第八二話 ベルゲン撤退 後篇
「……故国ね」
リシアの独白に、トウカは小さく頷く。ここで喜色を浮かべるようでは、所詮は野戦指揮官止まりである。戦略的視野を持つ将校足らんとするならば、将兵に不動の如き印象を与えねばならない。……決して、背後でⅥ号中戦車の車長用司令塔か
ら上半身を乗り出し、部下よりも大はしゃぎしているザムエルに様になってはいけないのだ。無論、それは表裏ない姿として部下を惹き付けるのだが、部下と一 緒に飲んだくれて憲兵隊の御世話になった前科が勲章の数と互角の勝負を繰り広げているという点には、乾いた笑みを零すしかなかった。
「少佐は喜ばないのか? 獅子姫を捕まえたのだ。武勲第一位は確実。生きたまま二階級特進なら大佐だろう」
話しに聞く限り、リシアは遠い先祖に高位種の血縁がいたそうだが、皇国の法的解釈では、三親等内で新たな他種族の血が入らねば、混血種ではなく人間種と 分類される為、リシアは法的には人間種であった。身体的には、人間種の同世代の女性より少々、身体能力に優れ、老化が表面化し難いだけでそれ以外の特徴は ない。
「譲られた武勲に意味などありません、参謀殿」
暗にトウカに対する非難であるが、当人は獅子姫の生死などどちらでも良いと考えていた。征伐軍の軍事面での旗頭であったが、全体の指揮を執っていたのは 征伐軍総司令部であったことを踏まえると、獅子姫の征伐軍に於ける軍事的役割はそう大きいものではない。あくまでも象徴に過ぎず、その点はアリアベルが補 い得る要素に過ぎない。
「小官の武勲と変わらないさ。小官は我らが領主様の装飾品に過ぎない」
多分に皮肉を含んだトウカの言葉に、リシアが首を傾げる。
トウカは、マリアベルの意図が蹶起軍内での権力拡大にあることを理解していた。
しかも、マリアベルが多くの北部貴族が自らに猜疑の目が向けていることを鑑みて、ベルセリカを征伐軍最高司令官に据え、政治面で自らの意志が蹶起軍の軍 事行動に反映されるように蠢動していることは確実であった。ベルセリカの蹶起軍総司令官就任は、トウカは提案したことであるが、マリアベルからすると北部
全体が傅かねばならなくなる人望を手 に入れたに等しい。急進的な領地繁栄の為に他の貴族の多くから反感を買うマリアベルにない、唯一の要素をベルセリカが有しているのだ。利用しない手はな
い。トウカの騎士としての立場を堅持するベルセリカだが、逆に考えるとトウカさえ許容すれば英雄にも指導者にもなれるのだ。
二人は取り留めのない会話を続ける。
無論、その内容は軍事に関するものばかりである。リシアは特にトウカが用いる戦術に関して多大な関心を寄せており、それらの運用に対して言及してきた。 戦場を縦横無尽な戦術機動で疾駆し、敵に対して常に優勢な地点に位置し続け、迅速な火力集中を実現するという点に関する事を重点的にトウカは教え、それ以
外を教えない。リシアは未だ戦術規模での視野での勝敗に固執しており、戦略規模で状況を見ていないと感じたからである。蹶起軍は高級士官を育成していない ので当然の結果と言えた。あくまでも一領地の守備隊という立場と規模から、高級士官を育成する必要性がなかったことが理由に挙げられる。領主直轄の戦力で
しかない領邦軍に将官がいることは有力貴族でもなければ有り得ず、一般的な貴族が領邦軍を編成する場合は、退役した陸軍将官や予備役の将校を佐官として引 き抜くことが慣例となっていた。
だが、北部貴族が優秀な将官を得ることを忌避した中央貴族や先代天帝が、貴族が退役や予備役将官を引き抜く事に対して大きな制限を設けた。その結果とし て北部貴族の領邦軍には、北部出身の一部将官を除いてほとんどいない。一般の兵士は各兵科学校で学び、士官は各兵科士官学校を卒業する事で士官に叙任され
るが、将官になる場合はこれらと別に陸海軍の高級士官育成の為の軍将官学校に入学せねばならない。此処で初めて戦略的視野と政治的視野を獲得し、戦場での 最善ではなく、国家にとっての最善を選び得る指揮官となる。だが、それに当たる育成機関が北部になかったこともあり、戦略的視野で戦況を見る事のできる者
は少ない。リシアもその片鱗を見せているとはいえ、いまだその才能を開花させているとは言い難い。教育体制が構築されていない以上、独学となるが、その目 的を達成できる者は極めて少なかった。
――いや、高級士官の育成をマリアベルが望まなかったのか?
