第四七話 姫君達の日常
「御主らは何をしておるのじゃ?」
レオンディーネは秘書室に入り、詰めていたエルザに挨拶を済ませると大御巫の執務室への扉を開けたのだが、そこには想像を絶する光景が広がっていた。
実は朝方に訪問すると言っていたのだが、兵数を増員したことによる練度のばらつきを低減させる為の演習に想像以上の熱が入り、気が付けば夕暮れ時になっ ていた。叱責と嫌味が飛んでくるだけでなく、旗下の装虎兵中隊の新装備への予算に難色を示ししていることは知っていたので、このままでは悪夢の予算削減と 成り得る可能性すらある。
考えていた言い訳だけで思考が限界だったレオンディーネだが、執務室内の光景に言い訳は全て綺麗さっぱりと吹き飛んだ。
「あら? どうしたの、レオ」
着物や衣裳が散乱した寝台の上に座るアリアベルが、何しに来た、と言わんばかりの視線をレオンディーネに巡らせた。それは、怒っているからではなく、寧ろ憩いの時間に翳が指したことに対する不満の表れからであった。
レオンディーネは、寝台の上で揉みくちゃにされている女性に視線を向けた。
狼種を示す獣耳と尻尾が疲れたように垂れている女性の横には、皇国陸軍で一般的となっているM49型士官軍服の上下が打ち捨てられるようにして置かれていた。
その士官軍服には参謀であることを示す参謀飾緒や戦功章、略綬などが付いており、その女性の所属を明らかにしていた。
何よりも肩部に輝く階級章は軍狼兵中将のものであった。
「んん~、モフモフね~。何処かの馬鹿虎と違って」
黒を基調とした数々のヒラヒラとしている装飾を縫い付けられた華美な洋服を着させられた女性が助けろと視線で訴え掛けてくる。レオンディーネの武勇は残念ながらアリアベルの“趣味”には有効ではない。
アリアベルの趣味の一つに女性を着飾らせるというものがある。
これの洗礼を受けた者は多く、レオンディーネやエルザだけでなく七武五公の血縁でアリアベルの美的感覚に叶った者は片端から被害者となったと言える。幸 いなことにアリアベルの美的感覚の基準が極めて高いので、無差別という訳ではなかったことが救いであったが、被害に遭う者は堪ったものではない。アリアベ
ルは大御巫なので巫女服に千早を着ていても何ら不思議ではないが、他の女性が……特に神虎や神狼のような武勇を尊ぶことを良しとする種族がフリフリのヒラ
ヒラの衣裳を着させられた挙句に街に引きずり出されれば一生ものの心的外傷になる。
現にレオンディーネも幼い頃に、フリフリのヒラヒラで皇都内を引きずり回されて、一週間ほど部屋に閉じこもって塞ぎ込んだ経験がある。
「装虎兵大尉……貴官の名は?」
限りなく無表情に近い顔に僅かな不満と困惑を滲ませた狼種の女性の誰何。
兵科が違うとはいえ、軍では階級が絶対的な序列である。貴族にも爵位という序列があるが、軍に比して余りにも不明瞭にして曖昧であり、明朗闊達を好むレ オンディーネからすれば好ましいものではない。その上、領邦軍の戦力規模や資源算出量、血縁なども影響しているので不明瞭な事この上なかった。
慌てて直立不動で敬礼して、声を張り上げる。
「失礼いたしました。レオンディーネ・ディダ・フォン・ケーニヒス=ティーゲル装虎兵大尉であります」凛とした声音。
凛冽な佇まいと中性的な嗄声は同性に好かれるが、眼前の女性は興味すら引かれないのか、もしくは口を開くことすら億劫なのか、むすっ、としたままの口先であった。
しかし、名乗らせておいて返さないのも礼儀を欠くと思ったのか、レオンディーネを見据えて呟く。
「ヴォルフローレ・フォン・ハインミュラー。軍狼兵中将、中央軍集団司令部付軍狼兵参謀」
アリアベルに背後から抱き締められたままに狼種の女性……ヴォルフローレは、面白くなさそうな顔で自身の身体を無遠慮に撫で回している手を払い退けていた。
軍狼兵参謀ということは征伐軍に所属する軍狼兵の頂点である事と同義であり、装虎兵大尉からすれば雲の上の人物に他ならない。一応、爵位を持たないヴォ ルフローレに対して、レオンディーネは神虎公令嬢であるので爵位序列の上では圧倒的に上位であるが、軍で貴族の序列を持ち込むことは禁忌である。
