第二四話 悔恨の獅子姫、古の剣聖
「………儂は間違っておったのだ」
レオンディーネは、ミナス平原を無邪気に走り回っている白虎を眺めながら溜息を吐く。
アリアベルやリットベルクは軍議を繰り返しているが、尉官でしかないレオンディーネは、それに加わる心算はなかった。自身が政治に関しても、戦略に関し ても、別段と秀でた部分を持っていないと理解していたからこそである。レオンディーネ自身は、皇妃派の軍事面の象徴として祭り上げられているが、それは神
虎族の勇猛さを恃んでの事であり、レオンディーネ個人の武に依るところではない。
それを悔しいとは思わない。思う気にすらなれなかった。
その程度の女だからこそトウカは、自身の提案に頷く事はなかったのだろう、とレオンディーネは雪原へと仰向けに倒れた。軍が展開している地点からは離れているので兵士達に見られる事はないので、物思いに更けるには最適だった。
「儂の役目はアリアベルの下に集う烈士達の御旗じゃ」
戦野で勇壮に戦い将兵の士気を鼓舞する事こそが自分に求められた役割。少なくともレオンディーネはそう考えていた。戦死してしまっても、アリアベルであれば弁が立つので、獅子姫の意志を我らが引き継ぐ、と上手く戦死すらも利用してくれると確信している。
アリアベルとは、その様な少女だ。特に一人で抱え過ぎるという点は、レオンディーネも歯痒い思いを抱いており、今では皇国という一国家を個人で背負おうと試みている。そして、自身がその支える事ができないのも知っていた。
「トウカなら如何するのじゃろうな……」
容易く皇国軍の欠点を看破して見せ、新たな時代に適した戦術を指導してすらくれた手腕は驚嘆などという言葉では言い表せない。強いて言うなれば異質。既定事項を……否、過去を俯瞰しているかの様な言動が目立つのは、大勢を予測できるだけのナニカを持っているとも取れる。
異邦人と獅子姫。二人の運命はベルゲンで交わらなかった。
「そうか、違うのか」
レオンディーネは身体を起こし、雪原へと座る。
全てが違うのだ。
祖国も、歴史も、時代も、思想も、発想も、種族も、意志も、覚悟も、主君も、運命も、宿命も、未来も、過去も、年齢も、所属も、主義も……
トウカは、そこに存在しているだけなのだ。或いは幻影だったのかも知れない。
戦場には幽霊が出るという話は、将兵の間で実しやかに囁かれていた。神々は存在しても、幽霊などは存在し得ないという主張が天霊神殿の公式見解ではある が、限りなく神霊の類に違い幽幻種も存在している以上、巷にそれらの噂が絶える事はない。強大な自我と意識を持つ高位種であったとしても、それらの存在を 目撃する事すらあるのだ。
戦場に於ける伝承もその一つである。
曰く、誰も居ないはずの機銃座が蘇って敵兵を撃退した。
曰く、幻の騎兵部隊が敵を横撃しこれらを壊乱させた。
曰く、一〇〇〇騎を超える幽霊戦闘騎が上空を飛び去った。
それら以外にもレオンディーネは、幾つも噂を耳にしていた。幸いな事に、レオンディーネ自身はその影すら見た事がなかったが、少なくとも物理的に斬れる相手であれば後れを取る気はない。しかし、あの時、図書館で出会った時、レオンディーネは想ってしまった。
トウカには勝てない。勝利という定義が一概に決まっているわけではないが、本能が屈してしまったのだ。
「実際、手強いとは思うが、殴り合えば負けるはずはないのじゃが……勝てる気がせんかった」
明朗闊達を旨とするレオンディーネだが、トウカに関しては矛盾した幾つもの感情が複雑怪奇に絡み合っている。
或いは、トウカも幽霊かも知れない。だとするならば、亡国の淵に現れる幽鬼なのかも知れない。その幽鬼の歓心を得ることが叶わなかった国家は、矢張り消えゆく運命にあるのか。遂に白昼の街中で幻影に現を抜かす様になったなどという事はないはずである。
「いかんな……。どうも悲観的になり過ぎておる。……全く、トウカのせいじゃ」
思考は、既に妄想に足を踏み入れていた。
だが、それを心地良いとも、レオンディーネは感じていた。自身でも、どうかしているとは理解している。レオンディーネの使命である国防を、然したるものではないと一蹴された挙句に、拳銃で撃たれても尚、この様な感情を抱く事は異常と言わざるを得ない。
「これ程に獅子の心を縛る男はそうは居るまい」
思わず苦笑する。
