<<<前話  次話>>>

 

 

第二九話    国家の思惑

 






「ほぅ、天狐族の里が狙われる可能性があるのかえ?」

 マリアベルは煙管から口を離すと、紫煙を吐き出して妖艶に笑う。

 屋敷の畳の上で寝そべっていたマリアベルは、胡坐を掻いて報告を聞く。

 それは待ち望んだ報告であった。

 ヴェルテンベルク領を拝領して以来、領内の治安維持の為に匪賊に対しては苛烈な対応を行ってきたマリアベルであるが、近頃、北部を騒がせている匪賊は神 出鬼没である為に有効な対応を講じる事ができなかった。領民の不安を可能な限り排する為、各市町村にその規模に応じた部隊を展開しているが、それも限界に 近い。北部は征伐軍と帝国の侵攻という二つの可能性に挟まれ、領民の不安は頂点に達しようとしている。それでも尚、マリアベルを含めた北部貴族に従うの は、現状の閉塞感に対する不満と北部貴族もまた領地を護る為に死を覚悟している事を理解しているからこそ。

「姫様、兵を集めて宜しいでしょうか?」


「佳きに計らえ……ああ、動員戦力はある程度抑えよ。気取られては本末転倒であるしの。天狐と連携すれば退けられようて。あと、姫はやめぃ。背が痒うて叶わぬであろうて」

 長年、領地の軍事全般を任せていた褐色の肌に銀髪の領邦軍司令官は、その言葉に、これは失礼、と微笑みながら一礼する。その領邦軍指揮の手腕を見れば耄 碌している訳ではない事は一目瞭然だが、翌日にはまた“姫様”と呼ぶ遣り取りが何百年も続いている。領邦軍司令官にとって、主君を揶揄(からか)う事が数少ない楽しみであるのは、マリアベルも重々承知していた。

「失礼いたしました、ヴェルテンベルク伯」

「うむ……いや、妾が兵を率いてみようかの。どの道、天狐に話しを通すには、妾が行くしかなさそうであるしの」

 壁に立て掛けられていた皇国陸軍正式採用の小銃を手にして動作確認を始める。

 本来であれば、高位種であるマリアベルが銃火器など使う必要はない。強力な魔術と変化した際の龍の身体能力があれば、一個師団程度であっても単騎で鎧袖一触できる。

 だが、マリアベルは転化もできなければ、魔術の行使も控えねばならない身体であった。

 それは龍種特有の病気であり、身体を巡る魔力を阻害する副次効果を持っていた。この為に魔術を行使すると身体の至る所に不具合が出る。治癒魔術を行使す る度に吐血する様では、本末転倒である。何よりもマリアベル自身が魔導技術に大きく傾倒しつつある祖国の現状に忌避感を覚えていた。そして魔力変換によっ て成される変化も身体の負担を考慮すると不可能であり、マリアベル自身は人間種に比べて少々、高い身体能力を持っているに過ぎない。

 それ故に銃火器を手に取る。

 魔術と違い、銃火器は使用者を選ぶ事はない。誰にでも扱えて高い効用。それが優れた兵器としての概念である。その点で銃は何十年もの研鑽を積まねば熟練へと昇華できない魔術などに比べても、遥かに兵器として優秀であった。

 最も優れた武器とは何かという話が古今東西で散見される。

 武器には距離、威力、弾数、耐久度など、様々な考慮すべき項目が存在している。どれか一つに傾倒する事も、或いはどれか一つが欠ける事も好ましくない。 そして、この世に存在する全ての武器には長所があり短所がある。その点を踏まえると、最も優れた武器というものは存在しないと言えなくもない。

 だが敢えて言うとするならば、汎用性を満たしている武器こそが最強と言えるだろう。

 トウカの世界の近代史に於いて、銃が最強の武器としての圧倒的名声を得ていたのは、その汎用性に依るところである。使用する者が子供でも、引き金を引く 力さえあれば大人をいとも容易く撃ち斃せる。命中させる教練は必要だが、それも工夫次第である程度軽減できる上、刀剣の修練よりも遙かに短期間で済む。

 だからこそ、マリアベルは魔導技術よりも、科学技術に重きを置いていた。効率的な軍事力の運用を突き詰めれば、兵器の汎用性に行き着く事は、この世界に於いても変わりはない。