「アリア……いい加減に離して差し上げよ。無礼じゃろう」
「何よ。時間も護れない軍人が吹くわね。……予算削減よ」
伝家の宝刀を予備動作なしで振り抜いた大御巫に、獅子姫は藪蛇だったと後悔する。
既に旗下の装虎兵中隊を実質的に装虎兵大隊規模まで兵員を増員し、装備の更新も行っているが、レオンディーネは未だ満足していない。そして、装備も全ての装虎兵に行き渡った訳ではなく、未だ半数程度の充足率しか満たしてはいなかった。
求めるは火力と機動力、突破力の全てを満たした装虎兵部隊。
陸戦の王者である装虎兵を率いて祖国に仇なす驕敵全てを、その牙を持って蹂躙するのだと息巻いていたレオンディーネであるが、予算の前には武勇も愛国心も何ら意味を成さない。如何なる世界であっても、軍隊は予算の前には無力であった。
蚊の鳴く様な声で、大御巫に泣き付く獅子姫。
「わ、儂の……追加装甲は?」「軽鎧で十分よ」
「わ、儂の新型牽引砲は?」「投石で十分よ」
「わ、儂の強化戦斧は?」「竹刀で十分よ」
崩れ落ちるレオンディーネ。
寝台に顔を押し付けてえぐえぐと泣く 獅子姫。その頭をよしよしとヴォルフローレが撫でる。服装も相まって切迫した雰囲気は感じられないが、その表情には生暖かい同情が見て取れた。大御巫の被
害者同士仲良くしてやろうと考えているのかも知れないとレオンディーネは思ったが、世間的に見れば双方共に自業自得の産物でしかない。
「きっと、戦友」
「うむ、戦友じゃ」
希望的観測の戦友宣言にレオンディーネは感極まる。この痛みを理解できる者は極めて少なく、寧ろ生暖かい目で見られることばかりなので純粋に嬉しくあった。
無言で頷き合う虎と狼。
「ほら、ローレちゃんは狐さんよぉ~?」アリアベルが、狐を模した睡眠帽を手に取る。
ヴォルフローレの狼耳がぴくりと動く。
むすっ、としているヴォルフローレだが、アリアベルが後ろから狐の睡眠帽を被せる。狼耳から狐耳に代わり、後部からは狐尻尾らしきものが垂れている。心なしかヴォルフローレの頬が紅潮しているのは気の所為ではないだろう。
「むぅ、同志」
「確かに、同志ね」
龍と狼が手を握り合う。
アリアベルは、狐を模した睡眠帽でヴォルフローレを買収したのだ。レオンディーネとヴォルフローレの友情は狐を模した睡眠帽一つ分程度のものであったらしく、ものの一刻足らずの時間で終わってしまった。
「モフモフ……至高……」狐尻尾を両手で抱き締めながら微笑むヴォルフローレ。
アリアベルなそんなヴォルフローレを背後から抱き締めて、満足そうにしている。
凄まじい疎外感を感じたレオンディーネは、黙って執務椅子に腰掛ける。沈み込むような感覚に一瞬、眠気を誘われたが、執務机に置かれていた書類の項目が引っ掛かり意識が沈みゆく事はなかった。
「新型戦車……か」書類を手に取り、レオンディーネは呟く。
レオンディーネも噂には聞いていた。
皇国陸軍が現在主力としている機甲戦力であるクレンゲルⅢ型歩兵戦車を高機動で擾乱し、側面や後背を旋回砲塔を駆使して撃ち抜く。対戦車戦闘を前提とし た新型戦車であることは明白であるが、レオンディーネの目を惹いたのは、軍狼兵に準ずる速度と装虎兵に匹敵する突破力であった。推定六〇mm以上の戦車砲
は少なくとも装虎兵の正面防禦障壁を貫徹し得ることは明白であり、砲撃型魔術を扱える装虎兵が跨乗していない装虎であれば一方的に遠距離からの攻撃に晒さ れることになる。無論、装虎兵であれ軍狼兵であれ、その瞬発力と速度は戦車を上回っており、戦車砲のそれを狙い撃つことは極めて難しいだろう。破片効果に
よる殺傷が前提の榴弾では弾かれる為、徹甲弾でしか有効打と成り得ない事も大きい。双方共に機動しながらの交戦であれば相対速度は凄まじいものとなり、砲 塔の旋回も間に合わず、風による着弾誤差も増大する。故に、それほどの条件と状況下で砲弾を目標に命中させる砲手はいない。
