第八八話 剣聖の妹
「……そうか。大御巫は生きていたか」
トウカは情報部からの暗号電報を握り潰し、嘆息する。
そんな姿にミユキが首を傾げるが、その頭を撫で、トウカは慌てて笑顔を取り繕う。大御巫、健在なり、という凶報は非常に残念ではあるが、龍種の生命力を 考えれば運河に落ちた程度で死ぬほど脆弱な存在ではないとも考えていたトウカは、この状況を想定していなかった訳ではない。
「主様、主様! これ食べたいです!」
林檎を手に取り、尻尾を振るミユキに、トウカは思わず笑みを零す。
司令長官公室と呼ばれる艦隊司令長官の執務室と私室を兼ねた一室で、二人は穏やかな時間を楽しんでいた。
トウカが良く知る内燃機関とは根本的に構造の違う魔導機関という推進機構を採用している為、稼働時の振動や燃料燃焼の異臭がすることもない。その関係 上、艦内は極めて居住性が良く、乗員個人空間も祖国の新鋭戦略打撃戦艦にも勝るであろう事実にトウカは唖然としたものである。飢狼や水族館を知るトウカと しては、複雑な気持ちとならざるを得ない。
魔導機関という推進機構は、トウカからすると理不尽極まりないものであった。
この世界に在っては無尽蔵にある大気中の魔力という元素を取り入れ、推進力に変換する機構を持った機関。ある程度、小型である場合は内燃機関と比して大 型化する傾向にあるという欠点があるが、魔力枯渇時は搭載した魔導結晶に魔力を充填しておいたものを使用すればよく、その魔力も大気中に無尽蔵にある。充
填時間が内燃機関の燃料注入と比して極めて長いという欠点は、魔導結晶そのものを直接交換することで解決する。しかも、魔導結晶は燃料搭載よりも三〇分の 一程度の体積で済むという高性能を発揮し、戦艦などの大型の魔導機関を搭載した艦艇である場合は、複数の魔導結晶を搭載することでそれを順次使用し、充填 と使用を繰り返しての長距離航行を可能としている。
ミユキが寝台でごろごろとしている姿に苦笑しつつ、トウカは林檎の実と果物小刀を手に取ると思案する。林檎と然して変わらない形状と色にある事を思い付く。
林檎を切り分けながら、トウカは言葉を重ねる。
「しかし、今日は一段とめかし込んでいるな」
「えへへ、分かっちゃいます? この服、リルカちゃんに選んで貰ったんです」
寝台から飛び上がり、部屋の中心に降り立ったミユキは、左手を胸元に、右手を横に広げて、その場でくるりと一回転して見せた。長上衣は、純白の大輪が咲くかの如く浮き上がった長い長裳部分と、控えめな象意も相まって可憐さを際立たせている。
鋼鉄の戦船には不釣り合いな乙女。
トウカは慌てて目を逸らす。
これほどに無垢で無邪気な姿を見せられると穢したく……汚したくなる。無論、恋人であり、一夜を共にしたこともあるので、そう言った行為を行うことが初 めてでもなければ、ミユキに拒絶されないという自信もあった。だが、まさか戦闘艦の中で行為に及ぶのは気が引けるし、水兵達が兵器や機関の整備、点検、保 守、運用などに精を出している中で指揮官が色事に耽るなど非難の的になりかねない。
「どうですか? 可愛いですか?」
長い長裳部分の端を摘まみ上げて一礼すると照れながらも微笑むミユキに、トウカは頷きを繰り返す。そんな姿がまた楽しいのか、ミユキは声を上げて笑う。
そんな中でも、トウカの手は林檎を切り分け続けていた。
「できたぞ。渾身の出来栄えだ」
小皿に切り分けた林檎を並べて、執務机の上へと置く。
兎型の……ではなく狐型に切り分けられた果実。先端が短かな狐耳と、跳ね上がった大きな尻尾。まさに赤狐である。
小皿に並ぶは、八匹の可憐な狐達。仔狐の糧となるべく生まれ落ち、報われぬ宿命をその身に背負う小さな狐。
「哀れな……こんなに可愛いのに」
「むぅ……そんな言い方されると、食べられなくなっちゃうじゃないですか」
なんてこと言っちゃうんですか、と憤慨しながら剥れる仔狐。
可愛い八匹の赤狐に突き匙を突き立てんとするミユキに、悲しき宿命を宿した者の心の内を吐露してみたのだが「むぅぅぅぅっ」と頬を膨らませて睨み付けてくるので、トウカとしては理不尽だと沈黙するしかない。
「た、食べさせて……ください」
応接椅子に座り込んだミユキが、上目遣いに執務椅子に座ったトウカを窺う。
