第一七〇話 悍ましき戦野と彼女達の思惑
「まぁ、外野共が五月蠅い事だな」
トウカは、エルライン要塞の中枢である稜堡式城郭の中央……エルライン要塞司令部が置かれている建造物の最上部に位置する監視塔から、一面の雪原を見渡しながらも呟く。
雪原では無数の将兵が蠢いており、演習や物資集積所の設営、砲兵陣地の構築などに精を出している。後方支援能力に優れたエルライン要塞の本陣であっても増援を含めた兵力を収容するには至らず、ましてや空前の規模での攻勢を受けている為に急造した施設も少なくない。
壮観な眺めですらある。
総兵力、約一四万名。
現在も前線で戦闘を継続している将兵を含めた総数であり、皇国国内の諸軍事勢力を合計すれば二〇〇万弱になるので大多数とは言えないが、方面軍とは言え ない一要塞の兵力としては破格の規模と言えた。地政学的に二国の要衝となっているエルライン回廊に戦力が集中するのは当然だが、フレデリック・ランチェス
ターの数理を加味しても七倍以上の敵を相手にしては防御側であっても不利は免れない。拮抗しているのは地形と運用兵器、軍編成の差によるところも大きい が、その均衡が崩れる事は既に決定していると言っても過言ではない。
帝国政府の声明では、追加で八〇万もの兵力を逐次増派するとのことである。
オスロスクやエカテリンブルクに対する爆撃は、案の定、隠蔽されており、正確な情報が未だに報告されていない。しかし、情報部からの報告では、帝国軍後方の混乱は凄まじいものがあるらしく、死者だけでも三〇万を超えるとの概算が成されているとの事であった。
ミユキは、民間人に被害が出たという噂を甚く気にしているが、遙か敵国の都市に実感が湧かないのか、シュットガルト湖畔攻防戦のように酷く落ち込む様なまでにはなってはいない。
「ミユキの為にも戦争は遠い土地の出来事にしておきたいが……」
決して弱気ではない。
他国を帝国と干戈を交える様に工作するというのも一手である。今までは周辺諸国の詳しい動向を精査する時間と、諜報員の数が不足していた為に執らなかっ た策だが、帝国と交戦状態の国家も少なくない。それらの国家の飛行場を借用できれば帝国各地を戦略爆撃の目標とする事ができる。高位種編制の戦略爆撃騎部
隊というのは、他国には容易に真似できないものであり、見せ札として積極的に活用するというのも悪手ではない。
だが、トウカの思案など世間は露知らず。
背後の男も意気軒昂に捲し立てる。
「なぁに、帝国主義者が三〇万ほど死んだだぁけですぞ。寧ろ、これは歴史的快挙! 無敵皇軍! 我が国の未来は明るいですぞぅ!」
内戦での“活躍”で暴力神父”の異名を得たラムケの大音声に、トウカはやれやれと首を横に振って空を見上げる。
北部の民衆は熱狂的な、狂信的な歓声を以て、帝国本土爆撃の偉業を絶賛している。対する他地方の平和主義、左派思想の政治団体などは派手に街頭で非難を続けていた。民間人の死者数が気に入らないとの事である。
トウカは七武五公の要請を受けて事態の鎮静化を図った……心算だったが途中から堪忍袋の緒が切れて……否、吹き飛んだ。
結果として義烈将校団の構成員が皇国各地で流血沙汰を起こし、トウカも公開討論で積極的に左派団体の揚げ足を取って沈黙させていった。無論、不適切な会計や代表者の醜聞などを情報部に収拾させて勢力の漸減を図ってもいる。例え、意見が正しくとも世間からの信頼なき者としてしまえば、影響力は大幅に削げる。何も堂々と議論をするだけが政治ではない。
とにもかくにも、それらの情報が皇国世論を席巻していた。
エルライン要塞での熾烈な攻防戦など忘却の彼方と言わんばかりに各社新聞の一面を飾る有様は、トウカとしても予想だにしないものであった。相も変わらず北部だけが盛り上がるに留まると思っていたが、賛否両論ではあるものの皇国世論は変わりつつあるのかも知れない。
トウカとしては、その渦中に身を投げるのは好みではない。
影から誘導してこそであるが、何故か世論にトウカの行動の是非を求める風潮が生じ始めていた。
「最近の行動は思ったよりも左巻きの方々に評価をいただけている様で恐縮だな」トウカとて腹が据えかねる事はある。
そして、異世界であっても左派勢力というのは的外れでいて、戦野で戦う者達を蔑ろにする。
それを聞き流したとなれば、事実上の軍閥である皇州同盟の代表であるトウカの沽券に係わる。武装集団を統率する以上、そこには必ず権威が必要となる。そ れが結果より生じるものか、或いは佇まいから生じるものか……無数に在れども、兎にも角にも権威というものが必要となる。独裁者が人気商売と言えるのと同 様で、トウカは皇州同盟軍将兵の視線を常に配慮しなければならない立場になった。
