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第二七話    一つの盟約

 




(それがし)と戦え」

 日本刀というには長い刀身と、鍔の部分から迫り出さんばかりに長い平地や鎬地も相まって、明らかに対人用の武装ではないそれを手に取り、ベルセリカが有無を言わせない雰囲気で告げる。

 庭で薪割をしていたトウカは、戦装束のベルセリカを見て溜息を一つ。縁側越しに襖の開け放たれた居間にいるミユキを見てみるが、炬燵にすっぽりと収まり 殆ど頭だけ出して潜り込んでしまっており、“かたつむり”或いは“こたつむり”状態であった。そこから楽しそうに眺めているだけである。止める気はないと 見えた。

 薪割をしていた手を止め、斧を下ろす。

 ベルセリカは白と紫を基調とした陣羽織に籠手や脚甲を付けており、左右の腰からは鋼鉄製の一対の草摺(くさずり)を身に着けていた。直ぐにでも戦野へと馳せ参じることができる装束である。甲冑は付けていないが、装備には防禦術式が編み込まれているであろう事は想像に難くない。

「布団の上というのは無理ですよ?」

「斬り合え」

 静かなる戦意を纏った英雄。

 誤魔化す事はできない。トウカにとり刃を抜くことは手段の一つであって、目的ではないのだが、ベルセリカにその論法が通じるとは思えない。彼女は無理を通せば、道理も曲げられると考える人物なのだ。

「御主に覚悟無きものと某が決めれば、ミユキとは離れて貰う」

 決定的な一言。それを言われては、トウカに戦わぬという選択肢はない。一度、祖国と家族を異世界に流されて奪われた。二度目など断じて赦される事ではない。

 戦おう。剣聖と。

 トウカは、静かなる決意を胸に、ベルセリカを正面より見据える。

 剥き出しの刃に纏わり付く蒼炎は、どの様な魔導を付加しているのか、トウカには想像も付かない。魔導とは血統と才覚を永劫に重ね、研鑽する事で上位へと 昇華される奇蹟の総称である。高位種である天狼族の中でも傑出した才能と研鑽を重ねたベルセリカの魔導に対し、トウカは余りにも無力であった。

「十分待ってやろう。準備するがよい」

 地に刃を突き立て、悠然と宣言するベルセリカ。

 ミユキは楽しそうに居間の四隅に防禦護符を張り始めていた。観戦する心算なのか、自身の身を護る事も忘れていない点は確りしていると言えるが、そうであるならば止めて欲しいと、トウカは頭を掻く。

 トウカは斧を投げ捨て、外套を翻し、ミユキの部屋へと走り出す。武装やファウストは全てミユキの部屋に置いており、まさか生身で戦う訳にもいかない。

「少なくとも俺は御前と同じ途は歩まない……まぁ、見ておけ」

 部屋の襖を開け、立て掛けられた武器を見下ろし、トウカは皮肉の混じった笑みを浮かべた。








「御師匠様」

 弟子の声に、庭園の中央で仁王立ちしていたベルセリカは、居間へと視線を向ける。

 防御護符を居間の四隅に張り付け、再び”こたつむり”状態へと戻ったミユキは、旅の技芸者の芸が始まる事を今か今かと待ち望んでいる子供の様な表情で微笑んでいた。

 ミユキという少女について、ベルセリカは語る言葉を持たない。特筆すべき点がないという意味ではなく、ベルセリカの永い生の中にあっても前例がないと言えた。無論、それの示すところは否定的な意味ではなく、天衣無縫にして天真爛漫という意味である。

 無邪気で飾り気がなく、素直で自然体であり、明るく純真であった。

 それだけであれば、良い娘だ、で終わってしまっただろうが、ミユキは余りにも純粋でありすぎた。時折、顔が引き攣るような策を弄する点は、ベルセリカで すら恐ろしく思える。純粋であるが故に、恐ろしい策まで実行できる一面が潜んでいる。確たる証拠と確証はないが、それが酷く危なげに見えた。唯ひたすらに 白く純粋である事は何ものにも染まるという事を意味するのではないか。

 そう、ベルセリカは考えていた。

 考えてみれば、ベルセリカが刃を振るった時代に於いても、軍師や策士という人物は、大多数が誠実にして実直な人間であった。軍機と使命、奉じた主君に対 して誠実にして実直であるからこそ、躊躇いも苦悩も押さえ付けて外道を成せる。そうした者達の謀略や策略こそが陥穽と呼ぶに相応しい要素を兼ね備えてい た。

