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第五一話    北の思惑







「儂こそが〈傭兵師団(ランツクネヒト)〉が師団長、グレゴール・フォン・フルンツベルクであるッ!」

 大音声にミユキが怯え、トウカの背に隠れる。トウカ自身も無駄に暑苦しい髭面の熊の様な偉丈夫……フルンツベルクに腰が引けた。皇国に訪れて、姫将軍や剣聖、女傭兵などの卓越した武勇を誇る者達と幾度も干戈を交えたトウカを以てしても臆するナニカがある。

 ――ああ、そうか祖父に似ているのか……

 トウカとミユキ、ベルセリカはそれぞれの表情でフルンツベルクを見ていたが、その表情には総じて面倒くさそうな奴という色が潜んでいる。ヴァレンシュタインは戦車の収容作業でこの場にはいないが、いたとしても恐らく同じような顔をしただろう。

「いや、マリア様が男連れで帰ってくるとは。皆の衆! 宴だ! 宴の準備をせぃ!」

 右手でトウカと握手したままに、左手で目を覆って号泣していますと言わんばかりの仕草で感動を表現しているフルンツベルクだが、トウカの右手は非常識な握力で握られて、通常、人体からは出ないはずの形容し難い音が響いていた。

 トウカも負けじと握り返す。

 脂汗噴出。最早、人間種の力では考えられない握力にトウカは膝を突く。

 根本的な差異であるとはいえ、祖父をも超える握力にトウカはなす術もない。頭突きでもしてやろうかという企みが脳裏を過ぎったが、頭蓋骨の構造でも負けている気がしたので断念する。

 意外な事にフルンツベルクの肩には中将を示す階級章が輝いている。名称から師団規模であると想定できる部隊の指揮官であれば、中将という階級は不自然なものではない。筋肉だけではなく、それ相応の能力と実績を持った者であると見るのが自然である。

 痛みに顔が歪むトウカ。

 そんな中、間延びした男性の声が響く。

「まぁまぁ、グレゴさんも落ち着いてくださぁい」

 執事服に身を包んだ老紳士といった風体の男性が二人の間に割って入る。燕尾服の様な形状の執事服だが、その体は無駄のない筋肉に包まれており、見た目の 割に足取りに危なげはない。優しげな表情のリットベルクとは対照的で、気難しげな雰囲気のある雰囲気のある人物であった。左目の片眼鏡(モノクル)や八文字の髭も相まって伊達男と評してもおかしくないが、その独特の口調がそれらを台無しにしている。マリアベルの部下は個性的な者が多いと苦笑するトウカだが、その末席に加わらんとしている己自身も対象になるのではないかと思い当たり、天井を仰ぎ見る。

 玄関で騒いでいる訳にもいくまい、というベルセリカの言葉に、領主であるマリアベルを筆頭に移動が始まる。

 ミユキがフルンツベルクの熊男……偉容に怯えて、トウカの外套の端を掴んでいるので歩き難いので、トウカはその手を取って引っ張ってやる。少し傷付いた顔をするフルンツベルクの表情がまた笑いを誘うが、次は手を握り潰されかねないので慌てて表情を引き締める。

 トウカは案内された一室の扉を潜る。

 落ち着いた調度品や時を感じさせる造りの書棚に古書と思われる年季の入った書籍が所狭しと並び、マリアベルの趣味とは思えないモノばかりが陳列されてい た。部屋の上座に配置された執務机から執務室であることは見て取れるが、その上には多種多様な形状と色合いをした酒瓶が並んでおり、本当に執務をしている のか疑問に思えたが口には出さない。

「あ、ども。皆さんお揃いで~」執務椅子から気軽に声を上げる若者。

 無論、トウカの視界にも部屋に入った瞬間からその若者はこれ見よがしに映っていたものの、硝子杯(ショットグラス)片手におつまみを頬張っている莫迦野郎を敢えて無視していたにも関わらず、向こうから声を掛けてきた以上、関わらない訳にはいかない。