野心に似合うだけの能力を兼ね備えた人材が、己の統制の外に複数現れる事を忌避したのだろうとトウカは推測する。
背後の一突き。それをマリアベルは恐れている。
トウカの知る“背後の一突“きとは、第一次世界大戦敗北後の《大独逸帝国》において、右翼政党が左翼政党、猶太人等を批判する際に多用した主張で、“背後の匕首”や“匕首伝説”の異名を持つ、ある種の批判論法であり理論武装であった。
この“背後の一突き”の起源は、第一次世界大戦中に参謀総長の職にあったパウル・フォン・ヒンデンブルク元帥の発言と、歴史学者であるフリードリヒ・マイネッケに起因する事が多いが、トウカはそうは考えていなかった。
大なり小なり《大独逸帝国》の大多数の人間は、主体的にそうした考えを持っていたのだ。
第一次世界大戦における最大の敗因は、軍事行動による失敗ではなく、休戦協定に政府代表として署名を主導する臆病風に吹かれた左翼政党や、第一次世界大戦末期に起きた独逸革命を扇動していた共産主義者らこそが全ての根源だとする感情を持っている者が少なくなかった。
苦戦の原因を国内の弱気な者達と敗北主義者……民主主義政党や左派政党の者達が形成した政治組織などを筆頭とした、戦争遂行の方針を批判した人々が悪だ とする批判が展開されていたことをトウカは否定する心算はない。人間とは他者を否定している瞬間は、己が絶対の正義だと信じることができるのだ。
そして、この主張は、後に国家社会主義労働党の第一次世界大戦観として引用され、彼の独裁者が政権獲得する手段として上手く利用される運命にあった。
そして、これと同じ遣り様で、マリアベルは思想誘導を行ってもいる。
帝国と相対するに当たって、後背の中央貴族が我らを脅かしているとする風潮は、調べた限りでは何百年も以前より北部に蔓延している。当初は決して有力な
風潮ではなかったが、左翼思想を持つ天帝が幾代か続き、帝国に対する対応が消極的なものとなるに連れて状況が変わる。脅威に晒される北部の貴軍官民は、マリアベルの、“背後にこそ敵がいる“という姿勢に同調するようになった。そして、中央貴族がそれに対して危機感を抱くことは当然で、その対応として緩やかに経済交流を縮小させ、北部貴族の権力、発言力の低下を図った。
互いの猜疑心の応酬によって生まれた確執。
マリアベルはそれを神龍族の長命さを利用して、長大な時間を掛けて北部の貴軍官民に浸透させ、己の思想に同調するように仕向けた。その心中には、北部を纏め上げてアーダルベルトと相対するという野心があったのだろうと推測できる。
だが、他の貴族から見るとその急進的な姿勢は危険なものと感じたのか、今日に至るまでマリアベルは経済的にも軍事的にも信頼されていながら、政治的には 信を置かれなかった。アーダルベルトとの確執が有名であり、明らかに伯爵家としては大規模に過ぎる戦力を常備していることからマリアベルの意図が明白で
あったからである。無論、だからこそマリアベルは貴族以外の軍官民が戦争を望むようにし仕向けたのだが、それを制御できず、貴族もまた帝国の脅威に怯え、 恐怖を抱いたことからマリアベルの意図しない形で暴発した。
トウカは見え始めたフェルゼンの防護壁を遠目に眺め、小さく溜息を吐く。
ベルゲンから撤退に成功した〈ヴァレンシュタイン戦闘団〉主力は、最短距離でトロッケンベーレン航空基地に残留している部隊と合流し、クラナッハ戦線へと進んだ。そして、ヴェルテンベルク領フェルゼンへの帰路に就いた。
帰還途中で征伐軍前線に展開している戦力から抽出されたと思しき小規模な索敵部隊の幾つかと遭遇したが、これらを鎧袖一触で粉砕し、帰還は順調に進む。 全戦線に於いて壮絶な鍔競り合いが起き、一進一退の攻防が起きていたこともあり、〈ヴァレンシュタイン戦闘団〉に対応している余裕がなかった。加えてクラ
ナッハ戦線での戦闘で、征伐軍側は事実上の予備兵力の主力であった機動師団を失っていたこともあり、前線後方を蹂躙される危険性すらも無視せざるを得なく なっている。
