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第四五話    在りし日の決意

 

 





 大きな背中が離れてゆく。

「兄さま! 待って、兄さま!」

 小さな少女が空色の第一種航空軍装を身に纏った青年を追いかける。

 第一種航空軍装を身に纏った青年が向かう先では、三〇騎あまりの龍が転化した姿を寒風吹き荒ぶ中、威風堂々と雪の大地を踏み締めて偉容を誇っていた。

 アリアベルはその光景をただぼんやりと俯瞰していた。

 これは……いつもの夢……

 揺蕩う意識の中でアリアベルは何時もと変わらない悪夢であると察した。

 空色の第一種航空軍装を身に纏った青年……リヒャルト・ラウ・フォン・クロウ=クルワッハが、幼女が軍袴を掴んで離さないことに困り顔をしていた。その 横顔はこれから死に往かんとしているにも関わらず穏やかであり、三〇騎の龍や共に戦うことを定めとした龍騎兵達も二人の姿に優しげな笑みを浮かべているだ けである。

「兄さま! 悪い予感がするの! 往かないで!」幼女が懇願する。

 その幼女はアリアベルに他ならない。

 今にして思えば何と無駄なことをしていたのかと思わずにはいられない。自身より頭の良い姉が引き止めて叶わなかった以上、アリアベルに止め得る術など皆無であることは自明の理。

 アリアベルに向き直り、屈むと優しく頭を撫でるリヒャルト。その手の温もりは気温が低かったことも相まってか一層暖かく感じられた。

「往かねばならない。それが貴族なのだ。分かっておくれ、僕の小さなアリア」

 あの時、アリアベルはリヒャルトの行動を止める言葉を持たず、また否定する言葉もなかった。

 だが、今は持っている。貴族ならば未来の多くを救う為、今この時、散り往こうとしている命を見捨てることも一つの道ではないのか、と。

 将来、神龍の長となるべき者が一人散るということは極めて大きな可能性を失うといことを理解していない。政治的に見ても多大な発言力を持つであろうことは疑いようもなく、歳を重ねれば軍事的には一個軍団に匹敵するだろう。

 民を護り、国を導くことこそが貴き一族と称される貴族の生き様。

 しかし、本当にそうだったのか?
 目先の悲劇に捕らわれたその結果はどうだったか?
 所詮、己の美学に基づいての衝動的なものではないのか?

 アリアベルはそう問いかけたかったが、所詮は泡沫(うたかた)の如き夢幻に過ぎない。幼き日のアリアベルがその言葉を紡ぐことはなく、また己の意識もそれを問いかける術を持たない。

「こら、アリア。兄様を困らせてはいかんよ」

 後ろから優しく肩を掴む手に幼き日のアリアが、泣き腫らした顔で後ろに立つ女性を見上げていた。

 マリアベルだった。

 仕方ない娘だと言わんばかりの表情だが、一方でマリアベルほどの女傑であれば、あの時にリヒャルトの行動を止め得る言葉を持っていたのではないかと思え た。そして何よりもリヒャルトが死ぬことによって自分にどれ程の悲劇が降り掛かるのかということも予測できていたのかも知れない。

 なのに、何故、マリアベルは何も言わなかったのか。

 当時からアーダルベルトとマリアベルの関係に温度差があることは、アリアベルも子供心に理解していた。決定的なものではなく、あくまでもマリアベルが心 に壁を作っていたように思えたが、幼き日のアリアベルにはそれが分らず、二人の関係が複雑なものであることすら知らなかったのだ。

「男の決意を女が引き止めることはあってはならん……良いな」諦めたように首を横に振るマリアベル。

 これから先起こるであろう悲劇を予測できるにも関わらず引き止めようとすらしないのは、すでに避け得ない運命と知ってか、或いは自らの保身に対する打算があったのかも知れない。

