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第五三話    在りし日の勅命

 





 湖畔に爆薬を敷設する兵士達を眺めるトウカの背を見て、ミユキは首を傾げる。

「主様が怖いです……」

「まぁ、疲れておるので御座ろうな」

 ミユキの言葉に、ベルセリカが苦笑する。

 トウカが慌ただしく動き始めたので、その場を離れたマリアベルはミユキの横に付く。ミユキは気付いていないが、ベルセリカは時間の許す限りは傍にいるようにしていた。万が一という危機感もあるが、何よりも懸念するのは北部貴族からの干渉である。

 ベルセリカは北部貴族出身である。

 マリアベルがその点を口にしなかった事からも分る通り一般的にはあまり知られていない。


 シュトラハヴィッツ伯爵家。


 北部に於いて武門として有名なフルンツベルク子爵家と並び称される多種族国家《ヴァリスヘイム皇国》成立以来の騎士の家系。現在はベルセリカの弟に当た る人物が伯爵位を継承してシュトラハヴィッツ伯爵領を運営している。ベルセリカがシュトラハヴィッツの姓を名乗らないのは、出家同然で伯爵家を飛び出した からであり意地でもあった。

 そして、七武五公……七武家の一つでもある。

 唯一、七武五公の中で明確に北部に味方した貴族であった。北部地域に所領があることから北部貴族と連帯しており、境遇としては繋がるものがある以上、その流れは不自然なことではない。

 在りし日の主君に仕えんと家を飛び出したが、ベルセリカに後悔はない。だが、五〇〇年以上も過去の出来事である以上、己の生き様を理解しなかった家族に対する憎悪も憤怒も最早形を成してはいない。

 既に父親は隠居し、ベルセリカがシュトラハヴィッツ子爵家の敷居を跨ぐことに難色を示す者はいない。否、止め得る者はいない。それだけの力をベルセリカは幾つもの戦乱を駆け抜ける事で手に入れていた。

 ――まぁ、今更で御座ろう。

 兵士達と共に円匙(シャベル)で湖畔の地面を掘り爆薬を敷設を指揮しているトウカを乱立する木々の合間から眺めつつ、ベルセリカはミユキの頭を撫でる。

 トウカもベルセリカも問題はない。

 前者の問題は難しいかも知れないが、トウカはベルセリカにいざとなれば征伐軍に条件付きで迎合する旨を伝えていた。頃合いとしては征伐軍と蹶起軍の戦闘 で決着が付かず、帝国の侵攻が明確となった時期こそが蹶起軍を最も高く売れる。対帝国戦争は双方にとって共通であり、征伐軍も帝国軍と戦うに当たり蹶起軍 の戦力を欲する事は疑いようもなく、条件付という妥協も叶う可能性が高い。一番の問題は双方に少なからぬ戦死者が出ていることであり、意固地になっている 貴族や軍高官も双方に少なからずいることであろうが、帝国軍の大軍による侵略を前にしてまで正常な判断が出来ぬほど愚者ではないとベルセリカは考えてい た。

 ――否、御屋形様はそれらに対して非合法な手段での排除を躊躇わぬで御座ろうな。

 謀略、暗殺、恫喝、恐喝、扇動……

 だが、それらの手段は間違いなく不満と恐怖を他者に植え付ける。

 その時、ミユキは間違いなくトウカの弱点になる。

 だからこそベルセリカ・ヴァルトハイムがこの場にいるのだ。全ての脅威から仔狐を護る剣聖としてこそを異邦人は求めている。あくまでも戦野で身を晒すの はトウカであり、それはある種の決意なのかも知れないとベルセリカは考えている。無論、それを貫き通せる程に戦況は宜しくないが。

 ――己の野心の責任と被害は己が受けるという意志表示やもしれんな。

 それは若人の考え。

 後方から全てを俯瞰する立場に在った方が野心を遂げるには効率が良く、それはトウカも承知しているはずであった。しかし、それでも尚、己の下した決断が 死ぬ運命にない者までをも死に追いやらんとする可能性を出来得る限り近くで見届けんとするのは、戦争という非日常へと踏み込む事に対するトウカなりのけじ めであると思えた。当然、それはベルセリカの私見に過ぎない。

