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第六九話    Blitzkrieg

 


「左翼、何をしている! 早く下がれ! 装甲砲兵大隊、誤射しても構わない、支援しろ!」

 喉頭音声機(タコホーン)越しに怒鳴るトウカは、既に砲手に指揮戦車の指揮を押し付ける。車長用司令塔(キューポラ)から半ば身を乗り出すように、トウカは〈第一装甲聯隊『ラインバッハ』〉の指揮を続けていた。

 身に付けた音響受信機(ヘッドセット)から聞こえる報告に対し、手振りを交えて指揮するトウカに軍狼兵が斬り掛かってくることもある。それは凄まじい速さで割って入るベルセリカに(ことご)く阻止されていた。

「御屋形様、軍狼兵は粗方始末したが装虎兵の主力が近づきつつあるで御座ろう。何とする?」

「後退しつつ応戦だ。戦闘団指揮官殿とつんつん姫から無理矢理にでも目を逸らさせる」天蓋に拳を振り下ろしてトウカは笑う。

 指揮官は何時いかなる時であっても余裕を見せていなければならない。指揮官の悲壮と戦意は旗下の将兵に伝播するからである。ベルセリカという絶対的な護 り手が存在する以上、この場で己の生命を心配することは無意味であった。盛大に身を晒し、将兵を鼓舞することを躊躇う必要はない。

 既にかなりの時間が経過しており、軍狼兵は駆逐されつつあるが、列車砲の砲撃に数を減らしたとはいえ、装虎兵聯隊と〈第一装甲聯隊『ラインバッハ』〉が 長砲身砲の射程に入りつつある現状は極めて不利であった。未だ戦力比では〈第五〇一機動師団『ヴェルゼンハイム』〉が優位にある。

 装虎兵聯隊と〈第一装甲聯隊『ラインバッハ』〉は機動列車砲の一斉撃ち方によって隊列を乱されたままに突撃しつつあった。現状では列車砲も友軍誤射を恐れて砲撃を中止しており、トウカは現有戦力のみで対処せねばならない。

「砲撃を継続しつつ密集しろ! 敵を隊列に入れるな!」

 大幅に数を減らした装虎兵だが、トウカ旗下の〈第一装甲聯隊『ラインバッハ』〉も無視できない被害を受けており撃破された車輛は少なくない。魔導刃で履帯を着られて行動不能に陥った車輛が多く、集結できない車輌も遠目に散見できた。

 装甲砲兵大隊と再装填を終えた補給大隊の多連装擲弾発射機(ネーベルヴェルファー)による盛大な突撃破砕射撃によって再度、鉄と火薬の弾幕が形成されるが、その半数近くは装虎兵の魔導障壁に阻まれる。辛うじて多連装擲弾発射機(ネーベルヴェルファー)の大威力によって障壁を砕く事に成功する場面もあるが、その隙も部隊連携によって素早く塞がれた。中には多連装擲弾発射機(ネーベルヴェルファー)の初速が遅い噴進弾という特徴を逆手に取り、砲撃型魔術で撃墜する猛者も少なからず存在する。皇国最精鋭の兵科という風評は決して誇張ではない。魔術とは斯くも厄介なのもか!とトウカは歯噛みした。

「通信大隊、戦闘団司令と連絡は取れるか!」

「正面で魔力を盛大に撒き散らしている連中がいるのですよ!? 上空の偵察騎を経由しても無理です!」

 喉頭音声機(タコホーン)を喉に強く押し付け て、尋ねるトウカに対して通信大隊指揮官は不可能だと負けじと言い返す。既に征伐軍〈第一装甲聯隊『ラインバッハ』〉の主力戦車とされるクレンゲルⅢ型歩 兵戦車の砲の射程圏内までに接近を許しており、飛び来る砲弾の着弾音は通信を難しくしていたので双方共に怒鳴り合うかのような態度である。

「正面、装虎兵、圧力増大! 来ます!」

 隣に停車したⅥ号中戦車の戦車長の言葉に、トウカは応戦の指示を出すが予想よりも早い接敵に舌打ちを一つ。

 密集隊形の構築は完成しつつあるが、装虎兵の移動速度が高速である程に支援砲撃時間は減少を強いられる。戦車砲の砲撃の照準が炸裂炎や黒煙に妨害されることを恐れたのだ。装甲砲兵大隊のⅥ号自走重榴弾砲と補給大隊所属の多連装擲弾発射機(ネーベルヴェルファー)は次々と支援砲撃を停止する。

「戦車隊、各個撃ち方始め!」

 右手を振り上げたトウカに、鋼鉄の野獣達が応じる。

 密集した聯隊規模の戦車による砲撃は壮観の一言に尽き、順次、直撃する徹甲弾に上面から魔導障壁を貫徹され、破片によって肉片となり雪原を染め上げる装 虎兵がいれば、逆に徹甲弾を斬り落す装虎兵も存在する。練度の差が顕著なのは、生物を兵器として運用しているからこそであり、先天的な能力に大きく依存す る兵科故の強さにして脆さであった。

 しかし、装虎兵もそれを重々に心得ており、古参兵や熟練兵を先頭に突入し、若年兵や新兵を後続させていた。その高い技能に驕ることのない姿勢は賞賛に値するが、〈第一装甲聯隊『ラインバッハ』〉将兵にとっては迷惑以外の何物でもなかった。

 ――これでいい、二人から目を逸らせたなら十分だ。

「敵戦列中央に砲火を集中!」

 楔形隊形で突入してきた装虎兵に対して、〈第一装甲聯隊『ラインバッハ』〉は楔の鋭い先端へと砲火を集中させる。

 トウカの指揮戦車は密集隊形の中央にあったが、既に肉眼でもその輪郭を見る事が叶う距離まで迫る装虎兵の一部が体勢を崩し、魔導障壁が乱れたところに戦 車砲が集中する。至近の装虎兵がその穴を埋めようとするが、それを見逃すほど〈第一装甲聯隊『ラインバッハ』〉の練度は低くない。