「……はぁ?」片眉を吊り上げ、トウカは気のない返事を漏らす。
「別に病床にある訳でもないだろう」
「でもでも……び、病気ですっ! 大病です! げほげほっ!」
あからさまに胡散臭い咳に、トウカは曖昧な笑みを零す。ここは騙されてやるべきかと思ったが、嘘を吐くならもう少し上手く付いて欲しいと思わずにはいられない。
「どの様な大病で?」
「えっ!? そ、それは、あれです……こ、恋の病! もう末期ですからねッ!!」
冗談なのか、或いは本気なのか、判断の付き難い言葉であるが、その表情は真剣そのものであり後者であることは疑いない。
「それは――」
光栄だ、と続けようとしたが、扉を叩く音に邪魔される。間の悪い者がいたものだと顔を顰めて、トウカは執務椅子に座り直し「どうぞ」と短く告げる。
「失礼します、艦隊司令長官。ハルティカイネン大佐です。シュトラハヴィッツ大佐が御会いしたいとのことで御連れしました」
扉を開けて現れたリシアが直立不動で敬礼する。対するトウカも立ち上がり答礼する。本来であれば座ったままに頷くだけでも良いのだが、観戦武官として乗艦しているシュトラハヴィッツ大佐がリシアの背後に見えたので座り続ける訳にはいかなかった。
「アンゼリカ・フォン・シュトラハヴィッツ大佐です。高名なサクラギ代将閣下に御会いできる事を光栄に思います」
「サクラギ・トウカ代将だ。小官も武勇の誉れ高き貴官に見える機会を幸運に思う」
二人は、敬礼で相手に応じる。
その声音はとても友好的ではなく、リシアやミユキは困惑の表情を浮かべ……否、二人は睨み合っていた。其方は其方で仁義なき戦いが繰り広げられているのか、トウカには口を挟む度胸がない。対するアンゼリカもそれは同じらしく、顔を顰めるだけで苦言を呈することもない。
アンゼリカを促し、応接椅子へと導き、対面へと座る。ミユキとリシアは見つめ合ったままに微動だにしないので放置するしかなかった。
「そろそろ誰かが来るかと思っていた。ロートシルト子爵と思っていましたが、シュトラハヴィッツ大佐とは……失礼ながらそれは総意で?」
「勿論です。小官が我儘を申していなければロートシルト子爵が訪れていたかと」
騎士らしく即座に澱みなく答えるアンゼリカに、トウカは面倒なと胸中で吐き捨てる。
実はロートシルト子爵にはマリアベルから話が通っており、トウカと二人で会話し、そこでトウカと、そしてこれから起こる一連の騒動を認めたという公式見解が作り上げられる予定であったのだ。
ロートシルト子爵家もエルネシア連峰に面しており、鉱物資源によってヴェルテンベルクには遠く及ばないものの、それなりの発展を見せていた。その影響もあり派閥を形成しているとまでは言えないが、ロートシルト子爵領に近い幾つかの貴族はゆるやかな連帯を見せている。
それらとの連立をマリアベルは目論み、ロートシルト子爵は受け入れた。
北部に於いて経済的に上位に立つ二人が連携すれば、政治的にも優位に立てる。
軍事は政治に従属するが、政治もまた経済の奴隷であることを踏まえれば、その優位性は計り知れないものとなる。札束で頬を叩かれれば、軍人と言えど意見 を翻す事は多々ある。金の切れ目は縁の切れ目。不況が世間を荒ませ、軍人の武断的な対応を世間が求める。嘗ての大東亜戦争へと転げ落ちた理由の一端であ り、軍人もまた世論……それを形成する一端たる経済から逃れ得ないのだ。
「ここは非公式の場です。馴れない言葉遣いはやめてもらって結構です」
「……此処は年上に肩肘張らさせてくれると有り難いのだがな。サクラギ卿」
長い脚を組み、好意の欠片も宿ってはいない瞳で見据えられて、トウカは苦笑するしかない。
どこまでも空気の読めない尊大な美女を相手にするのは、トウカの人生でも少なかった。アンゼリカの姉であるベルセリカは、その才覚に似合うだけの知性と気高き意志を持ち、マリアベルに関して言うまでもなく、ミユキの母であるマイカゼもまた思慮深い女性であった。
――今にして思えば、俺の相対する女性の多くは聡明な者ばかりだったな。
例外として獅子姫が脳裏を掠めるが、あれはあれで例外であると納得しているので数に入れず、アリアベルに関しては言うまでもなく箱入り娘に過ぎなかった。