「御館様は、中々に不器用では御座らんか。のぅ、ミユキ」

「えっ、主様は何でもできちゃう人ですよ?」ミユキが首を傾げる。

 そう、ミユキの前ではトウカは可能な限り己の弱さを出さない様にしていた。男の見栄というものか、或いは不安にさせたくはないという一心かまではベルセリカにも分からないが、それはトウカの判断であり女性として尊重すべきものである。

「それも間違いではなかろうが……まぁ、蟹如きは撃破してみせるで御座ろうがな」

 後退を始めた戦車と一個小隊の兵士達。

 射撃しながらの後退であり、統制の取れた後退だが、時折、粒子の細かい砂に足を取られて倒れる兵士がいる姿も見られたが、戦友達は慌てて引っ張り立たせる。

「総員、物陰に隠れろ!」トウカの怒声が湖畔に響く。

 兵士達は既に湖畔の地形や木々の物陰に潜み、トウカ自身も戦車の影に走り込む。

 視界を閃光が満たす。

 慌ててミユキを両手で抱え込み腰を落とす。

 次いでやってきた轟音と衝撃波からミユキを護り、ベルセリカはトウカへと向き直る。

 トウカは戦車の応射に合わせて飛び出す。

 戦車砲弾は、爆風によって姿勢を崩した巨大蟹に狙い過たず命中する。

 しかし、今度は違う。

 蟹の柔らかい腹を突き破り、砲弾は鋼鉄の破片となって蟹の内部を縦横無尽に引き裂く。

 トウカの目的は爆薬を地面に仕掛け、これを爆発させた際に生じる爆風で巨大蟹の腹部を晒させる、或いは仰向けに倒すことによって、蟹の比較的柔らかい腹部を戦車が砲射できるようにすることであった。

 何本もの足で不安定に立脚する姿を見れば、風に煽られ(やす)いことは一目瞭然。爆薬の炸裂に煽られた蟹は容易に体勢を崩した。

 戦車も下部が弱いが、トウカは蟹相手にもそれが通用すると考えたのだ。それは正しく、甲殻類に分類される巨大蟹でも腹部は例外であった。その上、大顎をはじめとした口などの複数の器官が密集している為、腹部への攻撃は致命傷となる。

 そこへ歩兵一個小隊からなる対戦車小銃と、戦車砲の集中砲火を浴びせかけられた。然したる抵抗も見せず、苦悶の奇声を発した巨大蟹は湖畔の砂を巻き上げて斃れ伏す。

 歓声を上げる兵士達を余所に、軍刀の切っ先で蟹の身を幾度も、執拗なまでに突き刺して死亡確認をしているトウカの背に、ベルセリカは精神的に追い詰められているので御座ろうかと不安になる。

 無理もないことである。ベルセリカは確かにトウカに対してマリアベルの心証を良くするよう焚き付けたが、北部と迎合するとまでは考えていなかった。トウ カは蹶起するくらいであれば何かしらの勝算があるのではないかという期待と、その勝算に対しての補強だけで十分に勝機を掴めると考えていたのかも知れな い。

 しかし、現実はそう甘くはなかった。

 マリアベルの勝算は既に潰され、敵対戦力は増大の一途。

 ――某とてここまで状況が悪化しておるとは考えてなかったが、御館様も逃げ出さぬという事は独自に勝算を見つけておるということで御座ろうか?

