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 第八一話    ベルゲン撤退 中

 

 



「下がれ! 車輛を楯にするな! 貫通するぞ!」

 トウカの声が、(おぼろ)げな意識に突き刺さる。

 朦朧とする意識を叱咤し、リシアは霞む視界の中、銃剣付きの小銃を手に指示を飛ばすトウカの後姿を見た。トウカは敬語であることもあればぞんざいな言葉 遣いをすることもあり、本来は後者なのだが、状況の逼迫や本性を現した時は前者の言葉遣いや冷淡な言葉が多分に混じる。万華鏡のように変わる言葉遣いと表 情は、マリアベルと似ているようでリシアには好ましく感じられた。彼はきっと本性や本質を隠す、或いは特定させない為に幾つもの仮面を無作為に纏い続けて いる。何時か、その仮面を引き剥がして真実を垣間見てみたいと思う程度には、リシアはトウカを評価していた。

「こ、こ…は……ッ!」

 絨毯の敷かれた床に寝かされていたと気付いたリシアは、絨毯に手を付き立ち上がろうとするが、全身の痛みに顔を顰める。

 姿勢を崩して前のめりに倒れそうになったリシアだが、振り向いたトウカが小銃を手放してその身体を受け止める。想像していたよりも硬い胸板に驚きつつ も、リシアはトウカの助けを得て、近くの壁に弱々しい動作で背を預けることに成功した。最早、今となってはトウカを相手に反感を抱くことはない。この一連 の戦闘での手腕と、腹立たしい程に堂々たる指揮官としての振る舞いをした者に対して否定的な感情を抱くほど、リシアは軍人として無能ではない。無論、銃を 突き付けられたことを忘れるかは別問題であるが。

 サクラギ・トウカは、現在の軍事を取り巻くあらゆる状況を一変させる可能性を持った人物である。

 マリアベルが重用するのは当然であり、或いは後継者としても考えているのかも知れないとリシアは考えつつあった。これからの戦乱の時代に、トウカが魅せ た軍事的才能と、アリアベルを相手にした際の政治的視野は必要不可欠なものであり、当人の出自などの胡散臭い点を差し引いても、マリアベルが手元に置くの は当然の人物と言える。

 そして何よりも、時折垣間見せる黒炎のような瞳に、リシアは堪らなく惹かれた。

 言葉遣いはよく変われども、その感情は冷徹なものだと思っていたが、それなりに長く行動を共にしていれば、中々に感情豊かであることが分かる。トウカの感情の発露はアリアベルの思惑に触れた時がその絶頂期であり、リシアはその姿に畏れを抱いた。

 霞む記憶の先に、リシアは搭乗していた魔導車輛が攻撃を受けたことに思い当たる。横転する魔導車輛の中、トウカが伸ばした手がリシアを抱き寄せたのだ。

 しかし、その手は小さく震えていた。

 その本質としてトウカは戦争に対して否定的なのかも知れない。それでも尚、肯定するのは、それが有効な手段であり、最短の手段であると心得ているからこ そ。乱れる心を優しげな笑みと嘲笑の混合物で隠しているゆえに、その本質を垣間見る事は極めて難しいが、リシアはその二つを間近で見ることが叶った少ない 人物だった。

 ――戦争を肯定し、愛しようと努力する男。このヒトにとって戦争は手段であり、同時に逃げ道なのかも……

 抱きすくめられた身体を震わせ、リシアは乱世の世に突如として現れた大いなる可能性を持つ少年の心が、決してそれに釣り合う程に強靭ではないことを悟った。

 等身大の若者に、あらん限りの軍事知識を詰め込み、戦場の神様が精一杯に依怙贔屓(えこひいき)する様を、急進的な主義主張が着飾った姿は気高くも痛々しい。ことに戦野に在っては尚更である。