 体勢の崩れた装虎兵へと、次々と集中する砲弾。

 だが、長砲身化によって初速と威力が増大していた砲弾を、後続の装虎兵との連携による魔導障壁の多重化で辛うじて防いでいた。しかし、一度、体勢が崩れてしまえばその間隙は増大する。

「やってくれる!」

 一人の装虎兵が、隣の戦友へと迫る砲弾を対戦車小銃の銃身に展開した魔導刃で斬り上げる。金属音を立てて蒼穹へと弾道変更したであろう砲弾にトウカは眉を盛大に顰めた。

 砲門を視認できるほどに至近に迫ったからこその芸当。砲身の動きと発砲炎を見極めることが容易になったからこそ。初速の遅い噴進弾とは違い視界に捉えら れない程に高初速で弾体小さい砲弾を迎撃することは神業と称しても差し支えない。ただの人間種でしかないトウカからすると噴進弾の迎撃だけでも十分に非常 識であったが、砲弾を迎撃するなど想像の埒外であった。

「止む無しかッ! 全車、弾種変更! 対装甲榴弾!!」

 喉頭音声機(タコホーン)越しに決断を下す。

 苦渋の選択であった。


 対装甲榴弾。


 それは秘匿兵器の一つとしてトウカが極秘裏に開発を指示し、先行量産が始まったばかりの新型砲弾であった。

 トウカの故郷の大日連陸軍では成形炸薬弾と呼ばれる対戦車戦闘を前提とした貫徹力に優れる砲弾である対装甲榴弾は、着弾時の速度によらず貫通力が一定で あった。遠距離射撃用の戦車砲弾や速度の遅い対戦車噴進弾などに用いられている。成形炸薬を用いた砲弾で、モンロー・ノイマン効果を利用しており、戦車を 標的とすることから対戦車榴弾(HEAT)とも呼ばれていた。大日連陸軍に於いて今となっては取って代わった装弾筒付翼安定徹甲弾(APFSDS)などの 運動エネルギー弾に対して化学エネルギー弾に分類される。その特徴は構造が比較的単純なことであった。それに目を付けたトウカは研究開発を命じ、それは一 週間足らずの内に試作まで漕ぎ着けて先行量産へと進んだ。無論、量産設備が整っていない現状では、開発部門の資源(リソース)を割り振っての非定常作業による生産であり、希望の定数には遠く及ばなかった。単純な構造の代物とは言え、短期間での量産は難しい。

 対装甲榴弾の運用目的は、戦術的運用を意図したものではない。

 念の為にと搭載し、戦車放棄時には自壊すら義務付けていた対装甲榴弾だが、通常の徹甲弾であっても長砲身の換装に伴い、この大陸に現存する装甲兵器を決戦距離から貫徹可能な為、今作戦での運用は特殊目標との遭遇を除いてトウカは考慮していなかった。

 しかし、この期に及んで躊躇ってはいられないと、トウカは判断した。

 次々と砲射する鋼鉄の野獣達。

 弾種が変更されようとも砲声に変化はない。

 指揮官用魔導障壁によって砲煙や砲声、衝撃波から身を守ることができるので身を乗り出したままに砲射が可能であったが、既に至近迫る装虎兵を視認し続けるという行為は著しく忍耐を強いられる行為である。

 指揮戦車の砲射。

 一時的に視界が閃光と砲声に満たされる。

 遮光眼鏡(サングラス)をかけ忘れたことを今更ながらに思い出したが、それは黒煙の中で見え始めた眼前の光景の前に再び忘却の彼方へと追い遣られる。

 完全に楔形の突撃隊形先端を挫かれた装虎兵聯隊の惨状。

 血を撒き散らして斃れ伏す装虎兵は、以前にも増して雪原を紅蓮に染め上げていた。

 成形炸薬弾は円柱状の炸薬の片側を円錐形状に凹ませ、そこに同様の形状に金属板を装着した内部形状をしており、凹ませた側と反対側から起爆させることで 発生した爆轟波により金属板を動的超高圧で崩壊させる。そして、爆轟波の進行に伴い漏斗中心に発生した圧力凝集点によって底部から先端まで絞りだされる様 に液体金属の超高速噴流(メタルジェット)を発生させるのだ。

 円錐形状や金属板の加工精度の改善、効率良く超高速噴流が生成するように魔術による爆速調節。爆速の異なる二種類の炸薬を組み合わせた爆薬透鏡(レンズ)の構造を用いるなどの技術的課題はあったものの、生産に漕ぎ着けた対装甲榴弾はこの場に於いて猛威を振るった。

 複数の装虎兵が連携展開した多重魔導障壁は極めて強靭な抗堪性を有し、重砲の直撃すら阻むことができるが、成形炸薬はそれを超高速噴流という異色の圧力で破砕した。

 数多の翡翠色の障壁が砕け散り、粒子となって消えゆく。

 魔導や科学によって形成された装甲を破壊する対装甲榴弾の猛威はそれだけに留まらず、余波の超高速噴流が装虎兵を襲った。

 魔導障壁すらも侵徹する超高速噴流は装虎兵と白虎の身体をその圧力と高熱で無惨な姿へと変える。

 しかし、装虎兵聯隊の突撃は止まらない。

 突撃隊形の要である先端部の大部分を失っても尚、進撃を止めない。

 その姿、まさに悪鬼羅刹。

 〈第一装甲聯隊『ラインバッハ』〉の中には時折、恐怖に駆られて後退しようとする車輛すら見受けられ、下士官や士官の制止によって辛うじて戦列を維持している状態となる。

 裂帛の意志と確固たる決意は、時に戦わずして敵の戦意を挫くことすらある。

「狼狽えるな! 砲射継続!」

 既に至近へと迫る装虎兵を前に、トウカは叫ぶと軍刀を手にして車長用司令塔(キューポラ)から飛び出して天蓋へと仁王立ちした。既に機動を捨てて停車したままに、砲射を繰り返す砲台となった戦車上だからこそ可能な芸当である。

