第八六話 流転する建艦思想
「つまり、御風呂であわあわ、だ。……あれは拙い」
「風呂で敷物の上は確かに脅威だけどなぁ」
ザムエルは、自身の執務室で珍しくも深夜に執務に励んでいたのだが、トウカが突然、部屋に現れたことから執務は完全に停滞していた。下半身に於ける無双 を自負するザムエルであっても深夜に|性的な話題(下ネタ)混じりの、特に野郎の性的な武勇伝を聞くことは堪えるものがあった。
「それで、要件は何だ、畜生め。俺は今、死ぬほど忙しい」
戦闘詳報に加えて新兵器に対する所感や要望、修正箇所などを纏めて報告書にせねばらないザムエルは多忙を極めていた。その上、〈ヴァレンシュタイン戦闘団〉は、そのまま再編成されて〈装甲教導師団〉となることが決定されている。一領邦軍が師団規模の編成を行うことは珍しく、治安維持こそを本分とする以上、戦力の密集は最善とは言い難い。
それでも編制される〈装甲教導師団〉。
北部の各領邦軍の有する装甲部隊に対する教導を行うことを視野に入れていることは明白であり、これは協力の姿勢……マリアベルの静かなる意思表示とも捉えられる。若しくは貴族間で既に話し合いは終わっている可能性もある。
恐らく、マリアベルは蹶起軍を真の意味で一個の軍にする心算だとザムエルは考えていた。
現在、蹶起軍は各領邦軍が戦域を受け持つ形で戦線を形成しているが、それでは大きな斑が でき、支援にも支障が生じ、兵站線も複雑化している。だが、マリアベルの強権的な姿勢と、複数の派閥に分かれている北部貴族が統一された総司令部を持つこ
とは難しく、作戦は事実上、各領邦軍の裁量に委ねられていた。蹶起当初に攻撃的な行動を取れなかった原因はまさにそれであるが、だからこそベルゲン強襲と いう独断の正当性を強弁することが可能であったとも言えた。
「一個装甲擲弾兵聯隊……明日までに貸し出ししてくれるか?」
「俺を殺す気か?」ザムエルは嘆息する。
トウカが、明日に新造戦艦の公試で出撃する事は周知の事実であり、それに間に合わせろと言っていると察したザムエルは、無茶を言ってくれる、と執務机上 の魔導結晶を手に取り、装甲擲弾兵聯隊司令部へと通信を試みる。程なくして応じた装甲擲弾兵聯隊司令部に手早く、緊急出動を要請しようとしたが、横合いか らトウカの手が伸びで魔導結晶が取り上げられる。
「サクラギ代将だ……ああ、そうだ。私服で良い。指揮はヴァレンシュタイン准将が執る……武装? そんなものは先に運んでおく……そうだ、民間人に紛れ て、だ。貴様らはただの民間人。どうせ女性兵士の比率は准将閣下の趣味……もとい、実益もあって高いだろう? 誤魔化して見せろ。作戦計画書はもう届いて いるはずだ。“そういう事になる”」
トウカの指示に、ザムエルは鼻白む。
作戦計画書などあるはずがない。ザムエルが手にしていないということは、領邦軍司令部からの正式な作戦ではないということで間違いなく、イシュタルが朝に司令部に出勤した際の第一声が怒声として屋敷に轟くことは間違いない。
「御前、それは我らが女神様は知っているのかよ? まぁ、知っていなくとも喜びそうだがよ」
魔導結晶を下ろしたトウカを、ザムエルは睨む。
トウカの様子は一見すると浮かれているようにも見えるが、その瞳は峻烈な意思を宿している。死地に在っても不断の決意と、神算鬼謀を以て部下に継戦を強制できる者の瞳だ。
戦争という舞台にトウカも引き摺り込まれつつある。
少なくともザムエルにはそう見えた。
