第四六話 征伐軍の実情
中央軍集団砲兵参謀の任に就いているオスカー・ウィリバルト・バウムガルテン中将は、第一八会議室の上座に近い位置に座していた。対面には中央軍集団参 謀総長であるファルケンハイン上級大将が座り、その横には陸軍府長官のファーレンハイト元帥が目を瞑ったままに腰を下ろしている。
階級が上の将官に挟まれるという心労から逃れるべく、オスカ―は隣へと視線を隣へと逃がす。
隣には長年の戦友であり、中央軍集団司令部付軍狼兵参謀であるヴォルフローレ・フォン・ハインミュラー中将が気の抜けた……泰然自若とした表情で座っていた。
長机の下座では、重要な役職に就いている高級将校達が近場の者達と言葉を交わして大御巫の到来を待っている。話題は専ら北部への対応についてだが、中には最近娘が生まれたや酒保の品揃えが悪いという言葉も聞こえてきている。
「おい、ハインミュラー」
「なに、バウムガルテン」
気だるげに視線を巡らせてきたヴォルフローレに、オスカーは苦笑する。
完全に転化し人間種と同様の姿になっている瑞狼族のヴォルフローレは、白銀の髪を揺らしてオスカーを見据えた。
厭世的な雰囲気であるが、視線は鋭く決して気を抜いている訳ではない。初見では士道不覚悟に見える程に弛んでいるのだが、瞳だけは鋭くあり揺らぐ気配すらなかった。
オスカーは、そんなヴォルフローレを愛していた。
人間種であるオスカーは中年も半ばに差し掛かる陸軍中将であったが、対するヴォルフローレは中位種の瑞狼族である為に容姿は未だ若々しい。
それが、オスカーにとっては誇らしくもあり悲しくあった。
嘗て二人は恋人だったのだ。
在りし日の想い出。
オスカーが士官学校を次席で卒業して晴れて皇国陸軍少尉となった夜、卒業を記念して毎年行われる舞踏会でヴォルフローレを見た際、一目惚れしたのだ。同 期であってもオスカーは砲兵科で、ヴォルフローレが軍狼兵科であった為、旧式要塞を流用して建造された広大な陸軍士官学校内で会うことは一度もなかった。
初めての出逢い。
本来、堅物と知られており当人もそれを自覚していたオスカーにとって、女性に対して積極的になるという選択肢はそれまでは存在し得なかった。
しかし、壁の花状態であったヴォルフローレにオスカーは手を差し出した。
御嬢さん、一曲踊っていただけませんか?
これから戦野を縦横無尽に活躍することを期待されている戦乙女に対して、御嬢さんと呼びかける失礼もその時は気付くことすらなかった。
壁の花とは舞踏会などで壁際に立っている淑女のことであり、踊りに誘われない故に壁際に立っているのは、あまり容姿がよくない女性のこととされているものの、ヴォルフローレは違った。その瞳は儚くもあり、気高くもあったのだ。
あくまでも外見と雰囲気は厭世的であり、その上、偵察任務も割り当てられる軍狼兵の特性を十分に生かして誰の目にも留まらぬようにしていたヴォルフローレに視線を向ける者はいなかったが、オスカーはその瞳に吸い寄せられるようにして踊りを申し込む。
容姿や身体つきを見て判断する若者達の中に在って、オスカーという次席卒業の少尉は他者の瞳を見て人物を評価していた。例え容姿や身体つきは擬装できたとしても、瞳に宿る意思ばかりは隠せはしない。
一瞬、呆気に取られた顔をしたヴォルフローレは、殿方に恥を掻かせることは宜しくないと判断したのか、困惑した表情のままに「喜んで」とオスカーに手を預けた。
それが二人の馴れ初めであった。
然して珍しいことではなく、毎年士官学校卒教記念舞踏会で良く見られる光景に過ぎないが、当人たちにとっては特別であることに変わりはない。
