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第五〇話    不器用な者達

 



 トウカは伐採された倒木の影に伏せながらも、一列縦隊で停車する戦車を見据え、優秀な指揮官だと感心していた。

 無論、安全確認もせず指揮官の車輌を視界に制限のある地形に突入させたのは迂闊としか言い様がない。模擬戦であり待ち伏せを意図した戦力が存在する訳で もない為、相手に隠蔽の時間を与えぬ様に拙速を求めたとも取れるが、それでも指揮官の車輌を突入させるのは宜しくない。故に根っからの野戦指揮官と推測で きた。

 誘導輪の数までも正確に見て取れるほどに至近である為、逆に戦車内の砲手からは補足されない。爆薬を抱えた歩兵の接近を戦車が恐れる理由はここに在る。残念ながらトウカの手に在るのは爆薬ではなく円匙(シャベル)であったが。

 本来であれば、戦車猟兵という随伴歩兵による直協支援の下で進出することが好ましい。装甲聯隊の演習という名目であるが故に、歩兵戦力を有さない装甲聯隊は至近距離が疎かになっている。特に遮蔽物の多い地形では致命的であった。

 装甲聯隊……〈第一装甲聯隊『ラインバッハ』〉の練度は高度なものがあるが、諸兵科連合(Gefecht der verbundenen Waffen)を編制してこそ戦車は威力を発揮する。

 戦車は移動する特火点(トーチカ)である。

 戦車という兵器は高い防禦性によって、安全かつ確実に必要とされる地点に火力を提供する兵器に他ならない。故に戦車という兵器を扱う指揮官は機動を止め ることに大きな躊躇いを覚える。前後の車輛が撃破判定を受けて停止して、軌道を制限されつつあるとは言え、比較的早い段階で砲撃を優先させる決断を取った ことは特筆に値した。

「よし、行くか」

 砲撃を優先させたことで、カリスト中尉達に残された時間は大きく減じた。放置すれば敗北は必至であり、それは非常に好ましくない。

 トウカは、地を這う様に駆ける。

 それは、剣聖には絶望的なまでに届かないものの、人間種の基準からすれば十分に疾風と表して差し支えない。戦車との距離が極至近であることもあり、察知 されることもない。どの道、対戦車戦闘だと高を括っているかも知れないが、それは幻想であり実戦の為の演習に手抜きなど断じて許されない。

 という建前で、トウカは戦車に(かち)で挑もうとしていた。

 勝利条件は敵“指揮官”の撃破である。敵“指揮戦車”の撃破ではない。演習に於ける条件設定の際、勝利条件を態々会話を誘導して迂遠に歪めたトウカの演習はその時点から始まっていた。

 流石に指揮戦車を対戦車戦闘で撃破するには総数の差が致命的であり、遮蔽物の多い雪森であっても困難が伴う。射線が限定され、至近距離からの攻撃に終始せざるを得ない。

 ベルセリカが縦横無尽に木々を斬り倒した為に視認性が下がり、隠蔽性も向上したが、一射目を失敗すれば忽ちに火達磨となる前提に変わりはない。砲門数が圧倒的に劣る以上二射目はない。

 幸いなことに、指揮車輛は聯隊旗をこれ見よがしに掲揚している為、見間違えようはずもないが、遮蔽物の多い雪森で撃破判定を得られるかは不明瞭である。

 演習に使用される機材の信頼性をトウカは疑っていた。木々などを貫徹できると見做さない事は往々にして存在する。

 だからこその直接的打撃である。

「全周囲警戒、厳と成せ!」

 指揮官と思しき男の声を聞きつつ、戦車の履帯側面装甲(サイドスカート)に足を掛け、トウカは飛び上がる。

 停車している戦車であれば唯の鉄の塊であり、履帯に巻き込まれる心配もない。対戦車戦闘に意識が向いている今ならば接近は容易である。無論、実際の演習では生身で戦車に近づくなどという危険行為は禁止されているだろうが、今は然したる取り決めもない茶番劇であった。

