第九八話 政治屋と戦争屋
イシュタルは〈ヴェルテンベルク領邦軍艦隊〉、〈特設輸送艦隊〉旗艦、重巡洋艦〈エルゼス=ラートリンゲン〉の戦闘指揮所(CIC)で、仁王立ちしたままに艦橋要員の間で飛び交う言葉を捉えて短く嘆息する。
「〈剣聖ヴァルトハイム〉が大破、〈猟兵リリエンタール〉も中破……か。新鋭戦艦とは言え、練度不足で囮に使った結果としては妥当だな。マリィも知っていたとは言え、あの惨状を見ては、ね」
大激怒は間違いないと、イシュタルは眉を顰める。
友軍沈没艦は重巡洋艦一隻と駆逐艦五隻に留まったものの大破や中破した艦も多い。重巡洋艦と駆逐艦が一隻ずつ沈没を避ける為に座礁の道を選んだことを踏 まえると、〈ヴェルテンベルク領邦軍艦隊〉主力は事実上の壊滅状態にあると言っていい。元より少ない高練度の水上部隊艦艇の数は致命的なまでに落ち込んで いると言えた。
本来、陸戦畑一筋であるイシュタルが〈特設輸送艦隊〉とは言え、司令官として座乗しなければならない現状からもそれは察することが出来た。
マリアベルやヘルミーネとの酒宴の後、シュットガルト湖の各地の港に分散停泊していた巡洋艦や駆逐艦、そして兵員を満載した揚陸艦からなる大艦隊は集結して艦隊陣形を組み上げようとした。
しかし、そこで衝突事故が相次いだ。
これはマリアベルの誤算であり、艦艇とは技術の結晶で艦隊として航行させるのは小銃を抱えた兵士に大通りを行進させるようにはいかない。距離を常に一定 に保ち各艦型の速度差を合わせ、咄嗟戦闘に備えて速やかな陣形変更が求められる。それを可能とする為の各艦の通信機能と方法、発光信号や信号旗の訓練…… 艦隊運動は一朝一夕で身に付くものではなかった。
そして、特設輸送艦隊は哨戒艦隊や警備艦隊の艦艇に再武装を施して再就役させた重、軽巡洋艦や駆逐艦であり、護衛対象も各港に分散配置していた多数の揚陸艦隊に過ぎない。
戦隊規模での運用しか成されたことのない艦艇達。
つまりは単一の艦隊司令部の下で運用されたことがないのだ。
その上、新設された艦隊司令部も、突然に艦隊が編成されて戸惑いながらも演習計画を徹夜で策定している最中、実戦出動の命が下ったという経緯があった。
だが、最も影響したのはトウカが率いた艦隊に高い練度を持つ艦艇を集中させてあったことであった。トウカは限定空間である運河での海戦で僚艦との衝突事故などを避ける為に正面戦力として位置付けられていた艦艇を隷下の艦隊に集中させたのだ。
マリアベルが正面戦力ばかりに気を取られていたこともあるが、大規模な通商護衛の経験がない領邦軍の戦闘艦にそうした経験が不足していたことも大きい。
この報を聞いたマリアベルは後悔しつつも激怒するという奇妙な状態のままに、イシュタルに臨時で特設輸送艦隊司令官となるように命じた。止む無くイシュタルは輸送騎で艦隊に飛び移ることとなる。
自身も艦隊運用の経験はなかったが、各艦の距離を広く取り艦隊速度を固定することで辛うじて対処することに成功する。代償に敵戦力と遭遇した場合、効果的な対応が取れなくなったが、幸いなことにトウカは戦況を優位に推移させているという報告を受けていた。
「本艦もエルシアの軍港への入港準備に入ります」
「ああ、艦長。サクラギ代将の動向は分かるか?」
入港準備を告げてきた艦長に、イシュタルは尋ねる。
〈剣聖ヴァルトハイム〉と〈猟兵リリエンタール〉は被害が甚大であるものの、その主砲に依る砲戦能力は大きく減じておらず、エルシアで武装解除中のバルシュミーデ領邦軍に睨みを利かせている。しかし、トウカが〈剣聖ヴァルトハイム〉に座乗したままであるとは限らない。
「バルシュミーデ子爵を相手に有利な戦後交渉を進めるべく、エルシアに赴いているとのことです……情報が錯綜していますが彼の剣聖が同行しているという噂も」
逡巡した面持ちで報告する艦長に、イシュタルは嘆息する。