「我等が結末は、勝利か死あるのみ!!」

 最早、戦術も統制もない。戦意と戦意の衝突である。

 〈第一装甲聯隊『ラインバッハ』〉が猛る。

 悍ましい狂気と凛冽なる殺意の宿った蛮声が、トウカの視界を揺さぶる。

 だが、装虎兵に近接戦闘を挑まれた時点で、勝利への手段は失われていた。

 しかし、それでも尚、戦うのだ。

「我等の背後は郷土だぞ!!」

 そう、背後は何物にも代え難き彼らの郷土がある。

 故郷とは最愛のヒトを内包している存在である。

 それだけが〈第一装甲聯隊『ラインバッハ』〉……〈ヴァレンシュタイン戦闘団〉を死地へと踏み止まらせる理由であった。

 だからこそ戦場に鋼鉄の奇蹟は舞い降りた。


「よう言った。それでこそ我が子よの」


 楽しげな、それでいて無邪気な女性の声が戦野を吹き抜ける。

 それは母のようであり、姉のようであり、何処か絶大な信頼を抱かせる声音で奇蹟の到来を告げた。伝声魔術により戦野を吹き抜ける凪の如く敵味方を問わず語り掛けられたそれに、双方共に戸惑い、そしてそれを認識する前に装虎兵聯隊に結果が突き刺さった。

 幾百もの砲火という形で。

 右翼の森林地帯からの幾条もの火箭が流星の如く降り注ぎ、その魔導障壁の疎かになっていた側面に鋼鉄の痛打を与えた。

 弾き飛ばされるように斃れ伏す多くの装虎兵。

 装虎兵の魔導障壁は高い抗堪性を有しているが、それが常時展開されているという訳ではなかった。通常の行軍時は魔力消費の低減を意図し、歩兵による小銃 射撃や砲撃に対する破片効果の対策として比較的薄い魔導障壁を展開しているだけである。鋼鉄によって構成される兵器と違い、生物がその兵器としての中核を 担う装虎兵という兵科に於いては、燃料である魔力を満たせば能力を一定以上発揮できる戦車とは大きく違う点であった。

 そして、突撃体勢にある装虎兵は側面の魔導障壁が脆弱である。

 これは心理的要因や能力的要因によるところで、突撃時に前面乃至、前面に近い方角に居るであろう目標に対しての危機感から魔導障壁の資源(リソース)を割り振ってしまうという心理的圧迫感。全周囲に対し、対戦車砲などの高い貫徹力を誇る砲に対抗できるだけの強靭な魔導障壁を展開し続けることができる程などそうはいない。特筆した魔導資質を有する者が極めて少ないという、装虎兵各々の能力的差異に依るところであった。

 即ち、装虎兵という兵科は跨乗する魔導士によって基本防禦力を大きく左右されるのだ。

 しかも、装虎兵聯隊を襲った攻撃は、それを見越した攻撃であることは明白で、〈第一装甲聯隊『ラインバッハ』〉に対して装虎兵の意識が集中している時期 を読み切っていた。本来は装虎兵自身がその欠点を理解しており、それを補う為に軍狼兵という高い索敵力を有する相棒を、両翼や威力偵察を兼ねて前衛に配置 している。だが、前衛を務めていた軍狼兵聯隊の大部分は〈ヴァレンシュタイン戦闘団〉による攻勢で壊乱の憂き目に合い、装虎兵聯隊の後方、〈第五〇一機動 師団『ヴェルゼンハイム』〉後衛であるクレンゲルⅢ型歩兵戦車を主体とした装甲聯隊に合流する形で護衛を務めていた。

 それが、ヴェルテンベルクが女神の意図するところであったか、或いはただの偶然であったか、トウカにも分からない。

「砲火を絶やすな!」

 第一斉射で戦列を維持できなくなるほどに突撃隊形を乱した装虎兵聯隊だが、そこに状況を理解したトウカの指示によって再度の攻撃が加えられる。

 さしもの装虎兵聯隊もこれには戦力を摩耗しすぎると判断して後退を始めようと速度を落とし、反転を始めようとする。

 しかし、老練なる廃嫡の龍姫は、それを見逃さない。

 反転の為に雪原を滑る様に強引な停止を見せた瞬間、右翼の森林地帯から再び斉射が放たれる。

 戦車砲の命中率という問題が戦車の攻撃行動にとって一番の課題であり、砲弾は命中しなければ然したる意味を持たないことからも、短時間とは言え目標の停 止する瞬間は好機であった。ましてや高機動を旨として、優速を利して肉薄する装虎兵や軍狼兵などの兵科が戦野で停止することなど極めて少ない。それを見越 して不用意な砲射を避けて僅か二回の斉射に留めたのは一度目の奇襲による戦意喪失を狙い、二度目の停止した瞬間を狙って一斉射撃を意図したからであろう。

 無駄な砲弾消費せず、効率的な戦果を挙げつつある状況。

 右翼の森林地帯から次々と鋼鉄の偉容が姿を現す。

 装甲部隊。

 ヴェルテンベルク領邦軍のくすんだ白色の冬季戦塗装を施された鋼鉄の野獣達。

 森林地帯の暗闇から次々と現れる戦車の数に、トウカは喜悦の笑みを零す。その数は二個大隊規模ほどの数となり装虎兵聯隊を横撃し始めるが、ヴェルテンベルク領邦軍の制式編制表には存在しない戦力にトウカは眉を顰める。

 ――戦車の見本市か!? 本気というわけか!