 金属音を轟かせ、砲塔上面に下りたったトウカ。

「悪くない判断だ」トウカは円匙(シャベル)を構えたままに称賛する。

 このまま勝算のない戦闘が続けられることに疑問を覚えたのであろう。敗因は指揮戦車にあからさまな指揮官旗を掲揚していたことであり、指揮官の所在を明 確にし過ぎたことである。近代戦への渡河期である時代だからこそ、近代国家の軍隊でありながら古き日の決戦主義を引き摺って古式ゆかしい指揮官旗を敵味方 に見える様に配置しているということは理解できる。そう遠くない将来、その風習は途絶えるだろう。
 狙い撃ちしてくださいと言っているようなものなのだから。

 近接戦主体の在りし日の戦争であれば、指揮官健在なり、と指揮官旗を掲げる事によって友軍の指揮を高揚させ、敵には威圧感を与える。しかし、長距離兵器 が主体となり、戦場が拡大し続ける事によって指揮官旗はその意義の多くを喪失し、敵の集中砲火を受ける理由の一つへと成り下がった。

 本来であれば、とうの昔に短期間で消えているはずの指揮官が目立たなければならないという風習だが、これは皇国陸軍だけが未だに持ち続けている伝統である。同時に、魔導技術に於ける指揮官の生存性の高さがあったからこそ廃れゆくにしても時間的余裕があった。

 車長用司令塔(キューポラ)から突き出た頭部。

 振り向いた指揮官……ザムエルの呆けた顔。

 車長用司令塔(キューポラ)は、狙撃対策として周囲に魔導障壁が展開されているが、その高さは然したるものではなく、上面を防護してはいない。

 踏み越えるように進んだトウカ。

 敵の計略を見抜くことほど、指揮官にとって重要なことはない。だが、このことほど優れた資質を要求される能力もないのだから、これに恵まれた指揮官は、いかに称賛されたとしてもされすぎることはないのである。

 それ以外は極論をすれば、指揮官の資質としては些事である。

 その一点のみが指揮官の必要とする大前提の要素なのだ。

 トウカは円匙(シャベル)を振り翳す。

 円匙とは単なる塹壕を掘る為の道具ではない。

 戦場において円匙とは、自らの命を護るための塹壕を掘る工具であり、自らの排泄のために地面に穴を掘るための道具であった。排泄物の臭気を広範囲に充満させないことは、戦場……特に塹壕戦での住環境を維持する為だけではなく、敵側に気配を察知されないためでもある。

 そして何よりも白兵戦の際の打突武器として有効であった。

 特に塹壕戦では白兵戦武器の中で最も活躍した立派な武器として認知されている。耐久性で銃剣に勝り、取り回しで刀剣を凌駕した。何よりも刃物は刺さった 際、相手が身を崩して抜けなくなることがある。この為に多くの軍隊で円匙が歩兵の個人携行物となっているほか、軍用車両の装備品の一つとして円匙が各国で 採用されていた。これらは通常、車内に納められるか、もしくはⅥ号中戦車で見られたように、車体に鶴嘴(ツルハシ)扛重機(ジャッキ)等と合わせて装甲に締め(クランプ)で留められた状態で、車両が脱輪した際に車輪周辺の穴掘り等に活用される。

「――――ッ!」

 ぶん、という風圧と共に円匙(シャベル)が振るわれる。

 引き攣った顔のザムエルの顔を、円匙(シャベル)の腹が捉えた。密林の戦場に鈍い音が響き渡る。砲声の中、その鈍い音だけは何故か無性に良く徹った。

 上半身を投げ出し、砲塔の天蓋に身を投げ出す形で倒れ伏すザムエルの肩章を掴み、戦車から引き摺り落とす。肩章の目的の一つに負傷した戦友の両の肩章を掴み、後方へと引き摺る形で後送するというものがあるが、今回はそれが裏目に出た。