 マリアベルの手がアリアベルの頭を優しく撫でる。

 全てを理解し、諦めたかのような笑み。それはとても痛々しく、そして美しかった。

 背を向けて歩き始めたリヒャルト。

 幼き日のアリアベルは、その後ろ姿を見つめることしかできない。

 だが、マリアベルがリヒャルトの後を追う。

「――――――――」
「――――――――」

 寒風吹き荒ぶ中でふたりが龍へと歩きながら会話を続けているが、アリアベルには聞き取れない。それほどに氷雪混じりの風は強く視覚と聴覚を惑わせていた。

 二人は寄り添うように何かを囁き合っているが、その表情は朧げながらにも仲睦まじく見える。もし、リヒャルトが死ぬこともなければマリアベルが放逐され ることもなくアーダルベルトとの仲を取り持つこともできたかもしれない。皇国という国家の歪みをアリアベルが幼いながらも感じたのは間違いなくこの瞬間で あった。

 不意に二人の影が重なる。マリアベルがリヒャルトを抱き締めたのだ。

 公式記録ではリヒャルトが兄となっているが、実際はマリアベルのほうが年齢は高い為に男であるはずのリヒャルトと然して変わらない身長をしている。だが、その達観した性格も相まって、リヒャルトからすればマリアベルは間違いなく姉であった。

 二人の影が離れる。

 そして、視界が流転する。

 木々が色付き、クロウ=クルワッハ公爵爵家の正門に続く道を山吹と紅葉の色彩豊かな木々が石畳の道に彩りを添えており、散り往く美学をその生命で体現していた。

 木枯らしが舞う中、マリアベルの姿が遠のいてゆく。

 月光に照らし出されたマリアベルの後姿は、儚くて、そして神々しかった。

 幼き日のアリアベルは、その後ろ姿を自室の窓から見届けることしかできない。アーダルベルトがマリアベルの出立を伝えなかったこともあるが、幼き日のアリアベルは翌日にはマリアベルが帰ってくると、何時も通りの日常が戻ってくると疑わなかったからでもある。

 力なき者の日常など権力が吐息を漏らすだけで容易く消し飛ぶというのに。

 当時、幼き身であった自身がそれを理解できないことを罪だとは思わない。だが、幼少の(みぎり)より聡明であれば、少なくとも家族を二人も失うことは避けられたことは疑いようもない。

 そして、アリアベルは気付いた。《ヴァリスヘイム皇国》という国家の限界を。

 建前では平等を語っているが、政治的にも軍事的にも短命種と長命種は平等ではあってはならない。平等は皇国という多種族国家の弱体化と腐敗を招くから だ。本音では長命種、特に爵位を持つ者達は短命種と交わることによって一族の寿命の低下と能力の減衰を恐れた。長命種の血の濃さとは、国力や政治力と同義 であるが故に。

 国家的規模から見ればそれは正しい選択肢かも知れないが、アリアベルには許容できない。

 多種族国家でありながら種族間の恋の結果であるマリアベルを認めないなどということは矛盾している。異種族間の恋愛を《ヴァリスヘイム皇国》建国以来の憲法はこれを保障しているにも関わらず、爵位を持つ高位種はそれを嫌悪して認めない。

 歴代天帝を輔弼し、敬愛する貴族達が、初代天帝陛下が平等を願って制定された法を認めないなんて……これほどの不条理はない。

 そして、アリアベルは貴族のそうした考え方に限界を感じていた。それを感じたのは皮肉にもマリアベルが北部貴族の領邦軍に配備を始めさせた新型中戦車の噂を聞いた時が初めてであった。

 あの聡明な姉が中央貴族や陸軍への機密漏洩の可能性を無視してまで北部全体での配備を進めた中戦車。流石に情報統制が敷かれていた為に詳しい性能は不明であるが、新機軸の技術と発展させた戦術に合わせた兵器であるという噂だけは伝わっていた。

 だからこそ科学技術と魔導技術の統合によっての国力の増大が、長命種達の血統の維持よる国力増強よりも効率的ではないか、そんな考えがアリアベルの心中 に渦巻いていた。確かに現状では未だ戦車という兵器が装虎兵や軍狼兵には敵わない以上、夢物語と多くの者には一蹴されるだろう。だが、マリアベルがそれで も尚、量産している理由は、魔力の多寡に関わらず訓練を受けた者ならば誰でも扱えるという点と、装虎兵の扱う白虎と違い完全な機械なので育成するような時 間は掛からず、短期間で配備できるという点であることは疑いない。