 その編成は寄せ集めという言葉を体現していた。長砲身に換装されたⅥ号中戦車B型や、その原型となったⅥ号中戦車A型、皇国陸軍正式採用のクレンゲルⅢ型歩兵戦車、採用試験(トライアル)で不採用となった試作戦車である試式VK94中戦車など、トウカが書類上ですら見た事のない車輛が無数に続いている。

 寄せ集めの装甲部隊であることは明白であった。

 それ故の奇襲。

 トウカによる長砲身砲の採用以前に活躍していた戦車が大半で、短砲身の戦車が大多数である以上、近接射撃で装虎兵の防禦の間隙を突くしかなく、その判断は純軍事的に正しかった。

 そして、トウカは見た。先頭を往く一際大きい多砲塔戦車の車長用司令塔(キューポラ)から身を乗り出した廃嫡の龍姫が、長い髪を靡かせて己を一瞥するその姿を。

 その瞳は問い掛ける。汝、妾と共に戦い往くか、と。

 是非もなし。

 この奇襲は、気象的条件や〈ヴァレンシュタイン戦闘団〉の善戦、機動師団の戦術行動が偶然に噛み合った結果であり、こればかりはマリアベルの意図するものではなく、幸運の結果に過ぎないはずであった。

 なれど、マリアベルはその幸運を引き当てた。

 この戦域での大勝利は内戦の趨勢を変化させる可能性すらあり、それがマリアベルの指揮の下で行われたという事実はトウカに大きな衝撃を与えていた。決し て褒められた行動ではなく、状況に多分に左右された戦術であったが、戦力を磨り潰す形で徐々に消耗していく蹶起軍への焦燥があったと推測はできる。トウカ が反対することを織り込み、伝えていなかったであろうことは容易に想像が付くが、個々で乾坤一擲の大勝負に出ることは決して間違ったことではなく、好機を 待ちつつも戦力を失い続ける道を忌避したのだ。

 戦場では時に打算ではなく、蛮勇が奇蹟を起こすことがあるのだ。

 トウカは今この時まで、その事実を信じていなかった。

 生命は慎重に扱い過ぎると腐敗する。トウカの故郷の政治家の多くがそうであるように、保守的になり過ぎた結果、機会を掴めず、限界まで妥協した挙句に腐 敗する。対するマリアベルは正反対であった。端的に表現すると命の使いどころというものを心得ている。今、奇蹟を掴み取るか、死ぬべきかを。

 ――俺もいよいよ覚悟を決めねばならないか。……宜しい、本懐だ。今ばかりは御前の思惑に乗ってやる。

 トウカは叫ぶ。喉頭音声機(タコホーン)に頼らずとも一人でも多くの戦友に届けと言わんばかりの大音声による命令。


「戦車、前へ(panzer Vor)!! 我々は今、悪魔のように前進を開始する!」


 振り上げた軍刀の切っ先が、退避行動へと転じつつある装虎兵聯隊へと振り翳される。

 後に戦史に記されることになる北部内戦において最大の、そして史上初の大規模機甲戦であるクラナッハ機甲戦の主戦はこうして始まった。











「主様って堅実なように見えて結構足元を疎かにしちゃうからなぁ」ミユキは雑踏の中を歩きながら呟く。

 ヴェルテンベルク領にあって領都の座にあるフェルゼン。

 この内戦の最中にあっても未だ大勢の商人や採掘所労働者、軍人、民間人などが大通りを闊歩しており、商業活動も活発に行われていた。フェルゼンは皇国北 部地域に於いて最大の都市であり、半閉鎖経済となっている北部地域における商業的要衝で、シュットガルト湖に面していることから北部でも数少ない水上戦力 の工廠と造船所を有した要衝でもある。

 無論、フェルゼン周辺に鉄鋼資源や魔導資源が肥沃な山岳地帯が存在することも手伝って製造業も集中していることから、この夕焼けの残光が漂う大通りも仕 事を終えた労働者が露店の粗末な席で宴会を開いている。有事にあっても民衆が仕事を終えて酒精を酌み交わしているほどに精神的余裕と経済的余力を残してい るという事実は、後に中央貴族をしてマリアベルの治政が卓越したものであると瞠目させるのだが、ミユキは単にその光景に圧倒されるだけであった。

「むぅ、この串焼き……美味しいです」

 串に刺さる鳥腿肉の戦闘序列を改めて見たミユキは、尻尾を一振り。

 絶賛自棄食い中のミユキの両手には多くの串料理が握られており、時折、道行く者達が振り向くほどに豪快な食べっぷりであった。その可憐さではなく、食い意地で注目を集めるという点は極めてミユキらしいと言える。

 トウカが、ミユキに告げることなく出征して既に一週間近く経過する。気が付けばベルセリカやマリアベルも消えていることに気付き、ミユキは大層御立腹で あった。そのやり場のない怒りを食い気で発散している現状に、屋敷の侍従達が「お太り致しますよ」と諫言するほどであった。しかしながら、良くも悪くも一 日中、フェルゼンやその近郊を徒歩で散策しているミユキの体重は現状を維持していた。怒ってはいても己の体調を崩していないところは、ミユキの狐としての(さが)を暗に表していると言える。

「むぅ……もう、来ちゃったんだ。ふふふっ、狐さんは狡賢いんですよ?」

 ミユキは狐耳を動かし、周囲の雑踏に気を配りつつも串焼きを消費していく。

 口元が付け(たれ)で汚れるが、それを櫛の入っていた紙袋で拭い、ミユキは大通りを逸れて脇道へと歩を進める。

 紙袋を脇道の簡素な塵箱へと投げ入れる。

 腰の太刀にしては短く、脇差にしては長い小狐丸の柄尻に埋め込まれた翡翠色の魔導結晶を撫でる。武骨に直線が多用されて形作られた翡翠色の魔導結晶の魔導特性は風。索敵と近接戦闘に長けた魔術を行使できる風系統の魔術はその魔力に対する費用対効果(コストパフォーマンス)から軍民で広く運用されている。対個人戦闘に長けている代償として使用魔術全般が対集団戦闘に弱く、威力に劣るという面があり、大規模な運用には難があるという欠点があったが、ミユキは然して気にしていない。

