第五五話 空色の歌姫
「ああ全く……書類仕事まで押し付けるか、普通」
トウカは与えられたヴェルテンベルク伯爵家の屋敷の一室で嘆息する。
畳の使われた一室に不釣り合いな書類が、黒檀の机に置かれている状況には辟易とするしかない。これはヘルミーネの仕業で、協力を要請した翌日から書類が 届けられるようになった。書類の内容は戦闘車輛の設計図であり、問題個所の解決を要請してきているのだが、中には無理のある要求も数多くあった。一週間で
トウカが捌いた奇想兵器の数々は後の世で戦史家の議論の対象として大いに歴史家達を賑わせるのだが、それは遠く未来の話。
――装甲を極限まで削減して輸送騎による輸送を可能にすると言い出すとは……
トウカはやれやれと首を振る。
空挺戦車という兵器は、トウカの知る中でも存在した。
空挺戦車とは輸送機に搭載可能な軽量の戦闘車両のことで、戦闘地域に空中投下もしくは強行着陸により輸送され、火力が不足する降下直後の空挺部隊に火力 と機甲戦力を与えることが目的である。戦車とは呼ばれるが、投下もしくは強行着陸により輸送される装甲戦闘車両全般のことを指す為、正面切った装甲戦力と の衝突は考慮されていない。
空挺による機甲戦力の機動力向上という案は理解できなくもないが、ヘルミーネは大規模な空挺戦力を整備することを考えているのか、空中艦隊構想なる奇抜な案が書類として送られてきた。
――無理だな。紙装甲の戦車など決定打にならない。
戦車に求められるのは突破力を底上げする為の攻撃力と防禦力であり、それら二つが欠けている空挺戦車を配備する余裕は現在のヴェルテンベルク領邦軍には ない。それならば装甲戦力の進撃を至近で支援する近接航空支援を行う爆撃騎の開発を急ぐべきだと書類に付け加えて送り返す為の書類箱に投げ入れる。
「問題の解決に一番手っ取り早い方法を模索するだけの能力はあるようだが、それを実現するだけの技術がない。そして、その内、時代に淘汰される、と」
現に空挺戦車の欠点を補うだけの技術躍進が行われる前に、それ以上に最善とされる戦術が立案され、それに応じた新兵器が開発製造された。そう、トウカの知る空挺戦車は時代と共に廃れる運命に在るのだ。
廃れる兵器を知っているという点は、兵器開発に於いて大きな長所となる。絶対に間違わない取捨選択。魔導などのトウカの知らない分野の技術の影響もあるが、それは決して大きくない。
現状では、ヘルミーネ主導で各種新型兵器の生産が始まっている。
重戦車は車体と懸架装置の開発からなので間に合わないが、自走砲と対空戦車、対戦車自走砲ならばⅥ号中戦車の部品を流用しつつ、短期間に量産化できるだ ろう。兵装も主に対空砲を流用する事で解決でき、懸架装置もⅥ号中戦車のものはトーションバー方式のものへと交換され始めている。マリアベルの求める奇襲
に特化した戦闘車輛もⅥ号中戦車の車体を流用した突撃砲という特殊車両の開発として進めておけば問題はなく、最悪の場合は試作のみで終われば良い。
本来であればこうも早く量産予定が立つはずがないのだが、ここでレオンディーネからくすねてきたハイゼンベルク金貨が大いに役に立った。領地経営では予 算もあらかじめ決められていることから突然の出費への対応にも限界があり、ましてや現在は資金を湯水のように消費する戦時下である。新たな製造工廠の建設 などは容易に決められることではない。
生産効率を上げる為に、工程生産方式を車輛生産にも導入予定なので、生産が軌道に乗れば凄まじい生産性を発揮するだろう。
工程生産方式とは、一定期間において単一の製品を大量に製造するための方式である。大量生産を行う工場で製品の組み立て工程、作業員配置を一連化させる。輪状運搬機などにより流れてくる機械に部品の取り付けや小加工を行う作業であり、一般で言うところの流れ作業であった。
