第九五話 傾城たる桜色
「全く、もぅ。苦節三年の苦労を軍隊で押し潰してくれるなんて」
黒檀で造られた精緻な文様、見る者が見ればそれが、名工のアマデウスの手によってこの世に生まれ落ちたものだと分かるだろう。決して華美ではないが、品の良い工芸品や衣服に包まれた女性は、書物に溢れた部屋から小さな窓を見上げる。
重なり合う書物で形成された椅子に腰を下ろすという所作は決して褒められたものではないが、それでも尚、品を損なわない佇まいがそこにはあった。
セルアノ・リル・エスメラルダ。
桜色の腰を過ぎるまでに伸びた長髪は、先になればなるほどに波打っており、何処か柔らかな雰囲気を帯びているものの、その黄金山吹の色に輝く瞳は荘厳な
気配を静かに感じさせる。そして、その長身にして女性として成熟した妖艶な身体を包む服装は、黒の神州国基調の上質な生地を用いた不思議な女性用衣裳であり、袖がないものであるにもかかわらず、別で袂だけある装飾や、左右前後に切れ目の入った裳裾は、その妖艶さを強調しているようだが、決してそれが下品に映ることはなく、寧ろ犯し難い雰囲気を補強していた。
銀糸で形作られた桜華の咲き乱れる袂を揺らし、立ち上がると小さな窓際へと寄るセルアノ。
その動作には、確たる自信と、抗い難い色香が滲み出ている。
窓際の壁に背を預け、外の風景を見やるその表情は、酷く楽しげであった。
決して発展しているとは言い難いエルシアの街並みだが、寂れている訳ではなく平時では何処か牧歌的な雰囲気すら漂っている。
なれど、今は有事。発砲炎による閃光と魔導の波動が揺らめき、砲煙が眼下の街並みを覆っている。ヴェルテンベルク伯爵領邦軍とバルシュミーデ子爵領邦軍による激しい戦闘は、エルシアの街並みに大きな爪痕を刻みつつも継続していた。
ヴェルテンベルク領邦軍はセルアノが知る以上に火力主義を徹底させているのか、バルシュミーデ子爵家の屋敷を中心に懸命の防衛を続けているバルシュミーデミーデ領邦軍は著しく不利な状況下に置かれていた。
金糸で刻まれた橘花の咲き誇る裳裾を翻し、セルアノは悲惨な光景に背を向ける。
弱き権力者が周囲を巻き込んで斃れる事は、戦乱の時代の常であり、同時に権力者が常に最善を尽くさねばならない時代である。
セルアノから見て、バルシュミーデ子爵が最善を尽くしているようには見えなかった。
常識と矜持に捕らわれ過ぎて、利益と権益を追求できない。
それは近年の皇国貴族の多くに見られる傾向であった。
――常識と矜持では領民の空腹を満たすことも経済を躍進させることもできないと分らないの? 貴族の誇りなど国家の存続には何ら役に立たないのに。
頭部の右側に付いた純白の花飾りに右手を這わせ、セルアノは峻烈に微笑む。
「そろそろ来る頃だと思っていたわ。チカ」
開け放たれた扉に背を預けて腕を組む、自らに負けない程に長身の女性に向き直ったセルアノは、時代が動き出したのだと悟る。
セルベチカ・エイゼンタール少佐。
ヴェルテンベルク領邦軍情報部に所属する少佐であると共に、マリアベルの意向を受けて行動する諜報員でもあった。優秀である事もあるが、敵ではなく中立、或いは味方に在っても容赦しない姿勢を保ち続けることのできる鋼鉄の女。
「貴女が来たということは、当初の予定は変更ということよね? 全く……それだけの勝算があると?」セルアノは、エイゼンタールに問う。
バルシュミーデ子爵領を経済という鎖で縛る為に、三年前よりバルシュミーデ子爵領の政務全般を取り仕切る立場に潜り込んだ。そして、徐々に物資や資材、 公共事業に関わる多くをヴェルテンベルクに依存するように仕向け続けていた。ヴェルテンベルク領の企業が民間の主な経済活動の相手となる様に徐々に政策を
変質させていったのだ。元よりヴェルテンベルク領は重商主義を奨励し、商業活動に対して熱心であった上に距離も近く、シュットガルト運河で繋がっている為 に経済活動の相手としては申し分ない。
既にバルシュミーデ子爵領の産業や農業は、ヴェルテンベルクが最大の取引相手となっている。