 それは一般的な魔導資質の持ち主による行使という前提が付く。

 魔導資質に優れる天狐族の中にあっても飛び抜けた資質を持つミユキは例外に近い。より多くの魔力を魔術陣に注ぎ込み、同系統や他系統の魔術と複合させる ことでそれらの点を補うことができた。無論、それだけの経験と才覚を有していればこそで、ベルセリカが強大な戦闘能力を誇っている理由は戦野で幾百年も戦 技を鍛え続けた結果でもある。

「私だって……」

 技能が資質に追い付かないならばそれを補う状況を作り上げればいい。詰まるところミユキの結論はそれであった。

 それは軍事的視野から見れば、極めて真っ当で正しかった。

 トウカの影響は確かにミユキを侵食しつつあった。それは、トウカの在り様が、天狐族の資質の一つである狩猟種族特有の思慮深さと上手く合致した結果であ る。元来、トウカの姿勢は見る者にとっては卑怯とも取れる手段が多く、受け入れ難いものであった。しかし、計算高くも猜疑心が強いことで知られる天狐族と は共感する部分が多分にあったことも影響しており、それを踏まえると二人の邂逅とそれに伴う“契約”は正に奇蹟に近い産物であった。

 ――何人か分からないのが痛いけど、主様なら先手を打つことを重視するはず、だよね?

 ミユキは、右手で柄を握り締めて狭い脇道、家屋の隙間から覗く空を見上げる。

 そう、ミユキもまた戦っていた。

 複雑に入り組む、脇道を右へ左へと進むミユキは、背後の気配を捉えつつ、右手の手袋に刻印された魔術陣を左手で撫でる。

 “敵”の正体は分かり切っている。

「起動」左手を薄汚い壁に押し付け、小さく呟く。

 それに交感するかのように、周囲の風が狭く薄汚い脇道を駆け抜ける。

 下降噴流(ダウンバースト)とも呼ばれる気象現象の一つで、局地的、短時間に上空から吹く極端に強い下降気流であるが、ミユキはこれをこの狭い脇道で再現した。

 両側を高い壁で囲まれた限りなく密閉空間に近い地形での突風は、暴力的な速度となって出口へ殺到せんと吹き荒ぶ。

 しかし、振り向いたミユキの目に映る草臥れた大外套を纏う変質者に変化はない。

「ッ!!」

 咄嗟に右手を伸ばし、人差し指と中指を目標に指向させて、右二の腕に左手を添えると、真空層と鋭い風を幾重にも重ね合わせた風刃が放たれる。

 本来であれば風刃という魔術は、風を鋭化させて目標を切断するという簡易的な魔術であったが、ミユキはそれに真空層を挟み込み、幾重にも積層させること で切断力を大幅に強化していた。これはトウカの提案によってミユキが実現した魔術だが、高位の種族の中でも運用している者は多い。無論、トウカの場合は風 刃の形状にまで拘った為、その切れ味は群を抜いている。それをミユキは今まで対人戦闘ではなく主に調理に使っていたのだが、この時ばかりは“変質者”へと 向けられた。

 槍の如く鋭くも直線の多用された形状の風刃は不可視であるが、絶大な切断力のままに減衰することもなく、“変質者”へと迫る。

 ミユキは知らないが、風刃にしては珍しく形状が槍を模っているので切断能力よりも貫徹力に重きを置いていた。

 強力な魔導障壁で指向性を伴った下降噴流を防ぎ切った変質者に対して、貫徹力を大幅に強化した一撃を加えることは間違ってない。魔導障壁の能力は運動性 弾体と魔導性弾体の阻止と着弾時の貫徹阻止を担う。咄嗟の展開では衝撃吸収が後回しにされることを見越して、衝撃を与えることを前提とした下降噴流を発生 させた。

 だが、変質者の魔導障壁は特殊であることと、想像を超える魔導資質がそれを防いだ。

 無論、策の一つが潰された程度で諦めるミユキではなく、トウカの如く次の作戦へと移行した。

 魔導障壁に突き刺さる風刃。

 ミユキは、その結果を見届けることなく逃走に移る。

 結果は背中への刺す様な気配と、風刃が砕けって霧散したことによって発生した魔力の飛散によって嫌でも確認することができる。視覚に頼る比率が大きい人間種とは違い、獣種に連なるミユキは嗅覚や聴覚が優れており視覚だけを重視することはない。

 ――むむっ、やってくれちゃいますね。でも、まだまだですッ!!

 ミユキは狭い路地を駆ける。

 幾許かの足止めと追撃を誘うことが目的であり、その目的は背後からの圧力が嫌でも成功していることをミユキに伝えてくれる。

 石畳を踏み締め、風の精霊達の力を借り、人間種では叶わない速度で疾駆するミユキ。その速度に左右の側壁に立て掛けられていた木材や置かれていた塵箱が 宙を舞い、狭い路地に様々な物が散乱する。その御蔭もあって距離を取ることに成功するが、背後を振り向くと変質者は壁を走ることでそれらを避けていた。

「あと少しッ!!」

 ミユキは先に見える扉を見据えると、限界まで速度を上げて、扉を蹴り破って家屋へと飛び込む。砕け散る木製扉の破片を魔導障壁で弾き飛ばしつつもミユキは室内を転がるが、受け身を取ったにも関わらず机に激突したので脇腹に鈍痛が走る。

「ふ、ふぅさん、後はお願いします」

「ええ、おねぇさんに任せなさぁい!」

 細剣を抜き放った妙齢の女性が満面の笑みを浮かべる。

 優しげな笑みに、茶目っ気のある瞳を揺らした妙齢の女性の服装は、上品な革と布で丁寧に作られた品を感じさせつつも機能性を追求したもので、細身の革製の短袴(レーダーホーゼン)と長軍靴という出で立ちで、その身体つきは絵になる様であり身長も高い。