マリアベルは長期的視野に基づいてバルシュミーデ子爵領を含めたシュットガルト運河沿いの複数の貴族領……エーゼル子爵領とバイルシュミット伯爵領に対して経済的に隷属を強いるような対策を講じていた。
しかし、貴族も無能ではない。
否、優秀といってよく、マリアベルの意図を察して多くの貴族は経済活動に警戒を払ったが、最も規模が大きく領主が死去した直後のバルシュミーデ子爵領だ けは対応ができず、その上、跡目を就いたのは経験の浅い小娘に過ぎないという状況であった。よって素性を隠した腹心の首席政務官を蠢動させるという手段で 梃入れを図り確実を期したのだ。
だが、マリアベルが意図していた時期よりも遙かに早く内戦勃発となり、盟約による軍事的、経済的、政治的隷属を強いるまでには至らなかった。征伐軍と蹶 起軍が互いに決定打を得られず戦力的余裕が生じなかったこともあり、シュットガルト運河のヴェルテンベルク領による安全保障という目的を武力で果たすこと すら不可能となった。
しかし、トウカがベルゲン強襲を成功させたことで征伐軍は最高司令部が半壊して指揮系統が混乱を極めている。戦力も各地で打ち破られ、後退しつつも再編成を続けている事態となり状況は変わった。
一時的にヴェルテンベルク領邦軍にも戦力的余裕が生じたのだ。
結果としてトウカの提案は、マリアベルにとっても渡りに船であった。否、トウカはマリアベルの経済攻勢の思惑を悟った上で提案したかも知れない。
――本質は戦略家ではなく軍政家。マリィと舌戦を繰り広げているんだから考えてみれば当然ね。
「武力の誇示と適度にして適正な実力行使。戦争を抑止……いえ、戦火拡大を阻止する為には必要なこと。軍人は武を以て平穏を勝ち取るのが使命だ、艦長」
イシュタルは眉を顰める艦長を諭しつつも、内心ではトウカの風貌からは想像も付かない攻撃精神に溢れた姿勢に畏怖を抱いていた。
海軍側で逃げ延びた艦艇は駆逐艦三隻のみ。
それも、特装戦隊と水雷戦隊で迫撃すれば撃沈できたであろうことは疑いなく、トウカの『我が艦隊が狂おしい程に強かったと恐怖に震えながら喧伝してくれる者がいなければ詰まらないだろう?』という思惑がなければ殲滅戦となっていた可能性すらある。
勝ち過ぎた。
必要以上に恨みを買ってしまったトウカの戦勝は、内戦停戦時に軋轢となって現れかねないものであった。クラナッハ戦線突破に伴う各戦線での大攻勢やベル ゲン強襲での戦果は征伐軍の攻勢を挫く為にも必要なものであったが、今回の戦果は少なくとも北部防衛という目的から生じた戦闘ではなく、マリアベルの シュットガルト運河を完全に勢力圏に収めるという思惑から出たものである。
「セルアノが怒り狂いそうね……」
戦後交渉を終えた後、再びヴェルテンベルク領で首席政務官として辣腕を振るうことが決まっているセルアノ。この一連の戦闘によって生じた被害と蹶起軍内 で調整もせずに中立を謳っていた貴族領を次々と襲撃したヴェルテンベルク領に対しての批判に頭を痛めることは間違いない。
「……如何されました?」
「何でもない。駐屯を予定している部隊の揚陸も終了したので、私もサクラギ代将の下へ向かう。短艇の用意を」
トウカに戦後処理を一任するのは、その場にセルアノがいるとしても危険である。
マリアベルはトウカに後のシュットガルト運河沿い防衛の為に予備役や徴兵した将兵を新編成し、速成訓練した駐屯戦力を後続させることを伝えていない。無 論、セルアノの存在も同様である。一歩間違えば、セルアノは艦砲で肉片となっていた可能性もある。否、今現在、行われている交渉でもセルアノが必要以上に トウカの機嫌を損ねれば殺されかねなかった。
短期での隷属を意図したトウカは、大戦力による駐屯によって来るべき征伐軍との決戦で戦力を遊兵化させることを忌避した。トウカにとってシュットガルト運河の通商航路の安定化はあくまでも経済対策の一環に過ぎないのだ。
しかし、マリアベルからすると経済圏拡大と実質的な領地拡大を兼ね備え得る今回の侵攻は限定攻勢に留めるには余りにも惜しいものであった。結果として、 トウカの思惑に乗ると見せかけ、マリアベルは予備役と兵役者を中心に編成の完了した各大隊を特設輸送艦隊で輸送しての占領を目論んだ。