 トウカは決して勝算のない戦いに臨まない。

 特にミユキが関わるとなるとトウカは一切の容赦をしない。間違いなく敵対戦力を、手段を問わず排除するだろう。

 斃れた蟹に飛び掛かり、これでもかと言わんばかりに軍刀で滅多刺しにし始めたトウカに顔を見合わせる兵士達。鬱憤を晴らすかのような所業に兵士達は呆気に取られている。目を狙っている点を見るに視覚を奪おうとしているので、一応は冷静と見えなくもない。

「ほら、仔狐。あの阿呆を止めてくるが良い」マリアベルが投げやりに呟く。

 突然、矛先を向けられたミユキは首をぶんぶんと振って辞退する。

「む、無理ですよぅ。凄く怖いです……」

 げしげし、と蟹の甲羅に蹴りを加えているトウカを見て、ミユキは狐耳を動かして怯えていた。トウカが常に微笑を浮かべているが如き貴公子ではないこと は、対ベルセリカ戦を知るミユキも重々承知していたが、八つ当たりをするような一面があるとは思ってもみなかったのだろう。

 ――まだまだ若いか……それもまた良し。

 若さを露呈することは悪ではない。

 時と場合によっては悪と断ぜられるかもしれないが、この場に於いては微笑ましい光景と成り下がる。朋友以外にその姿を安易に見せるようでは落第だが、敵対者がいない状況ならば然したる問題はない。

「主様ッ!」意を決してミユキが声を上げ、トウカに近づく。

 ほほう、とマリアベルが感心したように、ベルセリカへと同意を求めてきたが、それに対して曖昧な笑みを浮かべるしかなかった。

「そんなに刺しちゃうとすり身になっちゃいます! 鍋に入れられません!」断固たる口調。

呆気にとられる一同。

 そして、異邦人は無言で頷いた。









「機嫌を直してくれるか?」

 トウカは、巨大な台所で蟹の身を取る作業を延々と続けながらも謝罪する。

 横では、ミユキが蟹の身を摘まみ食いしている。よって、蟹の身はミユキの胃に収まり、一向に増えない。頬を栗鼠(りす)の様に膨らましている姿は中々に愛らしいが、無言で摘まみ食いを続けられることは大いに苦痛であった。

 実は、巨大蟹を撃破した後、トウカがその甲羅を身諸共軍刀で滅多刺しにしたことで、鍋用の蟹の身の一部が小片(フレーク)状になってしまった。

 これにミユキが大激怒。

 実際のところ蟹の身体が巨大であったが故に、鍋にできる身が未だ沢山あったのだが、ミユキは食べ物を粗末にするなんて駄目ですと大層怒り狂った。巨大な 鋏や鋭い脚と死闘を行った兵士一同からすれば、端から巨大蟹を食材と見ていた仔狐に生暖かい視線が注がれたのだが、当人はそれを知る由もない。

 巨大蟹は思いのほか、周囲に大きな影響を及ぼした。

 シュパンダウ軍事産業特区から駆け付けてきた技術陣が、蟹相手に我らが開発した砲が効かんとはどういう了見だ、と怒鳴り込んできた挙句に、大重量の巨大蟹を輸送した影響で中戦車の懸架装置(サスペンション)が全換装となるほどに疲労し、整備班長に嫌味を言われたマリアベルの八つ当たりがトウカを直撃した。

 結果としてトウカは罰として巨大蟹を一人で解体することとなった。

 抜群の切れ味を誇る軍刀で手早く解体してしまえば早いが、人を斬った刃物で調理することは躊躇われた。隣で栗鼠(リス)となっているミユキも怒るだろう。

「ミユキ……」包丁を置いて、トウカは近くの椅子に腰掛ける。

 その只ならぬ雰囲気に、ミユキは狐耳を動かして小首を傾げる。

 大事な話をせねばならない。

 己の責任に於いて、ミユキを北部貴族蹶起軍の政治的舞台へと送り出そうとしたトウカだが、それは後悔へと変わりつつあった。故に今一度問わねばならない。今ならば、まだ引き返す事もできる。