それが臣民までにも配慮しなければならない立場に押し遣られつつあった。
法的拘束力などが正規軍より遙かに緩い地方軍閥でしかない皇州同盟軍の指導者であるトウカであれば、そうしたものを求められても一笑に付す事は容易い。しかし、有力者を募り続けねばならない立場でもある以上、配慮せねばならないのだ。
何故この状況で新聞社などが、トウカを一斉に取り上げたのか。
決まっている。
七武五公がトウカに枷を付けようとしているのだ。
臣民が望む姿を押し付ける事で、トウカの軍事的自由を奪おうとしている。
だからこそ激怒した。トウカは臣民の視線など気にはしない。
厳密には、北部地域の臣民の支持さえ盤石であれば皇州同盟は存続可能であった。故に七武五公が北部以外での躍進を抑える心算でもあった事は容易に想像できる。
大勢に流されて味方する者など役には立たない。
寧ろ、獅子身中の虫になりかねない。国体護持を陸海軍が国費で担っている以上、露骨に軍事的成果を上げられそうな時にこそ皇州同盟は軍を動員すればいい。トウカに皇州同盟を国軍に成り替わる組織とする心算などなかった。
だからこそ、トウカは現状を維持する道を選んだ。
どちらにせよ、国が傾けば泣き付いてくる連中に、何故、媚び諂わねばならないのか。
トウカはそう口にして皇州同盟軍内で、この機に勢力を拡大すべきだと主張する者達の主張を一蹴した。七武五公の掌で踊る必要などない。無論、躍進の機会 が遠のいた点については、七武五公侮るべからずと唸るしかなかった。情報を操り相手の行動を制限し、身の丈に合わない組織の成長を助長するなど、トウカか らしても見事と言う他ない。
直近では、批判的な新聞社や左派団体を、風評被害を作り出して臣民の信頼を失わせる事だけに注力せよと、トウカは情報部に命令していた。
澄ました顔で嘯いたトウカに、ラムケは野太い笑声を零す。
「しかし、閣下も言う様になりましたなぁ! 小官は感動致しましたぞぉ!」ばしばしとトウカの肩を叩くラムケ。
階級など関係ないと言わんばかりの態度であるが、ラムケに関しては軍人である以上に神父であり有力者である為、咎めようとする者はいない。複数の立場を持つ者を相手にするのは、酷く労力と神経を使う行為なのだ。
――はてさて、どれの事を指しているのか。
心当たりがあり過ぎて分からない。
無抵抗であれば周辺諸国は攻撃してこないと力説する理想主義者に銃口を突き付け、「御前が、今ここで俺の銃弾に無抵抗のままに対処できたなら信じてやる」と嘯い た事か、或いは、諸々の非難や妄想を「まぁ、夢を見るのは臣民の権利の一つであるが故に否定はしない。無論、貴族と政治家、軍人の諸兄には夢ではなく現実
を見ていただかねばならないが」と嘲笑した事かも知れない。否、垂れ幕を手にして戦争反対を叫ぶ暇な学生達に対し「貴官らの様な屑など皇軍は必要としな い。軍務は貴官らが今している行動と違い、暇潰しではないゆえに。我々が求めるのは騎士であり武士、臆病者や卑怯者に与える権利など在らず!」と怒鳴り返 した事かも知れない。
無論、それらの行動と言動に対する国民や貴族からの非難は少なくない。
対照的に、所属を問わず将兵からの称賛は大きなものがあった。
命懸けて亡国の脅威と干戈を交えている彼らからすると、背後からの罵声というものは酷く戦意を下げる要素なのだ。彼らもヒトであり、腹も立てば悲しみもする。無論、憎悪も同様であるが、国軍である以上、それらに対して声高に反論する事は軍規上、難しい。
だが、トウカは堂々と言い返した。
無論、支持基盤が北部にあり、軍需企業や皇州同盟という“闘争止む無し”で連帯している地域の代表者という立ち位置にあるトウカだからこそ口にできる言 葉でもある。他地方が平和主義に毒されているという印象を受けたからこそ、北部臣民が反骨神で闘争を叫んでいる部分もある。
トウカが求めるのは、皇軍軍人達の精神面での代表者にして代弁者なのだ。
七武五公は読み違えた。
国民の大多数の支持などトウカは求めてはいない。七武五公や中央貴族が何百年と掛けて誘導してきた風潮を相手にする時間も人脈もない以上、相手にするだけ不利な立場に置かれる。そして、陸海軍を影響下に置くことも“現時点”では考えていない。
トウカに対し軍人の大多数が好意的でありさえすればいい。
それは、トウカの軍事行動に対する黙認に繋がる。否、繋げるのだ。
「別に思った事を口にしただけだ。同胞達の盤石な支持基盤と統一された意志あってこそ。感謝してもしきれない」
そう、感謝するから流血沙汰があれば混ざろうとするのは止めて欲しい、とトウカは切実に願う。暴力神父を従える戦争屋という風評は宜しくない。