軍を率いるのが初めてであったはずのベルゲン強襲での活躍で忘れがちだが、トウカは士官学校などの軍人教育機関に通っていた訳ではない。あまり無茶をさ せることは躊躇われる。しかし、同時に、トウカの素性をザムエルは気にしていた。士官学校で教育すら受けていないにも関わらず兵器と戦術について造詣が深 すぎるのだ。
一体、何処から現れたのか。
それはヴェルテンベルク領邦軍内でも実しやかに噂される疑問であった。ミユキが何かを知っている気配を見せたが、マリアベルですらも深く訊ねないことから禁忌視されている話題となりつつある。
――もしかすると、それなりの家柄なのかも知れねぇな。軍事を語る時、訳の分からない言語が混じるってことは神州国出身って可能性も低いがよ……他大陸出身ってのも胡散臭ぇしなぁ。
執務机の書類を勝手に手に取り、吝嗇を付け始めたトウカを横目に、ザムエルは考察を打ち切る。まさか、マリアベルですら触れなかった話題に、自身が手を付けて只で済むなどと楽観できる程に、ザムエルは状況判断ができない男ではなかった。
「てめぇ、イシュトヴァーン司令官になんて言い訳する気だ、畜生め。御前は上手く逃げれるかもしれねぇが、俺には無理だ。殺す気か?」
「そこは問題ない。我らが気紛れの女神様が鷹揚に受け入れてくれるように“後から”説得する。政治的に見れば大きい一手だからな。この際、東部貴族を徹底的に動揺させてやる」
トウカが執務机に投げた作戦計画書を手に取り、ザムエルは思案する。
水上部隊による征伐軍側に付いた一部東部貴族に対する牽制と擾乱は、蹶起当初より予定されていたが、海軍主力艦隊との交戦の可能性が捨てきれずに断念さ れた。ヴェルテンベルク領邦軍の水上部隊を喪えば、シュットガルト運河を遡上した艦隊がシュットガルト湖に突入することを阻止できない。まさか生命線たる 通商航路を機雷封鎖や自沈閉塞する訳にはいかない。
よって、ヴェルテンベルク領邦軍艦隊は、シュットガルト湖に逼塞して、その存在感を以て抑止力となる方針を執っている。
トウカはこれを現存艦隊主義と称した。
これは、自軍艦隊戦力が健在な状態で存在し続ける事によって生じる脅威と威圧によって、敵軍の海上作戦と海上活動を、交戦を可能な限り避ける形で妨害し ようとする戦略である。基本的には、可能な限り艦隊決戦を回避して自軍の、特に主力艦を温存し、例え海戦が生じても決戦に固執せずに、敵軍の意図する攻撃 的戦略を断念させる程度の損傷を与えることが目的となる。
消極的であるが、有効な戦略でもある。特に海上戦力が劣勢であれば尚更と言えた。
基本的には、海上戦力に劣るヴェルテンベルク領邦軍水上部隊が、優越した敵海軍……皇国海軍に相対する為の戦略である。ヴェルテンベルク領邦軍の場合 は、劣勢側が艦隊戦力を保全し続け、自海軍に有利な時間と海域を選択して、常時動員できる戦力と態勢を保持することを意図している。対する皇国海軍は、何
時何処に自海軍が展開しても対応できるようにそれ以上の戦力を展開させ続けねばならず、効率的に自海軍より優越な敵海軍の行動を制限できる。
しかし、トウカはその弱点も理解していた。
端的に言うなれば、制海権獲得が事実上、不可能なことである。自軍の十全な海上活動を可能とする為には敵艦隊の撃滅を断じて行わねばならない。だが、今 回の蹶起に於いては、外洋での活動が必要とされていないので、マリアベルが現存艦隊主義に走ったことは間違いではなかった。不利益とは成り得ない。商船に
よる他国への商業活動自体は制限されておらず、ここに周辺国の評価を酷く気にする皇国政府の限界が見え隠れしていた。
「言いたいことは分かるがよ、こっちが出撃すれば相手も警戒するぜ……いや、だから公試か。しかし、領民を乗せて戦闘は問題だろうが」