後一年の時間を掛ければ、経済的依存は致命的な規模となり、マリアベルはバルシュミーデ子爵に対して正面切った恫喝を正々堂々と加えたことは疑いない。 それだけで事足りた。口先で相手を服従させ得るならば、それに越したことはない。最終的にはヴェルテンベルク領の経済圏として徐々に取り込まれていく状況 となっただろう。
だが、マリアベルは今、動いた。
即ち、短期間で己の望みを叶えつつ、当初の予定以上の“戦果”を得られると判断するナニカがあったことになる。
そして、エイゼンタールの口から零れ出た言葉は、ある意味、想定していたものであった。
「サクラギ代将閣下です」何処か疲れたような声音で、エイゼンタールは告げる。
サクラギ・トウカ。
それは既に皇国内で極めて重要な意味を持つ名となり始めていた。
クラナッハ戦線突破からベルゲン強襲に至るまでの圧倒的な戦術的視野に加えて、最近の急激な軍拡や不穏分子の弾圧。そして何よりも得体の知れない新型兵 器の数々。諜報部隊という耳を持たないセルアノには、詳しい情報までは不明であるものの、トウカの齎した多くのモノの中にマリアベルの考えを変える程のナ ニカがあったのだとは推測できた。
「恋なんてことではないわね? 盲目の指導者なんて笑えないわ」
「……一世紀ほど若ければ、とのこと」
小さな呆れと大きな困惑と共に吐き捨てられた言葉に、セルアノは虚を突かれる。
あの廃嫡の龍姫が、謎の異邦人の伴侶たる立場を惜しんだという事実に純粋に驚いた。
イシュタルと共に、マリアベルも伴侶を得れば落ち着くだろうと思い込み、ヴェルテンベルク領内中から名のある名士の男性や勇猛さで知られる男を集めて紹 介したが、その悉くが失敗した経験を持つセルアノの反応は至極当然のものであった。エイゼンタールも、その努力を知っている為か決してセルアノの現在の表 情を笑うことはなかった点が唯一の救いと言えた。
気を取り直して、セルアノは扇子を開く。
「頃合いを見てバルシュミーデ子爵を説得に行こうと思うの。付いてきなさい」
「了解した、政務官殿」
兎も角は、これ以上の流血は避けねばならない、とセルアノはエイゼンタールの横を通り過ぎて廊下に出る。
マリアベルが一連の戦闘の引き際を自身に求めているであろうことも、セルアノは海戦が始まった当初から思い至っていた。バルシュミーデ子爵を無理に拘束しても、バルシュミーデ領邦軍将兵の敵愾心を煽る結果となり抵抗活動が続く可能性がある。
故にバルシュミーデ子爵に協力的にさせる事で、その芽を摘む必要がある。
「これがマリアベル様からの親書です」
エイゼンタールから差し出された親書を受け取り、セルアノは大きく開いた胸元へと入れる。
どの道、艦隊戦での勝利以降でなければ敗北を認めることは有り得ず、海軍艦隊が勝利した場合、艦砲によって装甲擲弾兵聯隊をエルシアより叩き出すことに 活路を見い出すことは想像に難くない。無論、現実問題として自領の領都に艦砲射撃を加えることを許容できるかまではセルアノにも判断が付かないが、追い詰 められればやりかねない。
「まぁ、暫くは様子見よ。御茶でもどうかしら?」
「飲める味であるならば」
即答したエイゼンタールに、セルアノは淡く微笑む。
遠方に轟く艦砲という名の雷鳴。
鋼鉄の戦船達は未だ、戦火の最中にあった。
『敵艦、反転! 後退します!!』
見張り員からの報告に、トウカは思案する。
既に砲火は止んでいるのか、至近に砲弾が落下して水柱を生じさせることも無ければ遠方に発砲炎が煌めく事もない。〈剣聖ヴァルトハイム〉も二番艦の〈猟 兵リリエンタール〉も、敵艦隊が同航戦を諦めて遁走の構えを取ったことを見て取り砲撃を中止している。敵艦が進路を変えた以上、砲の再照準も行わねばなら ず、〈剣聖ヴァルトハイム〉の艦上は一時的に凪いだ。
当初は近接砲戦になりかけたものの、重巡洋艦が割って入る気配を見せた為、再び距離が開き始めていたが、ここに至って敵は後退を始めた。
――戦艦を喪うことを恐れたか?