 ――私が貴方を支えてあげる。小心者の戦争屋さん。

 リシアは、トウカの胸板に手を付けて、ゆっくりと遠ざける。自らの心臓の鼓動が五月蠅い。それを聞かれることは不愉快であり気恥ずかしい。

 意地と矜持(プライド)、そして何よりも照れが、正面切って言葉を交わすことを許さない。

「状況を御教え願います、参謀殿」顔を背け、リシアは状況説明を願う。

「状況は極めて不利。大通りに展開していた中隊規模の歩兵の眼前に出る形となった我々は車輛を破壊され、近くの金物屋に立て籠もっている」

 トウカの言葉を肯定するかのように、窓際に張り付いた降下猟兵が小銃による応射を繰り広げている。屋内には血の滲む包帯を巻いた降下猟兵が幾人もおり、小さな呻き声を上げて横たわっていた。移動は難しい。

「大通りなら建造物が並んでいるはず……建造物内を移動する形で、少しでも大正門に近づくべき」

「負傷者を見捨てて、か?」

 トウカの笑みに、リシアは口元を引き締める。進言しなければならない提案であったが、降下猟兵に聞かれては戦意が下がる一言でもある。敵地へ少数で乗り 込むという性質上、覚悟はしているかも知れないが、実際に現場に遭遇すれば平静ではいられず、戦意は下がらざるを得ない。

 何より、本来はそうした進言を進んでする役目の参謀であるトウカが行動に移していない。

「失言だったわ。聞かなかったことにして頂戴」

「いや、ハルティカイネン少佐は正しい。もうじき移動を開始する」

 トウカは改めて小さく笑うと、立ち上がり窓際で一際、強力な閃光を発する魔術を行使し続けているセリカと呼ばれた女性に声を掛ける。銃声と着弾する魔術 によってその会話は聞こえないが、野性的な笑みを浮かべて楽しげに言葉を交わしている。降下猟兵達に対する配慮かも知れないが、余りにも自然な動作であ り、共に人の上に立つことに対しての配慮を知っていることを窺わせた。指揮官は部下に不安を抱かせてはならず、付いて行けば必ず勝てると“錯覚”させねば ならないが、眼前の二人はそれを知悉しているように思えた。

 気に入らない。

 リシアは、近くに転がっていた曲剣(サーベル)を杖に何とか立ち上がると、周囲を把握せんと情報の断片を拾い集める。魔術による拘束と小銃による精密射撃で、籠城側でもあるにも関わらず優勢に事を進めている。特に視力に優れた耳長(エルフ)族の小銃による射撃は精密無比で、征伐軍側兵士の足を撃ち抜いて負傷者数を増大させていた。後送の為に人員を割かざるを得ず、その上、大通りに負傷して倒れた兵士を敢えて無視することで、征伐軍兵士の救出を意図した行動を誘発させて戦果拡大を図っている。性質(たち)の悪い遣り方だが有効で、トウカの抜け目のなさが滲み出ていると言える。