 再び鈍い音を立てて地面へと落下したザムエルを一瞥したトウカは、円匙を投げ捨てて車長用司令塔(キューポラ)から車内へと滑り込む。

「状況終了! 密林外縁にて全車輛集結し、別命あるまで待機!」

 車長用の無線機の引っ掴み、開け放たれたままの通信回路で、トウカは演習の終了を告げる。

 戦車兵達が、突然のことに目を白黒させるが、それが当然であるかの如く指揮官席に収まるトウカの、命令を実行せよ、という視線の圧力と横柄な態度に耐え切れず、指示に従い始めた。








矜持(プライド)でのぅて、前歯を折りよったわ。うははははっ!」

 堪えきれないといった風体のマリアベルの言葉に、口元を片手で隠したザムエルが憮然とした表情をしている。前者に一杯食わそうと思ったが、手痛い逆撃を受けた後者は語る言葉を持たない。どの道、笑われるのだから、と舌を動かす気力も萎えているのだろう。

「んん、小僧め。妾に楯突こうということがそもそもの間違いであろうに、のぅ?」

 肩を組み、ザムエルに絡むマリアベル。トウカはその姿に、小学生の頃に見た気の強い女子に絡まれる虐められっ子の男子を思い出して懐かしいものを感じた。祖父も、男には誰か一人頭の上がらぬ女子(おなご)が居るものよ、と頻りに頷いていたので、二人の関係は正にそれなのだろうと勝手に見当を付ける。

「マリア様が虐めっ子ですよ」

 ミユキの指摘に、トウカは苦笑する。

 喧嘩ではなく、馴れあいの延長線上であろうとトウカには思えた。姉が弟を過激に構っている程度のもので、今回はそれにトウカと〈第一装甲聯隊『ラインバッハ』〉が巻き込まれただけに過ぎない。

「間違ってはくれるな、仔狐。妾が虐めっ子なのではない。ザムエルが虐められっ子なのだ」心外だといった表情でマリアベルは唸る。

 虐めっ子の理論を振り翳すマリアベルだが、当事者でもあるトウカは語る言葉を持たない。実質、一個機甲聯隊から限定的勝利を掴み取ったのはトウカ自身に他ならないのだ。

「睨まないでもらえますか、同僚」

「この糞餓鬼……殺す気か‼」

 先に仕掛けてきておいて随分と言いたい放題ではないか、とトウカは内心で呆れていたが、敗者の言葉に耳を傾けるほど暇ではない。ミユキの尻尾の汚れを落とすことは、敗者の戯言よりも遙かに優先される。

「大丈夫か? 尻尾の毛が随分と痛んでいるが」

「むむっ! それは一大事です。温泉に入ってちゃんと手入れしないと駄目ですね」

 二人は一大事だと話し込む。

 装甲聯隊指揮官の不満など尻尾の艶に比べれば然したる意味を持たない。自業自得の莫迦など勝手に戦車に轢かれて死ねばいいとすら考えていた。何よりもザムエルの蒔いた種である以上、トウカはそれに対して何ら同情する気はない。

「俺を殴った事は兎も角、御前が投げた円匙(シャベル)が俺の顔の真横に突き刺さっていたんだぞ!」

 面倒だと表情に出しながら、トウカは溜息を吐く。

 敗者には優しくないトウカであった。

「そもそも、俺個人を狙うと演習の意味がないだろうが!?」

「勝利条件は敵車輛の撃破ではなく、敵指揮官の撃破でした。解釈の範疇を最大限に利用した戦術的勝利です。言い掛かりは止していただきたい」

 この不良装甲部隊指揮官の癇癪より生じた演習の目的は、参加部隊の修練ではない。よって機甲戦に興じる必要性と妥当性は存在し得ず、即時発行された命令の演習規定という要素を利用することは指揮官の権限の範疇であると認識していた。

 軍人という職業は、軍法と命令、法律、規定などの約定に逸脱しない行為の全てを以て任務に当たることが赦される職業である。

 マリアベルによって現場で新たに発行された命令書をザムエルは懐から取り出す。血走った目で確認するザムエルだが、口元を隠していた手が留守となって書けた前歯が無様を晒している点が笑いを誘い、マリアベルが再び笑声を零す。

