第一七三話 海軍の焦燥
「儂の艦の主砲換装が中止だとぅ! どういう事だ!」
略装である海軍第三種軍装を纏う壮年の佐官が技術仕官の襟首を掴む。
略帽に略衣、略袴に半靴という粗雑な格好の壮年仕官だが、その襟の階級章は少佐である事を示している。彼は皇国海軍、〈第二艦隊〉、〈第五水雷戦隊〉、〈第三四駆逐隊〉、駆逐艦〈コルネリアス・ベルムバッハ〉の艦長を務めるエグムント・ハイドカンプという男であった。
既に乱闘騒ぎになりつつある周囲に喧騒を余所に、ハイドカンプの従兵であるユルゲン・フォン・レージンガーはぼんやりと立ち続けていた。
駆逐艦乗りは総じて血の気が多い傾向にある。
下っ端根性丸出しでデカい船に一撃くれてやらないと気が済まない連中の巣窟であると、レージンガーは信じて疑わない。味方の戦艦……取り敢えず雷装のない大型艦に異様な敵愾心を見せる駆逐艦乗り達は戦艦に得物を攫われる事を何よりも嫌う。
今回の騒動の発端は、乗艦である駆逐艦〈コルネリアス・ベルムバッハ〉の主砲換装を巡る一連に端を発する。否、正確には〈第三四駆逐隊〉に所属する四隻の駆逐艦の主砲換装である。
当初の予定では本日より四基搭載されている主砲を新型の五〇口径九八式一三・五㎝連装砲へと換装する予定であった。
それが〈第一艦隊〉所属の〈第二戦隊〉の戦艦の四隻の副砲へと転用されるという急な決定が通達された事で、軍港は俄かに活気付いていた。乱闘沙汰という意味で。
同じ〈第五水雷戦隊〉の〈第三五駆逐隊〉も主砲換装が中止されると知って派手に暴れている。取り敢えず〈第二戦隊〉の戦艦の乗員に派手に絡んでいた。最早、学生の集団喧嘩である。
だが、それも致し方ない事であると、レージンガーは納得してもいた。
駆逐艦は乗員数が他の戦艦や重巡洋艦などの大型艦と比較して少なく、水兵から艦長までの人間関係が綿密である。平均して一六〇名前後の乗員を一つの家族とし、仲間意識が極めて強固であった。
そして、皇国海軍の特徴として、駆逐艦や水雷艇などの小型艦艇は乗員の性別が統一されている事でも有名である。近海防衛の護衛駆逐艦には女性将兵のみが
配属され、外洋航行に秀でた艦隊型駆逐艦や突撃駆逐艦などには男性将兵のみが配属された。理由としては劣悪な小型艦艇の艦内容積では私的事情を維持できず、間違いが生じる可能性が高いというものである。そうした判断もあり、駆逐艦は乗員の性別が統一されていた。
よって、外洋展開の主力を担う〈第二艦隊〉の露払いを担う〈第五水雷戦隊〉所属の駆逐隊は艦隊型駆逐艦が編入されている。
結果、周囲は男臭い空間となっている。
男臭い団結心の発露に、艦政本部から派遣された技術仕官が酷く怯えている様を一瞥し、レージンガーは減俸が何カ月になるかと溜息を一つ。
艦長……親分が暴れると言って聞かない。
なれば、レージンガーも伴をせねばならない。
それが駆逐艦乗りである。
対する戦艦や重巡洋艦などの大型艦になれば、乗員数が多い為か各科毎の団結となる。
よって駆逐艦の乗員ぐるみの団結心には劣る面がある。任官してこの方、駆逐艦一筋のレージンガーとしては、“戦海でその程度の戦友に命を預けて戦う戦艦 の乗員というのは実に気宇壮大”と感心してすらいた。戦海へと進み出れば乗員の生命が一艦の浮沈に掛かっている。一蓮托生であり是非はない。
だが、ハイドカンプの怒りに痩身の技術仕官も負けてはいない。
「仕方ないんです! 艦政本部の改修計画に軍令部や政府からも圧力が掛かっているんですよ! 艦政本部だって行き成りの横槍で混乱しているんです!」