「いえ、別働隊として空荷の輸送船を出して、湖上でそれに乗せ換える。無線封鎖を行い、湖上ともなれば情報も流出しない。……聯隊規模の人員は民間人に紛 れて分乗させるが、それなりの艦が複数いる。戦艦二隻に重巡洋艦二隻、軽巡洋艦四隻、駆逐艦は一二隻、ここに砲艦を一五隻、ああ、仮装巡洋艦も3隻――」
「待て待て待てぃ! それは軍港に停泊してる実働水上部隊の殆どだろうが!」
トウカが艦隊司令官になった以上、ヴェルテンベルク領邦軍に於ける全水上戦力はその指揮下にある。イシュタル隷下の領邦軍司令部とは別の指揮系統を持っ ていた。陸戦と違い、極短時間で交戦が行われて一瞬の決断で勝敗が決まることの多い海戦は、現場の司令官や艦長、下士官などに多くの裁量が任される傾向に ある。
トウカはその建前を最大限に利用する形で、今回の作戦を決行しようとしているのだろう。
「問題ない。装備の試作を終えた対艦攻撃用の陸上攻撃騎をシュットガルト湖の幾つかの島に展開することが決定している。例え、海軍が艦隊を突入させてきて も、それは誘い込まれたも同然。各島の飛行場から飛来する陸上攻撃騎と、対艦装甲貫通爆弾に換装した急降下爆撃騎に群がられて魚礁になるのが関の山だろ う」
トウカが航空部隊だけで艦隊を撃滅できると迂遠に口にしたことにも驚いたが、その作戦が単なる思い付きではなく、周到に用意されたと窺わせるだけの言動が垣間見えたからであった。
恐らく、ベルゲン強襲以前からトウカの胸中では予定されていた作戦なのだろう。
「貴様、もしかして代将の階級は……」
「ああ、気付いたか。我らが気紛れの女神様に頼み込んだ。まぁ、当初からの予定調和だった以上、何も言わずとも良かっただろうが」
事もなげに言うトウカに、ザムエルは唖然とする。
マリアベルとトウカの間で、非公式ながらも承認された作戦なのだ。
或いは、この作戦は大きな流れの一つなのかも知れない。そもそもベルゲン強襲の為に〈ヴァレンシュタイン戦闘団〉が出撃した直後から、マリアベルは周辺 貴族や無数の有力者との会談を次々と取り付けていた。マリアベルにとって、クラナッハ会戦やベルゲン強襲での勝利は予定していた決定事項だったのかも知れ ない。
トウカとマリアベルの繋がりは、ザムエルが思っている以上に強い。
「これ以降の作戦は? 連続したものだろう……政戦共に」
「勿論だ。軍事は政治に従属するものだ。まぁ、その政治も経済に従属するが」
さも楽しげに軽口を叩くトウカに、ザムエルも野性的な笑みを返す。
ザムエルは遠くを見ることをしない。いや、敢えてしないと言った方が正確であった。才覚のない人間が遠く先を見据えようとしても、足元の小石に躓くだけ であり、それは多くの者の生命を左右する立場にあるザムエルには許されないことなのだ。だからこそ、ザムエルは目先の問題に全力で当たる。背後で、遠くを
見据え続ける者が己に指示を与え続けていてくれるのならば、己の視野の限界を悲観する必要はない。
「背後は任せたぜ、相棒」
「ああ、任されよう……イシュトヴァーン司令への言い訳以外なら」
トウカは軍装を翻して部屋を飛び出す。
突然の行動に呆気に取られたザムエル。
そう、装甲擲弾兵聯隊がザムエルの隷下にあるように、ザムエル自身もヴェルテンベルク領邦軍司令部、司令官であるイシュタルの隷下にある。勝手に部隊を動員して作戦行動を取れば、それは叛乱と見做されかねない。
「結局、俺は今夜中に説得せにゃならん訳かよ! 畜生め、寝技に持ち込んで頷かせてやる!」