「俺は、ミユキを貴族にすることが良いことなのか分からない」

 貴族とは高貴なる義務を背負う者。

 ミユキのその小さな双肩に斯様な義務を背負わせることへの躊躇いと、それ以上に北部の現状が想像していたよりも遙かに悪いことがトウカの心に暗い影を落とした。

 前者ならばトウカやベルセリカが代行できるが、後者は個人では如何ともし難いものがある。

 無論、最善を尽くす心算ではあるが、貴族というものは万が一という時、あらゆる手段をもって責任を取らねばならない時がある。それが余りにも恐ろしく、トウカの足を竦ませた。

 マリアベル達の前では最善を尽くすと口にしたが、ミユキだけには嘘を付けなかった。

「普通に戦えば蹶起軍に勝機はない……今ならミユキとセリカさんを連れて逃げ出す事もできる」

 急な話に、ミユキは驚いた顔をしている。

 掛け替えのない日常。それを護ることこそがトウカの至上命題であり、北部に関わり過ぎれば早々にその前提が崩れる事は避けられない。

「大丈夫です。きっと主様は負けないもん」優しげに微笑むミユキ。

 その笑みが全幅の信頼を寄せていてくれるからこそのものであり、瞳は決して引きはしないという峻烈な覚悟が窺えた。

 ミユキも知っているのだ。帝国に対する敗北は、ミユキ含めた多くの種族にとっての滅亡なのだと。

「きっと私は主様に出逢わなくても、この祖国の危機を見逃せなかったと思うの。だって私はこの国が大好きだから。おとさんが居て、お母さんが居て、御師様が居て……主様にも出会えた」

 幾多の種族が在るがままにその生を謳歌できる大地。それが《ヴァリスヘイム皇国》なのだ。

 トウカは歯を食いしばる。

 民にそう在れかしと戦後大日連で望み続けて終ぞ叶わなかった姿勢。国民が祖国を想い、そこに住まう者と財産、伝統、歴史を護る為に妥協と黙認ではなく、闘争と抗戦を選択する正常な判断力!

 願い祈り恋焦がれた国家の在り方が、今この時、トウカの前に立ち塞がった。

 ――恨むぞ、天帝……貴様が偽りの平和に溺れなければ、こんな事にはならなかった。

 トウカは内心で、先代天帝の融和路線の名目のもとで歪みを生じた皇国へ想いを馳せる。

 軍事力の伴わぬ平和など有り得ない。国家は強大な暴力によって統制され、色褪せることのない愛国心によって維持される怪物。

 これを制御し、維持できぬものに指導者たる資格はない。この何気ない考えこそが、サキラギ・トウカという戦略家を形成する一つの要因となっていることは誰一人として知らない。

 暴力よ、斯く在れかし。

「私は私にできることをします。だから主様は主様にできることをして欲しいです」

 トウカの顔を暖かな感触が包む。仔狐の両の手だった。

 臆することなく異邦人を正面から見据える瞳。

「例え、その先に己の死が待っていてもか?」

「勿論です……でも後悔はしたくないかな」ミユキの本音。

 そして啄む様な口づけ。

 自分達の未来がどの様なものなのか、トウカには分からない。だが、それ故に今この時を後悔することなく生き抜かねばならないという事だけは嫌という程に理解できた。

 仔狐との二度目の口付けは蟹の味がした。









「うわぁ、蟹尽くしです!」

「そうだな。蟹鍋以外は揃っているぞ」

 (テーブル)に並べられた無数の蟹料理を前にして感激しているミユキに対して、トウカは疲れきっていた。蟹料理というものは全般的に手が掛かる。殻から身を取り出す苦労は想像を絶するものがある。その上、巨大蟹の身を取る作業を一人で行っていたのだから苦労は並大抵ものではない。

 ちなみにこの場に蟹鍋がない理由は、マリアベルが北部貴族蹶起軍の会議があるらしく、その場で振る舞いたいとの事であった。ミユキも大勢で食べる方が楽 しいという事で賛成したので、トウカにも異論はなかったが、その蟹鍋を用意するのが一体誰の仕事となるのか大いに心配であった。