 現在でも性能が装虎兵に一歩譲るとは言え、それを圧倒し得る数を用意することができる。これは途轍もない利点ではないかとアリアベルは、この事実に思い当たった時、背筋に冷たいものが走った。

 そして何より科学技術という分野によって生み出された戦車には発展の余地が十分にあることに対して、装虎兵は跨乗している白虎が成長することや防禦術式 の強化には構造上の限界があり、発展性がなかったことがその思いに拍車を掛けた。既に装虎兵という兵種は限界近くまで能力が強化されているのだ。

 何れ戦車の能力が装虎兵に比肩し得るものとなった時、装虎兵は陸上の覇者足り得なくなるだろう。龍の支配する空に於いてもそれは同様であり、旧文明時代に蒼穹を乱舞していたとされる飛行機械もいずれは戦野に再臨するかもしれない。

 アリアベルとマリアベルは敵対する定めにあるとはいえ、見ている先は同じと言えた。姉妹であるからか、或いはアーダルベルトの娘であるが故か。時代に対する先見の明をどちらもが持っているからこそ流れる血は多くなる。

 だが、アリアベルはその皮肉に気付かない。

 徐々に小さくなるマリアベルの後ろ姿を私室から見下ろす幼き日の己を見てアリアベルは一つの考えしか浮かばない。

 ――力が……総てを(かしず)かせるほどの力があれば。

 権力への渇望。

 人はその思想を危険と断ずるだろうが、在りし日の家族団欒と、未だ姿を現さぬ次代天帝を求めての渇望であるが故に当人はその危険性に気付かない。強き想 いは時に視野を狭め、手段を強硬なものへと変質させ、多くに犠牲を強いるという歴史上で幾度も繰り返される悲劇を。渇望は例え長命種の眼であっても曇らせ てしまうという事実。或いは長命種の中でも若輩に過ぎないアリアベル特有のものであるのか。

 そして、アリアベルが求める力とは軍事力に他ならない。

 他者に暴力を振るうという目に見える形での力は多くの者が渇望する力であり、最も拘束力を有するものであった。国家の指導者が安易に軍事力での解決を図ろうとするのは、即効性のある対応を望んでいる証拠でもある。

 自国の主張を認めさせる、或いは通すに最も有効なものは軍事力に他ならない。結局は軍事力の後ろ盾のない自己の主張を認めさせることは困難であり、例えそれが正しくとも否定される運命にある。

 そして、それを行使する者は己の願いが至って当然であり、真っ当なものであると信じて疑わない。

 確かに家族の愛を求めるは人として当然であり、次代天帝を求めるは大御巫として当然の願いである。しかし、多くの者の上に立つ者は理解せねばならない。己の立場が常に不特定多数の他者の想いや願い、そして何よりも命すらも踏み台にし続けているのだと。

 自身に降りかかった悲劇に視界が曇り、他者の悲劇に気付かない。

 立場あるものにとって無知とは罪なのだ。

 ただただアリアベルは、遠のいてゆく姉の背に全てを取り戻すことを誓うだけであった。









「……嫌な夢を見たわね」

 アリアベルは執務室に設えられた豪奢な寝台(ベッド)の上で身体を起こす。

 城塞都市ベルゲンの北部方面軍司令部で与えられた一室に荒々しく、そして艶めかしくもある吐息が響く。男であれば誰しもが劣情を抑え切れないであろう程に色気と雌の匂いを漂わせたアリアベルは、寝台からもぞもぞと這い出る。

