第二五話 純粋にして歪、狂気にして凛冽
「全く、虫唾が走る……全てに」
国防色の士官服に身を包んだ中年の容姿をした男が呟いた。
皇国で半世紀前に国防色の名称で採用された暗緑色を基調とした軍服であった。詰襟で釦は五つ、波型の蓋付き衣嚢が上下左右に四つ付いており、右衣嚢の上部には国章が付いている。無論、飾緒や幾つもの勲章、戦功章などが輝いており、赤の地に金の幾何学模様が描かれた肩章と襟章は元帥である事を示していた。そして、特徴的な側面に赤い線が2本入っている上に、机の上に置かれた軍帽の顎紐や釦、刺繍帽章も金色である。
肩の階級章と襟章を見れば、その男の階級と役職が分かる。
《ヴァリスヘイム皇国》陸軍、陸軍府長官、バルタザール・フォン・ファーレンハイト。
炎狼族に連なる気高き狼であるが、永き時を経た故にその外見は人間種との相違は見られない。低位種であっても、歳を経る程の研鑽を以てして魔導を極めれ ば、局地的だが高位種に対抗できる。故に永き時を生きた種族で有れば有る程、人間種の姿を完璧に模倣し得た。無論、母親が人間種との混血であるという理由 も大きく影響していた。
そんな男が、木製の椅子に深く腰掛けて呟く。
「時代は、どうしても皇国臣民に血を流させたいらしい。怪しからん事だ」
腕を組みカイゼル髭を揺らした硬骨の将官。
その顔は苦虫を口内で大量虐殺していますと言わんばかりの造形であった。それ故に対面に座る男は、また始まった、と盟友の皮肉を苦笑と共に受け止める。
ファーレンハイトの対面に座る高年に差し掛かったばかりに見える男は、黒色をした冬用でもある海軍第一種軍装を身に纏っている。その姿は人の悪い笑みも
相まって、遊び人とでも言うべき雰囲気を醸し出していた。陸軍のものと比べて簡素な造りの軍服ではあるものの、襟を高く、腰囲は絞って襟章の形に凝っている上、着丈は短く、長袴は美脚効果を狙って絞られている。だが、黒地に金で簡素な線と星が描かれた肩章を見ても分かる通り、元帥の地位にいる人物であった。
《ヴァリスヘイム皇国》海軍、海軍府長官、アロイジウス・エッフェンベルク。
生粋の人間種でありながら、若くして海軍元帥の地位にまで上り詰めた皇国有数の戦略家。神州国との小競り合いに於いても、海軍力で大きく水を開けられている皇国海軍が艦艇数に押し切られていないという奇跡は、一重に彼の卓越した手腕の賜物であった。
「時代ではないね。周辺諸国が肥沃な大地を欲し、幸いな事に我が国が政治的にも軍事的にも弱体化していた。それだけさ」
肘を机に突き、硝子碗を傾ける軟派な将校。
性格に於いても、率いる軍勢の性質に於いても、対面に位置する二人であるが、その仲は良好であった。それは、国難の皇国の軍勢を率いるという重圧という理由以上に、互いに自身が持っていないものを相手が持っていると理解しているからである。
「君も賛成しただろう? 大御巫が戦力を集め、進んで憎まれ役になってくれるんだ。喜んだらどうだい?」
皮肉に塗れた言葉を返すアロイジウス。
対するバルタザールは、苦い顔であったが、事実であるとも理解していた。
大御巫の簒奪とも取られかねない摂政就任であるが、陸海軍の長でもある二人はそれを容認する。そして、皇城の議会を行う為に作られた巨大な一室で、二人は狂おしいまでの愛国心を携えた大御巫と邂逅した。
――国を護ります。貴方達の刃を私に預けていただきます。
それは、事実上の命令であった。
余りにも直接的な物言いにバルタザールが激昂しそうになったが、アロイジウスがそれを制した。二人は異なる反応を示したが、刃を抜かなかったのは、その 時点で、アリアベルが唯一、皇国の担い手足り得る資格を有する事ができる立場であると理解したからである。アリアベルの摂政即位の宣言の直後、皇国は政治