蒼海の王者たる戦艦とは国家戦略の要であり、内戦で易々と喪える存在ではない。
しかし、それはトウカの世界の嘗ての国家の事であり、この世界では些か事情が異なる。中位種の中でも力ある種族ならば駆逐艦の砲身を担ぐこととて不可能 ではなく、建造時には魔術による身体強化を始めとした様々な工夫が見られる。大日連が有事下に在って、戦艦建造に三年~四年の歳月を掛けていたことに比べ
て、皇国は一年~二年程度しか掛かっていない。無論、性能差や技術の違いもあるが、海洋戦略の要を短期間で量産できるという点は大きい。
――いや、陸海軍が冷遇されている状況で新造戦艦建造の予算が降りるとも思えない。
短期間で建造できるだけの国力を有していても、予算が降りないのであれば建造は叶わない。特に皇国は政治的によく統制されており、軍も己の領分を弁えている。不満はあれども議会の予算編成に武を以て糾そうとするとも思えず、そもそも貴族院に限っては構成しているのが貴族であり各領邦軍が背後にいる。
「迫撃する! 全艦に通達! 横列陣に変更!」
「航海長、最大艦速! 敵艦を追尾せよ! 信号手に連絡、二番艦に横陣を以て追撃と通達!」命令を復唱したリンデマン。
リシアは思案の表情を浮かべているが、水雷戦隊が目標となりかねないという懸念もあるので、トウカは追撃という選択肢を取った。敵戦艦戦隊が後退した場合、水雷戦隊が雷撃射点に付くまでの時間が増え、被害も増大する。
トウカの判断は正しいが、この世界の海戦はトウカの知るものよりも遙かに複雑でもあった。
『敵戦艦、其々別の進路を取る! 回頭中! 〈デアフリンゲル〉型戦艦一隻は抗戦の構え!』
見張り員からの新たなる報告に、トウカは敵戦艦が完全に遁走する姿勢に入ったのだと判断する。同じ進路では全艦が追撃を受けるとの判断で、恐らくは機関 に損傷を受けて速度の低下している〈デアフリンゲル〉型戦艦を犠牲に、他の艦を逃がそうとの心算なのだろうとトウカは考えた。重巡洋艦もそれを支援する気
配すら見せないということは、〈デアフリンゲル〉型戦艦一隻は完全に被害担当艦となる道を選んだと取れる。
――挺身を以て同胞の後退を支援するか……
海軍軍人の本懐、此処に在り。
まさにそんな言葉を体現して〈剣聖ヴァルトハイム〉の進路に立ち塞がった〈デアフリンゲル〉型戦艦。その姿に感銘を受けたのか、リンデマンがトウカに向き直り進言する。
「誠に天晴。艦隊司令、介錯してやりましょう」
「……時間を掛けるな」
トウカは一瞬の間を置いて、その進言を受け入れる。あれ程までに最善の艦隊指揮を執り続けていた敵艦隊にしては、どうも諦めが早すぎると考えていたのだが、状況は裏がある様には見えない。
「閣下、介錯は〈猟兵リリエンタール〉に任せるべきです。これは恐らく敵の罠かと。ただの遅滞防禦行動とは思えません」
「莫迦な。敵が本懐を果たそうとしているのだ。それを受けざるは海の男足り得ん」
リシアとリンデマンの言葉に、トウカは再び思案する。
距離を詰めつつあるので考察する時間はあるが、考えれば考える程に理解が及ばなくなる。
徹底抗戦の構えを見せるのならば、運河岸に乗り上げて陸上砲台となれば少なくとも撃沈されることはなく、勝利後に工作艦による修復を行えば時間は掛かる ものの軍港まで辿り着くことは難しくない。トウカであれば全艦をエルシア側の運河岸に乗り上げさせて、徹底抗戦の構えを見せただろう。そうすれば沈没の危