「あのねちねちとした物言いは誘導する為だったのか。これだから口先の回る奴は」

 ザムエルがマリアベルを一瞥する。

 高位種と同類と見られることを言祝(ことほ)ぐべきか、老獪な龍と例えられたことを慷慨(こうがい)するべきか思案の為所(しどころ)である。

「御前、獣耳とか尻尾は隠してないな?」

「野郎にそのような要素をお求めで? 失礼、貴隊に憲兵は随伴しているか?」

 感心しないなという表情を務めて作り、トウカはザムエルの副官と思しき人物に視線を向ける。曖昧な返答に留まるかと思えば、ザムエルの部下はその薫陶と悪癖を十分に始動されていた。

「勿論、随伴しておりますとも。悪餓鬼ばかりで御座いますれば。鞭も蝋燭の扱いも我が装甲聯隊の練度に相応しきものであります」

「それは良い。そうした趣向は専門家に任せるべきだろう。我々は軍事の専門家なのだから」

 柔和な笑みを携えた副官に、トウカは優秀な副官であると見当を付ける。

 戦場で誠実に補佐するだけが副官の任務ではない。指揮官の暴走を諌め、時には経験と情報に裏打ちされた助言をし、何よりもその心身を慮ることも優秀な副官の定義である。

「まぁ、黙るがいい。莫迦共。そろそろ往かねば夜になろうて」

 マリアベルの一言に、トウカは周囲を見渡す。

 雪原では戦車が集結しつつ隊伍を組んでおり、その光景は壮観の一言に尽きた。遠方では装甲聯隊との演習で敵役を務めていた中隊規模の装虎兵教導団の姿が 窺える。本来は、対装虎兵に対する演習の最中であった為、その編成は戦車と装虎兵のみという偏ったものであった。どちらも歩兵の支援を受けてこそ十全に活 躍する戦力であり、単一兵科での運用は危険である。特に双方ともに砲兵の遠距離砲撃には無力であり、魔導騎士に伏撃を受ければ大被害は免れない。

 恐らく、この辺りは敵の接触を受ける事もないほどに後方なのだろう。ヴェルテンベルク領自体が、北部の東端に近い位置にあり、シュットガルト湖を挟んで いる為に、行き成り陸戦が起きる可能性は極めて低い。注意せねばならないのは運河を遡上して、海軍艦艇が突入してくることであったが、運河内で艦艇が沈没 し通行不能に陥る事を重く見て、征伐軍の海上戦力は行動を起こすことがなかった。北部にとってヴェルテンベルク領は後方の策源地という側面も持っているの だ。

 恐らく、〈第一装甲聯隊『ラインバッハ』〉が演習の名目でこの時期(タイミング)に現れたのは、天狐族の里での戦い後に、必要となるかも知れなかった残敵掃討の戦力としての意図もあるのだろう。無論、準備が整っていなかったという理由や、敵方に気取らせない為であるという理由もそこには含まれている可能性がある。

「総員、帰還ぞ! 支度をせい!」マリアベルが戦車の砲塔に足を掛け、車体の上で命令を伝える。

 士官達が一斉に敬礼し、部下を率いて各々の愛車へと乗り込みを開始する。その動作にも淀みがなく、それ相応の練度を窺わせるが、トウカはこのⅥ号中戦車では主力足り得ないと考え始めていた。