「意見具申、今すぐ移動を始めるべきかと。其方の女騎士殿なら家屋の壁を破壊して最短距離で移動できるはずです。此処に居ては魔力と小銃弾の浪費が続きます」

「ふむ、道理で御座ろうが……御屋形様、何とする?」

「その案で移動を開始する。総員、動けない負傷者を背負え。……遺体は置いてゆく。認識票の回収を」

 セリカと言う女性に問われ、トウカは即断する。もしかすると自分が目を覚ますのを待たれていたのではないだろうか、とリシアが危惧するほどの即答であった。

「敵戦車だ! 砲撃が来るぞ!」

 曹長の言葉に緊張が走る。

 反射的に伏せるリシア。セリカと呼ばれた女性は魔導障壁を展開しようと手を翳す。

 だが、トウカだけは鞘に収まった軍刀を杖の様に手にしたまま動くことはない。呆れるほどに堂々とした仁王立ちに、リシアは手を伸ばそうとするがそれは叶わない。

 炸裂音。

 衝撃波がリシアの肌に突き刺さり、身体が浮遊感に包まれるが、それを抱き止める者がいた。

 トウカだった。

 この男には助けられてばかりだと、リシアは内心で借りばかりが増えていく状況に内心で、面白くないと唸る。

「全く……大通りで戦車戦なんぞやらかす莫迦に助けられるとは。世も末だ」

 トウカの笑声混じりの嘆息に、リシアは首を傾げる。

 崩れた外壁を通して撤退……否、算を乱して逃げ惑う姿が垣間見える。それに対して重機関銃と機関砲の断続的な射撃音が響き渡り、大通りに夥しい閃光が満 ちて、征伐軍側兵士を薙ぎ払う。果敢にも魔導障壁を展開して秩序ある展開に持ち込もうとする征伐軍側兵士もいるが、大口径機関砲の集中の前には然したる効 果を発揮せず、身体諸共粉微塵となり大通りを血涙で舗装する。砲撃を行っていた征伐軍のクレンゲルⅢ型歩兵戦車も、強力な戦車砲の直撃の前に残骸を晒した ままに炎上し、複数の着弾の為か大きく形状が変わった鉄細工と成り果てていた。

 無数の装甲兵器の前身音……大通りの石畳を履帯が踏み締める音が響く。

 聞き馴れた音。

 閲兵式で幾度も耳にした、Ⅵ号中戦車の履帯が石畳を踏み締める音。

 無数のⅥ号中戦車やⅥ号対空戦車が砲撃を繰り返しながら次々と前進する姿に、リシアは呆気に取られる。識別番号は〈ヴァレンシュタイン戦闘団〉のものだ が、ベルゲン内部への進攻は所定の作戦行動では予定されていなかった。狭い市街地では、装虎兵や魔導士に関わらず敵兵の接近を容易に許してしまうからであ り、部隊保全を意図し、突入は作戦立案の段階で見送られたはずであった。あくまでも突入の構えを見せるだけである。

「これは……御無事でしたか、参謀殿」

「エップ大尉。救援感謝する。守備隊の後退に巻き込まれなかったのか?」

 崩れた外壁を飛び越えて現れたエップが、トウカとにこやかに言葉を交わす。

 トウカの、この事態を予想していたであろう口ぶりに驚きつつも、リシアは考える。

 ベルゲン近郊に展開した守備隊と〈ヴァレンシュタイン戦闘団〉は、交戦状態に陥っていたはずであり、その光景はリシアも輸送滑空機上から確認していた。 航空部隊による銃爆撃によって優勢であり、撃破は時間の問題であったはずで、それ以降は防護壁に展開している城塞砲の撃破に専念するはずであった。

「よう、トウカ。生きてるみたいだな」

 停車した指揮型Ⅵ号中戦車の車長用司令塔(キューポラ)から上半身を出したザムエルが、砕けた敬礼をトウカへと向けてくる。対するトウカも砕けた敬礼を以て応じる。戦塵に汚れた軍装なので不思議と様になっているが、ここは急襲部隊の次席指揮官として注意すべきかと悩んでいる間に、エップが周囲を見回して呟く。

「おや、ラムケ少佐がいないようですが……」

「残念ながら行方不明だ。そして我々に探す術はない」

 トウカの言葉に、エップは黙って敬礼する。

 聞きたいことはあれども、この死に満ちた戦野に在って生存しているか定かではない者に時間を駆ける余裕などありはしない。軍人としてエップはそれを心得ていた。

「なら、撤退だな。師団が逃げ込んだから突っ込んだが、弾火薬にも限界がある」

 ザムエルの言葉に、トウカが頷く。

 リシアは、その言葉に〈ヴァレンシュタイン戦闘団〉が守備隊をベルゲン内まで追撃してきたのだと悟る。大通りで遭遇した戦車も歩兵も恐らくはベルゲン郊 外から後退してきた守備隊の一部だったのだろう。開けた戦場では不利だと悟り、ベルゲン内部へ引き摺りこもうとしたが、ザムエルが間髪入れずに突入を意図 した為、迎撃態勢を整える暇もなく壊乱したのだ。恐らく、ベルゲン内部に分散して逃げ込んでおり、指揮統制も完全に崩壊して脅威とはなり得ない。