荒々しい敬礼をして見せたラムケに、トウカは肩を竦め、ラムケの影から現れたエップへ視線を巡らせる。
「これからは戦乱の時代だ。鉄火こそが意志を貫き徹す上で最も重要な要素となるだろう。貴官には不愉快な事かも知れませんが」
銃口を突き付ければ、直ぐに主張を取り下げて泣き叫んだ理想主義者を思い起こし、トウカは嘲笑を浮かべる。
軍政家寄りのエップからすると苦々しいものかも知れない。
彼は政治的決着による挙国一致体制を望んでおり、傑出した個人に軍事力が集中する事に肯定的ではない。無論、それはトウカに権力が集中する事を忌避しているのではなく、権力闘争に時間を割くのに否定的であるからであった。
エップは何時も通りの戦闘鉄帽を被ったままで頭を掻き……それに気付いて苦笑を大きくする。
「まぁ、あの銃が拳銃型の点火器だったのには呆れましたが」
「あれは良かったなぁ! 気絶した売国奴を見下ろして銃の形をした点火器で煙草に火を付ける……正に戦争屋の所業!」
呆れと感心という感情を二人それぞれが示すが、トウカとしては筋書きを書いたのがリシアである為に異論を挟む真似はしない。北方方面軍で情報参謀として “飼い殺し”にされているリシアは、最近ではトウカの演出に力を入れており、演説では機密扱いの新型探照灯を利用して夜空に光柱を整列させる事で権勢を示
すという無理までしていた。戦闘爆撃航空団による曲芸飛行と赤の着色煙幕による旭日を空に描くという演出は高い評価を受けているが、正々堂々と副業に精を出す点を見てトウカは、リシアは頃合いを見て陸軍を退役するのだろうと推測していた。
誰も彼もが予想外の動きをしている。
トウカは、それに対応し、或いは牽制せなばならない。
「次は長砲身型のⅥ号中戦車を左右に整列。砲身を交差させて隧道を作ると豪語していましたよ。そこを我々が軍用大外套を翻して行進する訳です」
ふと、リシアが口にしていた次の演出を口にする。
次回は眼前の彼らも道連れになると、トウカは知っていた。覚悟と厳めしい表情を練習する時間くらいは与えてやるのが上官の優しさというものである。
「それはまた……写真写りが良さそうですな」
「いかんっ! 最近、軍装を洗っていないんだがぁ」
中年の独身二人の気にする点は違うものの、身だしなみは気にしている様子である。最近は、トウカもリシアが特注で誂えさせた幾つもの軍装を演説毎に着用させられていたので、身なりには注意を払っていた。
「御二人も覚悟を……ハルティカイネン大佐の用意する軍装は派手だろう」トウカは朗らかに笑う。
後世の歴史書に、その姿が写されるかも知れないと考えれば、中々に愉快である。
皇州同盟軍は、その急進的な思想と有力な軍事力で危険視されつつも、右派層と保守層を取り込み、制御を失わない程度に拡大を続けていた。
「都市ひとつが壊滅……これでは戦争どころではない」
リディアは手にしていた報告書を暖炉へと投げ入れ、深く応接椅子へと腰掛ける。
本格的な戦闘……皇国本土へと足を踏み入れる前段階であるが、想定外の動きを見せる敵軍に帝国は全く対応できていない。後手に回っているという言葉が生温い程に、対処が遅々として進まず、リディアは歯痒く感じていた。
自身が手を拱いた時間で喪われる友軍将兵の命があるのだ。そう考えれば、気が重くなるのは致し方のない事であった。
近くの歴史的価値を感じさせる造りの机に置かれたヴォトカの酒瓶を手に取り、リディアは木栓を歯で噛み締めて抜き放つ。
護衛も下がらせ、たただ一人を満喫するリディア。
否、思考に耽っていた。酷く悲観的で残酷な現実に視線を向けざるを得ない立場にあるが故に。
敵手の姿が明確な形で帝国に叩き付けられた。
サクラギ・トウカ。
リディアからすると、やはり彼が立ち塞がったのかとしか思えないが、帝国では立場と階級を問わず、彼が人間種であり平民であるという点に視線が注がれていた。
彼はあらゆる意味で、帝国にとって不都合な存在になりつつあるのだ。
人間種であり平民でしかない彼が、幾多の高位種を下し、短期間で傅かれる立場となり、帝国に痛打を与えたという事実。
本来であれば人間種が高位種に知能で抗う事ができるという点で、帝国政府にとっては追い風となり得る要素の発露であるが、同時に平民が軍を組織して一国と対等に交渉し、干戈を交えるという事例をこれ以上ない程に知らしめたのだ。
帝国国内で吹き荒れている共産主義勢力を辛うじて中央部に抑え込む事には成功したものの、彼らの主張と根拠にサクラギ・トウカの勇戦は結合する気配を見せている。
ただ一人の人間種が高位種すらも従えて一国を相手にしようとしている。
ならば、我々にも可能なのではないのか?
