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第三九話    二人の恋

 





 トウカは雪の大地から這い寄る寒気に強張る頬に手を這わせつつ、天狐達の作業の様子を静かに見守っていた。

 雪と泥に塗れて作業を進める天狐達の表情は一様に硬いものがあるが、付加魔術によって身体能力が人間種と比して増大している為に作業速度の低下は見られ ない。何より、表情は暗いものの、瞳だけは爛々と輝いており、臆病な佇まいの中に燃えるような戦意を湛えていた。臆病で小心であるから受動的とは限らな い。臆病者は臆病故の攻撃性を秘めており、小心者は小心故に安易な答えに縋り付かないのだ。

 ――臆病だからこそ抗い、小心だからこそ確実な勝機を粘り強く窺い続ける、か。

 そして、その天狐達が族長の指揮とは言え、異邦人の策で動いているということは、それぞれが策――或いはトウカそのものに勝機を見い出したという事に他ならない。

 皆、理解しているのだろう。この一戦が、分水嶺になると。

 その心情としては、断じて戦うところ、死中おのずから活あるを信ず、に違いなく、トウカもその心算であった。しかし、嘗てその言葉を口にした皇国陸軍中 将と違い、勝利を前提に動いている天狐達は決して不運ではなく、増援の可能性のない絶海の孤島で孤独と悲観を胸に絶望の戦場を戦い往く訳ではない。

 トウカが提案した策は伏撃……即ち奇襲であった。里への進撃は、その道が極めて狭く足場も脆弱である。その行動に大きな制限を受けさせることが可能であ る事を踏まえると、兵力と練度に大きな差が有る天狐族はこの場での決戦を挑まざるを得ない。数の不利を無効化できる地点と言える。

 そこで、トウカは天狐達の長所である長距離魔導砲撃を敢えて放棄し、積極的攻勢による短期決戦を敵に強要する道を選択した。これは限定空間での包囲殲滅 を意図したものであったが、同時に天狐の射撃魔術の命中率の低さを考慮した結果、短期間で戦闘を集結させるには近接戦しかないという苦肉の判断でもある。

 傭兵との初戦が終結した後、トウカは天狐達からの報告で、射撃魔術の命中率が極端に低いことをマリアベルの部下が書いた戦闘詳報(バトルレポート)か ら読み取った。戦場となった地点が広範囲にわたり砲撃で耕された有様となっていることを不審に思ったが、狙いの逸れた魔術が多かったと耳にして納得した。 練度の低さが浮き彫りとなった事を見て取ったシラヌイが、優れた魔導資質を背景に絨毯砲撃――曳火砲撃を実施したのだ。地形が変わる程の投射量と、三人一 組で一人を狙うという指示を出した点はトウカも評価しないでもない。

 だが、それでは規模が増大した傭兵側の突撃を防ぎ得ない。傭兵側の第二次攻勢の兵力を一人残らず殲滅することは不可能であった。

 伏撃には敵の戦意を削ぎ落とし、戦力の一挙全滅を図るという目的もあるが、それ以上に主戦力として投入するベルセリカの存在を気取られないようにせねば ならないという理由がある。戦車も運用したいと考えていたが、排気音や砲声が極めて大きく、早期投入は敵の早期撤退を促しかねないと断念された。無論、出 番は用意しているが。

「敵は細い道を進撃する為に隊列を縦列にせざるを得ない。特にこの辺りは道が狭く、通過に時間と手間が掛かる」

「横撃か? しかし、そう上手くゆくとは限らぬで御座ろう」

 ベルセリカの言葉に、トウカは首を横に振る。

 敵の規模も大凡が判明し、侵攻路も一つのみ。純軍事視点だけで見れば不利な状況ではない。懸念としては、被害の増大を恐れた天狐達が浮足立つという点と、逃した敵が新たな敵を呼び寄せる点であるが、それ故の殲滅戦である。

 実は、シラヌイに前線指揮権を要求した際、一緒に求めたのが拠点防禦を捨て、奇襲を行う許可であった。実際、後者こそをトウカは渇望していたのだ。意表を突き、壊乱させ、連携を損なえば個々人の戦いとなる。身体能力と魔導資質に優れる天狐族の優位性(アドバンテージ)は圧倒的なものとなるに違いなかった。