もし、それが真実であると仮定するならば、レオンディーネは自身が偏屈な女であると認めなければならない。自分とはまた違った強さに憧れを抱くことは、虎族の血統として当然かもしれないが、邪険にされた挙句に銃で撃たれてもそう感じ続けているのは些か極端に過ぎた。
「それは恋では?」
背後からの声。雪を踏みしめる音のみで、レオンディーネは、その主を察する。
「エルザか……何とした?」
横へ腰を下ろした騎士を、レオンディーネは鋭い視線で一瞥する。
エルザ・エルメンタール近衛軍中尉。
アリアベルの守護騎士であり、近衛軍中尉でもあるエルザは極めて厳しい立場に置かれている為にケーニヒス=ティーゲルの姓を持つ者と二人きりで面会する事は好ましくない。その意味を込めての視線だったが、聡明なエルザが、その点を理解していないはずがないと頭を振る。
雪原に胡坐を掻いて座るレオンディーネとは対照的に、エルザは曲剣を横に置き、礼儀正しく正座する。雪原の上で不自然な事この上ないが、その昔と変わらぬ生真面目さに、つい笑みを零す。
「こうして話すのは久方ぶりじゃな」
「そうかもしれません、レオ姫様」
堅苦しい態度を嫌うレオンディーネだが、畏まった動作で頷くエルザを咎める事は、幾年も前に諦めている。
「……近衛軍は、姫様が第一王妃に成られた事実を認めていません」
夕焼けが覗きつつある雪原を眺め、エルザが独白する。
近衛軍の一件に関して、アリアベルは手を焼いていた。
天帝の楯にして刃たる事を至上とする近衛軍は、アリアベルが行った強引な婚約を認めていない。貴族からの圧力が掛かるよりも早く、これを認めないとする声明を出していた。
アリアベルも近衛軍司令部の切り崩しを図っているが、北部叛乱鎮圧以降でなければ不可能と見ることが自然である。アリアベルの北部叛乱に対する対応次第 で、貴族の一部も、アリアベルが第一皇妃となる事を認める可能性は十分にあった。否、戦果による権威の確立のみが、アリアベルの権力基盤を短期間で確実な
ものとする方法に他ならない。特に今回の征伐軍編制の為に抽出された戦力は、その多くが大星洋を挟み神州国と睨み合っている東部地域から引き抜いたもので あった。この叛乱に乗じ、神州国は大星洋上の皇国領である一部の島嶼に武力進駐しており、外務府の再三の退去勧告にも応じていない。皇国も帝国の侵攻と叛
乱という二正面の戦いを強いられている以上、神州国とも戦端を開く事はできないと、黙殺せざるを得ない状況であった。
アリアベルは、これを好機と捉え、東部の陸軍戦力を敢えて抽出することで、東部貴族の神州国が島嶼部へ武力進駐してくる可能性への危機感を煽り、それは見事に的中していると、レオンディーネはリットベルクから聞いていた。
軍事的脅威は、陣営の団結心を強化する。
着実にアリアベルの権勢は増している。否、第一皇妃の権勢が回復しつつあると言うべきか。縋らざるを得ない状況に持ち込んでいるとも言える。
「東部貴族は切り崩せても近衛は手古摺るか……まぁ、仕方ないことかのぅ。……で、御主はアリアベルの傍にいても構わんのか?」
アリアベルと敵対とまではいかないものの、静かに対立しつつある近衛軍。そんな中で近衛軍中尉が第一皇妃に近づけば、どのような事態を招くか想像に難く ない。間違いなく皇妃派からは疎まれ、近衛軍から売国奴と断じられるだろう。どちらも排除という手段を考慮し始めている可能性すら有り得る。組織とは基本
的に一枚岩であることは少ない。近衛軍も全てがそうであるとは断言できないが、一部の暴走という事も有り得る上に、アリアベルも同胞の全ての行動を読みき れる訳ではない。
「私は幼少の頃より姫様の騎士です。今更、取り繕う気などありません」
「確かに手遅れの感は否めぬか。御主も苦労しておるのじゃのぅ」
どちらへ身を寄せても一方からは積極的に叩かれるエルザの立場に、レオンディーネは、面白い、と笑う。結局のところ、エルザという騎士は権力闘争に於い て近衛軍が優勢であったとしても、アリアベルに付いただろう。それ故に騎士足り得るのだ。その気質は軍人ではなく騎士と言えた。軍旗の下に集うのではな く、主君の意志の下に集う以上、その本質は紛れもなく騎士である。
心労を感じさせない立ち振る舞いで、エルザは断ずる。
「いずれ近衛軍との衝突もあるでしょうが、その時は先陣を切って皇城突入を果たす心算です」
「過激じゃなぁ……」