 ヴェルテンベルク領は魔導資源も去ることながら、各種鉄鋼資源の埋蔵量に於いても莫大なものがある。それを利用して魔導技術と科学技術を併用した兵器を開発する事に、マリアベルは鞠躬尽瘁(きっきゅうじんすい)の構えで臨んでいた。それは、皇国内の兵器製造を担っている企業の多くが、ヴェルテンベルクにある事からも分かる。

「戦車隊は使えるかえ?」

 マリアベルは期待した視線を褐色の肌に銀髪の領邦軍司令官へと向ける。

 皇国陸軍に於いて戦車の在り様は明確に定められていない。対する帝国陸軍では、鉄条網や塹壕をものともせず戦線に突破口を開くと定められ、侵攻戦に際し ての重要な位置を占めている。だが、複雑な駆動機械でもある戦車の稼働率は、劣悪な環境である事が少なくない前線では低く、その地位に応じた戦果を残して いるとは言い難かった。

 皇国では、そうした理由が大きく軽減されているが、装虎兵の突破力や軍狼兵の機動力がある事から主戦力とは成り得なかった。無論、皇国軍が侵攻という手段を取る事がないという理由も少なくない。

 だが、実際にそうだろうか?

 マリアベルは戦車という新兵器が、戦場に姿を現してから二〇年もの間、研究を続けていた。

 戦車という兵器が初めて戦場に現れたのは、帝国軍による二〇年前の皇国本土侵攻……第一三次エルライン回廊攻防戦に於いてであり、結果として信頼性の低 さと運用方法が確立されていなかった為に撃退は容易だった。しかし、歩兵にとって迫りくる鋼鉄の野獣の威圧感は恐慌を来す程のものであった。装虎兵という 十分に抗し得る存在があるにも関わらず、皇国陸軍総司令部が戦車開発を決意した事からも、当時の恐慌は容易に窺える。

「戦車は、これからの時代、陸上戦略の主戦力になるに違いなかろうて」

「ですが車載砲噴兵器、戦車砲の生産が難航している模様です。開発に時間を掛け過ぎましたし、構造も複雑です。数を揃えるには些か時間が……やはり生産設備の増強を行えなかった事が致命的かと」

 領邦軍司令官の言葉にマリアベルは眉を顰める。

 基本的に、私兵の保有が認められている貴族でもあるマリアベルにとって、領内で軍備を整える為の火砲製造工廠など自身の裁可のみで建設できる。

 だが、それに難色を示した組織が存在した。

 皇立魔導院。

 皇国に於いて魔導士達を取り纏める最大組織にして、軍が正式採用しているエイゼンカイト式軍用魔術を開発した魔導集団。皇国に存在した幾多の魔術大系を効率的に統合したという実績もあるが、現在の魔導主義とも言える魔術に傾倒した軍備体制を推進する組織でもあった。

「あの屑共が邪魔しなければ()うに済んだであろうに。まぁ、叛乱を起こす前から製造は進めていた故、あと暫しの時があれば数を揃えられようて」

「それまでに本格的な戦闘にならねば良いのですが……」

 間違いなくなろうな、とマリアベルは立ち上がり独語する。

 今回の匪賊の出現も、規模と余りにも効率的な戦術を見れば、後ろにそれ相応の組織が付いている事は想像に難くない。

 ――陸軍ではないかの。いや、正面切って決戦を強要すれば佳い。となると帝国かの。

「まぁ、佳い。防御装甲を改修した中戦車が三輌完成していたであろう? それを連れて行くかの」

「畏まりました。ヴェルテンベルク伯」

 一礼する領邦軍司令官を背に小銃を担ぐ。

 花魁の如き出で立ちに、不釣り合いであるはずの小銃が不思議と似合う佇まい。

 そして、廃嫡の姫君の運命の歯車は回り始めた。








「今日もか?」

 老提督の主語なき問い掛けに、年若い作戦参謀は姿勢を正して敬礼のみで応じる。言葉を発して応じる事が礼儀であるが、それを咎める気は老提督にも起こら なかった。老提督は礼儀作法には口喧しい心算であったが、毎朝一度の台詞に三ヶ月も応じ続けてくれた作戦参謀には申し訳ないという感情の方が大きかった。

「相も変わらず戦(戦艦)一、乙巡(軽巡洋艦)二、駆(駆逐艦)四……全て旧式ですが、この辺境海域に戦艦を展開できるだけの数を保有していることが羨ま――いえ、脅威です」