 浴衣造りをした純白の寝間着に睡眠帽(ナイトキャップ)という出で立ちであった。

 窓から差し込む朝日に目を細めつつ、アリアベルは寝台(ベッド)横に設えられていた衣紋掛け(ハンガー)に掛かっていた千早を手にして羽織る。

 次いで寝台(ベッド)の枕元に置かれていた高級士官用結晶端末を手に取り、情報が更新されているか否かを確認する。

 皇国では士官の情報の遣り取りなどに、魔導技術を流用して作られた結晶端末が用いられている。これは魔導結晶を用いた情報端末であり、軍や政府で多用されていることから魔導国家《ヴァリスヘイム皇国》の技術躍進の象徴とも言えた。

 魔導通信の類は魔力による妨害や魔導攻撃の余波などに大きく影響され、戦争には向かないものの、戦野でさえなければ大きな影響は受けず、特にアリアベル が使っている結晶端末は設置式の有線なので通信障害は起きない。無論、有線故に司令部内でしか運用できないという欠点もある。しかし、それでも他国では研 究段階に入ったばかりの技術であった。耐久性や性能の問題を技術力と圧倒的な魔導資源で解決した皇国だけが正式採用に踏み切れた結晶端末の魔導結晶で構成 された画面に幾つもの情報(データ)が浮かび上がる。

 ――これって……北部の戦車部隊の情報……一個聯隊規模がヴェルテンベルク領で演習中、ね。

 有線を引っ張り、結晶端末から無数の情報を漁りながら、アリアベルは革製の豪奢な造りをした執務椅子に座る。

 乱れた寝間着をそのままに、アリアベルは執務机に置かれた報告書を読み漁る。情報の上申に結晶端末があるにも関わらず紙媒体も併用しているのは、契約書 などが未だに紙媒体である理由と変わらない。物理的に厳然と存在する紙に対して筆記という面倒な手順を踏ませることによって信頼性を向上させるという思惑 がある。面倒な手段を踏ませた結果としての報告書という形での上申であるからこそ信頼できる。

 無論だが、アリアベルは紙媒体でも魔導媒体でも情報に変わりはないと考えていた。精度良ければすべてよしと割り切っていたとも言える。神祇府が古式ゆか しい慣習に固執して、やたらと大御巫に書類による裁可を求めるという理由もあった。アリアベルとて書類など見たくもないのだ。

 目に沁みる朝日に目を合わせない様にしつつ、アリアベルは壁に張り付けられた北部が拡大された地形図に視線を向けた。そこには、北部に展開している征伐軍と蹶起軍の戦力が書き込まれており、形成されている戦線を視覚的に表している。

 二つの戦力が鬩ぎ合い戦線が構築されていく。それは二つの意志の衝突でもある。

 アリアベルとマリアベル。

 北部の全てを薙ぎ払い、マリアベルのいる穏やかな日常を取り戻す好機であり、皇国内の不穏分子を一掃して意思統一を図る好機でもある。皇国を守護すると覚悟したアリアベルの使命も、そして私情に於いても決して負けられない一戦であった。

 ――三個陸戦艦隊が戦線に到着するまで三ヶ月……それと同時に仕掛けるべきね。

 鉄道網が発達している皇国であるが、戦時物資の移動に加えて、敵味方、中立に分かれた貴族領が横たわり、鉄道網での兵員輸送を複雑なものとしていた。特 に比較的北部に近い位置に存在するクロウ=クルワッハ公爵領は、東部の海軍基地から最短距離の鉄道を使えないことも戦力の集結に大きく響いている。

 師団規模の兵員輸送。

 それは、一般人が思っている以上に簡単ではない。

 将兵は兵器ではなく、生物である。三大欲求があり、士気も維持せねばならない以上、移動手段だけでなく、糧秣、寝床、女衒などを用意し、各停車地点や、休憩箇所の設定、それに伴う憲兵隊の配置や近隣の市町村の責任者や商店、酒場の店主への事前説明。