無論、トウカは帰路で出くわした征伐軍の輜重部隊を襲撃し、その多くを接収しており、作戦開始以前より、糧秣や弾火薬に余裕があった。特に旗下の輜重大 隊はトウカが頬を引き攣らせるほどに強欲で、雪上魔導車輛に乗り切らないと判断して、砲弾を射耗し尽くした装甲砲兵大隊の自走砲や、突撃砲大隊の突撃砲の
車体に括り付けるという徹底ぶりであった。装甲車輛の重量増加は足回りの疲労増大を招くので避けたかったが、輜重大隊の指揮官であるヴァルリモント砲兵少 佐が頑強に主張……否、ごねたのでトウカは止む無く許可するに至る。
「そう言えば、参謀」
戦闘指揮車の椅子に腰かけたリシアが、簡易机の上に広げられた地図を片付けながら、ふと思い出したかのように呟く。
トウカは一瞬の逡巡を見せたリシアに小さく驚く。リシアという少女は中々に果断に富んだ佐官であり、躊躇う素振りを見せることが少なく、戦野に在っても 精密機械の様に状況に合わせて教科書通りの最善を選択し続けていた。奇策の使用を忌避する典型的な堅物な面は兎も角として、精神的な疲労が積み重なる戦野
で最善を選択し続ける事は極めて難しい。精神的な綻びは指揮統制の低下を招き戦力を減少させる。彼女は即決即断を旨とする明朗闊達な人物なのだ。言い淀む とは珍しい。
「……私の男になりなさいよ」黒茶の入った金属鋺を片手に、リシアがそう告げる。
狭い戦闘指揮車内で肩を寄せ合うように各部隊間の連絡を担っていた通信兵達から形容し難い声が響く。魔導通信機に頭をぶつける者がいれば、握力に優れた種族の者は送受話器を握り潰す者も出現する。
唖然とする通信兵達だが、一番驚いていた者は間違いなくトウカであった。
「……狙いは領邦軍司令官辺りか?」取り敢えず顰蹙を買うであろう台詞を言い放つトウカ。
丁重に断っても纏わりつかれれば、面倒事は面白い様に誘引されることは明白で、それならばいっそ手酷くあしらった方が互いに傷は浅いとトウカは判断する。
――ミユキにこんなことが露呈したら泣かれるな。
実家(天狐族の里)にでも帰られたら、シラヌイが嬉々として殴り込んできかねない。これはミユキの笑顔は勿論の事、トウカの命に関わる。麗しい家族愛の 発露を、トウカの顔面形状の変更を以て示すなど悪夢である。痴情の縺れで軍人が身を崩すなど余りにも笑えず、後世の歴史家は苦笑交じりに、その事実を書物 で眺めるかも知れない。
「領邦軍司令官? 笑えない冗談ね。トウカなら私を陸軍府長官か、参謀総長くらいにはしてくれるでしょう?」
くすくす、と笑うリシアの顔は酷く妖艶であり、マリアベルを思わせる佇まいで、トウカの肩に体重を預けてくる。トウカは、ふと、リシアの紫苑色の長髪を見て既視感に捕らわれた。
――マリアベルに似て……いや、そんなはずは……しかし、有り得なくは。
トウカはリシアの横顔にマリアベルの面影を見た気がした。
公式見解ではマリアベルには後継者がいないという事になっており、子を成したという話はない。しかし、トウカはトロッケンベーレン航空基地で、リシアに纏わる一つの噂を通信大隊の女性兵士達から聞いたことを思い出す。
曰く、リシアがマリアベルの娘だという噂である。
聞いた時はトウカも笑って否定した。後継者がいるならばマリアベルの蠢動は急進的なものとはならず、後継者としてリシアを擁立すれば北部貴族の自らに対 する不審の視線を交わすことは難しくない。そして、司令部勤務にして手元に置かず前線に展開するかも知れない歩兵大隊の指揮官に据えておくのは説明が付か
ない。戦死は勿論、事実が露呈した場合、誘拐や暗殺の危険性まで出てくるのは必至で、もし事実でありながらもマリアベルがリシアの生死に固執していなかっ たとしても、その事実によって起きる騒動を歓迎するはずもなかった。
だが、この横顔と、ふとした瞬間に見せる眼差しがマリアベルを感じさせる。
それが理由になるかと問われれば科学的に否であり、その噂が囁かれる最大の理由である二人の紫苑色の髪は決して遺伝するものではない。それは皇国史を見 ても分かることであり、歴代天帝の妃となった者には紫苑色の髪を持つ者が幾人かいたが、それは子孫に受け継がれなかった。あくまでも突然変異の一種ではな
いかとトウカは睨んでいたが、紫苑色に神聖なものなど感じる感性も義務もない異邦人にとって然して気にすることでもなかった。