「ヴァレンシュタイン中佐……」

 気が付いた時には姿を消していたが、戦車清掃は部下に押し付けて自分は帰還早々、真昼間から飲酒に励んでいたのだろう。

「トウカよ。摘まみ出すがよい、妾が許可しようて」

「そうですね。フルンツベルク中将殿……気合いを入れてお願いします」

 マリアベルの言葉に、トウカはそのままフルンツベルクへと丸投げする。

 大熊の様なフルンツベルクは、「儂に任せるが良い!」と軍服の上からでも分かる程に筋骨隆々とした腕に力を入れる。

 顔を引き攣らせたヴァレンシュタイン。

 構造的な部分はトウカと同様らしく、フルンツベルクの関節技の前に奇声を上げているところを見るにヴァレンシュタインは人間種なのだろう。こうして目の 当たりにしないとトウカには分からない。尻尾や獣耳などの特徴的な部分は魔術によって隠蔽できる為、見方によっては人間種と全く同様の姿の者も居り、トウ カには容易に判断が付かない。低位種に関しては、種族的特徴を隠蔽することは中位種や高位種のように容易にはできないのでその限りではなく、マリアベルは その少ない例外であった。例外的に高位種でありながら、病によって能力が大きく損なわれているマリアベルは、常時、龍族の種族的特徴である黄金の瞳……龍 眼を瞳に宿していたが、やはりそれはあくまでも特異な例に過ぎなかった。

「お、鬼めえぇぇぇっ~!!」

「フン、筋肉が足りておらんぞ、筋肉が!」

 断末魔の声を上げるヴァレンシュタインの頭を、その分厚い筋肉で覆われた腕でフルンツベルクが締め上げる。むさ苦しい男に組み付かれている男の図は、 中々に冒涜的でトウカはミユキを抱き寄せてその目を覆ってやる。剣聖と伯爵ならば兎も角、純真無垢な乙女であるミユキには断じて見せられない世界……光景 であった。

「むっ、主様。何で、私の目を塞ぐんですか?」

 そうは言いつつも、抱き寄せられて満更でもないと狐耳を揺らしているミユキをトウカは諭す。

「この世には乙女が目にすると腐敗してしまう光景がある。見るな。いいな? お兄さんとの約束だ」穢れるのは身体ではなく心であるが。

 どちらにせよミユキが汚れるのは看過できない。ベルセリカに黙って視線を向けると「某は護ってくれぬのか。いい加減、目が腐りそうで御座るが」と不平を 漏らしながらも頷き、大熊に襲われている若者の鳩尾に柄尻の石突きで一撃を加えて黙らせた。傍から見ても容赦のない一撃で安否が気遣われるが、一同は見て いなかったかのように身近な席へと座る。ただ、マリアベルだけは、床に伏したヴァレンシュタインを跨ぎ越え……ず踏みつけて執務席へ収まった。

「さて、皆に集まって貰ったのは他でもなくてのぅ」執事が茶を用意している姿を眺めつつ、マリアベルが告げる。

 その内心の焦りが出ているとも取れる態度にトウカは、やはり北部の置かれた現状は宜しくないと確信する。

 トウカは、マリアベルからの視線を受け止める。

 丸投げに眉を顰めながらも、止む無しとトウカは言葉を発する。

「まずは現状を正確に理解しなくては。それに皇軍……いえ、敵は正規軍にも関わらず、大御巫という宗教的象徴が第一皇妃という方便を以て率いています。軍 の集結が段階的である点、戦力の集中という軍事的な観点から外れている点を踏まえると、皇国の全てが敵となった訳ではないと解釈可能です」

 無論、中立を維持しているからと今後も中立であり続けるという確証も保証もない。

 ベルゲンを出立した時点で、トウカの耳には大御巫が摂政に就任したという噂は舞い込んでいた。皇立図書館で調べた国事行為の過程を考えると、政教分離の 大原則が、宗教的象徴である大御巫の政治という舞台に於ける蠢動は法的には専横以外の何物でもない。無論、要所を抑えている点と、それなりの方便を用意し ていることから、絶対的な専横とは言えなくしているところ見るに決して無能ではなかった。

 議論の余地がある。詰まりは、実に麗しい政治的茶番劇の余地があると錯覚させることが叶う。

 それを以て致命的な敵対行動に対して遅延戦術を展開するという一手は有り得ない事ではない。無論、遅延によって勝算が生じる、或いは勝率が増大するということが大前提である。得るもののない遅延戦術は政戦に於いて不必要な被害を生じさせるだけに過ぎない。

 第一皇妃として摂政に就任したという建前はあくまでも方便であり、軍の動員と集結が遅れ、特に近衛軍長官が公式発表で「大御巫の摂政就任は違法であり、 近衛軍は何時如何なる時も天帝陛下の軍勢である」と述べている。これらは間違いなく、摂政を僭称する大御巫の下に皇国中の武装勢力が一つに纏まっていない という事実に他ならない。