「この、フランカ・トルナトーレ。お金……じゃなくて友人の為なら変態の一人や二人ッ!!」

 振り払うようにして構えた細剣(レイピア)を手に妙齢の女性……フランカが、ミユキに続いて室内へと突入してきた変質者に鋭い突きを繰り出す。

 しかし、細剣の切っ先は、草臥(くたび)れた大外套を刺し貫くだけであった。

 その素早い動きにフランカは目を瞠る。

 対するミユキは既に室内の各々の席から立ち上がった一個分隊近い軍人達の背後に隠れていた。領邦軍軍人の本質は領主の私兵であるが、その兵員全てが領地 内に住まう者で編成されていると言っても過言ではない。よって郷土やそこに住まう者達を護ることに対して異常な程の執着を見せる。郷土を愛する精神を以て 正規軍との練度の差を補うという思想の下での成果と言えるが、ヴェルテンベルク領邦軍に関しては正規軍に劣らぬ練度を持っていた。

 室内にいた一個小隊近い兵士が変質者を取り囲む。

「リルカちゃん、作戦通りですよ」

「……もぅ、無茶は駄目よ。フランカも怪我しないでね」

 小隊規模の軍人が変質者を囲む中、細剣を構え続けているフランカは楽しげに笑う。元来、乱を好む性格をしているフランカという女性は、この状況を明らかに楽しんでいた。

 ミユキの駆け込んだ家屋は、大通りにある有名な飲食店であった。

 最近の流行に漏れず、昼は飲食店、夜は大衆酒場(ブロイゲラー)として店を開いている。大変に盛況で昼夜を問わずに軍人や商人、労働者達で賑わっていた。そして、現在の時間帯は予備役の追加動員が決まり、編成中の複数の大隊がフェルゼン郊外で演習を行った後であることも相まって軍人が数多くいる。

 勿論、店の売り上げに大いに貢献している歌姫であるリルカの前で、良いところを見せたいという下心もあって兵士達の士気は非常に軒昂であった。


 リルカ・オクタヴィア・レイ・アウレリア。


 ミユキが、このフェルゼンに於いて初めて得た友人であり、心優しき少女であった。

 無論、屋敷を飛び出し、腹を空かせて彷徨っていたミユキに温かい御飯をこの店で御馳走してくれたという点が、ミユキのリルカに対する人物評価の大半を占めている。餌付けされたと言っても過言ではない。猜疑心が人並み以上にあっても美食の誘惑には抗えないのだ。

「でも、変質者なんておかしいわ。このヴェルテンベルクの憲兵隊がそんなことを許すはずは……」

 リルカは、頭巾(フード)付のゆったりとした外套を着ている変質者を見て戸惑った声を上げる。

 ヴェルテンベルク領邦軍憲兵隊とは、領民にとって警務官よりも頼れる治安維持の担い手である。同時に苛烈な間諜(スパイ)狩りや匪賊討伐による虐殺行動もあり、身近な恐怖の象徴でもあった。

 その正体に興味が及ぶことも致し方ない。

 素肌が見えない程に身を服装で包んでおり、身体の輪郭すら判然としない変質者は胡散臭い一言に尽きる。この法整備が進んだヴェルテンベルクに於いて、当 然ながら犯罪を堂々と行う様な者は憲兵隊による弾圧対象となる。フェルゼン憲兵隊は、ヴェルテンベルク領邦軍野戦憲兵隊から独立した組織であるが、その苛 烈な姿勢は最近行われている真昼間からの間諜(スパイ)狩りでも有名である。正面切って楯突こうとする者はいない。マリアベルの強権的姿勢の先兵としてヴェルテンベルクでは大いに活躍していた。

 そんな憲兵隊所属の兵士までもがこの場にはいた。

 隷下の戦力にすら信を置いていないマリアベルらしく、小隊毎に憲兵が配置されており、規律や指揮統制に目を光らせている。マリアベルが如何に将兵の腐敗 や風潮に対して目を配っているのは、領民の信頼を損なわないことに対する腐心と、領邦軍という武装集団に対する不信の産物であったが、この点はトウカに類 似していた。

 好意的に接していても、内心では信を置いていない。

 トウカとマリアベルも互いに信用し合っていても信頼はしていない。

 ミユキは曖昧な笑みを零す。それだけの事に思考の枝葉を巡らせるほど余裕のある状況に持ち込めたことに対する安堵と、慢心に対するものであった。

「確保ッ!!」憲兵が叫ぶ。

 基本的に皇国軍の小隊は、身体能力に優れる種族を中核とした編制をしており、その近接戦闘能力は隔絶していた。全く意味のない、生産性の欠片もない姿勢(ポーズ)を取りながら飛び掛かる兵士達。リルカへの過剰表現(アピール)の心算であるらしい。

 ヴェルテンベルク領邦軍の軍装は黒色を基調としているので、薄汚れた白色の大外套と頭巾姿の変質者に詰め寄る光景は砂糖に群がる蟻のようであった。

 ――男って単純……でも、複雑かなぁ。

 男共の意識がミユキ自身ではなく、リルカに向いているというのは女性として些か傷付く部分があった。無論、ミユキにとってトウカ以外の男性など別段気を 配る必要もないのだが、己に魅力が欠けているのならば話は変わる。それはトウカの恋愛に対する消極的な姿勢の一因であるかも知れないという可能性に思い当 たり気を落とす。