それから二人は流れるような時の中、互いを愛しく想い、恋人としての一時を大切にした。最初はぎこちなかったヴォルフローレも、季節が変わる頃には花の咲く様な笑みを見せてくれたことを、オスカーの脳裏は今でも色褪せることなく記憶していた。
長きに渡る逢瀬に散りばめられたような想い出の断片。
長命なヴォルフローレは人間種のように子を成すことを急がず、オスカーも軍務を優先して恋人以上になることを漠然と考えることがあっても実行することはなかった。
そしてある日、ヴォルフローレはある日を境にオスカーの前より姿を消した。
西部方面軍隷下の〈第五打撃軍団〉、〈第三四軍狼兵師団『ギリアス・カレンベルク』〉師団長への異動という形であったが、音信不通になり一年が経過した頃にオスカーは全てを察した。
長い恋は終わったのだ、と。
だが、皮肉なことに北部蹶起が再び二人を引き合わせた。
中央軍集団司令部付軍狼兵参謀が七武五公のフローズ=ヴィトニル公爵の傍系であった為、軍務を放棄してフローズ=ヴィトニル領邦軍に合流したこともあ り、ヴォルフローレが後任として着任したのだ。大御巫の第一皇妃就任を陸海軍連名でファーレンハイトが支持した翌日に、ヴォルフローレは中央総軍司令部へ と訪れた。
申告します。ヴォルフローレ・フォン・ハインミュラー中将です。本日付で中央軍集団司令部付軍狼兵参謀を命じられました。
在りし日と変わらぬ澄んだ柔らかい声。白銀の髪に翡翠の瞳、外見は二十代後半。小柄で華奢な立ち姿であるものの、曲線は起伏に富んでいるといって差し支 えない。顔立ちは美しさよりも可憐さが先立つ。そして、柔らかな微笑を浮かべている。相変わらず好感の持てる女性を演じていた。
最後に見た時と寸分違わぬ美しさでヴォルフローレは現れた。実に二十年近くの歳月を経ての再会。しかし、オスカーはヴォルフローレが司令部要員を見回し た際、視線を合わせることができなかった。人間種である自分は老いてこんなにも醜くなっているというのに視線など合わせられようはずもない。
二人が交わした言葉は穏やかなものであった。
オスカーは「何故、私の前から姿を消したのだ」と問うた。
答えは限りなく優しく、そして残酷であった。
貴方が老いる姿を見続けることが辛かった。
ヴォルフローレは去る際に何一つ言うこともなかったので、オスカーは恨んだこともあったが、その一言を聞いて納得せざるを得なかった。元より二人の恋の先に幸せな未来などなかったのだ、と。
「参謀飾緒が乱れている。大御巫の御前だ。注意したほうがいい」
「むぅ……直して」
面倒だと言わんばかりの態度で、オスカーへと向き直ったヴォルフローレ。女性の胸に垂れる参謀飾緒の触れることに普通の男性であれば躊躇ったかも知れな いが、終わった仲である二人には何の気負いもなかった。詰まるところ二人の関係は今現在の距離こそが最適だったのだ。戦友として、盟友として、同期とし て……今でも共に酒精を嗜むこともあれば、戦戯盤を挟んで激論を交わすこともある。
オスカーは、それを美しい関係だと思っていた。
深く踏み込み、傷付くこともなく、己の死後も相手を縛る不可視の鎖となってしまうこともない。
傍から見れば恋人同士に見えるかも知れないが、違うのだ。互いを慈しむことはあっても、愛し合うことは決してない。
「終わったぞ。……全く、服装に気を使わないのは変わらないか」
「バウムガルテンも領帯が曲がってる」
片手を伸ばしてきたヴォルフローレだが、オスカーは身を引いてそれを躱すと慌てて領帯を自分で直す。これは別に他の将校の前で羞恥心が刺激されるなどという感情からではない。ヴォルフローレが領帯を直す際に決まって片手で膂力に任せて引っ張ることを知っているからであった。新婚気分で領帯を付けることを任せて窒息死しかけたことは良い思い出であるが、身体能力の衰えを感じ始めて久しい近頃に同じことをされてしまえば確実に九段行きとなる。
