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第四三話    契約の真実







「遣り切れないな……」

 異邦人は一人、部屋の隅で呟く。

 屋敷の中でも最も大きい大広間の隅には、トウカとマリアベルしかいない。ミユキやシラヌイを含めた天狐達は中央で女狐達が用意した料理に舌鼓を打ちなが らも騒いでいる。酒が入り大いに気分が乗っているのか皆の顔は一様に明るい。傭兵を退けたからこその祝賀会であるが、トウカからすれば自らの策で散った狐 も居る以上安易に喜ぶことはできなかった。

 天狐側の投入戦力三二六名中、戦死者は三六名。

 撤退する傭兵達をベルセリカやシラヌイを中心に挟撃した際の被害も少なくない。殲滅する意図を感じ取った傭兵が死兵となって抵抗したからであり、その後 も里の周辺への索敵攻撃を行う為にベルセリカなどは少数の天狐達を率いて残敵掃討に当たっていた。被害の増大は避けられなかったのだ。

 しかし、相手は八〇〇名を超える犠牲者を出している。

 領主であるマリアベルが捕虜を取らないと明言していたこともあり、後腐れなく全員を始末する事が許されたこともあって対応は比較的容易であった。或いは逃げおおせた者もいたかも知れないが、全ての装備を投げ出して撤退しても凍死する運命が待ち構えているだけである。

 一部を捕らえて情報を引き出すべきではないかと進言したトウカだが、マリアベルは然したる情報を持ってはいないと確信していたのか捕虜は認められなかった。

 事実上の殲滅戦であるが、だからと被害がなくなる訳ではない。

 現世は物語でもなければ妄想でもない。犠牲なき勝利などありはしないし、《露西亜帝国》海軍に三六隻沈没、被拿捕九隻、戦死五二一〇名、捕虜七二五六名 という被害を与え、完勝と言われた日本海海戦であっても《大日本帝国》海軍は水雷艇三隻沈没、戦死一三二名の被害を出している。あの歴史的大勝利にして海 戦史上稀にみる完勝であった日本海海戦であっても一〇〇名以上の死者を出しているのだ。

 戦術的勝利に限って言えば、勝利者側であっても死者亡き勝利は有り得ない。

 一〇名を越える集団同士の戦いは、ヒトという存在が完全に統制できるものではないとトウカは考えていた。必ず何処かに想定し得ない不確定要素が潜み同胞に牙を剥く。所詮、ヒトの思考は闘争に於いて完勝という奇蹟を得られるほどに十全なものではないのだ。

 胡坐を掻き、部屋の隅で盃を傾けるトウカを気にする者は少ない。

 当人が人を寄せ付けない雰囲気を醸し出しているということもあるが、やはり宴の主役は圧倒的戦闘能力を見せつける形となったシラヌイやベルセリカ。そして初陣ながらも見事敵戦車を討ち果たしたミユキとなっていた。

「トウカもあの騒乱に加われば良いと思うがの。御主(おぬし)の策と行動がなければ被害は甚大であったろうに」

トウカの有様をみて苦笑するが、そのマリアベルの横顔も決して明るくはない。

 前者は更に戦死者を減らせたのではなかったのかと回顧し、後者は己の治政が十全であれば起き得なかった騒乱ではないかと後悔していたのだ。共に大きな時 代の流れのままに刃を振るった結果であり個人の力で抗える類の悲劇ではなかった。時代から見れば双方共に一芸に秀でた皮肉屋でしかないのかもしれない。

「戦術に通じる者でもない限り評価はしないでしょう。そもそも俺は敵の行動を制限しただけです。それも戦車相手には失敗した。褒められたものではない」

 それは己の今回の闘争に於ける心からの評価であった。

 歴史に“もし”や“或いは”がないように、闘争もまた同じである。かつての決断を覆すことはできはしないが、それを考えてしまうのが歴史でありトウカであった。

「謙虚よの。妾なぞ対戦車小銃の弾が無くなって何もできなんだ。矢玉に頼らねば他者を伍せんとは神龍が聞いて呆れるではないか」

 面白くないと唸るマリアベルに、今度はトウカが苦笑する。

 ミユキを戦野に引き摺りこんだことは不本意だが、マリアベルが居らねばミユキは単独で赴いたであろうと想像できるが故に、トウカは非難の声を上げない。説得と釘を刺す事を怠った己にこそ責任がある。