第二次世界大戦時、《亜米利加合衆国》の兵器生産は、自動車生産工程の様な生産工程の流れ作業によって大量生産を可能にしていたが、対する《独逸第三帝国》は一点総掛りの生産方式で生産性が低かった。
そして、残念な事に皇国は後者と同様であった。しかしそれは責められることではなく、この世界には効率という概念そのものが希薄である為に致し方ないことと言える。
輪状運搬機の話を聞いたヘル ミーネは「無限軌道にそんな使い方があるなんて」といたく感動していた。トウカが何時かに話した、明日の皇軍は、戦闘部隊も補助部隊も総て無限軌道の上に
乗って行動するでしょう、という言葉に対して、生産に於いても例外でなかったと笑うべきか非常に判断の悩む迷言すら残している。
それらの設計図と建設状況の書類は軍事機密であるはずなのだが、今はトウカの部屋で無造作に散乱している。改善点を探すという作業は、トウカの予想以上に時間と体力を消耗した。綺麗に纏める暇もない。
「だからと言って、その判断全てを俺に押し付けるのは如何なものかと思わないですか?」
書類を手に取り、トウカは畳に突っ伏しながら書類を斜め読みしている青年に声を掛けた。
美青年と表しても差し支えない顔立ちに、怜悧な印象を受ける碧眼。しかし、その畳に投げ出したかのように座る姿が全てを台無しにしている。逆に、その点 が親しみやすさを感じるからこそ指揮官足り得るのかも知れないとトウカは考えたことがあった。この青年にとっては名将と良い男という要素を併存させ得ない 星の下にいる大変不幸な事実かも知れないが。
「この空飛ぶ戦車なんて良いんじゃないか?」
ザムエル・フォン・ヴァレンシュタインが面白そうに呟く。
質問に質問を返すことをトウカはあまり好んではいないが、ザムエルという青年については例外であった。ザムエルの気質なのか、他者に悪意を持たれ難い雰囲気を持っており、それはトウカに対しても例外ではなかった。
「それは浪漫として留めておくべき案ですね」
呆れるしかないが、戦車に羽根を付けて滑空させるというどうにかしている案なども混じっている。狂気と狂騒一歩手前の妄想兵器など、試作すらしている暇はない。
「あの狼っ娘もかなり高位の狼だぜ? 周りにこれだけ高位種を侍らす人間種ってのも珍しいぞ」
「侍らしている心算はありませんが……そもそも俺など彼女らからすると吹けば飛ぶような存在に過ぎないでしょう」
ミユキは長命種にしては若輩者であり、マリアベルは神龍でありながらも大きくその能力が損なわれていた。唯一、強大な力を持つベルセリカは盟約によって 形式上は縛られている。だが、それでも脆弱な人間種に幾多の長命種が付き従うことは異様な光景でもあった。国軍では階級が優先される為、よく見られる光景
であったが、貴族の私兵たる領邦軍では指揮官先頭という古い伝統に拘っている者が多く、結果として身体能力に優れる高位の種族が指揮官を務めることが多 い。逆に参謀職は人間種や混血種が務めることが多いのは、種族の協和という建前以上に、人間種に表面的な能力以上のナニカを期待してのことだろう。
皇国史上、人間種は脆弱ながらも間違いなくその歴史の一翼を担っていた。
初代天帝の御世では、名将と称される者の多くは人間種であり、逆に高位種は前線指揮官として戦野で大いに暴れていた。
「女性の背後でこそこそすることに引け目はありますが、勇敢に戦っても屍を晒すだけですので」
「ああん? 知ってるぞ御前、あの剣聖とやらに正面から斬り掛かったんだろ? その時点で、御前は如何かしてる。引け目があるなんて言ったら俺が形無しだ」