「無茶するわね……」

 リシアは呆れつつも、装甲車輛に飛び乗り始めた降下猟兵を見つめる。これならば遺体も持ち帰れる上に鹵獲品と戦利品も回収できる。

「ちょっとアレも載せておきなさい。忘れないの」

 リシアは金物屋の隅に転がっているレオンディーネを指差す。縄でこれでもかと全身を巻かれて芋虫のようになっているレオンディーネに、周囲の者が驚いた 顔を見せた。恐らくは忘れていたのだろうが、ケーニヒス=ティーゲル公爵の愛娘を拘束した挙句に忘れるというのは宜しくない。

「そうだ、忘れていた。いっそ人質に使えばよかった。砲身にでも括り付けておけ」

 トウカの言葉に、顔を引き攣らせた降下猟兵達がレオンディーネを担ぎ上げる姿を目に、リシアは深い溜息を吐いた。








「勝っても負けても碌な事にはならぬとは思っておったがのぅ」マリアベルは報告書片手に嘆息する。

 手にした報告書には、〈ヴァレンシュタイン戦闘団〉から届けられた通信文を手に、大凡(おおよそ)の状況を察する。

「通信が返ってきたということは、トロッケンベーレン飛行場に展開していた部隊とは合流できたということかと。各戦線の征伐軍も大被害と総司令部の崩壊で指揮統制が大きく乱れた上に、戦力配置も同様でしょう」

「帰還は容易いかの」

 各戦線に展開した征伐軍戦力は大きな混乱を見せたが、最終的には兵力と練度の差から劣勢に立たされつつあった蹶起軍。最後の一撃……主に距離を取っての 砲兵戦力による征伐軍基幹戦力への集中砲火と、手当たり次第の航空騎を集めての絨毯爆撃を敢行することで更なる混乱を誘った。航空騎の積極的運用に関して は、クラナッハ戦線で有効性が確認された為に異論が挟まれることもなく、北部貴族の多くが領内の航空騎を……北領郵便所属の航空配達騎や、民間の龍族にも 協力を仰いで臨時爆撃飛行隊を編制することに成功した。だが、航空爆弾の生産はヴェルテンベルク領邦軍でも生産が始まったばかりであり、その生産量は少な く生産工程(ライン)の構築を行いつつの強引な生産である。

 北部蹶起軍が五日間を掛けて集めた航空騎は、分類は様々在れども総数は約一二〇〇騎余りに上る。

 数多くの竜が生息し、幾多の龍族が住まう大地。

 航空大国としての要素を兼ね備えた《ヴァリスヘイム皇国》。その片鱗を見せつけた形である。だが、征伐軍も航空騎によって大被害を受けたこともあり、その対応策として、戦闘騎や偵察騎、爆撃騎などを各地から集結させつつあった。

 そして、両航空戦力は北の空で衝突した。

 それは、サクラギ・トウカが意図しない衝突。

 蹶起軍航空部隊約一二〇〇騎。対する征伐軍航空部隊は約二〇〇騎。

 前者が圧倒的優勢に見えるが、民間騎や各北部貴族領邦軍のあらゆる航空騎の混成部隊であることに対して、後者は正規軍を中心とした航空騎であり、戦闘単位としては優秀であった。

 だが、マリアベルはそれを理解し、戦闘騎と戦闘爆撃騎を中心とした約三〇〇騎による航空攻撃を征伐軍の展開する戦線最東端のブロンベルク戦線に攻撃を加 えた。それの防空任務の為に征伐軍航空部隊が全力出撃し、両者が激しい航空戦を繰り広げている間隙を突いた。残存の中位龍種を中心とした重爆撃騎を基幹戦 力とした約九〇〇騎で戦線中央のロートリンゲン戦線へ徹底的な爆撃を加える。残念ながら航空爆弾の欠乏から、火砲の榴弾を着発信管術式にして即席の爆弾と したり、一部の領邦軍航空騎に至っては、石や木材を手当たり次第に搭載して爆撃に臨んでいたが、それでも尚、少なくない被害を与えることに成功した。

