第八九話 代将閣下と仔狐
「領民を上甲板に集めるんだ。急げ」
リンデマンは静かに、だが、力強い声音で指示を下す。
艦長の言葉に士官達が一斉に動き出す。通信士長が通信室に命令を伝達し、航海長が進路変更の為に海図へと向かう。砲術長が武装総点検を命じ、副艦長がそれを監督する光景は活気となって艦全体を震わせる。
「戦船としての本懐を果たせる機会の到来に打ち震えるか、〈ヴァルトハイム〉」
進路変針によって右へと僅かに傾いた昼戦艦橋で、リンデマンは先程開いた命令書を強く握り締める。そこに書かれた命令は単純明快であった。
シュットガルト運河に隣接する全ての貴族領を影響下に置く。
一部は東部貴族の領地であり、合計すると四つの貴族領を占領することとなるが、それだけの陸上戦力は手元にない。あくまでも占領ではなく、影響下に置くという点から、恐らくは砲艦外交となるとリンデマンは踏んでいた。
だが、あのバルシュミーデ伯爵家がある。
武門の家系としても著名であり、当主が最近、斃れたことによって揺れる伯爵家。それを継ぐのは、うら若き貴族令嬢にして美しき乙女。慈愛に満ちたその佇まいと献身的に領民に尽くす姿勢から多くの者から慕われており、容易く降伏することを周囲が許すとも思えない。
恐らくは戦闘になる。死兵となって挑みかかってくることは避けられない。
「嬉しくもあり心苦しくもある。艦隊司令官は怖いね。そう思わないかい、君は」
「そこがいいのよ。火傷しそうな恋をさせてくれそうでしょ?」
近くで腕を組み、活気づいた艦橋を艦隊司令官席にもたれ掛っていたリシアから返ってきた言葉に、リンデマンは苦笑する。
先任とはいえ、既に同階級にあるので敬語で話せと口にすることはなく、何よりもこの目上を敬わない姿勢を、リンデマンは嫌いではなかった。リシアの向上 心と反骨精神溢れる姿勢は、若き日の自身を見ているようで、リンデマンには心地良い。強いて言うなれば、生意気な娘を見守る父親のような気分である。
「バルシュミーデ伯爵家の小娘を跪かせるなんて最高じゃない。私、姫とか嫌いなの。特に狐の姫なんて最悪。害獣よ、害獣」
それが誰を指しているのか気付いたリンデマンは、苦笑を更に大きくするしかない。
艦隊司令長官と伯爵に気に入られている仔狐に対して隔意があると思われたくはないということもあるが、そこに女としての感情が混じっている事を知っていたからであった。色恋に口を挟む面倒を避けたと言える。
そんなことを考えていたリンデマンだが、通信士の言葉に意識を取り戻した。
「一六時の方角より近づく艦隊あり! 識別番号から友軍艦艇と推測。現在、識別照合中」
予定通りの時間に、リンデマンは深く頷く。
友軍の水雷戦隊に守られた輸送艦であることは疑いなく、確認作業に追われる通信士達を尻目に、上甲板では搭乗していた領民が集められて説明を受けている。
艦橋から見下ろしても分る程に、領民の顔は一様に驚きに満ちていた。
試験航海から戦闘航海に移行するなど夢にも思わなかったであろうことは疑いなく、現に士官や水兵達も初めて知らされて戸惑っている者も少なくない。リン デマン自身も先程、リシアに命令書を受け取り初めて知った作戦計画に目を見開いたのだが、まさか艦長が驚きを露わにしては部下が不安に駆られると、決して それ以上の仕草見せる真似はしなかった。リシアがけたけたと嗤うので台無しであったが。
「友軍艦隊です。〈特設輸送艦隊〉……輸送艦四隻に、随伴の駆逐艦六隻。本艦には、輸送艦〈シュベルト〉が接舷するとのこと」
「両舷停止、接舷準備。本艦の初めての損傷を友軍艦との衝突などという不名誉で穢す訳にはいかない。気を引き締めよ」
リンデマンは即時に命令を下す。友軍艦との接触事故など情けないにも程がある。しかも、装甲だけでなく経歴にも傷が付きかねないので妥協するなど有り得ないことであった。