 勇ましい重低音の演奏が雪の大地に響き渡り、動き出した〈第一装甲聯隊『ラインバッハ』〉。

 トウカ達は相変わらずの戦車跨乗だが、マリアベルの指揮戦車にはマリアベルとベルセリカが居り、手狭なのでザムエルの指揮戦車に乗っていた。

「主様、この旗、凄く温かいです!」

「そうですね。聯隊旗ならば兎も角、指揮官旗ならぞんざいに扱っても構わないでしょう」

 聯隊旗というものは単なる軍旗の範疇に収まらない。或いは、仰ぐべき主君と同一の存在とされることもあり、旗下の将兵にとっての誇りでもあった。

 大日連でも、国号を《大日本帝国》として《帝政露西亜》と衝突した日露戦争時の英雄であり聖将とも称された乃木希典も聯隊旗を奪われ大きく取り乱したことがあった。

 西南戦争時、乃木は第一四聯隊を率いて戦野へと赴くと、植木町付近において西郷軍との戦闘に入った。乃木の聯隊は主力の出発が遅延していた上に長躯強行 軍を重ねていた事もあり、西郷軍との戦闘に入った時点で、乃木が直率していた将兵は二〇〇名ほどに過ぎなかった。対して乃木を襲撃した西郷軍は倍の四〇〇 名近く、乃木は寡兵ながらも勇戦し、三時間近くも持久したものの、兵力保全を図る為、止む無く撤退を決意。

 だが、その際、聯隊旗を掲げていた者が討たれて聯隊旗を奪われ、西郷軍はその聯隊旗を戦勝品として扱った。聯隊旗喪失を受け、乃木は総指揮官であった山 縣に対して待罪書を送り、厳しい処分を求めた。しかし、山縣は優秀な指揮官と目され、厳に自らの罪に対しても厳しくあった乃木を罰する気はなかった。軍法 にも聯隊旗喪失による罰則規定が皆無であったこともあり、不問に付す旨の指令書を返信した。

 しかし、乃木は自責の念を抱いて幾度も自殺を図った。旧知の間柄であった後の陸軍大臣、児玉源太郎は自殺しようとする乃木を見つけ、乃木が手にした軍刀を奪い取って諫めるという出来事すらあった。後に軍で自害する将兵を諌める際、この出来事(エピソード)を度々と持ち出すこととなり、これは現代の皇国陸軍にまで続いている。

 それほどの男が死に至るその時まで悔恨を続けた聯隊旗の喪失。そんな男が護った大地に生まれたトウカに聯隊旗を無碍に扱えるはずもなかった。

「いや、俺の指揮官旗を毛布代わりにするな! それ、自費なんだぞ、こらぁ!!」

 涙目のザムエルを尻目に、トウカは指揮官旗の端で鼻をかむ。

 自費という事は下賜されたものでもなければ官給品でもない。私物に過ぎない。

 ミユキは砲塔の天蓋の座る心地が悪いので、指揮官旗を敷いて座っている。自費と聞いて更に容赦する気が無くなった二人であった。後世に、名将ザムエル・ フォン・ヴァレンシュタインの指揮官旗として皇都博物館に陳列されている事となったことを知ったトウカが顔を引き攣らせるのだが、それは遠い未来の話。

「まぁ、自費で旗を作ってまで戦場で目立つ意味なんてありませんよ」

「そうですね、狩人さんも目立つ獲物は真っ先に撃っちゃいますから」

 トウカの冷笑と、ミユキの的を射た言葉に、車長用司令塔(キューポラ)から顔を出しているザムエルが唸る。

「目立って敵の目を惹き付けても良し、指揮官健在を示す分かり易い標にもなる。……俺が死んでも、他の戦車が指揮官旗を掲げるようになってるんだよ。ヴァ レンシュタイン率いる装甲聯隊は、壊滅するその時まで指揮統制を維持していた……俺は部下が死に至るその時まで、心置きなく戦わせてやる義務がある」

 いそいそと指揮官旗を引っ張って回収したザムエル。

 良い将官になる。それがトウカの抱いた印象だった。

 隷下の兵士が生存することに対して最大限の努力を傾けることではなく、兵士達が終焉に至るその瞬間まで雄々しく戦えることに重きを置いて指揮を執ってい るという点は、他国では珍しいかも知れないが、トウカの祖国では少なくはなかった。部下の尊厳を何よりも優先する点は好感が持てる。少なくとも、志願制の 軍隊であれば何よりも優先される要素を満たさんとしている事をトウカは好ましく感じた。

 世間で一般的や常識的と評される者であれば、間違いなく眉を顰めるであろう考え方だが、軍人に限っては例外ではない。無論、軍人の中でも将兵の生命に最大の関心を払う皇国の中にで少数だが、確かに存在する。

