第八四話 二人の夜
トウカの左腕を抱き締めるようにして離さないミユキが、尻尾を振りながらトウカを上目使いに見上げて小さく唸る。
フゥーッ、と毛を逆立ててミユキは周囲を威嚇する。
しかし、ピンと立った狐耳が怒っている姿を愛嬌のある姿に見せているのは、やはりミユキの持つあどけない美貌ゆえだろう。周囲の士官達は、それを見て一 様に困った表情を浮かべている。ミユキが天狐族の姫君であることは周知の事実。マリアベルはトウカを優遇してもいるが、ミユキもまた優遇していた。
着せ替え人形にしたり、高級料理店に連れて行ったり、副官待遇で工廠や兵器廠の視察に同行させたりなど、その遣り方は兎も角としても大いに可愛がってい るといって差し支えない。姉妹揃って可愛がり方が偏っていることは一部の貴族の間では有名なのだ。親の顔が見てみたいものである。
「むぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅっ!!」
怒ってます。仔狐様、めちゃんこ怒ってます。
胡坐を掻いた膝に全力で擦り寄るミユキの頭を、トウカは優しく撫でる。焼き餅を焼かれることは決して不快ではなく、寧ろそれだけ真剣に自身を想っていてくれると実感できるので気恥ずかしさが表情に出る。
「……誤魔化されないですよ?」
「ちょっとした戯れだ。部下への気配りだぞ」
「じゃあ、恋人への気配りは何処に行っちゃったんですか? はい、どうぞ」
ミユキは、近くの野戦机に置かれていた硝子碗をトウカに手渡すと、背に手を回して酒瓶をどこからともなく取り出す。尻尾に隠していたとしか思えない酒瓶にトウカは顔を引き攣らせる。
栓を開けて並々と注ぐが、トウカはその古典的な形状の酒瓶の粘着紙を見て更に口元を引き攣らせた。
それはマリアベルが死蔵していた一本だった。
ヴェルテンベルクの寒冷な土地で造られたウィシュケは、高級品は勿論、安価な物であってもそれなりの質を誇っており、大陸のみならず諸外国にもその名を轟かせていた。だが、ミユキが手にしているのは、その中でも市場に出回ることのない簡素な粘着紙を張り付けた逸品で、市場に出回ることを前提にしていない一本。
「パトリキウス……だったか?」
一本で駆逐艦一隻が購入できるとされる高級エスターライヒ・モルトの、非公式な上位種であるそれは、初代天帝の提案……切望と懇願に応じてウィシュケの 製造大系を築き上げた男性の名を冠する一本であった。今となってはマリアベルの命令で、マリアベルの為だけに製造される一本である。エスターライヒ・モル
トは希少種として知られる紫苑桜華で作られた樽で五〇年熟成され、気品のある香りと花咲くような風味で貴族達には根強い人気があるが、パトリキウスはそれ
だけでなく熟成年数を一〇〇年までに延長している。高位魔術による原子規模での干渉と温度管理、独特の煙のような香を出す為の泥炭や、味わいに深みと多様性を出す為に二八種類の薬草や魔術媒体を使用している。
重巡洋艦一隻分の資金が製造に必要と言われる所以であるが、この一本を巡って中央貴族の一部と摩擦が起きたことすらあるので、一種の政治的な切り札にすら成り得え、それはもはや限定的な兵器ですらあった。
「はい、遠慮しないでくださいねっ。新品ですからいっぱい入ってるし、どんどんいっちゃってくださいね?」無垢な笑みを浮かべるミユキ。
パトリキウスは、樽出し原酒であった。
ウィシュケは基本的に蒸留した後樽の中で何年も熟成させるが、同じ製造過程を経たものでも、樽ごとに熟成や味の具合が微妙に異なる。そこで味を均一にす る為に蒸留所で製作した同様の銘柄の樽同士を混ぜ合わせて味を揃える作業が成される。さらに、瓶詰めするときはそれに加水して酒精度数を下げて、それを出 荷する。通常、出回るウィシュケはそういった過程になる。