しかし、マリアベルとリシアに血縁関係があるのならば話は単純ではない。
トウカを縛ろうと、或いは取り込もうと目論んだ可能性があるからだ。
リシアは、傍目に見ると可憐な少女である。
紫苑色の長髪に、やや釣り目気味な目元も相まって気の強い佇まいのリシアだが、一番の問題は、その優秀な軍事的手腕に比して、常に余裕を持っていないことであった。トウカを好敵手視していたことに加え、マリアベルという大きすぎる目標を掲げていたことによる焦りであることは容易に想像が付くが、今ではベルゲン強襲での大規模な戦闘を経て何か思うところがったのか、纏っていた険は綺麗に霧散している。
だからこそ、余計に魅力的に見えてしまうのだろうか。
トウカは嘆息する。
「貴官のような素晴らしい女性には、もっと相応しい男性が現れるだろう。……それに」
「それに?」空になった鋼鉄製の野戦杯を机に置いて、リシアは小首を傾げる。
トウカは、適当なところで会話の腰を砕くべきであったと後悔しつつ、いっそのこと“事実”を暴露してくれると薄く笑う。
「尻尾がない」
「??????」
一大事だ、と言わんばかりに大仰な動作で溜息を吐いたトウカの言葉に、リシアの首の傾斜が一層大きなものとなる。
「モフモフしていない女性なんてお断りだ。その上、狐耳がないなど……悪夢だ」
そう、悪夢であった、とトウカは内心で鷹揚に独語する。
天狐族の里はその点だけを考慮するならばまさに天国であった。見目麗しくも美しい毛並みを持つ女狐達の何と多いことか。ミユキに内緒で他の狐達の尻尾の手入れを行っていたことは秘密である。無論、ミユキの尻尾が唯一無二であり至上であることは疑いないが。
「…………………死ぬ?」
「早まるな、戦友よ。痴情の縺れで指揮統制を危うくする気か」
さり気なく曲剣の柄に手を乗せたリ シアに、トウカは戦闘指揮車の隅まで後退すると、そこに転がっていた死体袋……否、簀巻きにされたレオンディーネを掴み上げて楯にする。リシア最大の戦果
であるレオンディーネの捕縛という事象そのものを楯にしたトウカに、戦闘指揮車内の戦闘団司令部要員から無数の生暖かい視線が突き刺さる。猿轡を噛まされ たレオンディーネが|獣じみた(ある意味獣なのだが)唸り声で威嚇しているが、その声と魔導機関の駆動音だけが揺れる車内に木霊する。
女性を楯にするなどと憤慨する男性が世の中には多いが、女性であろうとする前に軍人足らんとしているレオンディーネに、その様な心配をしてやるほどトウ カは不粋ではない。内心ではレオンディーネも大喜びだろうと確信してすらいた。トウカは戦場に在って酷く公平な男たるを心掛けていた。この行為はその思い の発露と言える。
「えっと……刺すけど、いい? 別に獅子姫の遺体でも、私の働きは十分に評価されるもの」
いっそ、その虎耳と尻尾でも良いわよ、と続けるリシアに、レオンディーネの身体が震える。リシアの瞳は、レオンディーネの生命に何ら執着していない。物 を見るかのような眼差しであり、以前までの戦果に固執する姿勢とは大きく違っていた。ある意味、枷のない状態であるリシアに、トウカの迂遠な恫喝は通じな い。
トウカは、止むを得ないとレオンディーネを戦闘指揮車の隅に投げ捨てる。鈍い金属音が聞こえたが、トウカには全く関係のないことである。高位種は戦野に在って称賛され得る頑健ささを備えているのだ。
――こんなことになるとは……斯なる上は。
トウカは軍帽を唾の端を掴み、顔面に引き下ろす。
若手士官の間では軍帽を斜に被るのが流行しているが、見てくれを然して気にしないトウカは椅子に深く座り込むと宣言する。
「寝る。着いたら起こせ」
トウカは夢の世界への戦略的撤退を試みた。
「色男殿、歓呼の声に答えてはどうだ?」
目を開けたトウカは、いつの間にか隣に立っているザムエルに微笑む。
氷雪の代わりに舞う紙吹雪を受けて、〈ヴァレンシュタイン戦闘団〉の装甲兵器が一際高い唸り声を奏でる。領民達が知る野獣の咆哮とはまた違った鋼鉄の野獣達の蛮声は、腹の底に響き渡り、硬質な偉容がフェルゼン中央大通りを堂々と行進する。
