第三二話 暴力の足音
「魚の塩焼きか。旨そうだな」
ミユキが内臓を取り除いた魚を器用に串へと刺している姿を眺めながら、トウカは感嘆の息を漏らす。旅の途上でも目にしていたが、魚料理に限定されるものの、料理の淀みない手際はトウカの知る近代の大和撫子の大多数にはないものだった。電子加熱調理機で手早く済ませる事が多いと聞いていたが、ミユキはトウカの幼馴染の様に随分と凝った料理を手掛けている。
「主様は何を作っているんですか? 豆腐の薄切り……お味噌汁ですか?」
ミユキの問いに「味噌もあるのか」と納得しながら首を横に振る。
硬めの豆腐を薄く切り、水切りをしながら、トウカはどう表現したものかと思い悩む。現在、トウカが作ろうと目論んでいるものは油揚げなのだが、この世界には存在しないものらしく、どの様に説明したものかと思い悩む。
「祖国で狐の好物とされている食べ物だ」
トウカの端的な説明に、ミユキの耳が小さく揺れる。興味津々といった風であった。
薄く切った硬めの豆腐を低温の植物油で揚げ、更に高温の油で二度揚げするだけなので調理法はそう難しくない。同時に厚めの豆腐も揚げて厚揚げも作ろうとも考えていた。
油揚げは、出汁などを吸い込みやすく、袋状なので他の食材を包み込めるなどの特徴があり、様々な料理に使える大変に万能な食材である。トウカは稲荷寿司でも作ろうかと目論んでいた。
問題は米であるが、これは天狐の里を巡っている際に、納屋に干されている藁を見て白米が存在するのだと気付いた。ベルゲンで見て回っていた市場で白米を見かけなかったのは、ベルゲンの立地が北部といっても中央部に近い位置に存在しているからであった。
皇国での米の栽培は北部中央から東部にかけての穀倉地帯が主体で、消費されている場所も輸送の問題から生産地付近に限定されていた。洋餅と 比して腹持ちが良い白米は軍の主食に最善と思えるかもしれないが、《大日本帝国》が明治期にそうであったように、栄養の偏りによって栄養素ビタミン
B1(チアミン)が欠乏し、脚気で多くの死者を出しては本末転倒である。皇国でもそれに類する出来事があった可能性は否定できない。妥協して麦や玄米とい う選択肢もあったかも知れないが、麦は虫が発生し易く、腐りやすい上に味が悪く、高温多湿の場所での管理や輸送に多大な困難を伴う。脚気が多発する夏に供
給するのが困難であることもあって、比較的温暖な気候である《トルキア部族連邦》との国境線を守護している南方方面軍には余りにも扱い難い主食になりかね ない。
その辺りの理由もあって、米は皇国に於いて主食とは成り得なかったのだろうとトウカは見ていた。民間でも輸送網が高い次元にない限り、重量物である米は遠方の生産地から取り寄せる手間も魅力もなかったのかも知れない。
無論、これまで見付けられなかったのは、ベルゲンの市場に並んでいた形容し難い、背徳的で冒涜的な形状の野菜などを目にして、米があっても食欲が著しく減衰する形状ではないかと疑ったトウカが敢えて探さなかったという理由もある。寧ろ、この点が一番大きいと言えた。
しかし、米は見つかった。幸運にもトウカの知る米と寸分違わぬ形状で。
――餅米を生産して、餅を軍に納入すれば気に入られるかもしれない。腐敗もしにくいし、腹持ちも良い。……ビタミンB1(チアミン)の不足は豆で補えるな。現地で大福にすれば喜ばれるだろう。
そんなことを考えながら薄切り豆腐を揚げていると、ミユキが興味深げに鍋を覗き見てくる。
「うわぁ、狐色です! 豆腐を揚げるなんて考えたこともなかったです。主様の祖国は凄いですね!」
「まぁ、食文化に関しては他国の追随を許していないからな。美味しいと思えば何でも取り入れ、工夫した上で新しい料理を作る。凝り性なんだろう」
工業製品や兵器にもその傾向は見られる。調理や製作、製造などの分野に関して並々ならぬ執念を燃やすことも大和民族の宿命なのかも知れない。