――或いは、耳長族であれば訓練を積めば行けるやも知れぬが……
現状では、近接戦になれば戦車に勝ち目はない。
対魔導術式の刻印が成された戦斧などの刀剣は、戦車の対物理装甲や対魔導装甲を容易に斬り裂く。
遠距離戦ならば新型戦車、近接戦ならば装虎兵や軍狼兵。
元来、戦車に対して圧倒的優勢であった装虎兵や軍狼兵に対して、条件付きとはいえ勝算のある戦いができる戦車が戦場に姿を現したのだ。
戦車が現れて四半世紀も経過していないが、後同じだけの時が過ぎれば一体どれほどに能力が向上するか想像も付かない。
だが、それでもレオンディーネは勝利できる自信がある。虎種の頂点である神虎族に連なる以上、負ける訳がないという自負があった。
――しかし、他の装虎兵はそうはいかぬじゃろう。
装虎兵が跨乗している皇国陸軍主力戦闘騎獣である白虎は生物であり、成長することもあれば衰えることもある。その上、個々の力は生物である以上均一ではない。それは跨乗する装虎兵も同様であり、レオンディーネの様な高位種は極僅かである。
兎にも角にも、眼前の問題に対処せねばならない。
――戦術次第で不利になるじゃろう……平原での戦いは避けるべきじゃな。一方的な砲火に晒されては叶わん。
レオンディーネは苦虫を噛み潰したような顔で、書類を執務机に投げる。
脳裏に嘲笑を浮かべた一人の少年が思い浮かんだからである。
きっと、あの少年ならば新型戦車を上手く使いこなすだろうという確信があった。もし、観戦武官と言わずに副官として招くことに成功していれば、新型戦車 と装虎兵、軍狼兵の三つの兵科を統合した|諸兵科連合(Gefecht der verbundenenWaffen)の編成とて不可能ではなかった。新型戦車の遠距離戦能力、装虎兵の近接戦能力、軍狼兵の索敵能力を纏めて運用できれ
ば比類なき陸上戦力と成り得たはずである。
――あの、阿呆狐め。あれさえ居らねば良かったのじゃ。そもそも、あれだけ喚いておいて貰う物はちゃっかりと貰っていきおってからに!
ミユキが一個増強師団を編制可能な程のハイゼンベルク金貨をドサクサに紛れて手に取った瞬間を、レオンディーネは床に倒れながらも目撃していた。
それ以来、レオンディーネは狐が嫌いになった。
古来、狐は狡猾であるという伝承があるが、レオンディーネがそれを実感する為に余りにも膨大な出費を支払う羽目になった。
--あの、狐っ娘め! いずれ毛皮にしてやるのじゃぁ!
ギロリとヴォルフローレが被っている狐を模した睡眠帽を睨む。
その射殺さんばかりの視線に怯えてヴォルフローレがアリアベルの背に隠れる。
それも止むを得ないことで、階級ではヴォルフローレが遙かに上かも知れないが、種族としてはレオンディーネが圧倒的に上位であった。戦闘能力はレオンディーネが上であり、その威圧感は人間種を恐怖で動けなくするほどには酷烈である。
容姿では執務室の中では最も大人びて見えるヴォルフローレであるが、最上位の長命種が二人もいることを考慮すれば、致し方ないことと言えた。それほどに神龍と神虎と他の種族との間には隔絶した差が有るのだ。
「レオ。貴女も後で可愛くしてあげるからそう怒らない」
獅子姫の身体を上から下に眺め回した大御巫は、寝台の上に散乱した服へと視線を巡らせていた。
皇都での悪夢再び、である。
もし、ベルゲンでそのようなことになれば、レオンディーネは二度とベルゲンの石畳を踏み締めることはできないだろう。いや、軍が集結している事を考慮す れば、同業者に自身の痴態を見られる事も避けられないので下手をすると陸軍にいられなくなるかもしれない。忘年会の席でも高嶺の花ということで無茶な振り
すら強制されることのないレオンディーネの晴れ姿?の情報は極めて短期間のうちに陸軍内部を席巻すること請け合いであった。
「むっ、いや儂は別に可愛くなりたい訳ではないのじゃが……」
「胸が大きいのだから、そこを前面に押し出さないといけないわね」
