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第八五話    〈剣聖ヴァルトハイム〉型戦艦

 

 

 


「いや、心が洗われた気分だ……身体もだが」

「主様、そういうのは二人だけの時に言ってくださいよぅ」

 トウカは、ミユキの言葉に小さく笑みを零す。

 朝の市場を二人で手を繋いで歩きながら微笑む二人だが、周囲の者は気にも留めない。トウカは先程、服屋に駆け込んで入手した私服に着替えている。その上、遮光眼鏡(サングラス)を掛けているので、朝市の活気も相まって領民は気付きもしない。

 腕に絡み付いたミユキは、周囲を見回して屋台から食欲をそそる匂いの誘惑に狐耳を動かしている。朝食目的で朝市に訪れたので、トウカも周囲を見回すが、屋台に並ぶ首だけとなった謎の巨大動物に恨みがましい目で見られた気がしてそっと視線を逸らす。

「あれなんて美味しそうですよ!」ミユキが魚の燻製を指差して尻尾を振る。

 トウカは足に当たる尻尾に苦笑しつつ、どれだけ燻製が好きなのかと舌を巻く。

 最近、ミユキが何処かで捕まえてきた鳥や魚を燻製にしている事は情報部経由で伝わっていた。無論、それはミユキを監視していた訳ではなく、情報部として 運用されている屋敷の一角が、丁度、ミユキが燻製をする庭先にあり、臭くて叶わないから何とかして欲しいという要請から発覚したことである。トウカの御願 いでミユキの食糧備蓄活動は専ら車輛整備倉庫横の一角に変更されていた。噂では整備班の面々と怪しげな食糧生産を行っているという噂もあるが、誰かに迷惑 を掛けたという話は聞かないのでトウカは放置していた。

「朝から燻製か……」

 朝から重いとは言葉に出さないが、ミユキは三度の食事を全力で食べるので、トウカは付いていけない部分があった。野生の本能がそうさせるのか、軍人よりも食べられる時に食べておけを実践していると言える。

 ――それでいて、出るところは出ていて引っ込むところは引っ込んでいる……世の女性方は……いや、高位種族であればある程に容姿に優れた者が多い傾向にあるのは、やはりそういうことか。

 トウカは、過ぎ行く特徴的な獣耳や尻尾を持つ者達に視線を向ける。

「主様、他の女の子を見るのはいいけど、本気になっちゃヤですよ?」

 右腕に擦り寄ったままに、ミユキが茶目っ気を含ませた表情で、肩に頬を摺り寄せる。

 そんな姿に、トウカは内心で驚く。

何時もならば剥れるところであるが、今のミユキは然して気に留めた風でもなく、余裕すら感じさせた。一夜の体験はミユキにとっても、心中のナニカを大きく変える体験となったのだろうことは疑いない。それは、トウカとて例外ではないのだから。

「随分と余裕だな? 何処かの女性の尻を追い掛けて居なくなってしまうかも知れないぞ?」

 この愛らしくて堪らない仔狐を困らせたいという欲求から出た言葉であったが、口にした後で遠回しに不倫をするという宣言になると慌てて顔色を窺うが、ミユキはくすりと小さく噴き出す。

「大丈夫だもん。私は主様が最後には私のところに還ってくるって()っていますから」

 首を傾げて不思議そうに呟いたミユキに、トウカは呆気に取られる。

 無条件の信頼というものかも知れないが、ここまで大らかになるものなのか、とトウカは天を仰ぐ。今までの気苦労は一体なんだったのかと思わざるを得ない。

 ミユキに生じた余裕は、トウカにとって大いに歓迎すべきものだが、何処かマリアベルの奔放さとベルセリカの闊達さを窺わせた。

 ミユキにとって、マリアベルとベルセリカとは尊敬に値する年上の姉貴分なのだ。無論、それをトウカは承知しており、年上というには少々、年齢が行き過ぎ ているのでは?などということは決して口が裂けても言わない。実際のところ、ミユキからすると潜在的に恋敵の可能性を持つマリアベルとベルセリカには憧憬 の感情と、警戒の視線という相反する感情と警戒を抱いていたのだが、トウカはそれを知らなかった。