「そうだな。薩摩揚げも作るか。ミユキは、魚肉を擦り身にしてくれるか?」
狐種が魚類を好んでいることは既にミユキより聞いていたので、いっそのこと作れそうなものは全て作ってしまおうと調理を始める。薩摩揚げは魚肉のすり身 を塩や砂糖などで味付けし、形を整えて油で揚げたもので、薬味や具材を包むこともある。本来は二種類以上の魚肉を混ぜ合わせて作るものだが、残念ながら今 は川魚一種類しかないのでその点は諦めるしかない。
二人は母家の調理場での調理を続ける。
ミユキの家族とトウカ、ベルセリカ、マリアベルの分を作らねばならないので、慌ただしく調理を続けてゆく。
手早く薬味を斬り刻むトウカの視界の隅に小さな影が、二つ横切る。
「……ミユキ、あれは?」
「えっと、妹達です。ほら、シラユキ、ハツユキ」ミユキがお玉を持ったまま、調理場の裏口に視線を巡らす。
そこにはミユキよりも更に小さい仔狐が二人、興味深げにトウカを観察していた。桜色の着物を着た二人の幼女。狐耳と尻尾を持った二人の幼女は、警戒した様子で調理場の戸から覗き込んでいるが、その仕草がミユキと似ているように思えて思わず苦笑する。
「ほら、飴があるぞ?」
甘味で釣ってみると、警戒した様子ながらも近づいてきた。
近づいてきた二人に飴を渡すと、その頭を撫でてやる。そうすると嬉しそうに狐耳が動く。ミユキ曰く、狐は人の悪意ある程度は読み取れるということなので、少なくとも健全に正面から接する限り邪険には扱われない。
「兄様は姉さまの番になるの?」
「おとさんが縁側で唸ってた」
シラユキとハツユキの言葉に、二人は顔を見合わせる。
里の内部でトウカとミユキの関係が公になることは好ましくなく、イラヌイもマイカゼも、その点については細心の注意を払っているものとばかり考えていた が当てが外れる。降りかかる火の粉を払うことは容易いが、事が大きくなりすぎれば、シラヌイの意志だけでは天孤族を制御できなくなることをトウカは何より も恐れていたのだ。
「ああ、ミユキの番いのトウカだ。初めまして義妹たち」
それはトウカが、流血を覚悟した瞬間でもあった。
背後のミユキの驚く気配を感じつつ、トウカは冷徹に思考を巡らせた。二人の関係がどれ程の者に露呈しているのか不明であったが、進退窮まった場合はベルセリカを殿にミユキを連れて逃げださねばならなくなる。
「主様……う、嬉しいですけど、余り他の狐に知られちゃうと」
「大声で言えない関係ならこの先、長くは続がない。なら文句を言う奴は纏めて殴り倒そう」トウカは、拳を握りしめ敢然と告げる。
実際に拳を振るうことになるのはベルセリカであるが。
シラヌイとの盟約は既に批准されたのだ。ミユキの眼前でシラヌイが是とした以上、その大義名分は既にトウカの手の内にあった。反故にするなら拳を振り翳 す大義名分ができる。拳を振り翳すのはベルセリカの仕事であって断じてトウカではないが、トウカはベルセリカを説得する自信があった。
「あぅ……」
「姉さま、お顔が真っ赤だよ?」
「照れてる~」
顔を朱に染めて慌てているミユキを見やり、トウカは満足する。
設えられている長椅子へと座り、シラユキとハツユキを膝に乗せて、トウカは慌てているミユキを眺め続ける。見ているだけでも十分に飽きない光景だった。
「そろそろ出てきては如何か?」
あくまでも平静で、鷹揚のない声音で紡がれた一言。
だが、それに応じる者がいた。
「ふむ、それなりに気配を隠した心算であったが……気付くとはの。末恐ろしいのぅ」煙管片手に裏口の扉へと背を預けた厭世の伯爵。
マリアベル・レン・フォン・グロース=バーデン・ヴェルテンベルク伯爵がそこに立っていた。
トウカは、シラヌイかマイカゼが、こちらを試したのだとばかり思っていたので予想外だった。
「いえ、ただ幼気な子供に良からぬことを吹き込んだ者がいるのではないかと思っただけですよ。シラヌイ殿かと思っていましたが」