二人は似ているようで違う。
マリアベルが利益と経済を最優先することに対して、トウカは敵性戦力の漸減を最優先とした。平時に於いては前者こそが領地を富ませるが、有事に在っては 後者こそが領地の安寧を勝ち得る。長命種の長所である長期的視野で領地運営を見つめるマリアベルとは正反対に、トウカは必要な事柄を最低限に抑えつつも、
最優先課題に対して常に優位性を確保しようと動き続ける。
似通った二人だが、種族としての、民族としての在り様の違いが、その差を生み出したのかも知れない。
「拙い。早く短艇を準備させて……」
方針の衝突。
頭を抱えてイシュタルは唸った。
「是が否かッ!! 早々に、決められよ!!」
上品な造りを気にすることもなく、机上に掌を叩き付けたベルセリカの怒声に、トウカは小さな失笑を漏らす。
バルシュミーデ子爵であるエルラウラに降伏文章を突き付けているのだが、トウカは自らが前に出ても侮られかねないと判断してベルセリカに一任していた。
トウカは、皇国の同年齢の男性と比して身長が低く体格も小柄であった。軍刀を振り翳せば交渉でも恐怖心という名の威圧感を持ち出すことは不可能ではないが、貴族相手にそれを実行すると自らの風聞に傷が付く為に交渉をベルセリカに任せたのだ。
涙で頬を濡らしたエルラウラに、トウカは同情しない。
例え、麗しの貴族令嬢の佇まいそのままに悲観と恐怖に表情を曇らせた姿であっても、何らトウカの心に感情を呼び起こすことはない。
ベルセリカという英傑が返り血と戦塵をそのままに戦野から赴いて交渉の場に立っている状況では、トウカも流石にその様な立場には立ちたいとは思わないが。戦が終わり、気が立った武人が裂帛の戦意を隠すこともなく降伏文章への調印を迫る。端的に見ても恐怖である。
ベルセリカとしても泣かれるとは考えていなかったのか、机下の尻尾が動揺に動いている。
「早く調印をしてはどう? 泣いた程度では政治は動かないわ、小娘」
不意に桜色の長い髪を靡かせた、怖気が身体を掛け巡るほどに美しい長身の女性が妖艶な仕草のままにエルラウラの右手に万年筆を握らせる。
本来、バルシュミーデ子爵領の首席政務官が立っているであろうエルラウラの背後に立つその女性が裏切り者であったことが、エルラウラが涙する要因の一つなのかも知れない。
しかし、領主とは領地に対して多くの義務を有する立場にある。故に年齢や種族、能力、学力、体力、政治能力、戦闘能力に関わらず、その立場を得たからには最善を尽くさねばならない。それは例え、望まずともその立場に押し遣られとしても同様であった。
トウカから見て、エルラウラはその義務を果たしていなかった。
強大な勢力の狭間に在る小勢が中立を保つことは並大抵のことではない。シュットガルト運河に面した幾つかの貴族領が中立を堅持できていたのは、その努力の依らしむるところではなく、単に征伐軍と蹶起軍がこれ以上、戦線が伸びることを忌避したからに過ぎない。
結果として、エルラウラは降伏調印の場に立つ事となり、エーゼル子爵は拘束。バイルシュミット伯爵も当初は降伏を拒んだが家族をヴェルテンベルク領に人 質として移送する段階になって降伏を認めた。マリアベルの手によって処刑されることを恐れただろうことは疑いない。彼女はそれを笑顔で命令することを厭う 女性ではないのだ。
「ええい、面倒ぞ! 御館様、何とする! 斬って良いで御座ろうッ!?」
飴と鞭でも意図しているのか、ベルセリカはトウカに視線を向ける。
ベルセリカは明朗闊達な人物を好んでいる。マリアベルもイシュタルも行動は兎も角としてある種の明朗闊達な人物であることは間違いない。トウカも早期に 対応を講じる性格が幸いして、少なくとも表面上はそう見える。対するエルラウラは交渉上で感情を表に出しており一見しただけでは優柔不断に見えた。理より も情でヒトを統率してきた者なのだろう。
