第八七話 砲声鳴り止まず
「これほどの艦を二隻も運用するだけの財政と政治基盤を持つ貴族……もはや一貴族の範疇を越えている」
遠く昔に姿を消した姉の名を冠する戦船に、アンゼリカは複雑な思いを抱く。
アンゼリカ・レダ・フォン・シュトラハヴィッツ。
シュトラハヴィッツ領邦軍司令官でもあるアンゼリカもまた、周囲にいる観戦武官達と前甲板から城郭の如き偉容を見上げていた。背負い式に配置された三連 装の巨大砲塔に、それに続くように無駄なく配置された無数の高射砲や対空機銃。しかも、対空火器に関しては未だ定数の半数程度に満たないと言うのだから呆
れるしかない。性能上は神州国海軍の就役しつつある主力戦艦を優越した性能を有する〈剣聖ヴァルトハイム〉型戦艦だが、その空からの脅威に怯えるかのよう に対空火器を針鼠の如く纏う様は、これを意図した者が航空作戦を重視していることの象徴と言える。
早晩に、この情報は皇国中を駆け巡るだろう。海軍艦政本部の狼狽える姿が容易に想像できる。巷で噂の戦争屋の建艦思想なのだ。
続く艦橋は、それらを睥睨するかの如く聳えている。皇国海軍艦艇は、箱型艦橋という鋭角な無駄のない構造をしたものが一般的だが、〈剣聖ヴァルトハイ ム〉型戦艦は低めの箱型艦橋の上に、更に筒型艦橋と説明を受けたそれが上に鎮座しており、異様の一言に尽きる。フェルゼン沖合に未完成のままに係留されて いた頃とは外観が大きく変化していた。
――避弾径始とやらを意識した構造か。噂の新型戦車も装甲に傾斜を付けているという話だからな。
アンゼリカは艦橋の最上部に見えた人影を見据える。
マリアベルが気に入っているという天狐の姫君。
そして、正体不明の異邦人。
怪しいにも程があるという組み合わせの二人が来てから、ヴェルテンベルク領は大きく変わり始めた。周辺貴族領に対する鉄道路線や大型道路などの公共施設整備支援や兵器製造技術の永久貸与に加え、各領邦軍への教導戦技官の積極的な派遣などは、二人がヴェルテンベルク領に姿を現すまではなかった。
天狼族の優れた視力は、優しげな風貌で会話する異邦人を捉える。
人間種に過ぎず、士官学校すら出ていない将校であることに加えて、調べても過去は一切出てこないという胡散臭さ。
「黒い暴風か……」
クラナッハ戦線での大勝利から、ベルゲン強襲に至るまでの連戦はそう呼ばれていた。それは、主戦力となった航空部隊と装甲部隊の将兵が、黒を基調とした 軍装であった為であるが、ヴェルテンベルク領邦軍全体が黒を基調としているので、全体の活躍とも取れる。そもそも、その名称自体が、それらの戦力を隷下に 収めるマリアベルの言動からなので真意は不明であった。
「気に入りませんかのぅ?」
しわがれた声による問いかけに、アンゼリカが振り返る。
周囲への警戒が疎かになるとは精進が足りていない、と胸中で己を叱咤しつつも、アンゼリカは声の主の姿を視界に収めると敬礼する。
「これは……ロートシルト子爵。まさか御当主自ら観戦武官に……」
付近を見渡せば爵位を有する当主の座にある者が少なからず見受けられる。そう言えば弟でもあるシュトラハヴィッツ伯爵も似たようなことを口にしていたと思い出す。政治的にも戦艦という兵器が重要なものなのだろうと思い直した。
「ええ、子爵殿。斯様な兵器を一貴族が有することは分を越えた行為と捉えかねません。その辺りを考慮していないのは、ヴェルテンベルク伯の落ち度と言えましょう」
「七武五公もヴェルテンベルク領に比肩し得る戦力を有しておる。それに今は……否、これからは戦乱の時代。同胞の戦船が頼もしいことは歓迎すべきことではないかのぉ」
杖を突き好々爺然とした笑みを浮かべて、豊かな顎髭を撫でるロートシルト子爵に周囲の貴族や観戦武官が大きく頷く。マリアベルの変化も相まって、一連の急速な軍備拡大を肯定的に捉えている者は思いのほか多いようであった。否、増加しつつあると言うべきか。
――ヴェルテンベルク伯を中心とした政治勢力が蹶起軍内にできることは好ましくない。この老人は、それを理解しているのか?