 天狐達の喧騒に関わろうとは二人とも考えてすらいない。

 大いに騒ぎ、大いに飲み、大いに泣けばいい。それで散って逝った者達への想いが幾許かの時であっても薄れると言うのならば、それに敢えて異を唱えること を二人はしない。傭兵達の遺体の始末は、天狐達が後々すると聞いており、冬場であることから腐敗して感染症の温床となることもないので急ぐ必要はなかっ た。

「遣る瀬無いと言うのならば、マリアベル殿こそあちらへ行かれては?」

「思ってもおらぬことを言うでない。……我らは部外者であろうて。そして同時に加害者としての側面も持っておろう」

 盃を傾けつつも顔を歪めたマリアベルの言葉を、トウカは黙って首肯する。

 二人はもしかすると戦死者の数を更に減らす事ができたかもしれない立場にある。その点を二人は指摘されることを何よりも恐れていた。無論、二人は決断時 に取り得る最善を選んだと考えているが、後になって敵の全容が見えるとやはり無駄が多い。無論、敵情を知る手段がなかった以上不可抗力に変わりないが、有 り得たかもしれない可能性を捨てきれないでいた。

 勿論、トウカは指摘されれば、偵察行動を制限したシラヌイに責があると責任の所在を有耶無耶にする心算であったが。心情と非難を受け入れることは別である。

「御主も大概苦労したであろうて」

「ええ、まぁ……」トウカは曖昧な笑みを浮かべて見せる。

 幾ら主戦場が収束へ向かいつつあったとはいえ、実質的に指揮官の地位にいたシラヌイを連れて里へと駆けたのはトウカにとっても苦渋の選択であった。戦い 続けている者達に背を向ける事に対する忌避感。何よりも胸騒ぎがミユキの危機を痛い程に伝えたのだ。マリアベルの中戦車部隊の勇戦は疑ってはいなかった が、何故か論理的ではない感覚にトウカは突き動かされるままにシラヌイを引っ掴んだ。

 二、三発殴られはしたが、シラヌイはミユキの下へ向かうと告げれば大狐へと変化してトウカを乗せて里へと向かってくれた。

 何の根拠もないトウカの言葉を信じたシラヌイだが、その決断は正しく間一髪のところでミユキの下へと馳せ参じることができた。シラヌイの移動力は凄まじ く、本来里へと向かう道は複雑に紆余曲折しているのだが、密林を直線に突っ切る事で時間を短縮した。シラヌイが障壁を展開していてくれていたことは分かっ たが、風や氷雪などを遮断するだけでなく、体温も低下せずにいたところを見るに気温を遮断する防護術式も展開していたのだと遅まきながらにトウカは気付い た。障壁を展開しても対象物が高速で移動する以上、展開している障壁も温度が下がり、対象物が生物であった場合これの温度を低下させる。

 時折、小枝が顔に当たったのは絶対に故意だろうが。

 障壁を展開しているにも関わらず、小枝が時折、顔面を直撃するのはシラヌイの、娘は渡さんぞ、という無言の抵抗だったのかも知れない。高速での移動中に トウカの顔面に当たる小枝だけを見極めて障壁を部分解除することは、それはそれで難易度が高く手間の掛かる行為ではないのかとすら思えた。

 トウカは、或いは、とマリアベルに視線を巡らせる。

「ミユキの危機を悟ったのは……自分でも合理的でないと……ああ、何と言えば……そう本能というべきものが叫んだのです……仔狐が危ない、と」

 当てはまる言葉が見つからないトウカは、巻かれた包帯の上から頭を掻く。

 トウカという少年にとって、合理的でない感情によって己の行動を決定するなどあってはならないことであった。ミユキが関わっている場合は吝かでもないと 考えていたが、それでも感情を行動の示準とすることはあっても合理性に欠ける行動を取ることはなかった。あくまでもミユキの存在は行動の示準であって、合 理性に欠ける行動を取る理由にはならない。

 だが、トウカはミユキが危ないという本能とも言える不確定なモノに従って行動した自分を恐ろしく感じていた。

 ――瞳だけでなく他にも違う要素が付加されたのかもしれない。

 それを把握できないことは何物にも勝る恐怖であった。

 己の行動を己が統制できないなどお笑い種である。武門の末席に連なる者としても、これより先の見えない恋に殉じねばならない身としても、自らの心の内に不確定要素が根を張っているなどあってはならない。