 ――生きていても死んでいても迷惑を掛けるとはな……恐るべき甲殻類。

 戦車砲が貫徹しない甲殻に、解体には(のこぎり)と爆薬がいるという時点でどうにかしているとしか言いようがなかった。幸いなことにミユキが食べると言うだけあって、トウカの知る蟹と遜色のない味であることが唯一の救いである。これで味が悪いとなれば、調理の腕で補わねばならなくなっただろう。

「美味しいか?」

「凄く美味しいです! こんな料理初めて食べました!」蟹焼売を口に運ぶミユキ。

 その無邪気な姿に、トウカも頬を綻ばせる。

 皇国には焼売や餃子などの皮に類するものを使った料理がなかったので、止むを得ずトウカが自作した。基本的には小麦粉と水と食塩を混ぜ込み、打ち粉(片栗粉)を使用して生地を引き延ばした程度のものに過ぎないが、ミユキには珍しいようであった。

 装飾品よりも美味しい料理がミユキを喜ばせる。

 乙女というよりも少女というべき在り様であるが、それがトウカには好ましく感じられた。料理一つで仔狐を笑顔にできるならば、在りし日に祖父に小突かれて夕飯の支度をしていたことも無駄ではなかった。

「おお、中々に様になった料理ではないかえ」背後から現れたマリアベルの手が蟹焼売を掴む。

 行儀が悪いと苦言を呈する気は出ない。服装も態度も貴族とはかけ離れており、これを咎める事は今更であった。北部に於ける経済が実質、ヴェルテンベルク の魔導資源と鉄鋼資源による独壇場であることを考えればマリアベルよりも上位の貴族位を持つ貴族であっても安易に諫言はできない。心理状態(メンタリティ)が完全に子供のままであるが、それが表面上だけであることをトウカは重々承知していた。

「ヴェルテンベルク伯とセリカさんの分はついで、ですが」

 続いて姿を現したベルセリカにも視線を向けて、トウカは肩を竦める。

 マリアベルが夕暮れ時になりつつあるこの時間まで姿を現さなかったのは、懸架装置の修理に付き合わされるというある意味自業自得なので同情するものはい ない。整備班長だけには頭が上がらないのだろう。大日連の陸空軍に於いても整備の頂点は階級を超越した立場にいる事が多いが、皇国に於いてもそれは同様で あるらしかった。

 対するベルセリカは、ヴェルテンベルク領の二個装甲聯隊の視察を行っていた。

 これに関しては報告を受けており、隠居していた間の重要な戦役を読み漁ったベルセリカはヴェルテンベルク領邦軍の偏った編制に問題があることを見抜いて いた。ヴェルテンベルク領邦軍の編成は二個装甲聯隊以外には二個装甲擲弾兵大隊しかいなかった。実質、二個戦闘団を何とか編成できる戦力しかない。広大な 領内を防衛する為に多くの戦力が割かれているという現状が、ヴェルテンベルクの派兵戦力を減少させている。少なくともヴェルテンベルク領だけで正規の軍人 は約一万名ほど存在しており、それ故に北部内では軍事面に於いても他貴族に優越していた。その上、非公式な民兵戦力を平時から、訓練しているらしく、その 数は著しく増大する。

「初めて見る料理で御座るが、中々良いな」蟹肉餅(コロッケ)をつまむベルセリカ。

 立ち食いの如く(テーブル)の横から手を伸ばすマリアベルとベルセリカに、トウカは突き(フォーク)を向ける。椅子に座れと突き(フォーク)で指し示すと、二人は黙って従う。

 料理は気に入られたようで、用意した蟹料理のほとんどが無くなり、トウカは改めてマリアベルとベルセリカに向き直る。

「それで、戦車の整備は兎も角……セリカさんは順調ですか?」トウカは野性的な笑みを浮かべる。

 ベルセリカが上に立つというだけで将兵達は奮い立つ。無論、それはその名声によるところではなく美貌ゆえであるが。人事異動だけで士気が天井知らずとな るならば、これほど効果的なことはない。だが、これは一時的なもので、近々行われる北部貴族会議の場で、マリアベルはベルセリカを総司令官として擁立して 指揮系統の一本化を図るだろう。古の英雄が指揮を執るというこれ以上ない世論戦(プロパガンダ)の材料となり、征伐軍はそれだけで大きく動揺することは間違いなく、対する蹶起軍の士気は向上する。