面白そうに笑うザムエルが、人伝に聞いたという勇戦を話し始める。
剣聖と異邦人の果し合いの情報源は間違いなくミユキであろう。ベルセリカであれば忌憚のない現実を教えるであろうことは想像でき、その場にいなかったマ リアベルは詳しい状況を知らない。誇張して語るものはミユキ以外にいなかった。一応、ベルセリカの正体は秘密なのだが。後で口を塞がねばならない。
「新進気鋭の装甲部隊指揮官にそう言って貰えると有り難い」
「謙遜してよぅ、可愛くない奴だな。一応、階級は同じだろうに」ザムエルは己の階級章を示す。
双方共にヴェルテンベルク領邦軍中佐の階級を拝命していた。
これに対して、先達で戦果を潜り抜けたザムエルが、突然現れて同階級になった己に隔意を持つのではないか、とトウカは懸念していたのだがそれは杞憂で あった。逆に面倒を押し付ける、或いは分担できる戦友が増えたと諸手を挙げて歓迎される始末である。最早、それほどにマリアベルの思い付きによる被害は甚 大なのかと、トウカは頬を引き攣らせるしかない。
「名前はザムエルだ。そう呼んでくれ。あと、敬語も勘弁だ。先任だからと威張り散らすのは性に合わねぇんだ」
ついでに言うと歳の近い野郎の同階級は貴重だからな、と付け加えるザムエル。
「なら俺はトウカで構わない」
差し出されたザムエルの手を、トウカは握り返す。
ニヤリとそのともすれば冷たく思える表情を綻ばせるザムエルに、トウカは新鮮な思いを抱いた。祖父と幼馴染という狭い世界を全てとしていたトウカに同年代の友人がほぼいなかったことが原因であり、接し方が分からなかったということも大きい。
トウカの本質は、内向的である。
本来は社交的に見えるが、内心何処かで一線引いた対応をしている。多くの者に敬語を使っていることはその点についての静かなる発露であり、ある意味、ミユキにすら一線引いているとすら言えた。
だが、無神経と軽薄が服を着ているという評価を受ける事すらあったザムエルは、トウカの都合などに頓着しない。馴れ馴れしく肩を組み、楽しそうに笑うだけだった。
「悪くない」とトウカは苦笑を返す。
少なくとも、ザムエル・フォン・ヴァレンシュタインという人間種の青年は、その見た目とは裏腹に手堅く行動し、配慮のできる若者だった。演習に於いて十 分にその性質は知ることができ、捻くれ者のマリアベルすら一目置いていることからも優秀な人物であることは分かる。当の本人は、己の持つ稀有な才能に気付 いてはいないが。
「なぁ、どうだ。これからの友誼を確かめ合う為に、二人で色町に突撃を掛けるというのは?」
だからこそ、こんな言葉を吐けるのだ。
世の中には莫迦と天才は紙一重であるという名言があるが、ザムエルの場合は色惚けと名将は紙一重と言ったところである。
「どうせあのけしからん乳の仔狐は、夜は浜に打ち上げられた魚だろう? 積極的な御婦人というのもいいぞ」
育ちのよさそうな顔立ちをそこまで下品に歪められるものか、と感心してしまう程のザムエルの顔をトウカは鷲掴みにする。
トウカは、ミユキに対して何処までが許されるのか計りかねているところがあった。あまりにミユキが男女の仲に於いて天真爛漫であり純真無垢であったこともあるが、それ以上に自分が女性に対しての接し方を知っていないことを理解していたからでもある。危険性のある可能性がある行動をできる限り避けるトウカの保守的な性格上、ミユキに対して奥手であることは止むを得ないことと言えた。書籍は種族的な差異や主観が入り過ぎており参考にならず、その上、多様性に富み過ぎてトウカの理解の範疇を越えている。
ならば他人に聞いてはどうか?