だが、熟成している樽の中には出来の良いものから悪いものまで様々な状態のものがあり、あまりに出来がいいと混ぜるのが躊躇われ、その樽だけで瓶詰して市場に流すことが稀にある。これを樽出し原酒と言い、この場合は加水していないことが殆どで、酒精度数も極めて高いものが多い。
つまり、硝子杯に並々と注ぐような酒ではない。
「一気にいっちゃってください! 騎士道です!」
――俺は武家なんだが。
断じて一気に飲むような酒ではない。
そういった公明正大で明朗闊達を旨とする思想とは正反対のトウカだが、ミユキの前では騎士道なりを演じねばならない。どちらかと言えば武士道……でもなく外道に近いトウカだが、恋人相手にそれを前面に押し出すほど無神経ではない。
そもそも騎士道という思想は、騎士たる者が従うべきとされたものだが、決して実際の騎士の行動が常に騎士道に範を取ったものではなかった。
寧ろ剣や鎧のなどの武器、防具を独占する領主などの支配層は、しばしば下剋上や略奪、強姦、残虐行為などを行うことがあった。それ故に騎士の無法を抑止 する為、倫理規範、無私の勇気、気高き意志、慈愛と慈悲の精神といったものを“騎士道”という無形の倫理で押さえ付けることを目的として、その思想は形成
された。騎士道を範として行動する騎士は多くの者から賞賛され、騎士もそれを栄誉と考えることで、それは一応の成果を見せた。
間違ってもトウカには似合わないものである。
――いや、そもそも一気飲みを騎士の振る舞いとするのは無理が……。
そう思いつつも並々と注がれたパトリキウスの芳醇でありながらも樽出し原酒特有の高い酒精度数の噎せ返る様な薫りに、トウカは避けられないと悟る。
硝子杯を手にトウカは立ち上がる。
「サクラギ・トウカ代将、行くぞ!」
最早、やけくそである。否、酔っていると言ってもいい。
だが、トウカの内心とは裏腹に周囲の士官は盛り上がりを見せる。
ミユキに突き飛ばされたメルトマンは、カリストに抱き起されているが、それ以外の者は手を叩き、硝子杯を掲げて気分は最高潮であった。
トウカは一息に、硝子杯を煽る。意を決して、自害の為に毒物を飲む貴族の気持ちがよく分かった瞬間である。
パトリキウスが、芳醇な香りをその高い酒精度数で喉を焼きながら体内へと滑り落ちる。共に意識も刺激と共に堕ちそうになるが、酒気をゆっくりと吐きながらも噎せ返りそうになる胃を落ち着けた。
「遠慮しちゃだめです。まだまだありますよっ!」
トウカの手で中身を失い空になった硝子杯が、ミユキに再びパトリキウスを注がれて冷たく自己主張する。
神は……仔狐は無慈悲である。
嬉しげに尻尾を振るミユキを見ては、トウカも立ち向かわざるを得ない。水割りにしてみるべきかという考えが過ぎったものの、それは男らしくないとトウカは内心で却下する。そもそも水を足せば酒精濃度は下がるが、質量は増大するので賢明な判断とは言えない。
遠くではリルカの歌声が聞こえるが、トウカはそれどころの騒ぎではなく、思考が鈍化し始めたことを自覚しつつ二杯目に口を付ける。一息に飲み干すと周囲 の歓声が一際大きくなるが、トウカは硝子杯を手放してミユキの手を掴み上げた。手放され宙を舞った硝子杯が練石製の地面に落ちて破砕音を響かせるが、天井 知らずの歓声がそれを掻き消し、意識を向ける者はいない。
否、それはトウカが、ミユキを抱き寄せたからに他ならない。
「ぬ、主様、酔ってますよ!?」
「勿論、貴女に酔ってますよ。もう、べろんべろんだな」
めろめろではなく、べろんべろんである。
実際、トウカは泥酔していた。御目麗しい女性士官が期待の眼差しで次々と白麦酒を注いでくる以上、断り難いものがある。ということはなく、寧ろ女性士官の背後にいる各兵科の代表達の圧力ゆえであった。
その後に並々と注がれた樽出し原酒。
通常ならば即死案件である。
紫苑桜華の樽と泥炭や香草、魔導触媒の香味に、ミユキの甘い薫りが加わり、トウカの鼻孔を擽る。酒精だけでなく、その薫りまでもが思考を侵食していくことを感じつつ、もトウカはその動作を止めることはなかった。