 己の領邦軍の指揮を完全には離していない各貴族も、頷くことは間違いなかった。しかし、どの時期に切り出すかまではトウカにも分からない。

「順調だが、某に実戦指揮は難しいで御座ろうな」

「やはり、昔とは随分違いますか? やはり、北部蹶起軍の総司令官となっていただくしかありませんね」

「それは妾も考えておった。拒む者は居らぬであろうて」

 マリアベルもベルセリカも、トウカと同じことを考えていた。

 単一の戦闘単位としては最強に近い位置にいるベルセリカだが、軍の指揮となると話は変わる。聯隊規模までであれば、ベルセリカでも指揮は可能だが、それ 以上の戦力となると戦術ではなく戦略面から指揮せねばならない。世紀単位で現世を離れていたベルセリカに軍勢を指揮せよと命じることこそが酷である。

 しかし、総司令官となると話は変わる。

 戦略面からの視点がなければ難しいと思われる総司令官という立場だが、実際は必ずしもその必要はない。戦略面からの視点や作戦立案は参謀の仕事であり、総司令官の仕事は威を以て決断を下すことによって、旗下の将兵達に勝利という幻想を確実なものと思わせることである。

 ベルセリカを北部蹶起軍の総司令官とする事に不利益(デメリット)はない。否、利益とするのだ。無理やりにでも。

「御二人は、まさかそれだけと思っているのですか?」

 トウカはミユキの口に蟹肉餅(コロッケ)を放り込むと、ベルセリカに視線を向ける。

 ベルセリカが総司令官に就任することは、何よりも蹶起軍の正当性を喧伝できるのだ。

 否、トウカが喧伝する。これはベルセリカが英雄として駆け抜けた時代の天帝、キルデベルトの意志であると。

 アイゼン・キルデベルト。

 鋼鉄の名を冠する戦皇にして、ベルセリカが英雄として君臨した時代に天帝を務めた名君。当時の戦乱の時代を皇国という国が国土を一切損なうことなく、乗り切った為に歴代天帝の中でも特に後世に名を残すことに成功している。

「剣聖ベルセリカ・ヴァルトハイムは、時の天帝たるキルデベルト陛下より、皇国危急の時、独自に軍を組織し、難局に立ち向かう許可を得ているのです」

 それは詐称。

 詐欺、恫喝、嘘、ハッタリ……大いに結構ではないか。大御巫も摂政を僭称し、征伐軍を成立させた。既に天帝の権利が神聖にして不可侵であるのは文面上だけに過ぎないが、摂政如きが天帝の勅命を否定することはできない。

 御題目さえ用意できれば、ベルセリカの名の下に北部全てを指揮下に収め、これを以てして征伐軍を撃滅する。

「莫迦なッ! 勅命の偽造は大逆罪で御座ろう!」ベルセリカが焦ったかのように立ち上がる。

 あまり人に聞かれて良い話ではないとはトウカも重々承知しているが、同時に叛乱同然の蹶起をやらかした当事者が隣にいる以上、取り繕う気は起きない。

「今更ですよ。それに読みましたよ、ヴァルトハイム戦記」

 トウカが(テーブル)に置いた書籍を見て、ベルセリカが露骨に嫌そうな顔をする。

 ヴァルトハイム戦記。

 トウカの知るところのガリア戦記などと同様の、自らの手で書き記した戦争記録である。キルデベルト陛下の御世に於いて、ベルセリカという英雄の視線から 嘗ての乱世が書かれた書籍であり、トウカはマリアベルの執務室で偶然見つけた。皇国では有名な書籍で、子供が感想文を書く際に決まって手に取るとされるだ けあって、ベルゲンの皇立図書館では戦史の書棚には置かれておらず、トウカは気付かなかった。