「むぅ、一大事です」

「ミユキは人気者ね。熱烈な応援者(ファン)がいるなんて。私と二重唱(デュエット)なんて面白そうかな」

 ミユキの言葉にリルカが見当外れの言葉を投げ掛ける。

 一個小隊にも上る兵隊に囲まれ、圧し掛かられている変質者の呻き声を余所に二人は、暢気な会話を続けていた。








「それで、この変質者はどうするの?」

「え? 事情聴取ですよ」

 何を言っているのだ、と言わんばかりの声音のミユキに、リルカは顔を引き攣らせる。

 リルカとミユキの邂逅は、何の変哲もない、然して珍しくもない出会いであった。

 淡雪の降る公園の長椅子で大きな狐耳とふさふさの尻尾を垂らして、如何にも元気がないですといった有様で座り込んでいた仔狐に、空色の歌姫は和傘を差し出した。

 二人はその特異な立場という事もあって、意気投合するまで時間は掛からなかった。

 無論であるが、リルカがその後に食事に誘ったことも大きい。ミユキは一端の猜疑心を持っていると自称しているが、それはあくまでも自称であって食べ物に釣られる事がよくあった。幸運なことにリルカの料理の腕はミユキの舌を満足させ得るものであったことも影響している。

「さぁ、尋問しちゃいましょう!」

 酒場の接客用長机(カウンター)から、ミユキの元気のよい声が響く。

 ミユキは今、リルカの視界に居らず、酒瓶の並ぶカウンターの中をごそごそと漁っている。時折、接客用長机(カウンター)越しに狐耳や尻尾だけが時折、突き出ては揺れるその様は笑いを誘うが、その理由を知っているリルカやフランカの顔は引き攣っていた。

「色々、見つけちゃいましたよ! ほら!」

 がしゃがしゃ、と様々な調理器具を接客用長机(カウンター)に並べてミユキが無邪気な笑みを浮かべる。

 包丁や鉄串は分かるが、颪金(おろしがね)や漏斗状の器具などはどの様にして使うのか、知りたいような知りたくないようなという表情を浮かべるリルカ。隣に立つフランカも似たような表情を浮かべていた。

「口を割らせるのは拷問が一番早いってマリア様が言ってました! 憲兵さんも手伝って!」ミユキは調理器具を両手一杯に駆け寄ってくる。

 一個小隊ほどの兵隊も一様に顔を引き攣らせているが、ミユキはそんな事など御構いなしに、変質者へと近づく。

 変質者は椅子に縛られた上で、虎種の血を引いた混血種の兵士二人に挟まれており、脱出できないように最大限の注意が払われていた。

「むぅ、そろそろ話してくれると助かっちゃうんですけど?」

 包丁を砥石で砥ぎながらも、ミユキは相変わらず無邪気な笑みを浮かべたままに尻尾を揺らす。それが言い知れない程の威圧感となって、締め切られた家屋内の空気は重苦しいものとなるが、当の本人はそれを気にしていない。

「ミユキ、女の子がそんなことをしてはダメ。尋問は憲兵に任せて――」

「いや、それなら私がやっちゃおうかな。楽しそう」

 リルカとフランカの言葉に、ミユキが心底不思議そうな顔をする。

 リルカはこの時、ミユキという少女の危ういまでの純粋さに何も言えなくなった。何故、こうもフェルゼンには危うくも純粋な者達が多いのかと思わずにはいられない。仔狐然り、廃嫡の龍姫然り、そして己の唄に涙を流してくれた少年然り……。

「ねぇ、変質者さん。貴方の目的を教えてもらえると私達も助かるのだけど……駄目?」

 変質者の前に立ち、リルカはその顔を改めて見据える。

 それは整った顔の少年だった。

 精緻な人形の様な容姿と、何処か無機質な気配を漂わせるその佇まいに、リルカは不気味なものを感じずにはいられなかった。何処かの一座で主役を張るどころか皇都大劇場の舞台に立つこともできそうな儚げな容姿。その蒼氷色(アイスブルー)の 瞳は狂おしいまでの野心と覇気に溢れているようにも思えた。リルカはその生い立ちから野心や覇気を判断する観察眼を持つに至っていたが、眼前の少年ほどに 苛烈な意思を宿した瞳を見たことがない。無機質な気配に瞳だけが爛々と輝いているからこそ気付けたのかもしれない、とリルカは持ち得る要素の多くが不釣り 合いである眼前の少年から視線を逸らした。

「ミユキ……幼い子を乱暴に扱うものではないわ」

「それが殺人鬼でも、ですか?」

 間髪入れずに、それでいて無邪気な微笑を湛えて小首を傾げるミユキの一言にその場の空気が凍り付く。一呼吸後れて、フランカがリルカの前に間に割って入 り、リルカを背に守りながら後退すると兵士達が変質者……殺人鬼を囲む。郷土防衛組織である領邦軍は、郷土の者達を傷付ける可能性、或いは傷付ける者に対 して決して寛容的にも好意的にも振る舞うことはない。

 対して、この状況で真っ先に行動するべき憲兵は沈黙を続けていた。

 そこで、この状況は宜しくないと判断したのか殺人鬼が初めて口を開く。

「何時、気付いたのかな?」透き通るような声音。

 一拍の間を置いて周囲の者が困惑するが、尋ねられたミユキは満面の笑みを浮かべている。全てがミユキの想像の範疇内で推移しているのだと、リルカはその 表情から悟った。当初、ミユキは変質者に追い掛けられているから助けて欲しい、との言葉を受けて歌姫であるリルカを懇意にしてくれていた者達を集めてこの 酒場で待ち構えていた。

 しかし、眼前の者が変質者……殺人鬼であるとは、リルカにはとても思えなかった。

 容姿に印象が引き摺られているのかとも考えたが、そもそもミユキが捕り物であるにも関わらず領邦軍憲兵隊を頼らずリルカを頼り、あくまでも公式なものとすることを避けた。

 ――悪巧みしているのかしら……

 狐は元来、悪戯好きな生き物で、リルカもミユキと出会って未だ然したる期間を経ている訳ではないがその片鱗の一端を感じていた。それ故に波乱を好むフラ ンカと意気投合している事も承知していたが、口にした言葉が看過し得ないものである以上、捨て置く事はできない。また憲兵や兵士に会話を聞かれてしまった 事もあってこの場を治めるだけの説明が必要になる。