「気に入らないからと言って、それに応じた態度をしているようだから貴女は佐官のままなのだ。将官となりたいならば、政治や横の繋がりにも気を配らねば」
正面切った嫌味を以て、トウカは小さく笑う。
アンゼリカは、クラナッハ戦域会戦で〈ヴァナルガンド軍狼兵聯隊〉を率いて、〈傭兵師団〉や、イシュタル旗下のヴェルテンベルク領邦軍主力、マリアベル旗下の〈集成装甲大隊〉と共に戦った。〈傭兵師団〉に次いでの戦力を有していた為、一翼を担う幸運に恵まれたのだが、フルンツベルクやイシュタルとは違い昇進はしなかった。
シュトラハヴィッツ領邦軍が認めなかったのは、政治的配慮が全くできない程に騎士であり過ぎた為だろうとトウカは呆れ返る。それ以外の理由が見当たらないのだ。
この時代、気高く在るだけでは栄達することは難しく、何処かで己を曲げ、組織や治政に迎合せねばならない。だからこそ、アンゼリカの昇進は見送られた。佐官と将官では、その政治的影響力に隔絶したものがあり、配慮のできない者を昇進させる訳にはいかない。
無論、ヴェルテンベルク領邦軍の場合は、マリアベルがその辺りを気にしていないのだが、そこにはマリアベルの絶大な経済力と政治力がある為、領邦軍軍人 が政治に巻き込まれないという思惑もあった。貴族は確かに当主である爵位保持者が絶大な権力を持っていることになっているが、親族が多い貴族であればある
ほどに、内実、その権力は分散している。対して、マリアベルは自自身を中心とした中央集権を実現しており、昔から意にそぐわない者の悉くを処刑していることに加え、親族も書類上は存在していないことになっていた。つまりは親族による確執による伯爵家内の不和も起きず、血統が途絶えることによる御家断絶を除いては盤石と言えよう。
然して年齢の変わらないはずのマリアベルの有能さを称賛すべきか、アンゼリカの視野の狭さに呆れるべきか大いに悩むトウカ。
「夢を見るのは良い。だが、義務も矜持も持ち合わせていない者に己の覚悟を押し付けるのは止めた方がいい」
シュトラハヴィッツ子爵領邦軍は二個聯隊を基幹とした編制であり、その一翼を担うアンゼリカは軍狼兵指揮官としては申し分ない能力を有している。その騎 士然とした佇まいは、トウカからすると好ましいものではなく、それを当然だと考える姿勢は虫唾の走るものであった。何よりも、トウカは騎士の時代を完全に 終わらせる為に動き続けているのだ。
「戦野に立つならば、それ相応の覚悟を持ってこそ。貴様にはそれが分らぬようだな」
「ええ、分かりませんね。戦争は何処まで行っても殺し合いに過ぎない。それを騎士や矜持などという言い訳で正当化するほど俺は落ちぶれてはいない」
戦争は殺人行為の延長線上にあるものでしかなく、究極的には規模が大きくなっただけに過ぎない。勃発の理由が個人の感情や思惑から、国策や主義にすり替わり、死者の数が著しく増大するだけである。
「戦争に個人の思惑を持ち込むなら騎士であろうとするな。目障りだ」
「貴様っ! ……いや、挑発してくれるな。私の役目は分かっているのだろう?」
ロートシルト子爵からの差し金であることを匂わせているのか、アンゼリカは薄く笑う。
成程、確かにその点では優位に立っているのかも知れない、とトウカは一考する。ロートシルト子爵は、或いはアンゼリカの反応を見てトウカを推し量ろうと 考えているかも知れない。アンゼリカを当て馬に、トウカの人となりを探ろうと考えるのは不思議なことではない。例え、領主同士で連携についての条文が交わ
されていたとしても、トウカを推し量ろうとする意味は十分に有る。それだけの立場にあるのだから。
「貴女に役目などない。それは錯覚だ。己の正義以外にも目を向けるのだな」トウカは嗤う。
当て馬にされたことに気付かないアンゼリカに対する嘲笑ではなく、その事実を利用しようともしない怠慢であった。利用されるのは良い。それに気付く努力と、利用して己に有利な状況へと誘導することを怠るのは、トウカからすると怠慢以外の何者でもないが。
「私は義の為に戦った! ベルゲンで民間人までも手に掛けた貴官が騎士を語るな! 不愉快だ!」
「戦場に義などない。それは英雄譚が生み出す幻想で、思想が生み出す錯覚に過ぎない。俺は貴様ら無能が突破できなかった戦線を半日足らずで突破し、征伐軍総司令部を瓦解させた。それが事実だ」