「まぁ、待ってください」トウカは思わず苦笑する。
飴と鞭だ。
少なくともベルセリカが、それを意図していることは疑いない。尤も飴はトウカだけでなくセルアノもいるので逃げ道は複数用意されているとも取れる。少な くともトウカがエルラウラの立場であれば、二人の立場から生じる間隙を突く形で交渉を進めようと躍起になったことは疑いない。
「兵権以外の貴族としての権限の一切を認める。それだけでは不満だと?」
えぐえぐと泣いているエルラウラは最早、思考を停止させている。理詰めで頷かせられない状況にトウカは苛立った。いっそのこと斬ってしまって、バルシュ ミーデ子爵領をエーゼル子爵領とバイルシュミット伯爵領共々に再編成してしまいベルセリカの所領にしてしまうべきかとすら思案する。内戦中であり皇権も天
帝不在で停止している以上、英雄が無理を通せば道理と法律程度は容易く曲げられる。蹶起軍勢力圏に限られる話であるが。
「まぁ、待ちなさい、戦争屋。……どの道、経済の活性化は必須よ。貧困は叛意を生むの。だからヴェルテンベルク領が計画しているシュットガルト運河沿いに敷設する鉄道計画を変更して路線をエルシアにも引き込むわ」
「それは……いえ、宜しいかと」トウカは短く嘆息する。
元より政治的な権限などないトウカは、エルラウラに降伏を迫ることはできても経済や政治での妥協ができない。しかし、セルアノの場合はバルシュミーデ子 爵領陥落と同時にヴェルテンベルク領首席政務官に再就任したらしく、エイゼンタールよりマリアベルからの令状を受け取っていた。
マリアベルは領邦軍指揮権を奪い、経済的併合を望んでいる。
そして、その先兵としてセルアノをこの場に立たせていた。
手強い。
飴としての役割をトウカが果たす前に、セルアノは鉄道計画という魅力的な飴を用意し、トウカが目的としていたバルシュミーデ子爵領から兵権だけを譲渡させて反抗する可能性を減少させるに留めるという予定は頓挫したに等しい。
――駄目だ。戦線を広げ過ぎだ。決戦での正面戦力を減らす気か……
トウカは次の征伐軍との衝突が総力戦となると判断していた。
だからこそ一人でも多くの兵力を望んだ。叛意を抱いていでも使い様はあり、手元に最低限の兵士しかいなければ叛乱を目論む可能性も少ない。最悪、叛乱が起きても航空攻撃だけで決着が付くだろう。
蹶起軍は貴族の私兵である領邦軍が纏まっているに過ぎず、貴族を纏めているのはエルゼリア侯の人望によるところが大きい。故に征伐軍は小細工を弄さずに 正面から、最大戦力でエルゼリア侯爵領へと攻め入らんとすることは疑いない。その程度の判断は大御巫にもできるはずであり、それを献策する参謀や将官もい ると見て間違いない。
マリアベルやセルアノは、占領したバルシュミーデ子爵領を始めとする各貴族領に聯隊規模の戦力を駐留させる腹積もりであるようだが、トウカからすると決戦がそう遠くない将来に避けられないと判断しているので正面戦力を損なう行為を容認する訳にはいかない。
ベルゲン強襲時に陸海軍部隊が大御巫の意志ではなく、正規の陸海軍府長官の命令の下で展開していたことは偶発的に得た捕虜から明白となっていた。
陸海軍は敵となった。
つまり、皇国各地の策源地から抽出された大部隊が近い内に投入されることは間違いなく、司令部も陸海軍主導で編制されることになる。大御巫の息の掛かっ た人間だけで征伐軍総司令部を立て直すことは勢力成立の成り行きから難しく、もしそれを断行した場合は能力に問題があり適材適所とは言い難い人材によって
編成されることとなる。その場合はトウカも与し易いのだが、アリアベルが、それほどまで無能の様には見受けられなかった。
「次の軍事衝突は総力戦だ。戦力を分散させる愚を犯すべきではない」
「貴方の頭は戦争でしか物事を解決できないの? そんなことで戦力を磨り潰して、来るべき帝国との侵攻を凌ぎ切れると思っているの? 莫迦ね」