「敵が一戦目で得た先入観に付け込みます。まさか、此方から距離を置いての防衛戦を放棄するとは考え難いはず」

「確かにあれ程に一方的な被害を受ければ、相手が最善の戦術を選んでいる様に考えねような」

ベルセリカの胡散臭げな瞳は、一戦目での無様な防衛戦をトウカが座視した理由が、二戦目での奇襲効果を増大させる為であると理解したからである。

 トウカは穏やかに苦笑するだけであった。









 トウカの言葉に納得したベルセリカが、視線を不機嫌顔のシラヌイへと巡らせた。

 シラヌイが里の出入り口付近での防衛線に固執すると考えていたトウカは、マリアベルにシラヌイの危機感を煽るように依頼したはずである。軍事に明るく、 シラヌイよりも老練なマリアベル言葉であれば耳を貸すであろうという判断と、自らの提案を受け入れ易いようにというトウカの配慮だったのだろう。二人が苦 言を呈せば、流石のシラヌイも考えを改めざるを得ず、周囲への言い訳も立つ。

 だが、ここで一つの問題が発生する。

 最初、トウカが天狐族にとって受け入れ難い策を提案し、シラヌイと衝突した。そして、その場をマリアベルが諌める形で割って入ったが、そこでミユキの名 が出た。これには、シラヌイだけでなくトウカまでもが冷や水を浴びせられた形になり、二人は矛先を収めなければならなくなる。その上、天狐に死者が出た事 まで暴露されて、ミユキは酷く落ち込んでしまう。

 これには、トウカもシラヌイも慌てた。

 ミユキもそれとなく察していることは落ち込み気味の態度から分かっていたものの、トウカは女傭兵の存在もあって、その点にまで思考を巡らせる余裕がな かった。シラヌイも後の戦闘に対する準備と作戦立案の為に多忙を極めていた。異邦人と父狐は嗚咽を漏らす仔狐の前に冷静になった。いや、冷静にならざるを 得なかった。結果としてはマリアベルの一人勝ちという結果に終わる。

 最終的には、トウカがシラヌイの意思を最大限汲む形で作戦を手直しし、シラヌイも森を焼くことこそ承知しなかったものの奇襲については同意した。

「あの一件はヴェルテンベルク伯の落ち度です。しかし、ミユキに隠し続けることができない以上、必ず何処かで言わねばならなかった」

 トウカは、ミユキに矛先が向くとは思っても見なかったが、同時に自らがその真実を突き付ける立場にない事を心の底から安堵していた。ミユキ相手であると消極的になりがちな自身に、トウカは情けないという想いに駆られるのか、苦笑が一層と深まる。

 傍から見れば姫将軍や剣聖を向こうに回して互角の勇戦を行っている上、傭兵との戦闘に臨んで身を投じようとしている以上、十分に積極的であるように映っているトウカ。しかし、当人は、それが恋愛という範疇に収まり得るものなのか判断しかねていた。

「恋とは難しいものだ」

 万感の想いを籠めて呟かれたその言葉は、氷雪舞う大地と暗緑の森へと消えゆく。

 異邦人と仔狐。

 二人の立場は余りにも特殊であると、ベルセリカは瞑目する。

 そして、立場こそが二人に流血と悲劇を招き寄せていることに、この時、トウカは気付いていなかった。

 後世の歴史家達は二人の恋を歴史上の如何なる恋よりも峻烈であったと語り、同時に紛れもなく時代の一篇であったと断言した。

 時代は常に人々に流血を求め、事実、二人の恋は往く先は、吟遊詩人(ミンストレル)が謳う叙事詩の如く、気高く、優美で、美しく、そして多くの人命と運命の悲劇的な浪費に彩られていた。時代こそが最も流血を好み、求め、謀らずとも二人の恋はそれに答える。