トウカ隷下の領邦軍水上部隊は、その全てが指揮下にあり、臨機応変な独立行動が許されているが、ザムエル隷下の装甲擲弾兵聯隊はそうではなく、動員には 領邦軍陸上部隊を統率するイシュタルの認可が必要となる。特に再配置ではなく、侵攻となれば言い訳は難しい。情報の流出を嫌ったのであろうが、このままで は独断行動と越権行為になりかねない。
「……ち、畜生め」
マリアベルが承知している以上、事後承諾は容易だろう。しかし、事後承諾が決定的となるまでは、ザムエルが吊るし上げられることになる。
ザムエルは、立ち上がるといそいそと部屋を出る。
就寝中の領邦軍司令官の御機嫌を伺うという難事も、また蹶起軍の戦闘の中の一つとして数えられることになるのだが、それを認識しているのは当人だけであった。
「派手過ぎだろう、莫迦者め」
巨大な特設された舷梯から甲板へと 次々と降り立つ領民の姿に対し、敬礼を続けるトウカ。隣に立つリンデマンを一瞥するが、返ってくるのは「参謀長の演出の賜物です、閣下」という言葉が返っ
てくるだけであった。反対に立つリシアは右手を胸に当てて優雅に一礼する。反省の色はなかった。寧ろ、胸を張られる。そんな貧相な胸を張って恥ずかしくな いのかと罵りたいところであるが、トウカに近しい女性の大多数が起伏に富んでいるだけで、リシアも皇国女性としては平均的な胸囲をしている。
リシアの飛行甲板の様な胸を一瞥し、トウカは内心で舌打ちを一つ。
「どう? 私達の門出に相応しいでしょう?」
領邦軍軍楽隊の勇壮な行進曲が鳴り響く中、視界を阻害しかねないほどの紙吹雪が舞い降り、期待の新鋭戦艦二隻の公試を祝福していた。乗り込んだ幼い領民 が甲板から見物に訪れた領民達が鈴なりに連なる岸壁に目一杯、笑顔で手を振って光景を目にして、トウカは表情を引き締める。
戦艦とは単なる兵器ではない。水上に於ける“威”そのものである。
そして、その鐵の城と謳われた城郭の如き艦橋に、天を仰ぎ見る長大にして巨大な砲身、それらを十全に運用する為の鋼鉄の機構に、名のある高位種の攻撃すら防ぐとされる装甲。そんな圧倒的な鉄量で構成された集合体を戦艦と言うのだ。
だが、所詮は兵器に過ぎない。
古き騎士達が長槍を手に横隊を形成するかの如く長砲身を振り翳し、勇壮に敵艦と相対する光景を多くの者は夢見ているのかも知れない。確かに、そう言った 一面がない訳ではないが、戦場に於いては勇壮な光景など全体の極一部でしかなかった。艦隊決戦に於ける戦艦同士の砲戦であっても例外足り得ない。
着弾によって生じた火災と黒煙に撒かれて肌を焼かれ、呼吸ができずに窒息する水兵がいる。
浸水被害を防ぐ為に、脱出を諦めて防水隔壁を自ら閉じ、流入した冷水に溺れ、神経を蹂躙される下士官がいる。
戦友が中にいるが、被害拡大を防ぐ為に焼け付いた艙口を呻きと泣き声が聞こえるなか締める士官がいる。
浸水と火災が迫り、棺桶と化した機関室で、熱気と足元の水に体力を奪われて斃れ伏す機関兵がいる。
硝子を突き破り、艦橋に飛び込んできた破片に腹を引き裂かれ、零れ出る内臓を押さえつつ、指揮権の委譲を言い渡し、息を引き取る艦長がいる。
そして、沈み往く艦の艦橋で、傷口を押さえながら退艦を始める乗員に敬礼する艦隊司令官がいる。
そう、海戦もまた陸戦と変わらず、血と涙を流し、惨たらしい死を撒き散らしているのだ。例え、外観が泥に塗れて戦う歩兵と違っても、行き着く先は硝煙と血の満ちた戦場に過ぎない。
何時の時代、何時の世界であっても民衆は見たいモノしか見ないのだ。
「民衆は気楽なものだ」
「少なくとも銃後から魔術や銃弾が飛んでくるよりかはいいでしょう? 民衆なんて言いたいことを垂れ流す連中に過ぎないわ」