これまたフリフリでヒラヒラな紫苑色の舞踏会衣裳を手に取るアリアベル。
獅子姫には印象というものがある。あくまでも武勇を尊ぶ神虎族に連なる姫として戦斧を振り勇壮に戦う姿こそが、多くの者にとって容易に想像できる姿であらねばならない。
決してフリフリのヒラヒラではいけないのだ。
「確保」
後ずさるレオンディーネに対して、アリアベルの短い一言。
間髪入れずに動いたヴォルフローレが、レオンディーネに飛び掛かる。背後では扉が開け放たれ、エルザ率いる〈神殿魔導騎士団〉が屋内戦闘用の序列と武装 で突入してきて、素早く出入り口や窓を固める。無駄に練度の高いその動作が無性に腹立たしい。神罰の地上代行者の名が廃ること請け合いである。
〈神殿魔導騎士団〉は、天霊神殿とそれを中心に発展した霊都を神祇府が自前で治安維持活動や防衛行動を行う為の戦力である。その指揮権は当然ながら神祇 府を直轄している大御巫に帰属する。武力を有する事が厳しく制限されている神祇府に於いて唯一の戦力である〈神殿魔導騎士団〉の兵力は一個聯隊規模の約三
〇〇〇名。その全てが女性で構成されていた。穢れなき乙女こそが最も神々の恩恵を受けるという建前であるが、男子禁制の区画が存在する天霊神殿の警護は男 性がいる戦力では運用が複雑になるという理由もある。アリアベルにとっては公私共に都合の良い戦力であった。
そして何よりも、〈神殿魔導騎士団〉は神祇府の潤沢な資金故に、陸軍の魔装聯隊に匹敵するほどの魔導武装に身に纏っていた。
巫女服に白銀の胸甲という出で立ちで、対魔導術式などが刻印された薙刀や大太刀を構えているだけに見えるが、巫女服は素材から厳選された上に叶う限りの 複合術式が編み込まれており、胸甲もまた同様であった。無論、武装である薙刀や大太刀も軍用の量産品ではなく、名のある刀工と魔導士によって打たれた特注 品である。
そんな無駄に装備の充実した巫女達が、部屋の脱出口を塞ぐ姿は忌々しいの一言に尽きる。
「御主らな……」
「………………………任務ですので」
練度と装備の無駄遣いを一部の乱れもなくこなしている巫女達に、レオンディーネは呆れた視線を向けるが、返ってきた言葉は哀愁を誘うものであった。戦場 では装虎に踏み潰されんように気を付けるのじゃな、と言いたいところであるが、〈神殿魔導騎士団〉がベルゲンに展開している理由はアリアベルの身辺警護で ある以上、戦野に赴くことはないので無駄な遠吠えである。
しかし、流石の〈神殿魔導騎士団〉の戦巫女でも、神虎を前に目には怯えの色が映っていた。
背後を振り向いて、「扉諸共粉砕してくれるわ」と拳を握りしめたレオンディーネだが、背後からアリアベルとヴォルフローレに組み付かれ寝台〈ベッド〉へと引き摺られていく。
「ま、待つのじゃぁ! 斯様な辱めを受けるのならば儂は、舌を噛んで死ぬからなぁ!」
必死に抵抗するレオンディーネだが、アリアベルも神龍だけあって膂力は負けていない。その上、ヴォルフローレも加わっているとなれば勝算はない。
「何を、生娘でもあるまいし……」
「私は、経験済み」
それぞれに言いたいことを言う二人。
しかし、後者は兎も角、大御巫であるアリアベルにとっては際どい会話であった。一応、今代天帝陛下と婚約したと神祇府が公式見解を発表しているが、その辺りの問題は未だ征伐軍の弱点と言える。
「儂も御主も男を知らぬであろうが! それと狼は黙るがいい!」
後者は些か気になる発言であったが、今はそれを尋ねている暇はない。
「女の子は着飾らなくちゃね」
「よいではないか~よいではないか~」
ずるずると寝台へと連行されるレオンディーネ。
エルザに率いる〈神殿魔導騎士団〉の戦巫女達は、目を伏せて直立不動で敬礼する。
その日から一週間、獅子姫が軍務を放棄した為、装虎兵参謀が大いに困ったという話は神虎公領までに伝わり、レオンハルトを大いに嘆かせたという。
「見ておるだけで良いのかえ?」
マリアベルの声にトウカは黙って頷く。