剣聖、廃嫡の龍姫、獅子姫、姫将軍……トウカがこの大地で邂逅した女性達は、普通の恋を知っているようには思えなかった。何を以て“普通の恋”と定義す るのかすら判断に迷うトウカですら断言できる程に気高き乙女達。確かに恋を経験したと思しき者は混じっているが、同時にそれは探られたくはない過去である 可能性も捨てきれないことを踏まえると、安易に話題とすることは躊躇われる。
「ミユキをそこらの尻軽と一緒にしてくれるな。あの娘以上は俺には考えられない。特にあの尻尾」
トウカの言葉に、一瞬の気後れを見せたザムエルだが、直ぐに冷徹な表情へと変わる。
「違う。違うぜ、トウカ。……まぁ、言っても分らんだろうから付いてこいって」
トウカの腕を掴み、強引に引き摺り始めたザムエル。
それなりに鍛えていると自負しているトウカであるが、ザムエルの常識を超えた膂力と、有無を言わせぬ裂帛の意志に押される形となった。同じ人間種であるが、色欲に対する渇望が、彼に力を与えたのだ。
「敵は色町に在りぃ!」トウカを引き摺って廊下を歩くザムエル。
すれ違う人々の視線にトウカの自尊心は蜂の巣にされた。
「まぁ、その前に腹拵えだ」
「さっきの勢いはどうしたのか。金なら貸さないぞ」
もしや飯代を無心する気で連れ出したのではないのか、とトウカはザムエルに胡散臭い視線を向ける。ザムエルの色町での浪費癖は有名であり、それにも拘ら ずその噂そのものが悪い噂として分類されないことがトウカには不思議でならなかった。ある意味では奇蹟であり、或いは名将や名君よりも稀有な才能と思えて ならない。
石造りと練石造りの入り混じった商店街を二人は歩く。
本来であれば重厚なはずの街並みかもしれないが、壁面はそれを思わせないように塗装されており、許可されているとは思えない出店が軒を連ねている。マリアベルは戦時に於いて街中に可燃物を陳列する趣味はない。間違いなく違法であった。
「気に入らないって顔だな」
「戦時であるにも関わらず不用心に過ぎる」
無論、人々も生活が懸かっているという事をマリアベルも理解しており、黙認しているのであろうことは想像できる。ヴェルテンベルクが北部に於いて東端に位置しており、更に天然の要害に囲まれているので攻撃を受け難いという事情も関係していることはすぐに思い当たった。
「それにしても人が多過ぎる」
「蹶起以前からかなりの数の、他の北部貴族の領地から流れてきてるんだよ。鉄鋼産業と魔導産業でそれを捌き、養うことのできるこのヴェルテンベルク伯爵領……特にこの領都フェルゼンにはな」
ザムエルが通りの中央で両手を広げて見せる。
「成るほど」とトウカは頷く。
ヴェルテンベルク領は、東には漁業を行えるだけのシュットガルト湖があり、北にはエルネシア連峰との間に埋蔵された圧倒的なまでの鉄鋼、魔導資源が眠っ ている。その上、春から夏にかけて東南に掛けての方角が穀倉地帯になるらしく、領民総出で穀物の収穫を行い穀物の備蓄にも余念がない。穀物の生育が限られ
た期間しかできない皇国北部では備蓄は重要であり、年々その穀倉地帯は領民の増加に伴い拡大していた。
そしてそれを密林と渓流、無数の湖が囲むという地形。
極めて恵まれた土地である。否、マリアベルが百年単位の時を掛けて恵まれた土地へと変化させたのだろう。密林に関しては長い時間を掛けた植樹の可能性すらあった。それを一貫した政策の下に行えるのが長命種なのだ。
「おいおい、そんな難しい顔すんなって。……おう、ここだ。ここの飯が美味いんだ」
ザムエルがトウカの肩を軽く叩き、通りに並んでいる一つの店を指し示す。
何の変哲もない門構えの、よく見かける大衆食堂であった。
誘われるままに入ったトウカだが、そこは予想していた光景と違った。
男達が莫迦騒ぎ宜しく酒瓶を手に笑い合い、女達がそれを呆れつつも微笑みながら眺めている。机に視線を向けても、消費される料理と酒も然して特別なものではなく、極一般的な酒場兼用の食堂と言えた。