「可愛いなぁ、俺の仔狐は」

 トウカは、ミユキの腰に手を回して抱き寄せると顔を近づける。ミユキが黙って目を瞑ったので、トウカすかさず狐耳を甘噛みする。

 仄かな獣臭と甘い薫りが、トウカの心を満たす。当人にも理由は分からないが、ミユキの鼻孔を擽る薫りは、トウカを何故か落ち着かせる。精一杯に瞼を閉じて、トウカの唇の感触に耐えるミユキの蚊の鳴く様な呻き声もトウカを駆り立てる。

 だが、耐えられないと思ったのか、ミユキは尻尾でトウカを押し退ける。ミユキは振り向かないが、赤く染まったうなじを見れば、鈍いトウカでもあってもその表情を想像することは容易い。

「さぁ、行こう。そろそろ腹拵えをしないと、朝食抜きになる」

「うう~、主様は変態です……」

 何事もなかったかのように自身の手を取り、再び歩き始めたトウカに、ミユキが唸る。周囲の屋台や客からは温かい視線や嫉妬の感情など様々な視線と感情が飛来してくるが、トウカは気にも留めずに歩く。

 まさか、一連の戦闘の立役者が朝市で女性と戯れているとは思わないだろうという打算からであった。そもそも、トウカの顔はフェルゼンの領民のほとんどが知らない。軍装と階級章さえなければ気付く者はおらず、文屋(マスメディア)が 発展していない以上、個人の人相が多くの者に周知されるには、それ相応の時間と理由が必要となる。その上、ヴェルテンベルク領行政府は、軍指揮官が必要以 上に民衆の注目を浴びることのないように注意を払っている。個人の英雄化を避けようとするマリアベルの意向と、部隊指揮官が政治暴力主義(テロリズム)の対象になることを避ける為であった。遠目に窺えるだけの凱旋式だけでは、未だ人相が流布することがないのだ。

 トウカもまた例外ではない。

 しかし、同時にトウカは戦火と共に名前だけは頻りに喧伝されており、マリアベルの意向に関しても例外的な部分が多分にあった。実は文官はこれに頭を悩ま せており、トウカに対してどう接してよいものかと非公式ながらも協議まで開かれていた。名君でありながらも暴君であるマリアベルに正面切って意向を聞くわ けにもいかず、愚痴と酒が入っている状態の上に、高級割烹店の個室での会議なので、最終的にはぐだぐだとなるのだが、それはまた別の話。

「朝から肉はやめようか……あれなんて良さそうだな」

 トウカは目に付いた屋台の一つで煮え立っていた汁物(スープ)に興味を持つ。透明度の高い汁物には野菜や肉が浮いており、そこには出汁を取る為か骨付き鳥肉も見られた。そして、横の俎板(まないた)に置かれた白い米粉麺を見るに、《印度支那(インドシナ)侯国》のフォーの様なものなのだろう、とトウカは判断する。《大日本皇国連邦》の連邦構成国の一翼を担う国家の料理として、トウカも幾度も口にしたことがあった。

 最近、トウカは気付いたのだ。

 市場の屋台ならば眼前で調理しているので、形容し難い背徳的で冒涜的な生物が入っているか暫く見ていれば確認できる。この点は死活問題なので、市場での 食事はトウカにとって日常茶飯事となっていた。東南亜細亜地域は、東亜細亜地域とは違い外食が盛んであるが、或いはヴェルテンベルク領も同様であるかも知 れない。

 実際のところ、工業地域にして鉱山地帯もあるヴェルテンベルク領の特徴に根差した理由からであった。

 工場勤務や鉱山勤務の肉体労働者達が市場で朝食を取り、ついでに昼食も買って職場に赴くという流れができているのだ。膨大な数の労働者の胃を満たし、それぞれの嗜好に合わせる。尚且つ、量と濃い目の味を求める彼らであるが、その規模ゆえに屋台の種類は数多い。

「主様って、最近、私と一緒に御飯食べてくれないと思っていましたけど、屋台を巡っていたんですね」

 不満顔のミユキに、トウカは「申し訳ない」と謝る。

 ミユキの食事は偏っているので、トウカは一緒に食事をすることを躊躇っていた。自前で狩猟することが当然なミユキは、フェルゼンの外で動物を捕まえて自 分で捌き、燻製にしたり保冷庫に保存したりしている。肉類を刺身にして調味料で食したりと工夫はしているようだが、謎の軟体生物が相手となるとトウカの食 欲は酷く減衰する上、恋人がその様なものを食べている瞬間を目にするのは百年の恋も冷めようというもの。