「その一節にあったはずです」

 トウカの言葉に、ベルセリカが呆気に取られる。

「セリカよ、思うままに軍を編成し、北の脅威に備えよ……」

 余は南からの脅威に当たる、と後に続くキルデベルト陛下の一言。この言葉のとおり、ベルセリカは皇国北部を舞台に侵攻してきた敵軍と軍勢を率いて幾度も 干戈を交え、キルデベルトは皇国南部で総指揮を執った。役目としては双方共に方面軍司令官に近いものであるが、これは事実上の勅命であった。軍だけでなく 貴族の戦力をもベルセリカに従わせるならば勅命は必要不可欠であり、同時に軍の階級序列と貴族の宮廷序列を優越する効果を持っていた。

 だが、何よりも大きいのは、期限が明言されていない場合は永続的な効果も持っているという点である。

 例え、当代天帝が崩御し、次代天帝が即位したとしても、当代天帝の勅命は次代天帝が撤回するまで消えはしない。時代の波に消えて逝ったと思われているベルセリカの勅命は、破棄されることもなく放置されていることは疑いない。

「この皇国に於いて誰もが知っている戦記の一節に記された勅命……未だ有効なはずです」

 ベルセリカが隠居したこともあるが、この時点で軍の整備が進みつつあり、高度な指揮系統と編制が完了し、個人の武勇や智謀に軍勢が率いられなくなりつつあったことが大きい。

 誰もが忘れ、或いは歴史の一幕だと風化させた勅命。

「……(それがし)が隠居の為の資金集めに書いた戦記がこの様な形で利用されるとは」嘆息するベルセリカ。

 深い森の中に、あれほどの屋敷を立てる資金は一体どこから出したのか、というトウカの疑問は解決された。ベルセリカは騎士ではあったが、正規の軍人では なかった。俸給もそれほどのものではなかったはず。当人も国難に国庫の負担となる事を良しとしなかったであろうことは容易に想像できる。

「セリカさんが率いることで、蹶起軍は蹶起軍でなくなる。征伐軍よりも遙かに正統な皇軍になるのです」

「確かにの。摂政の摂政令と天帝陛下の勅令では大きな隔たりがあるしのぅ」マリアベルも否定はしない。

 無論、勅令を持ち出す理由は他にもあるが、未だ不明瞭な要素に他ならず、トウカは口にする気はなかった。

「勿論、セリカさんが断られるならそれでも構いません。あまりやりたくは有りませんが、北部全体で焦土戦術を実行します」

 焦土戦術。

 防禦側が攻撃側に奪われる地域の利用価値のある施設や食料を焼き払い、その地の利用価値を減衰させて攻撃側に利便性を残さない、つまり自領土に侵攻する敵軍に食料・燃料の補給などの現地調達を不可能とする戦術である。

 これを北部全体で行う。

「莫迦な! それでは蹶起軍が北部臣民の信頼を失うで御座ろう! 継戦できぬぞ!」

 ベルセリカが怒鳴る。

 自領民の信頼なくして戦争の継続は不可能である。焦土戦術は諸刃の剣であり、例え勝利できたとしても長きに渡る禍根が残る。その最たる例が米帝の南北戦 争であり、ウィリアム・テクムセ・シャーマン将軍が焦土作戦を展開し、結果として南軍の領土では長きに渡る怨嗟が残った。半世紀以上後に行われた第二次世 界大戦中に、彼の名前が冠されたシャーマン中戦車に南部出身者が搭乗を拒んだという逸話すらある。