 しかし、時代が流れ落ちた夥しい血の量、或いは零れ落ちた人命の数だけでは決して満足しないという側面を持っていることをトウカは理解していなかった。 いずれ、新たな時代の幕開けに相応しい、或いは一つの時代の終焉に華を添えるに似合った、美しくも気高い、可憐で高貴な血すらも歴史は要求し始めるだろ う。

 その時、時代が求める血は一体、誰のものなのか。

 大御巫、姫将軍、獅子姫、剣聖、父狐、母狐、女伯爵、神龍、神虎、神狼……或いは。









「楽しい仕掛けも敷設し終えましたので、あとは待つだけです」

 そう嬉しそうに語るトウカの横顔に、ベルセリカは呆れるばかりであった。

 天狐達に工兵将校顔負けの指示を飛ばしている点や効率的な作戦立案をする能力。明らかに民間人の範疇を越えている。二十歳に満たない人間種にしては良く 鍛えられた業に、強靭な意志があると感心していたが、戦術や野戦にまで造詣が深いとなると武に優れるというだけでは済まない。

「まぁ、教えてはくれぬで御座ろう」

「? 今日の夕飯も稲荷寿司ですが」

「うむ、喜ばしいことであるな」

 ベルセリカの問いにトウカが答え、近くのシラヌイが喜ぶ。

 見当外れの言葉であったが、これからの戦闘に対しての気負いは見られない。そして、天狐達は稲荷寿司という言葉に尻尾を揺らして顔を綻ばせていた。微笑ましい光景であり、天狐達の緊張が軽減された姿に、ベルセリカはトウカに呆れた視線を今一度向ける。

 ――戦闘を前にして他者を気遣う余裕があるとは。場数を踏んでいる様には見えんが、な。

 それなりの実戦経験があったとしても、戦へと望む際の緊張感という感情は中々に払拭し難いものであるとベルセリカは自らの経験で嫌という程に理解してい た。ベルセリカのように常態的に戦に身を投じていた為の慣れ、或いは人道や精神が麻痺するほどに戦歴を重ねれば不可能ではないが、それはこの戦域どころか 皇国全土を見渡しても僅かしか存在し得ない。

 トウカに対するベルセリカの違和感。

 ベルセリカにとっては、トウカが想像の上を往くことは喜ばしいことであり、その評価を上げるに値することであったが、何故にトウカがその様な(面倒臭い)性格になったかという経緯に興味を抱かずにはいられない。

「若造、敵が兵を分けてきた場合は……」

「可能性は低いはずです。しかし、その時は」

 異邦人と父狐が細かな議論をしている姿を横目で見ながら、ベルセリカは、この二人は意外と良き相棒同士に成り得るのではないかと思い笑みを零す。

 トウカは指揮官としての資質と、参謀としての資質の双方を持ち合わせた稀有な存在である。確かに前者に必要不可欠な決断力と、後者に必要不可欠な戦術眼 のどちらをも持ち合わせている。しかし、情を余りにも疎かにしているともベルセリカは感じていた。元来、その様な難儀な性格であったのか、無理にそう装っ ているのかの判断は付かないが、情に欠ける一面があるということに変わりはなく、それは勝利への渇望や執着の減衰にも繋がりかねない。

 情によって動くミユキとは対を成すトウカ。或いは、互いに足りないモノを持っているからこそ惹かれ合ったのかも知れない。

 ――難儀な奴らで御座らぬか。某も嘗ては、この様な目で見られていたので御座ろうか? 

 懐かしい過去を思い出し、渋面のベルセリカ。

 そこに一人の天狐が駆け込んでくる。

 眼前で荒い息をしている天狐を見て、ベルセリカは悟る。敵が近づいているのだと。

 偵察に出ていた天狐は、呼吸を整えてベルセリカに最敬礼する。軍人でもなければ軍属でもない者に天狐が敬礼する必要などなく、またベルセリカも同様であった。その姿は見よう見まねなのか形は崩れているが、その精一杯な姿は新兵を見ているようで微笑ましい。