 天衣無縫にして天真爛漫、純真無垢であるという事実は、外道や老獪という要素を退け得るものではないのだ。

「殿中でござる~」

「……ミユキ……愛しの主様が心配ではないのか?」

 ただ楽しそうに笑みを深めるミユキに、ベルセリカは疑念を深めた。

 剣道でも剣術でもなく、生き残る為の、殺す為の戦場の剣。

 英雄と異邦人の戦いが“死合い”となる事は避けられない。個人の“武”という面では、トウカはベルセリカに遠く及ばない。しかし、手加減できる弱い相手 ではないとも分かっていた。トウカは正道を歩んではないし、また“武”に於いて常道を尊ぶ意志もない以上、奇策を以てして応じてくるだろう。

 そして、ミユキは心配する素振りすらない。

「勝つのは主様ですから」

 平然と言ってのけるミユキに、ベルセリカは嗤う。

 ミユキの言葉はベルセリカの戦意を掻き立てるに十分なものだった。ミユキは確信のない言葉を良く口にするが、意外と近い結果が出る事が多い。騎士として強者と戦う事は本懐であるし、久しく忘れていた感覚という事も相まって心地良いと、ベルセリカには感じられた。

「まぁ、戦ってみれば分かるで御座ろう」

「無理ですよぉ。御師様でも、主様には絶対勝てません……ほら」

 ミユキは離れの屋根を指差す。

 視線を向けたその先には黒い外套が風に揺れていた。


 銃声が響く。背後から。


 持てる膂力の全てを以て、その場から退いたベルセリカの顔の横を、銃弾の風切り音が響く。死の羽音とも呼ばれる銃弾が至近を通過した際に響く風を切る音に、ベルセリカは刃を構えて応じる。

 背後へと向き直ると、渡り廊下の屋根で伏射姿勢を取っているトウカを認めた。

 その姿に思わずベルセリカは嗤い声を上げる。

「やってくれる! 若造ッ! 外道も過ぎれば顰蹙を買おうに!」

 騎士に戦えと言われて小銃を持ち出す者を、ベルセリカは寡聞にして知らなかった。しかも、ベルセリカの視線を反対へと誘導した点は徹底していると認めざ るを得ない。視線と気を逸らすことは容易いが、話し合う時間などなかった事を考えると、トウカの考えている事をミユキは察して、ベルセリカの意識を誘導し たとしか考えられなかった。

 勝利の為に手段を選ばない男なのだ、異邦人(エトランジェ)は。

 断続的な射撃音に応じて刃を振る事で小銃弾を叩き落としながらも、ベルセリカはどうしたものかと考える。少々、斬り合えば自身の限界を知り、助けを乞う だろうと思っていたが、トウカは勝率が高いと思われる手段を順番に講じる心算だろう。近接戦では返り討ちに遭うと判断して、距離を置いての終始する心算で あるに違いなかった。しかし、魔導騎士(マギウスリッター)の称号を持つベルセリカは、総ての間合いに対応できた。

「甘い……まぁ、分かっているで御座ろうが」

 苦笑と共にトウカへ刃を向ける。

 ベルセリカの周囲の空間に無数の魔術陣が形成される。

「翡翠色の奇蹟よ」

 その翡翠色の魔導陣は、現在皇国軍が運用しているエイゼンカイト式軍用魔術の円形を基本とした魔導陣ではなく、何百年も前に廃止されたハイゼンベルク式 軍用魔術の特徴を持った方形を複雑精緻に複合させた魔術陣であった。高火力と瞬発力に優れる近接戦で威力発揮する魔術が多いハイゼンベルク式軍用魔術は、 その代償として膨大な魔力消費と、複雑な魔導陣の維持を行わねばならない。習得に少なくない時間を取られる点と、兵器の射程の増大により、長距離集束式砲 撃魔術に優れたエイゼンカイト式軍用魔術にその座を奪われる事になる。奇しくも戦乱期であり、近代戦は動員兵力が増大の一途を辿っていた為、魔導士の大量 育成に迫られたという理由もあった。

 ハイゼンベルク式軍用魔術は衰退して著しいが、それをベルセリカは見事に制御して見せる。

 空中の魔導陣から現れるのは魔力によって形成された翡翠の長剣。その翡翠の長剣は剣聖の背後を槍衾の如く、等間隔に並び壮大な剣列となる。余りにも多いその数に、ベルセリカの背後に広がる空間は、翡翠色に塗り潰されるほど。