険もなくなり魚雷攻撃も受けない。その場合は主砲塔を全損させるか、弾火薬庫に引火するまで砲弾を撃ち込むしかないが、水上に浮かんでいる〈剣聖ヴァルト ハイム〉型戦艦が反撃を受けて撃沈される可能性が高くなり、主砲塔や弾火薬庫に直撃を受けない限りは個別に応戦し続けることのできる陸上砲台となった戦艦
が相手となる場合、艦体の何処に直撃を受けても被害を蓄積し、撃沈の危機に晒され続ける事になる水上の艦は不利となる。
「海軍がここで撤退した場合、その貴族が向ける信頼が失墜することとなります。敵艦隊はここで全滅するか、勝利するか以外の選択肢を持ち得ません。あれほどの武勇を見せた敵は、それを理解していないはずがありません」
「しかし、艦隊参謀。罠と言うには些か状況が……」
リシアとリンデマンの遣り取りの内容を聞いた上では、何かしらの策を敵艦隊が用いる可能性を捨て切れなかった。特に海軍が貴族の信頼を損なうということは、権威主義的な風潮のある皇国では言葉以上の意味を持つ。
「艦隊進路を――」
『敵艦発砲ッ!』
命令を下そうとしたトウカに、見張り員からの報告が届く。
「取り舵一杯! 両舷全速後進! 総員、衝撃に備えよ! 主砲、応戦!」リンデマンが即座に後進の命令を出す。
巨艦である戦艦は速度の変化や停止、変針し始めるのに時間が掛かるが、リンデマンは後進を即座に命じる事によって停止を命じても惰性で進む艦の速度を最 短時間で減速させる道を取った。その上、取り舵による変針も重ねて命じる事によって、敵砲弾の着弾位置から逃れようとしていた。
応射する主砲。
艦首側に背負い式に配置された三連装五五口径四一㎝砲二基から発砲炎が迸り、艦橋を小さく鳴動させる。
艦体が左前のめりになり、射線から逃れようとする〈剣聖ヴァルトハイム〉だが、そこに飛翔音が迫る。運動性能に劣る戦艦という兵器が、回避運動に成功す る確率は高くない。大日連海軍の様に、文字通り休日のない訓練に励んでいればそれも叶うかも知れないが、〈剣聖ヴァルトハイム〉は試験航海そのままに戦海 に動員された。即応性は高くない。
トウカの視界を閃光が満たす。
――徹甲弾ではない! 星弾か!
今更、照明弾を打ち上げる意図を見い出せず、トウカは遠方で後甲板から火災を生じさせながらも残存の主砲を用いて健気な反撃を見せた〈デアフリンゲル〉 型戦艦を見据える。一斉射だけであり、それが照明弾となると後に続く攻撃手段があるはずであるが、徹甲弾が飛んでくる気配もない。
「苦し紛れか……」
リンデマンの言葉にトウカは、それはないと考えた。
二つの貴族領を陥落させる為、砲弾を消費して戦海に臨んだ〈剣聖ヴァルトハイム〉や〈猟兵リリエンタール〉とは違い、敵艦隊は主砲弾を満載して戦闘に臨んだはずであり、徹甲弾が不足しているとは思えず、徹甲弾がなくとも榴弾が搭載されているはずである。
「そんなはずは――」
単なる時間稼ぎなど有り得ないとリシアが双眼鏡を手にした瞬間、悲鳴に満ちた報告が艦橋に飛び込む。
『て、敵襲ッ! 直上に多数! 斬り込みだッ!』
小銃を寄越せ!
艦内に入れるな!
火焔弾を使え!