「敵が接近中!! 数は約八〇〇で、前衛は騎兵……あと」

「? どうした」

 言いづらそうな天狐を、ベルセリカは促す。時間もなく、またその時間の喪失が敗北につながる可能性も皆無とは言い切れない。意を決したように天狐が直立不動で報告する。

「戦車も五輌あり!」

 その言葉に緊張が走る。

 戦車の威圧感は、軍人であっても気後れさせるほどのものがある。その火力と装甲は歩兵に対抗を許さない程に圧倒的であった。何よりも鋼鉄の野獣が押し潰さんばかりに迫る光景が将兵を恐慌に駆り立てた。

 ベルセリカは長きに渡って隠居していた。誕生して四半世紀も経過していない戦車という新兵器と戦野で相対したことはないが、マリアベルが引き連れてきた戦車を間近で見ている。

 ――軍人であっても斯様なモノを向こうに回しては冷静ではいられんで御座ろうな。ましてや軍人ですらない天狐など……

 此方は奇襲という条件を前提としているので戦車を戦力に含んではいない。あれほどの鋼鉄の塊を隠すことなど短時間でできはしない。道の脇に鬱蒼と生い茂 る密林に隠すという案もあったが、トウカは短期間での隠蔽が不可能だと判断し、シラヌイもその点に同意した。現に、翌日に再度威力偵察を意図した襲撃を 図ってきたところを見るに隠蔽など行っている時間はなかった。天狐達を総動員するならば不可能ではなかったかも知れないが、寝不足の状態、或いは魔力を 喪った状態で天狐達を戦野に出すことにトウカは難色を示す。只でさえ練度の低い民兵の状態を悪化させるべきではないという判断か、或いは、家族と最後にな るかも知れない別れを済ませておけという配慮か。

 ――さて、狐共にどの様に配慮して見せる気で御座ろうか。

 戦車が相手と知った以上、緊張が走るのは避けられない。

 潜在的戦闘能力を有していたとしても、それに似合うだけの覚悟がなければ戦場という名の非日常では十全に能力を発揮できはしない。如何に浮足立った天狐を諌める気かと若き策士を剣聖は楽しげな笑みと共に見据える。

 だが、当のトウカはその横顔に深い嘲笑を刻む。

「好都合だ。これで偵察を新たに出す必要がなくなった。匪賊如きが機甲戦力まで投入してきたとなると、あれは紛れもなく敵の本隊であり決戦戦力。この一戦で終わるぞ。無論、我らの勝利で、だ」

 さも愉快だと言わんばかりに笑みを零す異邦人に、その真意を悟った父狐が失笑を漏らす。その姿が二人揃って意地を張っているようで剣聖も思わす含み笑いをしてしまう。

 高級指揮官に位置する三人が笑う。

 その姿に天狐達も顔を見合わせると、熱に浮かされた表情へと変わってゆく。少なくとも劣勢に立たされているとは思わせない光景。志願して戦人となった軍 人ではない天狐達の心中では戦機に逸る意思などなく、その心を占める感情の大半は不安と恐怖、そして一握の愛する人を護りたいという意志のみ。そこに軍人 の如き使命や護国の意志は介在しない。無理に大音声で勝利を声高に叫ぶよりも、泰然自若とした姿を印象付ける行動がより効果的である。

 その様子にベルセリカは、内心でトウカに対して大きな可能性を感じた。

 トウカは間違いなく最高指揮官としての資質を持っている。

 ベルセリカは永きに渡る時の中で、前線指揮官と最高指揮官の違いについて考えさせられる期間があった。無論、それは軍人(騎士)時代であったが、指揮官 と一重に言っても無数の型があり、配下の将兵や状況によって最善と思われる指揮官を演じる必要性が生じる。ベルセリカは前線指揮官と最高指揮官の双方を、 心理を推し量れるほどに体験した稀有な騎士であり軍人なのだ。ベルセリカの剣聖という肩書もその最中に生まれたものに他ならない。