混乱と怒りは艦政本部もまた同様なのかも知れない。
技術仕官の所属は、艦政本部、第一部……艦載砲を研究開発する砲熕部であると推測できるが、彼らもまた情報が錯綜している状態なのかも知れないとレージンガーは、想像を超えた事態が進展しているのだと確信する。
〈第二戦隊〉の戦艦四隻の乗員と諍いが起きたのか、桟橋の方角で水面を叩く音が連続する。突き落とされた者が生じたのか、俄かに慌ただしさを増すが、乗員達の人垣で様子は窺えない。
「何だぁ! もう始まったのかぁ! 俺も混ぜろぅ!」
ハイドカンプが襟首を掴んていた技術仕官を放り出し、揉め事が生じたであろう方角へ突進する。戦友達を問答無用で押し退ける様に、レージンガーは頭を掻く。無論、それで丸く収まる程に世の中は単純ではない。
レージンガーは地面に叩き付けられた技術仕官に手を差し伸べる。
些かの逡巡と猜疑の視線があったものの、技術仕官はレージンガーの手を取る。
階級章を見る限り互いに中尉であり、駆逐艦乗りの須らくが忘却の彼方とした敬語を使い続ける必要性も薄い。
だが、同時に先任がどちらかなど、容姿すらも判断材料とならない皇国である以上、判断できない。よって、当たり障りなく会話を行う中で上下を見出す手間を踏まねばならな。ある意味、同階級であるという事実はそうした面倒が生じるのだ。
「貴官は往かないのか?」
「喧嘩は小官の軍務より逸脱するかと」
技術仕官の猜疑に満ちた問いに、レージンガーは苦笑を零す。
駆逐艦乗りが一様に粗暴であると思う者は海軍内にも少なくない。平均的な思考と性格の持ち主でも、三カ月も駆逐艦に乗艦すれば無頼漢が完成するというの が通例だが、中にはレージンガーの様に“正気”を保った者もいる。そして、そうした人材は、抑え役として従兵や副艦長の任に就く傾向があった。
艦政本部という穴倉に籠る技術仕官がその点を理解しているはずもないが、レージンガーの柔和な顔付きに促された技術仕官は名乗りを上げる。
「エーベルハルト・アンシュッツ中尉。艦政本部の第一部に所属している」
「ユルゲン・フォン・レージンガー中尉。変則的だが従兵を務めている」
本来、尉官が従兵を務める事はないが、皇国海軍の駆逐艦乗りの中でも猛烈果敢を体現したハイドカンプの破天荒に追随できる者などそうはいない。そうした理由もあり、皆が嫌がる中、諸々の規定と常識を無視して貧乏籤を引く羽目になったのがレージンガーであった。
勿論、レージンガーは今回の一件に於いて、早々に事態の鎮静化を放棄している。
戦艦の女性水兵に向かって「俺の魚雷をくれてやるぜぇ!」と盛る水兵を背に、レージンガーは気になっていた事態の内幕を訊ねる。
「しかし、今回は困った。原因は何かな?」直接的な物言いのレージンガー。
技術仕官……アンシュッツが顔を引き攣らせる。
それ程の狂乱と狂騒であったのか。
煙草を銜え、点火器で先端に火を灯すレージンガー。
――しかし、軍令部だけでなく、政府もとは。完全に政治の都合だな。
軍令部や感性本部は確かに艦政本部の上位に存在するが、海軍工廠を擁して造船工学の発展と艦載兵器開発に勤しむ彼らに政治の都合を持ち込む真似は本来、戒められている。政治の都合で兵器性能や技術躍進が湾曲する事を忌避したが故えあった。
「あ、煙草吸うかい」と煙草を進めるレージンガーに、「小官は小葉巻なので」とやんわり断るアンシュッツ。
技術職は高給取りである。嗜好品も高級志向であった。
小葉巻を加え、瓦斯点火器を構えるアンシュッツと二人、軍港の端に移動する。