既に近衛軍との武力衝突が決まっていると言わんばかりの口振りのエルザに、レオンディーネは口元を引き攣らせる。しかも、神聖にして不可侵たる天帝陛下 の御住まいになられる皇城を戦場にすると断言する辺り、天帝の為の近衛よりも大御巫の騎士としての自分を優先させているのだろう。
レオンディーネは、叛乱終結後に思いを馳せる。
近衛軍との衝突。
結果としては、アリアベル率いる征伐軍の勝利となる。だが、天帝陛下の御謹慎を案じ奉る近衛軍の本拠地は皇都の皇城であり、戦場にするというのは外聞が 宜しくない。無論、どちらにせよ戦場にする訳にはいかないが、近衛軍は国ではなく天帝に忠誠を誓い、これを護る存在である。皇都から戦野に引き摺り出すに は苦労するだろう事は想像に難くない。兵力の優位を生かし難い相手と言える。
近衛軍の編成も侮れない。
実動戦力として一個軍団……三個師団基幹の戦力が存在しており、一個師団が四個聯隊で一二個聯隊を指揮下に置いていた。これらとは別に、近衛軍司令部直 轄の一個聯隊が存在するが、これは皇城防衛の任に当てられている為、同地から離れる事はできない。近衛軍聯隊は基本的に約三〇〇〇名を以て充足編制として
おり、陸軍と比しても少ないが、装備は最新鋭のものが与えられている。こと拠点防御に関しては、恐ろしいまでの火力戦を展開できるだけの火砲と魔導士を保 有していた。
「いかん、胃の腑が痛とうなってきたのじゃが……」
「レオ姫様は、唯正面の敵を殴り倒せば宜しいかと」
腹を抑える獅子姫に、騎士は何を今更と言い返して見せる。
「そう言えば、レオ姫様の心と身体を縛る恋人というのは一体、どちら様でしょうか?」
「尾鰭どころか、背鰭も付いておるぞ! 身体を縛るとも恋人とも一言も言っておらんわ!」
無表情を年相応に崩したエルザに反論するが、その笑みは崩れない。
実は、エルザは真面目であるが、同時に饒舌でもあった。無論、皮肉が効いているのはリットベルクの影響を受けている為であって、生来の気質によるものではない。幼少の頃は堅物で通っていた。
「まぁ、何にせよ終わった話じゃ……」
拒絶の言葉だけでなく、銃弾まで飛んできた。既に終わった話なのだ。
今になって考えれば、トウカの言葉は全て正しく、自身の要求は何と身勝手なものだったのだろうと思う。だが、トウカが近くにいれば、いつか必ず、口にし てしまっていたであろう要求でもあった。レオンディーネは後悔をしていたが、何れは同じ結末に行き着くであろうと察してもいた。
「遣り切れんのじゃ……本当に、な」
情を持っていても国家存亡の危機にあって、自らの感情を優先させる訳にはいかない。もし、再び出会ったとしても謝罪はできない。レオンディーネの要求と 方法は強引であったものの、アリアベルの指揮下に加わった軍人として正しいものである。それを否定する事は第一皇妃の御旗の下に集った武人の一人として到 底許容できない。無論、個人としてはまた別の感情を抱いてはいたが。
「護国の意志を優先させる事を否定はしませんが、幸せを知らない者が民草を護る事は叶いません。他者を幸せにしたいのであれば、まず自身が幸せを掴みとらねば」
「幸せか……って、儂はトウカとその様な関係ではないぞ! そもそも、アレには狐娘がおる!」
「幸いにして我らが祖国は一夫多妻制です」
心配も問題もありません、と付け足すエルザ。その怪しく輝く瞳が如何わしい。こうした話題を好んでいたと、初めて知ったレオンディーネであった。
法的に問題ないなら全てが許されるとでも言わんばかりの態度。態度は紳士然としているが、言葉は過激だった。
「むっ、そう言えばそうじゃったな……長命種は複数人を愛する事が少ないから忘れておった……じゃなくて、じゃ! 儂はその様な不埒な事は考えておらんぞ!」
危うく同意しそうになる。表情を大きく変化させる事もなく、大胆な事を口にするエルザ。時折、真顔の物騒な発言で、アリアベルの顔を引き攣らせる事すらあるのだ。軍人の果断が、法的裏付けを根拠としている以上、法的に赦されれば躊躇う理由などないという判断であろう。
「なら構いません……しかし、トウカ……ですか。リットベルク大佐が言われていた興味深い少年と同じ名ですね」
「ああ、そう言えばあの皮肉屋大佐殿が儂を呼びに来た時、儂と仔狐そっちのけで楽しそうに喋っておったな」
苦虫を噛み潰した様な顔をするレオンディーネ。