アンゼリカは不安になる。
蹶起軍には大別すると二つの派閥がある。
エルゼリア侯爵を中心とした派閥と、シュトラハヴィッツ伯爵を中心とした派閥であり、ヴェルテンベルク伯はそのどちらにも与してはいなかった。爪弾きに されていたとも言えるが、同時に経済的にも軍事的にも優れていたヴェルテンベルク領を率いるマリアベルにとっては、信の置けないものと群れる危険性と天秤
に掛けた結果に過ぎない。だが、それを増長と取った者も多く、また他の龍種貴族からの忌避感やクロウ=クルワッハ公爵から勘当同然でヴェルテンベルク領に 追い遣られたという理由もあって表面上、接近する貴族はいなかった。
アンゼリカも、マリアベルのことを快くは思っていない。
前線指揮と戦技しか取り得のないアンゼリカにとっては、政略と軍政、領地開発に特筆すべき才能を持つマリアベルは眩しかった。自分がどれだけ前線で兵と 肩を並べ、刃を振るおうとも、マリアベルは舌先三寸で相手を丸め込み、無血で配下に加える。装甲部隊が結成されてからは、マリアベルは水を得た魚の様に北
部に出現した匪賊を討伐し始めた。丁度その頃、経済的に北部が疲弊し始め、各領邦軍の相応能力が低下し始めており、ヴェルテンベルク領邦軍装甲部隊は各領 地に派兵されて活躍することとなる。更には装甲兵器を輸出し、兵力の上で装虎兵や軍狼兵を優越する構えを見せたのだ。
年齢的には近いのだが、越えられない壁を感じてアンゼリカは、マリアベルに対して引け目があった。
そして、この〈剣聖ヴァルトハイム〉という名の戦艦も気に入らない理由の一つである。
皇国海軍では、各貴族領名や過去に国内で活躍した偉人の名を付けるという命名基準があり、ヴェルテンベルク領邦軍で建造される艦艇もそれに沿うものとなっていた。
だが、姉が名乗った姓を冠したのは、シュトラハヴィッツ伯爵家が戦艦建造に対して苦言を呈したことに対しての牽制、或いは当て付けだった。海の王者たる戦艦の艦名になる事はこの上なき名誉であり、自家から出た英雄の名が付けられるとあれば、安易に非難はできない。
手段を選ばない、騎士の誇りを持たないマリアベル。姉の様な騎士たらんとするアンゼリカと相容れるはずもなかった。
「まぁ、代将閣下に野心があるならば我らも対処せねばならんが」
ロートシルト子爵は、好々爺然とした瞳の中に、凍えるような光を宿して嗤う。
少なくとも無条件で廃嫡の龍姫に同調しようとは考えていないのだろう。安心していいのか、その摩擦が蹶起軍に拡がることを懸念すればいいのか判断に困ったアンゼリカは渇いた笑みを浮かべる。
「それに何かを企んでおる様子……あの黒助も見極めて見せよと言わんばかりにの」
艦橋最上部の防空指揮所を見上げたロートシルト子爵。
その先には翻る旭日の軍旗を背に立つ異邦人。
新たに制定された〈ヴェルテンベルク領邦軍艦隊〉の軍旗である旭日の軍旗。
その太陽が邪を祓うのか、同胞の身を焼き滅ぼすのか。
見極めねばならない。
アンゼリカは、北の大地の未来に思いを馳せた。
「おうおう、あんな決意に満ちた顔をしおってからに。姉上は猛烈に感動しておるぞ」
ベルセリカが第一砲塔の旋回盤の 影から、アンゼリカを盗み見る姿を後ろから眺めるザムエルは顔を引き攣らせる。水上部隊用の第一種軍装に本来は装備されていないはずの布垂れの付いた軍帽
を被ったその姿は、少し不自然であるものの、咎めようとする者はいない。階級章が中佐という艦内でも有数の地位にあるからであるが、同時にザムエルが睨み を利かしているからでもある。
草葉の陰ではなく、主砲塔の影から妹を見守る姉。