「全艦に、見張り厳と成せ、と伝達しなさい。水雷戦隊は輪陣形を形成。魔導探針儀も全方位警戒を維持して」
リシアも艦隊への指示を下し、首に下げていた双眼鏡で地平線を見据える。
艦橋上部の防空指揮所でも備え付けの大型双眼鏡で見張り員による警戒が始まっていた。
視力の優れる耳長族を中心とした種族による目視での警戒活動に加え、魔導探針儀を扱うのは領邦軍に在っても数の少ない高位魔導士である。
二人の指示に澱みはない。
リンデマンは水上部隊の指揮経験があり、昔は艦船勤務一筋であった為に当然と言えるが、リシアに関しては今回が初めての艦船勤務であった。しかし、領邦 軍士官学校では手当たり次第にあらゆる兵科を学んでいたので、本職には劣るものの多くの兵科に通じていた。装虎兵科に対する不信感でもあるが、一つの兵科
に固執することを忌避したリシアの判断は正しい。現に騎兵科などが廃止され、輜重科などに人馬諸共移籍されている事実からもそれは分かる。トウカとマリア ベルの視点に追随するには、多角的な視野と多様な技能が必要となる。
緊張感に満ちた艦橋。
「遅参の段、平に御容赦願いたい。この艦、どうも宜しくない。案内板くらい付けて置いて貰いたいものだ」
トウカの苦笑交じりの登場に、艦橋の空気が弛緩する。
烈将とも言われ、苛烈な印象が先行しているトウカだが、それを感じさせない佇まいでの登場に、何とも言えない表情をする士官や水兵達。
「閣下、輸送艦が接近しております。接舷次第、領民の受け渡し予定です」
リシアが、トウカの横に立って状況説明を行う。
リンデマンは、トウカの姿を横目で見やる。烈火の如き苛烈な指揮をすると実しやかに囁かれていたが、その様な気配は窺えない。寧ろ、正規海軍の青年士官の様な佇まいで、好青年と取れなくもなく、若さ溢れる青年と見えなくもない。
「予定通りに対処を。ハルティカイネン大佐は艦隊指揮を。各参謀にはその補佐を。……では、重巡洋艦〈オルテンハウゼン〉と〈クラインシュミット〉、各水雷戦隊に通達。シュットガルト運河へ前進せよ、だ。これを阻む艦艇の排除も許可する」
笑顔のトウカに、リシアが顔を緊張に歪める。
「宜しいのですか?」
「構わない。抵抗勢力は、総て食い散らかせ」
軍用長外套を翻して、艦隊司令官席に座ったトウカ。
リンデマンは、これは大変なことになった、と胸中で呟く。
露払いを意図した斥候であることは理解できるが、余りにも攻撃的であり航行の要衝でもあるシュットガルト運河を火の海にすることを躊躇わない姿勢に、リ ンデマンは疑問を覚えた。内戦中であっても商業活動を行い続けているヴェルテンベルク領もまた規格外だが、航行の要衝で艦隊決戦を躊躇わない艦隊司令官も またそれに同じである。
「艦長は反対か? 懸念は分かる。商業に支障が出ては困るからな。だからこそ初撃で最大戦力をぶつけて短期間に戦闘を終結させる」相変わらずの笑顔で、トウカが告げる。
一体どれほどの血が流れるのか。短期決戦の代償は血量となることは明白であり、恐らくはトウカもマリアベルもその点を承知しているであろうことが酷く恐ろしかった。
ベルゲン強襲は始まりに過ぎない。
陸で海で空で……あらゆる場所で夥しい血が流れるだろう。
いや、これこそが本来の戦争なのかも知れない、とリンデマンは思う。
蹶起軍も征伐軍も内戦であるからという理由で、何処か交戦に及び腰であったが、トウカの名が広まるにつれてヴェルテンベルク領邦軍が変わり始めた。戦争をする為の軍隊へと。
新しい時代は、流血を求めていた。どうしようもない時代。
それに対応する……否、抗すべき定めを負った者達。
それが、トウカやマリアベルなのかも知れない。
「了解です、艦隊司令長官。……戦争を始めましょう」
「彼が捕虜ですか? 随分と暴れたようね」