 老提督は、その言葉に苦笑しながらも頷く。

「確かに、な。海軍軍人として羨ましい限りだ。相手は、旧式含めて一〇〇隻以上の戦艦を保有している海洋国家。皇国海軍とは地力が違う。気に病むな」

 老提督は作戦参謀の肩を軽く叩く。

 小勢には小勢の、大勢には大勢の戦い方がある。残念ながら皇国は前者であるが、それならば小勢なりの戦い方で戦力を効率的に運用すれば良い。それを十全 に実行するには優秀な指揮官や参謀が必要だが、自らの息子程に歳の離れた作戦参謀を見るに、皇国海軍士官学校は、それを可能にさせる人材を輩出させ続けて いると老提督は確信した。

 国家擾乱の時に在って、海軍もまた不遇を強いられている。

 神州国は皇国が政治的混乱に付け込んで、皇国の領土である幾つかの島嶼を武力で不法占拠している。幸いにも民間人の脱出は完了しているが、武力進駐という狼藉を指を咥えて見ていなければならない状況に、多くの海軍将兵は無力感に捕らわれていた。

 現状では帝国との衝突のみならず、皇国内での内乱すら抱えている為、これ以上の交戦対象を増やすべきではないという両院の消極的意向を受けて、海軍も可能な限り砲火を交える事を避けるよう努力していた。

 ――神州国も権力者同士の対立が激しいと聞いていたが……

 帝と公女を筆頭とする既存体制と、元来の孤立主義から神州国を脱却させるべきだという有力華族、蓮台寺家を中心とした改革派に分かれて政治闘争が続けられている。

 神州国は、保有している陸上戦力の指揮権が各華族などに分散しており、帝は近衛軍と海軍のみを指揮下に収めている。陸軍というもの自体が、有事に際して 組織される一時的な存在でしかなかった。海洋国家である神州国は海からの侵略を阻止する為……という建前と歴史的経緯という本音から海軍だけは効率的な運 用が成されている。海軍は少なくとも建前上、その戦力の全てが帝の下に統率されている為、戦力に劣る皇国海軍は付け入る隙すらない。

 老提督の期待する通り、神州国は政治闘争の渦中であるが、その戦力は拮抗しているとは言い難い。多くの華族を引き込み静かなる対決姿勢を見せる蓮台寺家 に対して、帝は融和を図ろうとしていたが、権力への渇望を募らせる相手に弱腰な対応は更なる強硬姿勢を生ずる結果となる。その結果として、海軍戦力の一部 を蓮台寺家が掌握。これと蓮台寺軍の一部を以て、皇国の島嶼へ武力進駐を開始した。

 これを以て、皇国と神州国間に於いて第三次北エルトラント諸島海戦が勃発した。

 結果、皇国海軍は戦術的勝利、戦略的敗北を喫した。

 陸上戦力を積載した輸送艦とその護衛戦力を含む有力な神州国海軍艦隊と皇国海軍第四艦隊が衝突。幾つもの小島が(ひし)め き合い、複雑な海流を形成する北エルトラント諸島での海上攻防戦は二日間続き、皇国海軍も地の利を生かし、魚雷艇などを多用した戦術で神州国艦隊を翻弄す るものの、艦艇の絶対数の差と大型艦の艦砲の前に敗退する。唯一の救いは、北エルトラント諸島の民間人を本土へ避難させることに成功したことであり、皇海 艦隊司令長官が民間人の安全を重視していた結果と言える。

 臣民の日常を護ること。それこそが皇軍の任務、歴代陛下の御心。

 故に皇国海軍にとっては、戦術的勝利であり、名誉ある戦略的敗北であった。

 だが、それでも尚、両国の海軍戦力の差は開くばかり。

「領海への侵入を許すな。艦隊を領海線の目一杯まで寄せるのだ」

「いつも通りの対応で?」

「相手が何時も通りならばな」

 皇海艦隊司令部からの命令に変更はない。老提督の率いる小艦隊は皇海艦隊の一艦隊であるが、同時に二線級艦艇を集めた数ある警備艦隊の一つに過ぎない。

『本格的ナ交戦状態陥ラヌ様、最大限ノ配慮ヲ行イツツ、領海侵犯ヲ行ウ目標ヲ撃退セヨ』

 それが下された命令であった。

 中々に困難な命令を言ってくれる、と憤慨する艦隊司令や艦長もいたが、老提督は同期でもある皇海艦隊司令長官が、慙愧に堪えない、と宴会の席で漏らした一言を知っているからこそ遣り切れない思いを抱く。