リシアの民衆に対する個性的な評価に、トウカは鷹揚に頷く。遠くから見れば二人は笑顔で言葉を交わしている様に見えるが、その内容は冷めたものであっ た。それを知るのは近くに立っているリンデマンだけであるが、聞かなかったことにする気なのか、何の反応も示さない。領邦軍に……否、軍という著しく縄張
り意識が強く、複雑に利害が絡み合う組織で、昇進し続けるには見て見ぬふりをすることもまた間違った選択ではない。
「我らが艦隊司令曰く、戦場で将兵を一番殺すのは銃弾や砲弾でもなく、民衆の無知と無能だそうよ?」
「それは……では我ら軍人は前後を難敵に挟まれた状態ですか」
リシアとリンデマンの遣り取りに、トウカは口を挟まない。
前方の敵は、武を以て撃破できるが、後方の敵はそうもいかない。だからこそ有史以来、軍という存在は、常に二正面戦争を強いられてきた。その点を軍人達は近代以降は決して直視しない。
それこそが最大の悲劇。
だが、近代の軍事編制は国民軍を採用しており、その構成人員の大半が護るべき国民出身なのだ。だからこそ軍は国民と正面切って交戦することができない。 それを軍に強行した近代国家は須らく崩壊していることからも分かる通り、国民軍は強大な兵数という長所と引き換えに、国民に刃を向けることができないとい
う短所を抱えた。文民統制の重要性は言うまでもないが、同時にその文民が常に正しいと保証する機構は存在し得ないのだ。
トウカは殆どの領民が乗り込みを終えつつある中に、見慣れた狐耳を見つけて表情を綻ばせた。
「参謀長、艦長、この場は任せる。……野暮用だ」
トウカは踵を返して、近くの舷梯に足を向ける。
甲板に登場した領民は、その楼閣の如き中央構造物や巨大な砲塔に魅入られており、乗艦を見守る士官や将校などに気を留める者などいないので然したる問題はない。
背後からリシアの声が響くが、それを片手で制して、トウカは舷梯を軽快に駆け降りた。
「おっきいなぁ。これが全部鉄で出来ているなんて」
ミユキは甲板へと続く舷梯を登りながら、太陽を背にした巨大な鋼鉄の城を見上げる。
戦車という鋼鉄の野獣を見た際、これだけの鉄を集めて、こんな武器を作るマリアベルという女性をミユキは凄いと感じたが、戦艦の前ではそんな感想も霞む。鋼鉄の野獣を上回る、鐵の城という偉容にはただ驚くしかなかった。
新たに制定された軍歌を、軍楽隊が奏でる中、紙吹雪が舞い落ちる様は幻想的で、戦闘艦を気高く見せていた。
黒鉄の城を見上げて歩いていたせいか、舷梯に足が引っ掛かる。もう少しで甲板ということもあって気が急いたのか。
体勢の崩れたミユキ。
しかし、甲板から伸びた手が、ミユキの手を取り引っ張り上げる。
「全く……御前は相変わらず慌てん坊だな」
漆黒の第一種軍装に身を包んだトウカが苦笑する。太陽を背にした黒鉄の城を更に背にしたトウから伸びる手に引き寄せられたミユキは、照れを隠す為に頬を膨らまして見せる。
手を引かれ、ミユキは甲板に降り立つ。
ミユキが最後の領民搭乗員だったのか、汽笛が鳴り響く。
艦上の水兵や士官が一斉に、岸壁の領民に対して敬礼する。甲板が小さく身震いし、岸壁から離れ始めた新鋭戦艦。
トウカが、ミユキに敬礼する。
「ヴェルテンベルク領邦軍艦隊旗艦、戦艦〈剣聖ヴァルトハイム〉への乗艦を歓迎します。仔狐殿」
茶目っ気を感じさせる笑みを浮かべたトウカの敬礼に、ミユキも見よう見まねで答礼する。
「何よ、あの獣娘は。害獣ね害獣」
昼戦艦橋横に設置された機銃座から、トウカと謎の獣娘の遣り取りを見据えるリシア。トウカの身の回りを探ることを後回しにしたのは失敗だったと悟り、遅ればせながら情報収集を開始する。無論、横に立つリンデマンへの聞き込みがその始まりである。