狼耳と尻尾を隠したベルセリカは美貌を持つ長身の佐官にしか見えない。その佇まいは、皇都中央劇場で主役を張れるほどに凛々しい。艦内で横を歩くザムエ ルとしては男として複雑な心中なのだが、一人で放置すると何をするか分らないという理由でザムエルが付き従っている。ちなみに、ザムエルの軍装も水上部隊 用の第一種軍装で、師団長とは思われないように階級すら擬装している。
「しかし、あの堅物騎士殿を説得できるとは思えねぇがな。戦車にも吝嗇を付ける猪女だぜ」
「その時は、御主が慰み者にでもしてやるが良い。そのくらいの大事でも起きねばあれの石頭は治らんよ」
背を向けたままに、ベルセリカが小さく笑声を零す。対するザムエルは姉からの御無体上等の太鼓判を受け取り顔を引き攣らせる。アンゼリカと同じく、ザム エルも騎士位である騎士爵の貴族位を下賜されているが、その戦闘能力は隔絶していた。種族的な差もあるが、騎士爵という階級は子爵位以上の貴族が他者に与 えられる爵位で、天帝と皇城府の許可を必要としない。故に各々の貴族の性格が出る。
個々の戦闘能力を重視したシュトラハヴィッツ伯爵が褒賞として与えるのに対し、ヴェルテンベルク伯爵は戦闘指揮や領地運営に傑出した才覚を持つ者に与えて精鋭意識を醸成することを目的としていた。
つまり、ザムエルは個人の戦闘能力は然したるものではない。寧ろ、トウカと違い修練などもしていないので、年若い歩兵にすら劣るやも知れなかった。
「腰遣いだけは自信があるんだけどなぁ……そもそもトウカに任せればいいだろう、セリカ殿」
「莫迦者め、身体を穢されるのは精々、一〇〇年程度引き摺るだけであろうが、心を壊されては一生ものであろう」
ベルセリカのトウカに対する評価が大いに気になったザムエルだが、それを聞く勇気はなかった。
トウカが精力的に活躍していることは周知の事実であるが、同時に容赦も慈悲もない一面を垣間見せる場面が多々あった。匪賊討伐は最たるもので、前線に多 くの戦力が割かれた為、再び匪賊の大規模な跳梁の兆しが見え始めたことを受け、手当たり次第に確保した匪賊をベルゲン郊外で一人一人雪原に押し倒して戦車
の履帯で轢殺した。捕虜を取らず、泣き叫ぶ匪賊を轢殺した後、その遺体を打ち捨てるという所業には、領民だけでなく匪賊や周辺貴族ですらも震え上がった。 トウカからすると重商主義を標榜するヴェルテンベルク領の経済を匪賊の跳梁という風評被害から効率的に護ろうとした結果に過ぎないが、周囲はその姿に若き 日のマリアベルを思い出した。
アンゼリカが邪魔だと判断すれば、トウカは合法的な御題目を作り上げ、最短距離で“処理”することは間違いない。嘗てのマリアベルが、そうであったように、トウカもまた力の信奉者なのだ。
確かに、それを考えればザムエルの“摘まみ食い”の方が余程、マシであることは疑いない。尤も、摘まみ食いの対象が、ザムエルを噛み殺す可能性が高いのだが。
――俺の主砲が噛み切られたら堪んねぇ。一体、どれだけの女が泣くことか。
「まぁ、御屋形様の作戦を聞く限りは、この一戦で状況は大きく変わろう」
「違いない……が、場合によってはアンタの周囲も大きく変わるぜ。剣聖殿」
世を捨てて五〇〇年以上も経過したベルセリカは最早、過去。しかし、時代の潮流は過去に再び光を差し込まんとしていた。
トウカの騎士としてベルセリカは今ここに存在する。逆に言えば、ベルセリカがこの場に立つ理由はそれしかない。仔狐への心配などもあるだろうが、御館様と仰いだトウカこそが行動の根幹となっていた。
振り向いたベルセリカが、ザムエルの肩を叩く。
「時代が移ろい往く様にヒトの心もまた変わり往く。某の傷は癒えておるよ」
「別に心配してはいないさ、何せ生ける英雄なんだからな」
皇国は嘗て、一人の英雄に悲劇を押し付けることで国体を護持した。
だが、今この時、皇国は、その英雄に再び槍働きを求めようとしている。
それは、酷く恥ずべきことではないのか?