「ほぅ……。本能が仔狐を求めた、か」マリアベルは感心したように微笑む。

 万感の想いが籠ったその言葉にトウカは首を傾げる。

 憧憬と慟哭の宿ったその表情は人間種では叶わない深みを感じさせ、トウカが疑問を投げ掛けることを無言の内に拒む。

 先を促すこともなく、トウカは杯を傾けながらマリアベルの言葉を待つ。

 天狐達は良く笑い、良く騒いでおり、その狂乱に加わっていない二人に与えられた時間はまだ多く残されている。

 無言のまま幾許かの時が過ぎ、トウカはマリアベルの手元で空になっている盃に米酒を注いでいると、マリアベルの口から溜息交じりに言葉が紡がれた。

「……そう言えば御主は“契約”を終えておったの。それ程の拘束力を持つとは聞かぬが」納得の色と諦観の色を帯びた瞳。

 マリアベルの視線は開け放たれた襖の先で雪を被る桜の木へと向けられていた。

 屋敷の大広間で行われている宴であるが、冬場にも関わらず縁側へと続く襖は全てが開け放たれ、手入れの行き届いた雪化粧の庭園を一望できる。開け放たれ ていても寒さを感じず冷気が吹き込まないのは、襖の敷居に刻印された防寒術式と恒温術式の成果と言える。魔導刻印に小型の魔導結晶から魔力を送り込むこと によって、魔力が枯渇するまでの時間を期限に稼働を続ける術式は生活の知恵の一つに他ならない。

 トウカも雪化粧を施されて佇む紫苑桜華の木に視線を向ける。

 その根元には三八の棺が整然と置かれていた。

 初戦を含めた此度の戦いによって散って逝った天狐の戦士達。或いは、その雪の庭園で、散って逝った天狐達も宴を催しているのかも知れないとトウカは新たな盃を手に取り、紫苑桜華の方角へと置きつつも考えた。

 マリアベルもその意図を察して徳利でその杯へと米酒を注ぐ。

 皇国へと流れ着くまでのトウカは神々や立証できない現象を信じてはいなかった。トウカの場合、祭礼に於いては歴史と伝統の一翼を成す神道への尊崇を持って首を垂れるのだ。決して神々の存在を確信していたからではない。

 対するこの異世界には神々も存在すれば龍や魔の理まで目視することができる。だからこそ散って逝った者達の魂が、或いは我々が気付き得ないだけですぐ手の届くところで笑っているという可能性もあり得る。神々や龍が実在している以上、魂が実在しない理由もない。

 天狐族の仕来りらしく、一族内で黄泉路へと旅立ったものが出る度にこの様に紫苑桜華の下に棺を置き、その横で宴を開いて見送る。冬場でなければ庭園に茣蓙(ござ)を敷いての宴となり、春先であれば紫苑色の花弁舞い散る下での宴となるらしいが、生憎と今は氷雪の舞う季節。悲しみを紛らわせ、笑顔で死者を送り出す為の通過儀礼としての側面を持った葬制。

 多くの同胞を失って尚、笑い続けることのできる天狐達は強く、そして弱かった。

 強さと弱さは対を成すものではない。少なくともトウカはそう考えていた。

 強者は弱さを内包し、理解し得るからこその強者。
 弱者は強さを内包し、理解し得るからこその弱者。

 人を一面だけで語ろうとすることはできないが、その中でも天狐という種族は特に複雑な多面性を持っていた。近しい者を、愛する者を、敬愛する者を失って尚も気丈に、健気に、純粋に振る舞うその姿は痛々しくもあり愛おしくもある。

 愛おしい、か……己の心がミユキ以外の、ましてや不特定多数の種族という対象に抱くとは。

 トウカの天狐達に対する感情を知らないマリアベルが盃を膳に置き、小さく笑う。

「御主、契約の意味を知らぬであろう? まぁ、その様子では止む無しかの」

 その言葉の真意を計りかねて、トウカは首を傾げる。

 亜人や人以外の種族が指す“契約”とは大抵、人間との間の魔術的な契約を指し、基本的に戦闘時に最も効力を発揮するらしく人に多くの力を与えてくれる。 だが、人に対してもう一方の種族側に利点が少ない為に後者の側から結ぼうとする者は少ない。故に他種族側から人に契約を求める事は滅多となく特に雌となる とさらに数は少なくなる。あらゆる種族にとって契約とは神聖にして不可侵、一生を左右するものに他ならない所以であった。要は人間の婚儀と比肩し得るほど に重要視されるものである。