アリアベルは、頬に殴られた跡のある看守を横目で一瞥し、オスカーへと語り掛ける。
捕虜は、随分と暴れた様子であり、格子の中に納まった上に、手足を縛られて椅子に座らされている。無精髭に薄汚れたヴェルテンベルク領邦軍軍装のその男は目付きが悪い上、強靭な身体付きの中年男性であった。
「小ぉぉむ娘めっっっッ!!」
慟哭とも憤怒とも取れる声音に、独特の音調。アリアベルは思わず身を引く。新種の変態に出会ったかのように、オスカーの背に隠れる。
ヘンリック・アインハルト・ラムケ少佐。
ヴェルテンベルク領邦軍、特務降下猟兵大隊長にして、ベルゲン強襲では、征伐軍総司令部突入時や防護壁占拠で大きな役割を果たした部隊の指揮官であっ た。しかし、撤退中に車輛諸共吹き飛ばされて、意識不明となっていたところを征伐軍兵士に収容されたのだが、その後、目を覚まして大乱闘。もうベルゲンの
復興が遅れのではないかと噂される程の大乱闘で、死者こそ出なかったものの、兵達の賭けの対象になる程の大乱闘であった。近隣の兵舎から、叫び声が酷くて 睡眠が阻害されるとの苦情すら寄せられている。捕虜となっても敵軍に被害を与え続けるとは見上げた根性であった。
「このぉぉっ、糞巫女めめぇぇ!! 成敗してくれるぅぅぁぁぁっ!!」
縛られた鎖を盛大に鳴らして、怒鳴り散らすラムケに、オスカーが眉を顰めていた。尋問を予定していたので口を塞いでいなかったのが仇となり言いたい放題である。
「ああ、君、面倒だから少し黙ってくれないか? 聞きたいことがあるんだが、この様子では……大御巫、如何いたしますか」
「痛め付けましょう。全力で」
オスカーの影で、アリアベルは決断する。世の中には相手にしてはいけない者もいるということを、つい最近知ったばかりなのだ。種類は違えどもあれも変態の一種なのだ。
獣のように呻き声を上げるラムケ。
だが、実際のところは戦闘終結後から何一つ情報を与えられていないので、現状を酷く気に掛けていることは間違いない。〈ヴァレンシュタイン戦闘団〉が帰還したか、若しくは蹶起軍の現状など……薄暗い地下牢からでは分かり様もない。
「……いえ、やはり、野蛮な行為は好みません。若しかすると痛め付けられるのが好きな人かもしれませんし」
「ぶぅぅぅぅるるるっぁぁぁ!! 私ぃぃを変態呼ばわぁぁりするとはぁぁっ、良い度胸ゥぅだなぁッ!!」
再びの大音声を予期して耳を塞いでいたアリアベルは、辟易として溜息を吐く。
政教分離の大原則を犯したアリアベルは、一部の神職者から蛇蝎の如く嫌われている。従軍神官であることに加え、中央の天霊神殿勢力とは同じ神々を信奉し ながらも独立独歩の立場を取っている北部の神官や巫女達からは怨敵扱いされていた。神々への信仰は無限であっても、予算は有限であり、立場や地位は信仰の 如く凛冽ではない。天霊神殿もまた幾つもの派閥があるのだ。
「〈ヴァレンシュタイン戦闘団〉は、ベルゲン強襲後、撤退に成功。凱旋して今は〈装甲教導師団〉として再編成中よ」
「ふん……当然でしょうな」
一転して落ち着き払った口調となったラムケに、アリアベルは情報を欲していたのだと悟る。ラムケは、ようやく知ることができるかも知れない情報を、自身の大音声で掻き消すほど愚かではなかった。少なくとも、交渉の糸口は見つけた、とアリアベルは安堵する。
「糞巫女の寄せ集めの食い詰め軍隊など、我が領邦軍の前では雑兵同然」
「ええ、分かったわ。表、出なさい」
アリアベルは腰に引っ下げた直剣を引き抜いて近づこうとする。しかし、オスカーと衛兵に押さえ付けられてそれは叶わなかった。
ラムケはその様子を見て呵々大笑なのがまた一段と怒りを誘う。若かりし日には不良神官として名を馳せていただけに、他者を煽るのは得意であったのだが、それをアリアベルは知らず、この性格の一部がマリアベルの人格に影響を齎したという噂もあるがそれも定かではない。