 芝居がかった動作でベルセリカは刃を上段に構える。

「小細工など剣聖の前では無意味と心得ぃ! 己が悲願を成就したくば、この程度の艱難四苦、打ち払って見せませいッ!!」

 そして戦闘が始まった。









「っ! 屋敷諸共に潰す気か!」

 トウカは小銃を捨て、渡り廊下の屋根から飛び降りる。

 小銃を持っていては逃れられないという判断もあったが、長距離戦闘では、最早勝ち目はない。拳銃が収まった拳銃嚢(ホルスター)や、小雑嚢(マグポーチ)も剥ぎ取って地面に伏せる。

 頭上を過ぎる翡翠の長剣が渡り廊下に刺さり、貫徹し、或いは爆発する。

 貫徹能力と炸裂能力という二種類の属性が付与された翡翠の長剣は、防ぐ事も避ける事も困難であった。避ければ炸裂し、破片効果から逃れ得ない上に、正面から防ごうとしても貫徹能力の前に盾や障害物諸共串刺しにされるだろう。

 無様に地面を転げ回り、破片効果から逃れる。

 幸いにして纏っている大外套は、軍用のもの程ではないが、破片防御術式が編み込まれている為、小さな掠り傷程度で済む。

 地面を蹴り、地を縫う様に奔る。

 ミユキとベルセリカの対角線上に移動し、ベリセリカの魔術攻撃を封殺しようという考えも過ぎったが、ミユキを危険に晒すなど論外であった。ベルセリカの性格を完全には理解できていない以上、ミユキ諸共という可能性も捨てきれない。

 故にベルセリカの正面に立つ。打算などない。

 小銃での射撃程度で剣聖に一矢報いる事などできるとは、トウカも考えていなかったが、正面切って戦う意志のない者に戦意を失うという淡い期待があった事 も事実。結果としては、正面まで上手く誘導された形で、トウカの完全な作戦負けである。時間さえあれば、庭園内に手榴弾で罠でも仕掛けられたかも知れない が、翡翠の長剣で戦域諸共に耕されれば小細工など意味を成さない。

「嫌々ですが……推して参るという方向で」

「ほぅ、小細工は終わりか?」

 茶化す様に嗤うベルセリカ。だが、その瞳は戦意に燃えている。次、小細工を弄せば戦域諸共粉砕してくれると言わんばかりの濃密な死の気配に、トウカも表情を引き締める。興が醒めたと刃を下ろしてくれる事を期待したが、その気配すら見受けられない。

 蛮族め、とトウカは胸中で毒付き、背中に吊るした軍刀を、革帯(ベルト)に佩いた。

 ――最早、推察から生じた可能性に勝機を見い出すしかない。

 右手に鞘を掴み、左手で柄を掴むと足を開く。

 抜刀の構え。

 最速の剣技とて剣聖に通じるとは、トウカも思わない。リディアにすら通じなかった以上、ベルセリカにも通じないと見るべきである。身体能力で遙かに優越 する高位種が、抜刀術という小細工を必要とするとは思えず、運用したとしても届き得るものではない以上、或いはこの世界に於いて成立してない可能性すら あった。

 全身が、立ち込める死の気配に震える。

 リディアやレオンディーネとは比べ物にならない。未来を切り開く為に死山血河を築いた刃。立ち塞がる怨敵を睥睨する視線。格が、存在そのものが違う。紛れもない英雄である。

 本能が撤退を希求する。

 対するベルセリカは、刀身の厚い刀を正眼に構え、静かに応じる構えを見せている。静かであっても溢れ出る戦意と死の気配は鋭くも強大であった。

 トウカが踏み出す。

 上半身が地面と水平になる程に身体を傾けて地を駆ける。その姿は神速の名に恥じないものであったが、所詮それは人としての高みであり限界。ベルセリカの戦技の前では神速足り得ない。

「――ッ!」

 左下から左上に掬い上げる様な斬撃。逆袈裟斬りとも呼ばれるそれは、片手である為に打撃力は劣るが、その速度はトウカの身体能力から繰り出される攻撃手段の中でも最速。

 ベルセリカは、この世界には存在しない抜刀術という戦技に興味深げな視線を向ける。

 この魔術が満ちた世界に於いては、遠く過去より身に迫る刃を押し留める術が幾つもあった。だが、トウカや先達である侍達は鎧すら纏わず、その身を護る防 護は一切存在し得ない。合戦では鎧を纏う者も居たが、それは能力的には無論のこと、局地的な部分のみしか防御できない。対する魔導技術によって編み上げら れた軍装や鎧は、極めて強靭である事に加え、軽量で防御範囲も極めて広く、速度だけでは、その護りを貫徹する事ができない。