 だが、それだけで契約が重要視されるとは考え難い。

 戦闘時の恩恵も魔導技術の発展した今となっては過去。攻撃は魔導付加術式によって強化された武装。防禦は防禦障壁を展開できる簡易護法防禦術式の編み込 まれた軍装。速度は摩擦係数を低減可能な加速術式を付与された大外套を身に纏えば、それ相応の力を得ることができる。無論、一部との例外を除いて高位種族 との契約によって齎される力には劣るが、金銭さえ差し出せば手軽に手に入れられる点も相まって、軍だけでなく民間でも運用されていた。

 時代の波に流されて廃れ往く法則でしかないと、トウカは判断していた。少なくともミユキと契約を結んだ時点では、形骸化された風習の一つ程度の認識でしかなかった。

「契約とは能力の一部共有化だけではない、と?」

「その程度の認識で契約を行使したのか、御主は……シラヌイには言ってはならぬぞ」

 マリアベルの呆れた様な口調に、トウカは言い返す言葉もなかった。無論、ミユキの涙を止めるにはそうする以外に選択肢がなかった以上そこに後悔が入り込む余地はないが。

 ――もしかして契約があったからミユキの危機に気付けたのか? 

 ならば、シラヌイはトウカの言動に契約を察した可能性が生じる。否、そもそも口論の際にミユキがあっさりと言ってしまっていた。

 一筋の汗がトウカの頬を伝う。

 契約は高位種族にとっては婚約よりも比重が置かれる行為に他ならない。そんな契約を交わしていながらも里へと赴いてミユキを寄越せと嘯いた若造をどう見 るだろうか。外堀を完全に埋めた状態で娘さんをくださいと迫る糞餓鬼とシラヌイは息巻くに違いなかった。皇国は建前ではあるものの、種族平等を謳ってい る。種族の例外なく恋愛を肯定している以上、二人の関係は司法の上では何ら問題はない。故に二人の恋に異議を申し立てるシラヌイの否定は、天狐族族長の言 葉ではなく、父狐のものとして処理されねばならない。前者として発言すれば、初代天帝が制定し、皇国開闢以来の憲法に背くことになる。

 ――まぁ、そんなことは知らん、と殴られるだろうが。

 孤立主義を取っている天狐族に初代天帝の権勢が通用するとは思えない。初代天帝が群雄割拠の時代に立ち上がり、一〇年にも渡る長き闘争を経て多種族権威 主義国家《ヴァリスヘイム皇国》を建国した独立戦争で、蹶起軍に加わらなかった数少ない種族が天狐族であった。無論、全く協力しなかった訳ではなく、建国 時に際しての法整備や内政などには大きく関わっている。

 そうした天狐だからこそ皇国開闢以来の憲法を順守する。種族平等という言葉は初代天帝の意志ではなく、当時の狐達の意志であった可能性とてなくはない。何よりも平穏と日常を愛する種族であるが故に。

 トウカの懸念を余所にマリアベルは契約について驚くべき事実を漏らす。

「契約とはな、互いの魂を縛るものでな。……比喩ではなく言葉通りの意味としての」呆れた声音で語られる事実。

 トウカは魂というものについて多くを知らない。

 《大日本皇国連邦》と《ヴァリスヘイム皇国》に於ける魂という存在、或いは概念に対する印象は大きく違う。前者では科学と対を成す分野である魔導が衰退 した事もあり、魂を証明することにすら成功していない。だが、後者は神々を認識し魔導国家と称されるほどに魔導技術先進国である。魂はトウカからすれば胡 散臭い存在に他ならないが、皇国に於いては重要な概念として捉えられていた。

 魂とは魔術を行使する際に必要な魔力を生成する疑似霊子器官に他ならない。

 魂、或いは霊魂と呼ばれるその存在の大きさによって行使可能な魔術の規模が変わる。トウカの世界で一般的に語られていた生物が生きている間はその体内にあって、生命や精神の源とされている存在や概念という言葉は間違いではなかった。

「しかし、魂とは。縛るとは一体」

 トウカには及びもつかない魔導の奇蹟。全く知らない分野であるが故にトウカは契約について余りにも無知であった。魔導が一部に於いて科学すら上回る程の可能性を秘めた技術大系であると、この時思い知る。

「魂の共有に他ならぬ。最愛の人の危機を悟り、精神を同調し、同じ魔導を行使する。硬い絆で結ばれた者同士だからこそ可能な奇蹟……年頃の娘ならば誰しもが憧れる愛の標。……妬けるのぅ」

 まぁ、魂の共有の深度は個体差がある様であるがの、とマリアベルは喉を鳴らす。

 茶化す様にころころと笑うマリアベルは、妖艶さよりも幼さが窺える表情でトウカはマリアベルの新たな一面を見た気がした。或いはマリアベルという女性は見た目に反して心根は幼い頃のままなのかも知れないとトウカは考える。