「サクラギ中佐は……いや、昇進して大佐か。生きて帰ったならば、貴様ら背教者共に勝ち目はないな」
「今はサクラギ代将閣下よ。〈ヴェルテンベルク領邦軍艦隊〉司令官……帰還の翌日に発令された以上、姉上は元から勝って当然の戦いと見ていたの?」アリアベルは問う。
姉は自身の勝利を当然だと見ていたと思しき動きをしている。それどころか征伐軍という大戦力に対して、一領邦軍のみで戦いを挑み、これに勝利したという事実に思い当たり、アリアベルは戦慄した。
それは、アリアベルを殺す心算だったということに他ならない。
配下の一領邦軍で、行動したのは情報の漏洩と、大軍の移動で気取られることを恐れた為で、事実、一度抜かれてしまった戦線からベルゲンへと迫られた。こ う見れば前線突破後に好機と見た蹶起軍に所属する他の領邦軍は、マリアベルに唆されたとも取れる。現にマリアベルは航空騎を手当たり次第に金銭と権力で掻
き集め、各戦線の征伐軍の拠点に痛烈な航空攻撃を仕掛けた。つまりは事前攻撃まで担当したのだ。本格的に干戈を交えず、閉塞感に覆われていた以上、眼前の 好機を逃すはずもない。
斯くして、偶発的にして人為的な全面衝突が発生した。
それは、ベルゲン強襲の為に浸透突破を図った〈ヴァレンシュタイン戦闘団〉を側面支援することを意図したものであるはず。蹶起軍に属するほぼ全ての領邦 軍を巻き込んだ以上、征伐軍はその意図を見抜くことに成功していたとしても総力を以て応じなければならなかった。航空攻撃によって指揮統制が著しく低下し
ていた為、戦力的に優勢であったはずの征伐軍は余剰戦力を捻出することは不可能であった。緒戦で万全を期して投入された機動師団という機動戦力を失ってい たこともあり、〈ヴァレンシュタイン戦闘団〉の背後を脅かすことは実質的に不可能であったとも言える。
〈ヴァレンシュタイン戦闘団〉が、クラナッハ戦線を突破した時点で、征伐軍の勝利は失われていたのだ。
「サクラギ代将閣下か……良い響きだ」
経験を積んだ壮年の男性を思わせる声音だが、手足を縛られて椅子に座らされているので、威厳や重厚さは感じられない。
「ふぅん……信頼しているのですね」
「信頼? 莫迦なことを。出会って二週間で戦野に赴いたのだ。信頼などない。あるのは確信のみ。マリアの小娘が信じ、リシアもザムエルも彼奴〈あやつ〉の元に集った」愉快だとラムケが笑う。
もし、ラムケが言う通り、トウカの下に多くの優秀な将校が集まると言うのであれば、それは何ものにも勝る脅威であった。アリアベルの脳裏に浮かぶは、皮 肉と嘲笑に歪んだ表情で、何処が多くの将校を惹き付けるのか大いに気にはなったが、非凡な才能を見せつけた以上、やはり何か惹き付ける要素を持っているの だろうと思い直す。
「将星の才とでも言うべきか。彼奴の下に幾多の戦人が集う。マリアはそれを知っていたのでしょう。……賭けたか」
アリアベルなど眼中にないのか、一人で呟き続けるラムケに、アリアベルとオスカーは顔を見合わせる。強烈な人物であることは間違いないものの、固定された人物像を知る程に、長期間に渡りヴェルテンベルク領邦軍に所属していた訳ではないということかも知れなかった。
「あの若人は、誰よりも戦争を理解している。戦車を短期間で改修する手段を授け、研究者に新兵器の発想を与え、将校に洗礼された戦闘教義を教えた……新しい時代がやってくる。軍靴と銃声に満ちた時代か……」
オスカーも好きに喋らせて、情報を得ようと目論んでいるのか、ラムケの独語を止めない。
確かに、中には改修型戦車や新兵器、新たな戦闘教義などの気になる言葉が混ざっており、実際、ベルゲン強襲で目撃された長砲身型中戦車や、戦車を中心と