 武術という運用思想の違い。

 敵よりも優速を利して先制の一撃を与えた場合、その多くが致命傷となるという思想のトウカの武道の姿勢に対し、魔術付加や膂力によって強化された敵の防御を、幾度もの攻撃で突き崩して撃破するという思想の武道を極めたベルセリカは、正に対を成す存在であった。

 裂帛の気合いを纏った刃は、ベルセリカの右大腿部に迫る。ベルセリカは、表情を変える事すらなく刀で応じる。金属音が周囲に響き渡るが、トウカの連撃は止まらない。

 鍔迫り合いを続ける刃の一点を起点に、柄を握った右手の掌を逆手に返して、柄尻でベルセリカの腎臓を狙う。人体急所を狙う事に対する忌避感は既に戦意の彼方。寧ろ、距離を更に詰める事で、長大な大太刀の取り回しを制限できると期待しての行動であった。

 身体を捻る様に身体を流して避けたベルセリカに対し、握り続けていた鞘で横に薙ごうとするが、ベルセリカは柄から放した片手で掴む。

 トウカは、間髪入れずに足元の雪を蹴り上げ、目隠しとしてベルセリカの刃の有効圏から下がる。追撃があると身構えていたが、正眼に刀を構え直し、ベルセリカは正面に佇むだけであった。

「成るほど……トウカ殿の武は速度こそを至上とする……理に叶わぬで御座ろうに。よもやその様な武でミユキを護れると思っておるまいな?」

 ベルセリカは嘲笑を漏らす。

 だが、トウカとしては魔術が使えず、人間種であり膂力も期待できない以上、魔導防御を突破することは極めて難しくあるので、頼るのは速度以外にない。そもそも、人間種しか存在し得ない世界の剣技である以上、他種族との交戦は前提としていなかった。

「死に損ないの騎士。言いたい事はそれだけか?」

 惰性だけで人生を消費し続けている騎士。

 トウカもミユキを失えば、その様に堕ちるかも知れない。だが、愛する者が納得できる死に様を迎えたのならば後を追えばいいが、ベルセリカは今この時、生 命を紡ぎ続けている。それは愛する者の死を無駄にしない為、新たな罪を背負い続ける覚悟があるからに他ならない。だが、永い時の末、その想いは諦観へと変 わったのだろう。その辺り、祖父と類似していないでもない。

 トウカは、力を渇望していた。

 嘗ても今も、これからも。

 ベルセリカの様に、ヒトの形をした暴力の化身が目の前に立ち塞がるから、自身の頭上を反応兵器を搭載した大陸間弾道弾(ICBM)を余地があると知った 時から。祖国が主体性なき共産主義者と左派勢力に蚕食されつつあると知った時から、摩訶不思議と魑魅魍魎が跳梁跋扈する世界でミユキを護るには何もかも悉 くが不足していると知った時から。

 サクラギ・トウカは何時だって力を渇望している。

 ベルセリカは”武”という力を携えていた。何故、諦観の海に沈んだ古の剣聖にあって、仔狐を護らんと望む己にないのか。

 怒髪天を衝くとは正にこのこと。

「諦めた人生なら俺に斬られろ」

 軍刀の刃の切っ先をベルセリカへと向ける。

 目的を失った者は、新たに目的を探せばよいが、諦めた者が存在する価値はない。

 他者の意思を押し付けられる事を、トウカは我慢できない。この夢か現かの判断が付き難い事象に満ち満ちた世界に堕とされるという理不尽。その上、手にした幸福まで奪う姿勢を見せた世界に対し、トウカは断固として争わねばならないのだ。

 勝敗など意味はない。戦うのだ。戦わねば、確実に奪われるが故に。

 正眼に構えた軍刀。

 トウカが再び踏み込む。それが当然であるかの様に、風の如く、淀みない動作。

 ただ一点、ベルセリカの身体の中心を狙い刺突を繰り出す。

 正面切っての刺突の上に、人間種より遙かに動体視力に優れた天狼族であるベルセリカには通じず、案の定、容易く打ち払われる。

 そのまま踏み込み、ベルセリカの右足に蹴撃を加えようとするが、身体を逸らして躱される。

 ベルセリカ自身は油断している心算はないが、トウカからみれば慢心以外の何ものでもない。優れた魔導能力と身体能力を有するからこそ、人間種に押し負け るという考えがない。本来であれば、その膂力を以てしてトウカを軍刀諸共押し返せば良いがそれをしない。それを意図していないとしても、トウカ如きの意識 を奪う事など、ベルセリカには容易いはず。

