引いても皇国に留まることは不利であると、トウカは考えている。

 トウカのミユキ以外の長命種に対する不信感は強い。

「なんでっ!? お願いです! おとさんと協力して私たちを助けてください!」

 頭を勢いよく下げたミユキ。

 その足元の床には、水滴が滴る。

 仔狐の涙に気まずげな顔をする父狐。

 だが、トウカは無表情をそのままに、感情のない瞳で精一杯頭を下げるミユキを見据える。

「賢しいな、ミユキは。助けてくれと言いつつも、シラヌイ殿と協力してくれとも言う。話が決裂した瞬間を見ていただろう。最善を選ばない者と協力する術を俺は持っていない」

 トウカの言葉にミユキが息を詰まらせる。

 そう、異邦人と父狐の意見は既に分かたれた。作戦会議は決裂している。

 精一杯に頭を下げるミユキに、渋い顔をするシラヌイ。

 あれほどに口先で干戈を交えた二人に“協力”してくれと懇願することは、和を重んじるという点では正しいかも知れないが余りにも都合が良過ぎる。ミユキ の願いが如何に純粋で美しいものであろうとも、それはあまりにも虫の良い願いであり、自らの感情に左右された物でしかない。どちらの意志をも斟酌した中途 半端な作戦では、余計な死を天狐達に強いるということをミユキは理解していない。

 この時代、無垢なる願いや優しき想いだけでは生きては往けない。

 ベルセリカは、この時、トウカの拒絶の真意を悟る。

 トウカはミユキを壁に叩き付けるように突き離す。

「甘えるなよ、仔狐!! 常に自らの願いを叶える術があると思うな!!」背筋も凍るような大音声。

 鬼気迫るという言葉ですら尚、優しいと感じる程に憤怒と悲哀で歪んだ表情。

 ベルセリカですら、その暴力的な感情の奔流に、一瞬とはいえその足を竦ませた。剣聖を竦ませるほどの怒気を以てミユキに正面に立つ。

 シラヌイが余りの状況に付いてゆけずにいたが、誰もがそれを咎めない。否、咎められなかった。

 ミユキの両肩を掴み、壁に押し付けたトウカは、その瞳を覗き込むかのようにミユキを見据える。

「ミユキ……御前の優しさは尊いものかも知れん。だが、優しさだけで悲劇は覆らない」

「なら、如何すれば良いんですか!? 分かんないよぉ!」涙を流す子狐。

 計算高い一面を持つミユキだが、決してトウカのように情が希薄な訳ではなく、むしろ情こそを優先する。強かであることは似ているが、最終的に情を優先す る点が、理性を最優先するトウカと違っていた。だからこそ互いに惹かれあったといえ、何よりもトウカの理性はミユキの前に曲げられることが多々あるのだ。

 だが、今この時、トウカは決意を翻さなかった。

 無条件にミユキの願いを叶えると考えていたベルセリカは、益々と混乱する。考えていた状況からかけ離れ続ける現状に対して口を挟む機会を逸した。

 ミユキを壁へと追い遣ったままに、そっと涙を拭って見せるトウカ。

 真夜中の街角で恋人たちが紡ぐ逢瀬のような二人の光景だが、泣き腫らしたミユキの表情と、凛冽な意志を宿したトウカの瞳がそれを感じさせない。

「御前の為に戦うことは吝かではない。だが、分かっているか? それは俺に死ねといっていることと同義だ。少なくとも俺は最善ではない策の失敗で他者だけに流血で(あがな)わせる真似はしない。捻くれ者であっても惰弱ではない心算だ」

 溜息交じりに呟くトウカの言葉に、ミユキが息を詰まらせる。

「でもっ……でもッ!!」嗚咽を漏らすミユキ。

 確かにトウカが戦野に赴けば死傷する可能性もある。護ってくださいという言葉は、死んでこい、という言葉と類義していると言えた。ミユキは、全ての者達の願いを満たし得る(みち)など存在し得ないことに気付き苦しんでいる。