した浸透突破は新たな戦闘教義と見て間違いはなかった。本来、戦車とは装虎兵や軍狼兵と比して稼働率や耐久性に問題がある兵器とされ、事実、長躯進撃など懸架装置の
問題から不可能とされていた。しかし、皇国陸軍が正式採用し、征伐軍でも主力戦車として扱われているクレンゲルⅢ型歩兵戦車とは、基本構造や概念から違 う、ヴェルテンベルク領邦軍正式採用の蹶起軍装甲部隊主力戦車として運用されているⅣ号中戦車は純粋な巡航戦車であった。兵員輸送能力や二門も主砲を有す
ることがない代わりに、小型化と装甲強化、軽量化を重視し、旋回砲塔による咄嗟戦闘能力強化を図っている。トウカの言うところの装甲を犠牲にしていない巡 航戦車である。
それは征伐軍装甲部隊を各所で撃破し、その長射程を生かして装虎兵や軍狼兵に負けない戦闘を繰り広げた。
装虎兵や軍狼兵に対抗し得る兵器がなかったことを考えればそれは、驚嘆すべき事実であり、両兵科による突破が困難となったことを意味する。陸戦の王者はその地位に君臨し続けるも、絶対の存在ではなくなりつつあったのだ。
「貴方もまた魅入られたのね……」
「魅入られた? 違いますね。待っていたのですよ。貴様らが辺境に追い遣った失意の龍姫の手を取るべき定めを負った男を」
地下牢に差し込む曙光に目を細めたラムケ。
アリアベルは思い出す。
ヘンリック・アインハルト・ラムケ。
一線を引いた身であるが、歴戦の従軍神官であり、北部内では長く消息は不明であった。北部で孤児院の院長を務めていたと知りアリアベルは驚いた。蹶起に 合わせて、ヴェルテンベルク領邦軍に従軍したと聞いてはいたが、まさか出会うことになるとか思わなかった。無論、口が悪いとも、過激な人物とも思わなかっ たが。
「オスカー、情報を纏めて執務室に置いておいて下さい。私はもう少し、この不良神官と話す事があります」
千早を翻し、再びラムケへと向き直ったマリアベル。
姉であるマリアベルの事を詳しく知る数少ない人物でもあることは調べが付いていた。ヴェルテンベルク領発展期に於いて、宗教的な纏まりを見せて中央の天霊神殿の干渉を一切寄せ付けなかったのは、一重にラムケの辣腕に依るところが大きいことは有名である。
人払いをし、二人だけとなった地下牢を見回すと、アリアベルは、近くの粗末な椅子に腰を下ろす。暗に、長期戦も視野に入れていると示したアリアベルに、ラムケが舌打ちを一つ。
「姉上のことを教えてください」
「なら、この枷を外せ、糞巫女」
「それは、貴方の態度次第です。別に私は軍機や政治的な失点を聞きたい訳ではありません。姉上の普段の姿を聞きたいの」
マリアベルという女性は、謎の多い女性である。
閉鎖的な北部の中でも独立独歩を地で往くヴェルテンベルク領の伯爵であるマリアベルを取り巻く現状は、不明瞭であり、謎に包まれていた。下手に間諜を放 とうものなら、あの人命を雑草の如く無造作に詰み取ると噂のエイゼンタール少佐隷下の諜報部実働一課が、死を振り撒くことは想像に難くない。実際に、多く の間諜が行方不明となっている。
「……悔いの残らない様に生きている。宿命を理解し、この世に己の生を刻み付けるかのように、な」少しの思案の後、ラムケが呟く。
そうして語られ始めた姉の日常に、妹は幾度も驚きの声を上げながらも耳を傾け続けた。
「民間人の移乗は成功したが、まさか歌姫までいたとは……」
トウカは、輸送艦に乗り移ったリルカを思い出して嘆息する。
〈剣聖ヴァルトハイム〉型戦艦二隻に搭乗していた民間人を輸送艦に移乗させ、逆に装甲敵弾兵を搭乗させた艦隊は、一路シュットガルト運河に差し掛かろうとしていた。
〈ヴェルテンベルク領邦軍艦隊〉は作戦の提示以来、醒めやらぬ興奮と緊張に包まれている。各艦の主要な役職者にしか伝達されていなかったが、人の口に戸 は立てられずという言葉もある通り、下士官や水兵にも静かに伝わりつつあった。無論、艦艇という閉鎖空間に在っては、独立性と連帯性が強く、情報を共有し