中央大通り両脇には、数多くの領民が押し掛け、〈ヴァレンシュタイン戦闘団〉の勇士を目に焼け付けんと、警備に駆り出された予備役を動員して編成された幾つかの部隊の兵士達を押し退けんばかりに歓声を上げていた。
先頭を進む装甲指揮車輛に続くのは〈第一装甲聯隊『ラインバッハ』〉であり、そこに装甲砲兵大隊や対戦車砲大隊、対空戦車大隊、突撃砲大隊などが後続し ている。その両脇を進むのは装甲擲弾兵大隊に所属する装甲擲弾兵で、それらは歓呼の声を受けて恥ずかしそうな表情で行進していた。年若い兵士などが、努め て厳めしい表情を作ろうと注力している光景は何とも微笑ましいものがある。
トウカも訝しまれないように微笑を浮かべていたが、領民の中には鬼気迫る表情や心配げな表情で〈ヴァレンシュタイン戦闘団〉の行進を見守っている者も居る。それを察して、全ての兵士を故郷に返せなかったという事実が心に影を落とす。
トウカとて犠牲のない戦争など有り得ないとは理解しているが、目の当たりにすると遣り切れない気持ちとなる。無論、志願兵ばかりで構成された〈ヴァレン シュタイン戦闘団〉の将兵には、領地護持という“義務”があり、それを実現する上での自己犠牲の肯定は、入隊時の宣誓によって成立している。トウカは、法 的な義務を十分、果たしていた。
だが、例えそうであっても、徒に失ってよい命など一つとしてない。
自らの命令で死に往く将兵の行動の総てに、トウカは責任を負う立場に在るが、それは同時に、それらの死の総てに意味を齎さなければならないという意味でもある。何よりも徒死にしない為に。
トウカは、軍帽を被り直し、表情を改めて晒す。
「どいつもこいつも嬉しそうな顔しやがって。トウカも手を振れよ……俺達には死んだ奴らの分まで、領邦軍が健在であることを万人に示す“義務”がある」
「それは……いや、そうだな。生ある者に課せられた“義務”だ」
トウカは、少しばかり先に見える手を振り上げて歓声を上げる子供達に敬礼をする。死者に対しての心構えに関しては、死が満ちたこの世界で生まれた者達の ほうが遙かに優れている事をトウカは実感する。大日連も政治家の腐敗と国民の堕落が著しいが、それでも尚、表面上は平和を維持し続けていた。多分に先人達 の血涙の努力を消費する形であったが、それでも民族が勝ち得た平和には違いない。
平和とはこうも高級品であったのか、とトウカは思い知る。
人命を消費する形でしか築き上げられない平和に価値があるのかまではトウカにも判断が付かないが、少なくとも流血なくして平和を得ることができないこと だけは理解できる。話し合いで、全ての問題が解決できるなどという“妄言”を、トウカは唾棄していた。平和とは戦争の対価として手にすることの叶う事象な のだ。
踵を鳴らして敬礼するトウカに歓声が一際大きくなる。既に〈ヴァレンシュタイン戦闘団〉勝利の詳細は領民に伝えられており、その作戦立案者であるトウカ も、名と共に北部全体に広がりつつあった。正規軍の軍事行動であれば、これ程に克明に喧伝されることはないだろうと思えるほどに、詳細な情報の奔流はマリ アベルの意図が透けて窺えて苦笑せざるを得ない。
「あれが軍師様なんだ!」
「真っ黒だね……」
「なんか思っていたよりも小さい!」
「軍人なのにへなへなだよ、先生!」
「こら! お前ら、中佐殿になんて事を……」
未だ怖れと現実を知らない子供なのか、引率の教師と思しき人物の叱責に不満を垂れ流していた。確かにトウカは中性的に近い風貌をしており、軍装を纏って いなければ軍人とはとても思えない。平素に在っては声音もそれに似合った優しげなものであり、司令部ではトウカを一度見ただけでは文官を恐れさせた当人だ
とは思えず、問い合わせがあったことすらある。無論、作戦指導や戦野に在っては、刀剣の切っ先の如き鋭い視線と禍々しい嘲笑を以て周囲の友軍兵士ですら背 筋の凍るような佇まいへと変わる。多分に多面的な表情を持ち、口調も大きく変化するその姿に、多重人格ではないのかと、或いは精神的に不安定なのではと危 惧する者も少なくない。
つまるところトウカは軍人らしくないのだ。