不満そうな、恨みがましい顔のヴォルフローレがいたが、オスカーは一瞥をくれただけで無視する。
そんな益体もない遣り取りをしていると、上座に位置する扉が勢いよく開け放たれた。
扉を開け放った者を確認することすらなく、オスカーは素早く立ち上がり敬礼する。
黒檀の長机を囲んでいた高級将校の全てが一斉に袖を翻し一糸乱れぬ敬礼をする姿は、飾緒や勲章、戦功章、勲記、略綬などの装飾も相まって壮観ですらあった。
一人の巫女が揺らぐことなき安心感を与えるに値する堂々たる足取りで、黒檀の長机の前に立つ。
アリアベル・ラウ・フォン・クロウ=クルワッハ。
白衣と緋袴……金糸の刺繍が施された重厚な意匠の巫女服の上から紫苑色の紋章が描かれた千早を身に纏った少女。
一枚の絵画の如き光景。
征伐軍という法的には限りなく非正規集団に等しい戦闘集団を、指揮統制を維持したまま率いるに相応しい風格を持った佇まいで上座に立った。
千早を翻して向き直る姿は正に戦巫女。
腰に吊るされた曲剣は象意もなく蛮用に耐え得るであろう拵えで、必要に迫られれば前線に立つ事も厭わないという苛烈な意思表示に他ならない。
将官達はその姿に言葉を失った。
本来ならば、部下の心を初見で掴み取る上官など多くいる軍に属する軍人達……それも長い軍歴を持つ者ばかりの中央総軍司令部の面々が初見で圧倒されることなど有り得ないが、アリアベルは見事に圧倒して見せた。
しかし、それはその凛冽なる佇まいによるところではなかった。ファーレンハイトの微笑ましい笑みを見ればそれは良く理解できる。
「あ、姫様。御帽子が……」
驚いたアリアベルが「あっ」と両手で頭を押さえる。
そこにあったのは個性的な睡眠帽だった。
一般的な少女が就寝時にしているボンボンの垂れ下がった形状の睡眠帽である。大口を開けた狐がアリアベルの頭に齧り付いている様に見える象意の非常に愛らしい睡眠帽でもあった。ちなみに象意が細かく、上部には狐耳が付き、後ろには尻尾が垂れており決して安価な品ではないことを伺わせている。
世間一般で言われている麗しの大御巫や、深窓のクロウ=クルワッハ公爵令嬢の立ち振る舞いからは絶対に想像もできない……詰まるところ凄まじく愛らしい象意の睡眠帽であった。
――そう言えば、ローレも昔、狼のやつを被っていたな……大御巫は狐派か。
漠然とそんなことを考えるオスカー。
中央軍集団司令部の面々は、不断の努力で神妙な顔をしようと表情を引き攣らせていた。言ってしまうとただそれだけに過ぎないが、やはり判断は分かれる。指摘や皮肉、勿論であるが笑声も宗教的権威への挑戦と取られかねない。
「………………………」
視線を鋭くしたアリアベルが上座から片っ端に中央軍集団司令部の面々を睨み、それに負けた者達は小官は何も見ておりませんと言わんばかりに背筋を伸ばしで各々視線を逸らす。無論、綻びそうになる顔を必死に取り繕いながらであるが。
アリアベルが近衛騎士に何かを呟いた。
エルザは神妙に頷くと、一歩前に進み出て声を大きくして通達する。
「この場で見た事は他言無用です! これを悪戯に吹聴した者は最高軍事機密の漏洩と同様の厳罰に処されますので、諸兄宜しく御願い致します!」
軍刀の柄に手を置き、大音声で宣言した近衛騎士。
中央軍集団司令部の面々が直立不動で応じる。中には半ばやけくそ気味に叫ぶ者までいた。
「「「「「「「はっ!」」」」」」」」
皆が緩みそうになる顔を正すことに必死である。