 食料は当然、将兵の腹を満たす為で、寝床は戦野に赴くまでに体力、気力を消費しないようにする為で、そして何よりも色欲を満たす為に女衒……娼婦を必要 とする。皇国は全ての軍で女性が多く登用されており、アトランティス大陸はおろか世界でも珍しい国家である。軍内部での性の問題で刃傷沙汰という問題も少 なからず起きており、そのことから身内で血を流し合うことに敏感であった。それは、この北部蹶起から少なくない時間が経過しているにも関わらず、蹶起軍と 陸軍の主力同士の衝突が起きていないことからも分かる。それ故に、アリアベルが陸海領邦軍の一部を指揮下に加え征伐軍として再編成する機会があったことは 皮肉でしかない。無論、軍上層部は軍内部での恋愛を禁止はしなかったが、鉄道での移動の際、女性将兵用の移動車輛に侵入しようと目論んだ男性将兵と女性将 兵との間で、仁義なき戦いが行われ中隊規模の戦力が一夜にして怪我人続出で小隊規模にまで減少してしまったという事件もあり、性の問題には非常に敏感であ るのだ。

 アリアベルは大きな溜息を吐く。

 兄姉の夢を見て、その上、結晶端末に届いた情報は鉄道で事故が起きたというもので、悪い出来事ばかりが続いていた。高位種によっては夢の内容が現実に大 きく影響する場合もあって、心理や能力に深い繋がりがあるが、その辺りの関連性は未だ解明されていない。高位種が自らの精神に大きく左右されるという逸話 はここからきていると言っても過言ではないのだ。

 立ち上がり、執務席まで移動したアリアベルは執務机に設置された大型魔導通信機に手を掛ける。執務机に寄り掛かったアリアベルは、結晶画面に表示された通信先を指先を触れて、通信相手の応答を待つ。

 魔導通信機は各国でも通信に使われている一般的な通信装置で、短距離から長距離に至るまでの通信を可能とする革新的な技術の結晶であった。この装置の特 許を天帝府が有しており、当然ながら莫大な利益を上げていることから、その影響もあり皇国は特に通信網が充実している。無論、装置が極めて大型なことや、 耐久性の低い通信空中線(アンテナ)が必要であり、蛮用には向かず、軍では拠点でしか運用されていない。最近では、車輛に搭載する型式も開発に成功している。しかし、有効範囲が限られており、部隊間の通信には使えず、極めて限定された機能しか持っていなかった。

「ああ、陸軍総司令部かしら? ファーレンハイト長官と参謀に来るように伝えて」短く伝えると手早く通信を切る。

 陸軍総司令部は、本来皇都に設置されているが、征伐軍の指揮の為にベルゲンまで進出してきていた。ベルゲンの北部方面軍司令部……つまり同じ家屋内に居る為、アーダルベルト達が来るまでにそう時間は掛からない。

 執務椅子に腰を下ろし、アリアベルは机の端に設えられた書類棚の未裁可の書類に目を通し始める。

 小まめに書類を捌いておかねば、後で執務机の上で紙の山脈と戦わねばならなくなる。一度、雪崩を起こして、大惨事となって以降、アリアベルは圧死を防ぐ為、日夜書類との交戦を疎かにしないよう心に誓っていた。

 書類に目を通していると、扉を叩く(ノック)する音が聞こえた。

 ファーレンハイトが来るには早すぎると思ったが、古時計を見れば何時もの起床時間なので訪れた主は判断できた。

 無駄を嫌うアリアベルは、扉の向こうに居る人間が口を開こうとする気配を見せる前に口を開いた。

「入っていいわ。エルザ」

 長年の友人にして頼もしき護衛がその言葉を合図に入出してきた。

 襦袢(じゅばん)と戦袴……軍袴(ズボン)状の男袴という巫女の出で立ちの上に、近衛軍士官用の漆黒の軍用長外套(ロングコート)を羽織ったその姿は友人以外には存在しない。

「姫様。起きられていましたか」

 優しさと凛々しさが入り混じった笑みを向けてきた友人に、アリアベルは苦笑を浮かべる。

 エルザ・エルメンタール近衛中尉は、アリアベルの御付武官として近衛軍から追い出された。近衛軍そのものがアリアベルの急進的なやり方に反発している中 で、アリアベルの傍で護衛を続けるエルザに対する近衛軍からの視線は厳しい。忠誠を優先したと陸軍では比較的好意的なことが救いでもある。