トウカは引き攣りそうになる頬を不断の努力で押し留める。無表情へと転じたトウカにエルラウラが怯え、ベルセリカが楽しそうに含み笑いを漏らす。
そんなことは眼前の毒婦に言われずとも、トウカは理解している。
帝国との闘争の前に中央貴族を何とかせねばならない点を踏まえれば、制限時間付の戦争であり全てに於いて時間がない。本来なら決戦を求めて侵攻してくる征伐軍相手に蹶起軍を上げての不正規戦を選択していたが、現状では時間がそれを許さない。故に機動防禦と陸空一体戦術を
中心とした戦術でこれらを迎え撃つ予定だった。つまりは積極的機動防禦を行う陸上戦力と、敵軍の前線輜重を行う後方兵站に対する航空攻撃や、敵軍の陸上戦 力の侵攻を遅滞させる航空阻止を担う航空戦力とを緊密に連携させることによって継戦能力と機動力を削ぎ続けて壊滅させることを意図していた。
正直なところトウカは蹶起軍と征伐軍の停戦協定を上手く纏めることはできないと考えていた。双方に血が流れ過ぎたこともあるが、既に政治的解決を試みるには遅すぎ、一方が致命的な被害を負わねば停戦に納得しないはずであった。
マリアベルとアリアベル。共に容易く他者に頭を下げるような性格ではない。そして、周囲も許さない。最早、理屈は歴史の彼方にある。
「闘争だ。闘争こそが全てを切り開く手段に他ならない。そして戦争は政治活動の最終的な形態に過ぎない。既に政治の季節は過ぎている」
既に口先や利益で矛先を収めるには互いに憎しみ合い殺し合い過ぎた。そして、そこに宗教指導者や何百年来の隔意が混ざれば最早、制御することは難しい。北部に至っては各貴族領の領民までもが、皇国政府や中央貴族に対して否定的な感情を持っている。
戦争である。全てはそこに行き着く。
有史以来、民族や宗教、領土問題が流血を経ずして解決したことなどないのだ。
そもそも、トウカの作戦の影響で散った友軍は、既に万に届く人数へと膨れ上がっており、それらの犠牲を無駄にしない為にも引くことはできない。報いる為 に殺し続けるのだ。矛盾かも知れないが、止め得ることのできない連鎖でもある。しかし、トウカはそれが軍人の宿命であることを理解していた。歴史が、それ を証明している。
「卑しい戦争屋。人の死と血涙で領地の護持を図る気? 虫唾が走るわね」
「文官風情が喚いてくれる。政治で止められると言うならば、この闘争が始まる前にして見せれば良かっただろう。貴様の無能の所為で俺は隷下の同胞達に無用な死を命じねばならなくなった」
至近距離で、殺意を交差させる二人。
異邦人と傾城の桜色。
だが、トウカは軍用大外套を翻して背を向けると窓の外へと視線を移す。
「筋書きは変更だ。バルシュミーデ子爵が乱心。首席政務官殿を刺殺、止むを得ずベルセリカが暴れるバルシュミーデ子爵を斬殺」ふと思い出したかのようにトウカは呟く。
背後ではエルラウラが呆けた顔をし、セルアノが一歩二歩と後ずさる。
「く、狂ってる……」
セルアノの呟きにトウカは嗤う。
この時代、弱者であることは罪なのだ。その上、戦争に負けたらどうなるか真に理解せず、勝利の為に邁進せねばならない立場に有りながらそれを放棄していたことは度し難い。
「無駄に兵を損なったこと……そして、その死を侮辱したこと、己の首からの血飛沫の音を聞きながら後悔しろ。口先だけの綺麗事を並べたことを、その見てくれだけは綺麗な身体が刻まれる感覚と共に理解しろ」
口先だけならば何とでも言える。
有象無象の愚民が民主主義を汚すのは常であるが、セルアノのような官僚がそれを肯定するからこそ歯止めが掛からなくなる。国営に携わるものが己の欲望や美しい理想の為に権力を行使し始めた瞬間……如何なる政治体制……思想、主義も本来の意味を損なうのだ。
「セリカ……殺せ。腐敗は訂さねばならない」
紛れもない腐敗。
戦友の屍を踏み越えて、尚も戦い郷土を護った英霊を侮辱することは赦されないのだ。一度、それを許容する土壌を作ってしまえば後に勇敢に戦った英霊達に 続かんとする者は減り、その大地と伝統は異民族によって穢される。自分の祖国がそうなりつつある状況であった以上、トウカはこの点に在って妥協する術を持 たない。