通信機に怒鳴っている見張り員の背後からは、魔術や手榴弾による炸裂音や剣戟の金属音、そして小銃や拳銃による発砲音が断続的に続いている。トウカの知 る世界でも対電磁処理された小型艇で敵艦に強硬接舷するという手段が模索されたが、高速で戦闘機動を繰り返す艦艇にそれを敢行するのは難しい。元より戦闘
航海中の神楯艦の電子探針儀の電磁波は人体に酷く有害である。現実的ではないとされていた。
「手漉きの乗員に武装させなさい。艦内の要所に対人阻害の設置をさせるのよ、急いで!」
「戦闘航海に影響のない通路の防護隔壁は全て下ろすんだ! 時間を稼げ!」
リシアとリンデマンの迅速な指示に、トウカは唇を噛み締める。
あまりにも想定外の事態であり過ぎた。しかし、それはトウカを責められるものではなく、砲戦の最中にある戦艦に飛び乗るという非常識を成した敵を讃える べきものであった。無論、それに即応するかのように対策を口にしたリシアやリンデマンも、やはり非凡な才覚を持つ将校と言える。
恐らく照明弾の閃光に紛れて上空を通過。後に、前方砲戦の為に魔導障壁が展開されていなかった艦尾から甲板に降り立ったのだと推測できるが、既に〈剣聖 ヴァルトハイム〉だけでなく、左横を航行する〈猟兵リリエンタール〉の甲板にも小銃や機関銃の発砲炎や魔導の波動が煌めいている。
トウカは見上げる。
足元以外を半天球状に映し出す投影式戦闘指揮所からは、次々と飛来する麗しの戦乙女の姿が見える。翼を黒く染め上げ、闇夜に紛れても尚、彼女達は汚したい程に美しい。
――天使か……
艦上航空歩兵という存在は耳にしていたが、近代技術の結晶である艦隊戦に、その身一つで敵艦に飛び移り移乗戦闘を行うという廃れ往く兵科など認める訳にはいかない。
トウカは、自らの尻尾を握り締めて与えられた席で小さくなって座っているミユキの頭を撫でると艦橋の兵士達を睥睨する。
「艦長、左舷副砲群に通達! 弾種、焼霰弾! 目標は――」
リンデマンは目を剥くが、リシアが砲術長の肩を掴み、指示を促す。
並走する〈剣聖ヴァルトハイム〉と〈猟兵リリエンタール〉だが、これを好機と見た〈フライジング〉型戦艦ともう一隻の〈デアフリンゲル〉型戦艦も反転し、更には重巡洋艦も接近しつつあると報告する魔導探針儀士を片手で制し、トウカは言葉を続ける。
「――〈猟兵リリエンタール〉!」
そして、鋼鉄の艨艟は、天使に対して凱歌の号砲を轟かせた。
「レーヴェニヒ少佐、御無事ですか!」
「大事ない! それよりも副砲を潰せ!」
耳鳴りを、頭を叩く事で誤魔化したレーヴェニヒは、素早く立ち上がると双翼を一振りして汚れを払いながらも指示を出す。艦内への侵入を意図して甲板に幾 つか窺えた通風口や昇降口、防空指揮所を狙っての降下を試み、それに成功した〈第十四艦上航空歩兵中隊〉の面々だが、艦内への突入を成功したのは極一部で あり、手間取っている最中に副砲による発砲の衝撃波を受けた。
「被害覚悟か……いや、狙いは僚艦か!」
敵戦艦との砲戦によって些か砲数を減じているも、残存している副砲が第二射を放つ。
その目標は変わらず、左舷を航行する〈猟兵リリエンタール〉であった。
〈猟兵リリエンタール〉でも同じく、別の艦上航空歩兵中隊が降り立っていたが、この様子では助からないとレーヴェニヒは下唇を噛む。散弾による攻撃なの か、甲板全体に赤い火花が散り、肉片や甲板の木片が砕け舞う姿に視線を逸らす。海軍の大型艦艇から見れば、然したる火砲ではないかも知れないが、陸軍の基
準で考えれば戦艦の副砲の口径は重砲に匹敵する。ましてやそれの散弾となれば脅威以外の何ものでもない。
「艦内に突入する! 時間がない! 強行突破だ! 我に続け!」
曲剣を抜き放ち、レーヴェニヒは部下を押し退けて、通風口へと迫る。
小銃や魔導杖を構えた水兵からの応射が放たれるが、周囲の構造物を楯にしている艦上航空歩兵達も間髪入れずに反撃を開始する。
レーヴェニヒは、迫った水兵の一人に曲剣を突き出すが、虎種の水兵は小銃を棍棒の如く振り払い、曲剣の刀身を叩き落とす。
――強い! 流石、ヴェルテンベルクの民!