的軍事的混乱をきたしていたかと言えば、実はそうでもなかった。先代天帝陛下が崩御してから、人間種の時間の流れからすると少なくない時が流れているが、 そうであるからこそ指導者不在の中でも最低限の国体を護持できるだけの権利を得た武官と文官が育った事は皮肉である。
しかし、大局的に見ればそれは緩やかな廃滅でしかない。
故に二人は己の職分を逸脱しない範囲で協力し合い、国体護持を担い続けていた。だが、同時に政治的には如何ともしがたい程に皇国は傾いていた。末端の機 能不全は特に甚大であり、それ故に北部の叛乱を抑える事も、事前に察知する事もできなかった。政治に足を引っ張られれば、軍は十全に機能しない。議会は国 家予算の可決が可能な程度には纏まっていたが、問題は枢密院であった。
皇国は、皇権神授を骨子とした君主制と、貴族院と衆議院からなる両院制議会を併用した政治体制を取っている。一見すると立憲君主制と酷似した政治体制で もあるが、天帝の権限がそれよりも大きい事に加え、実在する天霊の神という高位存在によって選出される天帝という二点が大きな相違点であった。
そして、それらとはまた別に枢密院と呼ばれる組織が存在する。
枢密院は天帝の諮詢を受けて重要な国務を審議する機関である。しかし、天帝不在の今となっては、先皇時代の思想に固執する老害と成り果てていた。枢密院 は、基本的に行政への関与を禁止されていたが、時折、政府に干渉しており、事実上の拒否権を有していると言っても過言ではない。
「今、政治面で皇国の斜陽を押し留めておるのは、臣民主体の衆議院の者達だ。本来、臣民を先導するはずの貴族院は混乱しておる」
バルタザールの言葉に、アロイジウスは肩を竦める。
今代の天帝となられる者が行方知れずとなり、浮足立った貴族院は、瓦解しかけていると言っても過言ではない。権勢の割合で言えば、貴族院に分があるが、今の皇国を政治的に引っ張っているのは紛れもなく臣民主体の衆議院であった。
「だが、それでも尚、国体の廃滅は止まらない」
臣民の力は弱い。純粋な保有能力の問題以前に、脆弱な権力基盤が仇となって、その能力を十全に発揮できないのだ。だが、臣民に権力を与えすぎる事は、初代天帝ですら避けた。
短命種が大半である臣民は過去の悲劇を忘れ、往々にして同じ轍を踏む。共和国の政治家の中でも賄賂や癒着などの腐敗が著しい理由は、短命種であるが為 に、代替わりによって過去の失敗を短期間で忘却の彼方へと追いやる事が原因であると、歴代天帝や、それを輔弼した三神公は重々承知していた。経験を重ねた
としても短い時を生きて散ってしまう短命種とは違い、長命種は永く生命を繋いだ者であれば、その膨大な経験や回顧により、最善に限りなく近い解を導ける。 無論、長命であるが故の思想への固執と発想の硬化という欠点もあるが、国体護持に支障をきたすほどにそれらに偏る事は有り得ない。だからこそ長命種が主体 となった国政が敷かれているのだ。
主権の分散は、その重責を不鮮明なものとし、無責任へと繋がる。
国民主権など、感情に酷く左右され易い民意の過剰な反映など恐怖でしかなかった。
嘗ての《大アトランティス帝国》の轍を踏むまいと、それらに対する抜本的な対策。
為政者の視点から政治を考える貴族院。
臣民の視点から政治を考える衆議院。
どちらか一方が国を腐敗させず、或いは民に不遇を強いる事のないようにと願って、初代天帝は両者の意見を取り入れる事のできる様に両院制を採用した。そ れは、自らの権勢に二つの枷を嵌める意味もあったのかも知れないが、それを知り得る者は秘境へと隠居している建国に協力した偉大な高位種達くらいのものだ ろう。
対抗勢力の存在によって、腐敗と暴走を防止するという意図もあったのかも知れない。共に階級層の代表として存在し、ある程度の民意を吸い上げる事もできる。総ての階級層に過度な信頼を寄せない政治制度と言えた。