「なんじゃ、ハッタリであったのか。これは一本取られたのぅ」紫煙を吐き、呆れて見せるマリアベル。
マリアベルには、ミユキとトウカの関係を告げていたが、それはマリアベルが天狐族ではなかったからという理由以上に、シラヌイとマリアベルに繋がりがな いか推し測る意味もあった。トウカに探りを入れてきたということは、シラヌイかマイカゼと何かしらの遣り取りがあったと見るべきだとトウカは警戒する。
「何処までお聞きになられましたか?」
「ん? まぁ、汝の難儀な性格辺りかの」
トウカは、マリアベルが不用意に情報を漏らさないであろうことを確信している。
――叶うなら、最後の刻に至るその時まで共に在ってやるがよい。
最初に出会った時、マリアベルは万感の想いを宿した瞳でそう告げた。
自らもまた異邦人と仔狐の様な立場の違いに感じ入る所があったのではないかと、トウカは自分なりに察していた。長命種ならば若輩者の人間種を騙す程度は 容易いだろうが、あの瞳だけは擬装だとは思えない。トウカが出会ってきた長命種はそう多くはないが、マリアベルはあまりにも感情の発露が大きく人間らしく 思えた。
マリアベルの血の半分が人間種の者である為か、その元来の気質に帰依するところかは神のみぞ知る。トウカはマリアベルの過去を知らない。例え知っていた としても、長命種から見て欠陥品とは言え、人間種から見ればそれでも尚、永い生命を紡いできたマリアベルの心の内を汲み取ることはできなかった。
「もし、興味を持たれても、俺にはミユキがいますので」
「仔狐の雄を取るわけなかろう。……ミユキ、その包丁を下ろすが良い」
トウカの背後で小さな金属音が響く。心なしかマリアベルの顔も引き攣っていたが、トウカは背後を振り向く勇気がなかった。
「それで、この時期に話しかけられるとは思わなかったのですが」
「ほぅ、よう分かっておるではないかえ」感心したと言わんばかりの表情を浮かべたマリアベル。
長命種は基本的に無駄を好まないが、マリアベルは例外である。だが、幼女二人を嗾けてきたところを見るに此方を探っているのは確か。だからこその強気の発言であった。弱みを見せれば冷静にその点を突いてくるだけの舌鋒をシラヌイは持っている。
「色々とあったのでな。昼餉の時間に話してやろう。父狐から言質を取らねば御主の納得できまい」
その言葉にトウカは、好機と危機を同時に感じた。
シラヌイがトウカに対して更なる譲歩を行わねばならない状況に陥った可能性がある。
煙管を一振りして何処かへと仕舞ったマリアベルは、トウカへ背を向ける。もう話はないということだろうが、トウカにはまだ聞かねばならないことがあった。
「セリカさんも必要ですか?」
「…………汝は、そこまで……うむ、連れてきてもらえると有り難いの」
頭を掻きむしり、去ってゆくマリアベルをトウカは黙って見送る。
マリアベルは驚いていたようだが、トウカからすればこちらの切れる手札がベルセリカという名の武力、或いは名声しかない。消去法を展開するまでもないと言える。
――名声を今更、使う事態になるとは思えない。とすると厄介なことになりそうだな。
トウカは、やれやれと嘆息し、無視されて唸っているミユキを宥め始めた。
「セリカさん。先に謝っておきます」
トウカは左辺で胡坐を掻いているベルセリカへ謝罪する。
一辺に三人は座れる大きな囲炉裏を挟み、トウカはミユキの家族、そしてマリアベルと相対している。厳しい面持ちのシラヌイが正面から無言の圧力を撒き散らしており、トウカの右に嬉しそうに尻尾を揺らすミユキがいることがせめてもの慰めであった。
目を見開いているシラヌイを無視し、トウカは言葉を続ける。
「貴女の“武”が必要なようだ」
御猪口を片手に薩摩揚げを齧っていたベルセリカが、口元を動かしたまま黙って頷く。
料理を気に入って貰えたことは純粋に嬉しいが、人の話を聞く際は薩摩揚げを頬張ることを止めて欲しかった。
「今更で御座ろう。黙って敵を指し示せば、直ぐにでも討ってみせようぞ、御屋形様」