「いや、一番遣り切れんのは彼奴(あやつ)であろうのぅ……」

 天帝陛下不在の今この時、先皇時代より不遇強いられていたとは言え、国威の象徴の不在と、海軍戦力の損耗は致命的であった。帝国軍の侵攻と北部貴族の叛乱がなくとも、皇国海軍は護れなかった祖国の一部を奪還する事は叶わない。

「???」

 首を傾げる作戦参謀に合戦用意を命じ、老提督は一滴の血を流す事すら許されない戦場へ視線を巡らせた。










「貴族共が耳障りだな」

「少し数を削っては如何ですか?」

 リディアの問いに優しげな笑みで応じるブルガーエフ。だが、その内容は過激極まりないものであり、非合法の粛清を意味するものであった。帝国という国家 は極論すると弱者を顧みる必要性がない国家である。武力に訴えることが至上の権利であり、また国是は他者を虐げる事に対して肯定的であった。争い戦い強者 だけが立場を得て雄飛する鋼の強国を目指すが故に、必要な犠牲として弱者の損耗はある程度まで許容されていた。

 貴族との闘争に於いても、限りなく黒に近くとも黒でさえなければ……いや、例え黒であったとしても、権力、財力、武力のいずれかを以てすれば司法の結果すら覆せる。

「粛清しても意味はなかろう。あれは兄上の差し金であろうしな」

「では、隷下の軍から締め出しましょう。爺やは、あの糞餓鬼共を相手にするには少々、歳を取り過ぎましたがゆえ」

 その言葉にリディアは「良い様にせよ」と答える。

 皇国軍とエルライン要塞への一撃を加え、白亜都市エカテリンブルクへと凱旋したリディアに対する貴族達の視線は厳しいものがあった。無論、作戦の第一段 階としての後退であり、大貴族は作戦を理解した上で批判を続けるので始末に負えない。日頃は温厚なブルガーエフも貴族の前でサーベルの柄へ手を掛ける程で あり、貴族達の専横極まれりという有様である。

 ――ふん、兄上殿か……自ら姿を現さず、この様な詰まらん策ばかり……別に削がれる程の権勢など私は持っていないというのに。

 姫将軍は、凍てつく河川の畔を、老騎士を従え歩む。

 刺す様な痛みとおぼろげな陽光に、エカテリンブルク近郊に流れる大河の水面が眩しい。帝国に併合される以前、《エカテリンブルク王国》時代は対帝国戦に於ける最終防衛線でもあった大河。戦争時は大河を挟んで激しい戦闘が繰り広げられていた。

「姉姫様の故国ですか。……良いところですな」

「まぁ、帝都より暖かくはあるな」

 ブルガーエフの言葉に応じながらも、リディアは皇国の温暖で肥沃な大地と比しては余りにも寒冷な大地を見据える。

 エルライン要塞からエカテリンブルクは騎兵だけの行軍速度を考慮しても二週間は掛かる距離であるが、皇国軍の強行偵察騎や長距離偵察軍狼兵の行動半径から十分に逃れる為には、これ程に後退せねばならない。

「撤退したと思われていればいいが。皇国軍は騎兵も龍騎兵も航続距離が桁違いだからな」

「そうですな。ですが、次は負けません。その為に集中して敵の砲兵戦力を叩いたのですぞ」

 ブルガーエフの言葉は正しい。

 今回のエルライン要塞への攻撃に際しては、目標はその攻略ではなく、砲兵戦力の損耗を強要することであった。リディア隷下の鎮定軍は文字通り砲兵のみで 編制した五個砲兵師団を以て、エルライン要塞の砲兵戦力に損耗と砲弾の欠乏を齎す事に成功する。無論、帝国軍も只では済まず、戦死者と負傷者を含め四万名 近い戦力を失い、五個砲兵師団が甚大な被害を受け、帝国軍が全土に備蓄している砲弾の約六分の一を一週間足らずで射耗し尽くす結果となった。これ以上ない 規模の火力戦は、帝国陸軍に急速な弾火薬の消耗を齎す結果となった。

 消耗した五個砲兵師団は西方方面軍の隷下で戦力を再び充足させた後、共和国との戦線の一翼を担うとリディアは耳にしている。そして、その見返りとして、リディアが待ち望む増援がサバイカル工業地帯からエカテリンブルクに終結する予定であった。