 だが、マリアベルは、力なく首を横に振り、トウカの言葉を否定する。

「先刻、ベルゲンに潜ませておる諜報員から連絡があっての。……〈中央軍集団〉が即応体勢に入り、海軍の三個陸戦艦隊も増援に送られてくる予定がある、と」

「それは……」

 〈中央軍集団〉の即応体勢への移行。

 〈中央軍集団〉とは、皇都を含む皇国中央部を策源地とし、同地の防衛や治安維持活動が主任務であるが、同時に戦略予備の側面を持っていた。陸軍府長官の 直轄である事と皇国中央部防衛の任を負っている部隊が陸軍第一軍の戦力であることからも分かる。平時に皇国中央に展開しているのは、全ての方面への移動が 最短で可能であるからに他ならない。

 詰まるところ、陸軍府長官が大御巫の意向を是としたのだ。そうでなければ戦略予備である〈中央軍集団〉が軽々に動く事など有りはしない。

 トウカが予想していた以上に大御巫は戦力の集中に腐心している。北部全域を面制圧の如く押し切る為か……或いは、後背で蠢動する中央貴族との決戦を意図しているのかまではトウカにも理解の及ぶところではないが、どちらにせよ北部には短期決戦しか活路はない。

「逐次、前線に現れていた〈中央軍集団〉が纏まった戦力となって前線に現れる日はそう遠くないだろうが……現状の防禦戦術だけで対応は可能だろう」フルンツベルクが詰まらなそうに呟く。

 トウカは、防禦戦術が深い森を利用したものだと聞いていたが、それが本当に戦線を支えきれるかまでは推測できなかった。

「しかし、海軍の陸戦隊とは……海軍も敵に回ったと見るべきかと」

「まぁ、大部分が海に面しておらぬ北部には三個陸戦艦隊以上の意味は無かろうて」

 マリアベルの言葉は正しい。

 一応、北部の東端に位置するヴェルテンベルク領は、皇国東部の造船所に鉄鋼資源を輸送する為、シュットガルト湖と大星洋を運河で結ばれているが、それは あくまでも輸送手段の為でしかない。艦隊が遡上することはできなかった。運河の規模から考えると戦艦でも遡上は十分可能だが、回避運動が大きく制限される 運河内では攻撃を受け易く、閉塞されば立ち往生は必至であった。

 トウカには漠然とした不安があった。

 陸、海、近衛の三軍の内、構成人数の多い二つが大御巫の側に立ったということは、天領である皇都の意志は纏まったも同然。陸、海軍に総兵力で劣る近衛軍 は、皇城に逼塞し続けるしかなく、海軍の五個ある陸戦艦隊の内二つも浮いている以上、近衛軍に対する牽制としては十分であった。もし、大御巫の意向を良し としないのが陸軍であったならば、海軍と近衛軍が足並みを揃えても皇都奪還は不可能であり、そうなれば北部へ向かう正面戦力は大きく減じられたかも知れな い。陸海軍の長を同時に説得した意味は大きく、海軍の陸戦隊が皇都を押さえれば、陸軍の〈中央軍集団〉は近衛相手の牽制には必要でなくなり、その全てを北 部に投入できる。

 良く考えている、とトウカは感じた。

 軍事的手段に於いては荒が目立つことは否めなかったが、十分に及第点であり、政治的手段はトウカが見る限りでも最善と言えるものであった。

 ――政治手腕はなかなか……大御巫か。

 しかし、未だ勝負が付いたわけではない。

 軍の多くがベルゲンに集結し、七武五公は各々の領地で己の職務を全うしているが、それでも尚、皇国政府は皇都にあり、政治の中心として機能し続けている以上、皇都失陥は大御巫の摂政就任の政治的正当性という屋台骨を揺るがしかねない。

 それを近衛軍が……そして何よりも七武五公が理解していないはずがない。

「中央貴族の領邦軍は? 何とか激発させれば、征伐軍の正面戦力を削げます」

 トウカの提案は、マリアベルが考えもしないものであった。

 しかし、それは名案だからではなく、皇国貴族の気質を知る者であれば、まず口にしない事であるが故であった。

 皇国貴族は清廉潔白にして明朗豁達なのは、決して高貴なる義務だけに依らしむるところとしているからではない。自らが栄華を極めんとすれば、まずは民を 富ませる事が最前にして最短であると理解しているからであり、自らの行いによって生じる不利益の可能性を徹底的に排除しているに過ぎないのだ。そして、初 代天帝が望んだ繁栄を緩やかであるが、確実に歩む為の手段としての誠実さであった。

 その様な貴族達が安易に蹶起するはずもなく、また自らの軍勢を掌握できていないわけもない。配下の暴走の可能性も低いだろう。

 北部貴族は己と領民の生存の為という貴族としてこの上なき大義名分を得ているが、他地方の貴族には利益もなく、大義名分という点に於いても欠けている部分がある。帝国に対する脅威の意識が低い為であった。そして、北部貴族もそれらを提供できない。