トウカもリットベルクも、大層な皮肉屋という点では共通していた。今にして思えば、あの二人が会話している只中に良く口を挟めたとすら思える。皮肉を口 にする点だけでなく、表面上は何時も微笑を浮かべているという点も同様であった。トウカは優男とも取れる笑みで、リットベルクは紳士的な笑みである。無 論、その本質は似ても似つかないものであり、類似は表面上だけである。
戦略的視野に富む将官とは、悉くが皮肉に一家言を持っているのではないのかと、錯覚する程である。
「好きなのですか?」
「……どうしても、そこに話しを持ってゆきたいらしいな、御主は」
意外と色恋に興味があるのかも知れない。本人に聞けば、アリアベルに報告する為だ、とでも言い逃れされるだろう。どちらにせよ、アリアベルに報告するのは間違いないであろう。
アリアベルは、異種族間での色恋に否定的な考えを持っている。初代天帝の名の下に制定された法の中にあって、唯一、初代天帝がその完遂を見届ける事が叶 わなかった法……それが多種族平等であった。これは、アリアベルの個人的な感情だけでなく、貴族や高位種などの血統を優先する者達の間で根強く残ってお
り、高位種と低位種の交配は高位種の数の減少に繋がるという軍事的、政治的理由もある。高位種の減少は貴族の権勢を低下させ、戦争に於いての正面戦力とし ての兵数の確保を困難とさせる。理想だけで国家は存続しないが、また現実のみでは民を纏め得ない。故に初代天帝は、この正解のない至上命題を次代へと先送 りにせざるを得なかった。
あらゆる要素が違えた種族に、同様の法律や司法、税金を課す事はできない。
寿命も人体能力も魔導資質も違う者達。そこには生まれながらにして多大な差が生じ、それ以降は更なる差が生じる。人間種同士の人種差など、その差と比較しては皆無に等しい程である。
法的平等である事が、心情的不平等に繋がり易いのだ。
その点に於ける理解を国民に周知させたからこそ、初代天帝による皇国という多種族国家成立は成った。
多種族協和の概念を掲げた国家は無数にあれども、その多くは早々に亡国となっている理由は、その点にこそある。種族間の違いを理解し、尊重し、得意な分 野で国家運営と治世、協力するという事は、人間種のみであっても酷く難しい。それを成し、尚且つ、後世に続くまで破綻しない程の完成度を誇る概念を構築し たからこそ、皇国史上に於ける英雄の筆頭格として初代天帝は存在する。
その偉業を強く信奉しているアリアベルが、初代天帝が望んだ種族間婚約を拒んでいるという事実は大きい。
アリアベルという少女は国家となりつつある。
個人の希望や理想ではなく、現実を見据えた主張。それは指導者を目指す姿勢として正しい。指導者とは、現実を見据えた上で、国民に希望や理想を魅せる者である。自身が希望や理想を夢見る事は在ってはならない。
権威主義国では、国家と指導者が同一視される事がある。それは、指導者の短所と長所が国家の短所となり、また長所となるという事であるからこそ。それ故にアリアベル自身の問題や懸念は、国家の問題であり懸念となる。
「アリアベルも危ういところがあるから気を付けねばならん」
二人は視線を交わす。
それはアリアベルが第一皇妃となり、摂政へと就任した頃から付き纏う翳であり闇だった。
「儂の気持ちの始末は、儂が付ける」
トウカの一件は、アリアベルに介入されたくはなかった。何れ一人で決着を付けねばならない。
片手を上げたレオンディーネの下に、二匹の白虎が、雪を巻き上げながら駆け寄ってくる。その巨体を危なげなく受け止め、獅子姫は笑う。
「さぁ、戦じゃ」
「これは……」
トウカは眼前の家屋を見て言葉を失う。
明らかに純和風な佇まいをした家屋を前にして気付いたからであった。
同郷の者がいるかも知れない、と。
ミユキと出逢った寒村では、その造りが異質な部分があり、トウカの知る日本家屋は一つとして存在しなかった。和服らしきものは傭兵や死者の中でも見られ たが、その顔には東洋系の面影が見られなかった事に加え、ベルゲンで断言できる程の東洋系の顔立ちをした者を見かけなかった事が上げられる。或いは、混血
化が進み、東洋系の面影が淘汰されてしまったのでは、とすら考えた程あった。故に、この世界に、自身と同郷の者は存在し得ないと、トウカは諦めていた。無 論、和風建築物があるからと、同郷の者がいるとは限らない事は理解している。寧ろ、その可能性が限りなく低い事も十分に承知していた。