剣聖が姿勢を正し、異邦人を見据える。
その瞳は壮烈な戦意を宿していた。
戦意に不足はないと見て、トウカは胸を撫で下ろす。ベルセリカはあまり目立つことを好んでいないと判断していたが、今回の一件では協力してくれるようで あった。盟約によって異邦人と剣聖は強固な絆で結ばれている様にも思えるが、同時にその盟約は極めて曖昧のモノでもある。それはトウカが望んだことであ り、いざとなれば広義の意味で解釈できるようにと考えた為であった。
だが、剣聖は異邦人が考える以上に律儀だった。狼の血がそうさせるのか、武人としての矜持がそうさせるのかは当人にしか分からないが、その自らが持ち得ない気質をトウカは好ましく感じた。
「期待しています。俺の剣聖」
トウカの期待を込めた言葉に、ベルセリカは鷹揚に頷いて見せる。
隣で不機嫌な顔をしているミユキの口に厚揚げを突っ込むことで黙らせると、トウカはシラヌイへと視線を投げ掛ける。
「では、ミユキと祝言を上げます……というのは冗談で、ミユキの行動に一切の制限を加えないで貰いたいのですが。お父義さん」
祝言という言葉に頬を引き攣らせつつも、シラヌイがマリアベルに助けを求める視線を送っていたが、厭世の伯爵は肩を竦めて苦笑するだけであった。マリア ベルが中立、或いはトウカに友好的な立場を取ることは調理場の会話で大凡の見当は付いていたので、シラヌイの抵抗は無駄と言える。
シラヌイはトウカとミユキの関係を認めたものの、それを何らかの手段を以てして最終的には退ける気でいた。しかし、ミユキの行動に口を差し挟むなという 言葉まで認めてしまうと、ミユキに大義名分を与えてしまう。シラヌイがどう言おうと、ミユキはこの話を持ち出してくることは想像に難くない。
里を飛び出されては、ミユキは再び行方知れずとなってしまう。その背後にはベルセリカがいる為に無理やり連れ戻すという選択肢もまた有り得ない。
故に言質を取られないようにトウカと曖昧な盟約を結んだ。容易く騙し遂せたように見えたが、非常時にあってその盟約は見直しを迫られた。
「む、むぅ……しかし、いや……」尚も渋る父狐。
その様子にマイカゼが呆れた様な溜息を漏らす。母狐もトウカ側に立っている。理由が分からないが、トウカにとってこれは千載一遇の好機であり、敵の見え ない危機でもある。状況を利用してシラヌイを説得することは可能だが、そうなるとトウカもベルセリカという武を扱う事態になることは避けられなくなるだろ う。
それは、流血を伴った闘争がミユキに近づくと言うこと。
だが、それでも尚、異邦人は父狐の意志を圧し折らねばならない。ミユキという少女は優しい。シラヌイや天狐族の者に危機が迫っているとすれば、十中八九助けようと動くことは想像に難くなく、またトウカもそれを押し止める術を持たなかった。
トウカにとっても、引き下がれない駆け引き。
だが、それはシラヌイにとっても同じであった。
ならば直ぐにでも纏まるはずの駆け引きなのだが、そこにミユキという存在が絡むと複雑怪奇な状態になり下がる。二人を動かすのは合理的な判断であることは疑いないが、その二人には数少ない共通点があった。
ミユキが関われば、合理性を無視するという点である。端的に表現するならば感情的になるのだ。
平素では合理的な判断を模索できるだけの能力がある者が、感情に走ると往々にして始末に負えないことが多い。その高い能力を間違った方向に全力で発揮 し、周囲に迷惑と悲劇を撒き散らす。幸いにしてトウカとシラヌイは、ミユキが眼前にいる為にそうした愚を犯すことを避けようとしていたが。
ミユキの行動に一切の制限を加えられない、それはミユキがこの里を去る時、シラヌイがそれを止める術を失うということに他ならない。その在り様が限りなく風に近いミユキ。力でも言葉でも止め得ないならば止める術など在りはしない。
部屋を侵食する負の感情。怒りとも嘆きとも悲しみとも取れない複雑な感情である。