物欲しげな視線を向けると、「一本どうですか?」とアンシュッツが煙草箱を開いたので、レージンガーは「戦友に感謝を」と三本程抜き取る。アンシュッツの、そこは一本だけじゃないのか?という視線を無視して二本を懐に収めた。
「どうも今回の一件。政府の強い意向があったみたいで」
アンシュッツは、倉庫街の端に無造作に置かれた木箱へと腰を下ろしながらも、溜息と共に吐き出す。小葉巻の思いの外に芳醇な香りが潮風に舞う。
「政治? 戦艦の火砲を増強する事が? 何時から政治の世界は豆鉄砲を必要とする事になったのか」
おどけるレージンガーに、アンシュッツが苦笑を零す。
世の中には砲艦外交という言葉がある。
神州国海軍が巨砲を搭載する戦艦を主体とした艦隊で“親善”航海する事を指す言葉である。無論、それは国威の象徴にして戦略兵器でもある戦艦の戦列による静かなる恫喝であり、親善航海という表現は行使者の建前である。
だが、駆逐艦の艦砲は違う。
陸軍の基準からすると戦車砲を超え、有力な野砲に匹敵する規模を持つものの、海軍からすると豆鉄砲に過ぎない。軽巡洋艦の主砲は主力の中砲に匹敵し、重 巡洋艦の主砲は貴重な重砲に匹敵する。戦艦や巡洋戦艦の主砲は運用に難すらある程に巨大な列車砲と同等の規模を持つ。それを無数に搭載する戦闘艦は単艦で 多大な戦闘能力を有していると言える。
対する駆逐艦は些か事情が異なる。
主砲が敵艦の主力艦に致命傷を与え難いという部分もあるが、最大の理由は兵装として魚型水雷……詰まり魚雷に比重が置かれているからである。
火砲は艦の規模に比して抑えられる傾向にある。無論、皇国海軍は魚雷よりも火砲を重視しているので、他国海軍よりも火砲が甲板を占める比率は高い。
だが、それでも搭載する兵器で最も威力が高い兵器は魚雷に他ならない。
次発装填が不可能で、運用が難しいという点はあれども、一撃必殺の魚雷はその威力によって戦艦などの大型艦に致命傷を与える可能性を秘めている。
反撃を承知で敵艦に接近し、魚雷を叩き込む。
ある意味、伸るか反るかの大博打。
それを求められる駆逐艦の乗員は、艦砲への信仰心に薄い。
現状で揉めているのは、どちらかと言えば戦艦に取られるという忌避間に依るところが大きい。物理装甲なき小型艦で、一発でも直撃すれば撃沈は免れない戦艦の主砲の眼前に身を投げ出す恐怖を押し殺し、只管に接近。魚雷を叩き込むのは近代に蘇った勇者にしかできないという自負が彼らにはある。
戦艦の乗員に対する、駆逐艦の乗員の反発心は必然であった。
「兎にも角にも、政治が戦艦に駆逐艦の主砲を求めた、と?」
戦艦の乗員の中に中位種の女性将校がいたのか、駆逐艦の野郎乗員が次々と桟橋から海へと投げ落される光景を遠目に、レージンガーは問う。
戦艦に豆鉄砲を搭載するという政治決断。
レージンガーには及びもつかない。
その心中を察したのか、アンシュッツが呟く。
「新型の五〇口径九八式一三・五㎝連装砲は、砲身に高い俯角を掛らけれます」
一定の俯角は射程延伸を踏まえた曲射弾道を描く為に必要であるが、俯角は現在の主砲でも十分に取られている。今以上の俯角は運用したとしても逆に射程低 下を招く。何よりも駆逐艦の主砲というのは、同じ駆逐艦との砲戦や水雷艇への抑止の意味合いが大きく、必要以上の射程は測距儀と射撃式装置の性能から成さ れるない。無駄に射耗するならば、懐に飛び込んでの砲戦に持ち込むというのが通例である。
これ以上の俯角は必要ない。
砲弾を真上に近い位置に撃つ意味と意義。
垂直落下の効果は、駆逐艦の艦砲では限定的である。何より測距儀と射撃式装置は、そうした射撃に対応していない。