腰に手を回して一層強く抱き寄せて、トウカはミユキの顎に手を添えて持ち上げる。
交差する視線。
しかし、其れを振り切り、トウカは唇を奪う。
耳が痛いほどの歓声を無視して、トウカは口内に残っていたパトリキウスを、ミユキに口移しで流し込む。驚いたミユキだが、両目を目一杯に瞑ってパトリキ ウスを飲み下す。あまりにも近い距離なので、ミユキの喉の鳴る音さえ聞こえてくる。初めて感じ取った色香と胸板に当たるミユキの大きな胸の感触も相まっ て、トウカの心臓も早鐘を打つ。
鼻先を擽る狐耳の獣の香り、酒精の身体を侵徹するかのような薫りが心身を犯す。
朱の散ったその表情が堪らなく愛おしい。心の底からそう思えた。
数値化できない、確定する事の叶わない事象がある事は理解しているが、それを恋と呼ぶのならきっとこれがそうなのだろうと確信するに値するだけの強制力。
「ミユキ……」
仔狐の頬を撫で、異邦人は笑みを零す。
――こんな日常が続くならば、この世界も悪くはない。いや、俺が続かせる為に動かねばならない。
ミユキを再び抱き締める。
強く、強く……
歓声は遠く、手中の仔狐だけが異邦人の現実へと移り変わりつつある中、愛しい人の重みが心地良い。
「ミユキ?」
過度な緊張をしているのか動かないミユキに、トウカは視線を下ろす。
「きゅぅぅぅ……」
目を回したミユキの口から魂の抜けるような声が漏れた。
崩れ落ちそうになったミユキを、トウカは慌てて支える。
歓声と苦笑の嵐の中、トウカは呆れと共にミユキを抱え上げる。俗にいうところの御姫様抱っこであった。囃し立てる男性将兵の口笛と憧憬の声を上げる女性将兵。
道を開ける将兵の中央を、トウカはミユキを抱えたままに悠然と歩いた。
その堂々たる佇まいは、ミユキに対して決して何ら後ろめたいことなどないという意志の表れとしての動作である。リシアとの一件は然して動揺するほどのも のではないと示すことで、ミユキの心が揺れる事を最小限に留めようとす為であるが、当のミユキに意識がない以上、トウカの意志の発露は無駄遣いに過ぎな かった。
――決して、ミユキが起きていると出来ないから今している訳ではない。
トウカもまた、ミユキに対して気恥ずかしいという感情を持っている事を知っている者は極限られたものだけであった。
トウカは、ミユキを寝台へと寝かし付ける。
本当であれば、ここはミユキの部屋に運ぶべきなのだが、鍵が掛かっていて入れなかったので止むを得ず自室へとトウカは運んだのだ。屋敷内で通り過ぎる侍 女(と言っても全員が軍属であるが)の温かい視線と、過ぎ去り際に漏らす漣の様な笑声が肺腑に突き刺さるので、トウカも精神的に限界であった。パトリキウ
スの酒精によって思考が鈍化していたこともあり、火照った身体を冷ます為、ミユキが寝息を立てている寝台に腰を下ろす。
「全く……御前は本当に自由気儘だな」
ミユキの髪を右手で梳かしながら、トウカはくぐもった笑声を零す。
よく考えてみれば、この世界で最近まで根無し草であったトウカ。その行動理由の源流を辿れば、ミユキの自由気儘さに起因していた。無論、それをトウカは否定するわけではないが、見方を変えれば我儘に振り回されているとも取れなくもない。
だからこそ余計なことを考える暇すらなかった。
トウカにとって、それは何ものにも勝る救いであった。
大日連に残してきた祖父だが、唯一の直系であるトウカを喪ったことで跡継ぎ問題で怒り狂っているかも知れない。
ふざけた年齢である祖父だが、流石に次代の当主を選ばねばならないはずであり、御家騒動が起きている可能性がある。一番直系に近い分家の桜守姫家の令嬢 を養子として引き取ることで回避するだろう。分家を抑える為に憲兵総監や近衛軍司令官に協力を仰げば難局を乗り切ることは難しくないはずであった。問題は
桜守姫家の令嬢が桜城たるの資質を有しているか否かの判断が付かないことであり、もし祖父の目に叶わないなら……斜陽の祖国は憂国の藩屏を喪うこととな る。