勇ましく戦えば現状が打開できるのならば、兵器などこの世界に生まれ堕ちなかっただろう。刀剣だけで原始的に、野蛮に斬り結べばよいだけである。だが、現に兵器が産み落とされ、トウカとアンゼリカはその中に在って湖上を航行中である。
「軍人の使命は、所属する国家や組織の権益を護りつつ、不利益を排除することである。上官と軍規の許す限り最善を尽くさねばならない。貴女がもし軍人よりも騎士としての生を望むならば即刻その軍装を脱げ。目障りだ。脱ぎ方が分らないなら俺が剥いてやる」
最早、騎士の時代など幻想なのだ。
あらん限りの嘲笑を籠めて、トウカは嗤う。
だが、その瞳はアンゼリカを見てはいなかった。
目を掛ける程の価値を見い出さなかった事もあるが、それ以上に想定外の人物が現れたことで視線が釘付けになったという理由が大きい。
「確かに、騎士などまやかしに過ぎぬよ。称号では愛する者を護れぬ」
詰まらなそうに呟いた女性。
それは、剣聖にしてアンゼリカの姉でもあるベルセリカであった。
幸いにして顔は深編み笠で隠れているが、開いた扉に背を預けるようにして腕を組むその姿に、トウカは何時の間にと顔を引き攣らせる。剣聖と呼ばれるだけあり、無音で気配すら発することもなく接近することは容易いのか、そこに苦労の跡は窺えない。
「あ、貴女は……?」
その正体に気付かず、気付かれぬ内に背後に立たれたことに驚いたアンゼリカが、呻くように呟く。驚きが大きく、その正体には気付かなかったことは幸いであるが、この時期に気付かれては一悶着起きかねないと、トウカは冷や汗を流す。
「某は彼奴の騎士ぞ。その卑怯未練で卑劣外道の代将閣下の、のぅ」楽しげな笑声を滲ませたベルセリカ。
それは、ある種の皮肉であろう。
ある意味、トウカを一番理解しているのはベルセリカかも知れない。
マリアベルの様に背後から全てを俯瞰し、操らんとする姿勢に対して、トウカは同じでありながらも前線で戦うことに何処か惹かれていた。男の見栄や浪漫と言うのならばそれまでだが、胸中の何処かで安全な後方に居続けることに対する後ろめたさがあった。
深く溜息を吐いたトウカは、ベルセリカを改めて見据える。
恐らくベルセリカは、それについての答えに辿り着く為の時間として、五〇〇年以上もの歳月を孤独のままに在ったのだ。少なくともそういった要素もあるは ずである。最早、トウカの感性とは次元が違う上、その膨大な時間は二〇歳にも満たない若造が、少々、得た知識程度では太刀打ちできるものではない。
ベルセリカは愛する者の為に剣を振るっていた。それは、同時に主君であった愛する者の為に、部下に闘争を強いたということでもある。
ベルセリカは、正義に縋ることが無意味であることを誰よりも理解している。泣いて縋れば応じてくれる程度の正義も求めてはいない。
「我が騎士。要件は? よもや茶化しに来ただけとは言ってくれるな」
トウカの声音に多分に含まれた呆れの感情に気付いたベルセリカは、肩を竦めると一枚の伝文を投げて寄越す。それを掴み取り、開いて文章を目で追う。
そして、目を細めると舌打ちを一つ。
予想はしていたが、叶うならば、そうあっては欲しくないと考えていた現実。
屋内にいる全ての者の視線が集まる中、トウカは小さく嗤う。
「大御巫、指揮統率を再開。だそうだ」
既に情報部はアリアベル一命を取り留めた事を掴んでいたが、アリアベルは負傷した身体を押して、征伐軍残存兵力と増援の三個海軍陸戦艦隊に加え、バルト シュタイン侯爵領邦軍を中心とした西部貴族の軍勢も含めた大戦力の前で堂々と継戦を謳い上げたとの報告に、トウカは溜息を吐く。
建国神話では、初代クロウ=クルワッハ公爵は右手を失いながらも、血塗れの佇まいで戦野で咆哮を続けたとされている。その凄まじいまでの生命力は実戦証 明されていると言っても過言ではなく、手榴弾による攻撃もまた有効とは言い難い。故に運河に落下した程度で死ぬとは考え難く、高確率で生存していると考え ていた。
できれば死んでいて欲しいとトウカは願っていたが、世の中そう上手くは行かない。