 虎の子の重爆撃騎まで投入したことも相まって、ロートリンゲン戦線に展開していた征伐軍は、魔導戦力と砲兵戦力を中心に甚大な被害を蒙った。魔導士の防護障壁も大質量の航空爆弾や火砲の砲弾の断続的な直撃や至近弾には耐えられなかったのだ。

 マリアベルは航空管制騎からその様子を見ていた。

 否、航空戦の管制を行っていたのは他ならぬマリアベル自身であり、蹶起軍が劣勢の中、唯一自身の領邦軍を優勢のままに運用し続けた鬼才。そのような優秀な軍事的指導者が指揮する 航空部隊の士気は極めて旺盛であった。

 無論、マリアベルにとっての最重要項目は、混乱に紛れて各領から集結させた航空騎を隷下に収めることである。拙速を尊ぶマリアベルにとり、航空騎ほどに 即効性のある戦力はない。その火力を不安視したからこそ数で補う為に終結を意図したのだ。決して先見の明などではなく、それは戦力の集中運用という原則を 適用したに過ぎず、彼女は多くから背を背けているようで基本に忠実であった。

「征伐軍の本格的な逆撃を挫くことには成功しましたが、此方の戦力も大きく減じています」

 銀の長髪を揺らし褐色の肌のイシュタルが軍帽の雪を払いながらも、端的に彼我の状況を述べる。

 二人がいるのはフェルゼン中央部のマリアベルの屋敷にあるヴェルテンベルク領邦軍総司令部、そこに用意されたイシュタルの私室であった。つい先程、輸送 騎で前線から舞い戻ってきた二人は、司令部要員の歓呼の声を適当にあしらって、イシュタルの私室へ早々と籠城する形となった。双方共に喧騒を好まないから であり、同時に今後についての予想を行わねばならないと感じていたからで、周囲の者達の様に純粋に勝利を喜んではいない。

「まぁ、浮かれるのは、トウカの戦果を聞いてからであろうて」

 そう、アリアベルの生死不明と征伐軍総司令部の壊滅は、編制に組み込まれていた通信大隊の大型魔導通信機によって第一報として届けられていた。何故、移 動に適さない大型魔導通信機を分割できるようにしてまで編成に組み込んだのかと疑問視していたが、こうして早期に報告を受け取るとその有効性は嫌でも認識 できた。

「あの少年は嫌らしい性格をしている。暗号文でなく平文で大御巫の生死不明をぶちまけるとはね」

「我が領邦軍に対する問い合わせが殺到しておるしの。中には征伐軍側からの魔導通信による問い合わせもあったらしいて。良くも悪くも双方の軍は混乱しておった。笑いが止まらんわのぅ」

 マリアベルとしては被害を受けずに、戦線を縮小しつつあるので不満はない。

 だが、早々にマリアベルの独断行動が露呈したので、一部からは不満の声が上がっている。蹶起軍の最高指揮官であるエルゼリア侯爵からは御小言を頂戴し、 北部でも有数の武門の出でであるシュトラハヴィッツ少将からは、何故連れて行ってくれなかったと激怒された。腰を痛められては敵わない。

「今、全面攻勢を掛ければ征伐軍は戦線全体で壊乱していたでしょう。此方の被害を考えると無理ですが」

「クラナッハ戦線の勝利を見て、他の領邦軍も好機であると捉えおった。二度も大きな好機が巡ってくると考える者は少なかろうて。こうも足並みが揃うとは思わなんだが……」

「誰かが気付いた、と?」

 イシュタルの言葉に、マリアベルは小さく頷く。

 恐らく気付いた人物は、蹶起軍総司令官を兼務するエルゼリア侯であり、何かしらの指示を飛ばしたからこそ、各戦線で独自の防禦行動を取っていた各貴族の 領邦軍が一斉に反攻に転じることができたはずである。もし爵位の低い貴族がマリアベルの動きを予見したとしても、それを各領邦軍一斉反撃に結び付けること は難しい。