「思っていたより普通だな」
「どんな店を期待していたのか知らないが、ここの飯は上手いぞ、戦友」
端の机に座った二人。
手を上げてザムエルが給仕を呼ぶと、雑踏の中、打てば響く様な声が響く。大日連の居酒屋でも良く見られる光景であり悪い気はしなかった。
「てっきり婦女子が際どい服で給仕をしているアレな店かと思っていたんだが」
世の中には際どい服装の女性が接待してくれる居酒屋というものが存在する。ザムエルならば喜んでその様な店を進めると思っていただけに、トウカは意外に感じた。
「トウカ……御前は俺を何だと思ってるんだ」
「愛の伝道師という方向でどうだろうか?」
投げやりに答えたところでやってきた給仕に、ザムエルが適当な料理と酒を頼む。トウカも既にこのヴェルテンベルク領に訪れて一週間経つので、料理の中で何が己の口に合うか分かるようになってきた。私的なことながら、これがトウカにとって最大の戦果である。
「今の給仕の娘、どうよ?」
「あんな尻尾では断じて満足できない。毛並みも残念だ」
二人は給仕の少女の後姿を眺める。
男の一瞬の視線は女にとって凝視と同じというが、それを示す通り少女は一度振り向くと慌てて駆けて行った。無論、二人は隠れることなく堂々と凝視していたが。
見るに低位種の熊猫族当たりの少女なのか、白縞の入った茶色の尻尾と頭上の小さな獣耳が眩しい。大日連で言うところの小熊猫だろうか、とトウカは首を傾げる。勿論、二足歩行が通常であろうが。
「御主も破廉恥よのぅ。尻尾か尻尾が良いのか、うへへ」
楽しそうに笑うザムエルに、末期症状だ、とトウカは溜息を吐く。
無論、尻尾の魅力については肯定することも吝かではないトウカだが、ミユキの尻尾は特別であった。自ら手入れしていることも大きく、その時を含めてこその特別である。
「そう言えば知ってるか? 神州国には九尾の狐っていう九つの尻尾を持つ狐種がいるらしいぜ」
「それはけしからん。……亡命も止む無しだな」
確かに九対一では、ミユキの尻尾でも分が悪い。しかし、9本の尻尾では手入れの時間が分散して、全ての質が下がるのではないかとも思えた。ある意味、質と量のどちらを取るかという究極の選択であった。
「いや、一応、将校になったんだからよ。亡命なんて言葉を口にするのはどうかと思うぜ」
「貴方の尻尾への情熱はその程度か……失望ものだな」
嘲笑を浮かべたトウカにびしっと突き付けられた人差し指に、ザムエルは言葉に詰まる。
色町で俸給の多くを散財するザムエルも“アレ”だが、女性の尻尾に拘るトウカも十分に“アレ”である。しかし、当人達は気付かない。
この後、長きに渡って盟友として戦野を駆け抜けることとなる二人は、その偏った嗜好ゆえに別の意味でも盟友として語り継がれることになる。
「まぁ、その話は置いといてだな……実は剣聖殿の事なんだが」
「セリカさん? なにか問題が?」
言い難そうなザムエルに、トウカは首を傾げる。
ミユキがザムエルに漏らしてしまったので、止むを得ず、ベルセリカに関する情報を共有することになったのだが、シュトラハヴィッツ伯爵家の情報を教えてくれる為に不幸中の幸いと言えた。
ベルセリカは現在、ミユキの領地となる可能性のあるシュパンダウ地区に一足先に乗り込み、これを掌握している。特殊軍需区画を中心に偏った繁栄をしてい るシュパンダウ地区は軍需産業が乱立しており、各々の企業が鎬を削り合い、日々強力な兵器を生み出さんとしており、これを掌握する事は一筋縄でいかず、今 までこれを正規の法令の下で厳正に運営させていたマリアベルの苦労は並大抵のものではない。
軍産複合体の恐ろしさをトウカは知っていた。
大日連に於いても軍縮に端を発した闘争で軍産複合体がこれに介入。陸軍憲兵隊と学園都市の傭兵を巻き込んで大規模な市街戦が行われた。その後、軍産複合 体は解体され、陸軍や学園都市に組み込まれ消滅したが、これでも小さな被害である。米帝に関しては内戦で軍産複合体がこれに介入し、国が東西に分断され、 それぞれに政府があるという有様で、同盟を締結しても尚、統合は図られずに終わっていた。