そうした風潮が流布するのを帝国政府と貴族は酷く怖れており、現に共産主義勢力はそれを宣伝材料として利用する構えを見せている。
トウカは可能性を見せた。寡兵で高位種すらも打ち払い、国政すらも捻じ曲げて大国たる帝国に挑戦するという可能性。
それは毒だ。
トウカの擁する皇州同盟という組織が未だ成立間もない為に正規軍と同程度に機能する状態ではない事など、共産主義勢力の者達からすれば然して意味を成さない。
今の今までのトウカの実績を添え、彼が自身らと同様の人間種であるという点を強調すればいい。それだけで民衆は錯覚するだろう。神聖にして不可侵なる皇帝と帝国政府、統治者たる貴族達が絶対的な存在ではないと。
それは情報が遮断された大国たる帝国の民衆にとって、天地が逆転するかのような出来事であった。
リディアは、その点すら彼が読んでいたのではないかと疑っている。
「ほら、言ったじゃないか。彼奴が出て来たら戦場なんて屠殺場になると」リディアは知っている。
トウカと出逢い、共に匪賊と戦ったが故に。
匪賊との戦闘は、トウカの読み通りに推移したが、それは然して見るべき点ではなく、寧ろ彼が降伏した者達に対して行った行動を考えて暗澹とした気分となっていた。
彼はリディアの戦闘能力に怯えて降伏した四〇名弱の匪賊を躊躇なく処分した。
村人に巨大な横に長い墓穴を掘らせ、墓穴の方へ幾人かを整列させると顔を向けさせて後ろから銃殺。遺体は自然と墓穴の中に落ち、遺体の量がある程度に達したら穴を埋めるという遣り方である。
匪賊は既に幾つもの都市を襲った事が明白であり、村人は穴を掘って村長以外は下がらせた。トウカは村長に「皇国法律上、匪賊の排除に過剰防衛が適用される可能性はあるか?」と確認した上で彼らを“処分”したのだ。峻厳な気候の北部の領地は略奪や匪賊に対しての冷酷な対応を領法に明文化している。
リディアはその場に立ち会ったのは逃げ出した者を斬り捨てる役目を負っていたからに過ぎない。
極めて無駄のない遣り方で、リディアは感心したものである。
弱者を食い物にしていた者達に相応しい罰が下った、と。
何より、戦慣れした匪賊を治安維持組織に引き渡すまで村で拘留するという危険をトウカが選ばなかった事を、リディアは高評価していた。もし、そうすれば匪賊迎撃で戦死した者の遺族が彼らを殺そうとするに違いなく、彼らが黙って殺されるとも限らない。
あれは、ある種の慈悲だった。
その主目的は仔狐に惨たらしい現実を見せるのを忌避した事であろうが、それでも彼がリディアには上等な人物と見えた。
「……いや、今にして思うと、トウカの行為を慈悲だと錯覚した私も同類か」リディアはヴォトカの酒瓶に口を付けて直接に煽る。
その際のトウカの無表情を、無機質な瞳を、リディアは生涯忘れないだろう。
そして、至近から匪賊らがトウカの小銃に撃たれる瞬間を。墓穴の縁に連れてこられた匪賊達達が、墓穴の底の死体を見下ろして驚愕し、絶望した表情を。
「ああ、トウカなら都市の一つや二つ、当然の様に焼き払うだろう」
きっと彼からすると邪魔な雑草を刈り取る程度のことに過ぎなかったに違いない。否、彼は単に匪賊達に無関心だった。無関心は人を殺せるのである。
そこまでは、リディアも理解が及び、納得もできなくはなかった。
しかし、一つだけ解せないことがある。
脳裏にこびり付いた疑問。
「ならば、トウカを模倣する“彼女”は誰だ?」
リディアは、机に置かれた模倣一つを記した報告書を手に取る。
今、帝国中央で急速に勢力を伸張させつつある労農赤軍。
トウカと類似した殺害方法を断行した叛乱軍。
深く掘り下げた穴底に最初の捕虜を隙間なく列状に横へと寝かせて彼らを射殺すると、その遺体の上、遺体の足側に頭を置かせて次の捕虜を横に寝かせる。そして、それを続け、射殺した遺体が幾層も重なり限界に達すると穴を埋めるのだ。
どちらも殺される者からすると然したる差はないのかも知れないが、人間を完全なまでに物扱いし、埋葬を効率化する方法は、ただ残酷と言い切るには別種の……悍ましい狂気を感じさせた。
彼と彼女は似ている。
彼女の場合は規模がトウカの行ったそれ何百倍であり、射殺する者に実戦経験のない者を選出して“人殺し”の経験を積ませている上、帝国軍の捕虜を殺害させて後には引けないという強迫観念を植え付けてすらいた。