ザムエルは、何時から祖国は、これほどに個人に悲劇を押し付けることを良しとする程に腐ってしまったのか、と思わずにはいられない。それは、マリアベル の背中を見て育ったザムエルだからこその遣る瀬無さ。或いは、それに抗う為、北の大地へと多くの英傑達が集まりつつある光景に自らが身を投じたからこそ生 じた懸念と言える。
「背中は任せな。五〇〇年前の借り、北の皇国騎士が返してやる」
「それは頼もしい。期待しようぞ」
ザムエルは、ベルセリカの凛々しくも人を惹き付けて止まない笑みから視線を逸らす。
戦乙女の色香というのは、男性の戦人にとっては猛毒であり、それだけでたった一つの己の命を掛けて戦野で勇敢に戦えるのだ。勇敢に戦ってやることはザム
エルとて吝かではないが、良い様に誘導されているようで癪に障る。女性と戯れるのは好きだが、女性に良い様に煽てられるのはザムエルの矜持が許さない。無論、マリアベル以外に自身を良い様に扱える女性が居て堪るものかという意地もそこにはある。
「ふふっ、若いの」
そんなザムエルの心中を察したのか、或いは子供の様な仕草に可愛げを見て取ったのか、ベルセリカからの追及はなかった。
「もう、一週間か……」
中年も半ば、見る者によっては初老と口にするかもしれない佇まいの、皇国陸軍中将の階級章を付けた第一種軍装を身に纏った男は、病室代わりにされた執務室の寝台に横たわる少女を見て溜息を吐く。
オスカー・ウィリバルト・バウムガルテン中将。
中央総軍砲兵参謀でもある人間種の男は、未だ混乱の収まらないベルゲンの喧騒を遠く耳へと感じながら、穏やかに眠る美しい少女を見やる。腰掛ける椅子が小さく軋みを上げるが、それを気にする風もなく、オスカーは穏やかに眠る少女に思いを馳せた。
――最早、これまで、か。
征伐軍の混乱は未だ収まらない。オスカーなどの九死に一生を得た将官が、各戦線に連絡騎を駆り、各部隊を直接指揮、後退を継続しながら付近の部隊を糾合 しつつ、ベルゲン近郊にまで移動させることに成功したのが昨晩。前線に展開していた戦力の多くが、進撃に成功していたと聞いていたが、オスカーが連絡騎で
前線へと駆け付けた時、既に蹶起軍の航空戦力と砲兵火力にものを言わせた面制圧により、短期間で多くの戦力を失い、泥沼の冬季運動戦へと移行し始めてい た。後退中にベルゲンに対する攻撃を行ったであろう部隊の一部が索敵網に引っ掛かったが、それらと相対することすらできない程に将兵は疲労していた。それ
に加えて、焼夷効果の高い爆弾を使用した爆撃による重傷者が多数いた為、落伍者を出さないようにすることが最優先という有様。
密集した陸上戦力は、高度に組織化された対地攻撃騎部隊の前に無力だった。
無論、そこには初見であるからこそ対応が遅れたという理由も多分に存在する。密集陣形だけでなく、対空火器の不足や護衛戦闘騎の不足も無関係ではない。
最早、征伐軍に継戦能力はない。
雇い入れられた傭兵や合流していた各領邦軍の一部は離脱を開始していた。劣勢となれば保身に走ることは当初より予定されていたので問題ではない。寧ろ問題なのは、失われた弾火薬や武器、兵器……そして負傷兵治療の為の衛生兵や衛生魔導士が最も不足していた。
無論、蹶起軍の弾火薬も限界に近いことは掴んでいるが、征伐軍もこれ以上進撃するだけの指揮統制と兵站線を維持できない。
「新しい時代か……」
オスカーは、高度に機械化された機動戦力と、集中運用される航空部隊、そして何よりもそれを可能とする戦闘教義を砲煙と爆炎に霞む蹶起軍に見た。
嘗て、オスカーは眼前で穏やかに眠る少女に新たな時代を見たが、それは思い違いだった。
個人が時代を築くことはない。
あくまでも個人は切っ掛けでしかなく、時代とは大勢の者達が望んでこそ動くもの。だが、たった一人の少女を中心とした強大な征伐軍に、その少女の心中を正確に理解していた者はいないのではないか。オスカーはそう考えるようになっていた。
寝台で穏やかに眠る少女……アリアベルの乱れた前髪を撫で付けて、オスカーが立ち上がる。
「やっぱり若い娘の方がいい?」
背後からの硬さと気落ちを含んだ声に、オスカーは苦笑する。
振り返るとそこには相変わらずの無表情……否、付き合いの長いオスカーに辛うじて分かる程度の不快感を滲ませた表情をした最愛の人が立っていた。