それほどに愛らしい姿のアリアベルだが、狐の睡眠帽は外さない。今ここで外してしまうと自分の非と恥を認めてしまうようで嫌なのか、皆が直視できない状況が続くことになる。隷下の将官の腹筋を試そうという意図は流石にない。
そのまま着席したアリアベルが、開口一番に本題を切り出す。
「全面攻勢は三カ月後に行います。それが可能か否か、そして被害を最小限に済ませる戦略を提示して欲しい」
その言葉に、職業軍人としての表情に戻る中央軍集団司令部の面々。
北部の状況は極めて不鮮明であった。
威力偵察を行おうと動いた部隊が、高速偵察騎と偵察軍狼兵による哨戒網に早期発見を許し、機動戦力に押し返される状況は続いている。北部の情報は全くと 言っていいほどに入っていなかった。威力偵察を行い比較的戦力の少ない地点を探し出し、装虎兵の突破力で戦線に穴を開けるべきだとする意見もあった。しか
し、氷雪と密林、そして何よりも湖が散見される北部に於いては進撃路が制限されて気付かない内に敵の包囲下に置かれる危険性がある。北部の蹶起軍はその兵 士の多くが猟師などの現地の地形に詳しい者達であり、偵察部隊も思わぬ場所からの伏撃に幾度も敗走していた。
そして挙句の果てには新型戦車の登場である。
戦車壕を掘り装甲のある野砲となることもあれば、森に隠れ潜み自慢の旋回砲塔で砲身を振り翳し、細い侵攻路を進撃している部隊の側面を蹂躙することすらあった。乱戦となれば旋回砲塔は無類の強さを発揮する。皇国陸軍が旋回砲塔の威力を血涙を以て体験する事となった。
歩兵の血と臓物で雪の大地を舗装しながら、手当たり次第に装甲戦力や輸送車両を蹂躙してゆくその様は悪夢以外の何ものでもない。工兵が急造の塹壕を掘っ たとしても、その上で信地旋回をして塹壕諸共歩兵を磨り潰す上、近接戦に持ち込めば優勢となる装虎兵を投入すれば砲撃で足止めされてつ撤退を許してしま う。
征伐軍側の戦車は皇国陸軍正式採用歩兵戦車であるクレンゲルⅢ型歩兵戦車という戦車である。純粋な機甲戦を想定しておらず、その設計思想は限定空間で前 方に大火力を指向でき、歩兵を前線まで安全に運ぶというものであった。これはエルライン回廊で帝国軍戦車と正面から撃ち合う為で、優勢の際は歩兵を前線で
短時間に展開して帝国軍が大火力に依る面制圧を開始する前に砲兵を撃破しようという考えから出たものである。劣勢な状況下で前線に孤立した歩兵を収容し後 退するという目的も合ったが、それが実現されたことは少ない。
クレンゲルⅢ型歩兵戦車は側面や後背に回り込まれれば極めて脆弱で、装甲も薄い上に、その目的から車体が極めて大きく、被弾確率が高い。端的に言うなれば、良い鴨である。
前線では早くも鋼鉄の棺桶という有り難くない二つ名を頂戴しているクレンゲルⅢ型歩兵戦車だが、これは運用思想の違いであり決して性能が低い訳ではな い。諸国の戦車もほぼ同様の思想の下に開発、生産されており、寧ろ対戦車戦闘を前提としている戦車がこの世界では異端であった。
正直なところ、打つ手はなかった。
地理と戦術面では明らかに蹶起軍に分があり、これを打破しようと思うならば戦略規模での打開しかない。この場合最も有効なのは大戦力による全面攻勢を展 開しつつ、別働隊で迂回しての大規模な包囲網を形成することであるが、これもまた地形の制約を受けて半端な戦力では叶わないと見られていた。
圧倒的な戦力が必要となる。
だが、アリアベルの口にした三カ月後には、新たに三個陸戦艦隊の増援や他の一部貴族の領邦軍を組み込める為にそれが可能となる。
周囲の者と喧々赫々の議論を繰り広げる中央総軍司令部の面々。オスカーもぼんやりと大御巫を眺めているヴォルフローレに声を掛ける。