「要は沈みつつある船には乗れないと?」

「確かに傍から見ればそう見えようの。しかし、それだけではなかろうて」

 北部の蹶起は、他地方の貴族の同意を得ないままに行われ、その大義名分に一理があろうとも、現在の皇国の動乱の元凶であることに変わりはない。賛同以前に、反感があるので追従する貴族は北部貴族以外にいなかった。

 容易く認めたマリアベルを見ても分る通り、北部もそれを予期しており備えがない訳ではない。

 機甲戦力の増強や、領地内の永久防禦陣地の建築などを進めているところを見るに、かなり早い段階で交戦を決意していたことは窺える。この館へと訪れる前 に、ヴェルテンベルク領を移動中に眺めていてトウカは、街道や街並みも防衛線を意識していることに気付いた。街道は主要なもの以外、全てが細く作られてお り、要衝に限っては扇状に構築され、敵の侵入を制限しつつも射界確保が容易なように舗装されている。街並みは木造が少なく、石造りと練石(ベトン)のものが大半で、高い建造物が極端に少なかった。

 時折見える複数の巨大な高射砲塔(フラックタワー)は、 空襲から都市を防衛するための防空設備として建築した鉄筋練石製の巨大な高層防空施設であろう。都市の地形によっては大地に展開した高射砲や対空機関砲で は取れる射界が限られており、都市の全域を防護するには極めて多数の高射砲陣地が必要で、非効率的である。これを解決する為、高層建築物の上に高射砲を設 置し、広い射界を確保して効率的な防空体制を構築すべく建設したものだとトウカは察した。市街戦でも高所から敵を攻撃でき、頑強な拠点にもなり得る。

 都市そのものが永久防禦陣地であり、街道は敵の侵攻路を制限させる。

 永久防禦陣地で敵を誘引し、その側面や後背、或いは補給線を機甲戦力で突くことが基本戦術なのだ。単純だが極めて有効であり、少数での防衛を可能にして いる点は大いに評価できる。だが、何よりも評価できたのは、友軍も複雑な機動をする必要を最低限に減らしていることであった。

 北部貴族の領邦軍の集合体である蹶起軍は言わば諸侯軍である。平時から共同演習や武装の統一を進めていたが、指揮系統だけは未だ解決していなかった。こ れは、本来、領邦軍が各領地の治安維持を担っている為に任務が多岐に渡るためである。領邦軍は領地で其々の任務に就いており、中には商隊護衛や害獣駆除す ら請け負っている。それらの細々としながらも多様性に富んだ任務を捌く為の司令部は戦術的視野に傾倒したものと成らざるを得ず、戦略的視野を有した人材は 質と量ともに北部には酷く不足していた。

 故に複雑な機動は失敗する可能性が高く、戦場での連携にも不安があった。

 そもそも戦車という兵器自体も補給線や歩兵支援が主任務で、本来、対戦車戦闘や対装虎兵戦闘を前提としていない。トウカの世界に於いては《独逸第三帝国(サードライヒ)》 の戦車が極めて対戦車戦闘に優れていたが、それは持たざる国ゆえに万能を求められた結果に過ぎなかった。通常は敵戦車が出現すると対戦車砲や携帯型対戦車 火器、戦車駆逐車、攻撃機の出番となる。それはこの世界でも同様で、エルライン回廊という限定空間だからこそ頻繁に対戦車戦闘は起きているが、野戦では戦 車と戦車の戦闘は頻繁には行われない。あくまでも突発的な対応の延長線上であった。

 台所事情が苦しいのは北部も第三帝国も同じであり、似た性格の兵器が生まれることは何ら不思議ではない。

 だが、重要な問題が解決を経ていないにも関わらず、内戦となったことから分かることもある。

「本当は……この時期に蹶起する気ではなかった。違いますか?」

「ッ! ……気付いておったという訳かの」

 一瞬、驚いた顔をしたマリアベルに、トウカは内心で嘆息する。

 詰まるところマリアベルは、未だ勝算のない状況でこの蹶起に望まずとも引きずり込まれたのだ。

「中央貴族を惰弱と煽ったまでは良かったがの。帝国という国家の脅威を北部全体に正しく認識させてしまった事は妾の落ち度じゃな」

 マリアベルは執務机に拳を振り下ろす。

 貴族……いや、長命種にとっても帝国はそれ程に脅威であり、また恐怖の象徴なのだ。マリアベルはその点を深く理解できていなかった。端的に言うと、北部の貴族と領民の恐怖心を煽り過ぎたが為に統制できなくなったのだ。