「野菜も食べないと駄目だぞ」

「誤魔化しても駄目です! これからは何時も一緒に御飯しましょうね」

 決して誤魔化している訳ではないが、ミユキの目にはそう映ったのだろう。怒っていますと頬を膨らませていた。

「誤魔化している訳ではないのだがな。御前の御母堂からも頼まれたもので」

「主様は、私の料理が嫌なんですね」

 焼く、切る、煮るだけの調理を果たして料理と呼んで良いものかとトウカは思うのだが、狐が食しても問題ないものであっても、人間が食べると腹を下すものとて少なくない。新鮮だと言っても血抜きをしていない肝臓(レバー)を生で口にするのは気が引けた。曰く、喉越しが良いらしいが、人間種にはとてもできない所業である。この世界にサルモネラ菌がいるならば一大事である。

「そんなことはないが……」

 歯切れの悪いトウカに、ミユキがびしっと人差し指を向ける。

「残念ながらネタはカラッと狐色に揚がってます!」

 当人は格好良く決めた心算であろうが、それは微笑ましいものでしかなかった。トウカは差し出された人差し指を口に含んで小さく笑う。

 驚いて咄嗟に手を引込めたミユキ。

 屋台の店主が、店の前でいちゃつくな、と言わんばかりに睨み付けてくるので、取り敢えず二つ貰えますか、と注文し、ミユキへとトウカは視線を巡らせる。

「主様は意地悪です……」

「男の子はな、好きな女の子には意地悪をしたくなるらしいぞ?」

 何処かでそのような話を聞いたことがあるが、ミユキを相手にしているとその気持ちが良く分かるとトウカは考えていた。ミユキの場合は例え表情で澄ましていたとしても、狐耳と尻尾が激しく自己主張するので期待を裏切らず、見ていて飽きない。

「……意地悪です」

 不満を漏らしつつも尻尾を大きく揺らして、ミユキが唸る。

 不満を垂れつつも満更ではないという意志表示であることは明白である。女性の心の機微に疎いトウカにとっては、ミユキの狐耳と尻尾はその内心を知る上で の指標であり、逆に尻尾や狼耳があっても感情を制御し得るベルセリカなどは読み取れない。マリアベルに関しては尻尾もなければ獣耳もないので個人的な心情 など読み取ることは不可能であった。

 二人の視線が交差する。

 しかし、それは横から差し出された丼に遮られた。屋台の主から差し出された丼を受け取ったミユキを見て、トウカは屋台の主に小銭を渡す。むすっ、とした表情に二人は引き下がるしかなかった。

 市場の端に設置された席に二人は腰を下ろし、米粉麺を啜る。薄めの味付けだが鳥の脂がよく滲み出ており、さっぱりとした米粉麺にしつこくない程度に絡み 付いて自己主張している。薄く切られて添えられた鶏肉も、かなり長時間煮込まれていたのか柔らかく、口の中で細かな肉片へと砕けていくかのようであった。

「美味いな……」

 食文化に関しては大日連と遜色はなく、今二人が使っている箸も外観上は良く知っているものであった。神州国からの文化流入であろうことは容易に想像できるが、その大元の発想はどこからやってきたのかと思わずにはいられない。

「これも美味しいですけど薄いです……。これを入れましょう」

 ミユキが衣服の衣嚢(ポケット)から円筒状の木性容器を取り出す。それには標記が記されているのだが、見たこともない単語に首を傾げる。ミユキは食通と言うには少々、食材本来の旨味を楽しみ過ぎているのだが、フェルゼンへ至る道中でも幾つかの調味料を背嚢に忍ばせていた。

「これはお魚の御醤油なんですよ。フェルゼンの名物です。実は最近、すっかりお世話になっちゃってるんです」

 満面の笑みのミユキに、トウカは引き攣った笑みを見せる。

 恐らくは魚醤の類であるとは理解できるが、トウカとしては想像も付かない味である。大日連にも魚醤は何種類か存在するが、未成年は大抵口にする機会に恵 まれることはなく、そもそもトウカは薄味を基本とした京都の出身であり、味の濃い魚醤には特に縁がなかった。《アイヌ王国》海軍の北太平洋艦隊司令官が訪 れた際、受け取った“しょっつる”は美味であったが、大量に摂取できるものではなかった。