 如何したものかと思い悩むリルカ。

 対するミユキは悪戯に成功した子供の様に笑う。

「私の身体に触れたのは失敗ですよぉ。ふふふっ……乙女の身体に許可もなく触れた代償は安くないですよ?」

「怯えていたいのは擬態かな、御嬢さん(フロイライン)

 笑う仔狐と殺人鬼。

 前者は無邪気であり、その笑みが腹立たしいほどに似合っているが、後者はその口調からしても不自然であった。子供が紳士を気取っている様にも思えるが、その点だけは不思議と似合っており微笑ましい。

 だが、二人の視線の交差は鋭く、張り詰めたものであった。

「私、探知魔術って得意なんですよ? 誰にも気付かれず探知魔術を施しちゃえば、どれだけ警戒心が強い人でも接近に気付けるんですよ?」

「……あの時、頬に触れた短時間で仕掛けた、と。それは……御嬢さんを侮るなという言葉は正しかったか」楽しそうに笑う殺人鬼。

 乾いた声音による笑声が酒場を満たす。

 その笑声はその場の者達に言い知れぬ恐怖心を抱かせる。狂気と正気の狭間を笑顔で綱渡りの如く進み往く印象を受けて、悍ましい感覚にリルカは包まれた。

 ――ミユキ……相手が悪いわ。こんな子を相手取ろうなんて……

 リルカは嘆息する。

 そうまでして成さねばならない事があるのか、と。

「ここは私に任せて――」「――否、小官に任せて貰おうか」

 リルカの声を遮り、凛々しい声がその場に響く。

 赤い髪の女性……漆黒のヴェルテンベルク領邦軍第一種軍装を身に纏い特徴的な紅髪をぞんざいに束ねて閉まっていたはずの正面出入り口の門柱に背を預け、紙巻煙草を加えたその姿は軍人と言うよりも非合法組織(マフィア)の女性幹部といった佇まいであった。しかし、最も目を引いたのは左頬の大きな刀傷と鷹の様に鋭い視線で、リルカだけでなく兵士達までもが気圧されていた。

「ヴェルテンベルク領邦軍、情報部のセルベチカ・エイゼンタール少佐だ」

 無駄のない男性的な動作の敬礼に、同性に好かれる女性なのかも知れないとリルカは感じた。左頬の刀傷も最初は恐ろしげに思えたが、その凛冽な佇まいを鑑みれば野性味を感じさせて戦野で見たならば頼もしいとすら思えるものであるだろう。

 兵士達は上官に先に敬礼させてしまったことから慌てて答礼する。本来、敬礼とは階級が低いものが先に行うものであり、上官に先にさせることは失礼にあた る。軍という上意下達組織に於いて上官に睨まれることは栄達への道が険しくなることを意味していることも相まって兵士達は顔面蒼白であった。特に相手が佐 官であるということも大きい。

「情報部……」

 憲兵隊所属の兵士だけが、呆気に取られたような表情のままに硬直。

 ミユキは眼前で視界を遮る憲兵を押し退けてエイゼンタールに笑い掛ける。

「えへへ、待ってたんですよ。……中尉さんじゃ話にならないですから」

 尻尾を振って歓迎を精一杯表現しているミユキだが、その言葉に周囲の兵士達の表情が蒼白へと変わり、殺人鬼に視線が集中する。

 ――階級が上の人間を簀巻きにするなんて……ッ!!

 リルカの口添えで協力してくれた兵士達は、上官侮辱罪などに問われれば只では済まない。ミユキの変質者を捕まえるという言葉を鵜呑みにしたのはリルカであり兵士達を直接巻き込んだのだ。リルカはこの場にいる兵士達の行動に対して責任を負うべき立場に在るのだ。

 確かにミユキは変質者を捕まえるという言葉は正しくあったが、その実情は大きく違っており、情報部の少佐と中尉を向こうに回してなど、もはや思惑などリルカには及びもつかない状況であった。

 しかし、ここで逃げる訳にはいかない。

 リルカは一度逃げている。総てを捨てて。

 故にこれ以上、捨て続けることなど許されない。

 相手はこのヴェルテンベルクでの苛烈無比な間諜狩りだけでなく、皇国各地に諜報網を形成しているとも噂される領邦軍諜報部であり、所詮一個人でしかないリルカが抗し得ることなど不可能と言えた。

「これは――」「それよりも先に皆で御飯を食べちゃいましょう! わたしの奢りですよ? あ、私は鼠がいいです」

 決死のリルカの言葉をミユキは遮ると、懐から一枚の金貨を取り出して掲げる。

 その硬貨は、内部に複雑な魔導刻印が施された魔導触媒と思しき結晶と、その外周を包む純金に刻印された珍しい魔導刻印を持つ金貨であった。

 ハイゼンベルク金貨。

 兵士達がハイゼンベルク金貨に憧憬と驚嘆の入り混じった歓声を上げ、リルカとエイゼンタールが呆れる。その様なものを持ち歩いていれば変質者の一人や二 人が追いかけてきても何や不思議ではないが、ミユキはその辺りを理解していない。その辺りを含めて御灸を据えねばならない、とリルカはミユキの狐耳を掴む と、当のお騒がせ狐は尻尾を揺らして驚きを露わにする。

 そして仔狐の掌中にあるハイゼンベルク金貨を一瞥し、またなの、と最近よく見かける金貨の希少価値を疑うリルカであった。


 

 

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「勝利か死あるのみ!」

     《独逸第三帝国(サードライヒ)》総統 アドルフ・ヒトラー


「戦車、前へ(panzer Vor)‼ 我々は今、悪魔のように前進を開始する!」

     《独逸第三帝国(サードライヒ)》武装親衛隊少将  クルト・マイヤー