第一七二話 実務会議
トウカは緊張していた。
防寒術式の編み込まれた軍用長外套と戦闘長靴が寒風の大部分を軽減しているはずであるものの、何故か身体は酷く凍えていた。狐の尻尾が恋しくなると、トウカは一歩前のベルセリカの腰から伸びる見事な毛並みの鳶色の尻尾に視線を向ける。
背後には皇州同盟軍からは代表としてエップが、〈北方方面軍〉からは代表としてアルバーエルが同行していた。無論、周囲には護衛の鋭兵小隊が展開している。
そう、これから七武五公の三公爵と会談なのだ。
名目上は、七武五公と皇州同盟、北方方面軍による政戦統括会議という事であるが、トウカは当然、その様な御題目は信じていない。
場所は、トウカ達が立っている重巡洋艦〈プリンツ・ベルゲン〉で行われる。
水上艦という機密性に加え、〈プリンツ・ベルゲン〉自体の指揮機能増大の為に同型艦と違い、後部側主砲を搭載せずに大型の司令部施設を搭載している指揮 巡洋艦とでも言うべき存在であった。元はマリアベルの水上邸宅として建造されたそれは、前部側主砲を含めた武装を未だに搭載していたい事に加え、後に予定
されている皇州同盟軍の水上艦隊旗艦としての就役が予定されていた為、海軍への引き渡しは行われなかった。
そもそも、現時点でも艤装が終えていない事から、法令上は戦闘艦ではなく特殊建造物のままである。
湖風に揺られ、軍袴を打つ軍用長外套の端を手にしていた軍刀の鞘で押さえ付け、トウカは徐々に近付いてきた内火艇(搭載艇)を一瞥して溜息を一つ。
突然、書簡を使者に押し付けられたと思えば、中身は会談の“通達”など噴飯ものである。
予定確認もなく通達である辺りが気に喰わないが、北方方面軍司令部や皇州同盟軍司令部にも同時に発送されているとなれば、トウカの一存で会談を蹴るのは対外的な印象が宜しくない。
既に“常識的”な者達からは印象は宜しくないが、真っ当な理由もなく会談の場を蹴るというのは、皇州同盟内の有能な者達に猜疑心を抱きかねい行為となる。
理由があるならば、その行動が人道に悖り、後世の歴史家から非難されるであろうものであっても冷徹な打算と差引の上で許容し、肯定する。トウカの求める人材とは、その様な人材である。無論、その判断基準が国益第一であるならば尚好ましい。
トウカの人材に対する評価基準とは、詰まるところはそうであった。故に自らもそう在らねばならない。
ベルセリカの言葉がトウカの意識を現実に戻す。
「約定無視の帝国領内への戦略爆撃を詰られるるで御座ろうなぁ」
ベルセリカは朗らかな、それでいて男装の麗人の佇まいを裏切らない嗄声で、背後のトウカを笑う。あまりにも自然体な物言いである為に、皮肉を返すには気後れする部分がある。
「……あの約定は、帝国軍部隊への航空攻撃と規定されている。都市への戦略爆撃は此れに当たらない」
中々に穿った公式見解である。
目標に選定したのは、各都市に併設された補給拠点なので、実際、都市への攻撃は副次的なものに過ぎない。その地域に展開している戦力が”巻き添え”となるのは不慮の事故に過ぎない。
無論、他の目的もある。
帝国の数少ない航空戦力を誘引するという目的である。
――大いに困る。帝国の航空戦力が逐次投入されるというのは。
つまり撃墜や地上撃破に拘らず、一撃で殲滅できる状況が必要となる。それに成功した場合、皇国との国境に航空戦力が集中する事で、今以上に帝国の領空に空白が生じるだろう。
「まぁ、戦略爆撃だけが我が軍の手札じゃない」
世界初の空母機動による大規模空襲と渡洋爆撃を敢行した祖国の英雄、真田中将の模倣となるが、彼の一族と桜城一族は知らぬ中でもない。桜城一族は扶桑之 宮家を、真田家は織田家を守護してきたからこそ、その関係は戦国時代から継続している。恐らく靖国で無精髭を撫でて呆れているに違いないが、鷹揚に認めて
くれるに違いなかった。若しくは、死後に出会えば不備を指摘されるかも知れないとすら、トウカは期待している。
考えるだけで気が逸るものがある、とトウカは苦笑する。
それを余裕と見て取ったのか、ベルセリカが背後のトウカに視線だけを投げて寄越すが、トウカは苦笑を深めるに留める。
既に七武五公が搭乗した内火艇は、〈プリンツ・ベルゲン〉の右舷に下ろされた舷梯に迫りつつあり、左舷甲板上のトウカからは窺えない。巡洋艦と言え、戦艦に準ずる戦力である重巡洋艦の船体規模を考えれば、舷側の全高がそれ相応であるのは当然と言えた。