「なぁ、ハインミュラー。軍狼兵で浸透して密林に潜む敵兵の漸減くらいは図れないか?」
「難しいと思う。相手の指定した戦場だから罠が一杯」首を振るヴォルフローレ。
その言葉にオスカーは溜息を吐く。
蹶起軍の戦術は決して華美でも壮大でもないが、征伐軍の軍事行動を制限するものが多い。長年にわたり蹶起の際の戦術を考案し続けていたことは想像に難くない。常套戦略も対抗策が講じられている可能性は十分にあり得た。
「特にヴェルテンベルクの二個装甲聯隊が邪魔ですな。あれは戦線を縦横無尽に駆け回り、補給戦や拠点を中隊規模で襲っております。それらへの対応だけで装虎と軍狼の大半が割かれている状況では如何とも……。此方にも同様の戦車があれば何とかなるのですが」
装甲兵参謀がうんざりとした口調で意見を述べる。遠回しに蹶起軍の新型戦車が欲しいという言葉に眉を顰める者もるが、全くだと頷く者もいた。それほどの 脅威である新型戦車は機密保持が十全になされており、敵地での戦闘であることも相まって今だ征伐軍は鹵獲するに至っていない。模倣製造は短期間で不可能で
あっても弱点や欠点の究明程度は比較的短期間で可能なはずで、それを元に対策を講じるという手もある。征伐軍の兵器がその弱点を突けるならば、という前提 であるが。これほどまでに用意周到な敵が、あからさまな弱点や欠点を放置しているとは考え難い。
「それだけではない! 敵の歩兵は完全に冬季戦装備を整えている上、北部の地形に熟知している! そのような状況で侵攻するというならば戦線全体を強引に押し上げるほどの大攻勢で短期間に事を進めねばならない!」
作戦参謀が「機甲戦力だけが劣っている訳ではない!」と立ち上がり叫ぶ。
それは正しい。
現在、征伐軍の下に集結している兵力は既に二〇万を越える程に膨大であるが、それらの装備は各戦線から引き抜かれた部隊を糾合した為に装備が統一されて おらず、一部には冬季戦装備すら整えていない部隊すらあった。基幹戦力を中央軍集団に据えての再編成を実施してはいるが、長大な前線を維持する為に分散配 置は止むを得ず、中央軍集団自体も未だ到着していない戦力が少なくない。
「それほどに敵は強力なのですか?」
アリアベルの問いに作戦参謀が恭しく頷く。
「威力偵察を行った部隊の多くは当初、破竹の速度で進撃を続けておりました。蹶起軍は北部外縁での防衛を断念したのか決戦を行う前に潰走したのですが……」
一度、中央軍集団を集結させて敵を各所撃破しようと目論んだこともあるが、急斜面の森に挟まれて細く長大な進軍路を進軍し続けざるを得ない状況で、中央 軍集団が実質分散していることを察した蹶起軍は少数部隊を多用しての奇襲攻撃を加えてきた。その結果、快進撃に油断していた中央軍集団は戦力を分断され後 方との補給を絶たれた。
幸いにして敵が少数であったこともあり撤退は容易であったが、焼き討ちされた糧秣や武器弾火薬は決して少なくなく、蹶起軍は明らかに継戦能力の漸減を主眼に置いていた。
滑雪板を履き、装備も雪の色と同調させた敵兵が、後方との連絡を絶たれた征伐軍を侵攻路両脇の密森より逐次奇襲、即ち一撃離脱戦法とも言える方法を多用しているのだ。
小競り合いは今も続いている。
隙あらば土地勘を最大限に利用して前線を浸透突破し、補給線の寸断や破壊活動に現れる敵は征伐軍にとっても悪夢であった。
深夜に野営地に忍び寄り、文字通り兵士の寝首を掻き、天幕に火を放ち、騎馬や装虎の為の飲み水に毒を仕込む。中には野営地に忍び込み就寝中の一個小隊全てを銃剣で刺殺する敵兵もいた。