「まぁ、俺達は大御巫に協力するしかない訳だよ。摂政就任の宣言をした直後に、協力してください、なんて言うんだぞ? あれは新手の脅しだね。大御巫……いや、第一皇妃には溢れんばかりの詐欺と強請りの才能があると見える」
楽しげにな表情でアロイジウスは、硝子碗を煽る。
バルタザールも、ふん、と鼻を鳴らして応じた。
アリアベルは政教分離の原則上、大御巫の立場を振り翳して政争の只中に躍り出る事はできない。第一皇妃という曲芸染みた(アクロバット)な手段で、その 名分を躱した様に見えるが、それで万人が納得するはずもない。そして貴族院は相も変わらず混乱し、衆議院は静観の構えで、近衛軍は遺憾の意。この上、陸海 軍が静観、若しくは否定の意志を明確にすればアリアベルは四面楚歌だった。
だが、それでもアリアベルは、混乱する政治の世界へと華麗に舞い降りた。
――護るべき祖国と共に座して滅びるか、共に外道の統率を以て祖国を救うか。
アリアベルは選べと言う。
その上、軍の傀儡には甘んじる事はない、と言ってのけるその豪胆さ。
バルタザールは、なれば我らに何の利益がある、と問うた。バルタザールもアロイジウスも陸海の国軍を率いる身であり、個人の感情でそれらを動かすのは最高指揮官たるの矜持と皇国開闢以来の憲法が許さない。故にそれだけの利益と理由を求める。
だが、アリアベルはそれを一蹴する。
――利益? 亡国の淵にある祖国の救済以上の利益が陸海の国軍の長にあるのですか?
心底不思議そうに小首を傾げた大御巫の言葉に二人は戦慄した。
もし、その場で断っていれば、アリアベルがどの様な行動に出たか、二人にも予想すらできない。意外と何も考えてはいなかったという可能性と、断られると すら考えていなかった可能性も捨てきれないが、もし断られることを前提にアリアベルが話を進めていたらという懸念を振り払う事ができなかった。
その場で断ることは、極論すれば祖国の崩壊が救済以上の利益があると取られかねない。無論、二人は御国の楯を使命とする軍人。祖国の為ならば命を擲つことすら躊躇う気はなかった。
だが、アリアベルは舌先三寸で二人を売国奴に貶めようとしていた。
言質を取られたところで二人の権勢が揺らぐことはない。斜陽の皇国を軍事的な面から支え続けたその手腕は、大御巫の権勢と謀略を政戦共に於いて正面から 打破して有り余る。軍に対して実質的な実権を有している以上、摂政就任の宣言をしただけで実権一つ得られていないアリアベルに後れを取る事はない。
それでも、アリアベルの瞳に可能性を感じた。
無論、陸海軍が擁護すれば、強引とはいえ力を行使する大義名分を得る事ができる。そしてその大義名分という刃を以てすれば、北部貴族の叛乱と帝国の侵攻 に名分上、立ち向かう事も不可能ではない。アリアベルに主導という形になってしまうが、国難に立ち向かえる唯一の可能性であった。
隷下の将兵を納得させ得る唯一の御旗である。
だからこそ二人は頷いた。
国の為ならば、この首差し出してやる事も吝かではない。二人の心中は、まさにそれだったが、その主犯をアリアベルが進んで臨むのであれば尚の事、好まし い。大御巫であり、クロウ=クルワッハ公爵令嬢でもあるアリアベルは、第一皇妃にして、摂政就任という建前も用意した。これ以上の神輿はない。
だが、軍の最高司令官が国家元首不在とは言え、政治を無視した軍事行動を取れば、それは武装蜂起に 他ならず、やがては暴力的な手段の行使によって非合法な政変へと移り変わるだろう。そうなれば、事を成し遂げた後、バルタザールやアロイジウスだけでな
く、その部下の多くにその罪が及ぶ。罪を踏み倒すには、その罪を声高に叫ぶ者達の口を塞ぎ得るだけのナニカが必要なのだ。その辺りをアリアベルは語らな かったが、その点を承知している様に見受けられた。
「あの小娘は我らに可能性を見せた。権力と政治に拘束された軍が、本来の責務の果たす可能性を、だ」