そして、何よりも幼馴染が心配であった。
トウカが、祖国が戦人の宿命を受けて“製作”されたように、幼馴染もまた何かしらの目的を意図されて“製作”されたことは疑いない。だが、トウカにはその目的が分らないので、最悪、“処分”される可能性がある。この点が一番の不安だった。
――計画の実質的な最高責任者が、国防軍総司令官の土方元帥であることが気に入らん。あの男は俺を排除することも視野に入れていた。
トウカは若くして大日連の至上命題に関わり過ぎた。元はトウカが漏らした妄想の様な計画をいい歳をした老人連中が大真面目に遂行した結果だが、その相談に乗り続けたことが問題であった。
「まぁ、そこは糞爺ぃに期待するしかないか。腐っても英雄、矯正は得意だろう」
現職の聯合艦隊司令長官や総参謀長に拳骨や雷を落とす祖父ならば、外圧など容易く撥ね退けるだろう。
トウカは、今一度、ミユキの髪を梳く。
既に関わる術はない。或いは、既に何かしらの結末が付いているかも知れない。世界間の時の潮流が不確定にして不安定である以上、大日連の崩壊どころか地 球を有する世界が崩壊している可能性もある。逆にまだ一秒の時間すら経過していない可能性もあるのだが、座標の不明な世界を確認することは、神の座にでも 就かねば叶わないことであった。
だからトウカはミユキを大切に扱う。宝物を手に取るように、壊れ物を手にするかのように。
ミユキこそが、トウカが異世界という大海原を航海して往く上で必要不可欠な羅針盤なのだ。
緩やかな寝息を立てるミユキを今一度、眺めるとトウカは立ち上がる。女性が就寝している部屋に意味もなく滞在し続ける事は、たとえ自分の部屋であっても躊躇われた。
軍用長外套を手に取り、トウカは歩き出そうとする。
しかし、軍用長外套が引っ掛かったのか、後ろへと引っ張られる。
「っ、と……ミユキ……起きていたのか?」
「………何度も髪と耳を触られちゃ、嫌でも起きちゃいます」
酒精も手伝ってか顔の赤いミユキが、口元を毛布で隠しながら狐耳を頻りに動かす。そんな仕草で見上げられては、寝ろと頭ごなしに言うことはできず、トウカは諦めて寝台に腰を下ろす。良い様に誘導されている気がしないでもないが、それは今更である。
「起こしてしまったようだな。すまん」
「じゃあ、一緒に寝てください」
間髪入れずに返ってきた言葉に、トウカは小さく笑う。元からその心算だったのだろうということは、その強く握られた軍用長外套から見て取れる。
だが、酒精で判断能力が落ちているのか、トウカは言葉を返せなかった。今、この場でその言葉に頷いてしまえば一緒に枕を並べるだけでは済まないだろう、とトウカは頭を振る。
しかし、ミユキの手が伸びて、トウカの服を掴んで寝台へと押し倒す。ミユキらしくない問答無用の力技に驚くトウカだが、上質な羽毛の使われた寝台も手伝って背中の感触は優しげであった。
仔狐に馬乗りにされた異邦人。
文字通り狐に化かされた気分である。ミユキがトウカに対して直接的な手段に訴える事はこれが初めてであり、トウカをしても予想だにしないことであった。
「主様……驚いちゃいました?」
「酔っているぞ、ミユキ。早く寝ろ」
そう口にするのが精一杯であったが、ミユキはその程度では引かない。何よりも悲しみに歪んだ表情が安易な反論を許さなかった。
「嫌です。主様は、何時も御仕事ばかりで、私に構ってくれないです……。普通の恋人みたいに一緒に何処かに行ったりもないですし、一緒に居てくれることもないんですよ! そんなの嫌です!」
「それは……」
「主様はいつも何処かで戦ってます。いつか居なくなっちゃいそうで……」
ミユキに構ってやる事ができなかったのは、軍務があったからであるが、ミユキに釣り合うだけの立場を得る為という目的があった。しかし、其れを理由にミ ユキの心を疎かにするのは本末転倒であり、トウカは恋人を相手にするには、最も正解に遠い手段を取り続けていたと言える。無論、そこにはトウカの恋人に対