 そう、親衛戦車軍団が。

 リディアは、鋼鉄の野獣達に並々ならぬ期待を寄せていた。将兵の中には、稼働率が低い戦車を“高価な棺桶”と呼ぶ者も少なくない。リディアもそのような一面があることは重々承知しているが、エルライン要塞の攻略に限って言えば有効だとも考えていた。

「戦車か……楽しみではあるな」

 担いだ大剣の柄に手を回し、愉快だと笑う。

 魔導防御に関しては皆無である戦車だが、その装甲厚はリディアの知る如何なる陸上兵器よりも厚く、貫徹力の低い魔術では致命傷を与えられない。これは、 皇国の様に魔導資源に恵まれていないからこそ、装甲を厚くして魔術、物理攻撃に対する抗堪性を高めた結果であるが、一度、どれ程のものか自ら試してみたい と考えていた。

「実戦前に定数を減らされては困ります。姫様がじゃれついて壊れない玩具などそうはありますまいて」

 ブルガーエフの言葉は的確であった。

 そう、リディアは玩具を探しているのかも知れない。幼少の頃より、魔人族の中でも桁違いの能力を生まれながらにして持ったリディアに、気安く接する事ができる者など極稀であった。

 リディアは己の両の掌を眺める。

 力加減が出来なかった幼少期、リディアと遊んでくれる者は、全てを予見する姉姫だけであった。だが、腹違いの姉は、常に傍にいてくれる訳ではなかった。

 真に欲する者は、何時もこの手から零れ堕ちてゆく。その手はモノを慈しむには余りにも武骨であったのだ。

 ――いや、皇国には壊れない玩具があるかもしれない。

 握り締めた拳。

「ふむ……まぁ、頑丈な玩具は皇国で探すとして」

 姫将軍は深い笑みを刻む。

 この時、遙か南の大地にて、一人の異邦人がくしゃみを一つして、剣聖に汚いと叩かれるのだが、それはまた別の話。

「しかし、宜しいので? 一番姫の策とは言え、稼働率の問題は改善されたとは言い難い」

「構わない。それならばそれに応じた戦い方をして見せるだけだ。違うか、参謀長?」

 戦車が誕生してかなりの時が立つが、対歩兵戦闘しか行われていない以上、その戦術は確立されたとは言い難い。特に駆動系の脆弱性から集中砲火に晒される 対要塞戦や、本来予定されていた対塹壕戦では当初の予想されていた被害を大きく上回っており、改善の余地は未だ無数に存在する。

「では、そろそろ帰りませぬか? この寒さ、些か老骨には響きます」

 ブルガーエフは、指先はタチャンカを指差す。

 タチャンカとは、帝国軍で用いている数頭立ての馬が曳く馬車の荷台に軽機関銃を搭載し、御者と銃手が乗り込む機動性を兼ね備えた軍用馬車の事bである。 帝国軍の兵員移動と輜重部隊の主力として重用されていた。軍の機械化と魔導化が進んでいる皇国であっても、機械化率は全軍の極一部である事を考慮すると、 将校が移動にタチャンカを用いている事も何ら不思議ではない。

「そうか。ならば、帰るとしよう」

 タチャンカの御者席に座る兵士に振り向き、エカテリンブルクの方角を指す。本来ならば、軍司令官と参謀長の行動にはそれ相応の護衛が付いて然るべきであ るが、その護衛の多くがリディアと比して脆弱であればそれは意味を成さない。リディアの警護をするのであれば、充足編制の二個師団が必要である。

 二人が乗り込むとタチャンカは静かに動き出す。

 過ぎ行く景色を眺め、リディアは嘆息する。

 ――エルライン要塞を陥落させるのは難しくはないが……その後、皇国軍がどう出るか……

 叛乱で戦力を大きく減衰させると期待されてはいるが、個々の戦闘力が隔絶した種族が存在する以上、皇国北部全域を戦域としての戦いは不可能。なれども広 域に分散し、遊撃戦に移行された場合、大兵力で敵軍を圧倒する事を得意とする帝国軍もある程度の分散に迫られる。無論、皇国軍の創設理念を護るのであれ ば、臣民を巻き込むであろう遊撃戦は行わず、比較的早い段階で纏まった兵力を投入し、決戦に応じるとリディアは踏んでいた。

 この時、リディアは気付いた。

 エカテリーナの策は全てに於いて、早い段階で皇国軍に決戦を強要するように仕組まれている。

「そうか……姉上も……」

 リディアは薄く微笑む。

 エカテリーナの意図するところは帝国軍への負担と戦争状態を長引かせる事への懸念、そして何よりも国庫への負担を考慮しての事であるとは分かっていたが、民への理不尽な皺寄せが減少する事は素直に喜べた。