「という事であれは誰なの? 隠すとためにならないわよ?」
「艦隊司令に聞けば良いと思うのだけどね……まぁ、そう剥れない。あの娘はマリアベル様のお気に入りだよ。結構、有名なんだけどね。本艦の建造中の時に、あの娘を連れて視察に来られたこともあったね」
マリアベルが手元に置いている者はイシュタル以外にいないと、リシアは思っていた。マリアベルは、長く貴族として統治する立場にあったが、信の置ける者 を増やそうという気配はない。最近ではトウカが急接近しつつあり、ザムエルもまたその意向を大きく受けつつある。それは軍事的脅威に対抗する為だとばかり 考えていたが、軍人でもない獣娘を手近に配するなど只事ではない。
「噂じゃ天狐族の姫君だそうで、最近は情報部にも出入りしているみたいだね」
「あの能天気そうな顔で姫様ね……しかも情報部」
これは難敵だと判断したリシアは、天狐を睨み付けるように見据える。機銃座の手摺を握り締め怨敵だと言わんばかりに睨み付けた為か、トウカに恭しい手付きで甲板を先導されている天狐が、ふと艦橋を見上げて首を傾げる。
思いっきり視線を飛ばしながらも、敬礼するリシア。
仁義なき戦いがこの鋼鉄の戦船の上で行われようとしていた。
「どうだ、ミユキ。俺の艦隊は」
トウカは茶化した表情で、隣に立つミユキへと言葉を投げ掛ける。
鋭角な艦首が波を引き裂いて進む姿は壮観の一言に尽き、戦闘序列を組んで航行する艦隊は、一領邦軍の戦力としては過剰なものであった。
〈剣聖ヴァルトハイム〉型戦艦の一番艦である戦艦〈剣聖ヴァルトハイム〉に続くのは、二番艦の〈猟兵リリエンタール〉。そしてそれらの左右を護るように巡洋艦や駆逐艦が単縦陣で航行している。
檣楼上部に位置する防空指揮所から艦隊を一望できる位置に立つ二人。背後では主砲射撃指揮所と主砲測距側的所、測距儀、方位盤、魔導探針儀が一体化した 構造物が鎮座している。周囲には忙しく走り回る士官や水兵がいるが、間近に控えた主砲射撃訓練の準備と緊張で、トウカを気にしている者はいない。
眼下では背負い式に配置された巨大な九八式五五口径四一㎝砲三連装主砲二基が旋回し、砲身を上下に稼働させて動作確認を行っている。それを甲板上から見 た領民は、無邪気に歓声を上げている。幾つかの集団に分かれて広報担当士官に案内された領民達の姿を見下ろしたミユキが、小さく驚きの声を上げる。
「凄く高いです。落ちたら痛そうです」
――しかし、何故ミユキがここに。やはり、マリアベルに思惑が露呈しているか。
領邦軍司令官であるイシュタルは数少ないマリアベルの盟友である。装甲擲弾兵聯隊の動員をイシュタルが認める事に、制度上マリアベルの認可が必要な訳で はない。軍の行動を一々主君にお伺いを立てる程、双方は暇ではなかった。しかし、個人的に昵懇の間柄である二人であれば、その辺りの意思疎通も行われてい
る可能性が高い。トウカはそれを理解した上で行動を起こしていた。全てはマリアベルがトウカの行動に掣肘を加えようとするか見る為である。それだけで今後 の対応は変わる。
マリアベルはトウカの作戦計画を承認した。それに合わせていかなる行動を見せるかという点こそが、トウカにとり最大の関心事であった。寧ろ、この軍事行動はマリアベルという主君に対する踏み絵に他ならない。
ミユキを此処に呼んだ意味も考えねばならない。
「俺なら兎も角、御前なら無傷で甲板に降り立つことも容易いだろうに」
皇都の高所建造物に匹敵する檣楼 の全高は三八mもあり、かなり高く感じられる。しかし、新鋭戦艦でもあるにも関わらず、その全高は皇国海軍で主力となっている戦艦と然して変わらないもの