ヴェルテンベルク領は皇国内でも有数の徴兵制度を備えた貴族領であると同時に、長きに渡たるマリアベルの強権的教育姿勢の結果、育まれた武断的な気質は、領民に堅固な結束と質実剛健の性格を与えた。
領地、それ即ち戦闘国家也。
マリアベルが何百年も前から標榜していた言葉は領民の中に、確かに息づいていた。戦闘航海もそのままに実戦投入して、これほどに戦えるのならばそれは最早それは妄言ではない。
水兵の顔面に蹴りを加えて、蹴り倒すと通気口に設置された阻害を殴り払う。拳から血が滲むが、それを無視して、レーヴェニヒは右翼で迫る次の水兵の足を払う。
次々と艦上航空歩兵が通気口から艦内へと突入する。
その時、背後から爆発音が響き、レーヴェニヒは爆風に背中を強く押される。
倒れ掛けた身体を側壁に寄せて、後続の戦友を見て言葉を失う。
巨大な戦艦であるだけあり通気口はそれ相応の規模であり、防護がなされているが、その構造物は屋根や装甲板を削り取られ、外気が激しく流入していた。
白み始めた空からの光が、その惨状を照らす。
通風口の付近で折り重なるように斃れ伏す戦友達。
――僚艦からの副砲による砲撃か! こうなる可能性もあるとは思っていたが、こうまで早い対応を取られるとは……ッ!!
レーヴェニヒは、艦上航空歩兵中隊主力を纏まって着艦させる事が可能な前甲板と後甲板に分かれて降下させたが、そこに対して〈猟兵リリエンタール〉は副砲の焼霰弾による砲撃を行った。
〈剣聖ヴァルトハイム〉が〈猟兵リリエンタール〉の前甲板と後甲板に行った様に。
これこそがトウカの意図した展開であり、二隻とも敵艦がいる前方のみに魔導障壁を展開していた目を付け、艦上航空歩兵が展開した前甲板と後甲板を副砲の焼霰弾で舷側から砲撃する事により、これらを一掃したのだ。
しかし、発光信号でこれらを伝えられないほどに艦上は混乱し、至近で強力な魔導障壁が展開されている影響もあって通信回路接続にも時間が掛かる。
故に〈剣聖ヴァルトハイム〉が〈猟兵リリエンタール〉を副砲で撃ち、その真意を気付かせた。
〈猟兵リリエンタール〉もそれを理解し、副砲による応射で〈剣聖ヴァルトハイム〉の甲板を薙ぎ払った。共に至近距離であり照準には手間も掛からず、〈剣聖ヴァルトハイム〉の前甲板と後甲板に展開していた艦上航空歩兵の大半を引き裂いて運河へと吹き飛ばした。
代償に二隻は上部構造物を大きく損傷している。特に機銃群付近が甚大な被害を受けていた。
通気口付近が血に染まり、流れ落ちる血を踏み締めて、レーヴェニヒは曲剣を再び構え直す。
足元の千切れ落ちた腕や、血染めの翼に目もくれず歩を進める。後続の無事な艦上航空歩兵も次々と武器を持ち直し、艦内通路を駆けた。
通常の海戦術とは大きく違った対応を取り続ける〈ヴェルテンベルク領邦軍艦隊〉だが、海軍〈第八艦隊〉、〈シュタイエルハウゼン分艦隊〉司令官である シュタイエルハウゼン提督もまた皇国屈指の名将である。〈ヴェルテンベルク領邦軍艦隊〉司令官のサクラギ・トウカ代将に引けを取らない勇戦をして見せた。
シュタイエルハウゼンは、艦上航空歩兵を見捨てるだろう。
〈剣聖ヴァルトハイム〉と〈猟兵リリエンタール〉の甲板に煌めいた炸裂炎を見て取り、作戦が失敗したと判断し、後退させていた〈ガルトジング〉と〈エル トリンゲル〉を反転させ、再び砲戦を演じるだろう。機関浸水で速度低下していた為、囮の役目を担っていた〈ロルトリンゲル〉も未だ砲戦能力を有しているの で戦列に再び加わることは間違いない。
――相手が新鋭戦艦でも艦内が混乱したままでは十全な砲戦はできない。それを見越した作戦か……