易いという土壌が整っているという理由もあったが、一番の理由はトウカがそれを咎めなかったことである。
〈剣聖ヴァルトハイム〉型戦艦二隻は新造艦であるものの、領邦軍であることも相まって元より旧知の仲である兵士や将校が多いという者が大半を占めてい た。情報の伝播が早いことをトウカは重々承知している。兵に疑念と疑問を抱かせたままに戦野に身を投じさせることは躊躇われる上、艦上である以上、機密漏 洩の心配はない。逆に制限付きの情報開示で余計な意識を持たせることを避けられる。
「全艦、戦闘及び航行に支障なし。第三警戒序列(哨戒輪陣形)から第一戦闘序列(単縦陣)への再編は完了しております、艦隊司令」
リンデマンの言葉に、トウカは深く頷く。
信号索最上部に翻る信号旗に合わせて、第三艦速で航行する〈ヴェルテンベルク領邦軍艦隊〉は、シュットガルト運河に差し掛かる前までは、艦隊陣形と砲撃 演習という所定の作戦行動を消化しながら航行していた。試験航海であり、同時に艦隊としての航海も初めてである。搭乗していた領民の目がある為、砲撃演習
は行えなかったが、領民が輸送艦に移乗してからは鬱憤を晴らすかのように砲撃演習を行っていた。領民の視線から逃れる為に防水幕の掛けられていた砲身は、 その本当の口径が露呈しないようにという配慮で、所在なさげに沈黙を保っていた。
しかし、今は違う。
搭載された五五口径四一㎝砲を一二門が、戦列を形成した騎士の槍の如く長大な砲身を上下させて目標へと砲門を指向させている。
目標は、砲撃演習に使用されている小島に過ぎないが、先程からの砲撃で、その形状の一部を変えていた。戦艦二隻、主砲二四門による砲撃の威力は、トウカの想像を絶する……程のものではなかったが、それなりの火力であった。
トウカは、大日連海軍連合艦隊観艦式での、戦艦二〇隻余りが単縦陣を組んで斉射する光景を見ているので、それに比べると酷く見劣りする。《大日本皇国》
海軍の打撃戦艦〈出雲〉や〈近江〉の五五口径七四cm滑空砲と比較しては戦艦と巡洋艦ほどの違いがあり、《アイヌ王国》海軍の〈シャクシャイン〉型神楯戦艦や、《瑞穂公国》の〈葦原〉型高速戦艦などに搭載されている五五口径六一cm滑空砲にも劣る。四一cm砲と言えば、大日連構成国に量産廉価、貸与している〈荒神〉型軽戦艦程度のものに過ぎない。
無論、それは数値上のものであり、その上、旋条砲と滑空砲との違いがあるものの、人であれば至近に着弾すれば跡形もなく原子の塵へと還ることになる威力であることに変わりはない。巨弾の投射は、高価な誘導噴進弾による飽和攻撃と比して費用対効果に極めて優れるので、トウカの祖国でも長距離対艦砲撃から対地砲撃まで行う艦砲は極めて重要な地位を占めていた。重装甲と高い迎撃能力を持つ戦艦に対艦誘導弾で止めを刺すことが難しい以上、艦砲が活躍するのは当然だが、この世界では艦砲が発展した理由は、一重に魔導障壁を貫徹する対魔導徹甲弾が大重量であり、これを撃ち出す為に火砲が大型化したからであった。
「交互撃ち方より、一斉撃ち方に変更」
「交互撃ち方より、一斉撃ち方に変更」
リンデマンの命令に、砲術長が復唱する。
雷鳴の如く等間隔に砲声を轟かせていた一二門の砲が一瞬、その咆哮を沈黙させる。皇国海軍の砲戦は大日連海軍と同様で、交互撃ち方による目標に対して命
中弾、或いは挟狭を得るまで修正射として行い、有効射が出て以降は、一斉撃ち方に移行される。相乗効果や、急速に被害を拡大させて被害統制能力を破綻させることを狙ったものであった。
防音障壁の効力によって大きく低減された砲声を耳に、トウカは思案する。
――敵艦相手に砲戦はできない。そもそも何だ、この揺れは?