無論、大星洋を挟んだ島国には大日連と酷似した文化と人種を擁する海洋国家があり、そちらが祖国との関連性を持つのではないのかという期待もある。
――今更、その考えに行き着くとは……
祖国に近しい気候と風土を持つ国が存在している事は、寒村の民家の囲炉裏や茅葺屋根を見れば予想できた。それは、和風の建築物が考案されている可能性が高いという事に他ならない。気候と風土が同じであるならば、文化の発展も類似する可能性がある。
だが、それでも小さな期待を捨てる事ができなかった。この世界で生きる事を否定する気はないが、自身が無事である事を祖父と幼馴染に伝えておきたい。
トウカは走る。雪の積もる庭園を一直線に横切り、家屋へ突き進む。
その家屋は、屋敷と呼ぶに相応しい造りをしていた。瓦が使われた屋根に、綺麗に張られた木製の縁側、色褪せた木製の雨戸。
書院造りの流れを感じさせる武家屋敷風の玄関の扉を開け放ち、家屋の主を呼ぶ。
「誰かいるか!? 誰かいないのかッ!」
トウカの声に応じるかの様に、仄暗い廊下の奥から物音が響く。突然の大音声に驚いたのかも知れない。
「一体、どういった御用件で御座ろうか……」
頭を押さえながら涙目で出てきた女性。
気さくには問いを投げ掛けては来るが、その動作には一切の無駄がなく、一廉の武士である事を伺わせる。トウカの間合い寸前で歩みを止めた事も偶然ではなく、その視線は腰に佩かれている軍刀と背中の小銃に向けられていたかと思えば、右脇の辺りでも一瞬、止まる。輪胴拳銃の収まった脇下拳銃嚢に気付いたと予想できる。外套下であっても気付く以上、武勇に秀でた者であると確信できた。
「如何した? 某の顔に何かついておるのか?」
「いや、失礼した」
トウカは慌てて頭を下げる。まさかミユキとは違った獣耳をしているので触ってみたくなったとは言えない。この屋敷の主が同郷の者ではなかった事に、トウカは小さく落胆する。低い可能性ではあったが、この世界で見付けた初めての目に見える可能性には違いなかった。
「主様、速いですよぉ……あ、御師様、お久し振りです」
トウカの背後からひょっこりと顔を出したミユキが、慌てて一礼する。
「もしや、貴女がベルセリカ殿ですか?」
紺碧の瞳で興味深げに自身の全身を見渡していた長身の女性を、トウカは見上げる。段差もある為に自然と見上げる形になってしまうが、例え同じ高さであったとしても、トウカは眼前の、ミユキとはまた違う優しげな笑みを浮かべた女性を仰ぎ見ていただろう。
それは、身長ゆえではなく、一廉の武士であるからに他ならない。
祖父と同じ高みまで上り詰めた烈士、とトウカは感じた。なれば自身は敬意を払わねばならない。
あからさまな武威を感じさせない佇まいであるが、その優しげな笑みとは対照的に針先程の隙すら見受けられない動作を見て、トウカは思わず身構える。
「ふふっ……そう、身構えずとも佳い。御主は中々に槍働きが期待できそうであるな」
優しげに笑うベルセリカ。
その言葉にトウカが応じるより早く、横から飛び出してきたミユキがベルセリカに飛び付く。重量のある防寒装備のミユキの突進を、危なげなく受け止めたベルセリカは、苦笑しながらミユキの頭を撫でた。
「ミユキ。元気にしていた様で重畳。最近は物騒で御座ろう。心配していたのだぞ」
「御師様も元気そうで何よりですよぅ!」
ベルセリカに頭を撫でられながら、ミユキは嬉しそうにしていた。師弟関係だとは聞いていたが、それ以上に実の姉妹の様にすら見えた。他にも特別な関係として繋がりがあるのかも知れない、とトウカは二人の微笑ましい遣り取りを見る。
「立ち話も疲れよう。その少年も疲れている様子。さぁ、上がられよ、二人とも」
ベルセリカは、柔らかな笑みで二人を招く。
仔狐と異邦人は、ベルセリカの言葉に黙って頷いた。
三人は掘り炬燵に入り、微睡んでいた。
厳しい寒さを体験し続けていたトウカとミユキにとって、掘り炬燵という熱源は大変に魅力的なものであった。炬燵が存在している事に驚いたトウカであった が、それ以上にその熱源が木炭や練炭などを用いず、発熱する魔導結晶を、火傷防止の為に金網で囲い使用している事に驚いた。室町時代のように囲炉裏を床よ
り掘り下げ、床と同じ高さと布団を置く上段との二段の櫓を組んだ足を入れられる掘り炬燵かと思っていたトウカは、ただ感心する。
――いや、《波斯帝国》にも炬燵があったような……コルシだったか?