狂おしいまでの効率主義。これが戦争に於ける効率主義だというのか。
それを指揮した指導者たる名前以外の全てが謎に包まれた女。容姿すら判然としない共産主義勢力の旗手。
真紅に黄金の鎌と槌、五芒星をあしらった旗を手に帝国へと挑みかかった姿の見えない敵。
彼女は言った。
平等と労農革命を齎す為に、この地へと舞い降りた人民の守護者であると。
そんなものは妄言に過ぎないが、それに縋る程に民衆が困窮しているのもまた事実であり、彼女はそこに民主共和制に変わる平等を持ち込む事で従えた。
「ミリアム・スターリン。御前は誰だ?」
リディアの酒精混じりの呟く様な声は肌寒い空気に紛れて消えた。
「忙しい……凄く忙しい。電子計算機欲しい支援設計程式(CAD)欲しい」
トウカが口にしていた研究開発を極めて容易にするという機器と機構を想像し、ヘルミーネは唸りながらも製図を続ける。
ヘルミーネは科学技術と魔導技術の両分野に秀でているが、前者に関しては後者よりも遙かに多様性がある分野を指す。その中でヘルミーネが得意とするのは 機械工学や金属工学、船舶工学なのであり、トウカは必要だと断言した電子工学や計算機工学、航空工学などは専門外であった。無論、それらの分野が未だに確 立すらしていない以上、育成方法すら手探りの状態であった。
しかし、ヒトは欲しいと感じたからこそ努力し、求める。
電子計算機に付いては基本的な概要は聞いており、魔導技術での代用可能な部分も少なくないが、蓄電器や真空管に二極真空管、継電器、抵抗器……トウカが 口にしたものだけでも膨大な数の電子部品が存在する上、この世界では魔導技術が主体であり、電子技術は立ち遅れている。トウカは軍需産業に命じて研究者の
育成や研究開発に莫大な資金を投じ始めたが、それが効果を発揮するには年単位の時間が掛かるだろう。半導体素子のトランジスタや集積回路(IC・ LSI)、抵抗、コンデンサ……果てはセラミック半導体までの概要を聞かされたが、ヘルミーネに理解できる分野ではなかった。
ただ、酸化チタンやチタン酸バリウムなどの製造方法がトウカより齎された事により、電信技術に携わっていた研究者達は俄かに活気づいている。軍事技術で はないものの、以前より民間では電子技術の運用が模索されており、トウカの齎した技術はそれに多大な影響を齎しつつあった。
ヘルミーネは魔導技術についてのみ学んでいたが、科学技術は主要な工学以外は資金難に喘いでいた。魔導技術を重視するのは世界的に見ても不思議な事ではなく、特に魔導国家とも称される皇国に在ってはその傾向が強かった。
しかし、トウカは魔導技術への梃入れを全くと言っていい程に行わず、寧ろ科学技術の多岐に渡る分野へ莫大な投資を開始していた。
皇州同盟内でも異論が出る程の規模で行わるそれだが、トウカはそれらの意見を退けた。
――科学技術の発展なくしては、皇州同盟成立の意味がない。
トウカはそう口にした。
そして、皇州同盟と連携する企業間での技術供与や特許共有、共同開発などを推奨し、利益の最大化を図る構えを見せた。その上、電子技術による弾道計算や誘導兵器の製造、通信技術の向上などを謳い、それによる利益の拡充を提言した。
無論、圧倒的な計算速度を持つ電子計算機というのは、民生分野にも大きな影響を齎す。
今までは徹夜を重ねて計算していた工業製品の設計時の計算が忽ちに終わり、諸外国の企業の詳細を交易規模から一瞬で逆算する事も、トウカの主張が叶えば無理ではない。
新たな製品作成を加速させ、更には敵対的な企業や組織の規模と内情を圧倒的な計算力で割り出す。
それは革命だ。控えめに見ても大陸情勢に一石を投じるものである。
技術者達は直感的に悟りつつあるが、軍人や政治家は未だに懐疑的であり、その威力を目の当たりにしていない事から、暫くは大きな動きを見せないだろう。軍人も政治家も有能であれば現実主義者であり、だからこそ有効性を書類上で数字として確認せねば認めない。
それを認めるまでには多くの時間が掛かるだろう。
トウカは、タンネンベルク社を始めとした複数の軍需企業から支援を受け、電子技術の開発と製造を担う新企業の立ち上げを宣言している。
独立した企業を成立させてまで、電子技術の研究開発と製造を行おうとしている。あの先進的な技術を次々と生み出した彼が、である。