軍産複合体とは、軍需産業を中心とした企業と軍隊、政府機関が形成する政治的・経済的・軍事的な勢力の連合を指す概念である。これは放置すると国家の影響を受けない軍事的、政治的、経済的な集団となる可能性があり、特に横の連体は許してはならない。
「いや、そんな怖い顔すんなって。御家騒動だからトウカに飛び火することはないだろうよ」
「御家騒動?」初めて聞く話題にトウカは眉を顰める。
ベルセリカは姓をヴァルトハイムと名乗っているが、本来はシュトラハヴィッツ伯爵家の令嬢であることはトウカも知っていた。令嬢と称するには些か年齢が 高いものの、長命種である天狼族であることを考慮すれば不自然なことではない。しかし、狼種は種族で連帯することが少なく、同族意識が希薄であることは有
名で、御家騒動が起こる程の結束があるとは思えない。勢力争いに必要な複数の勢力を形成するには、それ相応の人数が必要であり、それらを結束させるほどの ナニカが必要となる。
やはり露呈した。
最近は顔を隠しているベルセリカだが、到着前は然して隠していた訳ではない。有事下の軍事勢力に近づき、隠し遂せ続けるとはトウカも考えていなかった。
「何でも死んだと思っていた剣聖殿が現れて混乱しているらしいぜ。今は弟がシュトラハヴィッツ伯爵位を継承しているが、そこに死んだと思っていた剣聖殿が現れたんだ。今は家の中だけの騒動で済んでいるみたいだけどな……つまり剣聖が生きていることがバレた訳だ」
運ばれてきた鳥の揚げ料理に手を付けたザムエル。
トウカは、前に置かれた白麦酒に口を付けて一気に飲み干す。周囲から歓声が上がり、それに片手を上げて答える。
「俺の耳に届いていない以上、声高にそれを叫ぶ気はないということだろう。それに、爵位は男女に関わらず、最初に生まれた者が継承するはずだが、セリカさんはシュトラハヴィッツ伯爵家から除籍されている。最早、無関係に等しい」
口元を袖で拭ったトウカの目は据わっていた。
剣聖の肩書を持つベルセリカ・シュトラハヴィッツと盟約を交わし、共に苦難の道を歩む以上、その不都合と不利益も背負わねばならないことはトウカも重々承知していた。
ザムエルが瓶で白麦酒を頼む。
しかし、初めての不利益が御家騒動とは思ってもみなかった。
ベルセリカが今更、伯爵位如きに固執するはずもない。古の英雄である以上、それ相応の手段を踏めば伯爵位以上の貴族位で新たな家名を名乗ることは容易 い。しかし、ベルセリカがシュトラハヴィッツ伯爵家に巻き込まれる形で起きつつある御家騒動だが、間違いなくベルセリカはその中心でもあった。
空になったトウカの酒椀に白麦酒を注ぐザムエルが面白そうに口を開く。
「何でも伯爵家の中で剣聖殿を当主にして、帝国の脅威に当たるべし、なんて声が上がっているらしい。まぁ、剣聖殿の武勇を考えれば当然だわな」
「セリカさんは公式には、まだ表には公表されていないので、何処かで漏れたと見るべきですかね」
もしシュトラハヴィッツ伯爵家に騒ぎ立てられれば、ベルセリカが北部に居ることが露呈してしまう。今の段階では、これは好ましくない事態であり、決戦時期に近づいてからの方が征伐軍の動揺を誘えるとマリアベルとも意見が一致している。
早々にザムエルの空にされた酒椀に、トウカは酒瓶で白麦酒を注ぐ。
――まさか、救国の英雄が敵に回るとは思ってもみないはずだ。それも遙か昔とは言え、誰もが知る勅命を携えて。
兵器開発は順調であると報告が上がっているが、謀略に関してはその悉くが挫折している。その多くはマリアベルが意図した征伐軍に迎合する貴族の切り崩しであるが、トウカも征伐軍の侵攻路を制限する為、幾つかの街道を封鎖せんと倒木や対戦車阻塞を敷設しようと目論んだが、敵方の軍狼兵にこれを妨害されて失敗に終わっている。