恐らくはシラヌイにとって、ミユキがトウカを連れ帰ったその時より、自らの憤激の許容量は大きく超過していたのだろう。研鑽の足りない者であれば周囲に 不満を撒き散らすだろうが、シラヌイにはその気配すらなかった。これは驚嘆に値することが、許容量が大きく超過している憤激はその瞳より零れ出ている。瞳 が血走り、殺意が滲む。
そして、父狐の瞳から涙の雫が零れる。
「若造……………悲しませたら、殺すぞ」
家族達が固唾を飲んで見守る中、シラヌイは流れ出る涙を隠しもせずに言葉を紡ぐ。
シラヌイがトウカを認めた、認めざるを得なくなった瞬間であった。
トウカは隣に置かれていた軍刀を引っ掴み、鯉口を切ると同時に右手を柄へと走らせる。 神速で抜き放たれた秋水の一閃に、囲炉裏の炎が映る間もない。
囲炉裏の淵に突き立てられた軍刀。
「この刃に誓います」
トウカは不確かな神を信奉しない。故に天霊の神々に誓うことはない。
一振りの軍刀こそが、トウカにとって絶対の真実に他ならない。
シラヌイは沈黙したまま、静かに頷く。それを認めたトウカは軍刀を引き抜く。流れるが如き動作で、流麗な刀身は黒鞘の褥へと収まり、凛冽な鍔鳴りを反響させて眠りについた。
二人は無言で睨み合う。
既にシラユキやハツユキは怯えきっており、マイカゼに抱き付いている。マイカゼは二人の娘をあやしながらも、微笑を浮かべたまま二人の遣り取りを眺めていた。
対するベルセリカとマリアベルは二人で御酌をしながら、トウカとシラヌイの遣り取りを肴に米酒を飲んでいた。
「御主は優しいのぅ」
「無論で御座ろう。某の御館様なるぞ。まぁ、度胸がないとも言えるが」
厭世の伯爵の言葉に対して剣聖が笑いかける。
言わんとしていることはトウカも分かる。
祝言とは結婚のことであるが、トウカはそれを口にしても要求することはなかった。度胸や根性がなかったとベルセリカやマリアベルは捉えているが、実はその点が占める比重はそう多くはなかった。
「ミユキと約束したのです。恋人関係を満喫すると」
意味を察したミユキも嬉しそうにはにかむ。二人が交わした約束は未だ達成されていない。トウカには、まだ二人で共に経験してみたいことが数多くあり、ミ ユキもまた同じだった。確かに夫婦となれば共に過ごすことができるが、恋人として過ごすことはできなくなる。先に恋人としての生活を満喫したいという想い が二人の心の内にはあった。
ミユキは満面の笑みでトウカの肩に擦り寄る。食事中に行儀が悪いと注意しようとしたが、トウカも刀を抜いていたので大きくは出られない。乾いた笑みで笑って誤魔化すトウカだが、そんな甘い雰囲気にシラヌイが嚙み付く。
「……くそぅ。……俺はミユキがこんなに小さい頃から見守ってきたのだぞ!! それをこんな口先ばかりの糞餓鬼にぃ!!」
父狐、不満爆発。
突然、表情を崩して怒り狂うシラヌイに、マイカゼとベルセリカはさも愉快だと言わんばかりの笑みを浮かべていたが、トウカは豹変したその姿に頬を引き攣らせるしかない。
シラヌイにとって娘に男が出来たというだけでも堪忍袋の許容量が大きく超過しているのだが、その上に相手は人間種で直接手出しし難い状況であった為に、 その怒りは行き場を失っていた。だが、それを安易に無関係の者に撒き散らすことがない点は、天狐族を統率する長として相応しいものと言える。トウカが協力 すると頷きながらも、ミユキとの関係を進展させなかった為に気が抜けたのかも知れない。
「俺はなぁ、ミユキが卵のときから――」
「私、哺乳類だもん! おとさん酔ってるよ!」
尻尾を逆立てて怒るミユキを、シラヌイが「心外だ」と一蹴する。
升酒片手に身体を傾かせている状態では何ら説得力はなく、明らかに酔っていた。一息に米酒を飲み干し、マイカゼに新たに酒を注がせるその姿は完全に酔っ払いの中年である。酔っ払ってしまえば人間種の男とそう変わらない。寧ろ色々な意味で始末に負えなかった。