 もしかすると、この不器用なヒトは大人になりたくない子供……いや、子供のままでいたい大人なのかも知れないな。

 戦車に対する研究への傾倒は子供が玩具で遊ぶことと同義であり、北部やヴェルテンベルク領は幼い頃に遊んでいた砂場の延長線上でしかないのかも知れな い。大人になれない子供という者は往々にして存在する。そして、その純粋さや無邪気な部分が我を通す為には必要なことを考慮すると、それは決して悪いこと ではない。

「だからこそミユキの危機を知れた、と」

 口にすれば大激怒は避けられないマリアベルへの評価を飲み込み、トウカは真実を理解したと微笑む。 

 だが、辻褄の合わないこともある。

 同じ魔導を行使するという点である。

 トウカは契約したにも関わらず、ミユキが得意とする風や雷の属性が付加された魔術が扱えない。無論、身体に魔力を宿さないトウカだが、ファウストを経由 しての魔力供給による魔術の行使すら不可能で、ミユキも頻りに首を傾げていた。異邦人だとトウカは納得しているが、ミユキは未だ諦めてはいない。一度、雷 の魔術での実験でトウカは意識を失った事すらある。

「妾も男でも漁りたいのぅ。……妾なぞどうかえ?」

 トウカの空になった杯に徳利で新たな米酒を注ぐ動作と共に、右肩へと身を寄せてきたマリアベルの柔らかな肌の感触に心臓が高鳴った気がした。よもや高鳴りもミユキの心にまで伝わるのではないかとの緊張が身体を襲う。

「妾ならば地位も資金もあるでの。仔狐から乗り換えてみぬかえ?」妖艶に、それでいて楽しそうにしな垂れかかるマリアベル。

 確かにマリアベルの伯爵という地位とヴェテンベルク領の機甲戦力は余りにも有名。それらへ影響力を及ぼせるという利点は極めて魅力的である。ベルセリカも“歓心を買ってみせよ”とも言われていたので無下にはできない。

 だが、マリアベルの隷下に収まるということは、その欠点も己に帰属するということに他ならない。現在のヴェルテンベルク領を取り巻く状況を考慮すると危 険な行為とも言える。征伐軍と蹶起軍との戦闘に巻き込まれればトウカもミユキも無事では済まない。戦火を確実に避ける術、或いは戦火を確実に打ち払う手段 がなければ安易に協力体制を取ることは避けるべきであった。

 個人としては、この不器用な女性を助けてやりたいと、トウカは考えていた。

 マリアベルと共にいる時間は、トウカにとってミユキとはまた違った意味で安らぎの一時であった。気安い友人の様でいて、好ましい距離感、指導者としての視点と経験。共に居て勉強にもなれば、楽しくもある。

「身体や愛は必要ないので地位と資金だけ貰えますか?」

「ふん、言いおるではないか。しかしのぅ」

 マリアベルは困惑混じりの声音で、トウカ越しに視界へ差し込んだ影へと視線を向ける。

 元来、長命種というものは一度傾倒すると人間種ですら狂信的だと思えるほどに偏った思考をすることがある。最愛の人が一度の人生で幾度も変わる事すらあ る人間種や短命種だが、対する長命種は短命種と比しても極めて長い寿命を有しているにも関わらず、一度の人生で愛する者を作ることが一度しかないという者 が非常に多い。長命種が長命でありながら人口の面で短命な人間種に劣っている理由は、この点と出産率の低さに起因するということもあり、例外は必ず子を成 す必要性がある貴族くらいであった。

 トウカは影を落とした者へと視線を巡らせる。

「ミユキもどうだ? 今なら左の肩を貸すぞ?」

 厳しい顔で何かを口にしようとしたミユキの先手を取り微笑むトウカ。毒気を抜かれたような表情をしたミユキは、一瞬逡巡する素振りを見せると黙ってトウカの左隣に座り、トウカの膳に盛り付けられていた揚げ物を手に取り、もしゃもしゃと咀嚼する。

 嫉妬と矜持がトウカの肩へと身体を預けることを許さないのか、唯ひたすらにトウカの為に用意された料理を貪ってゆく。酒のおつまみになりそうなものから重点的に狙っているのは気の所為ではない。相手の急所を的確に抉っていた。