ミユキは然して広くもない天板の掘り炬燵で、トウカと同じ席に座っている。御蔭で窮屈であったが、黙って尻尾を手入れしてやる。尻尾は蒸れるので炬燵に入れないらしい。
「よく懐いておるな。天狐族は比較的人懐っこいとは言え、これ程となると……トウカ殿は相当な狐たらしの様子」
緑茶を啜りながら、ベルセリカは仔狐と異邦人の微笑ましい光景に、困惑の表情を浮かべる。
天狐族は狐系獣人種の種族である。元来、狐に連なる種族は警戒心が非常に高く、他種族との交流自体が少ない。人間種が秘境や僻地と呼ぶ場所に少数で生活 しており、人里に下りてくる事は極稀であった。トウカが図書館で調べた種族毎の特徴と傾向を記した書物には、そう書かれていたが、ミユキを見て当てになら
ないと判断している。しかし、ベルセリカの物言いを聞く限り、ミユキこそが例外であるらしい。
当の本人であるミユキは、炬燵の天板に突っ伏して寝息を立て始めている。何時もならば元気よく動いている仔狐も、炬燵の心地良さに冬眠寸前であった。
「俺が狐種と出逢ったのはミユキが初めてなので、他の狐は見た事すらありません。ヴァルトハイム卿は、一体どちらの種族なのでしょうか?」
紺碧の瞳に、深みのある鳶色の髪と無駄のない引き締まった身体。ミユキの耳や尻尾とはまた違った形状をしており、髪と同じ毛並みをしている。長髪は背中で一本の大きな三つ編みにしているが、これは剣技の邪魔になる為であろう。
「唯の天狼族に過ぎぬよ? ああ、……トウカ殿は色々と疑っている様子。……知っておられるのか?」
緩やかな微笑。だが、その瞳は鋭利な刀剣の如き印象へと変わる。
「まぁ、古い文献の魔導投影(写真)に貴女の顔が載っていましたので」
剣聖ヴァルトハイム。
皇国の歴史を紐解けば、それは戦乱の歴史でもある事が見て取れる。最近の平和自体が異質なもので、本来は鋼と血に塗れた歴史であり、それこそが皇国に他 ならない。四方を大国に囲まれている現状に加えて、資源が肥沃に埋蔵された国土は、常に周辺諸国から狙われる。魔導、鉄鋼資源に恵まれた北部。豊富な天然
資源を利用し、穀倉地帯となっている南部。大星洋に面し水産資源に恵まれた東部。そして、何よりも多種族国家ゆえの人的資源。
それ故に幾多の戦火に包まれたが、その悉くは撃ち払われ、国土は建国以来、減少した事すらない。
それは何故か?
答えはあまりにも容易い。
総ての時代に英雄がいたのだ。
皇国が真に恵まれていると言われる所以は、資源に依るところではなく英雄の存在に他ならない。
総ての時代に英雄が綺羅星の如く鏤められた歴史は、他国からすると奇跡と言える。大日連ですら、酷い混乱期が幾多もあった。英雄が政権を去った現在の大日連政治など、売国奴と左翼が跳梁跋扈する醜悪な喜劇に過ぎない。
政治の混乱により、英雄が求められる。
そして、ベルセリカ・ヴァルトハイムという気高き狼もまたその一人であった。
トウカが見た文献の中で、ベルセリカの名が記されていた最古のものは五〇〇年以上前の防衛戦争についてのものである。それ以降も、その名は幾多の文献に記され続けていた。そして、帝国が皇国に対して初の外征を行った戦争を最後に、その名は歴史上から消える事になる。
「まさか、歴史上の人物に会えるとは思いませんでした」
トウカは今、現世の歴史家達が羨むであろう立場に立っている事を自覚する。
歴史が手の触れる事ができる位置に存在しているのだ。
「いえ、止めておきましょう。今更、掘り返されたくはないでしょう」
歴史上から姿を消した理由は分からない。だが、英雄が突然去る以上、それ相応の理由があったと推測できる。トウカとて自身の歴史に対する欲求を満たしたいとは思うが、英雄の意志に干渉しようなどと無粋な事は思わない。
傷付いた英雄に安息を。それが、英雄を奉じて戦った国家の義務だ。
「トウカ殿は優しいな。叶うなら五〇〇年前に逢いたかった」
「貴女はミユキの大切な人ですので」
間髪入れずに即答する。実は英雄への干渉という以前に、そちらの占める割合が大きかった。ミユキが気を許している人物に、不快な思いをさせる事など有り得ない。