 トウカからすれば、皇国の軍人教育は驚くべきものであった。

 何ら大日連の教育と遜色ないのだ。道徳や倫理に於いても同様であるが、武装に於いては第一次世界大戦時程度のものでしかないにも関わらず、その軍の方針は幾多の戦争を乗り越えた《大日連》のものと然して変わりはない。

 本来、国家間の闘争が絶えない皇国の現状を考慮すれば、愛国心の発揚や自己犠牲の精神を美化することによって兵士を戦場へ駆り立てることに腐心していて も不思議ではない。戦場では夥しい血が流れ、ある程度の犠牲を前提に戦略や戦術が立案される。無論、ある程度の犠牲は大日連でも同様だが、それは時代が進 歩し、民衆の権益が増大するにつれて配慮せざるを得ない。あまりに大きい犠牲は非難の対象となり、体制すら揺るがしかねないからである。

 皇国は犠牲を減らす事に異常なまで固執している。

 ベルゲンの皇立図書館で見た戦史の中には、包囲された友軍を救助する為に、包囲下にある友軍以上の兵力を失ってまで成し遂げたという記述があった。そし て、その記述は多くの兵を失った事に対する鎮魂の言葉が添えられていたが、それは同時にどこか誇らしげない印象を与えた。

 ――少なくとも兵士に配慮している点は在りし日の《大日本帝国》よりも評価できる。

 将兵に対して可能な限りの礼節と誠意を以て指揮する事は、トウカの知る世界では珍しくないが、それは二度の大戦と幾多の限定戦争を経た結果である。

「まぁ、関係ないか……」

 この《ヴァリスヘイム皇国》という国家が多種族にとって生き易い国家であるという事実だけでトウカには十分であった。《ヴァリスヘイム皇国》は何としても存続させねばならない。それがトウカの結論であった。

 マリアベルの目的はクロウ=クルワッハ公爵を害することであり、決して《ヴァリスヘイム皇国》の崩壊ではない。無論、手段の一つとして傾国を考えていた だろうが、既に叶わないと判断しているはずであった。貴族として自領の鎮護を放棄していないところを見るに、《スヴァルーシ統一帝国》の増長に対する危機 感も持っている。

 非情の策を取っているようで、マリアベルは非情に成り切れていない。

 それがトウカには好ましかった。何百年も領地を経営していれば愛着が湧いても何ら不思議ではない。例え当時の人々は朽ちても、その子孫は健気に名も無き歴史を紡いでいる。若いトウカでも故郷への愛着があり、それと似たようなものだろう。

「外道に堕ちない内に、悲願を遂げさせねばな」

 トウカは知っている。願い、求め、渇望し……それでも叶わない時、人は己の常識を超越する。心と行動の制限を減らし、悲願へと無理にでも近づこうと手を伸ばす。

 それでも尚、悲願を遂げられない場合は?

 答えは単純なものだ。その時まで築き上げた常識を捨て続けるのだ。悲願に手が届くその時まで。

 そして、その最中に在る者を修羅と言う。

「手段を選ばなくなるほどに追い詰めてはいけない。あの人に必要なのは優しさだというのに、な」

 己の口先から紡がれた言葉にトウカは内心で驚いていた。

 人の心に付いた傷は決して癒えない。それは一生の傷であり、隠す事はできても癒す事はできない。

 癒され、消えた様に見えてもそれは表面上であり、決して消えはしない。愛や優しさで消えるならば人類の歴史はあれ程の血涙に塗れ、敗者の屍で装飾されてはないだろうと、トウカは歴史の書物を読み漁る中で理解した。

 結果として悲願を叶えても、やはり傷は癒えない。

 人の人生は物語ではない。悲願を遂げても人生は続く。

 それこそが歴史。

 一代にして《独逸第三帝国(サードライヒ)》を築き上げた総統は、当初の目的であった生存圏(レーベンスラウム)を獲得しても尚、戦いを止めなかった。領土的野心がその時点で満たされていなかったというのが歴史家の通説であったが、トウカにはそう思えなかった。