 そして、北部は恐怖を振り払うかの様に蹶起した。生物の小心故の攻撃性が具現化されたと言える。マリアベルの思い描いた形とは違う暴発という形での蹶 起。もし、マリアベルが強固に反対した場合、最悪は暗殺される危険性もあり、何よりも北部に於ける影響力が大きく低下することになる。

 ――主戦論を展開して、結束を維持したままに決戦に持ち込み、戦火の中で勝機を見い出す心算だったのか……

 それが一番、勝率の高い手段である以上、それを否定することはトウカにもできない。今この時期に北部の中に在って非戦を唱えることは命取りになりかねない。

 しかし、トウカは違和感を覚えずにはいられなかった。

 他の北部貴族とは違い、マリアベルの悲願は今代クロウ=クルワッハ公爵に一太刀浴びせることである。なればこそ勝算の低い闘争は避けて、ヴェルテンベルク領だけでも中立宣言を出し、未来へ希望を繋げることは不可能ではないとも思えた。

 蹶起軍は兵数で征伐軍に劣っている以上、ヴェルテンベルク領邦軍までをも敵に回す事は出来ず、中立となった場合は交戦する可能性は低い。もし、交戦状態 に陥れば、蹶起軍は後背を征伐軍に突かれかねず、その上、ヴェルテンベルク軍の装甲部隊が欠けた状態での防衛戦を強いられる。最悪、蹶起軍は征伐軍とヴェ ルテンベルク領邦軍に挟撃される可能性も考えねばならない。北部からの怨嗟を受けるが、征伐軍も中立宣言を出した、或いは友軍となって参戦した者を攻撃で きないだろう。もし攻撃すれば信義に篤い中央貴族に付け入る隙を与えることになる。

「今ならばヴェルテンベルク領だけは戦わずに済ませる方法があります。蹶起軍は再起できない被害を受けるでしょうが、大御巫と交渉して征伐軍の一部を常設軍として北部に展開させる事で帝国への牽制となり、北部貴族の初期目標を達成できます」

 その言葉に皆が沈黙する。

 内心では、同胞である北部貴族に対する信義と、大前提としていた目標に手が届くかもしれない可能性に揺れ動いている。フルンツベルクとヴァレンシュタインに限っては、苦い顔をしていた。

 現状では大規模な決戦は避けられないと考えていたのであろうが、ヴェルテンベルクの保身と初期目標の帝国に対抗可能な戦力の確保という点だけを考慮するならば、ヴェルテンベルク領はその軍事力を含めた領内の全てを損なうことなくこの内乱を生き抜ける。

「北部での長きに渡る孤立と引き換えに、かえ?」

 マリアベルの一言に執務室の空気が凍る。

 そう、トウカの策はマリアベルが北部で築いてきた立場と信義を全て差し出しての安寧に他ならない。つまるところ北部に対する裏切りであり、到来するのは長い孤立と怨嗟である。

「北部の経済の大部分はヴェルテンベルク領の産出資源に依存していると聞いていますが?」

 迂遠に経済操作で不満を強引に抑え込めばいいとするトウカに、マリアベルは頭を振る。

「危険であろうて。そもそも北部が経済的に疲弊しておったのは中央からの経済封鎖が原因に他ならぬ。蹶起軍の敗北後に中央が経済封鎖をし続ける要因が消えてしまうことは明白であろうて。寧ろ、復興の為に活発な経済活動すら奨励するやもしれぬ」

 経済封鎖は北部貴族の強硬姿勢に対する中央貴族の牽制であり、自前の武装化を遅らせる目的があった。しかし、蹶起軍が敗北して北部貴族が降伏すれば、それらの心配はなくなり経済封鎖の意味はなくなる。

 苦い顔のマリアベル。

 確かにマリアベルの言葉は正しく、経済封鎖が終われば北部に於けるヴェルテンベルクの絶対的優位性は大きく損なわれる。皮肉なことであるが、ヴェルテンベルクの急速な成長と牽制は北部という地域が孤立した状況であったからこそであったのだ。

「そんなものは戦火が拡大すれば消極的に……そもそも経済摩擦覚悟で……無理ですか」

 孤立だけでなく敵対となると、ヴェルテンベルク領は敵意の大海原に浮かぶ小舟同然となるだろうことは想像に難くない。それは余りにも不利益で、非効率であった。そうまでなるとトウカでも迫りくる悪意を把握することはできない。

 ――泥沼だ……時間とあらゆる資源の浪費になる。

 それは意味もない消費活動。

 歴史上、避けようと努力する者は数多く、しかし現実として幾度も行われた度し難い行為。帝国の軍事介入が予想される今、それは危険極まりない。 

 ――しかし、早期に決着をつけることに固執しすぎている気がする。何故だ?