トウカは襟元を正し、佩刀した軍刀が音を立てぬ様に配慮する。内心はどうであれ、公式の場で“理由なく”儀礼を欠かす訳にはいかない。
金属製の 舷梯を澱みない足取りで歩いているであろうことを窺わせる規則的な足音が響く。
そして、厳めしい面構えをした神龍が現れる。
後に続く神狼と神虎の佇まいは、まさにヒトの上に立つに馴れた気風を感じさせる。
姿勢を正して敬礼するベルセリカ。
トウカも続いて敬礼し、周囲の鋭兵を含めた将兵も続く。艦長や手空きの士官やへ士官、水兵もまたそれぞれの持ち場……主砲塔上や高角砲座や機銃座から直立不動で敬礼を見せていた。
対する七武五公は鷹揚に頷くに留まる。
各々が各領邦軍の階級を有しているが、今この場に在っては貴族として訪問したと示す為の動作なのか、或いは横柄な態度を以て立場を明確にしようと周囲に印象付けようとしているのか、トウカには判断が付かない。
「御待ちしておりました、クロウ=クルワッハ公爵殿。艦外では其方の御嬢様も身体に響きましょう。中へ」
ベルセリカは、アーダルベルトの一歩後ろに控えた巫女服に千早を纏い、何故か戦闘長靴という出で立ちのアリアベルを見て取ると艦内へと彼らを促す。
困り顔をして見せたアーダルベルト。彼にとってもアリアベルの存在は予定外のものである、と存外に示している。
一瞬の逡巡を見せたベルセリカの言葉を引き継ぐ様に、トウカは一歩と進み出る。ベルセリカは、アリアベルの是非をトウカに求めたのだ。
「構いません、公爵閣下。大御巫は我等、皇州同盟の盟主にあられます」
名目上の盟主であるが。
アリアベルは自らの就任を征伐軍の成果だと神祇府に主張し、トウカは新たな主君の就任を神祇府の宗教的後ろ盾を得たと皇州同盟に主張する。前者は後者の 軍事力と経済力を頼り、後者は前者の政治力と宗教心を恃むという関係に過ぎず、二人は今後について然したる議論を交わしてすらいなかった。
この際、アリアベルも交えてしまう事に異存はない。
トウカは、そう判断したからこそ一歩進み出た。
北方方面軍司令官であるベルセリカの横に並び立つ事で、皇州同盟の立場をこれ以上ない程に示す形となる。
「大過なく過ごしておられる様ですね、軍総司令官殿。活躍は耳にも届いております」
花の咲く様な笑みで、トウカの手を取ると無邪気に喜びを露わにするアリアベル。
純粋に後ろ盾の隆盛を喜んでいるのか、或いは背後の父への当てつけか。判断に迷うところである為に、トウカは曖昧な笑みを張り付けて頷くに留める。
アリアベルはトウカの手を離さない。
先導しろという視線に、トウカは一礼を以て応じる。
アーダルベルトを直視することを避け、アリアベルの手を取るが、艦内へと進むトウカの背中には、鋭い視線が突き刺さり続けていた。
「………………怒ってはおらんぞ?」
アーダルベルトのそんな呟きに、フェンリスは肩を揺らして笑いを噛み殺すしかない。
品の良い落ち着いた調度品に囲まれた会議室は、とても戦闘艦とは思えないが、マリアベルの趣味だと聞けば納得せざるを得ない。
対面に座るベルセリカとトウカに聞けば、この重巡洋艦〈プリンツ・ベルゲン〉は艦隊のみならず戦線の戦闘指揮を一手に担う事のできる統合指揮艦であるらしく、対艦攻撃能力を抑え、指揮能力と司令部設備を増強した艦である様であった。
――なるほど、フェルゼンでの市街戦も当初から視野に入れていたという事ね。
これからは、こうした艦も必要になるだろうと、フェンリスは喉を鳴らす。
海軍は海洋上での航空作戦の可能性を探っており、場合によっては航空戦力による対地攻撃支援の可能性すらある。作戦行動範囲の拡大と、作戦行動に於ける瞬間的な判断……それらに対応する為、指揮に特化した艦艇が必要になるのかも知れない。
裏を返せば、手元に〈プリンツ・ベルゲン〉を残している皇州同盟は、海洋での航空作戦に対する野心があるとも取れる。
七武五公の目的は、トウカの軍事行動の掣肘もあるが、それ以上に、秘匿されている技術情報の公開を目的としていた。戦乱によって多くの情報が曖昧となっ ているが、皇州同盟にはヴェルテンベルク領邦軍の多種多様な分野の技術が写されており、中には看過しかねるものも少なくない。
最たるものは、開発が進められているであろう噴進兵器である。