であった。これは、全高が増して敵に早期発見されることを懸念した為であり、その為に艦橋の全高は低く抑えられた。それが理由で、光学射撃による性能は砲 に似合ったものではない。射撃指揮装置というものは、高所に在ればあるほどに遠方を俯瞰できることからこそ、その性能を最大限に発揮できる。この点は、マ
リアベルは艦隊戦を重視していないことを暗に示していた。艦砲射撃による陸上支援を重視しているのだ。
この戦艦〈剣聖ヴァルトハイム〉は、異色の戦艦として就役する予定であった。
トウカがその完成図を見た際、〈剣聖ヴァルトハイム〉型戦艦は、後部砲塔の後方まで続く両舷に張り出した長大な特設甲板を有する戦艦であった。そしてその先端は、斜路の様に海面にまで付くほどに傾斜しており、異色の甲板と言える。
特設甲板。
トウカの知る限り、大日連にも航空戦艦という水上攻撃機を多数搭載した戦艦があったが、それは多くの理由から標準となることはなかった。その一番の理由としては、戦艦の艦体に戦艦と航空母艦という二つの相反する兵器の能力を持たせることは、多くの矛盾が生じるという理由からであった。
戦艦という兵器は、強靭な装甲と強力な巨砲を以て敵艦と砲戦を繰り広げる兵器であり、航空母艦とは戦爆雷連合を繰り出して敵艦に対する航空攻撃の基幹戦 力となる兵器であった。もし、戦艦に航空母艦の能力を付与させた場合、それは戦艦の能力の一部を削減してとなるか、その逆となる。防禦力を考慮すると圧倒
的に前者が多いが、航空母艦の弱点である航空燃料や通常爆弾、航空魚雷などを大量に搭載し、航空機発着用昇降機という脆弱な可動部搭載する必要性が生じ る。その上、飛行甲板が損傷すれば航空機の発着が不能になるので、艦隊戦後は高確率で航空機の展開はできない。
トウカは最初、マリアベルは海上権力の重要性を理解していないのだろうと考えていた。無論、一領主が国家の海洋戦略を考える必要性が出るという状況こそが歪であり、マリアベルに責任はない。
だが、トウカは後になって思い直す。
トウカがクラナッハ戦線での航空戦を見せるまで、航空攻撃の有効性は世界的に認識されておらず、その上この世界の航空戦力の中心は龍である。航空燃料は 必要なく、防空任務に限定すれば通常爆弾や航空魚雷を搭載する必要はない。航空戦艦は戦闘騎の直掩を受けつつも一つの海域に少数の戦力で展開させ続けるこ とができる。
マリアベルの選択は、海軍のように多数の艦艇を保有することが難しい中に在っては間違いではない。保有艦艇数と建艦能力に限界があるのであれば、一兵器に複合的な役目を負わせようとするのは自然な流れである。失敗となるであろうが。
そう、思った時期もあったのだ。
〈剣聖ヴァルトハイム〉型戦艦は、航空戦艦ではなかったのだ。
強襲戦艦。
無論、そんな艦種の兵器はトウカの世界にもこの世界にもなく、マリアベルの発案による奇想兵器であった。飛行甲板だと思っていた甲板は、大日連が嘗て運用していた特型内火艇の様な水陸両用戦車を搭載して、それを両舷の張り出した甲板の先端の水面まで続く斜路の様な部分から水上へと送り出し、上陸を目指すという発想であった。敵の視界外で水陸両用戦車を水面に下ろして共に進撃。水陸両用戦車の上陸時には艦砲を以て支援するというもので、トウカの知る第二次世界大戦でも近い発想はあった。無論、戦艦を戦車運搬に使おうなどという試みはなかったが。