 魚醤とは、小魚を大量の塩と共に樽に漬け込み、自然発酵させるものもあれば、麹や科学的な酵素剤を投入して人工的に発酵させるものもある。熟成が進む毎 に本来の魚の形を失い、全体的に液状化が進む。その液を漉した後の液体が魚醤なのだが、熟成度は地域や気候で大きく異なり、磯の香りの強いものから発酵し た匂いの強いものも少なくない。

「臭うが?」

 トウカの不満の声を黙殺したミユキが、二つの丼に魚醤を投入する。

 そう、二つの丼に。

 自分だけでなく、トウカの丼までに問答無用で魚醤を投入してくれたミユキに、それは行儀(マナー)がなっていないと嗜めようとしたが、可愛らしく小首を傾げられてそれは頓挫する。惚れた男の弱みであった。
 ――ここで無粋なことを言っては、目玉焼きに醤油を使うか、ソースを使うかで喧嘩をする新婚夫婦の轍を踏むことになりかねない。

 巷で噂の調味料から生じた喧嘩の顛末は、トウカの耳にも届いている。否、事実かどうかは別としても、ミユキの善意を断る度胸などトウカは持ち合わせていなかった。

 ずるずると米粉麺を啜るトウカ。

 美味しいので文句はない。結婚すらしていないにも関わらず、調味料で喧嘩するほどトウカは度胸を持ち合わせてはいないのだ。ミユキの前では、度胸は幾ら張っても足りないという怪現象に眉を顰めつつ、盛大な音を立ててトウカは米粉麺を啜る。

「ほら、ミユキ。肉をあげよう」

 トウカの差し出した鶏肉の塊に、ミユキの狐耳がぴんと立つ。

 窺うような上目遣いに、トウカは苦笑しつつも箸に摘まんだ鶏肉を、更にミユキへと進める。一瞬の逡巡を見せたミユキだが、直ぐに口を近づけてぱくりと食べる。

 だが、ミユキは箸まで噛んだまま離さない。

 強いて言うならば、もぐもぐしていた。

 離すまいとするミユキに、箸を引込めようとしていたトウカは、どうしたものかと苦笑する。

 指先を舐めてくる猫を相手にしているような感覚に、トウカは曖昧に笑う。どう反応したらよいのか判断に迷う光景。

 暫くの間を置いて鶏肉を飲み込んだミユキが顔を離す。

「……美味しいです」

「このまま連れ込み宿に行きたくなる光景だがな」

 悪戯に成功したと言わんばかりの仔狐の笑みに、トウカも微笑む。 

 それは自然な笑みだと、口元を綻ばせてから気付いた。

 この世界に堕ちて既に半年近いが、心の底から笑えたと確信できた瞬間には、何時も傍にミユキがいる。対して他の笑みを浮かべる時は、その多くが嘲笑と戦 意の発露から生じるものである。平時に在っては笑うことなど滅多となく、常時微笑んでいる様に見えるのは対外的な表情に過ぎない。報告書を携えて執務室に 訪れた文官の中には、そんな微笑みに威圧感を受ける者も多いと聞いていた。

 周囲の視線が集中しているのを感じつつも、トウカは動じない。まさか、朝から市場で恋人の逢瀬を敢行している者が領邦軍代将だとは思うまいという確信 と、私服であれば然して目を引く様な容姿ではないと理解していたからであった。唯一の懸念はミユキであり、街中では珍しい狐族ということもあるが、それ以 上に整った容姿でありながらも愛らしさを伴ったその姿は、男女問わず多くの者の視線を惹き付けて止まない。見ていて微笑ましくなる女性というのは、やはり この世界に在っても稀有な存在なのだ。

 そして、何よりも、ミユキはトウカが想像している以上に顔が広く、時折、過ぎゆく者と挨拶を繰り返していた。交友関係は屋敷で働いている軍属の侍女に始まり、大通りの洋餅(パン)屋の頑固親父に、服飾屋の看板娘、多種多様な種族でもある下町の子供達など統一性がなく、ミユキがフェルゼンを自由気儘に楽しんでいることが分かる。