「俺が出向いて自重して貰うよう説得するしかないかも知れない」
それで状況が改善しないのであればマリアベルを通して圧力を掛ける他ない。
征伐軍に露呈すると何かしらの手段で先手を打たれる可能性があるので、事を荒立てる訳にはいかなかった。マリアベルの圧力などは極めてあからさまであり、事が露呈する可能性が高い。
「よし、俺もいくぜ。高位の狼っ娘と御近づきになる絶好の機会だしな」
「ナニを噛み千切られても良いなら止めないが」
転化すれば強靭な体躯を持つ狼種ならば、若者一人丸呑みにできるという話があるので、身体の一部を噛み千切ることなど容易い。股間を抑えたザムエルが「勇気ある撤退だ!」と叫ぶ様子を横目で見つつ、トウカは酒精が身体を巡る熱を感じつつ思考を纏める。
――セリカさんが北部に来たことが知られたのは何故だ? 流石に早すぎる。
いずれ露呈するとは考えていたトウカだが、こうも早くとは考えていなかった。
知り合いに姿を見られたのか、或いはベルセリカがシュトラハヴィッツ伯爵家に顔を出したのかまでは不明であるが、事が大きくなることは何としても避けねばならなかった。
ザムエルは単なる御家騒動でしかないと判断しているのか、興味なさげに鳥料理を口へと運んでいた。それも止むを得ない事であり、ザムエルはヴェルテンベルク領邦軍中佐でしかなく、同階級であっても、政治や謀略にまで干渉を許されたトウカとは立場が違う。
「まぁ、いいか」トウカは思考を放棄する。
北部に於いて絶大な権勢を誇るマリアベルであれば鶴の一声で黙らせることができる問題であり、或いは既に手を打っているかも知れない。シュトラハヴィッツ伯爵家の人間ともそう遠くない内に会うことは間違いなく、そこで釘を刺せばいい。
「おうおう、飲め飲め。素面で女が抱けるかってんだ」
酒精が入って気分が高揚してきたのか、ザムエルがトウカの未だ半分以上入っている酒椀に白麦酒を 注いできた。宴会で隣に座る上司が、盃の水面が減る度に注いでくる新入社員の試練なる話を何処かで聞いたことがあると、トウカは益体もないことを考える。
学生であったトウカだが、今は領邦軍将校であり軍とは企業と同様に上意下達によって成立している。トウカは同階級であるものの、先任でもあるザムエルの後 輩と言えなくもない。少なくとも顔を立てなければならない立場である。同じ人間種であり、年齢もザムエルが上であること考慮すると上司と称しても不自然で はなかった。
「いやいや、先輩殿こそ飲み足りない様子で。さぁ、どうぞ」
「おう、気が利くなぁ、後輩」
うははっ、苦しゅうないぞ、と屈託のない笑みを浮かべて返杯に応じるザムエルに、トウカは体制の歯車として生きる労働者の面影を見た気がした。
盛り上がる二人だが、周囲はそれ以上に出来上がっており、二人の言葉を気にする者はいない。寧ろ、二人が周囲の大音声に負けぬよう、声を張り上げて会話せねばならない程である。
しかし、小さなそれでいて良く徹る声が酒場に響き渡る。
花咲くが如く可憐であり、同時に儚さを感じる歌声。それでいて野山を駆けるかの様に利発な気配を乗せた音色にトウカは、その音源へと視線を巡らせた。
そこには空がいた。
流れるような空色の長髪に、藍色の簡素な衣裳に身を包んだ少女。
顔立ちは儚く、それでいて瞳は利発さを感じさせる少女の歌声に、酒場の喧騒は徐々に小さくなり、その様子に空色の少女は嬉しそうに、そして儚く微笑む。
それだけで酒場が静まり返り、少女の清流のような旋律に満たされる。
ザムエルも手にしていた酒椀を置くと、机に 肘を付いてその様子を静かに眺めていた。見渡すと酒場だけでなく、前の大通りから窓越しに覗いている者達までもが静かに少女の歌声に耳を傾けており、その
旋律に引き寄せられたかのようにすら見える。例え、空色の少女が幾度かこの場で歌を披露していても、こうまで聴衆が増えるものなのかとトウカは驚く。