そして、最近、間諜が入手した化学兵器の存在が、この会談を実現させた最大の理由である。海軍の態度硬化など然したる理由とは成り得ない。予算編成を行う貴族院を事実上、影響下に置いている七武五公からすれば致命的なものではなかった。
技術的な優越は、特許による北部企業への過度な商業活動の優越を齎した。皇国内の企業間を取り纏める経済連合も特許使用条件の緩和を申し出たが、その特許の総てを握っている皇州同盟はこれを議論する事なく拒否している。
この僅かな期間で、商業活動の均衡が損なわれたのだ。それ程の技術を彼らは腹に幾つも抱えている。
そこに皇州同盟の財力による企業買収が有力企業や大手銀行を襲った。賄賂に恫喝……あらゆる行為を専門家とも言える情報部によって行う皇州同盟。
七武五公は皇州同盟の現在の方針が、皇国内の商業活動の主導権獲得と、優越した技術による新兵器で他国を含めた政治勢力を射程に収めることであろうと予測していた。
近代国家の弱点を、トウカは手中に収めようとしている。
金銭の流れを掴むことは、国家に所属する大多数の者達の生活水準を左右するに等しい。
皇権を持たぬ者が、それを実現するのは在ってはならないのだ。
だが、フェンリスを含めた七武五公……如何なる貴族も理解していなかった。
経済という戦争を。それに暴力すらも添えて誘導するトウカの恐ろしさを。
故に後手に回った。
大蔵府と有力企業の悲鳴が伝わった時点で、一部の有力企業は皇州同盟傘下となる書類に調印をしていた。周到な事に、その宣言を行うのが半年後と規定されており、話題として世間を賑わせる段階でなかった点も大きい。
複数の株式会社が、互いに相手の発行済株式を相互保有している企業は、その工作の難しさから介入される事はなかったが、個人経営や一族経営……個人や少数が経営権を握っている企業は脆弱であった。特許使用料の緩和や無料化という餌に抗えなかった者も少なくない。その者達は、後に経営権を買い戻せばいいとでも目論んでいるのかも知れないが、トウカがそれを許すはずもない。
――私達は、この小さな独裁者と付き合っていかないといけない。
傾いた経済を立て直し、祖国を取り巻く現状を打開する為に。
だが、彼の意思の下で産業界や財界の再編がなされる事はあってはならない。
過度に軍事力を信奉する彼に、それを維持し、増強する財力と技術を与えてはならない。トウカの下での政治と軍事の結合を七武五公は警戒していたが、トウカは彼らより上手だった。
軍事力と財力、技術力の結合。
直接的な政治力を持たない故に国政を左右する事ができない様にも見えるが、財力は貴族院議員と衆議院議員を問わず惑わし、軍事力は恫喝の手段ともなり得る。
確かに、軍事は政治に隷属するかも知れない。
しかし、政治は経済に隷属する。
だからこそ経済を左右する財力の確保を、トウカは目指しているのだ。
故に、彼に掣肘を加えねばならない。軍事力だけでなく財力にも。
その為には、トウカに辺境伯の爵位を与える事すら視野に入れている。
領主不在の領地の中に然して目ぼしい領土がない点に難色を示すかも知れないが、奥の手は存在する。
エルライン回廊の先、帝国領南部の一部を領地に指定すれば良い。
現在は不当に占領されているという建前の下、“奪還”できたならばそれで良く、領地である以上、トウカは義務を負う事になる。
領地防衛という義務である。
常に強大な帝国と国境を面する場合、その圧力に晒され続けるという事でもある。エルライン回廊とは違い、防衛目標が地政学的に“点”ではなく“線”である以上、膨大な兵力が必要となる。
彼は全力で義務を果たすだろう。マリアベルの下では、手段に問題があり過ぎたものの義務だけは十全に果たしていた。
トウカが新たな領地で消耗している間に、皇国は経済を立て直し、国軍を増強する。
その後は、国軍が国防の総てを担えばいい。無論、防衛の難しい新領地など最終的には放棄する。希望する住民は人口が減少している北部に移住させればいい。
隙のない計画と言える。
立案したのは自身であるが、その悪知恵には呆れるしかない。アーダルベルトとレオンハルトは乗り気だが、トウカは乗らないだろうとフェンリスは確信していた。
強硬姿勢を取るトウカは、外部に新領地を得られるという話題が皇州同盟内を席巻すれば、トウカは独裁者の人気商売であるという宿命に逆らえず受け入れる しかなくなる。彼は皇州同盟という右派組織を常に満足させ得る指導者である様に振る舞っており、それこそが弱点と言えた。