無論、大和民族の控えめな体格や童顔からくるものでもあるが、軍人としての雄々しさや威厳を前面に押し立てることを苦手としているという理由もあった。 それは大和民族特有の謙虚な姿勢や奥床しさからくるものではなく、それを忌避しているからに過ぎない。良くも悪くも、トウカは“言葉”以外に己を主張する 要素が少ない人物であった。
「トウカ、顔が引き攣ってんぞ」
「見てくれで損をするという理不尽に憤っている、この女誑し」
トウカの恨みがましい言葉に、ザムエルは肩を竦めて笑う。
実際のところは、トウカは軍人らしくない佇まいから女性陣の評価をザムエルと二分している。任務でフェルゼン内での折衝で領民に姿を晒す機会に恵まれた 事から、非凡な才能を持つ人物であるとの評価を得ており、少なくとも女性からの評価では負けてはいなかった。しかし、戦人に憧れる子供達の視点からとなる とまた別であった。
「ふっ、俺を崇めていいぞ? 見ろ、この大歓声を!」拳を突き上げたザムエル。
それに呼応するかのように一際大きくなった歓声に、トウカはザムエルの野戦指揮官としての資質に憧憬の念を覚えた。男である以上、最前線で雄々しく戦い、勝利を勝ち取る者に対して憧れを抱かないはずがない。ましてや、多くの者が慕うならば尚更である。
トウカの欠点として、己を過小評価する傾向が挙げられるが、決してトウカに野戦指揮官としての才能がない訳ではなく、実際に指揮を執れば、ザムエルより も被害を軽微にし、容易に勝利を勝ち取るだろう。しかし、その過程で無条件に部下を信じさせることは難しく、まずは行動による信頼の形を示さねばならな い。
短期間で兵士の人心を掌握できる資質をザムエルは持っている。それはトウカにはない。少なくとも当人は、そう考えていた。
「わぁ、ザムエルさんだぁ。また店に遊びに来てくださ~い」
「相変わらず、軟派ねぇ」
「床の上なら百人斬りでもできるなんて言っていた人よ」
「ほら、駄目よ。あんな男を見てはいけません」
ザムエルに向けられていたトウカの憧憬は極めて短期間のうちに霧散する。ザムエルの娼館通いは有名であり、家に帰らず馴染みの娼館で日々を過ごしている ことは余りにも有名であったが、それが領民にまで知れ渡っているとは思わなかった。ザムエルらしいが、隠す気などないのだろうとトウカは呆れ返る。ヴェル
テンベルク領の風俗施設は女神の島に全てが集中している訳ではなく、一部はフェルゼン内にあることから軍務後でも決して距離的にも時間的にも通うことは不 可能なことではない。佐官であれば俸給もそれなりに高額であり金銭的な制約にも縛られ難い。
――優秀だが、手本にはできないな。
したら死ぬ。
「戦闘団司令殿、御顔の形が……もとい、色が優れないようですが?」
「うっさいわ! お前には言われたかない! 畜生め!」
ぎゃあぎゃあと叫び声が聞こえる戦闘指揮車上だが、歓声に掻き消されて車外の両脇を行進する装甲擲弾兵にすら聞こえないという有様で、二人か気兼ねなく私語をぶちまける。当然であるが、仕草は見えるので、各々が愛想を振りまきながらの罵声の応酬であった。
「なに莫迦なことしてるのよ。心配しなくても二人とも十分に変人よ」
背後から、リシアが二人の首に手を回し、抱き寄せた。
踏鞴を踏んで引き寄せられた二人は、リシアにされるがままとなる。一層、大きくなる歓声に振り払うことなどできはしなかった。
何よりも屈託のない笑みを浮かべるリシアの横顔に堪らなく惹かれたという理由が、トウカの心中を横切ったからに他ならない。余裕がなく、常に切羽詰まった頃であれば然したる感慨も抱かなかったが、現在のリシアは楔から解き放たれたかのように自由にして奔放であった。
軍人であるという強迫観念は、多感な年頃の少女の本質を容易く覆い隠す。
今のリシアは、軍人である自分と、私である自分に線引きをしていた。軍人の領分が、個人の本質を侵食することは、青春を浪費して闘争に明け暮れる若き身 にとって必然の悲劇かも知れないが、それは余りにも個人を蔑ろにした悲劇でもある。トウカもその点では類似しているが、トウカはあくまでも客観的な立場か
ら物事を俯瞰し、歴史を学び、武術による研鑽の日々を過ごした。そこに祖父の、誘導するかのような気配が感じられたが、決断は常に自身の意思の依るところ であり、また平和な時代に生まれ落ちた。