大きく揺れる艦体にトウカは、眉を顰める。戦艦ほどの大型艦の操艦経験のあるものがいないヴェルテンベルク領邦軍でも気付く者は居るだろうが、これでは対艦砲戦は難しい。
映画や小説では敵艦を照準し、そこに砲弾を撃ち込むという描写があるが、本来の砲撃戦というのはそれほどに単純なものではない。数十kmで航行する敵艦 に此方も航行しながら砲撃する上に、砲弾の発射から着弾までは数十秒近く必要となり、狙っても容易く当たるはずもなかった。実情としては、戦闘艦の対艦砲
撃は敵艦自体を照準するのではなく予測される未来位置に砲弾を撃ち込むのだ。よって、直接照準を敵艦に指向することはせず、相対速度や進路から推測される 位置に砲撃を繰り返し命中弾を与えることになる。一斉射撃よりも断続性のある砲撃である交互撃ち方は発射間隔が短く、揺れによる影響を受け易い。
しかし、実情として戦艦〈剣聖ヴァルトハイム〉は小さく左右に鳴動している。
大艦巨砲主義の極致である戦艦に搭乗した者が居らず、先程からの命中率の低さの理由を理解しているものはいない。リンデマンが砲術長に詰め寄っているのは、その命中率の低さに対する対応を求めているのだろう。
一三射にしてやっと命中弾が出て、一斉射撃に移行した一二門の砲が、今一度、咆哮する。
一層大きい砲声に、圧倒的なまでの光量。筒先に火球が出現し、右舷が朱に染まった。
トウカはそれを一瞥すると、リンデマンと砲術長に向き直る。
「それまでだ。命中率の低さは砲術長の失態ではない」
「はっ、見苦しいところ御見せしました。しかし、この命中率は流石に……」
「艦長、これは構造上の欠陥だ。皇国海軍から技術支援すら得られない状況下で、これ程の大型艦の建造……不具合が出てもおかしくない。帰還後は船渠に逆戻りだろうな」
修正箇所は無数にある。
長大な全長はトウカの知る〈アイオワ〉型戦艦にも勝るものであり、艦幅は〈大和〉型戦艦に迫るものであるが、排水量は満載状態で六、九〇〇〇tとその艦体に比して低めに抑えられている。
結果、極めて平衡性の悪い戦艦となった。
艦体の横幅の短さからくる不安定な砲撃や揺動性能、凌波性も流麗な船体形状からは想像もできないが、不都合が出ていた。その艦体の長さから進水時には応力集中による船体の破損事故もあったらしく、進水までの時間も海軍戦艦と比して時間が掛かった。
「艦幅が細すぎる。バルジの増設……いや、左右に駆逐艦の艦体を利用した浮舟艦でも付けるか。思わぬところで三胴艦を見ることになるとはな。帰還すれば建艦計画にも手を加える必要が――」
「艦隊司令、烹炊長です」
昼戦艦橋に走り込んできた大尉の階級章を付けた兵が敬礼しつつ、報告があると背筋を伸ばす。本来、この世界の文明の程度を見れば艦内情報伝達は、伝声管 などを使って行われるように思えるかもしれないが、伝声管は浸水時に被害を拡大させる。大日連海軍でも今は採用していない。
しかし、この世界では魔導技術によって有線通信が特異な発達を遂げていた。ほぼ完全な伝導率を誇る魔力という元素を伝達する魔術媒体を特殊処理した通信 線によって、極一部では高い情報処理能力を有した施設などもあった。戦闘艦もその例に漏れず、艦内の遣り取りには有線形式の魔導通信が使われている。
そして、眼前の兵は烹炊長であった。
〈剣聖ヴァルトハイム〉型戦艦の現時点での乗員は九八五名だが、その胃袋を預かる烹炊長は多忙を極める。烹炊所が未完成であることもあるが、元来、烹炊長とは忙しいもので、仕込みや調理の指揮を常に執り続けなければならない。態々、艦橋に姿を現す時間はない筈であった。
飯炊きは、平時でも有事でも同じ仕事なのだ。戦闘下でも状況が伝わらず、時折、戦闘配食を届ける際に情報を聞きかじる程度。例え、友軍艦艇の沈没と海戦の敗北を知りつつも握り飯を握り続けるしかない。嘗ての〈南雲機動部隊〉がそうであったように。
だからこそ、トウカは彼らにおのずと好意的に接していた。
そのもどかしさと歯痒さ、悔しさと嘆きから艦内で背を向け続けなければならない彼ら。その胸中は察して余りあるものがある。
食事を用意してくれる際、料理を説明する為に姿を見せるので既知であるトウカは、その姿に首を傾げる。
「烹炊長、如何した? 調味料でも積み忘れたか? 給糧艦の建造なら帰還後に指示する積心だ。貴方の苦労も減るだろう」
この艦で最も苦労しているであろう男でもある烹炊長の肩を優しく叩き、トウカは艦隊司令長官席へと腰を下ろさせる。腹が減っては戦ができぬ、という通 り、軍にとって食糧問題は興廃を意味し、蔑ろにできない問題である。まさか機嫌を損ねて兵の食事に影響が出て乗員全てに恨まれる訳にはいかず、そもそも烹
炊長は元高級料亭の料理長で、トウカが艦隊司令長官の辞令を受けた翌日に引き抜いた人物であった。実はヴェルテンベルク領邦軍に所属する駆逐艦以上の艦艇 の烹炊長の変更を行い、それに合わせて輜重関連の予算を大幅に増額した。マリアベルは何処からともなく資金を用意してくるので、まさに資金の湧き出る魔法 の壺をもっているのではないか、とトウカが疑っているのは余談である。
「給糧艦の件は嬉しいのですが……」
「何だ? やはり大型保冷庫の増設の話か?」
トウカは帰還次第直ぐに手配しよう、と頷く。
ちなみに給糧艦とは、トウカが概要だけ示した艦隊増強計画で3隻が計画されている艦艇に食糧を供給する輜重艦のことであった。これには各艦艇の主計科烹 炊班一同が狂喜したという逸話があるのだが、それは有名な話である。駆逐艦では、これで洗濯から解放されるという狂喜の叫びが聞こえてきたという噂もあ る。
大日連海軍の将兵に、一番、人気のある艦艇は何か?