だが、彼らの結束は未知数だ。
一度、トウカの下で勝利を掴んでいる以上、トウカにとって宥めるのは難しくないのかも知れない。ましてや帝国の諸都市を灰燼と帰す手段を有している以上、フェンリスの斜め上を行く戦略を以て軍事力による現状の打開を選択するかも知れない。
トウカは追い詰められると何をするか分からない怖さがある。
結局のところ、戦乱の時代に在っては、自らの意思を貫き通す為に軍事力こそを必要とする。
力こそが“正義”となり得ると言えば誤解を招くが、強いて言うなれば、力によってこそ他者に自らの“正義”という名の基準を押し付ける事が叶う。
彼は何よりも力の信奉者なのかも知れない。
アーダルベルトと際限のない腹の探り合いをしているトウカの横顔を一瞥し、フェンリスは彼の行く末に思いを馳せる。
その最中であっても尚、トウカとアーダルベルトの言葉の鍔迫り合いは熾烈を極めている。
敵国とは言え、非戦闘員を大規模に殺害した点を詰るアーダルベルトだが、トウカは反省する姿勢など露ほども見せずに、寧ろ胸を張る。
「自分は戦争屋として敵に死を強制するを愧じた事などない。例え、それが敵国民であっても例外足り得ない」
狂っている。それを堂々と言うのか。気違い沙汰甚だしい。
だが、だからこそ勝利する。
《ヴァリスヘイム皇国》と《スヴァルーシ統一帝国》は国交を締結していない事から法的な問題はなく、明確な実行力を有した国際的な枠組みもまた存在し得 ない。国家間の法は彼を否定する要素足り得ないのだ。ましてや、帝国本土爆撃は、国家間の法の盲点を突いたものであり、そもそも航空攻撃を想定していな かった。トウカにとって、その間隙を突くのは児戯にも等しいものであった事は疑いない。
「第一に、航空攻撃は敵野戦軍ではなく兵站への攻撃を意図したものであり、都市部への延焼自体は不測の拡大の延長線上に過ぎない。寧ろ、帝国政府の防災意識の欠如こそを非難すべきでしょう」心底呆れたと言わんばかりの表情で嘯くトウカ。
恐ろしいまでの強弁である。
良く回る口であった。
フェンリスも口先には自信を持っているが、トウカ程に性質は悪くない心算であった。少なくとも、軍事力を背景にした露骨な暴力の肯定はしないし、後世に遺恨が続くであろう行動を避けるだけの長期的視野は有している心算である。
――いえ、勿論、若さ故の過ちもあったのだけど……
眼前で眼を閉じ、腕を組む無言の剣聖。
フェンリスとベルセリカの軋轢。否、正確には政治闘争の末の遺恨と言える。
今にして思えば、ベルセリカの当時の主君はトウカに匹敵する食わせ者であったと、フェンリスは今にして思う。
一命を以てして七武五公を騙し遂せ、皇国を望む方向へと誘導したのだ。
そして、ベルセリカという一騎当千の宿将を遺した。
今、その宿将を隷下に加え、男が再び皇国の進むべき道を決めようとしている。
遙か昔に退けた共に歩む道か。
遙か昔に受けいれた茨の道か。
フェンリスは選ばねばならないのだ。
「そろそろ、腹を割って話せ。些か飽いた」
アーダルベルトの直接的な物言いに、トウカは苦笑を零す。
履歴だけを見れば、アーダルベルトの政治活動は特筆すべき点も多い。大多数の民衆が愚かでいて自己を顧みる精神を持ち合わせてないという事実を踏まえた上で行われている政策は、その内容を目にすれば容易に読み取れる。
詰まるところは現実主義者。人格的には信頼できないが、政戦の上では信用できる。
民主共和制国家に於ける敗北の原因が、主権者である馬鹿な国民に帰依するのは疑いないが、それを軒並み処断する訳にも行かず、大抵は有耶無耶になる。軍事組織や行政に責任を押し付ける事で自己正当化するが、専制独裁制国家の場合は責任の所在が酷く明確である。
だからこそ、信用の置けない者を排斥する際の行動は過激になる。
その切っ先を突き付ける相手が明確に定まるという事実は、往々にして苛烈な行動を生む。
時折、不特定多数の国民を過度に統制しようと挑戦する国家もあるが、それは往々にして反発を招き、反動的な勢力を形成させてしまう。国民は統制するものではなく、誘導するものなのだ。
だからこそ、アーダルベルトが少なくとも無能でない点は救いであった。トウカとて国家を二分することは避けたいのだ。
その為には言い訳がいる。
「あぁ、やはり……お怒りで?」堂々と胸を逸らして応じるトウカ。
疾しい事など何一つないと胸を張る。
アーダルベルトは溜息。