「ローレ……、こんなに若い娘に手を出しては憲兵に捕まってしまうだろう?」
「私、若くない」
その点をいたく気にしている様子のヴォルフローレだが、傍目から見ても十分に若く、人間種からすると二十代後半にしか見えない。その辺りの容姿ということは、女性としての色気が最も滲み出る年頃であり、瑞狼族のヴォルフローレも例外ではなかった。
胸の起伏が少々と残念だが、胸の大きさが戦力の決定的な差ではないとオスカーは信じている。
狼種は長身である代わりに、起伏の少ない者が多い傾向にある。これは、嘗て大地を掛けていた頃の名残で、疾駆するに邪魔な要素が自然と衰退したというの が一般的な通説であったが、それとは反対にすらりと伸びた長い脚は瞬発力があり機動力もある上、外見を美しく見せた。同年齢の狼種にしては身長の低いヴォ ルフローレだが、そんな様が愛くるしく、オスカーはそれこそを好んでいた。
「女神でも斬り払うと豪語する君が巫女如きに嫉妬か? らしくないな。ほら、来なさい」
皮肉げに表情を歪めたオスカーの膝に、ヴォルフローレが座る。
ヴォルフローレの軍装も端々が汚れているところを見るに、碌な目に合ってはいないと端目からでも伺い知れる。
特にヴェルテンベルク領邦軍は、征伐軍が前線に展開していた航空戦力を壊滅させたと見るや、領内の航空騎を片っ端から動員したのか、後退を続ける征伐軍 部隊に凄まじい騎数を投入しての対地攻撃を敢行してきた。執拗な航空攻撃に対し、果敢に対空砲火と魔導砲撃で応じる者もいたが、縦横無尽に空を駆ける翼を 相手に散発的な対空戦闘は効果が薄く、逆に急降下爆撃を受けて次々と沈黙することとなる。
オスカーは何処かで内戦を甘く見ていた。
皇軍双撃に対して双方が及び腰になり、散発的な戦闘を繰り返し、最終的には帝国の脅威を重く見て、蹶起軍が折れる形で条件付き降伏となると考えていたのだ。
しかし、蹶起軍は、否、ヴェルテンベルク領邦軍にその心算はなかった。挙句に最後の一兵に至るまで抵抗するのではないかという程の狂信的な戦闘を見せ付けた。
戦略面でも同様である。クラナッハ戦線の瓦解からベルゲン強襲までの流れを形成した戦闘部隊は、全てがヴェルテンベルク領邦軍の領邦軍旗を掲揚し、その認識番号を付けていた。
それに巻き込まれる形で征伐軍も蹶起軍も戦端を開いたのだ。膨大な血の量が流れてしまった以上、双方共にそう簡単に折れることができない。
「泥沼になる」
「ああ、君と一緒に夜逃げしたい気分だ」
胸板に背を預けてきたヴォルフローレに、オスカーは苦笑する。
「名案。でも、愛の言葉が先だと思う」
「血反吐を吐きながらのあれは告白に数えられないのか?」
少なくとも圧倒的な外敵を前に、愛する者をも護って見せると啖呵を切ることは、世間的には愛の告白と同等ではあるとオスカーは考えていたが、ヴォルフローレは未だ納得していない様子であった。
「オスカーは、格好良いこと言うけど直ぐに忘れる」
「歳なんだが」
「嘘。昔から」
見上げる様に顔を覗き込んできたヴォルフローレに、オスカーは未だ過去の失点を取り戻せてはいないのだと思い当たる。
黙って姿を消したのはヴォルフローレだが、男であるオスカーがそれを頑として引き止める姿勢になかったことが一番の問題である。それが恋愛というものな のだ。恋愛とはこの世で戦争に準ずるほどに理不尽で容赦のないものであり、ある意味に於いては戦争に勝る程に苛烈な部分すらある。
「御嬢さん(フロイライン)、愛する男の言葉を信用しないのか?」
「そうやって抱き締めるから信じられない。その言葉は、もっと真摯に言うべき」
後ろから抱き締めようとオスカーが伸ばしていた手を、ヴォルフローレは払い除ける。
甘い言葉を囁いただけで容易く靡く様な女性に恋をした訳ではないが、こんな時ばかりは甘えてくれる女性であって欲しいと思わずにはいられない。
無論、問答無用で抱き締めるのだが。
「今更だけど、君が愛おしくて堪らない」万感の想いの籠った一言。
長い時を経て紡がれた言葉。遅すぎたことは当人も百も承知であるが、想いを伝えずに終わるくらいならばという意思が胸中に溢れていた。
最愛の狼は、オスカーの膝から降りる。
オスカーは、それを引き止めない。
今更である。