「戦に疎いダルヴェティエ侯爵は難しかろう。エルゼリア侯であろうて……全く、優秀なのか莫迦者なのか、判断に迷おうな」

「まさか……。あの農聖が戦略を……」

 マリアベルも、まさかとは思うが、状況から察するとその可能性が高い。


 レジナルド・ゼル・フォン・エルゼリア。


 その天龍族の貴族は、異色の男であった。

 覇気も無ければ、武勲を打ち立てようという気概もなく、決して激しい自己主張をすることのない温厚な人物。その点だけでも十分に稀有な龍族と言えるが、 農業に造詣が深く、日々耕運に励む貴族は、皇国全土を見渡してもエルゼリア侯以外にはいない。だが、その農作物研究者としての手腕は確かであり、農業技術 指導者という肩書で皇国北部発展期の食糧難を払拭した経歴もあり、北部では貴軍官民の総てに慕われる貴族であった。

 奪う技術である武に依らない純粋な生み出す技術である農業によって尊敬と忠誠を獲得した人物。

 その食糧生産量に瞠目した時の天帝は、エルゼリア侯を北の天箸(あまはし)と賞し、北部に住まう者達の箸……食を支える者だと手放しで賞賛した。

 今では農聖と呼ばれ、剣聖と対を成す北部鎮護の立役者として親しまれていた。それ故に蹶起軍の旗頭に祭り上げられたのだ。それは政治的にも軍事的にも深 く関わらなかったことからエルゼリア侯に否定的な貴族がいなかったという消極的な理由もある。だからこそ蹶起軍は良く纏まった。誰しもが、少なくとも敵対 的な人物を仰ぐことを回避できた以上、現状を維持しようと考えるのは自然な流れである。これがもしマリアベルであれば、猜疑と離反の嵐となり、征伐軍との 戦闘どころではなくなることは容易に想像できた。

「まぁ、あれもトウカと同じで歴史好きであるしの。歴史を好む者は、得てして敵手の心の内を読むことに長けている節があろう」

「……歴史上であっても、あのような者が幾人もいては叶いません」

 苦々しい表情のイシュタルに、マリアベルは大笑する。

 トウカは暴風であり、政治と軍事の悉くに介入し、周囲に大きな確変を齎した。しかし、思想と姿勢、在り様、精神というものは急な変化が難しい産物であ り、性急な対応は往々にして混乱を生む。トウカがヴェルテンベルク領に齎した変化は少なくなく、それにより各部署で朝から深夜まで、意見書と辞表が弾丸の 如く飛び交う状況が今でも続いている。その点に対してイシュタルは頭を悩ませており、ヴェルテンベルク領邦軍内の不満を抑え込むことに全力を傾けていたと 言ってもいい。

 だが、それも今回の大勝で、トウカの能力が証明されたことで鎮静化するだろうとマリアベルは見ている。優遇するだけの価値がある男。トウカを皆がそう見るだろう。そして、トウカを重用したマリアベル自身の評価も大きく向上する。

「全ては上手く回っておろう。戦線整理も成功し、彼我の被害数は優勢のままに後退できたではないか」

「しかし、支配地域は減少し続けています。我が領かエルゼリア侯爵領が奪われれば、蹶起軍はその体を成さなくなるかと」

 ヴェルテンベルク領は北部に於ける一大兵器工廠を担っており、無数の兵器と工業製品の製造を一手に担う巨大重工業地帯であった。それらを要塞化した都市 構造と、優勢に戦闘を推移させる為の恵まれた地形が備わり、一地方の伯爵としては異例の兵力と経済力を背景に、あらゆる分野で侵略を繰り返す怪物。嫌悪さ れて蔑まれる一方で、北部の軍事と経済の一翼を担っていることは確かであり、北部で唯一、人口が増加傾向にある領地でもある。戦略目標とならないはずがな い。