する複雑な感情もある。恋人という存在……否、現象を理解できてないトウカは、無意識にそれを避けようとしていた。
「……俺は御前の好意と我慢に甘えていたのかもな」
涙を流すミユキの頬に、トウカは手を伸ばす。
何と脆弱な意志か。恋した少女に、これほどまでに寂しい思いをさせておいて、軍人や武人などとは片腹痛い。所詮、周囲が謳う戯言だが、事にミユキの前に在っては、これを真実として振る舞わねばならない。ミユキの総てを護り、共に在り続ける為に。
これは、二人の関係にとっての分水嶺。トウカは、それを直感で感じ取ることができた。少なくともその程度の成長はしていた。
トウカは、ミユキの肩を掴むと有無を言わせず押し倒して、今度はミユキを寝台へと押し付けた。ミユキは驚きの表情を見せたものの拒むことはなく、ただ黙って体勢が入れ替わることを許す。
狐耳がピンと張り、緊張していることが見て取れるが、トウカの内心にも相手を思いやる余裕はなかった。
寝台に横たわったミユキに覆い被さる形になったトウカ。鼓動が痛いくらいに自己主張をしており、緊張に喉が震える。
「……御前が欲しい」
息をゆっくりと吐き出すように宣言する。
ミユキが同意の言葉を紡ぐ事すら確認せずに、トウカは唇を重ねる。
優しくも貪るように異邦人は求め、子狐もそれに応じた。
窓から差し込む月明かりの元、二人の影が重なり、倒れる。
「やってしまった……」
自己嫌悪しながら、室内に立ち込める獣の匂いに何とも言えない顔をする。
寝台上で身を起こすトウカ。
――つい歯止めが……自分がこうも貪欲だったとは……
身体中に汗などがこびり付き不愉快なこと極まりないが、主たる原因は自分であるので、文句を垂れる気にはならない。取り敢えずは、風呂に入らねばならない。
現在の惨状を如何様に処理したものかと思い悩んでいると、蠢く気配を感じた。
仔狐も起きたようだった。
隣で敷布に包まり、むぅ、と唸っているミユキの頭を撫でてやる。その髪や狐耳も色々と染み付いて何時もの金糸のような輝きはなく、トウカの身体と同様に少しべた付いており、あまり心地良いものではないのか、ミユキの瞳が小さく揺れる。
夢現で狐耳を萎えさせたミユキを尻目に、下着と軍袴を履き、トウカは寝台に座る。
繭のようになった敷布から顔だけを出したミユキの表情は、寝惚けながらも不愉快さを感じている色をしていた。身体中に付いた獣の匂や、愛し合った痕などでそれほどに酷い有様なのだ。
敷布の繭から伸びていたミユキの尻尾を掴むと、色々とこびり付いてかさかさになっており、さらさらとした感触がなくなっている。尻尾まで使うのはやり過ぎたと反省する。ミユキは余り嫌がっている風ではなかったが、尻尾がもふもふしなくなるのは、トウカが嫌であった。
寝台横に据え付けられている机の上に置かれていた薬缶から、木製杯に水を注いでミユキに差し出す。
首を振るミユキ。動くことすら辛いのだ。男の欲望を一身に受けた身体は、起き上がることすら辛いほどの倦怠感に包まれているのだが、当の本人であるトウカはそれを知らなかった。比較対象のいないトウカにとっては、自らが無理をしたという意識がないのだ。何より酒精の為に記憶も曖昧である。
高位種の身体能力はトウカを遥かに優越するものだが、それを支える魔術はその精神の在り方に依存する。今のミユキは疲労もあって然したる力を発揮できないのかも知れない。
木製杯を机の上に戻そうとするトウカの脇腹を、ミユキの尻尾が叩く。
「飲みたいのか?」
うんうんと頷く子狐。
飲みたいが身体を動かせないから飲ませて欲しいということだと察したトウカは、水を口に含んで、ミユキの唇に口付けで飲ませてやる。世間で言うところの口移しであった。
ミユキが顔に朱を散らしながらも、飲み込んだのを見てトウカは口を離す。二人の唾液が糸を引くが、それを気にするほど今の二人の身なりは上等なものではない。
「まだ飲むか?」
仔狐は首を横に振る。