下らない言葉を重ねる前に、ベルセリカに命じて手っ取り早く心臓を一突きしていれば総てが丸く収まったのだ。だからこそトウカは、アリアベルが生存して いた理由を作り出さねばならない。そうでなければ大御巫殺害失敗は、トウカの失点となりかねない。無論、勲功抜群なので、その程度で立場が危うくなるとは 思えないが、マリアベルの政治的弱点になるのは面白くない。
「ふん、殺し損ねたようだな?」
嘲笑を浮かべたアンゼリカに、トウカも満面の笑みを浮かべる。
ここで想定外と思われるようでは、限界を知られてしまう。幸いにして極めて有効な手札が手の内にあるので、決して打開策がない訳ではない。寧ろ、踏み台にしてくれようと、トウカは満面の笑みを浮かべる。
「想定通りだ。死なれれば征伐軍の統制が乱れ過ぎる。統制の執れない大兵力の武装集団? それは大層な悪夢だ。我が軍からすると縦深に引き込んでの包囲殲 滅が難しくなる。征伐軍は戦力が整い次第、真っ直ぐに蹶起軍の中心であるエルゼリア侯爵領に全力で攻め寄せるだろう。総力戦だ」
トウカは、ベルセリカを一瞥すると頷く。
鷹揚に頷いたベルセリカは、漆黒の第一種軍装を翻して長官公室を出て往く。手足が長く、気立てのよい麗人といった佇まいのベルセリカに、苦笑しながらも立ち上がる。
「さて、ならば作戦を一層と派手にするとしようか……ハルティカイネン大佐」
トウカは、ミユキとキツネさんの形に切られた果実を奪い合っていたリシアを呼ぶ。口元がもぐもぐと動いたままに、横に立ち敬礼するその姿に、トウカは苦笑すると命令を伝える。
「各艦の艦長に、事前に渡していたⅢ号命令書を開封せよ、と伝えろ。さぁ、派手な戦争になるな。……官僚も民間人にも犠牲が出るかも知れないが……この際、止むを得ない」
トウカの嘲笑混じりの言葉に、アンゼリカが目を剥く。
「子供や弱い人が犠牲になるなど、間違っているとは思わないのか!?」
「いや、特には。正しいか否かなどの議論に意味はない。戦争に性別や年齢は関係はないのだ。死は平等に振り撒かれる。綺麗な戦争は軍記物の中だけにされると宜しいさ」
「それは……」
どうしようもない事実を語るトウカに、アンゼリカが下唇を噛む。
少なくとも現実の戦争に参加している以上、民間人の犠牲が止むを得ない事を理解している様子であるが、納得はできていない様子であった。理解はしていて も納得はできないというのは、一見すると私情より義務を優先するように弁えている様にも見えるものの、ふとした瞬間に暴発する危険性を孕んでいる。それは
指揮下にある将兵を私情で危険に晒すという可能性を常に抱えているということに他ならず、その様な人間を将官にするのは、トウカがそれの是非を求められれ ば絶対に認めない。
「重要なのは生死ではない。死ぬその瞬間まで抗い続けることだ。そこに子供や弱者などという理由付けは無意味なものでしかない」
弱いから赦されるならば戦争ではない。
強いから報われるのでは戦争ではない。
理不尽だからこその戦争なのだ。
皇国という国家は、永く外敵に領土深くを侵されたことはなく、戦争に対する意識がトウカと大きく違っていた。《大日連》も現在では過去の本土決戦を忘れ、平和が無料だと考えている大莫迦野郎が無数にいるが、トウカは軍人家系であり祖国が緩やかな廃滅に向かっていることを理解していた。
そして、《大日連》と《ヴァリスヘイム皇国》の空気は何処か似ている。
貴族の私設軍に過ぎない領邦軍とは言え、軍務に就いている佐官がこのような有様では、敵性国家の軍勢の進攻に対して初動が遅れたエルライン要塞攻防戦も当然の帰結と言える。
「貴女の姉も御怒りだろう。草葉の陰か、或いは背後かは知らぬが」
死して背後に立つ亡霊。
正にそうだと、トウカは嗤う。無論、足がある亡霊であるが。
姉を引き合いに出されて顔に朱を散らしたアンゼリカが立とうとするが、トウカは黒檀の机を蹴り、アンゼリカの膝を痛打して再び座り込もうとしたところに飛び掛かる。机の上に置かれていた書類が長官公室に舞う。
座っていた為に満足に剣すら抜けないアンゼリカの首を掴み、トウカは唇が接触しそうなほどに顔を押せてその瞳を覗き込む。
「正義とやらは力と共に在る。それが正しいか否かは勝者の決めることで、悪とは弱者の僻みに過ぎん。長期的視野に基づいても尚、利が釣り合わないのであれば、弱者に取り分を与えてはならない。それは弱者の高慢と増長を生む」