 故に、双方の似て非なる立場について理解していた。

 前線指揮官と最高指揮官に求められる要素は、決断力と隷下の将兵に勝てると思わせるナニカを持っていることであった。しかし、前者の前線指揮官が決断力 を最も必要とすることに対し、後者の最高指揮官は勝てると思わせるナニカを何よりも必要としていた。ベルセリカはこのナニカを“武威”と定義している。詰 まるところ双方は似ているようでありながら、重視している要素が違うのだ。決断力を持っている人間は少ないが、性格的なものに左右される一面もあり、任官 するまでに士官学校でその資質を見極めることはそう難しいことではない。逆に勝てると思わせる“武威”というものは漠然としており、余りにも多様性があっ た。歴史を紐解いて多くの英傑達の記録を閲覧すると分かることであるが、それぞれが違う性質の“武威”という要素を持っている。これを見極めることは短期 間では難しく、確証を得ることもまた同様。

 ――軍人としての資質を全て持ち合わせた少年とは、面白いでは御座らんか、ええ?

 それはベルセリカの生の中にあっても初見の才能。

 この異邦人は戦乱の世に何を齎すのか。ベルセリカの興味は尽きない。

 剣聖の視線に気付かない異邦人は、軍刀を引き抜くと悠然と掲げる。

 陽光を受け、凛冽な輝きを湛えた軍用の秋水。

 自然と目を奪われる光景に、天狐達の視線が異邦人へと集約する。言葉ではなく動作で傾注を求めるその姿は、二十歳にも満たない若者の仕草ではなく歴戦の宿将を思わせる佇まい。

「現刻より状況を開始する。総員合戦用意!」トウカの命令。

 その一言に皆が、決意を胸に動き出す。









 ――全く……。敵を甘く見ていた。傭兵が戦車? 笑えない冗談だ。

 トウカは内心で毒づく。

 戦闘が長期化しないことだけを(あげつら)っ て、勝利できると断言して見せたが、その内心では例え勝利できたとしても被害が増大することになると考えていた。幸いなことに皇国陸軍正式採用戦車の戦車 砲には未だ榴弾という種類がないらしく、直撃や極至近への着弾でもない限りは大事には至らないが、車体側面に配置された機銃をトウカは何よりも危険視して いた。

 今、この世界の戦車の存在意義は、障害をものともせず戦線を突破し、歩兵の突入口を開く、この点に尽きると言っても過言ではなく、トウカの知る戦車同士 での機甲戦など考慮されていない。唯一、皇国陸軍や北部で運用されている二種類だけが例外である。これは帝国軍戦車に対し、対戦車戦闘を挑む事を想定して いる為であった。

 トウカの知る第一次世界大戦では、欧州大陸を南北に縦断する形で塹壕が無数に掘られ戦線を形成したが、巧妙に構築された塹壕線、機関銃陣地、有刺鉄線に よる防禦側の絶対優位により生身で進撃する歩兵の損害は激しく、戦闘は膠着することとなった。これの突破を意図して開発された兵器こそが戦車である。

 この世界に於いて、戦車という兵器を生み出した国家は紛れもなく帝国であるが、その目的もまた同じく戦線の突破であった。対帝国戦争で主戦場となったエ ルライン回廊近傍ではエルライン要塞という巨大な防壁もあったが、それ以上の問題は緩やかに傾斜する回廊内に無数に構築された特火点(トーチカ)や堡塁に他ならない。回廊という限定空間は、傾斜も相まって帝国軍は身を隠せず要塞に取り付くまでに夥しい犠牲を強いられた。

 その上、対峙する両軍が互いに激しい砲撃の応酬を敢行する為、両軍陣地間にある無人地帯は土が鋤き返され、砲弾跡が無数に残る不整地と化して、現在の劣 弱な技術力によって製造されている装甲車など装輪式車輛の前進を阻んでいた。これらの障害を突破するため、歩兵を塹壕の向こう側に送り込むための新たな装 甲車輛が求められたのだ。

 そして戦車が誕生した。

 強靭な装甲によって砲撃に耐えつつも、敵の火砲や魔導障壁と正面切って撃ち合うことのできる移動する特火点(トーチカ)。トウカの定義からすれば、対戦車砲……駆逐戦車に近いそれが初めて実戦投入された際、皇国軍は恐慌状態に陥ったという。この衝撃ゆえに、皇国軍の戦車は戦車を主敵とした運用が成されている。