 ――これを奇貨としてミユキに現実を見せる気で御座ろうが……

 どれ程に努力しても、届き得ない場所がある。
 どれ程に想おうとも、届き得ない恋愛がある。
 どれ程に願おうとも、届き得ない悲願がある。

 幾多の悲劇を知ろうとも、自らに叶えられる事象の限界を知らねば人は喪い続ける。寒村で人の悪意を知っても尚、多くの者の平穏を願い続けるその意志は立派と言えた。

 だが、その優しさは、最愛のヒトをも死地へと追い遣る。

 ――さぁ、何とする気か、御館様。

 ベルセリカは、その言葉にトウカという異邦人の本質を見た気がした。

 異邦人と剣聖の戦いに於いてトウカは不意打ちを行ったが、劣勢になっても降参することはなかった。ベルセリカは不意打ちを卑怯だと感じたが、不意打ちが 失敗に終わった後、トウカは鮮血に塗れながらも戦闘を継続したのは一種の責任を取る……即ち筋を通そうとしたのではないのか。

 彼は義務や責任というものに対し極めて偏執的であった。

 それが個人の資質によるものか、民族性に由来するものかまでは分からないが、分かり難い善意であることは確か。

「私じゃ護れない……でも、主様がおとさんを助けてくれないなら私が戦います!」

 トウカの手を振り払い、ミユキが尻尾を立てて唸る。

 宜しくない展開だ、とベルセリカは感じた。

 トウカは戦場に出ると言って聞かなくなったミユキを説得する形で、自らの作戦案をシラヌイに押し通そうとしているのではないかと勘繰った。トウカがミユ キの涙に平然としているということは、この展開を予め考慮していたからとも考えられる。しかし、この状況にあってミユキがシラヌイの制止の言葉を聞き入れ るはずもなく、ミユキの“我儘”を止め得るのはトウカしかいない。

 ――黒い。或いは、マリアベル殿の挑発も擬態か。

 二人が口裏を合わせている可能性がある、とこの時、ベルセリカは気付いた。

「あの寒村で震えることしかできなかった御前にヒトが殺せると?」

 ベルセリカは息を呑む。その言葉だけは(まず)いと思った。ミユキの心の傷を間違いなく抉る一言。

 ミユキも、信じられない、という視線でトウカを睨む。

「……判ってくれるとは思っていなかったですけどッ! でもっ、幾ら何でもあんまりです!」

「戦場がどういう場所か知らない小娘が口を挟むな!」トウカが軍刀の石突きで床を打つ。

 限界だったのだろう。確かにミユキの言葉は我儘に他ならない。トウカにとっての最善が、シラヌイにとっての最善ではない以上、自らが斃れた際に納得できないと考えているのかも知れなかった。彼は権利と義務が生じない状況では、誰よりも真摯に戦うにたる理由を求めるのだ。

 ミユキは気圧されたが、それも一瞬だけで再び食って掛かる。

「知っています! 傭兵さんがどれだけ残虐な人達なんて、あの時、村の人達を見捨てた主様より知ってます!」

 次はトウカが気圧される。異邦人と仔狐の邂逅にして、初めての敗北。トウカにとっては負い目であるはずの一言。だが、激昂したミユキは、その点について深く考えているようには見えない。

「いや、理解していない! なら、教えてやる!  女は子供であろうと犯されて嬲り者に、慰み者にされて、家畜以下の扱いだ! 敗者に人権などない! 楽 に死ねるなど考えてはないだろうな!? 行き着く先は帝国の奴隷市場で愛玩動物として売られるだろう! これは基準も法律も適用されない殺し合いだ! 全 てが赦され、総てが許容される!」

 全く以て正しい正論。

 周囲のシラヌイを含めた天狐達も呆気に取られている。仲睦まじい二人が、この様に心の傷を抉り合うように己の意見を通そうとすることをベルセリカも予想すらしなかった。壁際で深い笑みを刻むマリアベルを殴りたいと、ベルセリカはこの時、思わずにはいられなかった。

 まるで夫婦喧嘩だ。

 この時の二人の言い争いを聞いていた者達は、後に口を揃えてそう語る。二人の人生で起きた二度の大きな喧嘩の一つ目は余りにも苛烈な言い争いであった。

「そんな事……!」

 知っている、と言おうとしたのか口を開きかけたミユキだが、トウカは地形図の置かれた机を蹴り倒し遮る。

「まさか、俺の前で他の男に抱かれる覚悟があるなどと言ってくれるなよ!」

「そ、それは……ッ!」

 この一言だけは致命的だと感じたのかミユキが言い澱む。確かに自身の最愛の人の前で、他の男に抱かれる覚悟があるという発言は、これまでの関係を崩壊させ得るものだ。

 だが、トウカは黙り込んだミユキに、勝機だと感じたのか痛烈な言葉を浴びせる。

「そもそも、男も知らない生娘が大口を叩くな! 首に値札をかけて裸で彷徨う様なものだ!!」

「契約の時に抱いてくれなかったのは主様じゃないですか! 主様の意気地なし!!」

 この遣り取りにはベルセリカも頬を引き攣らせた。

 二人は身体の関係になっているものだと思っていたのだ。ベルセリカの屋敷で滞在している際、ミユキが自らに与えられた一室に防音術式を嬉しそうに張り付けている様子を目撃したベルセリカが、既にそのような関係になっているものばかりだと考えることは何ら不思議ではない。