「姫様、気持ち悪く御座いますぞ。彼の男との出遭いには……少々、早いかと爺やは愚考しますが」

「またその話を持ち出すか……。あれは不確定要素でしかない私などに好んで近づきはせんさ」

 辟易としながらも笑って見せる。

 だが、内心では次に出会えばどの様に接するべきかという思いが渦巻いていた。武人として再び刃を交えたいという想いと、年頃の少女として出逢いたいという想いが渦巻き、言葉には言い表せない想いが胸中を席巻している。

 武人として、少女として。二つの相反する立場が、トウカに対する感情を複雑なものにしていた。

「姫様?」

「ん、あぁ、なんだ、参謀長」

 機関銃弾の収められた弾薬箱に背を預けたリディアは、大外套を深く着込み縮こまるブルガーエフに生返事を返す。胡乱な返事であるが、疲れているという理 由もあった。エカテリンブルクは一番姫たるエカテリーナの直轄領でもあり、有象無象の貴族が容易に手出しできる場所ではないが、帝位を掛けて争う親族の中 にはあからさまな妨害を仕掛けてくる者も現れ始めている。リディアにとって“武”を以てして掣肘できない敵手は全て難敵である。疲労も已む無しと言えた。

 ふと白銀の大地に目を向けると小さな影を認める。

「――ッ! 止めよ!」

 戦場でも度々、感じる悪寒にリディアは鋭い視線を一方へ向けた。鋭い制止の声にタチャンカが、軍馬の嘶きと共に停車し、ブルガーエフが据え付けられた機 関銃へと取り付き、軽機関銃の皿型弾倉を叩くことで稼働するか確認すると銃把を握る。寒冷地帯では、皿型弾倉の回転部が凍りつき稼働しない可能性もあっ た。

 軽機関銃が旋回し、リディアが見据える方角へと銃身を振り翳す。

「民間人……か?」

 凍てつく河の畔に佇む妙齢の女性の姿を認め、リディアは眉を顰める。

 リディアは隷下の鎮定軍のエカテリンブルク市内への侵入は禁止している。これは、道徳面で劣弱な将兵達が臣民に対して乱暴狼藉を働かぬようにする為の措 置であったが、市街から安易に、しかも一人で出歩かれればその身は保証できない。命じた指揮官として屈辱の極みではあるが、帝国では道徳という概念より、 暴力という現実が優先される。

「やめろ、参謀長。怯えさせてどうする」

 機関銃の銃身を片手で掴み、捻じ曲げる。曲がった銃身に顔を引き攣らせたブルガーエフを無視して、リディアはタチャンカから飛び降り、凍てついた河の畔に佇む女性へと視線を巡らす。

 怯えさせないよう静かに歩み寄ると、その女性は赤子を抱いていた。

「市外は危険だ、御婦人。私がお送りしよう」 

 手を差し伸べたリディアに女性は肩を震わせる。帝国軍とは、皇帝と貴族の護り手であって臣民の守護者ではない。その現実を改めて実感するリディア。

 恐る恐るリディアの差し伸べた掴む女性に微笑んで見せる。

 外見だけを評価の基準とするならば、リディアは戦乙女であり、また同時に見目麗しくも凛々しい御令嬢であった。女性的な佇まいの中に男性的な魅力をも兼ね備えたリディアは、帝国内でも男女問わず人気がある事もあり、女性から感じられた警戒心が霧散する。

 軍人ではなく、凛々しき乙女として。

「しかし、感心できんな。外が危険な事くらいは知っているはずだが」

「も、申し訳ありません……」

 リディアの出で立ちと佇まいで貴族であることに気付いたのか、女性は恐縮した面持ちで頭を下げる。

 軍装の上から大外套を身に纏ったリディアの軍装は、帝国陸軍士官の冬季装備であり、臣民にとって恐怖の象徴でしかないのだ。

 リディアは近づいてきたタチャンカを、片手を上げて停車させると、荷台へと飛び乗り、魔人族の膂力で女性を引っ張り上げて抱き止める。女性の抱えていた 赤子がリディアと女性の間に挟まり泣き声を上げるが、女性があやすと直ぐに泣き止む。リディアには叶わない芸当であり、その事が女として少し羨ましく感じ られた。