「その可能性は継ぎ接ぎだらけの御粗末なものだよ?」
茶化した台詞で皮肉に顔を歪めるアロイジウスに、バルタザールは軍人然とした大音声で満足そうに笑って見せる。
「構わん! 大いに結構ではないか、ええッ! 継ぎ接ぎだらけあっても、可能性には変わりなかろう!」
バルタザールの轟音とも取れる答えに、アロイジウスは満足する。アロイジウスは自身がどうしようもない程に捻くれ者のであると理解していた。だからこ そ、アロイジウスは、バルタザールの明朗闊達で豪放磊落な性格を好んでいた。対するバルタザールもアロイジウスの神算鬼謀と怜悧狡猾な性格を羨んでいた が、当の本人達が互いの感情に気付く事はない。
「遺憾千万だと思っておったが、希望の光は差し込んだ。……少々、厚かましい光ではあるが」
「そうだねぇ……ヴァルトハイム卿のように厭離穢土とでも洒落込もうと思っていたんだけどな。……じゃあ、継ぎ接ぎだらけの可能性を補強しようか」
薄く嗤う海軍府長官。
この翌日、政治の頸木から解き放たれた陸海軍が、鋼鉄の意志の元、戦時体制へと移行し始める事となり、今日へと至った。二人もまたアリアベルの純粋にして歪、狂気にして凛冽なる歯車に絡め取られた形となったが、当人達はそれに気付かない。否、敢えて目を瞑った。
「まずはベルゲン近郊に展開している征伐軍への増強だね」
アロイジウスの言葉に、バルタザールが頷く。
本来であれば陸軍の長たるバルタザールが切り出さねばならない問題であるが、アロイジウスの智謀は陸戦に於いても例外ではない。指揮官としての資質、参謀としての才能の双方を有している稀有な軍人であった。
ベルゲン近郊で戦力の再編成を行っている征伐軍の戦力は三個軍団……九個師団を主体としている。北部方面軍の戦力の一部は叛乱軍側に寝返っており、叛乱軍の戦力は日を追う毎に強大になりつつあった。郷土師団の叛乱軍への加担もあるが、北部の領民そのものが戦力化されつつある事を何よりも懸念した。
皇国に於ける徴兵制度は他国のものと比して複雑にして怪奇であった。それは各領地の貴族の裁量に一任されている事によるものである。志願制の国軍とは違 い、領邦軍は基本的に徴兵で集めた戦力を基幹としているが、その内容は他国とは大きく違う。基本的に国民に忌避される徴兵制度だが、皇国では限定的ながら
も肯定されているのだ。これは、徴兵と引き換えに貴族が個別に出している賞与と控除に依るところが大きい。
大別すると課せられた税や義務の免除と引き換えである場合と、安定した収入を求めての場合の二種類に分かれており、領民を徴兵するだけでなく、それ相応 の救済手段を用意している。無論、貴族領毎に多少の差異はあるが、他国の様な強引な形での強制徴発は行わない。その様な一面を多分に持っているからこそ、 皇国に於いて貴族は畏敬の念を抱かれる。
そしてエルゼリア侯は、この叛乱に領民を加えなかった。領民だけでなく、生きとし生ける命が損なわれる事を何よりも恐れ、嘆いた。だからこそ領民は彼を見捨てない。
志願兵として集まりつつある領民の数は、北部全体で一〇万を超えると陸軍参謀本部は予想していた。練度や編制、武装に大きな差異があると考えられるが、その戦意は侮れない。叛乱軍の志願兵達からすれば、征伐軍こそが売国奴であり故郷を犯す怨敵に他ならない。
皇軍双撃のみならず、本来守るべき臣民にまで刃を向けねばならないこの現状。
「早急に手を打たねば国が割れかねんぞ」
「エルゼリア侯は無意識に北部にとっての最善の手を打ち続けている……始末に負えないね」
政戦両方に於いて、平凡であるとの評があるエルゼリア侯爵だが、寛厚にして懇篤であるが故に領民達は彼を敬慕する。