 蹶起軍として参戦しつつも戦力の保全を図るという折衷案とも言える消極的な方針も取れないはないが、話題に上がることすらない。マリアベルほどの者であれば思い付かぬはずがない。

 長命種ならば、生き残りさえすれば、何れは時代の変化に乗じて悲願を遂げる機会に恵まれるかも知れない。何百年という長大な時間幅での長期戦略を個人で展開できる長命種ならば、今の時代に無理せず機会を窺い万全を期すことも一つの手段である。

 トウカには及びもつかない手段であるが、皇国という多種族国家がその手段の結果であることを踏まえると、決してマリアベルにできないとは思えない。

 トウカの探るような視線に、マリアベルは苦笑する。

「……長命種であっても時代の流れは変えられはせぬ」

「待ちきれないと?」

 穏やかな表情だが、マリアベルは、確り、と頷く。表情と主張が正反対のその佇まいにトウカは眉を顰める。真意を若輩者に悟らせまいとするマリアベルの意志を感じ取り、トウカは沈黙せざるを得ない。

 トウカは内心で、マリアベル程の先見の明を持つ才女が、杜撰な希望に飛び付く可能性は低いと考えていた。ましてやそれが半世紀以上も雌伏の時を過ごしていたならば尚更である。感情ではない、何らかの理由があるはずなのだ。

 しかし、トウカは尋ねられなかった。

 その理由がマリアベルの悲願の起点となった悲劇である可能性に思い至ったからである。ミユキと初めて顔を合わせた日に、無遠慮な言葉をぶつけて泣かせて しまった事は、今でもトウカの痛恨の失態である。古傷を抉るが如き行為に腰が引けるということと、凄惨な話をミユキに聞かせたくないという想いがあったか らであった。

 マリアベルは一転して優しげな笑みでトウカに視線を巡らせた。

 煙管(きせる)を指で弄び、片目を瞑ったマリアベル。

「御主は優しいのぅ。あまり優しぅしてくれるでない。本気になってしまったらどうしてくれる気かえ?」

「むっ、主様はあげませんよ!」

 マリアベルの言葉に、ミユキがトウカの片腕を抱き締めて唸る。威嚇する小動物と言った風体だ。トウカはマリアベルを睨むが、当人は煙管を吹かして笑うだけであった。

 煮詰まった部屋で一同の失笑が漏れる。

 そこで、部屋の扉が開かれる。

「みなぁさん、お食事ですよぉ」

 開け放たれた扉の前で執事が一礼し、台車を押して皆の座る席へと安定した足取りで近づく。口調さえしっかりとしていれば、正に執事といった印象であるが、トウカとしてはあまり関わりたくはない人種であった。

 台車から料理を取出し、机に並べた変態執事は空となった台車を押して最低限の音だけで執務室を退出する。

 マリアベルだけが離れた執務机に座っているので、皆が座る席まで歩いてきてトウカの横に当然のように腰を下ろした。トウカを挟んで反対に座るミユキが頬 を膨らませ、その様子にフルンツベルクが骨付き肉を片手に豪快な笑みを浮かべ、対するヴァレンシュタインはフルンツベルクの弾ける脇毛の香りに食欲を根こ そぎ奪われていた為に席で虚ろな目をしている。

 白い果実を兎の形に卓上小刀(テーブルナイフ)で切っているミユキを横目に、トウカも配膳された料理に視線を落とす。肉中心の料理だが、洋餅(パン)も用意されており、洋風の食事を思わせるものの、中央の皿に鎮座した肉に顔を引き攣らせた。一体、何の肉であるか分からないままに口に入れて良いものかと、トウカは逡巡する。

「主様。それはイッカクイノシシのお肉ですよ。脂が乗っていて美味しいですよ」

「巨大鼠じゃないのか? 嘘だと夜に気絶するくらいモフモフするぞ」

 ミユキの言葉すら肉類に関しては素直に受け取れない。焼き鼠を齧る仔狐は異邦人にとってそれほどに衝撃的であった。ベルゲンの市場に並んでいた巨大蠍(さそり)の干物や、巨大蜂の揚げ物などを見たトウカは天外魔境に来てしまったと激しく後悔し、それ以降、肉類を口にするときは細心の注意を払っている。