 全く以て、慢心以外の何ものでもない。

 そこに付け込む。

 相手が強大であるとしても付け入る隙がない訳ではない。

「――ッ!」

 安易に斬り合いが出来ぬ様に、極至近距離での鍔迫り合いに持ち込む。

 凄絶な笑みを零すトウカ。

 それは剣聖すら気後れさせるものであった。








「ッ! 御主はッ!」

 血の流れるトウカの左手を見て、ベルセリカは戦慄する。

 凄絶な笑みから一転して、一切の感情を感じさせない表情へと変わったトウカの左手は、ベルセリカの刀の刃を握り締めている。その手から流れ出た鮮血は刃を滴り落ち、雪の降り積もる地面を真紅に染める。

 無理やり引き抜けばトウカの指を斬り落とす事になるだろう。トウカもそれを理解していないはずがないのだが、その表情からは真意を推し量る事ができな い。ミユキの主様を傷物にする訳にはいかないという感情もあったが、それを見越して取った行動だとしても、自身の手を犠牲にする行動を人間種の若者が咄嗟 に取れるとは、理解の範疇を越えていた。

 ――或いは……それが狙いかッ!

 感情の籠らない視線は、どの様な感情を向けても揺るがない。

 左手をくれてやるから認めろ。存外に、そう言われている気がしたベルセリカは戦慄した。

 ミユキはこれ以上、トウカが傷を負う事を許さないだろう。そして、トウカは自らが痛みを蒙ったという事実を覚悟として示す事で、この一戦を手打ちにしようとしている。

 これ程に騎士の戦いを侮辱された事は、ベルセリカの永い生であっても初めてであった。撃破ではなく、常に妥協させる為の機会を創り出そうと動いている。確率論としては、勝利よりも妥協点を探るに重きを置くのは間違った事ではない。

 だが、人間種の若者が生命を削り合うかの如き状況下で、冷静に確率論を順守し続けるというのは異質に過ぎた。

 ベルセリカは、トウカの本心が見えなかった。

 これが裂帛の意志と凛冽な戦意……年相応の青臭い覚悟から生まれ出た結果であったならばベルセリカは、否応なくトウカを認めただろう。

 感情が揺れれば、本音も漏れると考えたからこそ戦いを仕掛けたが、トウカの感情が揺れる事はなく、小銃による先制攻撃まで行った。

 敵対戦力排除の為だけの効率的過ぎる振る舞い。それが剣聖を何よりも不愉快にさせる。

 大切な者を護る為ならば、名誉など容易く放棄し、傷付く事も厭わない……或いは当然の如く受け入れる。トウカにとって、それは呼吸をする事と同等な程に当然で、故にその行いに何も疑問を抱かず、迷わない。故に平然と手足の一本如きを投げ出せるのだろう。

「それで良いのか?」

 思わず口を衝いて疑問が漏れる。

 自身にとって重要なものの優先順位が決まっている事は好ましいが、それを只管(ひたすら)に絡繰りの如く遵守する在り様は異質としか言い様がない。絶対に揺らぐ事無き意志を、二十歳にも満たない人間種が身に着ける事が可能なものかと言えば、断じて否。それは、魔導の深淵を垣間見る事より尚も難解である。

 ――あぁ、某はこの若人を好きにはなれぬよ……なぁ、ミユキ。

 詰まるところは、気に入らないのだ。

 主君もその様な人物であった。原因は分かり切っており、在りし日の主君と面影が重なるのだ。そして、主君が自身を置いて死出の旅へと赴いた様に、トウカもいずれはその(みち)を歩むかも知れない。そんな疑念を振り払う事ができなかった。男運の悪さが、可愛い弟子に移ってしまった可能性も否定できない。

 剣聖の表情が厳しくなる。それを見た異邦人が嗤う。

 ベルセリカの主君は、自己犠牲を現世で最も尊い行いである、と常日頃から語っていた。そして、その散り際も、正に自己犠牲による国体護持の礎足り得た。

 だが、トウカと主君には決定的な違いがあった。

 トウカは勝算のない戦いを行わず、そして騎士等の観点からすれば卑怯や卑劣と取られる戦術を躊躇わず行使できる。ベルセリカは、トウカが正面切って斬り 合わねばならない状況を作った心算であったが、トウカが斬り合いに於いても常道を選択するとは限らない。そして、撤退しないという時点で、トウカに勝算が ある事に気付くべきであった。