 アリアベルが普段と違い朝早くから執務席に就いていることに目を丸くしたエルザは、再び薄い笑みを浮かべると部屋の隅に設置されている給茶器具(ティーセット)から土瓶を手に取る。

「御茶を用意しましょう。低血圧で書類に不備があっては事です」

 給茶室に見えるエルザの後姿からの声に、アリアベルは苦笑するしかない。

 実はアリアベルは朝に弱く、龍ではなく蛇が冬眠しているかのように眠るので、誰かが起こしてくれないと朝が消滅する。ちなみに朝から元気溌剌で敢闘精神に富むレオンディーネが、朝の訓練後に起こしに来ることもあったが、寝台(ベッド)に飛び掛かってアリアベルを圧殺しようとする為に最近は丁重にお断りしている。

「朝なんて嫌いよ。ずっと夜ならいいのに」

「それでは軍人が開店休業になってしまいますよ」

 アリアベルの軽口にエルザが曖昧な笑みを浮かべる。

 確かに指揮統制を維持することが昼間に比べて難しい夜間は、軍隊にとって定期的に訪れる短い休戦期間に他ならない。夜間に大軍で行動すると戦線が乱れ、 命令が届かず戦力が散逸し、夜明けと同時に敵に付け込まれる可能性が高い。基本的に各国の軍隊は夜の帷が下りると広範囲に警戒線を敷いて夜営体勢に入る。 もし、交戦中であっても敵味方入り乱れの混戦になる事を避けて後退することが常であった。

「確かにそうね。軍人は開店休業で戦争もなくて……それなら平和だったかもしれないわね」アリアベルは、有り得ないと冷笑を漏らす。

 後にアリアベルは、平和を謳歌していた夜までをも戦争に動員して見せた異邦人を目にして顔を引き攣らせるのだが、それはまだ先の話。

「レオ様も後で訪れる旨を伝えて欲しいと仰っておりましたよ」

 湯呑みに御茶を注ぎながらレオンディーネの襲来を伝えるエルザ。

 レオンディーネが襲来する目的を察したアリアベルは引き攣りそうになる顔を不断の忍耐で押さえつける。怪訝な顔をするエルザだが、それに言葉を返す余裕はなかった。

 ――あの雌猫っ! 一体どれだけ、金をせびる気なの!!

 頭を掻きむしり、追加申請の資料を手に取る。

 レオンディーネは現在、装虎兵中隊中隊長として大尉の階級を得て、アリアベル直属の部隊として配置されていた。しかし、これは神虎公の姫君を戦野で運用 したくないという陸軍の思惑に負けてアリアベルが己の直属に組み込んだだけである。そして、それを良い事にレオンディーネは戦力増強と称して、装虎兵の主 力戦闘騎獣である白虎の頭数を増やす。最高位の防護術式への更新に加え、主武装である戦斧(ハルバード)への物質強化術式の刻印。挙句の果てには騎銃を対戦車小銃へ変更した上で銃剣装置を付け、高価な軽量化された中口径速射砲を騎兵砲化して装備するなどやりたい放題であった。

 それだけと思うことなかれ。

 最高位の術式は野砲に匹敵するほどの金額が掛かるものもある。特注の武器などは生産工程(ライン)の 都合上、兵器だけではなく製造工程からの根本的な変更となる。幾ら膂力のある種族に銃剣装置の付いた対戦車小銃が人気を博して量産化される事が決まったと しても、冗談では済まされない金額が一部隊の為に消費されていることになるのだ。軍隊も御役所であり、出費にはそれ相応の理由が必要である。

「確かに、必要な物は何でも揃えると言ったけど……」

 中隊が新設されたわけでもないのに聯隊を新設するだけの資金を消費しているのは、純軍事的に見ても如何なものか。

 用意された湯呑みから立つ湯気を吹く動作で、アリアベルは溜息を零す。エルザに気取られない為の工夫であったが、当人は変わらない笑みを浮かべているので成功したかどうかは分からない。