空に砲弾を撃つ。相手は限定される。
「航空騎か……対空戦闘に流用できる、と?」
レージンガーの答えに、アンシュッツが目を丸くする。
粗暴な駆逐艦乗りが、少ない要素から推察できるとは考えていなかったという表情である。
手元に残った小葉巻の一本に、銜えていた煙草の先端を押し付けて火を灯すと直接息を吹き掛ける。赤く加熱する小葉巻の先端を確認して、レージンガーは銜えた。燃え上り難い小葉巻を相手にする知恵である。
アンシュッツが気を取り直して紫煙を吐くと、言葉を重ねる。
「皇州同盟軍によって航空騎による大規模な対地攻撃の有効性が示された。そして、中都市一つを焼失させた大型騎による絨毯爆撃。政府からすると恐怖です」
「皇都空襲か。確かに北部の航空基地からなら不可能な距離ではないな」
オスロスクを爆撃した大型騎の航続距離は容易に逆算できる。皇都空襲は可能であった。
もし、政府や中央貴族と皇州同盟の連携体制が崩壊した場合、双方はこれ以上の被害増大を意図して短期決戦を志向する可能性が高い。政治中枢を一撃で葬る 皇都空襲という一手は、自国の他地方全てを敵に回すであろう一手でもあるが、皇州同盟軍……サグラギ・トウカがそれを躊躇うとも思えない。
「政府は国内戦によって失墜した国威を再び失墜させる事を酷く恐れています」
「戦艦が航空攻撃で撃沈される可能性か?」
戦艦は国威の象徴である。海上に於ける国威の体現者。それが戦艦である。
内戦に於いては魚雷戦の結果として戦艦二隻と巡洋戦艦一隻が戦列か喪われた。駆逐艦乗りはその偉業に打ち震えたが、政府には恐怖っだったはずである。この上、北部の生み出した新機軸の兵器でも戦艦が撃沈される事となれば、海軍力の低下を自ら世界に喧伝するに等しい。
北部と《ヴァリスヘイム皇国》。
戦力は後者が圧倒的優位にあるが、同時に護るべきものが余りにも多い。前者はその点を踏まえた戦略を有し、尚且つ後背を衝くことができる兵器を幾つも有している。故に政府は怯え、海軍軍令部もまた既存の主力艦損耗を恐れた。
「皺寄せだなぁ……。海軍には影響ないと思ったんだけど」
芳醇な香りを燻らせ、レージンガーは天を仰ぐ。決して殴り飛ばされて海へと転落したハイドカンプから視線を逸らした訳ではない。
「地上用の対空砲も転用して増設する様です。しかも、皇州同盟傘下の企業によって製造された対空砲ですよ。もう艦政本部も何が何だか」アンシュッツは両手を軽く上げて肩を竦める。
航空優勢の原則を発見し、利用した皇州同盟軍に恐怖を抱き、政府は皇州同盟傘下の軍需企業で製造された対空砲を用いて要衝を空の脅威より護ろうとしていた。海軍の主力艦もまた同様である。
「仮想敵の武器を転用して備えるのか……まぁ、委細承知した。艦長は何とか説得してみよう」
勿論、喧嘩で身体を動かして鬱憤を晴らしたであろう後に、であるが。
「だが、対空砲として設計されたとは聞かないが……。当たるのかい?」
「さぁ? ただ、艦艇とは桁違いの速度で三次元機動する水雷艇よりも小型の目標相手を、貴官は火砲で叩き落とせる自信はありますか?」
レージンガーには全く自信がない。落とせるはずもない。
測距儀から上空を見上げられるはずもなく、複数の目標が迫りくる中で正確に優先順位を決めて攻撃できるのかという疑問と、そもそも上空を見上げる事が構 造的に叶うのかという疑問が出てくる。射撃管制装置も対空用であるとは聞かない以上、対空射撃は砲手の勘によるところが大きいのだろうと、レージンガーは 眉を顰める。
つまり、数を撃つ事で命中率を稼ぐしかない。