 幾人かの此方を凝視していた男を一瞥して追い払ったトウカは、ミユキへと向き直る。既に米粉麺を食べ終えて、丼の汁を飲んでいるミユキ。汗で首筋に張り付いた金糸の如き長髪の一部が妙に艶めかしく、トウカは視線を逸らす。

「そう言えば、〈剣聖ヴァルトハイム〉の艤装が終わったので公試が始まるのだが……」

「あの、御師様の名前の付いたおっきな船ですよね? 超戦艦って新聞に書いてました」

 適当に話題を吐いて誤魔化しに転じたトウカの言葉に、ミユキが興味を示す。

 新造艦でもある〈剣聖ヴァルトハイム〉型戦艦二隻は、宣伝戦(プロパガンダ)の中核としてその偉容をシュットガルト湖上に誇示し続けていた。外装に関しては最優先で整えられつつあり、主砲と副砲、高角砲に関しては完全に稼働状態にある。現在は対空機銃と魔導陣を刻印(エッチング)した複合装甲の取り付け、そして内装と設備の搬入が同時に行われていた。その上、弾火薬や食糧の搬入まで同時並行で行われている。それには門外漢であるはずの工兵と輜重兵までもが投入されていることからその非常識さが窺えた。

 領邦軍代将となり、最初に上がってきた報告書には、マリアベルの厳命と現場の状況の板挟みとなっている佐官達の魂の叫びが記されていたのだ。染料(インク)の滲みは涙に依るものか汗に依るものか……どちらにせよ碌なものではないだろうとトウカは予想していた。状況を改善し、その苦労を労わねばならない。

 ――最近、この手の仕事ばかりだ。マリアベルは金銭で解決しようとする。良くない傾向だ。

 ヴェルテンベルク領邦軍の俸給は、末端の兵士であっても他貴族領邦軍の倍以上もあり、正規軍人からも羨望の眼差しを以て見られている。故に精鋭(エリート)意識が醸成されて士気も旺盛である上、金銭的余裕から消費も増大し、その組織規模も大きいことからヴェルテンベルク領の経済の一端を担っていた。

 対するマリアベルもトウカに対して、人の意志をあまりにも無視し過ぎているという点を気にしていたのだが、双方共に互いの懸念の一端はある程度把握しつ つも、善処しようという気は全くない。それは、どちらもが己の遣り様を最善だと考えているからであり、その辺りは似通っていると言える。

 つまり……

「ミユキ。大きな船でシュットガルト湖の遊覧なんてどうだ?」

 ……己の主張を正当化することを得意としている点は同様と言えるのだ。

 無理であれば誤魔化し、隠蔽し、擬装する。

 〈剣聖ヴァルトハイム〉型戦艦二隻の公試は既に翌日に迫っており、抽選で当選した領民を搭乗させての大規模な式典が計画されていた。

 内装が後回しである為、調理場には野戦炊事車輛を分解して持ち込み、水兵の寝台(ベッド)は 可燃性の木造二段という急造ぶりである。長期間の航行は未だ不可能な状態であった。これほどまでに公試を急ぐのは、東部貴族への砲艦外交とフェルゼン近郊 での陸戦時に湖上の望ましい位置に遷移し続けての艦砲射撃による支援を意図してのことであり、長期間の作戦行動は切り捨てて考えられている。

 小首を傾げたミユキ。

 良いのだろうかという懸念があるのかも知れないが、戦艦とは元より権威的な意味合いが強い決戦兵器であり、示威行為こそが最大の目的である。直接機密に 関わるものでさえなければ衆目に晒されることは問題とはならず、寧ろ外交の延長線上として歓迎すべきことである。ヴェルテンベルク領は地政学上、運河を防 衛できればシュットガルト湖に侵入されず、領地が艦艇によって攻撃を受けることがないことからも、水上打撃戦力の運用は限られたものとならざるを得ない。

「でも、御仕事の邪魔になるんじゃ……」

「領民も乗せる。狐が混じったところで問題はないだろう。そもそも貴族の私設軍たる領邦軍に、軍の様な厳正な規律は領主の前では無きに等しい。だから、領主のお気に入りを止められる者はいないだろう。それに……」