もし、征伐軍が勝利したとしても北部の領民は感謝などしない。寧ろ、市街を行進する征伐軍に、怨嗟と共に石を投げてくるだろう。先皇時代、将兵は不遇を 強いられていた。その上、追い打ちをかけるような今回の叛乱。将兵の士気を保つには、やはり大御巫にして第一皇妃たるアリアベルの威光を最大限に利用する しか士気を維持する方法はない。
「一ヶ月以内に即応可能な陸軍の中央軍集団を投入しようではないか」
バルタザールの一言に、アロイジウスも頷く。
中央軍集団。
それは、皇国の国防戦力上で重要な戦力であった。
基本的に各方面軍に任されている国境防衛であるが、敵の圧力が増大し、これに対応できなくなった際の即応予備としての一面を持った予備戦力である。皇都 を含む中央部を策源地とする強力な打撃戦力でもあった。三個突撃師団に二個騎兵師団、一個装虎兵師団、一個軍狼兵師団、一個魔装砲兵師団、一個機甲師団、
一個航龍師団、によって構成された中央軍集団は、火力と機動力を重視した戦線への火消しを前提とした高機動打撃戦力であり、皇国有数の大兵力でもある。複 数ある軍集団の中で、兵力では最も少数であるものの、随一の魔導戦力と火砲戦力を有するそれらを投入すれば如何なる防衛線でも鎧袖一触で粉砕できると、バ ルタザールは信じて疑わない。
だが、現在の戦況は単純なものではない。
「足りないね。戦線全体を押し切るだけの戦力が必要なんだ。どうしても一定以上の数が必要になる」
アロイジウスの考えは特別なものではなかった。
中央軍集団の突破力を以てして、北部のエルゼリア領に進撃。短期間で叛乱の首謀者でもあるエルゼリア侯を含めた北部貴族の捕獲或いは殺害する。だが、叛 乱軍が統制を失い、広域に分散しての遊撃に転じる事を阻止する為、大兵力で叛乱軍の支配地域を包囲しつつ制圧せねばならない。浸透突破を許さないだけの兵 力が少なくとも必要とされるのだ。
だが、これ以上の戦力の抽出は、帝国以外の周辺国家の野心を掻き立てるであろう事は想像に難くなく、主導権争いが続く神州国や、民族的纏まりに欠ける部 族連邦は外征の余裕は皆無であろうが、軍事力を行使してまでも民主主義国を増やそうと画策している共和国や、その属国は大いに警戒すべきであった。共和国
との国境線は戦力の増強こそ行われていないが、第二種警戒態勢に移行させており、いざ事があれば直ぐにでも戦闘行動に移れた。
「陸軍にこれ以上の余裕はない。部族連邦方面の戦力は元々少ない。神州国方面は既にかなりの戦力を抽出している。これ以上は……近衛軍も大御巫の下では戦ってはくれんぞ」
渋面のバルタザール。子供が裸足で逃げ出す笑顔に、アロイジウスは苦笑する。
陸軍と近衛軍から戦力を出せないならば、海軍から抽出すればいいのだ。
「海軍が戦力を出すよ」
「……陸戦艦隊か……使えるのか?」
更に顔に皺を寄せるバルタザール。
それも無理はない。海軍陸戦艦隊は創設以来、大規模な戦闘を経験しておらず、叩き上げの野戦将校でもあったバルタザールは、その点を最も懸念していた。 バルタザールは将兵だけでなく、兵器にも過度な実戦証明を求める事で有名であり、実戦経験がなく、未知の兵器を扱う陸戦艦隊に胡散臭いという思いを抱いて いた。
実際、バルタザールの考えは、間違ってはいない。アロイジウスが海軍長官に就任するまでと言う条件付であるが。
元来、陸戦艦隊とは艦船に搭乗している水兵に銃火器を持たせた簡素なもので、治安維持や軍港の警備や防衛の戦力であった。軍港付近で問題が起きた際、水 兵に掻き集めた銃を持たせた事が起源であり、その主任務は野戦や大規模会戦ではない。軽装備であり、行軍すらも考慮されておらず、帆船時代の如き敵艦への
斬り込みすら珍しくなった現在では正面戦力ですらなかった。大日連海軍に於ける陸戦隊と近い性質を持っている。
だが、アロイジウスは海軍長官に就任して以降、陸戦艦隊の内実は大きく変化しつつあった。