「ふふふっ、トウカ殿はミユキが本当に好きなのだな」
「無論です。命を投じて護りたいと思う程には」
「これも即答……トウカ殿ならばミユキを任せても問題ないか」
優しげに微笑むと、緑茶を啜るベルセリカ。
本当にミユキの事を案じているのだろう。ミユキは英雄の歓心すら買っているという事実に、ただ驚くしかない。無論、ミユキならば、とは思うが、実際に目にすると呆れるしかない。仔狐と剣聖が如何にして巡り合ったのか気になるが、それは追々、ミユキに尋ねればいいだろうと、トウカは判断する。
「そう言えば、狐種はミユキ以外に見た事がないのですが……残念ですね」
ベルゲンでは多くの種族が生活していたが、狐種の特徴的な耳や尻尾を持っている者は一人としていなかった。狐程にモフモフした尻尾を見かけなかったので、宿で落ち込んでいた事は記憶に新しい。
「天狐族は皇国に現存する種族の中でも少数。その上、中央に近い土地には住み着かぬ。トウカ殿が皇国に来たのは最近なのか?」
初耳であった。
ミユキには皇国の一般常識を色々と御教授願っていたのだが、やはり一週間足らずの時間では限界があった。勿論、一番の原因はミユキが残念な子であったと いう事実も付け加えねばならない。法律と宗教の説明に擬音や身振り手振りが入るのは、色々と残念だとしか言い様がなかった。狐耳と尻尾を揺らして、一生懸
命に説明してくれるその姿は微笑ましいものであったが、文化や歴史を聞いても要領を得ない。こんな感じですと尻尾を振られても地形が分かる事はない。トウ カもそこまで察しが良くない。
これこそが文化的格差である。
「俺は唯の異邦人です。皇国の事は詳しくないので、ミユキに色々と教えて貰っています」
「それは……大変だったであろう。御悔やみ申し上げる」
遠い目をするベルセリカ。師弟関係故に何か思うところがあるのだろう。大凡の見当は付くが。
「確かに大変でした。まぁ、それ以上に大変だったのは魔力がないことでしたが」
ミユキは日常生活でも魔術を使用していたが、トウカは魔力がない以上、魔術を扱う事ができない。ファウストは戦闘用の魔導出力機であり、元より入力された魔術しか行使できない上、魔導結晶という消耗品を必要とする。軽々しく日常生活に使える代物ではない。現在も、革帯に鎖で吊るされているだけであった。
「確かに……トウカ殿からは魔力が一切感じられぬ。その様な面妖な者が居るとは……」
「火を熾すのも一苦労です。炎弾は薪が弾け飛びますので」
若しかすると、地球の人間は全てが魔力を保有していない可能性もある。ただ、魔術という現象自体は文献や伝承に記されている以上、古の時代には魔術を行 使できた人物が存在していた可能性も十分にあった。魔女狩りなどの行為も、宗教的排斥というだけでなく、確たる理由があっての行為であるかも知れない。為 政者にとり、魔術は潜在的脅威として大なるものがある。
「なれば、その護符はミユキのものという訳か……何を隠しているのかは問わぬが、どうかミユキを悲しませないでやってくれ」
トウカは黙って頷くが、内心ではベルセリカが護符の存在を見破った事実に驚いていた。
紫苑色の瞳を知られるわけにはいかない。その色の意味するところを正確に知りたい訳ではないが、多くの文献に紫苑が特別な色として記されていた事もまた事実。神聖や賛美とも取れるが、勇壮や義烈とも例えられる色。それが紫苑色なのだ。
ある時は、強大な敵に立ち向かう勇者として。
ある時は、姫君を護る忠勇なる騎士として。
ある時は、大軍を統べ、覇を唱える軍神として。
紫苑色とは皇国にとって特別な色である。その様な色の瞳をしていれば面倒事に巻き込まれる可能性もあり、ミユキが出来る限り隠すべきだとも言って護符を 製作してくれた事からも、それは推察できた。ベルゲンの図書館では紫の瞳についての調査こそを優先すべきだったのだが、気が付けば歴史書に手が伸びてい た。そこには、隠しておけば、問題とはなり得ないという打算もある。
「某もトウカ殿の事情は聞かぬ。貴方がミユキにとって良き契約者であるならば十分。しかし、某は貴方を良く知らぬから……」