「まぁ、そんなに怒るな。ちゃんと辞退しただろう?」右手でミユキの肩を抱き寄せ、トウカは弁解に徹する。

 腹黒い遣り取りはしてもミユキへの恋心が色褪せることなどありはしない。だが、マリアベルの動作に一々、動揺していては間違いなく呑み込まれる。下手を打つと性的な意味でも呑み込まれるのではないかという懸念もあった。

「でも身体をくっ付けたままなんて不謹慎です」むすっ、とした顔で唸るミユキ。

 これはこれで可愛いのだが、あまり機嫌を損ねる訳にはいかない。だが、愛を囁くという真似のできないトウカは大きな話題で話を逸らすことにした。

「ミユキは御姫様になりたいか?」

「えっ!? 御姫様……ですか?」の意味を計りかねてミユキが首を傾げる。

 実はトウカには一つ野望があった。

 天狐族は長命種であるにも関わらず、皇国に於いて社会的地位を持つ者がいないに等しい。ケマコシネ=カムイ公爵家という天狐族の有力貴族が存在するとさ れているが、七武五公として公務を果たしたことはなく所在は不明とされている。義務を果たさぬ以上、権力が付随する事はない。

 独立戦争そのものに対して協力しなかったという点以上に、政治闘争や権力闘争を子孫に引き継ぎたくはないという意志があったのであろうとトウカは推測し ていた。狐種は一族の結束が強いことでも有名であり、今回の戦闘でも民間人に過ぎず、臆病であるにも関わらず精神的負担によって戦えない者が出なかったの は一重に結束の結果であることは疑いようがない。

 《ヴァリスヘイム皇国》に於いて最も動きのない貴族。それはケマコシネ=カムイ公爵家である。

 種族に対して一つの爵位という制限がある訳ではない以上、他の天狐が爵位を得ても違法性はない。無論、最終的な認可が天帝の裁可によって成される以上、暫定的な者とならざるを得ないが、暫定的な措置が常態化することなど、歴史上には無数とある。

 未曾有の国難に晒された国家に一勢力を打ち建てんと望むならば、結束の象徴が必要となる。結束は絶望の中でヒトが背を向けず、踏み止まる上で極めて有効なものであった。それ故にミユキに爵位を与えられるようにと目論んでいた。

 仲間の為に戦うという意志。それは確かに素晴らしいものかも知れない。だが、それでも尚、退けることのできない悪意も確かに存在する。故に権勢を求める重要性をトウカは何よりも理解していた。

 権力への渇望と称しては危険に思えるやもしれないが、ナニカに抗おうとするとき己の力だけでは叶わないことも確実に存在する。トウカは、それを何よりも恐れた。

 抗うこともなく諦観と絶望の海にその身を鎮めることは三流。
 自分が力を持ち合わせていないと、ただ無力を嘆くことは二流。
 他者の思惑を見透かし、使役し己の悲願を引き寄せてこその一流。

 己の権勢を高めるというある意味に於いては危険極まりない行為に他ならず、トウカに限って言えば自らが他者の上に立つことを諦めていた。無謀な行為であるが、ベルセリカが嘗て述べていた通り、トウカも現状に危機感を抱いている。

 戦争になる。北部だけではなくヴァリスヘイム皇国そのものが戦場になるのだ。

 皇国の抱えている火種は大きく、それに対して皇国の貴族や政府、軍は余りにもトウカの目に脆弱に映った。実際のところ皇国は軍官民全てが極めて高い潜在 能力を持っており、トウカが考えている様な抗う意志すら持たない弱小国ではない。そう見えるのは散った天帝の融和政策と貴族の内政ばかりに目を向けている 姿勢が原因に過ぎないのだ。

 ミユキは思っていた以上に皇国という国家に執着している。

 愛国心と称するには些か漠然としているが、ミユキにとって皇国という土地は親しい者達が住まう場所に他ならない。トウカは当初、いざとなれば他国へ流れようとも考えていたが、ミユキの愛国心と呼ぶには漠然とした故郷への愛着を好いてもいた。

 トウカは愛国心というともすれば闘争の理由にすらなるどうしようもない感情が決して嫌いではなかった。トウカの祖国とて魔導の息吹がないにも関わらず愛国心によって幾度も奇蹟を起こして見せた。

 ミッドウェー海戦での近衛軍機動部隊の乱入による航空劣勢の挽回。
 ソヴィエト連邦を事実上、崩壊させたユーラシア決戦での書記長爆殺。
 米帝に占領された沖縄諸島に対しての敵前上陸と戦艦部隊の海上特攻。