 反撃が始まる。

「履き違えるな、剣聖。俺は妥協した覚えはない」

 トウカが、ベルセリカの刀の刃を右手に掴んだままに、右手に構えた軍刀で斬り掛かる。

 ベルセリカは、完全に虚を突かれた形になる。

 だが、極至近距離であり、軍刀と言えど遠心力は加算されず、突きも刀身長から難しい。致命傷を与え得る一等は難しく、柄尻で打ち据える選択がより効率的なはず。

 刃はトウカに掴まれ、引き戻す事は叶わない。もし引き戻せばトウカの五指を斬り落としてしまうので刀は使えない。

 籠手で応じる。

 それが最短の防御手段である。トウカの扱う軍刀は、ベルセリカが扱うものと比べても細身で打撃力も劣る。物理防御魔導術式もなく、衝撃の全てを吸収できないものの、刃を通す事はない。そして、小劇もベルセリカの身体能力の前では致命傷とは成り得ない。

「――ッ!」

 だが、籠手で軍刀を受けた瞬間、トウカが卑しく嗤った。

 知性の本質を掴む事は難しいが、心に大きな歪みを持っているという点に於いては、主君と大きく違っていた。愛国者と売国奴に然したる違いはなく、後付けの名称に過ぎない様に、結果こそが総てを肯定する。恐らく、トウカはそうした考えの持ち主なのだろう。

 だからこそ、悲願の為に総てを犠牲にできる。

 ベルセリカの籠手が切り裂かれ、鮮血が舞う。

 トウカの表情は、在りし日の主君が戦野で見せた嘆きを含んだものへと変わる。それがまた剣聖の心を掻き乱す。

 理解の及ばない一閃に、左手に持った刀を離して後退する。

 ――有り得ぬ!! 魔導防御まで!

 籠手には、纏っている陣羽織などよりも優れた防御術式が刻印されている。刃を弾く事を前提に作られた防具である以上当然だが、トウカの軍刀はいとも容易く、それを斬り裂いた。表面は魔導耐性に優れた高純度灰輝銀(ミスリル)であるが、それ以外の部分は名匠によって鍛えられた高い強度を誇る鐵鋼である。魔力を劣化させず帯びる事のできる灰輝銀(ミスリル)や、退魔能力のある日緋色金(ヒヒイロカネ)を使い、更には魔導結晶を装備した魔導増幅装置(ブースター)を組み込む事で対龍戦闘を可能にした武装でもあった。

 二重の意味で、トウカの刃は届く事はなかったはずだった。

「馬鹿なッ! 御主は一体っ――!」

 後退したベルセリカの表情は驚愕に染まっていた。高度な戦技と駆け引きを戦闘に於いて披露していたが、それは自身の組み立てた戦闘行動に基づいて状況が 推移していたからこそ。無論、流れがトウカにあったとしても圧倒的唯胃は揺るがなかったであろうが、魔導の息吹すら感じられない刃に斬られたという事実と トウカの表情に、ベルセリカは取り乱した。

「如何したぁ、小娘ぇ! 騎士の時間は終わりかッ!」

 トウカが吠える。

 返り血の付いた顔は、憤怒に染まっている。その姿は、野獣と言っても差し支えない。

「俺は、御前みたいな力がある癖に使わない奴が死ぬほど嫌いでなッ!! 何故だ! 何故、御前にあって俺ないッ!?」

 激怒と呼ぶには悲しく、そして哀しかった。

 その怒声と共に吶喊する異邦人は、鬼神と呼ぶに相応しいものがある。

 ベルセリカの大太刀より血塗れの手を放したトウカは、再び軍刀を両手に持つ……事はない。

 異邦人とは、異郷の地で己が信念だけを刃に、唯一、一人で戦い続ける戦士の尊称である。その心の内に渦巻く感情は如何程か。

 斬られたのは五百年ぶり。
 嗤われたのは五百年ぶり。

 久しく感じる事のなかった痛みと、在りし日の主君の面影。剣聖の心を乱すには十分だった。

 トウカは、血塗れの左手で、ベルセリカの間合いへと飛び込むと、襟首を掴む。

 襟首の周囲が真紅に染まるが、それを気にする暇もない。

 氷雪の降り積もる地面へと叩き付けられる。

 五百年の経験と業という優位性は戦意と共に既に喪われていた。

 或いはベルセリカは、異邦人を酷く傷つけてしまったのかも知れない。

 トウカの顔は悲痛に歪んでいる。

 聡明な少年は、ベルセリカが何も言わずとも、その真意をある程度まで把握していたのだ。そして、試される事は許容できても、ミユキと引き離されるのは断じて許容できないという思いが胸中にあったからこそ、異邦人として全力で戦っている。

 護れなかった者が、これから護ろうとしている者を否定しようとする事が傲慢である事は、ベルセリカも重々承知の上。だが、ミユキの為にと、少々無理をしてもトウカを正そうと思った。