フェンリスは苦笑い。
レオンハルトは激怒。
七武五公と言えど、その性格は大きく違っている。事前の意見の擦り合わせには苦労しているかも知れない。多様性は時として統一した行動を阻害する。
「貴様ッ! 敵国とは言え、軍事行動に関係のない民間人を虐殺したのだ! これでは我が国の心象に差し障るんだよ! 分かるか、糞餓鬼!」ノルンヴァルト樹の机に掌を叩き付けて立ち上がるレオンハルト。
勢い良く立ち上がった反動で椅子が倒れ、その音に横に座しているアリアベルが身動ぎをする。居心地が悪いのだろうが、神龍に転化したアーダルベルトに生 身で立ち向かった影響か、酷く恐怖心が磨滅していた。否、或いは投遣りになっているのかも知れない。若しくは、捨て身で戦い続けたマリアベルの癖でも染み 付いたのか。
脳味噌にまで筋肉が詰まっているのか、とトウカは鼻で笑う。
「約定は、厳密には帝国の野戦軍に対する航空攻撃を禁止するというものです」
そう、決して帝国に所属する総ての集団に対する航空攻撃を禁止した訳ではない。
レオンハルトの口にした心象に問題に関しては右から左へと流し、約定に抵触しないと嘯くトウカに、フェンリスが笑みを深める。言葉を伴っている訳ではないが、何故か背筋に短剣を押し付けられたような感覚に陥る。
「我が航空隊が攻撃を加えたのは兵站施設であり野戦軍ではない。そもそも、我が軍の公式見解としては、帝国の三都市が灰燼に帰した理由は帝国の勢力による隠蔽工作にあると考えている」
放言に等しいが、公式見解を強弁するのは武装集団の華である。
もし、あなたが十分に大きな嘘を頻繁に繰り返せば、人々は最後にはその嘘を信じるだろう。そう嘯いた宣伝大臣がいたが、自らが提唱した真実を世界に周知させるには、何よりも最後に自陣営が生き残っていなければならない。
だから真実を作り上げる。何よりも生き残る為に。
生き残るには真実を作り出さねばならない。
「彼らは後方を攻撃されたという事実を、事態をより大規模にする事で有耶無耶にしようとしたのかと。兵站施設でなく都市を攻撃したとなれば我が国を非難する材料ともなり、横領などの不都合な証拠を隠滅できる」
帝国の腐敗は貴族だけでなく、軍も同様の様子、とトウカは嘆かわしいと言わんばかりの表情で首を横に振る。
「元より我が軍の航空隊の主目標はエカテリンブルクの女帝が居城であって、他は攪乱程度の攻撃に過ぎません。中都市が完全に灰燼に帰すなど有り得ない」
事実は望みのままに。
戦略爆撃に参加した〈第七二一戦術爆撃航空団(TKG 721)〉は、皇州同盟軍の中でもトウカ直卒の戦力であり、その内情は秘匿されている。航空攻撃 の趣旨など、何とでも捏造できる上に、直前でクレアによる作戦の一部変更もあった。曖昧な現場判断の連続は、真実を容易に覆い隠す。
政治的局面が新たな段階に進めば、過去の悲劇など重視されなくなる。それまでトウカの見解を真実であると押し通せばいい。それが政治である。
「そう、これは帝国軍による民間人を巻き込んだ卑劣な証拠隠滅なのですよ」
最早、何を言っているんだ御前は、という有様だが、帝国という孤立した強権国家の国内事情の悲惨さと、皇国という諸外国との協調路線を取ってきた魔導国家の見解では、明らかに後者を世界は選択する。
「皇国を非難する材料として、帝国が自国民を虐殺した。それが真実です!」
なんという卑劣!、と立ち上がって続けてみるが、アーダルベルトは白けた表情で、レオンハルトは血管の詰まりを心配したくなる程に顔を赤くして震えている。
トウカの言わんとしている事を察したのだ。
つまり、トウカの見解を皇国の公式見解とする必要があり、その為に七武五公が働き掛ける事を暗に求めているのだ。公式の場である為、書記官が記録を取っ ている事もあり、迂闊な発言はできない。レオンハルトの糞餓鬼発言も中々に危険であるが、彼のそうした発言は政治上では恒例行事らしく、今となっては咎め る者もいなかった。
尚も食い下がるレオンハルト。
「め、滅茶苦茶だ!」
「全くです、帝国の遣り方は、滅茶苦茶以外の何ものでもありません」誠に遺憾です、と続けるトウカ。
トウカの所業に対する非難であったのであろうが、素早く帝国の非道である様に言葉を重ねるトウカ。立ち上がろうとしたレオンハルトをアーダルベルトが肩を掴んで椅子へと押さえ付ける。残りの腕も切り落としておけば良かった、という感情がトウカの脳裏を過ぎる。