これからの時代、戦闘艦は徐々に針鼠となる運命であった。
「しかし、海軍にまで影響があるとは。その上、対空砲は北部で製造しているのか」
「周辺の射撃管制装置や砲架、機構は幾つもの特許で固められて後手に回ったんです」
内戦で海軍は一度、海戦によって敗北したが、それ以外の戦闘は皆無であった。
海軍は内戦に於いて被害を受けたものの、陸軍の様に凄惨な戦闘に巻き込まれた訳ではなく、その印象が酷く悪い訳ではない。戦艦二隻と巡洋戦艦一隻を主力 とする艦隊を喪ったものの、代わりに四一㎝砲を有する大型戦艦二隻を始めとした複数の大型艦艇が皇州同盟軍より編入されたのだ。犠牲者の問題はあれども、 艦隊戦力の上では寧ろ増大したと言える。
駆逐艦乗りは酸素魚雷の技術移転が成されなかった事に不満があったものの、皇州同盟は“現時点では”という前置きを行った為、将来的には移転されるだろうと見て期待に胸を膨らませていた。
皇州同盟軍。
二人は未だ姿を見た事もない異形の軍勢に思いを馳せた。
視界の端に窺える乱闘など気にはならない。絶対に。
ある昼下がりのフリードリヒスハーフェン軍港であった。
「帝国軍の排除と、帝国の政治機構への打撃に関する点は我々も合意しよう。だが、最近、貴官が行っている左派団体への弾圧行為は看過できない。臣民に与えられた権利である以上、これを阻害する行為は問題だ」
アーダルベルトは、中央貴族から噴出している懸念を“一応”は口にする。
現にトウカの指示と思われる北部での左派団体に対する弾圧行動は、右派団体による暴力事件や殺人事件にまで発展しており、最早、治安維持に支障が出るま でに拡大している。警務府も事を重大視しているが、北部貴族と皇州同盟は警務府による介入を嫌っており、前者は内政干渉だと抗議し、後者は警務府の治安維 持活動に対して一切の協力をしなかった。
北部での治安維持活動に於いては、警務府は徐々に締め出されつつある。
無論、皇国では貴族領毎の権限に阻害され、警務府の広域捜査が阻害される例は少なくないが、完全に阻止する構えを見せられては身動きが取れない。その上、皇州同盟は憲兵隊を増強し、事実上の軍警察化する構えを見せており、警務府は有名無実化しつつある。
トウカは、失笑を以て応じる。
「自分達が安全な場所に居続けたまま、平和だ、戦争反対だ、武器を捨てろ、平和交渉をやれと勝手な事を垂れ流し、臣民の日常を維持する為に戦っている者達を敵の如く罵る。その程度の連中を護る為に戦うなど不毛だ……軍人達は誰しもがそう思っている。特に若年の者達は」
そして、彼らを支持し、左派を弾圧するからこそトウカは確固たる地位を築く事ができる。
軍人達の不満の体現者としての立場こそ、トウカが求めたものだ。
他国と軍事衝突がない平時であれば、軍人が不遇を強いられるのはある程度は許容できる。軍人達もまた祖国が平和を享受していることを慰めに沈黙を保つだろう。
しかし、今は戦時。史上空前の動乱の足音まで聞こえつつある。
手足を縛られたままに帝国と戦い、内戦では甚大な被害を蒙った。貴族と臣民の政治感覚に対する不信感を陸海軍の軍人は抱いているのだ。現に戦友が平和主 義による軍備の弱体化によって犠牲となれば、流石の軍人達も黙ってはいない。自らのものでない無能で屍を晒す現実を受け入れるのは、死が近い職業である軍 人であっても難しい。
「だが、その自由もまた有益な思想を見い出す為の多様性の枝葉だ」
アーダルベルトの言葉を聞き流し、トウカは葉巻の吸い口を噛み切る。
――多様性? 現時点で国家に著しい不利益を齎している理想主義者共の思想が?