実は、マリアベルの奇想兵器に頼ろうとする傾向は、大量に放棄された試作兵器に見て取れる。その努力と思い付きが結実した例もあるが、トウカが現れるまでは、その傾向に拍車が掛かっていた。空飛ぶ戦車や飛行爆弾……果ては、敵勢力内市街地を攻撃する為の神経瓦斯など、形振り構わない兵器開発を資金にものを言わせて実行していたのだ。
無論、ヴェルテンベルク領に訪れた翌日に建造が中止されて上部構造物だけが艤装された二隻の戦艦の設計図を見たトウカは唖然とした。巨大で満載時は六二 〇〇〇tもの排水量になる艦体に長砲身の五五口径四一㎝砲とは言え、八門しか搭載しないのは不自然であるが、それが直掩戦闘騎の為だと考えていたトウカは
顔を引き攣らせるしかなかった。嘗ての《大日本帝国》海軍の〈長門〉型戦艦を大きく上回る排水量えお備えながらも、砲身長を増大させたとは言え、同数の主 砲数に抑えるというのが戦車の為であるなど想像の埒外であった。
トウカはマリアベルに許しを得て、純粋な戦艦として就役させることを目指し、五五口径四一㎝連装砲を三連装のものに変更し、五五口径四一㎝砲を一二門搭 載する決断を下した。無論、偽装が完了していた戦車用甲板は全て撤去し、砲塔を不眠不休で再設計、製造させて四カ月という短期間で形にさせる事に成功し
た。砲自体が完成を見ていたことと、主砲旋回盤が 余裕を見て作られていたことも手伝った結果である。設計に携わった開発陣は、マリアベルの無理な設計を承知で、いざとなれば短期間で改造できるように設計
時から各所に余裕を持たせていたのだ。戦車にも似たような部分は見られたので、マリアベルの無茶な要求と現場の意見の板挟みになったであろう開発陣には頭 の下がる思いである。
かくして、〈剣聖ヴァルトハイム〉型戦艦二隻は就役した。
無論、高角砲や対空機銃は充足しておらず、水上偵察騎も搭載していない。内部もその多くが未完成であった。しかしながら列強海軍でもやっと運用が始まろ うとしていた四〇㎝を越える巨砲を一二門も搭載し、その排水量と全長も最大であるその偉容は、皇国のみならず周辺諸国にすら大きな波紋を投げかけることは 間違いない。
他勢力の戦艦が口径と排水量を偽っていなければ、であるが。
「まぁ、確かに大きい船を作って、それを魔導技術にものも言わせた強力な魔導機関と主砲を搭載しただけだ。魔導技術をこれほどに取り入れた戦艦も少ないだろう」
「何か良く分からないですけど凄いです。主様がこんな凄い船を率いてるなんて」
トウカはミユキの言葉に曖昧に頷く。
実は今回の作戦は、トウカのクラナッハ戦線とベルゲン強襲に於ける一連の戦闘を疑問視した者達を払拭するためのものであった。その為、この艦隊の艦艇の 何隻かには他の北部貴族領邦軍の観戦武官が搭乗している。無論、シュットガルト運河に面した幾つかのケーニヒス=ティーゲル公爵寄りの貴族領に掣肘を加え るという建前があるが、実際のところは侵略者も真っ青な言い掛かりに近い武力行使になる。
「常在戦場の何たるかを観戦武官達に見せつけましょうかね」
「???」
首を傾げるミユキを抱き寄せて、艦内への移動を促す。吹き付ける風が見張り員の体力を削がない様に、上面開放式の防空指揮所には防風障壁が展開されてい る。戦闘時に、機銃掃射対策に軽度の攻撃であれば防禦できるだけの防護障壁が展開できるのは、皇国の戦闘艦艇に在っては珍しいことではない。対艦戦闘時に
は、大質量の砲弾すら弾き返す魔導障壁を展開する以上、その程度の障壁は然したる負担を強いるものではない。
だが、遮光はされないので、ミユキの肌が焼けては一大事だと、トウカは艦内へとミユキ誘った。
ラッタルは、ちゃんと両の手摺りを持ち、一段ずづ足を分散して乗せて移動しましょう。