 前部の砲で敵火砲を撃破し、塹壕を踏み砕き、逃げ惑う敵兵を機銃で薙ぎ払う。

 ――相性が悪い。機甲戦を前提に作られた戦車を相手にしているほうが被害は少ない。

 細い道を通る為に一列になるであろう敵戦車は、最前の戦車以外は固定砲である戦車砲は使えないが、左右に配置された機銃は間違いなく猛威を振るう。装甲に守られた安全な場所からの機関銃射撃の命中率が高いことは第一次世界大戦で証明されているのだ。

 ――左右に三挺ずつ。五輌で三〇挺……両翼からの包囲を諦めるべきか?

 戦力を集中しての片側からの横撃に切り替えるという選択肢もある。否、魔導障壁であっても機関銃の集中には耐えられない可能性がある。

 トウカは、未だ戦死者を減らす方法を模索し続けていた。

「御館様……どうやら来た様子。某は後背を突くが……。御館様が無謀な行いをすることがあっては御座らんよ」

「勝算のない無謀は行いません」

 真顔で返したトウカに、ベルセリカが苦笑する。

 ベルセリカが自身との一戦で限りなく無謀に近い打算で動いた点に懸念を抱いた事を、トウカは察して言葉を重ねる。

「セリカさんは予定通り敵の戦列最後尾へと回り込み襲撃してください。逃げる敵を一人も通さない様に注意しつつ敵戦力の漸減を」

 不満げな顔のベルセリカに気付かない振りをしつつ、手早く指示を出す。ことにベルセリカに限っては、敵の散開と逃亡を防ぐ為に当初の予定通りに布陣させるしかない。

 音もなく密林の奥へと消え去ったベルセリカに目もくれず、トウカは望遠魔術の付加された双眼鏡を構える。

「来たぞ。どうする若造」

 シラヌイの冷静に務めるよう努力しているであろう声音の疑問を無視しつつ、聞こえ始めた魔導機関特有の駆動音に耳を澄ませたトウカ。

「両翼からの挟撃。ですが、戦車はやり過ごして最後尾の車輛だけを撃破してください。それで全戦車は後退できませんし、武装を背後へ向けることも難しくなる」

「そうか。その手があったか。やるではないか、ミユキに手を出そうとするだけはある」

 感心と嫌味の混じった言葉に、トウカは顔を顰めて見せ、シラヌイは肩を竦めてその場を去る。

 天狐達を率いての挟撃の左右の指揮を担うのはシラヌイと、トウカ達が里へと赴いた際に接触した里一番の戦士が務めていた。双方が同数の兵力を率いて左右から挟撃すれば少なくとも反撃を受ける可能性が減る。

「本来は俺が挟撃の片側を指揮する予定だったが……中々、闘争とは上手く行かない」

 一人愚痴を零し、トウカは発煙手榴弾を二発、軍帯(タクティカルベルト)から抜き取る。

 トウカとしては文句の一つも言いたくなる心境であった。敵が戦車を保有しているならば、道に堂々と並べて障害物や特火点として利用すればよかった。それ だけで敵戦車の前進は防げる。撃破されたとしても、その未発達の技術力の為に踏破性の低い現行の戦車は残骸を乗り越えることも、両脇の木々を押し倒して迂 回することもできない。

 そして、里の出入り口で展開しているであろうマリアベル隷下の戦車隊は敵戦車の数よりも二輌少ない三輌であり、回転式砲塔を備えているとはいえ、戦車砲 の口径と砲身長を犠牲にしている面もある。その為、正面切っての砲戦となるであろう里の出入り口付近での戦いでは不利なるとトウカは予測していた。

 故に一人で先頭の戦車に吶喊せねばならないのだ。

 先頭と最後尾の戦車が行動不能に陥れば、全ての戦車がその場から移動できなくなる。これは軍に於ける架橋防衛の基本と同じで、敵が半ばまで達した瞬間に 敵の先頭部分の橋を爆破、後退を防ぐ為に最後尾部分も爆破。これによって敵は前後を塞がれた形になり、行動の自由を奪われる。