トウカは眉を顰める。
そんなものが役に立つ時代など永劫と来ない。国家の斜陽の言い訳にもならない戯言であった。
思想は異なる思想と衝突し、削られ、吸収する事で進歩する。規制をせずに多様性を保証する事こそが思想の発展に繋がるのだ。少なくとも彼らはそれを信じている。
今の今まで、絶対に相容れないとされたのは帝国の人間種を上位に置いた他種族への弾圧という思想のみであるからだろう。弾圧は明確には思想ではなく、種族的差異から生じた感情論に依って立つ彼らの劣等感からくるものに過ぎず、純粋に政体を論じた思想とは言えない。
馬鹿馬鹿しい。トウカの心中はそれ以外にない。長期的に見て国益を著しく損なう思想など弾圧して然るべきである。
「では、クルワッハ公爵閣下は、現在帝国で伸張している共産主義に関しても容認なさると?」
正しい対策を取らねば、表面上だけを読み取った連中が熱に浮かされた様に政治暴力主義組織を形成しかねないが、それを彼らは理解していない。
そんな彼らを弾圧するとなると、統治に於ける費用対効果の著しい低下を招く。故に早期の段階で宣伝戦による封じ込めを図るのが望ましい。
「それについては精査中だ。共産主義に関しては不明な点も多い。幾ら残虐と噂されても、それが帝国人の資質からくるものやも知れん」
彼らの嗅覚を以てしても共産主義の脅威は推し量れないのだろう。
起源や前身の思想が不明な突如として現れた謎の新興宗教に等しい共産主義。その情報を得る事は表面以上には難しく、また最終目的も額面上のものを真に受 ける訳にはいかない。労働者による特権階級の打倒……世界規模の革命など妄想の産物でしかなく、大真面目に実現しようと目論めば、全世界の権威主義国家と 民主共和制国家から経済制裁を受けるのは間違いなかった。
まぁ、詰まらない話であるが。
彼らの苦悩などトウカは理解できない。
「ならば私に聞かれると宜しいでしょう。この世界の誰よりもお答えできるものと確信しておりますが」
流布させた当人が言うのだから間違いない。
無論、これ程までに蔓延するとは考えていなかった。赤い嵐が吹き荒れるに越した事はなく、時間もない為に報告は受けていないが、それなりに共産主義という魅力的な台本を扱うだけの者達が現れたのだろうとしか、トウカは考えていなかった。
帝国が混乱し、民衆が一人でも多く土に還ればいい。トウカは、ただそれだけを願い、目的としていた。それ以外は些末な事に過ぎない。
弾圧された民衆にとって中毒性の高い共産主義思想による浸透戦略。他の主義の欠点を拡大解釈し、さも共産主義が他の主義に優越している様に補足されている悪意に気付ける者などいないだろうと、トウカは確信している。
圧政に苦しむ民衆は勿論、頭脳明晰な知識階級は、自惚れの産物でしかない自らの知能を信じて先鋭的な主義に飛び付き、優れた点を無理にでも抽出してくれるだろう。そうなれば後は容易い。共産主義に賛同する知識階級は、圧政に苦しむ民衆を見かねて賛同した人道主義者が主体となる事が想定され、彼らを無神論者や唯物主義者の思想へと傾倒させる要素も多分に含んでいた。帝国政府や貴族だけでなく、宗教勢力への打撃までをも考慮しているのだ。
トウカは机上の葉巻箱に手を伸ばそうとするが、ベルセリカに手を叩かれて断念する。臭いに敏感な彼女は葉巻や煙草の臭いを嫌っていた。
手を擦りながら、トウカは言葉を重ねる。
「彼の思想は王政も貴族も私有財産も認めていない。経済の根幹すら揺るがし、神々すら否定する。現在のこの世界の根幹を成す要素全てに刃を振り翳しているに等しい」
或いは、帝国に面している国家の中には共産化の波に飲まれる国家があるかも知れない。情勢を見るに《ヴァミリウス王権同盟》や《ガレリア立憲王国》など が最も可能性が高いものの、その二国は皇国と国境を面していない。交易も近場に産業の盛んな《アトラス協商国》がある為に限定的なものに過ぎなかった。
そう、何一つ問題はない。
「ふん……随分と詳しいではないか?」アーダルベルトが鼻を鳴らす。
品のない動作のはずなのだが、彼がすると不思議と重厚な気配が損なわれない。寧ろ、諧謔味のある雰囲気さえ加わる。こうした部分を以て求心力というのだろうと、トウカは肩を竦める。
今更隠し立てしても、自慢の嗅覚で後に気付かれることになるのは疑いない。
「まぁ、共産主義の発案は自分なので」