 奇蹟によって成された功績は祖国の危機を救い、時には繁栄という名の領土拡大を齎した。夥しい犠牲もあったが、烈士達は隣に立つ同胞が斃れ伏そうとも刃を振り翳す事を止めなかった。

 愛国心とは祖国をこよなく愛し、郷土を愛し、家族を愛し、そして何よりも最愛の人を護る為に戦わんとする意志の総算である。武門に連なる者としても、桜舞う悠久の大義の地に生まれた者としても、そして何より一人の男としてもそれを否定することはできない。

 だが、皇国と心中するわけにはいかない。少なくとも最悪の状況を回避できるだけのナニカを手に入れねばならない。

「どうですか? 伯爵殿、ミユキに爵位を与えて俺とセリカさんがその下に付くのです」

 予てより考えていた案。

 ミユキは戦うことには適していないものの、平時の指導者としては中々に優秀なのではないか、という考えがあった。その優しさや思い遣りに依るところだけ ではなく、ベルセリカやマリアベルという力を持つ者との友誼を結べているという点があった。誰しもが他者に平等に接することができる訳ではなく、高位種の 貴族の中には人間種との接触を避け、神秘性を高めることによって己に対する求心力の向上を図っている者もいる。ミユキはそれらとは対を成す形で佳き領主と なるのではないか、そう考えていた。

「実際の領地経営は家臣団に任せればいいでしょう。そして領邦軍を率いるのは剣聖、参謀が俺です」

「む、それは……確かに良い手かも知れぬが……いや、それならば剣聖殿を貴族に据えた方が良いと思うがの」

「いえ、セリカさんを貴族に据えてしまうと、容易に戦場には出せなくなるでしょう。それに天狼族は他にも多くの貴族を擁しています。それらに干渉を受けたくはないのです」

 天狼は主に北部に住まう種族である為に北部で新たに新たな家名を起こすとなると多分に干渉してくることが予想された。特にベルセリカの生家であるシュトラハヴィッツ伯爵家が七武家として北部では相応の権勢を誇っている。

 これは、マリアベルと同等の爵位を持つ伯爵家と不和を齎す訳にはいかないというトウカの配慮であった。本来、マリアベルが擁するヴェルテンベルク領は大 部分の土地が開発が進んでいないとは言え、公爵家を上回る程に広大な領土と豊富な魔導、鉄鋼資源に恵まれている。状況次第では、対帝国戦役では戦場となる 可能性を秘めている為、伯爵より上位の辺境伯が統治することが適当であったが現状は違う。

 マリアベルは他の龍に足を引っ張られた。

 強大な権勢をマリアベルが有することを恐れたと容易に想像できた。辺境伯は外敵が侵入するであろう侵攻路上や、国情が不安定な国家と面している領地の貴 族が命じられる爵位である為、公爵に準じる権勢を誇っており、その特徴の一つとして外敵から備えるという名目で政府から少なくない助成金が得られる。

 故にマリアベルを伯爵位のままに未開発の広大な領土を手渡した。助成金が得られないにも関わらず、領地開発と軍備拡充を同時に行う必要性に迫られ、金銭的には身動きが取れなくなる。マリアベル自身も雑務に追われるだろう。

 もし、領地で叛乱でも起きれば、それを理由に排斥しようと考えた者がいたのだろう。マリアベルの言動からすれば間違いなく実父である。だが、マリアベル が領地を下賜されて既に幾星霜、その目論見は外れたと言える。その上、それ相応の戦備を有しているので容易には手を出せない状態になった。

 いや、あろうことか中央貴族にまで反旗を翻した。端倪すべからざる事実だ。

 実父、クロウ=クルワッハ公爵が蹶起軍を牽制する動きすら見せていないのは混乱しているからではないかとも推察できる。七武五公の公爵家全てが沈黙している以上足並みを揃えるに値する理由があるのだろう。

「? どうした。怖い顔をしておるぞ」

 マリアベルの指摘に、トウカは顔に笑みを張り付ける。

 当人もその程度は認識しているだろうが、改めて突き付けたとしても意味はない。何より、それらに対する絶望と憤怒こそがマリアベルの依って立つところに他ならないのだから。

「いえ……兎にも角にも俺とセリカさんは前線に出ねばならなりません。爵位を持つと行動が制限されてしまいます」

 一族の長が安易に戦野に赴き、討たれれば忽ちに立ち上げた爵家が空中分解する事は容易に想像ができる。双方共に容易に討たれるほどに無能ではないが可能性は皆無ではない。それが戦野である。