密林から放たれた一発の銃弾に頭を吹き飛ばされる戦友や、朝起きれば隣に冷たくなった同胞がいる。確たる、目に見える勝利を得られない状況で、そのようなことが起き続ければ士気の低下は避けられない。
トウカがこの話を聞けば「モッティ戦術に兵数で対抗するなど馬鹿のすることだ」と冷笑を浮かべただろう。敵の弱点を突いて敵を混乱に陥れるという面からモッティ戦術は典型的な不正規戦と言え、不正規戦に兵数で対応することは効率的と言い難い。
戦線など形成せずに戦力を集中して蹶起軍の策源地であるエルゼリア領を直撃すればいいのだが、それをしない事には理由がある。
蹶起軍が中央地域へ浸透することを恐れたのだ。
現に蹶起軍は戦線形成以前に小規模な複数の軍勢による浸透突破を実行し、ベルゲン近郊にまで進出を許したことがある。もう一歩で中央部に進出される事態 を重く見た征伐軍は戦線を形成せざるを得なかった。これは蹶起軍も意図していた訳ではなかったが、アリアベルは中央に戦火が拡大し、それを理由に七武五公
に付け入られることを恐れて戦力の分散という名の戦線の形成という手段を講じねばならなかった。
ここにアリアベルの弱点と、限界を垣間見ることができる。
アリアベル……否、中央軍集団司令部の面々も既に北部に対して一つの国家と同様の対応をしていた。
皇国に於いて貴族が徒党を組んでの叛乱という“珍事”は建国以来初めてのことである。この場にいる者は、叛乱という初めての“珍事”に対して有効な手段を知らなかった。一向に明るい展望が見えてこない状況と言える。
その中で大御巫が淡い笑みを浮かべる。
「非公式ですが、三ヶ月後の三個陸戦艦隊の到着に合わせて、バルトシュタイン侯爵の領邦軍を中心とした西部貴族の軍勢も駆けつけます。……その兵力は約四万五千名。無論、皆様方の指揮の下で運用致します」
その言葉に会議室がざわめく。
オスカーは、アリアベルの言葉に目を細めた。
三個陸戦艦隊の増援以外があるならば、会議の最初で切り出しておけばそれを前提に戦略を立案できる。しかし、そうしなかったのは現状把握で、この瞬間に 切り出したのは悲観的な情報を全員に認識させておいて、後で楽観的な情報を提示することによって希望を与える為であろう。感情の落差から聞いた者は喜色を 浮かべて大御巫を讃える。
――戦を知らずとも求心力を得る術、人心を操る術は知っているか。
単に戦力増強に喜ぶ者ばかりの中、斜向かいに座るファーレンハイトは微妙な表情をしている。
「それほどに我々を信頼して宜しいのか?」ファーレンハイトの訝しむような声音。
喜色を浮かべて増援兵力を用いての決戦について議論していた中央総軍司令部の面々が、その一言に顔を見合わせる。
その意味を察したオスカーも眉を顰める。
今ここでアリアベルの顰蹙を買うことは得策ではない。それをファーレンハイトが理解できていないはずがなく、その意図が余りにも不明瞭であった。
しかし、ファーレンハイトの問いも根拠がある。
実は、中央軍集団司令部が征伐軍の総指揮を担うまでには紆余曲折があった。本来であれば、陸軍総司令部が指揮すべきところであったが、その隷下であるはずの中央軍集団司令部が指揮していることには複雑な理由がある。
陸軍総司令部は、陸軍全戦力を指揮する最上位の意思決定機構であり、対する中央軍集団司令部は、その名の通り中央軍集団を主体とした皇国中央部に展開している戦力を指揮下に加えていた。
「間違いなく、征伐軍内には七武五公の影響下にある者もおりましょうな」
「ええ、いるでしょうね。困ったことです、本当に」穏やかな笑みを浮かべて肯定するアリアベル。
信頼しているとも信頼していないとも取れる言動と表情にファーレンハイトは思案しているが、当のアリアベルは楽しげに視線を巡らせた。