「皆様方は、小官を疑っておいでですが、虚偽であるという証拠は御有りでしょうか?」
文句があるなら証拠を出せと言わんばかりに横柄に胸を逸らす。国家社会主義者を見習って交渉の場に将軍を同席させるという真似をしているのだ。トウカがベルセリカに視線を向けた意味を察したレオンハルトが黙り込む。
どの道、皇国政府が事実を公式見解とすれば、今まで積み上げてきた国際的信頼を失う事になりかねない。利益もない真実を求める程、皇国政府が夢見がちではないのは内戦の対応を見ていれば理解できる。
アーダルベルトは笑声の滲む声音で応じる。
「探せば見つかるかもしれんな?」
「労力の無駄使いかと。それよりも防諜活動に力を入れた方が宜しいのでは?」
すかさず返したトウカに、フェンリスが肩を竦める。
だが、トウカはここで止めを刺しにかかる。
「もし、万が一。小官の忠勇なる戦争屋達が民衆の虐殺に加担していたとして……それを皇国は公式見解として認める事が可能ですか?」
元より選択肢などない。
トウカは皇国の信頼を人質に、彼らに状況の正当化と隠蔽への加担を求めた。
罪は皆で共有してこそ意味があり、正当化が容易になる。
世界有数の軍事国家が政治暴力主義に晒されたとしても、単独で武力行使を行わないのは、国際世論による支持の取り付け、自らの武力行使を正当化する材料とする為に過ぎない。
一度、罪を共有したならば同罪である。
敵対行動には常に危険性を伴う事になり、それは時を経て罪を重ねれば重ねる程に増大する。そして、気が付いた時には共に相手の失点を握り合う事になるのだ。
「……それを世界が信じると?」アーダルベルトの興味深げな声音。
彼は未だにトウカの本質を掴み切れていないのかも知れない。トウカ自身としては、自身はこの世界の限界に挑戦しようとしている戦争屋に過ぎないと考えていた。しかし、周囲が、世界はそうは考えていない。齎した軍民問わない技術と戦闘教義を数多く短期間で齎したトウカの目的を推し量ろうとしていた。気の早い極右団体などは、「共に皇国に軍事政権を!」とまで押し掛ける有様である。
誰も彼もがトウカの本当の最終目的を推し量ろうとしているが、平然と建前を幾つも用意して欺瞞と擬装を使い分ける彼の目的を推し量るのは難しい。
そして、辿り着いたとしても尚、それが真実であるかの確証がない。
だからトウカは試され続ける。
それをトウカは否定しない。ヒトの上に立つという事は試され続けるという事であり、特に軍事指導者となれば尚更である。
故にトウカは真実を口にする。どの道疑われるのであれば、何を口にしたところで同様である。
「もし貴方が十分に大きな嘘を頻繁に繰り返せば、人々は最後にはその嘘を信じるかと」
ここもまた宣伝大臣を見習うべき場面である。
真実などというものに拘り、国益を損なう真似を彼らはしない。だからこそ与し易い。
「いずれ起きるであろう戦争……世界大戦――」
大法螺吹きの話題として、世界規模の戦争というのは中々に皮肉が聞いている。
だが、発生すれば皇国は必ず巻き込まれる。資源地帯としても穀倉地帯としても工業地帯としても有望であるからであり、周辺諸国の全てが潜在的脅威と成り得る要素を備えている。
「真の決戦戦争の場合には、軍隊などは目標にならない。最も弱い人々、最も大事な施設が、攻撃目標となるのです」
例外なく死を振り撒く、ある意味に於いては残酷なまでに平等な戦争が将来的に必ず発生する。
「予行演習が重要でしょう。敵国の工業力と人口を直接削り、国力を減衰させる手段の」
戦略爆撃に無制限潜水艦戦、飢餓輸出、分断統治、民族浄化……ありとあらゆる手段を駆使して帝国の国力を削ぐのだ。無論、皇国が直接手を汚すことは好ましくないが、手を汚す事を厭う者は、手を汚すことを厭わぬ者に敗れ去る以上、手を拱いて戦機を逸する訳にはいかない。
「無論、民意にも配慮します」
誘導するという表現がより正確であるが、その辺りは為政者からすると同義語に近い。寧ろ、それができない為政者を仰ぐことは民衆にとって最大の不幸となり得る。
「中央貴族に配慮しなかった貴様が、民衆には配慮すると? それは喜ばしい事だ」アーダルベルトの唸るような声音。
トウカの配慮が意外だったであろう事は疑いないが、同時にトウカと民衆の結合を危険視しているのかも知れない。人間種に過ぎないトウカが、高位種や中位 種の独壇場と評して差し支えない国内政治の舞台で舞い踊る姿は、多くの低位種に新たな価値観を与えた。トウカによる扇動に応じる可能性を警戒しているのだ ろう。