これは最後の我儘に過ぎない。想いを伝えられたなら、那由多の限り戦い往くことができる。この泥沼化し始めた絶望的な内戦に最早、正義や大義、倫理という枷はない。果てのない憎しみ合い、殺し合いへと続いてい往くことは避けられない。
だからこそ、互いにこの愛の結末に悔いは残してはならない。
しかし、振り向いたヴォルフローレの瞳に、映る感情に息を呑むことになる。
「卑怯……先に身を引いたのは私なのに。それは私が先に言うべき言葉のはず」
涙を浮かべたヴォルフローレが、今度は正面からオスカーを抱き締める。
思わず抱き締め返すオスカーに、ヴォルフローレも抱き締める手に一層の力を入れる。
瑞狼の腕力にオスカーの身体の節々が悲鳴を上げるが、その痛みもまたこの愛が結実した事を教えてくれる要素であり、拒むことなど有り得ない。
この時、二人は幸せだった。
「……御成婚は是非、天霊神殿をお願いするわ」
オスカーは椅子から転げ落ちて、ヴォルフローレが狼種の脚力を生かして素早く距離を取る。だが、一瞬後にその声音が上官のものであると気付いて、目を見開き、言葉を詰まらせる。
そんな二人を尻目に、征伐軍最高指揮官にして、天霊神殿を統べる大御巫が寝台の上で身体を起こす。
眠り姫となっていたアリアベルが今この時、目覚めたのだ。
慌てたオスカーであったものの、立ち上がるよりも先に割って入ったヴォルフローレがふらついたアリアベルを、寝台に身体を乗り出して支える。
元は白磁の様に美しい肌であったが、今は青白く幽鬼の様な色へと変貌しており、その姿は痛々しいものであった。しかし、当人はそんな気配すら見せず、静かなる笑みを湛えており、それが逆に不気味ですらある。
「爺やは? 司令部は?」
「リットベルク大佐は、意識不明の重体です。峠は越えたとのことなので安心ください。しかし、総司令部は……」
立ち上がって敬礼したオスカーの言葉を、アリアベルは首を横に振り遮る。大よその見当はついているのだろう。征伐軍総司令部に使われている市庁舎の構造は、アリアベルの執務室の手前に総司令部の作戦会議室などが連なっており、蹶起軍による蹂躙の結果は容易く想像できる。
オスカーは、アリアベルの拒絶の動作を見なかった振りをして言葉を重ねる。
最高指揮官が現実を直視することを拒めば、その間に散ってゆく者達を最大限に減らすことができなくなる以上、それを諌め、正すことは幕下の者の義務に他ならない。
だが、アリアベルは可笑しそうに笑う。そんな軽やかな小鳥が囀る様な笑声が執務室を満たす。
「ふふっ、装甲戦力や砲兵戦力というのはね、技術の塊なの。今回の戦闘で装甲部隊はその多くが整備を必要としているでしょうね。それに、数に勝るはずの我が征伐軍を圧倒した火力集中。恐らく弾火薬は極度の欠乏状態にあるはず……違うかしら?」
慈愛の表情で言葉を紡ぐアリアベル。
目覚めたばかりで、そこまで思い当るというのであれば身体の心配は必要ない。無論、二人の遣り取りに気を利かせて、暫く狸寝入りをしていたというのであれば、傷口を広げない為にも口を挟むべきではない。
「私は負けない……負けられないの」
しかし、その瞳には烈火の如き炎が宿っていた。今だに戦意は萎えておらず、眼前で囀るは小鳥ではなく、龍の静かなる咆哮による決意の発露に他ならない。
「過信は禁物です、大御巫」
「ええ、だから二人の意見を聞きたいの。そんなに戦塵に塗れた軍装で、この場にいるという事は前線の戦力を後退させるために苦労してくれた。違うかしら?」
寝起きの割には頭が働いているようで重畳、と口元を歪める。
あの若者に何かを拭き込まれたのだろう、とオスカーは征伐軍総司令部に突入してきた精鋭部隊の中心を担っていた一人の少年に思いを馳せる。何処か軍人と いうよりも政務官の様な佇まいを見せた小柄な若者は、あの強大な英雄よりも存在感を放っていた。そして、英雄は軍人としての階級ではなく、別の盟約によっ
て配下として従えている様に見えた。そうなれば若者は、英雄を従え得る何かしらの要素を持っていることになる。
「私を殺すことが、あの男の目的だった……なら私が生きていることで大きな誤算が生じるはず。私が小娘に過ぎないか見せてあげる」
毛布の端を握り締めて、アリアベルが微笑む。怖気の走る様な龍の笑みに、オスカーは、或いは敵兵に執務室に踏み込まれる以前より、今後を考え始めていたのかも知れないと思い当たる。