視線の先では、雪化粧の紫苑桜華の下に置かれた無数の棺に、頭を下げて何かを祈るミユキの姿があった。
黎明時の今この瞬間、一条の朝陽が差し込み、紫苑桜華とミユキを照らし出す姿は神々しくすらある。
仔狐の黄金色の髪や尻尾が朝陽を受けて輝き、紫苑桜華がそれを黙って見下ろす姿に異邦人は、人間種では成し得ない美しさを感じていた。短命種が長命種に対し、ともすれば神聖視と評して差し支えないほどに憧憬の念を持つ理由の一端がこれなのだと、トウカは納得する。
無論、人間種と狐種が違うからと何が如何という訳ではなく、トウカはミユキとの関係がこの世界に於いて少数派であると自覚していた。
「まぁ、我々が頭を下げた所で散った狐達が喜ぶとは思えませんが」
「くくっ、確かに。違いなかろうて」
小さな含み笑いでマリアベルは、トウカの言葉を肯定する。
ライネケは天孤族の隠れ里というだけあり、中に入っても天狐達とは温度差があり警戒していることは一目瞭然。戦車兵などは離れに部屋を与えられていた。 戦車兵は、それを良い事に枕投げをやらかし、夜更かしした挙句に襖を破ってマイカゼに怒られるという一幕もあったがそれはまた別の話である。
「中戦車の整備は万全で?」
「被害など然して受けておらぬよ。しかしのぅ、懸架装置の疲労が思ったより溜まっておる。里へ来るまでの強行軍に加えて機甲戦での複雑な機動……辛うじて実戦に耐え得ると言ったところかの」
まだまた課題の残された新型中戦車にマリアベルが眉根を寄せる。
トウカとしては、あれ程に機動した上で疲労が蓄積している程度の言葉で片付けられる事こそを驚いていた。戦車という兵器は鋼鉄の重量物を強力な機関で無 理やり駆動させる機械だが、それ故に長時間の運用には難がある。定期的な整備と部品交換を実現してこそ初めて真価を発揮するのだ。戦車の長距離移動は鉄道
輸送や戦車運搬車での移動が基本で、長躯進撃など元より前提としていない。
――懸架装置の問題は戦車の至上命題か。
トウカはその辺りを魔術でどうにかしているのではないか、と考えていたのだがそうではなかった。確かに魔導技術による衝撃の低減は可能であるが、鋼鉄の 車体を常時保持し続ける為には莫大な魔力が必要であり効率的とは言えない。無論、治金技術に構造強化術式を加えることによって部品自体の強度はトウカの知
る同技術力で作られた中戦車と比しても高い水準にあった。しかし、懸架装置は機構上、部品……特に発條に 弾性が必要となる為、構造強化術式を併用すると懸架装置としての機能が著しく低下してしまう。魔導全般に言える事であるが、刻一刻と変化する形状に合わせ
る術式というものは極めて複雑であり高価であった。その上、術式自体が大型なので刻印箇所も限られる。その為、懸架装置は科学技術のみで製造せねばなら ず、車輛の機動力に大きな制限を加えていた。
「ならクリスティー式に変更……いや、反発し合う属性の魔力を利用して油気圧式の様な懸架装置を作ってみるか」
構造上複雑ではなく、その上、油気圧式の機械油や空気を完全に密閉せねばならない部分は魔力が代替するので、魔力が逃げ出さないような術式を刻印すればいい。密閉でなければ冶金技術も然して必要ないだろう。
「む、何やら考えておるな? どれ、妾にも教えよ。どうせ、一蓮托生であろう」馴れ馴れしく身体を寄せてきたマリアベル。
そう、一蓮托生なのだ。
トウカは、ミユキに爵位を与える事を条件に北部に与することを決めた。
いざとなれば、ミユキとベルセリカを連れて逃げ出せば良いという黒い考えもあったが、トウカは《スヴァルーシ統一帝国》という国家の存在を後世に残したくないと考えていた。一先ずはそれ相応の立場を経て帝国の戦力の漸減を計ることで時間を稼がねばならない。
《スヴァルーシ統一帝国》と仔狐は相容れない。
トウカの短い人生であれば帝国の侵攻など遠い国へと流れれば逃げられる。だが、ミユキは皇国に固執しており、その人生は限りなく長い。帝国が領土を拡大し続ければ逃げるにも限界がある。