弱者という立場もまた不利ばかりという訳ではない。
《大日連》も、第二次世界大戦時には、一大都市である東京やその周辺の中核都市を放棄。民間人に無抵抗で連合国軍に従うよう御聖断を発布し、その輜重線 を著しく圧迫させるという作戦に出た。首都である京都以上の人口を有する東京の民間人を、帝国主義からの解放を唱えて侵攻してきた以上、連合国軍には民間
人の食糧事情を改善する義務が生じた。しかし、どれ程に輸送船を増強しても、潜水戦隊や基地航空隊、水雷戦隊を大量に投入して、輜重線の破壊を図られれば 破断点は容易に迎える。
結果として連合国軍は輜重に支障が出て、それが原因となり民間人との衝突が各地で起きることになる。これを意図した《大日連》大本営の思惑は明白で、連合国軍の糧秣を消費させることに加え、民主主義に対する失望感と不信感を植え付けることであった。
トウカは、この祖父の考えた作戦を高く評価していた。
少なくとも祖父が勇退するまでは、《大日連》は外政と内政に於いて満足のいく政策を執り続けていた。
弱者もまた同じ人間であり、生きる為には糧秣が必要になるが、それらが当然の様に座して懐へと転がり込んでくると理解すれば更に多くを求め始める。弱者 も強者も常によりよい生活を求め続けることに例外はなく、結果として弱者であるはずの東京に住まう民間人は強者の糧秣を食い荒らした。
弱者もまた強者を倒し得るのだ。
「弱者を弱者と、民間人を民間人と見るのは止めろ。彼らもまた戦争を構成する要素の一つだ。悲劇の是非を考えるのは戦後で良い」
「だからと言って……ッ!」
尚も抗弁しようとするアンゼリカの頬をトウカの平手が襲う。ミユキの小さな悲鳴が聞こえるが、トウカは今この時、戦闘部隊の指揮官として振る舞わなければならなかった。
「だから如何した、小娘ッ! 貴様は聯隊を率いている! 聯隊総員の生命が貴様の双肩に掛かっている!! 家族が居て、妻が居て、恋人が居て、愛する者が居る!!」
だからこそ、連れ還らねばならない。一人でも多くの部下を。
それは、指揮官に与えられた作戦遂行に並ぶ重要な“義務”に他ならない。
襟首を掴み、アンゼリカを硬い床へと叩き付けて、トウカは見下ろす。
怯えた瞳に、大きくはだけた軍装は、見る者が見れば性的暴行を働いている様に見えるかも知れないが、トウカの嘲笑と憤怒に満ちた表情を見れば、そんな考えは霧散するだろう。
「最善を尽くせ! いや、兵は確かに死ぬかもしれん! だからこそ兵達が貴様の為に死んでもいいと思える女になれ! 行動で示せ! 兵に無駄死にだと思わせるな! 例え、貴様が下らん女でもだ!」
闘争の最中に在って、兵の総てを連れて還ることは不可能である。だからこそ、冷たい大地に打ち捨てられても尚、後悔させないだけのナニカを魅せねばならない。
戦争という理不尽の吹き荒れる場に在って、指揮官とは兵士達の道標である。
故に、振る舞わねばならない。貴様らの為なら、貴様らと共になら外道に堕ちれる、と。
「貴様は指揮官なのだ!」
吐き捨てると、トウカは乱暴に応接椅子へと腰を下ろす。
軍装の胸元を掻き抱いて、恐怖と怒りの入り混じった瞳をトウカへと向けるアンゼリカに対し、トウカは「失せろ」と一括して手を振り払う。
慌てて立ち上がり、背を向けたアンゼリカから視線を逸らして、トウカはミユキへと向き直る。女性に暴力を振るう瞬間を見られたのは宜しくない。怯えられるか、或いは怒られるかとトウカは困った顔をする。
しかし、部屋の隅で必死にキツネさん果実を齧っているミユキに、トウカは更に困った顔をするしかなかった。
「あ、あげないですからねっ!」
残り二つとなったキツネさん果実の乗った皿を抱き寄せて、徹底抗戦の構えを見せるミユキに、トウカは、取りませんよ、と失笑する。
「てっきりミユキには怒られると覚悟していたんだがな。もう、この部屋にある果実を全て剥いてくれないと剥れるくらいは覚悟していたのだがな」
「そ、その手がありました! お、怒ってますよ、私っ! めちゃんこ怒ってますよ!」