 ブルガーエフは警戒しているのか、微笑みながらもその視線は鋭い。

 指示を受けた御者は、手綱を握り、タチャンカを走らせる。

 過ぎ行く代わり映えのしない雪原の景色を眺め、リディアはどうしたものかと眉を顰める。

 ――この御婦人は赤子を……

 捨てる気だったのだろう。

 女性が自身を一目見た一瞬、憎悪の念が噴き上がった事にリディアは気づいていた。帝国臣民で帝国貴族を憎悪しない者はいないという事実を、士官から現在 の地位まで上り詰めた叩き上げの前線将校でもあるリディアは痛い程に理解している。例え、他国の侵略を受けた地域の奪還に成功し、凱旋したとしても臣民に 向けられる視線は恐怖と憎悪しか宿っていない。

 リディアは歯を食いしばる。

 それは、女性の蛮行に対する義憤ではなく、それほどに民を困窮させている帝国という政治機構とそれを止め得ない軍部に対してであった。リディアは、もし 女性が河に赤子を投げ捨てようとしてもそれを止める気はなかった。帝国の荒廃の一端を担う帝国貴族でもある自身にその資格がない事を重々承知している点に 加え、自らが帝国内で口減らしで捨てられる全ての子供達に責任を果たす事ができない点を理解していたからでもある。

「生きるのは辛いか?」

 その曖昧な言葉がどれを指すのか、普通であれば首を傾げるだろう。

 だが、女性はその言葉に目を伏せ、頷く。

 日々の小さな幸せの数々を押し潰す程に、帝国は臣民に不遇を強いている。幸せが霞むほどに不幸が強大である以上、女性の非人道的な判断は正しい。全てを失う前に、一部を切り捨ててでも助からんとする事は決して間違いではないのだ。

「私は、この子と普通に生きたい! でも、でもッ、養えないんです!」

 女性の慟哭にリディアは答えない。

 子供だけでなく、或いは自ら諸共に極寒の河川に身を投げ捨てる心算だったのだろう。

 答えを紡ぐにはリディアの口先は他者に死を命じ過ぎた。それは国防を理由としても余りにも過剰な流血であり、軍人以外の者達も多くが巻き込まれた。最小限に留めるよう努力はしたが、それでも尚、多くの命がリディアの眼前で失われた事実に変わりはない。

「帝国軍人として私は御婦人に赦しを乞うことはできない」

 何を成せばよいか、リディアには分からない。

 だが、帝国軍人とは帝室と政府の命令を受けているだけであり、また命令を遂行可能なように組織されているに過ぎない。例え、将兵が戦地や自国領で略奪や暴行を働いたとしても、その罪は究極的には当人達に帰属しないのだ。

 促成訓練だけを施し、過酷な大義なき戦場へと将兵を出兵させている以上、責めを負うべきはその体制を許容し続けている帝室や貴族にこそある。

 そして軍人であり、同時に貴族でもあるリディアの罪は如何ほどのものか。

「だが、帝国貴族の一人として、高貴なる義務を果たせているとは言い難い現状には申し訳ないと思う」

 それがリディアの精一杯。

 このような言葉を臣民へと向ける事は本来であれば許されない事であるが、ブルカーエフは無論のこと、タチャンカの御者を務めている兵も信用できるもので あり、本音を口にしたとしても外部に漏れる事はない。ブルガーエフに関しては、御者の兵に私物の高級細巻を勧めて、リディアに意識を向けない様にとの配慮 までしていた。

「私には難しい事は分かりません……でも、叶うなら平穏に過ごしたい。家族が飢えるところは見たくない……」

 女性の呻くような声に、リディアは黙って頷く。

 望んで子を捨てる親などいない。そう断言するほどリディアは世間知らずではないが、少なくとも大多数でない事は理解していた。

 だが、実際問題として成長期の子供を養うには多くの金銭と食糧が必要であり、働き手としても心許ない。他の家族が飢えない為、誰が最初に捨てられるかと 言えば、それば間違いなく子供。だが、食い扶持が減らねば家族皆が飢える事になる以上、一番、賢明な方法であり、悲しい方法でもあった。

帝国領内にあって、比較的温暖な南部に位置するエカテリンブルクですら、それほどまでに食料自給率が低下している事実は、リディアにも衝撃を与えた。エカ テリンブルクという大都市の名は、エカテリーナの名の一部を冠している事からも分かる通り、エカテリーナの直轄領となっている上に故郷でもあった。完璧主 義にして自身の権力基盤であるエカテリンブルクの食糧自給率の低下と犯罪発生率の上昇を、エカテリーナが黙認するはずもなく、また統治を任されている貴族 や執政官も優秀な者ばかりである。