それを見たトウカは、少し肌寒さを感じて軍用大外套を羽織る。
「お湯を用意する」
トウカに与えられた一室は、将校に与えられるものであるが、その中でも特別に広く多くの設備を完備した一室であった。無論、それは執務室と自室を兼ねる 上、マリアベルの領主としての職務も押し付けてしまえという思惑もある。部屋から一歩も出ずに済むほどに充実しており、中には露天風呂すらあった。部屋に
缶詰になって執務に励めとも取れるが、今この時ばかりは自室に感謝しても良い、とトウカは曖昧な笑みを浮かべる。
ミユキの身体を拭いてやらねばならない、と寝台から立ち会がる。
だが、そんなトウカをミユキの声が引き止める。
「主様」
振り向くと、寝台の上でぎこちない動作で正座したミユキが、身体を敷布で隠し、三つ指立てて頭を深く下げていた。
「不束者でありますが、末永く御寵愛戴けますようお願い致します……」
何時もとは違う、凛とした雰囲気のミユキ。
既に幸せや不幸の定義に思い悩む季節は過ぎ去った。これからは、結果や過程などを気にしている暇があれば、より良い未来を得る為の策を巡らせ続けねばならない。
トウカは、ミユキの人生を背負ったのだ。
トウカは迷わない。
ベルゲンでレオンディーネの副官を務めていた軍曹の言葉は正しかった。ミユキを幸せにできるのかという、あれほどに大きかった疑念が、今では数ある小さな疑問の一つへと成り下がっている。
肌を重ねた為の、若さ故の短慮な考え方かも知れない。
二人なら何処まででも歩いて往ける。一人であれば切り開けない未来も、二人であれば何とかなるだろうという根拠のない自信。
この根拠のない自信の依るところが、恋であるというのであればトウカは肯定する。
これほどに清々しい気分は初めてだった。
異邦人は子狐の前に立つ。
「貴女と共に。那由多の限り」
自らの胸に右手を添え、命に代えても、と応じた異邦人に子狐はぎこちない笑みを浮かべた。
二人の真の意味での邂逅は歴史にどのような結末を齎すのか。
それを知る者は、誰一人としていなかった。
「ううっ、まだ痛いです……」
寝台の上で頬を染め、内股になる子狐。
その言葉に、どう返して良いか分からない異邦人が風呂場のほうへと飛び出したのを見て、ミユキは小さく微笑む。ミユキだけが気恥ずかしい想いをしている のは公平ではないと考えていたのだが、この様子を見る限りはトウカもそれなりに気恥ずかしい想いをしているのだと溜飲を下げる。トウカはそういった感情を
表情に出さないので、ミユキは何かしらの手段で揺さ振らない限りはその本心を知る事ができないのだ。
「えへへっ……」
ミユキは敷布に包まりながら、寝台の上をごろごろと転がり回る。
確固たる繋がりができてしまったからか、トウカが遠い存在に思える事はもうなかった。武官としても文官としても活躍の場を得つつあるトウカは、此度の戦 功によって更なる躍進を遂げた。トウカの為に作られた階級と地位、そしてそれに群がる女性や金銭、権力の影。そのどれもがミユキを不安にさせるには十分な 誘惑と力を持っていた。
だが、それは昔の話。
ミユキは敷布に付いた血の痕に小さくはにかむ。
恋人同士が繋がりを求める上で、身体を合わせるというのは安易な考え方なのかも知れない。だが、それでも心がこんなにも満たされ、不安が春先の雪の様に溶け消えゆくと思わせるだけのナニカがあった。
精神は肉体という枷を優越することはできない。そんな言葉は、魔導技術が発展し、肉体という容量を増強し、精神に干渉できるだけの魔術的進歩もあって、今となっては過去に過ぎない。
しかし、魔導などという無粋なものの力を借りずとも、ヒトは枷を超越できるとミユキは確信していた。
肉体に引き摺られた結果として精神が、その枷を優越することとて有り得ないことではない。
「だって恋は無限大だから」
ミユキは敷布を纏って立ち上がる。
ここで満足しては電撃戦とは呼べない……気がするミユキは、トウカが撤退した浴室方面に対して進撃を開始した。