艦上航空歩兵を捨て駒にしているとも取れる作戦だが、上手くいけば新鋭戦艦を拿捕する事も可能である。尤も副砲の焼霰弾による砲撃で、艦上航空歩兵中隊 はその戦力の大半を喪失したので、艦内に先じて突入していた僅かな兵数のみで戦艦の乗員全てを相手取ることは難しく選択肢は自然と限られた。
「艦橋を制圧する! 続け!」
僅かな可能性。
それを願って、艦上航空歩歩兵最後の戦場へとレーヴェニヒは前進を開始した。
「呆気ないもんだと思ったが、ここで抵抗するか。面倒なこった」
紙巻煙草の吸殻を指揮戦闘車の側面装甲に押し付けて、ザムエルは臨時の作戦司令部と化した指揮戦闘車を利用して張られた家形天幕の下で不快げに眉を顰める。
エルシア突入を果たしたザムエル隷下の〈第二装甲擲弾兵聯隊〉の別働隊だが、当初、抵抗らしきものは見られなかった。
死角が多くなる市街戦では、どれ程に卓越した装備と練度を有した部隊であっても消耗と被害を強いられる。緊張状態が続く上に、死角からの狙撃や多種多様 な罠、場合によっては民兵の抵抗すら有り得る為に将兵の士気統制の維持が難しい。苑上、占領するには時間が掛かるので、市街戦は基本的に避けることが皇国
陸軍戦術総覧にも記されている。トウカが立案したベルゲン強襲は特殊な例で、空からの奇襲と空挺により総司令部を壊乱させるという一種の限定攻勢であり、 実際ベルゲンやその近郊に展開していた征伐軍側戦力が組織的な抵抗ができないままに、〈ヴァレンシュタイン戦闘団〉の離脱を許した。占領が目的でない以上
それは正しいが、エルシア占領が目的である為に限定的な戦果ではなく、バルシュミーデ子爵の降伏が絶対条件となる。
「ここまで抵抗されるとバルシュミーデ子爵の降伏を周囲が許さないかも知れないな。困ったもんだ」
絶え間ない銃声と炸裂音の方角を見上げて、ザムエルは嘆息する。
領民の避難を完了させていた為に、戦場は当初からバルシュミーデ子爵が住まう屋敷付近に集中したが、この辺り一帯が攻め難い地形である上、屋敷はその周 辺の構造物の構造も明らかに戦闘を意識した造りとなっている。集団詠唱に依る重砲撃型魔術でも大きな損傷が見られないことから別働隊内では呆れた声音すら 漂っていた。
「別働の一個中隊と合流されたのは痛いな」
「バルシュミーデ子爵領は大星洋にも面して御座ろう。恐らくは、そちらの海運都市……ベルヴァルトだったか?を守護しておった部隊に違いなかろうな。全く、エーダーラント地方の兵は精強で叶わん」
嘗て自らが率いたこともある兵の末裔への評価に、ベルセリカは最大の称賛を以て応じた。
エーダーラント地方の兵士は、寒冷地帯に強い種族を中心とした部隊編成を取っているが、その内訳は近接戦闘に特化した兵士と長距離戦闘に特化した兵士に 分かれている。前者は密林などの不整地で精強ぶりを発揮し、後者はベルセリカが率いていた当時では、他兵器の追随を許さないほどの長大な射程を有した砲撃 型魔術を用い、その上、それらを騎兵化することで戦場では縦横無尽の活躍をして見せた。
「まぁ、それも今は昔。特にウチの軍隊は重狙撃銃(対戦車銃)や対戦車自動砲も歩兵部隊に配備されている。シュトラハヴィッツ大佐もエルシア近郊の部隊の残敵掃討を終えれば駆け付けるだろう。負けはない」
ザムエルが視線を向けた先では、陣地転換を開始するために巨大な対戦車自動砲を担いだ虎族系混血種の兵士が士官の言葉に従って、移動を開始している。
膂力に優れた者が運用する事を前提とした対戦車自動砲は、 二〇㎜航空機関砲の砲弾を運用する七〇口径長という長大な銃身であり、歩兵中隊に配備されている中隊砲は、下部に雪中でも移動が容易に出来るように橇が付