 トウカの言葉に、ミユキは頷く。

 ミユキ自身も諜報部に出入りする建前上、軍属という立場を非公式ながら得ているが、実際はマリアベルの共をすることが多く、軍高官の間でも顔は知られている。

「それに?」狐耳を立てた仔狐が問う。

 何を今更と言われるかも知れないと、思いながらも、空になった丼をそのままに立ち上がったトウカは、ミユキに手を差し出す。

「御前は俺の恋人だ」

 ヴェルテンベルク領邦軍水上部隊に於ける最高指揮官たるサクラギ・トウカの命令に、艦上に在って抗う者などいはしないのだ。

 手を取り、立ち上がったミユキに、トウカは笑みを零す。

 ミユキの手を引いて抱き寄せたトウカ。

 その腕に確かに感じられる仔狐の温かさに異邦人は安らぎを感じる。自分の居場所だと思える仔狐は異邦人にとって世界の起点なのだ。周囲から向けられる好奇の視線に構わず、トウカはミユキを力一杯に抱き締めた。










「軍港内の状況はどうなの?」

「そうだね……ハルティカイネン大佐。既に駆逐艦〈ハイドラ〉、〈ティーレ〉、〈ラウス〉、〈トロデア〉の四隻が入港している。一五〇〇には哨戒に出てい た軽巡洋艦〈シュテス〉、重巡洋艦〈オルテンブルク〉も寄港する。軍港防衛の為、二個歩兵大隊が付近に展開を開始しているので、破壊工作などへの対応は容 易だろう」

 リシアは、中年の海軍第一種軍装を身に纏った中年の男性の言葉に鷹揚に頷く。

 皇国貴族の保有する水上部隊は、領邦軍であっても国際法的には皇国海軍として扱われる。これは皇国本土を離れ、捕虜となった際の条約適用を視野に入れた ものであり、作戦行動範囲が国内に留まらないことを意味している。無論、条約を批准している国家など極僅かであり、国際機関が成立していない以上は空手形 に近いが、官僚の建前は軍事力ですらも例外とは成り得ないのだ。

「リンデマン大佐、正直に聞くけど、この艦は動くの?」

「辛うじて。しかし、本艦と二番艦の定員を確保する為、定員数を割っている友軍艦もいるからね。でも、郷土防衛の熱意に燃える商船学校の生徒が繰り上げ卒業でこれの補充に当てられている上、商船の乗員なども志願しているから長期間の航海でなければ」

 優しげな笑みを浮かべた中肉中背のリンデマンは、軍人というよりも教師に近い佇まいである。実際、領邦軍士官学校では、海兵科で教鞭を取っていたことも ある。リシアも敵前強襲上陸の可能性という研究内容に引かれて領邦軍士官学校時代に海戦科の講義を拝聴したことがあり、その際にリンデマンとは既知を得て いた。

「まさか、君が水上部隊の参謀長になるとはね。……正直なところ畑違いも甚だしい。領主様の人事に口を挟む訳ではないけど目的が見えない」

「簡単な話ですよ……リンデマン“艦長”」

 殊更に“艦長“という言葉を強調するリシア。

 檣楼上部に配置された防空指揮所から、陽光を照り返して輝くシュットガルト湖を目に会話する二人。周囲は人払いが済んでいるので気兼ねなく話ができる。巨大な測距儀と回転を続ける魔導探針儀の複合的な構造物に背を預けたリシアは、遠くフェルゼンの方角を見つめた。

「艦長と言われるのは気恥ずかしいものだね。……誤魔化したりしてはいけないよ?」

 嬉しそうに軍帽が動くリンデマン。黒狼族特有の漆黒の狼耳と尻尾は、其々が軍帽と軍袴に隠されているので、感情が出ると蠢くのだ。戦闘艦艇は防水隔壁や艙口(ハッチ)などの獣耳や尻尾を挟みやすい個所が多いので、基本的に軍装内に隠すことができるように製作されており、皇国海軍の軍帽が他国の海軍から見て、必要以上に大きいのはそれが理由であった。

 リシアに正式に与えられた職級は、ヴェルテンベルク領邦軍艦隊参謀長である。

 艦隊の参謀長とは、艦隊司令長官を補佐する参謀幕僚の取り纏めを担う役職である。首席参謀を直下に従え、砲術参謀、水雷参謀、航空参謀、通信参謀、航海参謀、機関参謀、戦務参謀、政務参謀などを統括する立場は、司令長官の地位に次ぐものであった。