「ねぇ、エルザ」

 アリアベルの言葉に、エルザが姿勢を正す。

 尋常ではない雰囲気を察したのだ。

 無論、大御巫が言うことは一つ。

「レオが来た時、木天蓼(またたび)でも使いましょう。一度、虎に効くか試してみたかったの」

「……御心のままに」

 相変わらずの笑みでエルザが首を垂れる。少し返答に間があったのは気のせいだと思いたい。

 早速、動き出した大御巫。それを近衛騎士は、苦笑と共に見守る。

 実はアリアベルは嫌な事がある度に、何かしらの悪戯をして発散していた。その最たる例が、アーダルベルトの飲む酒に水神すらも一撃で眠らせることができ る睡眠の秘薬を混入し、クロウ=クルワッハ公爵の政務を一週間にわたり停滞させたことである。その時は、大御巫への就任を反対したアーダルベルトから距離 を置くための時間を稼ぎ出すという目的もあった。性質(たち)の悪いことだと思えるかもしれないが、自由時間が全くと言っていいほどない大御巫が精神的重圧から解放されるには、羽目を外したかのような強硬手段の行使も致し方ないのだ。

「虎に木天蓼(マタタビ)って効くかしら?」

「流石に、猫とは違うかと……」エルザが頬を引き攣らせる。

 もし、木天蓼が有効であるというならば、装虎兵は容易に殲滅されるだろう。確かに白虎は猫科の獣であるものの、人の因子を内包した虎族が相手の場合、猫 の弱点が適用されることはない。顎を撫でられるとゴロゴロと鳴くという噂もあるが、レオンディーネは試そうとすると決まって暴力に訴えるので、未だ成功し たことはなかった。

 そんな益体のない会話を二人で楽しんでいると、再びドアを叩く音が響いた。

「大御巫殿、陸軍府長官。バルタザール・フォン・ファーレンハイト以下、陸軍総司令部、参謀総長及び、各部長を率いて罷り越した。御目通りを願いたい」

 アリアベルは、ファーレンハイトの扉越しの言葉に眉を顰めた。 

 執務室は然して広いものではなく、あくまでもアリアベルが執務と寝泊りをする為の部屋である。高官だけでも一〇人を超える陸軍総司令部の要員を執務室には入れられず、何より先程まで乙女が就寝していた部屋に男性を迎え入れることは気が引けた。

「隣の会議室を使います。移動してください」

 大御巫の言葉に扉越しから衣擦れの音が一斉に響く。

 一糸乱れぬ最敬礼。扉越しですら分かる程の動作にアリアベルは苦笑する。

 少なくとも陸軍はアリアベルに対して忠誠を誓っている。海軍も同様であるが、それはアリアベルを支持する貴族からの資金によって先代天帝時代に滞ってい た装備の更新と軍備拡充の目処が付いたからである。不遇を強いられていただけに、陸上戦力を優先しているとはいえ、装備を更新し、自らの行動を全面的に肯 定してくれているアリアベルに陸海軍は好意的であった。大御巫が天帝不在の中、第一皇妃を名乗るという状況でも、軍がそれを支持していることからもそれは 見て取れる。

 過程といずれ導き出されるであろう結果はどうであれ、アリアベルの熱意は多くの者を動かしていた。

 熱に浮かされ動く者達。

 アリアベルの力強い演説に心を打たれた者もいれば、皇国の未来を慮って合流した者もいる。だが、アリアベルにそれだけの求心力と実力があると判断したからこそ多くの者が集う。
 そして、アリアベルはそれらの者達に義務を果たさねばならない。

 立ち上がる大御巫。慌てて付き従う近衛騎士。

 幸いにして会議室と執務室はまた別の扉で繋がっており、移動は廊下を出る必要すらなかった。気が逸るアリアベルは、本来であれば、エルザが先行して開けるべき扉に手を掛ける。

「ひ、姫様……」

 会議室へと続く扉が開け放たれた。

 

 

 

 

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