ザムエルですら口を噤んで聞き入っている様に、トウカも少女の歌声に沈黙していた。
悲しくも儚く……誰かを、何かを慈しむかのような旋律。
小さくも温かいその歌声は、何気ない……そして二度とは戻らない日常を謳っているようで、異邦人の耳には堪えた。
祖父と幼馴染で鍋を囲んだあの日を。祖父との鍛練の最中、差し入れを持ってきてくれた幼馴染の声を。他者との違いに怯えた孫の頭を力強く撫でた祖父の手を。
何気ない、そして二度と回り逢えない日常。
トウカは天井を見上げる。
在りし日の日常を思い出させるその旋律が、トウカには魔性の歌声に思えた。
これほどまでに男の心を震わせるのだから。
不意に少女がトウカの方向へと視線を巡らせる。謳いながらも左手を胸元に当て、右手を差し伸べた姿にザムエルがだらしなく頬を歪ませる。トウカも危うく笑みを零しそうになるが、慌てて表情を引き締める。
「どうだ? 良い娘だろ。あの娘の御蔭でこの店は連日大繁盛らしい」
「悪くない。何度も聞きたくなるのも頷ける」
ザムエルの言葉を、トウカは全面的に肯定する。
動作はあくまでも優雅であり、普通の民間人とは思えないが、それを聞くことは野暮であった。乱世に於いて出自を語れない者など星の数ほど存在し、またそれを無暗に探ることも好まれない。
途切れた空色の詩姫の旋律に合わせて喝采を上げる客達を尻目に、トウカは己の意志が揺らぐのを感じた。
――この戦乱の世への干渉を二人は認めるだろうか。
一見するとそうは見えずとも、その本質に於いては優しい祖父と幼馴染。天邪鬼な性格であっても己の悲願だけの為に流血を拡大するような性格では断じてなかった。無論、トウカも口先だけで戦争が止まることは有り得ないと理解している。
蹶起軍と征伐軍。《ヴァリスヘイム皇国》と《スヴァルーシ統一帝国》。
その軋轢は極めて長く、共に二〇〇年以上の年月を経て蓄積された憎悪と憤怒は最早、膨大な流血失くして解決を見ることない。言葉によって解決を見るには 一世紀遅かった。一世紀前であれば未だ帝国は国内の平定を見ず、大規模な侵攻はなく皇国の被害は少なかった。帝国にしても不幸な行き違いによる辺境での武
力衝突で和解し、エルネシア連峰を国境として協定を締結するだけで解決しただろう。難題ではあるが、現在の戦争ほどに難しい問題ではなく皇国が付け入る隙 は十分にあった。
謳い終えた空色の詩姫が、観客が投げ入れてくれる金銭に恐縮した面持ちで、幾度も礼を返す様子は純真な気配を窺わせて好感が持てる。
酒場の中でも閉店時間の早いのか、客が疎らになり始めた中、トウカとザムエルは食事を続ける。ザムエルが注文した量が想像以上に多く、胃に収めることに手古摺っていたというどうしようもない理由であるが、悪くない店を教えて貰ったとトウカに不満はない。ゲテモノが料理として出てこない店は、トウカにとって貴重な場所であり心安らぐ場所であった。
「ザムエルさん。たっ、楽しんでいただけましたか?」
唐揚げを頬張っていたザムエルへ、話していた聴衆と別れた空色の詩姫が話しかける。対するトウカは、新たに注文した濃麦酒という白麦酒よりも色と度数の濃い酒を楽しんでいた。半分、度重なる苦労に対する自棄酒という意味を含んでいるが、この場でそれに気付いてくれる者はいない。
新参のトウカに怯えている様子の空色の詩姫。
それは、渋い顔で酒を口に運んでいたからであり、自業自得の産物だがトウカは苦笑するしかない。気難しげに酒を口に運ぶ者は、空色の詩姫にとって恐れるべき対象であるかもしれなかった。酒精に酔う者に正論は通じず、倫理の箍も緩んでいるのだから。
「御嬢さん(フロイライン)、そう怖がらないで欲しい」
トウカは酒椀を机に置き、軍装の衣嚢に手を入れると一枚の硬貨を取り出す。
「良い“過去”を思い出させて貰った。受け取って欲しい」
そして、親指に弾かれた硬貨が宙を舞う。