近衛軍の旗艦にして世界最大の戦艦〈天照〉、か。或いは、今も尚、現役で運用され続けている〈紀伊〉型神楯戦艦や〈出雲〉型打撃戦艦か?
残念ながら違った。
正解は〈間宮〉型給糧艦である。
それは第二次世界大戦で戦没した〈間宮〉型給糧艦の後継艦で、艦内には調理・加工施設や冷凍庫などの設備が整えられ、間宮は約一〇〇〇〇tの食材を搭載できる上に、料亭で板前経験のある腕利きの調理師や、練達の菓子職人が軍属として雇われ、氷菓子・羊羹・蒟蒻・最中・豆腐から調味料などの製造まで艦内で行えた。
奇しくも羊羹は先代間宮で造られていた羊羹と同じく、間宮羊羹の高級商品名を与えられ将兵に絶大な人気があった。
眼前の烹炊長がトウカに出会って開口一番に、一刻も早く給糧艦を、と叫んだことも記憶に新しい。既に建造中の大型輸送艦の艦体を流用しての建造が決定しており、各艦の烹炊長からの喧々赫々の議論の末の要望によってその設計が進んでいた。
「いえ、その何といいますか……どうも、食糧庫に忍び込んだ泥棒狐が一匹――」
「ああ、分かった。もう、それ以上、言わないでくれ……」
全てを察したトウカは、軍帽を目深に被って、どうしたものか、と呟く。
そんな視界の端に、見慣れた黄金の毛並みが映る。
主計科の兵に連れられたミユキであった。
何故か口元から小魚の尾鰭が覗いているのは大体の予想が付くが、それについて言及する気力は、トウカになかった。いや、ミユキの手中にある小魚の缶詰を見れば嫌でも理解できた。
「むっ、この煮付けの汁は微妙です! 所詮、缶詰は非常食ですね!」
「嬢ちゃん、俺達はそれを料理に使うだけでそのまま食べる事はないぞ。見くびって貰っては困る」
烹炊長の心の琴線に触れたのか、全力で弁解しているその姿に、何とも言えない艦橋要員の視線をトウカは一睨みで黙らせると、ミユキの前に立つ。
ここは怒らねばならない、と思ったが、続けて二匹目の小魚を口に咥えるミユキが小首を傾げる姿に、その様な考えは霧散したので、視線を合わせて優しく微笑む。
「そうだな。烹炊長の料理は皇国に所属する艦艇の中で一番だ。勿論、銀蝿は禁止だが」
小魚の缶詰をミユキの手から取り上げて、嘆息するトウカは、烹炊長に下がってよい、と告げる。いそいそと艦橋後にする烹炊長とミユキを連行してきた主計科の背を一瞥して、トウカは深い溜息を吐いた。
そんな時、艦隊参謀として昼戦艦橋に詰めていたリシアが口を開く。
解説
給糧艦・間宮
士官達の飲み会の場となることもある事から「動く座敷牢」という渾名を持つ。
作中の「駆逐艦では、これで洗濯から解放されるという狂喜の叫びが聞こえてきたという噂もある」というのは、この艦からの逸話の流用で、日本帝国海軍の 駆逐艦には容積の問題から洗濯機がなく、洗濯を専門に行う者もいませんでした。なので、彼らの服を洗濯する仕事を間宮は行ったりもしていた訳ですね。
ちなみに通信機もかなり優秀なものが装備されており、そのことから演習でもアグレッサー役を務めた事もあるそうな。
旧帝国海軍に於ける嫁的なポジションを有していた艦である。