無論、場合によってはそれも有り得るが、それは国内の武装勢力の大多数を影響下に置いてからでなければ国を割るだけになりかねない。
トウカは、当然の如く胸中の感情を吐露する。
「私は知っているのですよ。民意という暴君の恐ろしさを」
彼らは為政者にとって慈しむべき対象であるが、同時に警戒すべき対象でもある。
「“俺”は軽蔑します。自身を善人であり正義だと信じて疑わず、風潮に流されて目に付いた目標を揃って叩く、そんな善良で浅ましい民衆達を。不特定多数による無貌の独裁者など在ってはならない」
民主共和制を至上の政治体制と嘯く者も少なくない。
だが、トウカはそうは思わない。最も主権者が責任を取らない卑怯で卑劣な政治形態でしかないと考えていた。
民主共和制など偽りの名称に過ぎない。
あれは国民帝国主義と言う。
野放図で感情的な大多数という隠れ蓑に潜み、責任を取らず流されるままに感情を叫ぶ主権者が導く国政に、民主共和制という名称など似合わないし、不釣り合いである。国民帝国主義とでも称するのが正しい。
ヒトは自己を顧みる度胸も無ければ、反省をする誠実さを持ち合わせてもない。
それは法や世論という外圧によって強制されるに過ぎず、回避できる術と建前があれば民衆は必ず逃れようとする。そして、逃れる術がなければ風化させるだけである。
個人が聡明でも、不特定多数となった瞬間、その意思……民意は劣化する。それがヒトという生物の脆弱さであり、本質に他ならない。
「……世界大戦……それが貴様の最終目的か」アーダルベルトは溜息を一つ。
「言葉は正確に御願いしたいものです。世界大戦は連鎖的な戦火の拡大による世界規模の軍事衝突に過ぎず、私が故意に起こす訳ではありません」
だが、彼も実際は気付いているのではないのか?
七武五公は世界大戦という言葉に対して然したる反応を見せない。それを当然のことのように既定事項として振る舞っている仕草すら感じられた。
「激動の時代です。これから世界の秩序が喪われ始めるでしょう。歴史の分岐点に直面するとも言えますね」
「気配はどことなく感じていた。《エルゼンギア正統教国》の強引な教化政策に、《ローラシア憲章同盟》の苛烈極まる植民地政策……どれもが諸国を揺るがす火種足り得るだろう。そして、それだけでは終わるまいな」
気配、気配ですか。それは大いに宜しい。
トウカは哄笑を零す。
彼らは経済の各種数値や状況の推移ではなく、肌や嗅覚……感覚で察しているのだ。
宮廷政治の側面もある皇国政治の中で、長きに渡り実権を輔弼してきた手腕は伊達ではない。政治的な危機を気取る嗅覚というのは、政治的駆け引きを何百年と繰り返していたからこそ勝ち得た特技なのだろう。人間種には不可能な芸当である。
「そう遠くない将来、世界規模の戦乱が起こるでしょう。それは共和制と独裁制という思想から生じる単純な戦争ではなく、世界の主要国家が幾つかの陣営に分かれて行う大規模なもの」
トウカは確信している。だから語らねばならない。
彼らが事実だと判断すれば、少なくとも背後から刺されるという事態だけは避ける事ができると踏んでいた。
トウカは、これからの世界情勢への予想を口にする。
近年の魔導技術と工業技術の結合は、産業と軍事、経済に大きな変質を齎し、政治体制や以前までの常識の根幹とされていた思想や宗教を遙か歴史の彼方へと追い遣ろうとするだろう。
急速に発展した通信技術の向上は民衆の知識の深化と共有を実現し、輸送面では人や物資の輸送時間を短縮する。それは、桁外れの規模の生産力を世界に齎 し、各種輸送手段の輸送量向上はマルサスの限界の上限を跳ね上げるだろう。結末としては、食糧の再分配能力向上は人口増加を招く。
結果、発生するのは各種資源の史上類を見ない大規模消費に加え、急激に過ぎる人口爆発。
その先に表面化する事態は明白。
不足する鉱物資源、魔導資源、人的資源……各種資源の囲い込み。市場経済による争奪戦。結果として起きるのは、各種資源や消費需要の流出を避ける為の陣営による孤立主義政策である。
その結果が如何なるものであるかは、トウカの歴史から見ても明白である。
大国群……列強が資源を求めて荒ぶるのだ。特に資源の囲い込みや植民地の確保に失敗した国家は軍事力による現状の打開に熱中し、積極的な軍事行動が行われるだろう。植民地を求めて国家という化物が地図上でのた打ち回るのだ。