 ――あの男は探し続けていた。己の心を満たし得る何かを。

 外圧と腐敗によって滅亡を持つばかりだった祖国を建て直し、比類なき強国へと導いたが、総統の物語……人生はそこで終わらなかった。

 大勝利という甘美な夢を幾度も、限りなく求め続ける国民。
 特定の民族を見下すことで精神的安定を図ろうとする国民。
 努力せず不満ばかり口にしながらも総統に求め続ける国民。

 それはあくまでも建前。

 誰もが理解しない己の立場を理解してくれる者を探し続けたのではないのか。人間とは元来不器用なものであり、時の指導者たちもそれを理解してくれる者がいなかったからこそ常に一人だった。

 ――己を理解してくれる者を探してあの男は戦い続けたのではないのか?

 トウカはそう考えるようになった。或いはザムエルも、そうなのだろうか?

「ヴァレンシュタイン中佐。貴方はマリアベル殿を愛していますか?」

 つい口を突いて出た言葉。直ぐに失敗したと思った。

 いくら姉貴分(マリアベル)に可愛がられている舎弟(ザムエル)と は言え、二人の間にある障害は、ある意味、トウカとミユキの仲以上に大きい。廃嫡姫で実質北部の戦力に対して圧倒的な発言権を持っているマリアベルは、同 時に中央貴族からの非難を一身に浴びる立場でもあった。ザムエルからすれば気後れする要素があまりにも多すぎる。或いは、ヴェルテンベルク領邦軍の将校を しているのはその辺りに理由があるのかも知れない。

「ああっ!?」

 目を剥いて、奇声を上げるザムエルの肩をトウカは優しく叩く。

「無謀な恋も悪くはないでしょう、戦友」

「戦友じゃねぇよ! そんな生暖かい目で見んな!」激昂するザムエル。

 そんなに否定せずともいい、とトウカはゆっくりと首を振る。

 健気な挺身は好感が持てる。機甲聯隊の指揮統率を見る限り、決して無能ではないことを考えるとそれなりの勝算と打算があるのだろう。

「わ、私もできる範囲で協力しちゃいます! そ、それでマリア様が里で言っていた男性体験ってやっぱり……」

「ミユキ、駄目だ。その様なことを聞くのは」

 興味津々といった風に尻尾を揺らして尋ねるミユキを、トウカは優しく嗜める。ザムエルの苦労は、マリアベルの気質と北部の現状を考えれば容易に想像できるので、トウカは大いに同情していた。

「悪かった……俺が悪かったから黙ってくれ……俺の聯隊長としての威厳が……」軍帽で顔を隠し、しくしくと泣くザムエル。

 よしよし辛かったですね、とミユキがザムエルの頭を撫でているが焼け石に水であった。やはり若くして聯隊指揮官にまで上り詰めただけあって威厳を損ねない様に注意していたのだろう。謀らずともミユキが台無しにしてしまった形になる。

「ほら、これで涙を拭いてください、戦友」

「お、おう……って、これ指揮官旗だろうが!」

「まぁ、細かい事は気になさらず。戦友」

 さり気なくミユキの手をザムエルの頭から引かせて、トウカは両肩を掴んで熱い視線を送る。共に困難な恋に立ち向かおうと言うのだ。好感を抱かないはずがない。トウカは同性にこれほどの好感を抱いたことは初めてであった。

「御前らなぁ……いいか、マリア様はな、俺を小さい頃から知っているんだぞ? それこそ幼少の頃はおしめも変えられたし、風呂にだって入らされた。挙句の果てには母親宜しく授業参観と称して士官学校にまで押しかけられるわ……男として色々と気後れするところがあるんだ」

 話しながら落ち込むザムエル。

 トウカとミユキは顔を見合わせる。

 その後、ヴェルテンベルクまでの道のりを二人は聯隊長を宥めることに費やさなければならなくなった。

 

 

 

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 敵の計略を見抜くことほど、指揮官にとって重要なことはない。だが、このことほど優れた資質を要求される能力もないのだから、これに恵まれた指揮官は、いかに称賛されたとしてもされすぎることはないのである。

       《花都(フィレンツェ)共和国》外交官     ニコロ・マキアヴェッリ