 艦隊そのものが派閥であり自己完結した集団であることから、艦隊司令長官を王として、各参謀を政務官、或いは軍事を司る家臣団として捉え、一つの国家と して例えられることも多い。無論、中には家族だと例える者もいるが、それも間違いではない。自己完結した集団であることに加え、艦艇の一隻一隻が外洋に出 れば乗員にとっての領土となり他国の領海に在っても艦内は治外法権で自国の法律が適される。結束が強くなるのは当然と言えた。

 故にリンデマンが艦隊に所属する将兵の生命に関わる可能性を捨て置くことはない。逆に、だからこそ艤装委員長を経て新造戦艦の初代艦長という重責を任されたとも言える。

 リシアは溜息を吐く。

「政治的な意図……この程度の艦隊では海軍との衝突は不可能。だからこそ政治的な運用を十全に行えるように、あの男が艦隊司令長官に就任するの」

 リンデマンの疑問を他の参謀達も抱いているであろうという確信と、何よりも艦隊司令長官となるトウカが、それらの者達と上手くやっていけるのかという不安にリシアは苛まれた。

 トウカは強権的なのだ。

「そうか……やはりか。薄々は気付いていたが、領主様は我が艦隊に道化になれというのか」

 気落ちした風ではないが、困惑の表情を浮かべたリンデマンの気持ちは、リシアにも痛い程に分かった。

 方や艦隊旗艦となる新造戦艦艦長に、方や参謀の取り纏め役も担う艦隊参謀長。

 二人は、トウカと各参謀の板挟みになるだろう。

 ましてや新造戦艦を基幹戦力としているにも関わらず、華々しい戦功をあげる機会に恵まれないことが決まっていては、軍人として忸怩たる思いを抱くことも止むを得ない。リシアも、トウカと出会うまではそうだった。

「互いに苦労しましょうね、リンデマン艦長」

「この艦が建造中止となって、ようやく再開して公試まで漕ぎ着けたと思ったら、次は人間関係の接着剤……。いっそ、岸壁の補強にでも使って貰いたいものだね」

 珍しいリンデマンの皮肉に、リシアは苦笑する。

 確かに、これからの心労を考えると、リシアもそれを否定できない。寧ろ、大いに同調できる皮肉である。トウカが、この辺りの不満も視野に入れてくれていることを祈るばかりであった。

「ところで、貴官の私室の変更についてだが」

 ふと思い出したかのように、リンデマンが話題を変える。

 リシアは、トウカの艦隊司令長官就任と同時に、艦隊参謀長に任命され、現在は新造戦艦二隻を可及的速やかに稼働状態にする任も負っていた。当初、領邦軍司令部から受け取った辞令には、新設される戦闘団(カンプグルッペ)の 指揮官に任命するとなっていたのだが、ステア島から帰還した後、マリアベルはその人事を現在のものへと変更させた。本来であれば艦隊勤務者や艦隊指揮に精 通した者がなるべきだが、リシアが収まることになった。然して別段の非公式な指示を受けている訳ではなく、その真意はリシアに推し量れるものではない。

 だが、命令は命令。麗しの暴君の龍の一声なのだ。否やない。

 リシアは新たな辞令を受け取って直ぐに、軍港に停泊する艦隊へと足を運んだ。所属艦艇の艦長や艇長、戦隊司令官への挨拶回りから始まって、物資や弾火薬、食糧の調達。人員の配置変更、果ては海兵と工員の間での大乱闘の仲裁など八面六臂の大活躍?を見せていた。

 そんな書類の山脈ができそうなほどの決済を乗り越え、喉が枯れんばかりに叫び続けたリシアだが、中にはどさくさに紛れて極めて私的な命令も発令されている。

 その一つが参謀長に宛がわれる私室の変更であった。

 正確には艦隊司令長官室の横に配された部屋への変更。元来、皇国が建造する艦艇で艦隊司令部能力を付与させたものは、作戦会議室の付近に参謀達の私室を作ることが通例であり、それはこの〈剣聖ヴァルトハイム〉とて例外ではない。