 匂いを嗅ぎながら警戒感を露わにしているトウカに、マリアベルが笑う。

「何じゃ、御主は好き嫌いが多いのか? それはいかんのぅ。それ、これは食えるのかえ?」

 突き(フォーク)に突き刺さった謎の球体を、トウカの頬に楽しそうに押し付けるマリアベルの姿は正しく虐めっ子のそれであった。どうしても子供の栄養の偏りを心配する母親には見えない。無駄に色気があるせいかもしれないと、トウカは見当違いなことを考えていた。

 止むを得ず、謎の球体を口に入れる。

 決して世に言うところの「あ~ん」ではなく、強いて言うなれば動物への餌付けである。

「っ! これは……」

 表現し難い味と感触にトウカは宜しくないモノを口に入れてしまった事を悟る。形容し難い感触……敢えて例えるならば魚卵に近いそれにトウカは、適した言葉を見つけられない。背徳的で冒涜的なモノだとしか思えなかった。

「これはの、アルムフォーゲルの目での。美容に良いぞ? 肌もツルツルのモチモチになる故、”乙女”の必需食糧よの」

「主様! お肌つるつるですよ! 私も一杯食べます!」

 球体を串刺しにして口に運ぶミユキ。時折、球体の視線がトウカを恨めしそうに見ている気がして、直視できないかった。

「個人としては球体の正体よりも、四〇〇歳過ぎても自分を”乙女”だと思っている御仁の精神構造が知りたいと思ッ……!!」

 何も付いていないマリアベルの串が、トウカの頬を襲う。

 何時の時代、否、どの世界に於いても乙女?に年齢の話題を振ることは宜しくない。あやうく頬を貫徹しそうになった串を払い退け、トウカは表情を取り繕うのであった。

「冗談ですよ。若造の照れ隠し本気になられては軽く見られますよ?」

「……事故に決まっておろうに。偶然よの」

「うわぁ、凄い偶然ですね」

「まっことよのぅ、うはははははっ!!」

 笑いながらも串は、トウカの横で不規則に揺れている。マリアベルはどうしても偶然で済ませる気らしく、わざとらしい声で笑っており、トウカは乾いた笑みを零すしかない。

「御主ら……莫迦丸出しで笑って居らんで何か一つくらい良い策を出してみよ。笑っている場合では御座らんであろうが」ベルセリカが、呆れた声を上げる。

 だが、トウカからすれば蹶起軍はどうしても長期間に渡って存続できるような状況になかった。

 実は征伐軍だけであれば撃破することは決して不可能ではない。征伐軍は本来ならば政教分離の大原則に基づいて一定以上の軍備の保有を禁止されているはずの大御巫を最上位に据えて組織されている。これは政治的な弱点であり、現在の皇国にはそれを看過しない集団がある。

 中央貴族。

 七武五公の大多数を中心として連帯し、中央貴族は特に天帝という存在を神聖視している節があることを考慮すれば、政治的にも軍事的にも侮れない集団であった。

 だが、蹶起軍と手を取り合う事はない。そもそもの原因が蹶起軍である以上、中央貴族にとっても北部は敵なのだ。無論、蹶起当初の北部貴族が考えていた中央貴族から譲歩を引き出すという案は、実際、幾度かの会談には成功したらしく立場に同情されたという。

 それを破算にしたのが大御巫であった。

 マリアベルも今代クロウ=クルワッハ公爵が憎いとはいえ、領邦軍の戦力を保持したままに機会を待てるならば考え直したかも知れない。或いは、当初より待 てないと判断して満州事変を起こす為に《大日本帝国》が行ったような開戦工作を講じる予定であった可能性もある。否、既に前線では多くの将兵が斃れてお り、少なくない死傷者が出ていることを考慮すれば蹶起軍も後には引けず、中央貴族も妥協はできないだろう。