「若造っ! 貴様は口ばかり回るようだが、そんな貧相な身体で戦えるのか!?」
「戦いは戦闘が始まった時点で勝敗が決まっていることが多い。勝利を掴む為に策を献じ、戦力を整える努力は惜しまない心算です」
至極真面目に答えるトウカに、シラヌイは「けしからん!!」と唸る。
熱意溢れる言葉を期待していたのかも知れないが、ベルセリカを相手にした時のような轍を踏む愚をトウカが犯すはずもなかった。切れる手札があるという意味では前提も大きく違っている。
「真理であろうが、それではつまらんと思わんかえ?」
「大丈夫です。だって、主様は私だけには優しいもん。それだけで十分かな」
マリアベルの問いに、少しずれた惚気で応じるミユキ。それを見て笑うマイカゼ。それを尻目にシラユキとハツユキは稲荷寿司を小さな口で懸命に頬張っている。
「しかも、性格は捻くれている癖に飯は美味いときた」
「そうねぇ。これは私も吃驚よ。ミユキが惚れるのもお母さん分かっちゃうわね」
「でもでも、女の面目が丸つぶれなんだよ、お母さん」
各々が好き勝手に振る舞い、囲炉裏を挟んで楽しげに会話する中、酔いどれ狐――シラヌイは酒瓶を抱いたままに船を漕ぎ始める。言いたいことだけ口にして先に戦線離脱する辺りが腹立たしいものの、これで面倒な者はいなくなったとトウカは胸を撫で下ろす。
「一杯、いただけますか?」
「うむ、良かろうて」
マリアベルが徳利を掴みトウカ……ではなく何処か嬉しそうなミユキに手渡す。
徳利を構えて微笑むミユキの形容し難い威圧感を感じ取り、トウカは黙って御猪口を差し出した。笑みを深めたミユキが御猪口へと米酒を注ぐ。
そのやり取りが、気恥ずかしく思えてトウカは御猪口へと視線を下ろす。
並々と注がれた米酒をトウカは口へと運ぶ。
香り高く、淡麗辛口で切れのある後味という特徴がある米酒に、トウカは驚く。トウカの知る清酒と何ら遜色のないものだった。ベルゲンで飲んだ白麦酒は麦酒と瓜二つのものであったが、眼前の米酒も日本酒とそう変わらない。
「良いですね。高価なものなのでは?」
「なに、心配するでない。妾が、屋敷から持ち込んだものじゃ。中々の一本とは思わぬかえ?」
マリアベルの言葉に頷きつつ、トウカは嬉しそうに稲荷寿司を頬張る狐達に満足する。
世界が違えども、狐はやはり油揚げが好きなのだろう。毛色が似ている為か、揚げ物が好きなのかは分からないが、満足していてくれるならば作った甲斐もある。
「ほら、ミユキも飲むといい」
トウカが差し出した徳利を見て少し悩む素振りを見せたミユキだが、主の差し出したものを拒むことは有り得ないと思ったのか御猪口を手に取る。
並々と注がれた米酒に挙動不審な動作で視線を落としたミユキに苦笑しながら、トウカも自らの御猪口に米酒を注ぐ。
「乾杯」
接触した二つの御猪口が小さな音を立てる。
トウカは一気に飲み干し、ミユキは躊躇いがちに啜る。心なしか顔の赤いミユキだが、それは酒だけが理由ではないだろう。
二人で一緒に同じことをすることの何と心地の良いことか、とトウカは暖かな感覚に笑みを零す。恋する者と酒宴を共にすることも、トウカにとっては小さな 夢の一つであった。叶うならば二人きりで朗々たる名月を眺めながら、ゆるりとした時間を過ごしたいとも考えていたが、それは急がねばならないことではな い。共に過ごす時は未だ多く残されている。
三口で飲み干したミユキの御猪口に、すかさず新たな米酒を注ぐ。
酔ったミユキが見てみたいと思っていることはトウカだけの秘密である。最も、マイカゼとマリアベルに限ってはそれを察して各々顔に笑みを張り付けた。察しているにも関わらず、口には出さないその性根には口を引き攣らせる他ないが。
幾度も酒が酌み交わされ、生産性のない会話の応酬。
然して特筆すべき事もない何気ない日常。
これから幾度も目にするであろう日常。
皆が笑顔で過ごすとりとめのない日常。
団欒の時間は過ぎてゆく。