存外に俺が後ろを向いている間に斬れ、窓の外へと向いたトウカに、ベルセリカは呆れたように頭を掻いた後、背負っていた鞘から大太刀を抜き放つ。
「御二方、これも運命で御座ろう。乱世の定めと思いて諦められよ」
ベルセリカの言葉に、トウカは肩を震わせて静かに嗤う。
剣聖の一太刀であれば、少なくとも苦しむことはない。今の時代、領主が無能なことは罪であり、文官が向う見ずな理想を語ることもまた罪に等しい。
だから死ぬのだ。
総ては流血によって解決される。
「止めなさい、莫迦共ッ!!」
イシュタルは降伏調印が行われているという部屋へと入室して一瞬、呆気にとられたのか一拍の間を置いて大音声で怒鳴る。
思わず背後にいたリシアは身を竦めた。幼少の頃よりマリアベルと共にイシュタルは孤児院で猛威を振るっていた。前者は子供と共に悪さをする自由奔放な母 であり、後者は信賞必罰を子供にまで適用する厳格な母であった。賑やかな孤児院生活での怒鳴り声を思い出してリシアは背筋を伸ばす。
〈剣聖ヴァルトハイム〉の執務室で艦隊の被害集計や物資再配分、哨戒網の設定、捕虜の処遇などの一切を取り仕切っていたリシアに、イシュタルから突然、 陸戦隊を編成してエルシアに上陸しろと伝達が届いたのがつい先程。リシアは正式に〈ヴェルテンベルク領邦軍艦隊〉に籍が移っているのでイシュタルの指揮下
にはないのだが、厳格なイシュタルが珍しく焦っているので只事ではないと手空きの水兵に武装させて共にエルシアに上陸した。
そこで完全武装の一個鋭兵小隊を従えたイシュタルと合流して今に至るのだが、詳しい説明を受けていないのでリシアは状況についていけなかった。
「あまり死体が増えるのは得策じゃない……退け、ベルセリカ」トウカが呆れたように呟く。
剣聖であるベルセリカが市街戦で活躍したという報告は受けていたリシアであるものの、トウカが偽物でも用意したのだと高を括っていた。しかし、眼前で長 大な大太刀を下段で構える、〈剣聖ヴァルトハイム〉の艦上でセリカと呼ばれていた女性の、重力が増したのかと錯覚するほどの威圧感に、それが事実であった のだと思い知る。
――マリア様が重用するはず……剣聖を従えてるんだから。
大太刀を背に吊るした鞘に危なげない動作で収め、威圧感を霧散させたベルセリカから察することのできる真実は、トウカの配下としてこの場にいるという事実であった。
これは拙い。
ベルセリカが刃を手にしていたということは、セルアノとエルラウラを殺そうとしていたのだと容易に想像が付く。セルアノが冷や汗を流し、エルラウラが泣いているのでどちらも害そうとしたことは予想できるが、穏やかな表情のトウカからその理由を読み取ることはできない。
「イシュタル……マリィはこんな血に飢えた野獣を飼って何をする心算ッ!? これ以上の戦争は北部経済を――」
「落ち着きなさい、セルアノ。この作戦はマリィが承認したものです。……サクラギ代将、この件はヴェルテンベルク伯に伝えます。良いな?」
柳眉を顰めて怒気を放つセルアノを引き寄せ、イシュタルがトウカを鋭い視線で見据える。しかし、トウカは苦笑と共に肩を竦めて切り返した。
「どうぞお伝えするが宜しいでしょう。貴女の首席政務官殿が蹶起軍の最高指揮官に就く予定の剣聖殿の不興を買った、と。……いえ、そもそも我らが領主には機密保持を考慮して最小限の人員で行うと話していたのだが、御理解いただけなかったようです」
権力で押さえようとしたイシュタルに対して、トウカはその権力すら抑えるであろうベルセリカの名声と武勇を以て応じた。共に他者の威を借る形となった が、どう見てもトウカに分がある。マリアベルですら容易に手を出せないであろう剣聖は圧倒的な武名を有している。何より、この場でイシュタルを排除するこ とも容易い。
宜しくない流れである。