 ――糞義父上(くそおやじ)殿に任せる訳にもいかない。

 ミユキとの関係にまで後々、口を挟んでくる可能性のあるシラヌイを舌先三寸で駆り立てて、磨り潰すという誘惑も少なからずあった。無論、トウカにとって ミユキが悲しむ以上、何があろうとも取れない策であり、自らが読み切れなかった戦場の霧……不確定要素までをも他者に押し付けることがトウカにはできな い。

 矜持のないように見えるトウカではあったが、軍人という強制せねばならない立場ではない以上、自らの策の不測を他者の流血で補うことを是とはできなかった。ある意味、これこそがトウカの数少ない矜持に他ならない。

「あれか……皇国の制式採用戦車。全く、どの様に入手したのか」

 姿を現した敵戦車を双眼鏡で見据え、トウカは顔を顰める。

 皇国陸軍正式採用の主力戦車がこの場に存在することにトウカは驚きを覚える。世界有数の練度と軍律を誇る皇国陸軍の戦闘車輛が傭兵に扱われているという 事実は驚愕の真実に他ならない。トウカがマリアベルから聞いた情報の中には、皇国が自国製の兵器を輸出しないという話も混ざっていた為に、陸軍以外が装備 しているとは予想だにしていなかった。大きな戦乱期が近づきつつあるとはいえ、未だ本格的に砲火は轟いてはおらず然したる損傷も見受けられない戦車が五輌 も鹵獲されたとは考え難い。

「まぁ、いい。狐達だけに不遇を強いては悪いからな」そう笑ってみせるトウカ。

 だが、実情は戦車に対して吶喊という一歩違えれば肉片になりかねない行動を起こさねばならない状況にはやり場のない憤怒しかない。狐を数人呼び寄せて煙幕展張を狙うべきかとも考えたが、時既に遅い。

 煙幕手榴弾を雪の地面に置き、自らも伏せたトウカは肉眼で見える程に近づいた傭兵共に視線を巡らせた。

 魔導機関独特の低い駆動音を響かせて前衛を務める戦車五輌の背後には、軍靴を雪の大地に突き刺すように進軍する傭兵の大軍。トウカがこの異郷へ降り立って初めて見る規模の武装勢力は、不規則ながらも圧倒的な勢力の下にその歩みを進めていた。

 緊張と寒気が、トウカの心に這い寄る。

 突然、火蓋が切って落とされた。

 射撃型魔術特有の矢を射るかのような音が響く。それは、一拍の間を置いて釣られるように無数の音へと変わる。

 ――糞ッ! 恐怖に駆られて発砲したのか!?

 襲撃の時期はシラヌイに一任しているので、トウカが勇ましく傭兵と斬り合う必要がないと考えていたが、こうなれば話は変わる。シラヌイはやむを得ず交戦 を開始したが、最後尾の戦車の破壊には失敗していた。集団詠唱による集束砲撃型魔術による戦車の撃破に踏み切る以前に、恐怖に負けて射撃型魔術を放ったの だ。正規の軍人であれば、その程度で集中力が途切れることはないが、偶発的な交戦状態に陥った為に集団詠唱は失敗となった。

 射撃音を掻き消すかのような轟音が響き、傭兵の歩兵部隊に細長く伸びた戦列に無数の大輪が咲く。

 天狐達が仕掛けた爆薬が点火したのだ。

 傭兵達が爆風で弾き飛ばされる。中には破砕効果や焼夷効果を伴った射撃魔術も混在しており、それを受けた者は手足が千切れ、或いは腹部を切り裂かれて内 臓を雪上に撒き散らす。血や臓器が雪を朱に染め上げ、低温の外気に晒されて湯気を上げる中、左右の密林から傭兵達を目指し、偽装の為に少し汚された白の大 外套を翻した天狐達が突入を始める。

 傾斜の付いた密林と道の空間を滑り降りる天狐達は、傭兵達に体勢を立て直す暇すら与えず至近に迫る。身体強化魔術ではなく、純粋な身体能力だけでも隔絶 した身体能力は傭兵達に時間を与えない。中には戦闘に耐え得る魔導資質を持つ傭兵もいたが、奇襲同然の状況ではそれを行使する暇もなかった。混乱に乗じて 戦果を拡大することは決定事項であったが、天孤の戦闘能力はトウカが考えていたよりも遙かに高く大いに勇戦している。

 ――車載機銃も混乱して撃てないか! 好機だ!