 エカテリーナも手を拱いているわけではない。帝国を東西に横断している帝国横断鉄道から路線を引き込み、物資の輸出入により経済状況を改善しつつある。

「儘ならんものだな」

「信用できる者達を選抜し、治安維持活動でも行っては?」

「ならん。民にとって帝国軍は恐怖の象徴なのだ」

 リディアは、ブルガーエフの提案を切って捨てる。

 恐怖で民衆を統制する事を是とする帝国軍が市街を巡回したとしても不信感を植え付けるだけ。例え帝国軍内で、リディアに古くから忠誠を誓ってくれている者達を中心に編成したとしても帝国軍であることに変わりはない。民衆にとっても帝国軍に変わりはないのだ。

 ――私は、戦争以外に出来ることなどない……

 姫将軍は改めて痛感する。

 軍という暴力装置は、決して貧者の空腹を満たし得ず、また他者の痛みを知ることはない。不可能ではないのかも知れないが、余りにも効率が悪く実践された試しがなく、同時に場当たり的対処でしかなかないのだろう。故にエカテリーナが提案することすらない。

 無言の姫将軍と女性を乗せたタチャンカはエカテリンブルクへの道を進む。

 ブルガーエフを含め、皆が無言であった。

 リディアは、エカテリーナがこれに対する策として皇国侵攻を立案したと理解している。食糧がないならば存在する場所より奪えばよい。叶うならば、食糧自給率が高い土地をも手中に収め、恒久的に食糧問題を解決できるよう考えているとも聞いていた。

 だが、理解はできるが納得はできない。

 多くの将兵が寒空の下、屍を晒す事は避けられない。帝国陸軍総司令部は、戦死者数の推定を一〇万~一五万の間であると予想していたが、リディアは楽観的すぎると考えていた。

 そして、エカテリーナもそれを是として、リディアにこう述べた。

 ――勝機があるなら、半数は失っても構わないわ。

 冷徹に、そして冷静に許しを与えて見せたエカテリーナは、相変わらずの淡い笑み。

 自身が持つ常識という名の物差しでは計り知る事のできないエカテリーナの笑みに、リディアは言い知れぬ不安を抱いた。帝国という国が強国となった一端を エカテリーナの智謀が担っている点は十分に理解している心算であったが、それに頼り続けることが帝国にとって良い事だとはリディアには思えない。知らず知 らずの内に帝国という国家は多くを失い始めている感覚をリディアは抱いている。

「まさか、な……」

 リディアは頭を振る。姉は深窓の女帝であって傾国の魔女ではない。

「姫様、市街に入りました。そろそろ……」

「そうか……では、御婦人、この辺りで良いか?」

 気が付けば、外門すら過ぎていたらしく、見回すと夕焼けに染まるエカテリンブルクの石造りの街並みがリディアを見下ろしていた。帝国の行く末に対する懸念と、姉に対する疑念は、リディアに時を忘れさせるほどに重要なものへとなりつつある。

 リディアは停車したタチャンカから下り、荷台の女性に手を差し伸べる。

 降りてきた女性を支え、リディアは大地へと立たせる。その時、衝撃に驚いたのか、女性の腕に抱かれていた赤子が泣き声を上げる。

「あぁ、申し訳ない。どうしようか?」

 赤子のあやし方などリディアは聞いたこともないし、実際に相手にしたこともなかった。リディア自身も女ではあるが、母となることなど想像の埒外であった。姫将軍にとって、銃火の煌めく戦場が日常であり、子供達に囲まれた日々は非日常に他ならない。

「ほら、撫でてあげてください。軍人様」

「いや、私は……嚙み付いたりせんか?」

 軍用犬を眼前にしたように警戒するリディアに、女性とブルガーエフが笑みを零す。

 リディアは、恐る恐るといった風に赤子へと手を伸ばす。

 初めての体験にリディアは緊張していた。

 たが、赤子はリディアの人差し指を両手で掴んで笑い声を上げる。

「か、可愛いな」

 無邪気なその笑みは、この動乱に満ちた帝国にあって直視することを躊躇う程に輝かしい。そして、幼き命の輝きはリディアに一つの決意を齎す。

「護らねば、な」

 リディアは決意を新たに、皇国へと続く空を見上げた。



 

 

<<<前話  次話>>>