その失敗は経済に影響し、国家間の経済格差は内政問題へと発展する。国内問題から民衆の批判を躱す為、或いは更なる利益を得る為に各国は軍拡を始めるだろう。
無いならば、欲しいならば他国から奪えばいい。
そして、不利益を齎す国を征服せよと民衆は叫ぶ。
だが、既に戦争という消費行動は新たな段階へと進んでいる。
世界は進歩した科学技術と、総力戦が齎す経済と国土荒廃の規模と現実を知り得ない。挙げ句に人工増加で人的資源は潤沢にある。
騎士道精神の時代は完全に過去のものとなり、国家のあらゆるものを恐るべき速度で消費して潰し合う総力戦という名の地獄の釜が待ち構えている。世界はそこに勢い良く飛び込む。焼け死ぬとも知らず。
効率的に、組織的に行われる消耗戦、特に国土が直接面していれば血みどろの戦いになるのは疑いなく、人口比に深刻な被害を齎す程の人的消耗すら見られるだろう。
一つの世代が国家から失われかねない戦争を世界は経験する事になる。
明確な形で火蓋を切るのは、史上類を見ない大不況。
技術の進歩によって加速度的に増大し続けた生産力が突如として不要であると認識された瞬間。工業力と労働力、株が投げ売りされ、人々は忽ちに路頭に迷 う。連鎖的な株式の売却は狼狽売りに発展し、株価に引き摺られた企業が次々と倒産。膨大な数の労働者が職を失い、治安の悪化と急進的な主義主張が朝野を覆 うだろう。
技術発展により経済関係が一層と深化した国家群は、当然ながら世界中で連鎖するそれの影響を受ける。近代に入り急激に増大した株式市場と、通信による情報伝播の迅速化は、衝動的な混乱と狂騒を酷く助長させるはずであった。
その初めて相対する苛烈な揺り戻しの前に各国の政府は有効な手段など取り得る筈もない。程なくして大恐慌に陥る。
行き着く先は世界恐慌。
生じる問題は無数。
失業率の増加と、犯罪発生率の増加、政治闘争の激化、国境紛争の頻発。
各国は混乱を収拾しようと強力な指導者を求め、強大な権限を有した独裁職を成立させるだろう。
彼らは現状を打開する為に軍拡と戦争を繰り返す。
そして、遠くない未来、世界大戦が始まる。
年中、戦火が絶えないアトランティス大陸が世界大戦の引き金となる事はないだろうが、その影響が及ぶのは間違いない。複数の陣営が入り乱れ、代理戦争の舞台となり得る可能性とて有り得る。
「世界は今までの繁栄に相応しい対価を、必ず何かしらの事象を以て要求するはずです」
それが世界大戦である。
大戦が終結すれば、勝者は甚大な消耗を補填する為、敗者から過剰な搾取を行うだろう。次の世界大戦の引き金の一つとなるとも知らずに。
半世紀は戦争に困らない。
その中で皇国がどれ程の利益を享受できるのかは、或いは滅亡して搾取されるかは、この場にいる者達の手腕に掛かっている。
「さぁ、共に戦火の舞台で踊るとしましょう」
トウカは手を差し伸べた。
四人の公爵達は押し黙るしかなかった。
真の決戦戦争の場合には、軍隊などは目標にならない。最も弱い人々、最も大事な施設が攻撃目標となるのだ。
《大日本帝国中将》、石原莞爾(帝国陸軍の異端児?)
もし貴方が十分に大きな嘘を頻繁に繰り返せば、人々は最後にはその嘘を信じるだろう。
《独逸第三帝国》、国民啓蒙・宣伝相、パウル・ヨーゼフ・ゲッベルス
文句があるなら証拠を出せと言わんばかりに横柄に胸を逸らす。国家社会主義者を見習って交渉の場に将軍を同席させるという真似をしている……ヒトラーがオーストリア併合の際にシューシュニック首相を、如何にも強面なカイテル将軍を呼び付けて威圧させるように振る舞わせたことを指す。
シューシュニク首相を恫喝した際、躊躇っているのを見ると、ヒトラーはカイテルを大声で呼びつけて、「軍の準備は整っておるか!」とシュシュニク首相を 前にしてカイテルにドヤ顔で聞き、カイテイルは「できております、我が総統!」と応じた。シューシュニク首相はこの遣り取りに怯えて、辞意を示したそう な。
ただ、シューシュニク首相の名誉の為に記しておくが、シュシュニクは思っていたよりずっと手強かったとヒトラーが口にしていたとパトリック・J. ブキャナン著の「不必要だった二つの大戦―チャーチルとヒトラー」に書かれている通り、ヒトラー主導のアンシュルスに抵抗すべくかなりの粘りを見せてい た。