その注目度は大きく、市場への上場が何時になるのかという経済界からの問い合わせや、産業界からの探りが派手に起きていた。
だが、その新企業……ヴェルクマイスター社は、皇州同盟軍情報部による機密情報保護を受け入れ、明確に皇州同盟傘下であるのを表明した企業でもある。
事実上、経営権すらトウカが明確に握っている企業は、ヴェルクマイスター社だけであり、それに故に特異性が際立つ。
無論、それほどの話題も帝国本土空襲という戦果の前には酷く霞む。
或いは、それもまたトウカの思惑通りなのかも知れない。
だが、そんな軍事や政治、産業の重大項目など、ヘルミーネには興味を引くものではない。ただ、トウカが分野を問わず八面六臂の大活躍を繰り広げていて、これなら予算の増額も可能のではないかと考えた。
研究開発は楽しい。
だが、それを統括する立場というのは楽しくない。
ヘルミーネからすると当然の見解であるが、情勢は逃れるのを許さなかった。トウカが信用できる研究者を統括できる者がヘルミーネしかいないのだ。
「農業機械なんて私も専門外……」
無論、農業機械を専門とする者がいるなどという話は寡聞にして聞かない。
工業技術による農業の大規模化自体が、誰もが経験し得ないものなのだ。耕耘牽引車と田植機、複式収穫機などは概念を聞かされても、技術者でしかない者達 には容易に製造できるものではない。農業に従事する者達を招聘して意見を取り入れながらの改修と再設計を繰り返す為、初期的なものを製造するまでに一年は 時間が必要と研究者の間では見積もられていた。
ヘルミーネは、二、三年は掛かると考えていたが。
履帯などの設計は戦車などから流用できるとはいえ、特に田植機などは苗の搭載方法や育成方法にも変更を加える必要性が出てくる。
そもそも、品種改良を含めて五年の歳月が必要であると見られており、トウカもそれを受け入れていた。寧ろ、「一〇年は掛かると考えていた」と驚かれた事 は意外だが、魔術的な育成手段である速成栽培は極小規模の研究目的であれば費用対効果を度外視して行えるので、ヘルミーネからすると然して特筆すべき事で はない。
シュパンダウの軍需区画中央の施設内に誂えられたヘルミーネの執務室。
そこから窺える製造工程を、ヘルミーネは見下ろす。
未だ製造工程自体が構築中である為に稼働していないが、既に試作車輌の運用が始まっている新型重戦車の製造を担うそれは、流動的な工程……工程生 産方式による大量生産を実現できる。工業製品を流れ作業で行う概念に薄い皇国にあって、その方法は大きな変化を齎すだろう。既に、一部の軍需工場では大量
生産を意図した改修が行われており、生産管理や品質管理による効率化は、まず最初に弾火薬の生産量の飛躍的な増大を齎した。
これからここで生まれる兵器達は多くの者を殺すだろう。
無論、ヘルミーネに後悔はない。内戦ではなく、諸外国との戦争に運用されるならば尚更である。
諸種族が真に共存できる国家が皇国しか存在しない以上、能力のある者がその軍備を強大ならしめる事に協力するのは酷く当然である。
だから、ヘルミーネは振り返ると告げる。
「貴女の懸念は意味がないし、それはいずれ起きるであろう世界大戦の後に取っておくべき」
応接椅子に座り尻尾を揺らす仔狐の妄言を、ヘルミーネは一刀両断に斬り伏せる。
彼女は、トウカを後方へと留め置く事を望んでいる。
そして、帝国を抑える為、共和国や神州国との軍事同盟を締結すべきではないかと有力者に触れ回っているのだ。
そして意外な事に賛同者は多い。
その背後にはマイカゼがいると思われており、トウカもまた皇州同盟の有力者であるマイカゼの意向を無視できない。
飛びついたのは中央貴族である。
そうした交渉を両国に提案している期間は、トウカの軍事行動を掣肘できると踏んでいるのだろう。背後に七武五公の影があるのは誰しもが理解できることだ。
だが、これは“釣り”である。
マイカゼがトウカの軍事力による現状の打開という姿勢を理解していないはずがない。トウカもマイカゼが自身の行動に否定的な立場を取るならば実権のない立場に追い遣り、ミユキにヴェルテンベルク伯爵位を与えるに違いない。