軍港の警備や防衛から奪われた島嶼を奪還する敵前上陸可能な、強襲を行える精強な戦力への移行。これは世界初の試みであり、未だ実戦で陽の目をみてはい ないが、神州国に一部の島嶼を奪われている皇国には、将来的に必要な戦力だとアロイジウスは確信していた。だが、海洋国家である神州国ですら海軍の陸上兵 力がお座成りである以上、この試みは苦難の連続であった。
「戦車や装甲車、野砲も陸軍の通常編成の師団より多いからね。戦術規模なら一点に火力を集中させる事に関しては、皇国随一だよ?」
自身が育てた陸戦隊への絶対の自信を見せるその姿に、バルタザールは破顔して頷く。盟友がそれ程に評価するならば、という期待と、魔導戦力主体の陸軍には少ない戦車が多いと聞いて、少なくとも一方的な敗走はないだろうと判断した。
「三個陸戦艦隊団全てを投入するよ。補給はそちらに任せていいかい?」
陸戦艦隊は、その多くを陸軍の武装と共通規格化しており、調達費用と補給面で最大限に維持費を減らせるよう組織されていた。これは、強襲上陸用の特別な 装備を整える為の、予算確保という名の言い訳でもある。共通規格にすれば弾火薬や装備品などの調達金額は大幅に削減できる為、小銃や対空機銃などの火器か
ら、戦車や装甲車などの大型兵器なども共通化が図られていた。生産工程の単純化にも大きく貢献しており、各々で大きく武装と編成が違えている領邦軍との明 確に異なる一点と言える。
窓から皇都中央幹線を見下ろすバルタザールに、問うアロイジウス。
「任せろ、盟友。……む、酒が切れたな」
背後に立っている給仕に空瓶を示す。
国防に関する密談を他者に聞かせる事は得策ではないが、二人がいる場所は、アロイジウスが準備した水交社の最上階に位置する一室であり、防諜という点においては信頼が置けた。
水交社とは、海軍府の外郭団体として創設された海軍将校の親睦を目的とした組織で、海軍関係者は優遇される為、偏った利用者が多かった。社長は現任海軍 長官の兼務であり、アロイジウスの箱庭と言っても過言ではない。陸軍にも陸軍将校、陸軍高等文官の親睦組織として、偕行社と呼ばれる公益財団法人がある
が、二人は密談をする際は専ら水交社を利用している。これは単純に国際的な側面を多分に持つ海軍の水交社が、より他国のものを含めた多種多様で上質な酒を 置いているからであった。それをバルタザールが目当てにしている事をアロイジウスは理解しているので、こうした日には珍しい酒を集める様にしていた。
「なら、あれはどうだい? エスターライヒ産のモルトだ」
壁際の戸棚に仕舞われた一本に、アロイジウスは視線を移す。
エスターライヒ・モルトとも呼ばれるその一本は、極めて珍しい銘柄として有名であった。寒冷地帯でもある皇国北部の小さな蒸留所で作られるそれは、とあ る北部貴族の資金援助によって自身の為だけに製造されており、一般に出回ることは滅多とない。希少種として知られる紫苑桜華で作られた樽で三〇年熟成さ
れ、気品のある香りと花咲くような風味で貴族達には根強い人気があるが、近年は北部との軋轢とも相まって中央へと流れてくる事まずはなかった。
「叛乱の混乱に紛れて運よく流れてきた一本だよ。一本で駆逐艦が建造できるほど高騰してるけど、まぁ、御国の新生への前祝いだから惜しくはないしね」
「おおっ! そんな怪しからんものがあるなら早く出さんか!」
大の酒好きとしても知られるバルタザールが興奮する。
それに苦笑しつつ、手に取ったエスターライヒ・モルトの水晶瓶から深みのある色をした液体を二つの硝子碗へと注ぐ。
二人は硝子碗を手に取り、正面から向き合う。差し出された二つの硝子碗。交わすのは盃だけではない。共に契約も交わすのだ。
「星河輝く我らが祖国に武を以て栄光を」
「数多の種族が虐げられる事なき御世を」
小さな硝子の接触音。
窓から夜空を見上げれば、神々しいまでの満月と黄金の大河の如き星河が流れている。
時代は武を伴う混迷の時代へと移ろい往こうとしていた。