ベルセリカは、トウカを眺めながら興味深げな表情をして見せる。その表情は、祖父が悪巧みをしている際の横顔と重なって見え、トウカは思わず気後れする。
「……ふむ、一度、刃を交えてみるのも悪くないとは思わぬか?」
「遠慮しておきます……」
トウカは引き攣った笑みをしてみせながら辞退する。
ベルセリカは、トウカよりも遙かに優れた戦技を持ち、祖父に準ずる経験を有する事は文献で嫌という程に目にした。
中でも特筆に値するのは、皇紀四〇二六年に行われたとされる皇国西部、ティオジア地方に於いて行われた戦闘であった。旧《ディクセン王国》軍は、国内の 治安維持の戦力を抽出、属国からも兵を動員し約三〇万名もの遠征軍を組織。皇国西部へと怒涛の勢いを以て雪崩れ込む。皇国は当時、《トルキア部族連邦》が
形成される以前、混沌とした民族問題が皇国南部に飛び火し始めていた事を重く見た時の天帝が、平定の為、陸軍戦力の多くを割いていた。それ故に初動が遅 れ、対応は更に遅れた。
この、現在では“ティオジアの奇蹟”とも呼ばれる西部遊撃戦で一〇〇〇名足らずの近衛騎士と共に、ベルセリカは約三〇万名を相手に限定的とはいえ勝利していた。
旧《ディクセン連合王国》軍の輜重線は、その急激な進撃と国力から見て明らかに補給を維持できない規模によって進撃速度を停滞させていた。無論、上位命 令を受けられない敵中にあって尚、自発的に少数の戦力で輜重部隊を攻撃し続けた皇国軍の護国の意志の依らしむるところであろう。
そして、ティオジア平原は雨期にあって湿原地帯となっている。大軍である為、《ディクセン連合王国》軍は、将兵の負担と行軍速度を考慮して舗装された主 要な街道の幾つかを進撃するより他なかった。無論、主要な街道とはいえ、大軍の行軍を行える程の大きさではなく、《ディクセン連合王国》軍の戦列は縦深に 伸びきっていた。
そして、ベルセリカは、その側面より奇襲を敢行し、敵司令官を見事に討ち果たす。一〇〇〇名足らずで、約三〇万名を相手に限定的とはいえ勝利を得たの だ。その戦術規模の敗北は、《ディクセン連合王国》の戦略的敗北に繋がり、共和国成立の遠因となった。後に、ベルセリカは共和国に於いても英雄として称賛 されている。
それ以外でも、ベルセリカは幾多の武功を上げている。見方によれば、皇国の発展期を護り続けた剣聖に他ならない。
「剣聖に殺される異邦人というのも嫌ですので」
「なに、切断面が綺麗であれば治癒魔術で直ぐに……」
「遠慮しておきます」全力で逃げの一手を打つ。
トウカにとって、戦闘とは一つの手段に過ぎず、必ずしも効率の良い手段とは考えていなかった。外交に於いて戦争が最後の手段であり、最も非効率的な問題解決手段である事と同じ様に。
「今日のところは折れておくとしよう。貴方が戦機に逸る安易な男でないと分かっただけでも十分な収穫で御座ろう」
そう言葉を紡いで、天板の上の籠に置かれた果実を手に取るベルセリカに、トウカは一礼する。ミユキの師であり、英雄である者に礼を尽くすのは至って当然の事であった。
「堅苦しいのは不要だ、トウカ殿。セリカ……いや、何なら、ミユキの様に御師様とでも……」
「分かりました。セリカさんと呼ばせてもらいます。俺の事は年下なので、呼び捨てで構いません」
一目見て分かるとおり、ベルセリカは年上である。寧ろ、文献の記憶が確かであれば最低でも五百年は生きている計算になり、人生の大先輩である。外見上は二十代後半であるが、その実、乙女を過ぎて幾星霜。遙かに年上な者に“殿”付けで呼ばれるのは心苦しくあった。
「では、そうさせてもらおう。……ああ、夜に某の部屋に来ていただけるか?」
「……食べられてしまう訳ですか?」
ゴスッ!
「じょ、冗談です……夜ですか?」
拳骨の振り落とされた頭部を擦り、トウカは首を傾げる。
身の危険は感じないが、宜しくない匂いが漂う。ミユキに誤解されたらどうしてくれる、という視線を送ってみるが、ベルセリカは苦笑を返す。
「別に取って喰おうとは思っておらぬよ。ミユキの主様を取る訳にはいかぬからな」
そう言って果実を剥き始めたベルセリカに、トウカは顔を引き攣らせるしかなかった。