アリアベルの楽しげな視線がヴォルフローレで止まる。
首を傾げたヴォルフローレに、アリアベルも嬉しげに首を傾げて返す。
「陸軍総司令部の全員を率いてきたら、私も貴方の忠誠を疑わねばならなかったわ」
陸軍総司令部の中でも過激な軍拡主義者にして、愛すべき神経質として有名なファルケンハイン上級大将だけは例外なのだろう。貴族の軍に対する干渉がある 度に目を血走らせて怒号を挙げるファルケンハインが現状に好意的であるはずがないことは、大御巫であるアリアベルの耳に届く程に有名なのだ。
「……その程度の配慮が出来ねば陸軍府長官などやってはおられませぬ」渋い笑みで笑い返すファーレンハイト。
その笑みはさながら極道者の如き表情で子供には見せられないものであったが、アリアベルは視線を逸らさない。
オスカーは二人が陸軍総司令部を信用していないのだと理解した。考えてみれば当然で、陸軍総司令部には七武五公に連なる者が少なからず存在しており、その能力や見識からすれば当然のことであるが、アリアベルと対立している以上は不確定要因でしかなかった。
アリアベルの政治勢力である皇妃派と七武五公の中央貴族は、現在犬猿の中であり間違いなく征伐軍の意思決定に影響が出るだろう。
対する中央総軍司令部は、七武五公はおろか中央貴族に近しい者がほとんど存在しなかった。これは中央総軍司令部隷下の中央軍集団が他国との戦争に於いて 決定打となる戦力として考えられていたからであり、戦死者が増大するであろう激戦区付近にまで進出する前線司令部として運用することすら前提にしていたか
らである。七武五公の血縁が散ることによる貴族との軋轢を避けるという名目でファーレンハイトが中央貴族に近しい軍人を編成時に可能な限り排したのだ。
五公爵は兎も角、七武家に対してまで遠ざける姿勢を見せているのは、武門として権威を振り翳し、指揮系統が乱れる可能性を考慮してのことである。七武家は軍閥化に近い集団であり、そもそも一部は蹶起軍側に付いていた。
「中央総軍司令部付の軍狼兵参謀の前任者は不慮の事故で死んでしまったようだから、新しい軍狼兵参謀が直ぐに見つかって良かったわ」
ヴォルフローレを見て上品に笑うアリアベルだが、その瞳には冷徹な光が宿っている。
オスカーの記憶が正しければ、前任の軍狼兵参謀はフローズ=ヴィトニル公爵の血統に連なる者であったと記憶している。全てを中央貴族の影響下にない上級 将校で司令部を編成すると勘繰られる可能性もあるが、元来軍狼兵や装虎兵の将校は狼種や虎種に連なる者が大半で、フローズ=ヴィトニル公爵や神虎公の影響 を大なり小なり受けていた。
陸軍府長官のファーレンハイトですら中央総軍司令部を七武五公からの影響から完全に切り離すことができなかったのだ。あくまでも前線配置の士官から除外する程度が限界である。
しかし、前任の軍狼兵参謀が軍務を放棄してフローズ=ヴィトニル公爵領邦軍に合流したと聞いていたオスカーは違和感を持った。
――不慮の事故? そんな話は……
他の者達を見回すが、皆もオスカーと同じであるらしく首を傾げていた。しかし、ファーレンハイトは口元を引き攣らせ、参謀総長であるファルケンハイン上 級大将は青褪めた顔でアリアベルから視線を逸らす。ファルケンハイン上級大将は、貴族には敵対的でも権威者であるアリアベルには弱いのだろう。
「随分、都合の良い不慮の事故ですな」呆れた口調のファーレンハイト。
それはつまり不慮の事故が大御巫であるアリアベルの手によって引き起こされたことを意味しているということに他ならない。
――殺したのか、同胞を……っ!