他の者には分からないかも知れないが、苦笑の下でトウカは憎悪を滾らせている。幸いにしてリシアは直感で感情を察する程度にはトウカへの理解を深めていた。
一歩進み出たリシア。
「……サクラギ代将閣下。戦後処理は終わっておりません。ヴェルテンベルク伯からの命令書も届いています。進駐してきた領邦軍司令官閣下にこの場の権限を 委譲し、艦隊主力を帰還させるべきかと。幸いにして工作艦も来ており座礁した艦の修理も開始しております。ここで我らにできることは皆無に御座いましょ う」
戦後処理はまだまだ終わっていないので、イシュタルに早期に押し付けて撤退するべきだというリシアの主張は時間の無駄を嫌うトウカには有効なはずであ
る。マリアベルの命令書にはトウカの予定していた計画とは全く方向性の違うことが書かれていたので、トウカもその真意を当人に問い質したいはずであるとの推測もあった。
「それに敵将であったシュタイエルハウゼン閣下が御会いしたいとのことです」
「それは……承知した。艦に戻る。イシュトヴァーン領邦軍司令官、後は宜しく御願い致します。……ああ、バルシュミーデ子爵領民の生活基盤の修繕と確保もお願いします。まさか生活を必要以上に困窮させて叛意を抱かせるなどあってはならないので」
市街戦によって生じた被害への対応は全く進んでいない。
統制の取れない市街戦である事も相まって一部では未だ抗戦している敵兵がいる。指揮統制など最早、崩壊しており各々が己の信念を理由に戦っている状況では平定は難しい。その上、領民の生活を保障しなければならず、そこに不正規戦が発生すると始末に負えない。
「言われずとも分かっている。貴様が勝手に連れて行った〈第二装甲擲弾兵聯隊〉は置いていけ。ヴァレンシュタインは不要だ。一緒に連れて帰ると良い」
嫌なことを思い出させたトウカに、苦りきった表情でイシュタルが言い返す。
トウカの嫌味と皮肉にリシアは吹き出しそうになる。
自らが相手にするのは願い下げだが傍観している分には十分に楽しめる。先程までは一緒に証拠隠滅の為に斬られると冷や汗をかいていたが。
――でも、剣聖が蹶起軍の最高指揮官? 指揮権の統一をする気ね。楽しくなりそう。
リシアの肩を叩き、退出を促すトウカ。自身もリシアとベルセリカを率いて扉を潜ろうとした時、トウカの足が不意に止まる。
「良い指揮官とは勝利できる指揮官ではない。兵に無駄死にだと思わせない指揮官だ」
呟くような声音の一言。
リシアからではトウカの表情を窺い知ることはできない。
しかし、その一言がトウカの指揮官として在り様……理想を示しているように思えた。少なくとも血が流れ、命が失われる運命にあるならば、健気に死のその 瞬間まで任務を全うせんとする兵士達に、己の死が決して無駄ではないと思わせたままに最期の瞬間を迎えさせてやろうという心意気。否、意地であろう。
そして、自らも戦い続けるのだ。自らの指揮で散っていた幾多の同胞の悲願に報いる為に。
――でも、それは戦い続けて多くの死を命じ、背負い続ける悲願の数を増やし続けるということ。ならそれは命ある限り増え続ける負債……トウカは何時それから解放されるの?
トウカ自身も内心では理解しているのだろう。
それでも尚、戦い続けるのだ。それが軍人である。
――きっと、何時かその重みに耐えきれず、膝を突くことになる。
その時、支えるのはきっとベルセリカではない。
種族的な強者であり、莫迦正直に大太刀を振り回す事で艱難辛苦を振り払う理不尽な存在に、トウカと同じ視線に立てるとは思えない。
「なら、私の出番……になるはず、ね?」
リシアは軍用大外套の襟を引き寄せて、トウカの背中をただ見据え続けた。
トウカ君はシンガポールを陥落させた山下将軍ばりに、エルラウラに降伏を迫っているようです。尤も、《大日連》の世界では、マレー半島辺りは《アユタヤ 王国》の支配地域で、シンガポール自体も昭南島として《大日連》の国土となり海上交通の要衝となっています。陛下の忠臣であった信長公の対外政策の成果で す。