誰も彼もが多面的な要素を纏い、本質を覆い隠している。
戦乱の時代は、彼ら、彼女らが、在るがままに振る舞うことを酷く難しくしていた。
――恐らくは、戦人としての道を選ばなかったとしても後悔はしなかった。
だが、この世界では違う。大切なモノを護る為には剣を取らねばならない。銃を握らねばならない。自然と個人が取り得る選択肢が狭まることは当然と言えた。
しかし、そんな中に在って尚も戦人への道を志したリシアを、トウカは尊敬する。だからこそ、普通に少女として振る舞う時があってもいいのではないか、そうトウカは考えるようになっていた。
対するリシアも、また不安に苛まれている。
〈ヴァレンシュタイン戦闘団〉が帰路に付いてフェルゼンに到着するまでに幾日かの時間が掛かったが、そこでトウカは戦闘団内の士官達と個人的に話す機会 に恵まれた。此度の作戦に於ける最大の功労者として気さくに話しかけてくる者が多かったこともあり、トウカは多くの士官や兵士と既知となっていた。しか し、それは良いことばかりではない。
〈ヴァレンシュタイン戦闘団〉は、新進気鋭の士官を集めた戦闘集団であると言えば聞こえが良いが、実情としては有能でありながらも協調性に欠ける面々が 集められていた。予備役の大規模な動員を始めたことによって優秀な士官や下士官などは幾らいても足りず、〈ヴァレンシュタイン戦闘団〉はベルゲン強襲とい
う編成目的から機動力が重視され、それを理解できる優秀な者を多数必要としていた。その結果として士官や下士官には一癖も二癖もある者が大半を占めていた のだ。
強いて言うならば、リシアもその例に漏れない。
その最たる理由は、マリアベルの差し金という可能性ではなく、内心の怯えであった。
優秀な将校だが、同時に年頃の少女でもあるリシアは、就寝時に小さく震えていた。それが寒さからくるものではないと判断したトウカは黙ってその手を握り 締めてやるしかできなかった。だが、それで震えが収まり、無邪気な表情で安らいで眠りにつくのならば安い物だとトウカは割り切っていたのだが、それで軍人 としての枷まで外れてしまったのかトウカに対して花の咲く様な笑みを見せるのだ。
――まさか吊り橋効果というものか?
戦野という場所は、これ以上ない程の吊り橋と言える。実際、皇国陸海軍では部隊内での婚約は然して珍しい事ではなかった。
これにはトウカも戸惑ったが、囃し立てる士官と下士官の頭を片端から叩きつつも、それに対して深く考えることはしなかった。戦場では誰しもが想いを昂らせて、一時の感情に身を任せることがあり、一過性のものに過ぎないならば、時を置けば元に戻るとトウカは判断していた。
トウカとて、リシアが横で就寝していなければ、その様な気は回さなかっただろう。戦闘団の運用に大きく関わるザムエルやトウカ、リシアは戦闘指揮車で仮 眠を取ることにしていたが、ザムエルは戦闘指揮車の助手席で就寝しているので、実質二人だけで戦闘指揮車内に取り残されることになる。意識するのは自然と 言えた。
「あら、不機嫌な顔ね? 私に不満でもあるわけ?」
「ないぞ? ああ、全くない」
ザムエルを手放し、トウカの腰に手を回して抱き寄せたリシアが、手を振り上げて歓声に応じると、それは一際大きなものとなり、トウカやザムエルの時とは比較にならない声量となって響き渡る。
実はリシアはヴェルテンベルク領邦軍の中でも、特に人気のある野戦指揮官であった。最悪の状況に在って、常に最善の手段を選び続けるその手腕もあるが、何よりも人気の理由となった理由は別に二つあった。
一つは、その皇都中央劇場で主役となれるほどの美貌であり、可憐さと凛々しさを同時に兼ね備え、男女からの支持が高かった。やや釣り目であることが凛々しさを際立たせ、手足が長いことも相まって軍装に映える為に、今でも女性からの黄色い歓声が飛び交っている。
二つ目は、やはり紫苑色の髪であるという点であった。建国の色とも称されるだけあって、それを纏うかのように靡かせるリシアに対する憧憬は並々ならぬものがある。そこに装虎兵士官学校から男を引っ叩いて舞い戻ってきたという点も、話題性があり評価が高い。