けられているが、今回は膂力に優れた種族の射手によって担がれていた。ベルゲンでも試作型中隊支援砲として運用された実績を持つ。
元は進撃時に機関銃座や特火点の撃破を目的とした絶大な火力を持つ歩兵支援火器という開発理念の下に設計開発されたそれは絶大な威力を発揮し、バルシュミーデ子爵家の屋敷の周囲に張り巡らされていた堅固な阻害を大きく削っていた。
歩兵中隊に中隊砲として配備されているので数は少ないものの、対空戦闘の対地攻撃騎対策として、四挺を専用銃架に据えつけ、全自動射撃化し、対空照準器を付けたものも合わせれば侮れない数が揃っていた。
「まぁ、トウカが敵艦隊を撃破すれば艦砲支援も加わる」
ザムエルは細巻に口に咥えて、小さく笑みを浮かべる。
装甲擲弾兵聯隊将兵の総てが、〈ヴェルテンベルク領邦軍艦隊〉の勝利を信じて疑っていなかった。
例え、この艦隊戦がトウカの意図していないものであったとしても、〈第二装甲擲弾兵聯隊〉将兵は疑う理由も持たない。何故ならば、トウカは既に想定外の 出来事の連続であったクラナッハ戦線突破やベルゲン強襲に於いて非凡にして迅速なる危機対処能力を見せつけており、それに対して〈第二装甲擲弾兵聯隊〉将
兵は絶大な信頼を寄せていた。無論、そこには〈第二装甲擲弾兵聯隊〉が、解散した〈ヴァレンシュタイン戦闘団〉の将兵を基幹戦力として編制されているとい う事実も関係している。
トウカは決して勇敢ではない。武勇を誇ることも無ければ、勇猛な佇まいでもなかった。
ただ、演算機の如く緻密で最善の指揮を執り続けるトウカと将兵の間には、憧憬や期待ではなく、ただ奇跡の生還と圧倒的な戦果という結果の上に成り立つ“信頼”があった。
「だが、この国の者ではないであろうトウカに命運の多くを委ねては、郷土を守護する領邦軍軍人の名折れだな。……だから頼む」
軍用大長外套を翻し、ザムエルは今一度、ベルセリカに向き直る。
ザムエルは、この場に合って指揮官として被害を抑える義務がある。
そして、トウカはベルセリカに助力を求めることを認めていた。
火も付けることのないままに銜えていた細巻を握り潰し、石畳の地面へと叩き捨てる。
そして、後を追う様に片膝を石畳に突く。
周囲の〈第二装甲擲弾兵聯隊〉の将校達が一様に驚くが、やはりザムエルはその体勢を解くことはない。
当人は既に傷が癒えた口にしていたが、ザムエルはベルセリカの心情を察して有り余る立場にあった。軍人であるザムエルは、ヴェルテンベルク領邦軍の成立理由もあって匪賊相手の戦闘などを多く経験し続けている。
いつ死ぬかもわからない職業に就く自身が、女性を愛することは赦されるのか。
ザムエルはそう考えていた。何故ならば、自身が死んでしまえば、その女性を一人遺すことになり辛い想いを抱かせることになる。無論、自身の事などすぐに 忘れて新たな男を探し始めるならば、それは悲しい事だが、同時に安心できる事でもあった。しかし、一途な女性であったならば、とも思わずにはいられない。
女性は決して表面上だけで語れる存在ではないが、その内面は複雑であり、また繊細であった。
ザムエルは恐れていた。
女に本気になることも、そして本気にさせることも。
「皇国史上、最も峻烈な恋と戦争をした貴女に、もう一度、北部の騎士たる我らと共に戦っていただきたい――」
今一度、頭を下げる。
きっとベルセリカは頷く。
だが、ザムエルは、自らがベルセリカに恋と戦争という取捨選択をさせた責任の一端を担う北部の民の末裔であると自認している。故に共に戦うに当たっても礼儀を尽くさねばならない。
「――剣聖、ベルセリカ・ヴァルトハイム卿」
そして、時は再び動き始めた。