「焦土戦術を行うのは征伐軍の軍装を纏った者達です。後日、浸透突破してきた敵の威力偵察部隊の人間を捕獲して犯人として処刑にでもすればいい」

「それは……ッ!」絶句しているベルセリカ。

 対するマリアベルは思案の表情だった。

「それは根本的な解決になるのかえ?」

「中央貴族の領邦軍と挟撃するのですよ。卑怯にも臣民の財産を無差別に燃やす征伐軍を」

 そうした流れを作る要素の一つとするのだ。

 初代天帝の言葉に忠実であるならばそれでいい、とトウカは考えていた。ならば初代天帝の言葉に沿う形で戦場という舞台を用意すればいいだけの話であり、それは不可能ではない。大義名分さえ与えれば中央貴族も否とは言わないはずであった。

「初代天帝の民を護れという言葉を無視した連中を撃滅するのに協力してくれるでしょう」

「もし、してくれなければ何とする?」

 マリアベルは内心で必死にそれが可能か考えているであろう。中央貴族を参戦させるということは愛しい父親殿に合い見える機会を得る好機かもしれないのだ。

 トウカとしてはどちらでも良いのだ。

 征伐軍が後背を気にして蹶起軍に振り向ける戦力を割けば儲けものという程度のものでしかない。諸勢力に数ある判断材料として与えるに過ぎなかった。判断 は複数の事象を以て総合的に判断されるべきであり、トウカは幾つかの要素と事象を用意する心算であった。ベルセリカの総司令官就任も正当性の確保という意 味ではその一つである。

 無論、それを正直に話す心算はない。

「もし、拒否するなら共和国に北部の領土を割譲する代わりに軍を派遣してもらうしか民を護る方法はない、と交渉に当たる貴族に泣き落としをして貰いましょう」

「汚い。最早、屑野郎であるのぅ」言いながらも笑顔のマリアベル。

 初代天帝時代から伝来の領土を割譲すると口にすれば中央貴族は慌てるだろう。実質、泣き落としてはなく恫喝に近い。マリアベルも勝算ありと見たのか黙って頷く。

 トウカは不満顔のベルセリカに視線を向ける。

「セリカさんがどの様な想いで現世から離れたか、ヴァルトハイム戦記には書かれていません。俺は貴方が再び流血と暴力に彩られた世界に身を投じることを拒まれるなら助力は乞いませんが……」

「それも一種の恫喝で御座ろうに……総司令官の任。確かに承った」ベルセリカは溜息と共に了承する。

 過去に捕らわれ続けている訳ではないのならば、トウカが言うことはない。戦士の受けた心の傷を掘り返すことに対する引け目もあった。長命であっても、国家の為に多くの大切なモノを喪い続ける必要があるのかという疑問もある。

 武士(もののふ)は一体、何処まで国家に尽くせば良いのか?

 それは軍人にとって、至上命題に他ならない。愛国心にも際限があって然るべきであり、それすらも判断できなくなった軍が体制を維持できるとは思えない。何度も《大日本帝国》陸海軍という偶然と奇蹟を近代文明で再現できるはずもなかった。

 ヴァルトハイム戦記を読んだ結果、トウカはベルセリカという女性が国家に対しての義務を十分以上に果たしていると考えていた。本人が望まないと言うなら ば、再び歴史の表舞台に立たずに済むようトウカは最大限の配慮をする心算である。元来はミユキの護衛として求めたのだ。決してトウカの依頼を拒否すること は失点ではない。

「では、問題解決ですね」

「あとは戦車であろうの」

 マリアベルは、何とかせい、と言わんばかりにトウカを睨む。

 甲殻類の装甲を貫徹できなかったことを重く見ているだけでなく、開発中の新型重戦車の問題もあるらしく、装甲兵器の問題は山積していた。資料を見る限り、懸架機構の問題がほとんどらしく、装甲と武装の重量に脆弱な懸架機構が耐えられないのだ。

「それは明日にでもシュパンダウ地区に赴いて、幾つかの提案はしてきますから睨まないでください」

「うむ、それなら良い。丁度、明日は妾が仔狐に衣裳(ドレス)を誂えてやらねばならんしの。あのままでは貴族会議に出せん」

 そのような出来事(イベント)があったのか、とトウカは唸る。

 是非見てみたいが、時間はなかった。



 

 

 

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