あんなもの(《スヴァルーシ統一帝国》)を仔狐の輝かしい未来に残しておけるものか。
少なくとも国是を有名無実化するか、革命闘争によって国体を維持できなくなるほどに追い詰めたい。最悪、共産主義の亡霊をこの異世界に呼び起こしてでも帝国を瓦解させる。
それがトウカの動機と目標であった。
「まぁ、まずはクリスティー式の懸架装置を作りましょう」
己の先走った考えに苦笑しながら、トウカはまずできることから始める。
クリスティー式懸架装置は大型の接地転輪の一つ毎に、二重構造の車体側面に収納した線輪発條で独立懸架させる機構である。行程が大きく、中戦車が使用しているリーフスプリング式に比べ踏破性に優れており、半世紀経過しても戦車に使われ続けていた懸架装置なので性能は十分と言えた。
マリアベルはトウカの説明に「ほうほぅ」と相槌を返しているが、その梟の様な声にトウカは苦笑交じりに戦車の改良案を幾つか披露する。
履帯の鋲をダブルブロックピンへ変更するなどは特に重要であった。これは無限軌道を履板の接合部品を介して鋲で接合する方式で、部品点数が多く高価であるものの、そのぶん信頼性に勝る。無論、その辺りの欠点は、強化術式の出番である。欠点を魔導技術で最大限に軽減し、柔軟性に優れ、外れにくいという利点を最大限に生かす。正に理想の技術統合と言えた。
わいわいがやがや、と二人は見ぶち手ぶりを交えて戦車について熱く語り合う。
こうなっては戦車も高価な玩具に過ぎない。否、軍事力など本質としては権力者の玩具に過ぎない以上、その一端を構成するに過ぎない戦車は間違いなくマリアベルの玩具であった。
トウカが科学技術を解説すれば、マリアベルが魔導技術を解説する。
こうして二人は足りないものを互いに補ってゆくのだが、その結晶が生まれるには今暫らくの時間が必要であった。知識とは手段の幅を広げる重要な要素である。当人達もそれを理解しているからこそ真剣に、そして何よりも楽しく忌憚なき意見をぶつけ合う。
「どうかえ? 沈みつつある船に乗らんとする気分は? それとも船を乗り換える算段でもあるのかえ?」
「さぁ、どうでしょうか。時間があれば新しい船を作る気でいましたが」トウカは真顔で呟く。
それは、聞き取った者によっては叛乱を意味するほどに過激な一言でもあったが、その言葉を受け止める相手が現に叛乱を起こしている者である以上、その辺りを考慮する必要はなかった。寧ろ、国家を向こうに回す以上、情報の共有は重要である。
喧々赫々の情報交換。
双方共に今後のことを考えて少しでも有利な状況を構築しようと、言質を取ろうと腹の探り合いが続く。話せば話すほどに情報という名の手札を消費していく二人の情報交換は、やがて全てを使い切り揚げ足取りと水掛け論の応酬になる。
「いえ、領邦軍の指揮権を渡していただければ……」
「その前に剣聖を妾の指揮下に……」
他の者達が目にすれば腹黒さに顔を顰めるであろう応酬だが、縁側に座り果てなき鍔迫り合いを続けていた二人の頭上に影が差した事で終わりを告げる。
不意に差し込んだ影に、二人が上を見上げた瞬間には拳が迫っていた。
氷雪舞う墓標に鈍い打撃音が響き渡る。
突然の痛みに、雪の庭に転げ落ちた二人。
恐る恐る二人が上を見上げると、そこには狐耳と尻尾を逆立たせた仔狐が立っていた。
「もぅ! 二人とも私が皆とお別れしている時に不粋です! そもそも、これから力を合わせて戦っていかなくちゃいけないんですよ!? 御姫様の言うことは絶対です!」
大きな胸を精一杯反らして怒るミユキ。
トウカもマリアベルも「まだ御姫様ではなかろうに」と内心で思ってはいたが、口に出すほど愚かではない。トウカの御姫様になってみませんか、という言葉 を聞いて以降、ミユキは時折、思い出したかのように御姫様ぶることがあった。それがまた可愛いのだが、今回は鉄拳まで加わりそれどころではない。
「めっ!! ですよっ!」
ムッ、とした顔で怒っているぞという表情を作るミユキ。
そんな仔狐に二人は頷くしかなかった。