確かに先任の軍狼兵参謀が軍務を辞してフローズ=ヴィトニル公爵の下へ走れば情報の流出が起き、政治的な或いは軍事的な付け入る隙を与えてしまう可能性 もある。何よりも目に見える粛清を行うことにより見せしめとすることができた。この期に及んで七武五公へと走るものがいるとは思えないが、アリアベルとし ては念のために手綱を今一度握り直そうと画策したのだろう。
先程、ヴォルフローレに視線を巡らせたのは、前任者の様に裏切ってはくれるな、という牽制でもあったのだろう。しかし、ヴォルフローレを昔から知るオスカーからすればズボラなヴォルフローレが権力闘争に関わろうとするはずもないと考えていた。
現に興味なさそうな表情をしているヴォルフローレ。
「そうね……詰まるところ貴方達が国益に沿わない集団に迎合するなら、これからも不慮の事故は起きるでしょうね」アリアベルが緩やかな微笑みと共に、鈴の鳴る様な笑声を零す。
今度は誰も釣られて笑みを浮かべない。
この大御巫にとって、笑みとは決して愉快な時だけに零すものではないのだ。
そして、アリアベルの視線はヴォルフローレを見据えていた。
或いはヴォルフローレが信頼に値するものなのか調査が終えていないのかも知れないとオスカーは考えた。比較的新参者であるヴォルフローレは、その性格もあって印象に薄くその本質を捉えることは難しい。
不必要な不信感を買うことは得策ではない。
オスカーはヴォルフローレが不遇を強いられるところなど見たくない。恋は終わったが大切な盟友であり戦友に変わりなく、ヴォルフローレという女性は未だにオスカーにとって最も大切な女性であり続けているのだから。
そこで、オスカーの袖が引っ張られる。
「ねぇ、バウムガルテン」アリアベルを凝視しながらヴォルフローレが呟く。
他人に興味を示す事が滅多とないヴォルフローレにしては珍しいこともあると思ったオスカーだが、次の瞬間にその考えは霧散した。
「狐……凄くいい。私も欲しい」
「……後で、買ってやるから黙れ」
狐の睡眠帽を指差して強請るヴォルフローレを黙らせようとオスカーは慌てる。問答無用に宗教的権威への挑戦である。
アリアベルの顔が引き攣る。
よもや、正面からこの話題に踏み込んでくる猛者がいるとは思わなかったのだろう。それはオスカーを含めた陸軍総司令部や中央総軍司令部の面々も同様で呆 気に取られていた。一言で会議室の冷厳な雰囲気をぽやんとした表情のままに吹き払った点は評価できなくもないが、ある意味、身辺が怪しいという事実以上に 顰蹙を買ったのではないかとオスカーは慌てる。
「い、いいでしょう。後で私の予備の銀狐のものを差し上げます」
素早く持ち直し、花が咲く様な笑みで微笑みかけるアリアベルに、ヴォルフローレはこくりと頷いた。
会議の終了後、ヴォルフローレはファーレンハイト直々に減俸三ヶ月を言い渡されるのは極めて当然の結果であったが、何故自分まで巻き込まれるのかと納得できないオスカーであったものの、それは暫く後の話。
そして、会議は続く。