 だが、それ以上に戦力目標となり得るのがエルゼリア領であった。

 蹶起軍総司令部が設置され、最高指揮官であるエルゼリア侯の領地であるエルゼリア領を占領されてしまえば、蹶起軍は体面を大きく損なうこととなり、結束 に致命的な亀裂が入りかねない。現状では、蹶起軍も征伐軍も、非常時に編成された特殊な戦闘単位であるという範疇にあり、指導者や軍司令部の能力によって その統制と形態を支えられた組織に過ぎなかった。指導者とそれを支える者達が死なずとも、その権威が大きく傷つくだけで組織の結束には亀裂が入り、揺らぎ 始める。

 マリアベルは、その点を識っている。否、体験していた。

 トウカが征伐軍の弱点を見い出し、大御巫と征伐軍総司令部へ一太刀浴びせること、或いはそれらの撃破だと判断し、妥当な作戦を提示して見せたこと自体が、実はマリアベルがトウカを継承者足り得ると判断した瞬間なのだが、イシュタルはそれを知らない。

 イシュタルの立場からすると、異常な程にトウカの意見に拘るマリアベルに納得いかないものがあるのだろう。トウカの能力を目の当たりにした高官というの は意外と少なく、マリアベルは可能な限り隠匿していたこともあり、有識者一同からすると信頼よりも得体の知れなさが先行していた。

 だが、今回の一件でそれは大きく変わった。

 その落差もあり、揺り戻しの様にトウカは絶大な信頼を得るだろう。特に他の北部貴族や各領邦軍への影響力は間違いなく増大する。トウカの存在を最初から 喧伝しなかったのは、一重に大多数の意識をトウカに向けさせる為であった。秘匿すればする程に、周囲はトウカこそをマリアベルの切り札だと考えるのだ。


 総ては、ベルセリカ・ヴァルトハイムの征伐軍最高司令官就任に向けた蠢動を悟らせない為に。


 これはトウカも知らないことであり、マリアベルの政略であった。無論、トウカはベルセリカを頂点に据えた蹶起軍の反攻作戦を発案し、マリアベルへと提案 したが、それはベルゲン強襲にベルセリカという秘匿戦力を必要とした為に、この一連の作戦以降に行うと結論付けられていた。だが、マリアベルは根回しの為 に既に動き始めており、エルゼリア侯にも打診し、自らと対を成す剣聖の帰還に驚きつつも二つ返事での了承が返ってきていた。

 問題はシュトラハヴィッツ伯爵家である。

「イシュタル。そう言えば、剣聖が北部に返ってきておるという噂は聞いておるかの?」

 執務机の引き出しを漁り、常備されていたウィシュケの瓶を手に取りながら、マリアベルは尋ねる。書類の山脈を築かんと迫り来る自領政務官達から逃げるに 打って付けなイシュタルの私室は、マリアベルにとってもある意味で私室である。何処に何があるかなどはよく知っており、酒とつまみの接収……略奪は日常茶 飯事であった。無論、イシュタルは後で経費として申請するので抜け目がないのだが、それはまた別の話である。

 私的な時間だと判断したのか、イシュタルも応接椅子(ソファー)に腰掛けて溜息を吐くと、任務中の堅苦しい口調を止めて返事を返す。

「ええ、聞いているわ、マリィ。あの、胡散臭い噂……シュトラハヴィッツ伯爵家のヴェルテンベルク伯爵家に対する牽制とも取れるかしら。剣聖だけに」

「剣聖による牽制のぅ……有り得んな」

 冷笑するマリアベルに、むっ、とするイシュタル。

 決して質の低い言い回しを否定した訳ではないのだが、イシュタルはそれなりに自信があったらしい。疲れておるの、とマリアベルは酒瓶とつまみを手に、イシュタルの対面の応接椅子(ソファー)に座る。