「勝手にそうした配置換えをするのは如何なものかと思うよ?」

「書類が多いから、見逃してくれると思ったのに。残念」

 恐らく申請書は、リンデマンの手元で止まっているのだろう、とリシアは舌打ちを一つ。

 参謀長や艦隊司令長官は艦隊に対しての命令権を持つが、艦艇一隻一隻についての指揮権は艦長に優先され、艦内の人員配置も例外ではない。

 大量の書類に紛れ込ませておけば、流れで署名(サイン)するだろうという淡い期待があったのだが、ザムエルでもない限りそうはいかない。

「艦隊司令長官と参謀長が親密であるという事は艦隊にとっても有益だと思うわ」

「盛りの付いた小娘が艦隊司令長官を危険に晒すなど認められないね」リンデマンが好意的な笑みのままに毒を吐く。

 トウカとリシアの関係については、凱旋時の遣り取りによって様々な憶測が流れているが、そのどれもが時の人に対する背鰭と尾鰭の付いた噂話に過ぎない。 二人の関係は曖昧であり領邦軍の同僚に過ぎず、多忙な事も相まってトウカのことを詳しく調べることすらできていない状況では手の打ちようもなかった。恋で あれ戦闘であれ、事前の情報収集はその成否を決めるほどに重要な要素なのだ。

 つまり、リシアはいまだトウカに対して恋の行動を取っていない。

 だからこそ、明日、トウカが〈剣聖ヴァルトハイム〉に訪れるまでに、この鋼鉄の戦船をトウカに対する檻にして待ち構えねばならないのだ。

「まぁ、発情期の紫娘の戯言は置いておくとしてだね」

「……笑顔の毒舌は相変わらずですね、教官殿」

 領邦軍士官学校における海兵科とは、水上部隊に関わる人員を育成する兵科であるが、領邦軍艦隊小規模な為に海軍士官学校のように砲術科や航海科などのよ うに複数の科に分かれていない。だからこそ領邦軍士官学校海兵科で教鞭を執ったリンデマンは複数の科に精通した艦艇指揮官となり、新造戦艦を任されるのは 当然の流れと言えた。

「艦隊司令長官は信用に値する人物なのかい?」

「できると思って? か弱い女性に銃口突き付けて、犯すぞ、なんて吐き捨てる男なのよ」

 笑顔のリシアに、リンデマンが顔を引き攣らせる。額面通りに捉えられては困るのだ。

 サクラギ・トウカは、人格と性格と能力に悲惨な程に多様性を見せる不思議な人物である。それがリシアの見解だ。一見すると統一された意志の下に揺らぐ事 のない行動力を以て状況を打開する理想的な軍人……否、戦争屋である。しかし、実際は、かなり衝動的な行動が目立ち、それを周囲が認識しないのは、物事へ のこじ付けと正当化が恐ろしいまでに得意であるという理由が挙げられる。それに加えて、隠蔽と恫喝を織り交ぜて使えるだけの冷徹さと非情さを持ち合わせて いた。二〇に満たない年齢で、軍人達を都合よく動かすだけの才覚を持っているのは異質と言わざるを得ない。

「利益となるなら、この艦隊を磨り潰すだけの決断をできる男……でしょうね」

 そんなトウカをリシアは否定する気はない。少なくともそれによってヴェテンベルクは……北部蹶起軍は大勝を収めている。領邦軍将官としてヴェルテンベル ク領の利益を考えているからこそ、マリアベルもトウカを重用しているのだとリシアは考えていた。公私を分別している……ように見せるだけの世渡りの上手さ は、装虎兵学校で似たような事をしていたリシアですら舌を巻く程である。

「それは楽しみだね。どちらにせよシュットガルト運河の出入り口を海軍に閉塞されてしまえば大した活躍はできなかったんだ。政治の都合でもそれなりに活躍できるなら十分さ」リンデマンはやれやれと首を振る。

 少なくともリンデマンは、艦隊戦で華々しい活躍を実現することが難しいであろうという事が理解できたのだろう。まさかマリアベルも新造戦艦二隻を無暗に失うようなことを認めるはずもないだろうとリシアも確信していた。

「まぁ、あのヒトのことだから痛快な作戦でも考えているわ、きっと」

「君の人物評価を聞いた後でそう言われても喜べないんだがね」

 二人は無言になる。

 双方共に、碌でもない大莫迦野郎が艦隊司令長官に就任したことに肩を竦めるしかなかった。

 

 

 

 

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剣聖ヴァルトハイム型戦艦(Waldheim der Schwertmeister)