 そう、北部諸侯軍による蹶起軍は、最悪の場合、征伐軍に中央領邦軍と二連戦を強いられる可能性があった。

 ――いや、間違いなくそうなるだろう。

 その証拠に中央貴族は、大御巫の行いを認めないとの声明を連名で出して以降は、七武五公共々沈黙を守っている。

 恐らくは、征伐軍と蹶起軍が決戦で激しく衝突し、その後、疲弊した勝者を撃破する心算なのだろう。

 その上、帝国軍も皇国内での内乱が長引けば介入してくる可能性があり、そうなれば三連戦の可能性すらある。

「無理だな。勝てない」それがトウカの結論であった。

 当然だが、普通に戦えば、という前提であるが。

 一同から飛来する失望の視線に、心外だ、と睨みつつミユキに串で刺した小さな肉を差し出す。一瞬の逡巡の後、ミユキは恥ずかしそうに口に含む。

 そんな姿に和みながらも、トウカは今一度問う。

「非難なさりたいならば御好きになさるがいい。しかし、征伐軍と中央貴族。そして何よりも帝国を向こうに回して戦える戦力があるとお思いか?」

「ならば各所撃破すればいいではないか」

 フルンツベルクの言葉にトウカは「無理ですね」と否定する。

 国内では、征伐軍に中央貴族と望まずとも状況は推移していくだろうが、帝国軍が各所撃破以前に兵力に差があり過ぎて鎧袖一触で粉砕されるだろう。エルラ イン要塞は中立宣言を出したままに、帝国に対する防壁として機能し続けているが、前回の侵攻の傷が内乱によって未だ癒えてはいない。抜かれる可能性は十分 にあった。

 何より、皇国の内戦は帝国にとって都合が良過ぎた。余力を残して撤退した点を見るに、未だ即応可能な外征戦力を何処かに展開したままに機会を窺っている可能性がある。

 帝国との戦闘が要塞防衛戦であることも不利な要素であった。要塞という機動力皆無の兵器とも言えるものを頼りに戦わねばならない以上、帝国は攻撃という強要行為の時期と、一時撤退という消極的な継戦行為の時期を自ら選択できるのだ。

 トウカとて防衛戦での要塞の重要性は理解していた。

 帝国軍の外征戦力は国力と国情から見るに約二〇〇万前後。無理をすれば三〇〇万は捻出できるかも知れない。約一〇〇〇万名以上の戦力を動員可能な帝国が 五分の一のみしか外征に割けないのは、不特定多数の他国との戦線維持や、不安定な国内の治安維持や牽制に必要な為である。

 対する皇国は、陸軍からエルライン要塞への増援は約二〇万名が限界であった。装備と練度、そして何よりも指揮統制に不安のある領邦軍を投入すれば、兵力は倍に膨れ上がるが、戦闘という同じ行為を生業とする陸軍と領邦軍には大きな軋轢もある。

 ――現在、蹶起軍と征伐軍の内部で軋轢が表面化していないのは、双方共にそれだけの大義名分を有しているからだ。

 前者は北部の未来の為に、後者は大御巫の意志の下に。

「ランチェスターの法則と要塞という防衛拠点を考えれば不利だが……」

 余裕はないが、例え二〇〇万の軍勢がエルライン回廊に殺到したとしても決して不利にはならない。むしろ、練度と正面装備の差から優勢になるだろう。回廊という限定空間であることは大きい。兵力の優位性は波状攻撃のみに留まる。迂回突破や包囲という選択肢はない。

 結果、《ヴァリスヘイム皇国》は《スヴァルーシ統一帝国》との戦闘に於いて、強大な防禦陣地に頼らざるを得ない。

 野戦では数の前に踏み潰されるだろう。勝ちを拾いたいならば、いずれかの集団と協力関係にならねばならない。それも、此方が指揮権を継承する形で。

「詰んでいる。皆で神州国にでも亡命するという選択肢もありか」

 トウカ明け透けな物言いに全員が首を横に振る。

 それぞれに護りたいモノが、或いは貫き通したい意志がある。この氷雪舞う為される大地で。

「妾は脆弱な出来損ないの龍なれど、斯様な誹りを受けたまま引く事は罷りならん」

「我がフルンツベルク家は、いかなる敵にも引きはせんぞ」

「俺だって故郷の危機に座して待っていることなんてできないぜ?」

 マリアベル、フルンツベルク、ヴァレンシュタインの答えにトウカは確信する。北部蹶起軍は負けない、と。

 凛冽な戦意と、郷土を愛するという熱意。決して絶やして良いものではない。トウカの祖国のように諦観と怠惰の海に沈むようなことはあってはならない。正当な闘争を行う者が、蔑まれ、軽視され、報われない事などってはならない。

 戦おう。盛大に。悲劇を書き連ねた歴史書の一頁を増やす為。

「分かりました。戦いましょう。俺も仔狐の生まれ故郷であるこの北の大地の為に」

 トウカは勝算なき戦いという底なし沼に引き摺られている気がしたが、勝てずとも負けなければいいと己に言い聞かせる。最終的な目的は帝国という脅威を北部から取り除く事が最終目標である。決して戦闘だけが手段ではない。

 マリアベルの復讐という目的も忘れてはいないが、それは生きてさえいれば機会を窺うは容易いと考えていた。

 しかし、マリアベルをトウカは甘く見ていた。

 その程度の問題など廃嫡の龍姫は半世紀前に辿り付いていた。

 そうまでしても断行せんとする理由があることにトウカは、この時、気付けなかった。

 

 

 

 

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