「ですが、不確定要素もあります」
あの獅子姫すら容易く圧倒して見せた女騎士。深編み笠を目深に被り、容姿を窺うことは難しかったが、英雄と称するほどに堂々とした佇まいと、実際に至近距離で相対したオスカーは、その正体に感付いていた。
「……剣聖ベルセリカ・ヴァルトハイムね」アリアベルは可愛らしく小首を傾げて呟く。
終始、顔を深編み笠で隠した女騎士は、在りし日に皇国の国体護持に無類の貢献をした英雄。剣聖の異名で呼ばれ、栄誉を受け取ることもなく身を引いたとされる高潔は、未だに童話や戦記となって各地で語り継がれている。
「剣聖が再び歴史の表舞台に躍り出たという話はありません。あの少年が個人的に配下に加えているという可能性が……」
「貴方はあの少年……トウカのことをどう思う?」窺うような言葉と仕草のアリアベル。
アリアベルはトウカと呼んだ若者のことを酷く気にしている。
好奇心と猜疑心が入り混じった様な感情に、オスカーとヴォルフローレは顔を見合わせる。確かに非凡さを感じさせる者であったが、前線指揮官に過ぎない者が戦局を左右するとは思えない。
「あの者は、私に指導者たるの資質がないと言ったの。それは正しいと思う。大局を見据える上で、国内しか見ていなかったのだから」
「それは……ですが一刻も早く状況を打開せねばならないことは理解しておられました」
少なくとも征伐軍総司令部や、陸軍総司令部、参謀本部は、他国……特に帝国による再侵攻を警戒しており、そんな思惑を利用したからこそ征伐軍は戦力を国内各地から抽出することに成功した。
「あの者は言ったの。綺麗事など言わずにエルゼリア侯爵領を開戦と同時に大戦力で突くべきだった、と。そうすれば蹶起軍は……少なくとも北部貴族は統制を保てずに瓦解するはずだった」
「当時は状況が違いました。圧力を加えつつ蹶起軍に手を上げさせるという予定でしたが、このベルゲンへの強襲で全てが変わったかと」
アリアベルの膝の上でごろごろとしているヴォルフローレの手を取って引き戻したオスカーは椅子へと座り、膝の上にヴォルフローレを乗せる。
「人間誰しも総てが見えるわけではない。多くの人は自分が見たいと思う現実しか見ていない……本当にその通りね。……そう言えば、二人はユリウス・カエサルという人物を知っている?」
「あの少年が言ったのですか? カエサルなる人物に心当たりはありませんが……他大陸にも名の通った者にその様な名前はなかったかと」
聞き覚えのない名に、オスカーは思案する。
聞けば、トウカが口にした言葉を考えた人物であるそうだが、全くもってその様な名は聞かない。その言葉を口にした状況を考慮すると、ユリウス・カエサルなる人物はトウカにとって当然の様に知る人物ということになる。
「少し引っ掛かるのだけど……いいわ、これからの事を考えましょう」
埒が開かないと判断したのか、アリアベルが話題を変える。オスカーにとっても重要な話題なのでそれに乗ることは吝かではない。ヴォルフローレも狼耳をぴんと立てて、オスカーの膝の上で言葉を待っている。
オスカーが無意識に、ヴォルフローレの頭を撫でる姿に、何とも言えない表情をしたアリアベルが口を開く。
「これからの基本的な方針は、勿論ですが体勢を立て直しての再編成」
それは想定していた言葉であり、オスカーとヴォルフローレは越権行為であると承知しつつも、軍の再編成の指示を連名で征伐軍内に出している。負傷者を後 送し、減少した人員を整理して再編成、部隊を充足させ、武器、兵器を修理、補充するなど征伐軍はベルゲン近郊に陣を形成して慌ただしく動いていた。策源地
である他地方の陸海軍基地や、大都市から糧秣や武器弾火薬、生活品などを大量輸送しているので、それらの受け入れや管理、警護などもあり、ベルゲンは一時 的に活気を取り戻しつつある。
「此度の戦闘では爆撃により民間人に死者も多数出ています。それを利用して非難を行うべきでは?」
軍人としての範疇を越えた発言であるが、大御巫を頂点とした既存の軍事組織とは一線を画す征伐軍に在っては、軍人としての規範など意味のあるものではなく、寧ろアリアベルに足りない視野の総てを補わねばならない。