 戦車の左右に展開していた傭兵達が射線に入り、その上、天狐達の魔術の着弾によって生じた炎や巻き上げられた土と雪が視界を妨げているのだ。

 刀剣で文字通り敵を一刀両断する天狐。
 射撃型魔術や弓矢で敵を撃ち抜く天狐。

 兵力的には劣勢だが、天狐族の攻撃は苛烈であった。高い膂力故に刀剣は傭兵の装備諸共斬り伏せられる。

 無論、一方的な戦闘になるはずはなく、天狐の中にも小銃や魔導弓の応射によって少なくない被害を受けていた。軍事的には僅少と言って差し支えない被害であったが、軍人でない者がそれを容易に受け入れることはできない。

 ――幸いにして感情の昂りが抑え込んでいるのか? 今しかない。

 トウカは、双眼鏡などの直接戦闘には不要な装備をその場に投げ捨てて、魔力と硝煙の漂う戦野へと飛び出した。








「姉御、不味いですぜ! 左右からの奇襲で背後を遮断されちまった!」

 騒ぐ傭兵を無視して、リュミドラは近づこうとする天狐に曲剣(サーベル)を振り翳す。

 奇襲を受けて混乱状態にある傭兵達を見て、所詮は雑兵か、とリュミドラは吐き捨てる。傭兵という職業は、その性質上、粗暴にして粗野な者が多く集団戦には向いていない。個人戦では高名な者も多いが、集団となるとその数は大きく減少する。故にエグゼターの傭兵や〈傭兵師団(ランツクネヒト)〉は注目されるのだが、それら傑出した戦闘能力を誇る者達と比べられては有象無象の傭兵達は堪らないだろう。

 殺し、奪い、犯し、嬲り、喰らい……己の欲のままに動くことを至上とした狂人達。

 飼い慣らされた狂気を胸に、敢然と依頼を完遂するエグゼターの傭兵や、正規軍同様の軍律を以て高度な指揮統制を維持する〈傭兵師団(ランツクネヒト)〉とは違い、防戦になるとその脆弱さが露呈する。だが、個人戦では特筆すべき者が多い傭兵は、天狐との損耗率を徐々に互角へと持ち込もうとしていた。

「辺境の蛮族相手に何を怯んでいるんだい、貴様ら!」眉を鋭角に跳ね上げ、リュミドラは叫ぶ。

 リュミドラの叱咤を受けた傭兵の一人が、奇声を上げて天狐に斬りかかる。その傭兵は金属鎧を身に着けているにも関わらず、その動きは他の軽装の者達と比べても遜色はなかった。

 傑出した体力がなければ不可能な業であったが、そんな傭兵でも天狐の剣よりも速く動くことは不可能であった。煌めいた天狐の剣先は正確にこの傭兵の喉笛を切り裂き、傭兵は傷口から壊れた立て笛のような音を漏らしながら雪の大地を朱に染めながら倒れ込む。

 ――仕掛けるかね。だけど、この地形じゃ旋回すら叶わない戦車は使えないね。

 リュミドラは愛用の長剣を振り上げて宙に円を描く。

 集結せよの意味を持つその無言の合図にエグゼターの傭兵達が、障害を斬り払い最小限の距離を駆けてやってくる。

「仕掛けるよ! 野郎共、ついて来な‼」

 長剣を振り翳し、戦野へと身を投じたリュミドラに、統一された戦装束の傭兵達が戦列となって続く。

 幾多の戦意が交差し、戦野は混沌へと突き進む。

 

 

 

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 断じて戦うところ死中おのずから活あるを信ず。

      《大日本帝国》 陸軍、硫黄島要塞守備隊指揮官、栗林忠道中将