今、この時、トウカはこの楽しくも何気ない日常が限り無い未来まで続いてゆくものだと思っていた。そして、それが根拠のない過信だと気付いた時、既に手遅れであった。
歴史は異邦人に多くを求める。
トウカは、気付かない。
歴史の足音が、そう遠くない先にまで迫っていた。
「では、話を聞きましょう」
ミユキが酔い潰れ、マイカゼがシラユキとハツユキを引き連れ共に部屋を去って短くない時が経った頃、トウカは思い出したように呟く。火鉢で囲炉裏の木炭 を突き崩しているその姿は、何の気負いもない自然体。面倒事の大半がベルセリカに帰依すると他人事に近いと割り切っているからでもあった。
むくりと起き上がったシラヌイ。恐らく、トウカがミユキに酒を飲ませた頃から意識は取り戻していたのだろう。或いは、元より意識があった可能性もある。
「娘さんたちは部屋に戻られました」
「ああ、有り難い。気付いていたのか。ならば、ミユキを酔わすこともないだろう」御猪口に酒を注ぎながら、シラヌイは憮然とした顔をする。
迎え酒上等と言わんばかりの父狐と伯爵。剣聖もその二度目の酒宴に加わり、居間は長命種たちの楽園となる。
酒宴ではあるが、長命種達は一言も発せず、静かな時が過ぎる。
英国人は老いも楽しむという噂があるが、永き時を過ごせば、確かにその様な境地に至るのかも知れない、とトウカは苦笑する。或いは、トウカ自身も時が経てば同じ境地に至るかも知れない。
「一度、ミユキを酔わせてみたいと思っていました。次は二人きりでしますのでお構いなく」
トウカは軽く手を揚げ、お構いなく、と表現するが、シラヌイは拳を握りしめて憮然とした顔をするだけであった。娘を良いように扱われている気がして気に入らないのかも知れないが、この場にミユキが存在していても問題がある為にシラヌイは反論一つしない。
「帝国ですか?」
「いや、匪賊だ。……我らが野蛮人の襲来まで座しているはずないだろう」
苦々しいシラヌイの呟きに、トウカは得心がいったと頷く。
帝国軍が軍としての兵数を維持した状態で皇国北部に展開することは、エルライン要塞が健在な今では有り得ない。無論、ベルゲン近郊の一戦や、リディアの 追撃を行っていた魔導騎士は帝国兵ではあるが、その数自体はそう多くはなかった。前者に限っては非正規戦の割にかなりの戦力であったが、練度の差異が激し
かったことを踏まえると正規の兵ではないか、或いは皇国に潜入できるだけの技能を持ち合わせた戦士を強引に各方面から掻き集めたと推測できる。逆に言え ば、それだけの必要性のあった任務を帯びていたということになるが、皇都で起きた破壊活動に関連しているとは見当が付いていたものの、事実確認をする程の 興味は感じなかった。
「考え過ぎかですか。敵の戦力は?」
敵性戦力の総兵力が分らねば防衛計画も立案できない。もし、敵が此方よりも小勢であるならば積極的防衛も可能で、里への被害を避ける為に山岳地帯や平原での決戦を強要することも条件さえ整えば不可能ではない。
「数は500前後じゃろうて。……じゃが、傭兵団が幾つも確認されておる」
マリアベルの言葉にベルセリカが、トウカに言葉を求める視線を向ける。トウカは想像以上に面倒な状況に遭遇したと内心で溜息を吐く。
それも止むを得ないことで、敵戦力が不明瞭な上に、増援と分散の可能性があるのだ。
「敵が一部隊に過ぎないならば一戦で済みますが、複数いるとなると長期戦は避けられない。それも敵戦力の総数のが不明な以上、戦闘終結の判断も付き難い」
通常、軍略に於いて戦力の逐次投入は唾棄すべき下策とされているが、例外も少なからず存在する。
「長期戦になれば、優秀な魔導資質を持つ天狐族とは言え、精神的消耗は避けられない。ましてや軍人ですらない以上――」
「――指揮統制を維持できない。その上、平静ではいられない、か」
引き継いだシラヌイの言葉を、無言の首肯で肯定する。