 一人、想い人として遺される愁嘆。

 なまじ、長命な高位種であるが故に、那由多の先まで想い人の死を抱いて往かねばならないという悲劇。

「何故だ! 何故だ! 何故だッ! 俺より強く、名声もあるだろうッ! 俺にはミユキしかいない! いなくなった! 俺からミユキを奪うか、剣聖ッ!!」

 トウカが世界を憎悪するかの様に叫ぶ。

 基本的に世界とは、非道と邪道が生き難い様に形作られているのだ。

 ミユキの幸福は、トウカが隣にいてこそ叶うもの。一人では幸せになれない。それは五〇〇年を越える孤独で、ベルセリカ自身が得た答えだったのではないのか。主君の苦悩を理解することが遅きに失したからこそ、ベルセリカは違う途へ進まざるを得なかった。

 トウカは、きっと何時か何処かでミユキを一人にするだろう。そうした男なのだ。主君の如く。

 主君を救えなかったベルセリカは知っている。

 そして、トウカを救うのはミユキに他ならない。結局のところ、特定の個人を救うのは特定の個人のみである。

大地へと押し付けられたベルセリカの瞳には、乗り掛かって軍刀を振り被るトウカが映っていた。そして、その瞳は負の感情に彩られている。

「俺は一度、妥協した! 二度は引かん! 引いて堪るかッ!」

 一度の妥協という意味はベルセリカには分からないが、ミユキという仔狐が、トウカにとっての引けない一線なのだろう。

 憤怒とも慟哭とも取れる言葉と共に振り下ろされた軍刀。

 それを避ける気は起きなかった。

 トウカの心中を十分に聞く事ができただけで十分。その為に刃を交え、本音を強引に聞き出そうとした。目的は十分に達したと言える。

 その一振りに抗う気は、何故か起きない。

 主君の御下へ赴ける好機かも知れないという理由以上に、自身の死をトウカに背負わせる事も悪くない。自身の死を、トウカに背負わせる事は甚だ不本意ではあったが、それが彼の軽挙を押し留める錨となるかも知れない。

 ベルセリカの願いが叶う事は果たしてあるのか。







 トウカは軍刀を突き立てる。

 だが、その切っ先は剣聖を貫くことはなかった。

 ベルセリカの頭の真横の地面に深く刺さった軍刀。トウカは、ベルセリカを殺す心算はなかった。

 例え、気に入らない遣り方で本質を推し量られ、或いはミユキを遠ざけようとも考えていたであろうとも、ベルセリカという人物がミユキにとって歴史上の剣聖ではなく、尊敬できる師である以上、それを殺めるという選択肢などありはしない。

「御前を殺しはしない……」

 トウカの内心は怒りに荒れ狂っていたが、それが冷静さを奪うことはない。

 そして、トウカもベルセリカを利用しようとしている。

 実は、ベルセリカが抱いている懸念も極一部に限って言えば、トウカは理解していた。

 何時か、仔狐を護る為に、異邦人が命を差し出さねばならない瞬間が訪れるかも知れない。だからこそ剣聖には、異邦人とは違った形で仔狐を支え、護って貰わねばならないのだ。

「貴様はミユキを護れ。悲しみから護れ。悲劇から護れ。憤怒から護れ。憎悪から護れ。時代から護れ。歴史から護れ。正義から護れ。悪から護れ。刃から護れ。銃弾から護れ。砲弾から護れ。悪意から護れ。善意から護れ……総てから護れ」

 傷付いた左手で剣聖の頬を撫でる。

 総てから護るには、トウカの腕はあまりにも短く、脆弱である。だからこそベルセリカを必要とした。

 トウカの左手に沿って、ベルセリカの頬が鮮血に濡れる。


 血の盟約。


 だが、それは一方的なものであってはならない。対価なき約定に総てを擲つ程に、ヒトという生物が誠実であると思うほどトウカは夢想家ではない。

 故に叶えよう。在りし日に、剣聖の主君が望んだ願いを。

「……ベルセリカ。貴様は何を願う?」

 トウカは嗤う。

 或いは、その盟約は悪魔との契約やも知れない。如何なる事も叶える代わりに、大きな対価を要求する悪魔。無論、異邦人でしかないトウカに然したる力があ る訳ではないが、その声は諦観と悲観の海に身を沈める剣聖の、在りし日の願いへと誘う程に抗い難く魅力的な声音であった。