「……………………分かった。俺は何も言わない。己の意志を全うしろ」短い嘆息と共にトウカが壁に体重を預ける。

 ミユキを言葉では止め得ないと思ったのだろう。

 しかし、シラヌイは納得しない。

「ならん! ならんぞ! ミユキが戦野へ赴くなど!」

「構わないはずです。そもそもシラヌイ殿からすれば、上に立つ定めを負ったミユキが震えているだけでの仔狐であり続けることは許されないはずです。シラヌイ殿は他の若き天狐達を死地へと赴かせ、自身の娘だけは籠の鳥にしておくお積りか」

 あっさりと掌を返したトウカに、シラヌイが目を剥く。

「貴様ッ!!」

 嫌味の籠った声音で嘲笑うトウカの襟首を、大股で駆け寄ったシラヌイが掴む。

 双方の言葉はどちらも正しい。方や父として、方や天狐族の次期族長として。しかし、相容れるものではない。

 特にトウカの言葉は辛辣であった。

 次期天孤族族長としてのミユキの立場を引き合いに、シラヌイの言論を完膚なきまで縫封殺している。周囲に天狐達がいる状況で、自身の娘だけを特別扱いし ているという言葉に安易な反論を行っては不信感を持たれることは間違いない。組織でなく種族の集まりに過ぎない天狐族であるからこそ特別扱いは許されな かった。

 組織では命令系統の維持や保全の為に、上位存在が保身を図ることが許される。指揮系統の混乱と崩壊は重大な損失と損害を招くからであった。

 しかし、天狐族は組織ではなく種族の集まりでしかない。そして、天狐族を天狐族として繋ぎ得るモノは信頼でしかない。種族的団結などなくとも皇国が法律 上、全ての種族の存続を至上命題としている為に種族的要素が濃い差別的法律は存在せず、国内であれば生きてゆくことは然して難しいことではなかった。

 規律や規範で高度に統制された組織と違い、天狐族を一つの里に留め得ている最大の理由は信頼なのだ。他種族への不信感や自然と共に生きるという要素もあ るが、それでも若き天狐達を里へと留め続けることは難しい。現にミユキは新しい世界を求めて窮屈に感じた里を飛び出した。

 その信頼を逆手にとってシラヌイの言論を封殺した、トウカは遠目にも分かるほどに嘲笑を浮かべている。

 トウカの挑発に対して言い返せないシラヌイが、その襟首を掴んで応じた理由は、これ以上、トウカに余計な言葉を口にさせない為だろう。激怒しているようであっても、その決して間違っているとは言い難い選択からもシラヌイが冷静であることが分かる。

 ――シラヌイ殿を舌先三寸で言い包められると思っておるならば甘いで御座るが……。

 長命種をあれ程に警戒していたトウカが、その程度の事実に気付かぬはずがない。

 だからこそトウカの口元が吊り上った瞬間を見逃さなかった。

 シラヌイの手を振り払ったトウカが、ミユキへと視線を巡らせる。その時、既に横顔からは嘲笑が消え失せ、優しげな笑みへと戻っていた。

「では、ミユキ。条件付きで貴女の願いを叶えましょう」

 先程までの熱弁を容易く翻したトウカに皆が呆然とする。

 ベルセリカですらもその身替わりの速さに、大よその事情を知っていたマリアベルですらも呆れるほどに素早く、それでいて隙がなかった。シラヌイの言葉は封殺され、ミユキはトウカの言葉に活路を見出す。

 涙の跡をそのままに、トウカを期待の眼差しで見上げるミユキ。

「条件……ですか?」

 首を傾げたミユキの頭を、トウカは優しく抱き締める。

「一つお願いを聞いて貰うだけだ」

 そう言って優しげな笑みを浮かべるトウカ。

 その笑みにベルセリカは、波乱の予感を感じた。

 

 

 

 

 

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