遅ればせながら狐耳を立てて、頬を膨らませたミユキに、トウカは「仕方ない仔だ」と苦笑しながら、蹴り飛ばして位置のずれた黒檀の机の上に転がっている 果実を手に取る。果実の一つや二つで御機嫌が取れるならば安いもので、ベルセリカと交戦して負傷した後の様に、無茶をされたら嫌だから目を離さないと、何
処へ行くにも付いてくるというのは、トウカの心境としては勘弁願いたかった。風呂や寝床が一緒であるのは今更気にすることもないが、軍務にまで同行されて は支障が出かねない上、マリアベルがそれを厭らしい笑顔で認めてしまう気がした。そうなればミユキを遮るものはない。
尻尾を揺らし、残りのキツネさん果実を捕食しているミユキを、手招きで横へと座らせて、トウカは新たな果実を剥き始める。次は蜜柑のような果実なので、ただ剥くだけだが、ミユキは横で期待に尻尾を揺らしている。
「主様は……」
ミユキが、ふと思いついたように呟く。トウカが反射的に顔を上げると、ミユキは珍しく苦笑しており、トウカは首を傾げる。自身の心に対して正直なミユキが苦笑という曖昧な態度を取ることは珍しい。
「あんなに怒っていたのって、あの人に対してじゃなくて自分にですよね?」
呆れと諦観の入り混じった声音と表情のミユキに、トウカは頭を掻く。
そうした一面があることをトウカも理解していた。
長話が過ぎてアリアベルを逃したとトウカは後悔していたが、アリアベルの意識を引き付けたのは、リシアが準備していた対戦車小銃に意識を向けさせない為 でもある。その時に至って尚、ベルセリカという最大戦力を秘匿し続けようとした判断からであり、それもレオンディーネの乱入によって叶わなかったことを踏
まえると、それはトウカの慢心と言えなくもない。そして、慢心したとも取れる要素があるという事実がトウカの失点となり、予想するこれからの犠牲の膨大さ も相まって心に暗い影を落としていた。
「艦橋から艦隊を見て改めて理解した。部下達を、愛する者の下へ帰して見せるのが自分次第だということに……ヒトを殺すのは、殺せと命じるのは簡単だ。だが、生きて帰って来いと言うことは斯くも難しい」
戦争である以上、犠牲なき勝利など有り得ない。それを理解していながら、生還しろと叱咤するのは自己満足であり無責任であった。少なくとも、トウカにはそう思えてならない。
元来、トウカは前線指揮官に向いていない。
今に至るまでトウカが前線指揮官として失敗しなかったのは、大成した幾多の野戦指揮官の肖像を知り、多くの戦闘教義と軍事技術を学んでいたからに過ぎない。それはトウカの本質が戦闘で矢面に立ち、兵と共に戦うことを得意としていないことを意味している。
トウカの本質は、猜疑と臆病、悲観と不審の混合物である。
それは前線指揮官よりも国家保安任務や戦略規模での戦力運用、治安維持に軍事行政などに優れた本質と言える。現に常に政治的立場を気にしているトウカ は、軍令よりも軍政に優れた才覚を見せていた。常にマリアベルの政治的躍進を視野に入れた作戦行動を取っていることからもそれは窺える。
――謗られるならば、甘んじて謗られよう。その程度の覚悟はしている。
しかし、それが個人の評価に留まらず、マリアベルの躍進の足枷となるなら、蹶起軍内での権力掌握の遅延となるだろう。そして、それは皇国内の国力を疲弊させ、死者数も増大させる。
「この失策が御前の住まう大地を屍山血河にしてしまうかも知れない。そう思うと堪らなく怖い」
隣へ腰を下ろしたミユキの頭を、トウカは優しく撫でる。
誰かの笑顔を護る為、誰かを殺めねばならない場面があったとしても、トウカはそれを避けはしないし、後悔もしない。後悔してはならないのだ。それは、理 由が如何様なものであれ、戦野に進んで身を投じた者達に対しての信義を欠く行為となる。内戦であるからこそ許されないのだ。
護る為に敵を殺すのだ。
護る為に罪を犯すのだ。
護る為に断ち切るのだ。
護ることと、他者に理不尽を振り翳すことは決して相反するものではない。
「総てを満たす行動があるとは思わない。だが、時折に思う。……自分のしていることは正しいのだろうか、と」
自身の行動を絶対の正義として断じることの出来る者は、基本的に無能である。