 そして、何よりトウカの死後もそれなりの権勢を持っていれば、ミユキも不遇は強いられない。トウカが爵位を持ったとしても、人間種は爵位を世襲できず、トウカの死と同時に爵位は天帝に帰属する。それでは意味がない。

「悪くないのぅ。しかし、北部貴族の多くを納得させることは難しかろうて」

「だからミユキなのです。天狐族が蹶起軍側に付く……そう見せかけます」

 悪辣な手段。

 天狐達は断じて協力しないだろう。好んで同族が血を流す事を許容しないことは間違いなく、トウカも無理に戦野に立たせようなどとは思わない。そして、ト ウカとベルセリカは天狐族が蹶起軍に協力する以上の戦果を挙げればよい話であり、ベルセリカの名声を手放す事も出来ない以上は他の貴族は異を唱えないだろ う。

 或いは、存続しているかも市井では危ぶまれているケマコシネ=カムイ公爵家が動き出す可能性もある。元より、所在すら分からず所領も持たぬ宮廷貴族として認識されている相手に、現状でトウカは打てる手を持たない。

「主様は詐欺師です。ばれたら貴族さんたちが怒っちゃいますよ?」

「問題はないぞ。国難を前に纏まることすら出来ない連中に優しくしてやる必要などないだろう。……それに、どの道、貴族達も此方を利用しようと目論むはずだ」

「耳の痛い話よのぅ……まぁ、最善ではあるの」

 三者三様の意見。

 トウカとしてもミユキを政治権力の闘争に巻き込まれるかも知れないという懸念があったが、当人が皇国を去ることを許容しない以上、皇国そのものの保全に努めねばならない。それも、ミユキを政治的にも軍事的にも個人的にも護りつつである。三正面作戦であった。

「如何いたしますか?」トウカは今一度、マリアベルへ問う。

 ミユキの同意を得てはいないが、顔を赤くして「御姫様ですか~」と締まりのない笑みを浮かべているところを見るに満更でもないはずである。トウカとしてもミユキを着飾らせてみたいという感情もあり、気持ちは分からないでもない。

 目を瞑り、思案する気配を見せたマリアベル。

 トウカの言葉に理があることは承知しているだろうが、同時に何処かに不利益をもたらす要素がないかと考えているのだ。或いは不利益と利益を天秤にかけ、 どちらが己の悲願を満たし得るのか試算しているのかも知れない。マリアベルにとってもベルセリカを擁するトウカを陣営に抱き込めるかという瀬戸際なのだ。

 そして、目を開けたマリアベルは長い溜息を漏らす。

「良かろうて」呆れを多分に含んだ肯定。

 ミユキは「これで御姫様ですよ!」と無邪気に欣喜の仕草を隠さないが、トウカは波乱の始まりであることも理解していた。

「まぁ、任せてください。只では負けませんよ。少なくともそれなりの展開には持って行けると思います」嘘だ。

 トウカは北部の事など表面上しか知らない。そして、帝国南部鎮定軍と皇国征伐軍に挟まれた状況が傍目に見ても不利であることは嫌でも理解できた。前者の 戦力は推定五〇万であり、後者の戦力は推定二〇万で、両軍共に増大を続けていると見て差し支えない。対する北部蹶起軍は予備戦力と志願兵を含めたとしても 一五万程度であり、これの増大は困難な上に指揮統制に不安がある義勇軍を含めた数でもあった。

 トウカはこの瞬間、北部の可能性と悲劇の一端を背負ったのだ。

 宜しい、本懐である。

 大東亜戦争開戦に当たり、六文銭の御旗を掲げ、大国たる《亜米利加(アメリカ)合衆国》の要衝である布哇(ハワイ)空襲を成した祖父の盟友も斯様な心境であったのかも知れないが、意地と悲願を徹す為には引けぬ事でもある。

 トウカは戦意を口元に湛えた。

 戦うのだ。

 征伐軍を内外から壊乱させ、南部鎮定軍の悉くを鏖殺し、マリアベルとベルセリカの悲願を果たす。そして、ミユキと平穏に過ごす事のできるだけの国力を後の北部貴族中心に運営される皇国に与える。

 最大の懸案事項は沈黙を保っている中央貴族だが、こればかりが状況に応じて推察するしかない。

 既に選択肢はそれ以外に存在し得ない。

「時代はどうしても流血を御望みらしい」

 トウカは天狐達に酒を進められ、辟易としているベルセリカを眺めながら溜息を一つ吐いた。


 

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