 そして、ベルセリカは自らの頬を濡らす血塗れの手を握った。

「協和を……」

 ベルセリカが呻くように呟く。

 トウカは、その言葉の意味するところを計りかねた。

 協和とは、心を合わせ仲良くすること。

 その対象が如何なるモノかにより、その願いは大きく変化する。特定の個人に対してか。少数の集団に対してか。不特定多数の者達に対してか。ミユキが願った平穏とその本質に限って言えば酷似しているが、その対象の数が増大する毎に、その難易度も相対的に跳ね上がる。

「某の主君が願ったのは総ての種族の平等。初代天帝陛下が望んだ、あらゆる種族が平等な国家。某の果たせなかった夢……」

 それは極めて難しい問題であった。

 風習や慣習などだけでなく、外観や各種能力に於いても大きな隔たりがある上に、孤立主義を貫いている種族も存在する。今日まで皇国が佳く纏まっていたの は、それを踏まえた上で国政を運営していた長命種達と、天帝という万人にとっての奉じるべき対象が存在したからに過ぎなかった。現在では、その比翼の一翼 は欠けている上、もう一方も先皇の幻影を引き摺って十全に義務を果たしているとは言い難い。

 そして何よりも寿命の問題がある。

 寿命は違うという事は、それ程に重く悲しい事である。老いさらばえ、朽ち往く伴侶を見続けねばならない悲劇は想像を絶する。混血化が進もうとも寿命の違 いについては多くが解決していない。これは異種間同士で生まれた場合、片方の特徴だけを色濃く受け継ぐ場合が多い為であった。近年では度重なる交配によっ て緩和されつつあるとはいえ、一重に混血種と言っても、どの種族の影響を色濃く受継いでいるかで、その寿命や能力は大きく違っていた。

 トウカも、その点を考えた事がある。

 ミユキも長命種である以上、トウカが先に死に往く事は避けられない。トウカは、自身が老いたとしても、ミユキが傍にいてくれるであろうという自信があっ たが、死して尚も自身への想いがミユキを縛ってしまうと恐れてもいた。ベルセリカにミユキを護わせようという考えは、この問題に対する布石と言える。

「異邦人よ、貴方に某の悲願、成就できるか?」

 剣聖は問う。

 その瞳は縋る様であり、何処か諦観を帯びた色をしていた。異邦人一人現れたところで国家という複雑怪奇な集合体が、その本質を変える事がないと理解しているからだろう。


「是だ。剣聖、貴女の言、受け入れよう」


 それは、歴史の一幕。遠く昔、英雄と呼ばれた剣聖と、未来に英雄と呼ばれるであろう異邦人の盟約。そう遠くない未来、皇国という国家を動かす確かな力。

 その途は艱難辛苦に満ちており、幾多の試練が待ち受けるであろう途。だが、仔狐という互いにとっての確かな存在がある以上、決して反故にはできない盟約。

 大地へと押し付けられたまま、ベルセリカは微笑む。安堵したかの様に。重責から逃れ得たかのように。

 だが、直ぐ後にその笑みが反撃の始まりであったことを知る。

「では、今、この時、盟約は批准されたと考えて構わぬかな?」

「……ああ。構わない」

 何故、今ここで確認を求めるのか、トウカには理解できなかった。

 信用されていないという事は有り得ない。ミユキの前で交わされた盟約を反故にする度胸をトウカは持ち合わせていない。刃を交えたベルセリカに、それが分らぬはずがなかった。

「では、報酬を一つ。先払いしてくれよう」

 ベルセリカの両手が、トウカの頬を掴み引き寄せる。


 そして貪るようにトウカの唇を奪った。


 その顔は、先程までの鬼神の如き勇戦を見せた英傑のものではなく、一人の女の顔であった。妖艶でいて何処か可憐さを伴った表情は、永き時を紡ぎ、双方の 魅力を知悉しているからこそ。その表情はトウカの心を掴んだ。元来、トウカという少年が憧れる女性像とは、自らを強く導いてくれるような者であったからこ そ。

 不覚にもベルセリカという女性はその条件を満たしていた。

 トウカは転げるようにベルセリカの身体から飛び退く。

 ミユキがいるであろう方角から死の気配が漂ってくるのを無視しつつ、トウカはベルセリカを睨む。ある種の意趣返しにトウカは見事に引っ掛かった。

「き、貴様……俺を殺す気か……」

「そうか。某の舌使いは死ぬ程に良かったか」

 ベルセリカは、無邪気に笑う。その表情は屈託のない笑顔は、ミユキに負けず劣らず天衣無縫であった。或いは、これがベルセリカという女性の素顔かも知れない。

 しかし――

 トウカは、死の気配が漂う母家に視線を向ける。

 ――どう言い訳したものか……

 トウカの往く手は暗い。

 

 



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