「あのシュトラハヴィッツ伯爵家が、妾を排斥しようと思うならば武力を用いような。子の居らぬ妾が死ぬだけでヴェルテンベルク伯爵家は断絶しようて」

 ある意味、ヴェルテンベルク伯爵家の弱点は、征伐軍や蹶起軍と同様であるとも言える。無論、マリアベルは他の貴族にくれてやる心算はなく、そもそも政治 と軍事、製造、研究開発で呼吸をするように非合法手段を用いていたヴェルテンベルク領は、並みの貴族では運営できない。もし、領主としての能力がないと判 断されれば、装甲部隊を有する領邦軍の実戦部隊や暗殺や誘拐に秀でた領邦軍情報部に一族郎党排除されるだろう。

「まぁ、期待の若者に助けて貰えばどう? 私はこれ以上、助けるのは御免だけど」

 一転した口調のイシュタルの言葉に、マリアベルは苦労を掛けたと反省する。

 領邦軍内部からの、トウカに対する不満を押さえ付けたのはマリアベルの命令であるが、実質的に動いたのは領邦軍司令官であるイシュタルに他ならず、トウ カが優遇されればされる程、その負担は増大したはずであった。無論、途中からⅣ号中戦車改修によって装甲科と人員と規模の拡大によって兵站科が……そし て、行き詰まりを見せていた兵器産業に新たな息吹を吹き込んだ成果として軍需企業が、トウカを支持するに至ったが、それまではイシュタルが全ての不満を押 さえ付けていたと言っていい。

「特に騎兵将校が五月蠅くて叶わないわ。兵站科の輸送や護衛に駆り出された挙句に、戦闘でも活躍できなかったとなれば致し方ないとはいえ……」

「いずれは装甲科に編入させることは同意済みであろうて。前線で戦えんことだけが不満ならば、そう遠くない内に嫌でも収まろうな」

 水晶杯にウィシュケを注ぎながら、マリアベルは笑う。

 戦争の時代。

 動乱と悲劇に満ちた時代に在って、幾多の名も無き将兵達は何を想うのだろうか。郷土を護るという大義名分はあれども、その生命を散らすことに対して肯定 的であるはずがなく、叶うならば生き続けたいと思うのはヒトとして当然の欲求と言える。ヒトの熱意は時と共に醒め過ぎ去り、冷静さを取り戻した将兵達は、 マリアベルを恨むだろう。戦争の引き金を引いた一人として。

「だが、熱に浮かされたとはいえ、誰しもが望んだ闘争……」

「非難はさせないし、認めない、かしら。怖い怖い。願いの先に破滅があるとしても進み往く。非道い人、貴女は。彼奴(あやつ)此奴(こやつ)も連れて回して地獄に銃剣突撃させる気ね」

 呆れた口調で肩を竦めたイシュタルは、マリアベルに手渡された水晶杯を小さく揺らす。

 ほの仄暗い色をした液体にさざめく水面は未だ小さいが、これから大きくなるだろう。

「何を今更。それが民衆の望む戦争で、民衆が渇望する地獄。だからヒトは無限に殺し、無限に殺され続けるのであろうて」

 その為に、マリアベルは諦観と悲観を踏み越え、今この時代、確変の夜明けを演出するべくこの場にいるのだ。

「私は貴女の尖兵。私は貴女の総てを肯定するわ。存分に理不尽を振り撒きなさい」

「それは有り難いことよな。妾の振り翳す理不尽は御主が保証してくれるという訳かの」マリアベルは、長年の戦友に笑い掛ける。

 無邪気な笑み。

 だが、同性であるはずのイシュタルにすら女を感じさせるほどの色香を漂わせたマリアベルの笑みは何処か寂しげであった。

 

 

 

 

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