ミユキの軍事同盟という提案はどこから出たのか気になるが、当人は自分で思い付いたと言い張って話さない。誰かの受け売りであると放言するよりかは、余程に上等であるが、ヘルミーネはマイカゼに吹き込まれたのだろうと推察していた。
恐らく、七武五公の視線を逸らす一手なのだろう。
そして、ミユキの主張を奇貨として、それに同調する者達が接触を図るに違いない。
皇州同盟内外を問わず、そうした者達を一纏めにしたいという思惑なのだろう。
当人たるトウカがヘルミーネに、そう打ち明けたのだから間違いない。トウカはミユキを気に掛けてくれる相手としてヘルミーネを見い出したのだろう。
――あのハイドリヒ中佐の差し金のはず。彼女……気に入らない。
他者を唆し、誘導する事で陣営の利益の最大化を図ると言えば聞こえは良いが、トウカの恋人と知って尚、ミユキを利用するというのは高位種の恋を軽く見ているとしか思えない。
或いは、ミユキを排斥しようという意図があるのかも知れない。皇州同盟内でミユキの存在について疑問視されれば、トウカは組織か恋人彼の二択を迫られる可能性がある。
――あの憲兵は、トウカの弱点として、ミユキを見ているのかも知れない。凄く良くない。
トウカもマイカゼも後ろ盾が明確である以上、ミユキが安全だと考えているのかも知れないが、貴族社会での孤立を甘く見ている様に感じた。二人は既に孤立しているのだからと割り切っているのかも知れないが、年頃の少女にとって孤立とは恐ろしいものである。
ミユキは、自身が権力争いの尖兵となっている事など夢にも思っていない。
狐耳を曲げ、言葉を重ねるミユキ。
「帝国は八〇万も増援を送る余裕があるから、このままじゃ勝てないよっ! 味方を増やしてから戦ったほうがいいよね」
理屈は通っているだけに性質が悪い。
トウカから、ミユキが迷惑を掛けるが相手をしてやってくれ、と言われていなければ、丸め込まれる事はなくとも食い下がられる展開は有り得たかも知れない。
「増援に寄越された軍の内訳は、そのほとんどが貴族軍……捨石。国内で不穏な動きをされるより、前線で磨り潰したほうが良いという判断。帝国政府は優秀。不穏分子を名誉と金銭で釣って我が国で“処理”させようとしている」
中々に優秀、とヘルミーネは嗤って見せる。
今のは会心の笑みだったはずであると満足するヘルミーネ。
「トウカと帝国の指導者層が共に処理しても構わない対象として増援を見ている。彼らの死は既に決定している」
「そんな……でも、八〇万も増えたらエルライン要塞が持たないと思うのっ!」両手をぶんぶんと振って力説するミユキ。
ミユキはミユキで、中々に考えていると、ヘルミーネは感じた。
或いは、トウカとマイカゼは、この一件を通してミユキの政治的、軍事的感覚を鍛えようとしているのかも知れない。自らより遙かに知識と見識を有する者達との議論は、ミユキにとっても得るものが多いだろう。
寧ろ、ヘルミーネは、トウカの読みに瞠目していた。状況を作る事が異様な程に長けている。
そして、トウカと、帝国の方針を左右している“誰か”もまts脅威である。
水面下で軍事行動と政治的決断を読み合う事で、互いを推し量ろうとしている。何時か衝突するその日、その時の為に。
必死に言い募るミユキを、ヘルミーネは哀れに思った。
彼にとって、帝国との戦争は既定事項なのだから。
「良くやった……ハイドリヒ憲兵中佐。いや、憲兵少将」
大佐と准将を飛び越えて少将へと任じられたクレア。
そんな彼女を両手を広げ、緩やかな笑みで迎え入れる皇州同盟軍総司令官であるトウカ。
クレアは、トウカの下へと進むと敬礼する。
ぞんざいに答礼を返すトウカは儀礼も適当に、クレアに応接椅子を促す。
二人は応接椅子に腰掛けて対面する。
上座に腰を下ろしたトウカの上座の背後には、皇州同盟軍の軍旗である旭日旗が壁一面に掲揚されており、あたかも彼が旭光を背負っているかの様に錯覚させる。
彼は、その旭光の如き威光で大陸を睥睨するだろう。
国内統一し、帝国に一撃を加えれば、次は神州国か共和国、部族連邦だろう。海軍力の差や陸軍力を踏まえれば一番与し易いのは《トルキア部族連邦》であ り、その人口資源は継戦に大きく寄与するだろう。何より、多種族国家でありながら指導力の欠如で国内が現在の《ヴァリスヘイム皇国》以上に分裂状態にあ る。
対外向けの柔らかな笑みを張り付けたクレアに、トウカが探る様な視線を向ける。