今更でしょう、と嘯いたトウカ。
「貴様……ッ!」
再び立ち上がるレオンハルト。忙しない方だ、とは言わない。
「我々は、状況と時期は違えども皇国の利益を図る為に立場を得た」
トウカは、立ち上がったレオンハルトを正面から見据える。
帝国内での気候悪化は、既に天象院からも報告が上げられており、アトランティス大陸自体が数年は寒冷低気圧が優位となるという結論で締め括られていた。
帝国に於ける軽度の飢饉という形で自体は表面化しつつある。
皇国は穀倉地帯を複数有し、産業と各種資源による交易規模も大きい為、臣民が餓える可能性は極めて低い。
だが、他国がそうとは限らない。
飢饉が長引き、国家体制の維持が不可能な状況に陥ると判断した場合、実力で他国の穀倉地帯を占領するというのは選択肢の一つとして有り得る。無論、皇国 がそうした立場に置かれた場合、トウカであれば躊躇なくそうする。皇国は皇国人の為に成立した国家であり、その為政者と政治機構は、状況によっては他国の 国民と権利を奪取してでも自国民を生存させる義務を負っている。
苛烈になれ。
この残酷な世界で皇国人唯一の生存圏たる《ヴァリスヘイム皇国》を護る為に。
「貴方が護るべき者は一体誰か? 皇国人か? それとも国際協調か?」
「皇国人を護る為に国際協調が必要なのだ!」
間違いではないが、常に国際協調を選択できる情勢であるとは限らず、そしてその情勢は近づきつつある。無理に協調路線に固執して不利益を被る事だけは避けねばならない。ましてや敵対的な国家との協調など望む価値はなく、元より無理な話なのだ。
寛容と忍耐をもってしては、人間の敵意は決して溶解しない。
報酬と経済援助などの援助を与えても敵対関係は好転しない。
一度、敵対して干戈を交えた敵国との友好など望むべきではない。一方の体制が滅ぶまで和解は難しい。既にそれを可能とするだけの時間はなく、また資金と労力を投じるだけの余裕は皇国に存在しない。
「止むを得ない時の戦いは正しい。武器の他に希望を絶たれた時には、武器もまた許されるものである……小官はそうであると疑いません」
未練がましく国際協調などに固執されるのは迷惑である。後々、足を引っ張られかねない。
人に危害を加えるときは、復讐を怖れる必要がないように痛烈にやらなければならない。
それを邪魔される事だけは許容できない。
帝国の継戦能力を徹底的に削ぐ。
「ふん……元より貴様が国政を左右する立場にある訳ではない。辺境で咆える事に意味があるというのか?」
――ああ、面倒臭い。
レオンハルトの咆える姿に、終始笑顔のフェンリスとアーダルベルト。
嗾けた様には見えないが、何故か不毛な会話を許容している。
七武五公の五公爵の中に在って、一人若輩の立場にあるレオンハルトの若さを笑っているのか。或いは狂った戦争屋との交渉の場を経験させようとでも考えているのか。
理想を共有できるのは、共に踊る者達だけである。一度降りた人間や敵対している者は加われない。
命が喪われても尚、続くであろう永久の輪舞曲。
それが途絶えるのは国家が喪われた時である。
彼は敵対したのだ。ならば遠慮はいらない。
「ならば何故、御前は此処にいる。野良猫。喧嘩(戦争)が望みか? 構わないぞ。貴様の領地に艦隊を差し向けてやる」
勢いよく立ち上がり、レオンハルトに視線を返す。
レオンハルトの領地は皇国東部に位置しており、大星洋に面していた。フェルゼンには劣るものの、十分な規模の商用湾岸施設を幾つも有しており、船舶によ る交易も盛んである。艦隊戦力による商用航路の遮断行動は基盤を揺るがすに足るものであった。商用航路の重要性は、マリアベルによるバルシュミーデ子爵領 進駐からも分かる。
トウカとしては公式文章に言葉が記され続けている事を忘れていた訳ではないが、だからこそ挑発に対して下手に出る訳にはいかなかった。自身を七武五公より下に置いたという事実は皇州同盟の運営に悪影響を及ぼす。
トウカは彼らにとって独裁者であらねばらないのだ。実情はどうであれ。
しかし、売り言葉に買い言葉となる展開予想していたトウカは、レオンハルトの逡巡する姿に眉を顰めた。ここで沈黙されると盛り上がりに欠ける。盛大に喧嘩別れという建前も宣伝に使えると踏んでいたトウカからすると拍子抜けですらあった。
――この程度で沈黙する? 俺の知らない力が介在しているのか?