リシアは、老若男女問わず総じて評価が高いという稀有な将校なのだ。
今回の一件による活躍もあり、トウカとザムエル、リシアは北部蹶起軍にあって重要な地位を占める事になることは疑いない。マリアベルが〈ヴァレンシュタ イン戦闘団〉所属であることを許容したという事実は、暗にヴェルテンベルク領邦軍でそれ相応の地位に就かせるという静かなる意思表示に他ならないことは、 武官だけでなく文官も察していた。
無論、北部貴族の領邦軍総てを糾合し、一軍とする事を知っている者でなければその程度の想像が限界だろう。しかし、トウカはベルセリカを頂点とした蹶起 軍の再編編制の目論見に一枚噛んでおり、蹶起軍の行く末を理解していた。そもそも、トウカが発案し、進言したのだから知っていて当然である。
だが、マリアベルとの繋がりがこれ以上、露呈する事態は避けたいと言う思惑もあり、この提案は実行時にマリアベルに依るものとされることが二人の間で取り 決められていた。一度、否定しておいて実行の是非をマリアベルは明確にはしなかったが、興味津々なのはトウカの目からみても明白である。時期としては今を 置いて他にはない。
「なによ、可愛い女の子が抱き付いてきてるのに考えごと? マリア様が何か企んでいるとか思っているんでしょ?」
笑い掛けてきたリシアにトウカも曖昧に笑う。腕に当たる胸の感触は、ミユキに比べて遙かに慎ましやかだが、男としては無視し得ないものがある。当然、口には出さないが。
政治的な駆け引きを理解してはいないリシアだが、軍事的な勝利の影では政治的な蠢動が怒ることは理解していた。ましてやそれが大勝利であり、それを利用 するのがマリアベルであるとなると、大きなうねりが訪れることは必至であると考えるのは何ら不思議ではない。彼女が好機を逃すなど有り得ないという、信頼 と信用からである。
「あら、まだ考えるの? ……仕方ないわね。この戦の立役者に御褒美をあげる」不意にトウカの襟首を掴んだリシア。
思わず一層引き寄せられたトウカの唇に柔らかい感触が伝わる。
至近で靡く紫苑色の長髪に、トウカの気が逸れた一瞬の隙を突いた電撃戦であった。
重ね合わされる二人の唇。
驚きのあまり後ずさるトウカだが、貪るかのように迫るリシアは自らの唇でトウカの唇を塞いだままに戦闘指揮車の側壁へと押しやる。行進の為に、側壁の上面半分が折りたたまれた上面開放式の戦闘指揮車の端に追い遣られたトウカは、上半身が反り返り大通りに突き落とされんばかりに追い遣られ、唇を貪られる。
《ヴァリスヘイム皇国》という国家は、ヒトであっても獣であっても、共にどちらにもなれるのだ。
正に今のリシアは人間種でありながらも貪欲に求める獣であった。
一層、大きなものとなる歓声。或いは、一部の悲鳴。
大通りに落ちたトウカの軍帽が風に吹かれて、人波の影に消える。
不意に思い出したかのように、リシアが唇に付いた唾液を舌で掬い取り、トウカから顔をゆっくりと離す。
謳うように、それでいて妖艶に呟く。
「私は貴方を信じるわ。この腐敗した世界で。だから……」空を見上げたリシア。
トウカも釣られるように珍しく蒼穹の色をした空を見上げる。
確かに、この世界は腐敗しているかも知れない。だが、それでも意欲的に、情熱的に生きようとする人がいる。それはとても素晴らしい事だとトウカはこの 時、真の意味で思えた。大日連では平和が当然であり、それに胡坐を掻いて先人達の苦労と血と涙の結晶である多くを食い潰す形で治政を紡いでいる。
そう、この腐敗した世界に在って、人々は凛冽とした光を放っていた。或いは腐敗こそが、ヒトが真に輝く為の条件なのかも知れない。だとすればヒトは何と罪深いのか、そう思えてならない。
――でも、だからこそ、俺は、この大地で生きたい。思うがままに、求めるままに。
トウカはそう願ってしまった。
「愛しい人、どうか……どうかずっと傍にいて」
そんな事を言われてしまえば心が揺れる。
だが、トウカは頷けない。
ミユキの横顔を思い出したからであった。
リシアが何を想い、何を考えてトウカを求めたのかは分からないが、それが真剣であることはその鮮烈な瞳が物語っていた。
異邦人は、言葉を紡げなかった。