「実戦で活躍した新進気鋭の憲兵少将。皇州同盟軍に在って、総ての不合理を押さえ付ける役目を期待して良いか?」
航空作戦前にも問われた一言に、クレアは佇まいを正す。
恐らく、ここでの返答に然したる意味はない。彼が実力主義者であり、現実主義者であるが故に。
自らに齎した戦果と利益こそを以て判断するだろうが、言わねばなるまい。
例え彼が信用せずとも、自らの立場を明言しておくのは必要である。
「小官は閣下の剣たるを誓いましょう。閣下が望まれるならば、卑賤の身と魂魄を捧げて奉仕する所存です」
胸に手を当て、トウカの視線を一身に正面から応じる。
仕事に対し真摯である事と、指導者に対して健気であることは決して相反する事ではない。
トウカは照れた風に頬を掻く。
――意外と初心なのでしょうか? いえ、マリアベル様に剣聖殿、ハルティカイネン大佐。あの仔狐。誰もが閣下に真摯であったはず。
訝しむクレアだが、トウカは困り顔で続ける。
「貴官が忠誠を捧げるは軍旗と国益にし給え。皇州同盟の提唱者である俺が言うのも可笑しな話だが、一軍人に忠誠を誓うのは軍閥化の始まりだ。私はいずれ国内の軍事組織全てを統一した指揮系統にする心算なのでな」
つまりは軍人が国家や軍旗という一つの対象を仰いで戦争に赴ける状況にするというのだろう。
国内の軍事組織の指揮系統一本化は急務である。
だが、自身に忠誠を求めないと明言されるとは、クレアは考えていなかった。
彼は既に自らが喪われる展開を考えているのだろうか?
愛国者とは思えない彼が、《ヴァリスヘイム皇国》を“健全化”させるのに注力しているのは、クレアとしては好ましいものがあった。自己の無謬性を過信していないのは、指導者として国家を滅ぼさない最大の要素と言える。
思案するクレアを余所に、トウカは笑みを零す。
「それに何より、ミユキに睨まれる。美しい女性が俺に心身を捧げるというのは、な」
惚気か、或いは女性関係の複雑化を避ける為の方便か。
判断に迷うクレア。
ミユキがいないのは確認済みである。否、ミユキが政治の“お勉強”をする様に仕向ける事を提案したのが自らである以上、想定の範囲内であった。今頃は七 武五公の目を引き付けているであろう事は疑いない。七武五公にとってもミユキが重要視される人物となれば立場も安定する。無論、貴族達との関係が深まると い事実は、それだけ公務に多忙になりトウカと距離を置く事になる。
クレアは緩やかに微笑む。
「思う侭に貪ればよろしいでしょう。閣下が大事を成されれば、それは英雄色を好む、の一言で済まされるかと」
小鳥の囀りを思わせる可憐な声音と、浅葱色の髪を右で束ね、憂いを帯びた榛はしばみ色の瞳を備えた清楚可憐にして美貌の憲兵少将が、束ねられた髪先を口元で弄びながらも笑みを零す。その仕草は酷く蠱惑的でありながらも、清冽な佇まいを失わせないものであった。
トウカは、それを鼻で嗤う。
「ならば貴官は此処で俺に股座を開くというのか?」
心底、馬鹿らしいと言わんばかりに、トウカは吐き捨てた。
彼にとって、愛国心や忠誠心は限度と限界を持つ事象なのだろう。
なればこそ、教えて差し上げねばならない、とクレアは自らの詰襟に手を伸ばす。
首元の一番釦が放たれ緩むと、白磁の様な首筋が晒される。
「閣下が望まれるならば」
胸上の第二釦が取れ、酷く煽情的な黒の下着が僅かに覗く。
「そう、申し上げたはずです」
胸元の第三釦が外れ、押し込まれていた胸元が主張する。
「ここで私を、思うが儘に貪りたい、と」
胸下の第四釦が開き、仔狐にも負けない程の胸部が露わとなる。
「斯様に仰られるならば、小官は――」
軍装の肩章に手を掛けてゆっくりと上着を下ろそうとするクレアを、トウカが止める。
トウカは手を上げて「降参だ」と溜息を一つ。
「貴官の忠誠を受け取ろう。その忠節、真に大義である」
「変わらぬ忠誠を、閣下に」
クレアは、肌蹴た上着を其の儘に、右手を胸元に当てると座したままに一礼する。
目を逸らしたトウカはぞんざいに手を払う。
「貴官は酷く魅力的で気が散る。退席したまえ」
「承知しました、閣下」
釦へと手を伸ばしながらも、クレアは笑みを崩す事はなかった。
ちなみにミリアムという名前は旧約聖書に登場する女預言者のもので、マリアという女性名はミリアムのアラム語読みに由来するそうです。