内戦の再発に怯える。或いは水上戦力の投入に怯える。この上ない程に笑顔のフェンリスに怯える。考えれば限がないが、トウカが“艦隊”と口にした際に反応を見せたことから、水上戦力に関わる見えざる力学なのだろう。
トウカは黙って座ると思案を重ねる。
――艦隊、艦隊……皇州同盟軍の水上戦力はヴェルテンベルク領邦軍の艦隊が移籍する形で成立したが、主力の大多数は海軍に引き渡した。脅威ではないはずだが。
ケーニヒス=ティーゲル公爵領邦軍は戦艦二隻を基幹戦力とする有力な水上打撃戦力を保有しており、現状の皇州同盟軍が有する艦隊よりも遙かに質量共に優 越している。主力は重巡洋艦四隻に過ぎず、補助艦艇は多いものの打撃力に劣る。重雷装艦などの戦局を回天させ得る艦艇も存在するが、博打の感は否めない。
そうであるにも関わらず、逡巡を見せる。つまり皇州同盟軍の艦隊ではない。
ならば一体、いずれの勢力か?
神州国や帝国の海軍の可能性は低い。
皇州同盟軍の諜報では、両国の海軍は大きな動きを見せていない。主力艦隊というのは強大にして巨大な戦力単位であり、その運用にはそれ相応の準備と動員 が必要となる。物資と資金、そして人員の流れは容易に隠せるものではない。ましてや神州国は戦時体制ですらないのだ。帝国は規模から見て大星洋上での艦隊 決戦を自ら意図するとは思えない。
残る答えは皇国海軍という事になる。
規模と能力を見た場合の消去法ではそうなるが、自国の海軍を警戒する程の理由が、トウカには予想できなかった。最近では艦艇の譲渡と建造を支援する事で 急速に関係改善しつつある皇州同盟と皇国海軍だが、干戈を交えて然したる時を経ていないのもまた事実。その遺恨を乗り越えて協力体制を構築できるかと言え ば、難しいと言わざるを得ないものがある。
協力を表明する事と、隷下の部隊にそれを納得させるのは別である。後者の難易度は前者と比して極めて難しく、場合によっては組織内での軋轢となり得た。
海軍がそうした選択をすると、トウカは考えてはいなかった。
――予定されていた合同慰霊祭も帝国との戦況逼迫に伴って中止されている。表面上の和解すら言及していない以上、時期尚早だろう。
トウカは混乱の渦中にあった。
それは海軍の資金難を軽視していたからであり、海軍軍令部は一度失った練度と建造技術の低下を狂信的なまでに怖れている事を知らなかったからである。
サクラギ・トウカは知らなかったのだ。
遙かに優越する海軍戦力を隣国に持つ国家の海軍の焦燥というものを。
少しずつ推測の歯車が狂い始めていた。
人に危害を加えるときは、復讐をおそれる必要がないように痛烈にやらなければならない。
やむを得ないときの戦いは正しい。武器の他に希望を絶たれたときには、武器もまた許されるものである。
寛容と忍耐をもってしては、人間の敵意は決して溶解しない。報酬と経済援助などの援助を与えても敵対関係は好転しない。
《花都共和国》 外交官 ニッコロ・マキャヴェッリ
上記の言葉だけを見るとマキャベリは好戦的に見えるが、実際は現実主義的なだけで強権的な人物ではない。寧ろ、現実主義を顧みた結果、こうした言葉ばかりが後世に残るのだから、人類という奴は救いようがない。だからこそ大好きなのだが。