「そう……民間人に死者が出てしまったのね。残念だけど政治問題で蹶起軍を刺激する訳にはいかないわ。あの男は言ったの。帝国の侵攻の事前作戦が国内で展開されている、と。刺激すればそれを暴露しかねないわ」
「匪賊の跳梁ですか……噂には聞いていましたが、帝国が裏で糸を引いているとは。彼がその証拠を掴んでいるとすれば、確かに刺激はできないかと」
本来、北部貴族に統治の資質なしと、征伐軍が攻め入る理由の一つにもなったそれが、もしトウカの言う通り帝国が背後にいるものだとすれば状況は一変す る。征伐軍は蹶起軍やエルライン要塞の向こう側にいる帝国軍の作戦に踊らされているという事実を国民や中央貴族が許すはずもない。国内総てが敵に回る可能
性すらある。しかも、暴露は内戦状況のなかで、帝国軍による再度の進攻を招くことも考えられた。
「でも、おかしいわ。私を非難する理由があるのに手札として使わない。剣聖すらも手札に加えていながら総ての手の内を隠して戦い続けている……もしかすると時期を図っている?」
「帝国軍との決戦……いえ、中央貴族との衝突も視野に入れているかもしれませんな」
神算鬼謀。
まさにそんな言葉が浮かぶほどの先見の明を持つトウカに、オスカーは唸る。
帝国軍による国内での事前作戦もトウカの推測でしかないが、一度知ってしまえば納得するだけの理由があり、合理性に基づいたものである。恐らく、トウカ という若者は皇国の弱点や欠点をかなりの精度で見極めている。皇国人とは思えない視点であることを踏まえると、名前通り神州国人、或いは流浪の民かも知れ ない。
「トウカなる若者については此方で調べましょう」
諜報組織を有していない征伐軍なので陸軍諜報部や貴族に伺う程度が限界だが、アリアベルが酷く気に掛けるほどの若者であることも確か。
「しかし、再編制後は如何なさいますかな? いっそ、感情など脇に置いて蹶起軍と手を組んで、中央貴族を牽制するのもありでしょう」
「思ってもいないことを言わない。これだけの流血が起きた後、手を取り合うのは難しいわ。……蹶起軍は、我々も帝国も中央貴族も……全てを相手にする心算よ」
アリアベルの言葉に、オスカーは言葉を詰まらせる。
その戦力比は言うまでもなく、蹶起軍が圧倒的不利。それでも戦わんとするのだから勝算があるとみて間違いない。
ベルゲン強襲に使用された新型戦車でもなく、剣聖ベルセリカ・ヴァルトハイムでもなく、帝国による国内への浸透という事実でもない勝算。それは、オスカーにも及びもつかないナニカ。
「だから我々は、再編制終了後に強襲を行うの。全ての戦力を投じてエルゼリア侯爵領に攻め寄せるわ」
「駄目、戦力が足りない」
アリアベルの言葉に、ヴォルフローレが口を挟む。
戦力の減少に加えて、士気も低下している。アリアベルが意識を取り戻したことを伝え、演説を行ったとしても、取り戻せるか否かは、オスカーにも判断は付かない。
「ふふっ、巫女の権威を見せてあげるわ」
口先で戦力が増えるならば軍も苦労はしない。
アリアベルは、ふらついた身体を起こして、毛布の上に置かれていた肩掛け寝間着を手に取り立ち上がる。それを見たヴォルフローレも立ち上がり、アリアベルの肩に肩掛け寝間着を掛けると、その身体を支える為に手を伸ばす。
ヴォルフローレに支えられて、アリアベルが露天席へと続く大窓に手を伸ばす。
それを見て、オスカーも立ち上がると、アリアベルの後へと続く。
露天席へと出た三人。
征伐軍総司令部として運用されている市庁舎の最上階の光景は壮観の一言に尽きる。差し込んだ曙光に防護城壁が浮かび上がり、稜線越しに一面の雪化粧が見えた。それらは曙光を受けて、燃えるような色を放っている。
そんな光景の中に、異形の集団が蠢いている。
稜線を越えて次々と現れる戦闘集団。方角からして友軍であるが、オスカーやヴォルフローレの良く知る陸軍の編制とは違う集団であり、その軍旗もまた陸軍旗とは違うものであった。
二人へと振り向いたアリアベルは、小さく微笑む。
曙光を背負い立つ姿は、旭光の巫女と呼ぶに相応しく、将兵の戦意が上昇する理由が良く分かる。
「総ては宜候よ」
翻る海軍旗。
それに続くは、皇国海軍、三個陸戦艦隊。
征伐軍、未だ健在なり。
人間誰しも総てが見えるわけではない。多くの人は自分が見たいと思う現実しか見ていない。
《共和制羅馬》 終身独裁官 ガイウス・ユリウス・カエサル