元来、狐という生物は闘争には向いていない。野生でも狐同士で凄惨なまでに争うことは少なく、基本的には温厚であった。里を人里離れた秘境に築き上げていることからも予想はできる。
皇国陸軍の編制を見ても分る通り、捜索聯隊や遊撃聯隊などの前衛的要素を持つ任務や、戦力劣勢下での戦闘の可能性が高い部隊には狼族や虎族などが集中し て配置されている。対して狐種は、魔導砲兵や療兵などの後衛的な要素を持つ任務や支援部隊などに最も多く配置されており、その数自体も軍全体に視野を広げ たとしても少ない。
ミユキとトウカの出会いを思い浮かべれば、嫌でも理解できる。
ミユキが狩猟を行う光景を幾度か見たトウカは、その弓術の技量が傭兵に十分対抗し得るものだと確信していた。風を使役する魔術によって小銃並みの射程を 得た弓術があれば、全ての賊を撃ち倒すことはできずとも、場を擾乱させて村人の脱出を支援できたかも知れない。無論、賊の跳梁を座して見過ごしたトウカに はそれを非難する資格はなく、またその気もなかった。
何故、ミユキが戦わなかったのか。
ミユキは強かな面も持ち合わせているが、同時に人並み以上に臆病で猜疑心が強かった。そして、後者の一面はミユキに限った話ではなく、狐種全体に当て嵌 る点と言える。無論、ミユキは狐種の基準からすれば社交的な人物に分類されることは、トウカが里を歩いている際に道行く狐種の者達に全力で避けられている ことからも理解できた。個体差はあるのだ。
「士気崩壊の可能性があまりにも高い。長期戦など有り得ない。しかも、傑出した戦力とは言え、セリカさんは一人。複数の部隊で同時に圧力を掛けられては浸透される可能性が高い」
「では、御屋形様の策で一網打尽にすればいいで御座ろう」
トウカは、巻き込む心算ですか、と非難の視線を向けるが、ベルセリカは素知らぬ顔で酒を楽しんでいた。
ミユキは匪賊の接近を知れば、必ず里を護ろうと動くはずなのだ。
臆病ゆえに戦うのだ。闘争に於ける結末となるかも知れない自らの死よりも、近しい者が凶刃に斃れることを何よりも恐れるからこそ。トウカとて祖父や幼馴染と無理やりに永遠の離別をさせられることが事前に察知できていたならば、断固として抵抗しただろう。
「トウカ殿は軍略に通じておるのかえ?」
「剣聖殿の口振りからするに素人ではなさそうだな」
胡散臭そうな瞳でトウカを見据えるシラヌイとマリアベル。
二人の言いたいことも分らないでもなかったが、少なくとも生温い戦争の歴史しか知らない狐の長と辺境貴族に対して、自身が政戦に於いて劣っているとトウ カは考えていなかった。人間種だけの情け容赦のない卑怯と卑劣が飛び交う歴史を知っているという優位性は、眼前の二人であっても突き崩せない。トウカはそ う踏んでいた。
この世界は一度の戦闘での戦死者数が、トウカの世界に比べてあまりにも少ない。強力な兵器と効率的な戦術を運用できていないからであった。
「この国の生温い闘争など、私の祖国の歴史では良くある悲劇に過ぎません。魔術と長命種が、科学と思想の進歩を押さえ付けている後進国の匪賊など、手段さえ選ばなければ容易く殲滅できます……と言えば、満足していただけますか?」
その言葉にシラヌイは眉を顰め、マリアベルは愉快だと言わんばかりの表情をしている。そして、ベルセリカは平然とした様子で盃を空にしていた。
トウカの内心にはこの手でミユキを護らねばという強い意志があった。
「まぁ、何とでもしますよ。指揮をさせてもらえるなら」トウカは嗤う。
闘争。
それは桜城家の唯一にして無二の輝かしき桧舞台。
叶うならば回避したい悲劇だが、どの道避けられない悲劇でもある。ならばせめて楽しまねばならない。幸いなことに敵は同情すべき要素など何一つない匪賊。
この世界に於いて自らの戦術がどれ程の真価を発揮するのか、それは氷雪吹き荒ぶ大地に招聘された時より密かに心の内に燻ぶっていた感情。
この一戦は、異邦人の真価が試される戦い。
トウカは皮肉を能面の如く張り付けた表情で微笑むと、盃を傾けた。