歴史上、それを断じて口にした者は、その総てと言っても過言ではない数が、国を傾け、思想を穢した。しかし、自らの行動を疑いながら、最善を求め続けた としても、その結果が最善とは限らない。天狐族であるミユキが自由な生活を営むには、皇国の継続は必須である。だが、最悪の場合を考慮して神州国への亡命 も視野に入れている。
ヴェルテンベルク領を放棄し、マリアベルを陣頭に立てた領民全てを含めた大亡命船団の編制。神州国は、国内が連帯した藩主達と神皇を取り巻く権力者の間 で、緩やかな対立が起きている。国情から軍事力に劣る後者は新鋭戦艦二隻を含む大艦隊に加え、強力な中戦車という陸上戦力という強大な戦力の魅力に抗えな
いだろうことは疑いない。問題は各種兵器や資産に領民を含めた全てを輸送する手段であるが、それはマリアベルが有する商船や輸送艦に加え、各国の海運企業 に商船の貸し出しを依頼するだけで事足りる。もし、異論を挟むならば徴発すればいい。軍人らしく、戦争屋らしく。
「大丈夫だ。上手くいくはずだ……どんな趨勢であれ」
神州国陸軍は、典型的な海洋国家の例に漏れず脆弱である。神皇を傀儡に神州国で仕切り直すというのも悪い選択肢ではない。神州国への亡命は皇国海軍によ る妨害の可能性も考えられるが、まさか商船や輸送船に搭乗している領民を撃つことはできない。領民もまた国民なのだから。
ミユキを抱き寄せて、トウカは薄く笑う。
「さぁ、ミユキ……この一戦が終われば御姫様になれますよ」
未来がどの様に推移していくかなどトウカにも分からない。だが、考えれば考える程に無数の可能性が浮かび上がってくる。
未来は、トウカの思考が及ぶ限りにおいては、良くも悪くも無限大なのだ。
「私が、御姫様ですか? えへへ、なら主様は御婿様ですね」
照れるミユキの言葉に、トウカも釣られて苦笑する。
その時、異変を知らせる警報が艦内に鳴り響く。
トウカは「始まったか」と立ち上がった。
「ミユキは他の領民達と一緒に行動してくれるか。俺は少し戦争をしてくる」
「えっと……御武運を」
ミユキがトウカの肩に軍用外套を掛ける。
出征する夫を見送る妻の様な仕草に、トウカは軍用大外套を翻し、己の戦場へと足を進め始めた。
解説
飢狼や水族館を知るトウカとしては、複雑な気持ちとならざるを得ない。
史実の足柄と古鷹の事。共に性能上は優秀な重巡洋艦であるが、足柄は英国国王戴冠記念の観艦式のため欧州へ派遣され、その際、英国のメディアから“飢えた狼のような”と評された。日本は“精悍さに対する高評価”と解釈したが、実際は居住性の悪さを皮肉ったものであった。
乗艦した英国の新聞記者が“自分は今日、初めて軍艦というものを見た。今まで自分が見てきたのは客船であった”と評しているが、これは足柄の戦闘能力を高評価した訳ではなく、寧ろ巡洋艦の運用目的である通商航路防禦の観点を無視した居住性の無視を皮肉ったものである。
まぁ、英国は世界各地に植民地を持ち、長大な通商航路防 衛の為に長期間の作戦行動能力、その為に高い居住性を求められたという事情がある。妙高型の計画時点で日本海軍の想定作戦海域がマリアナ諸島近傍だったこ
ともあり、居住性についてはそこまでもとめられていなかったことも理由として挙げられる。故に日本海軍の重巡洋艦が戦闘能力で英国海軍の重巡洋艦に優れる のは当然で、その代償に居住性では劣っている。……量産性も劣っているが。
古鷹型重巡洋艦は、居住性が悪い上に乾舷が低く、内火艇の通過に伴う波で舷窓から水が流れ込む為、常に窓を閉めていた。そこで各艦からは“水族館”という渾名をつけられていた。
妙高型と違い新機軸を幾つも盛り込んで建造されたが、完成してみると排水量が一〇%以上も超過する事態となった。この問題は設計に問題があったというこ とではなく、造船所関係者が今までにない革新的な設計の為、現場判断で設計変更をしたからである。通常は、これほどに排水量が超過すると性能に悪影響が出
るのだが、古鷹型は決定的な問題は見あたらず、基礎的な設計の優秀さを証明することになった。平賀譲造船官の非凡さが窺える。
ちなみに妙高型も平賀譲造船官の設計だが、海軍の無理な要望と、平賀氏が欧州視察に赴いた不在を狙って、藤本喜久雄造船官に妙高型の改設計を命じ、本型に勝手に魚雷発射管が装備されることなどもあって各所に無理が生じていた。