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第一七五話    情報将校と憲兵将校、或いは異邦人と御義父上

 

 

 

「確か、貴女。本名はクレシーダよねぇ?」

「むっ、もしやエスタンジアの遺児か?」

 フェンリスとベルセリカの視線が再び交差する。

 この二人、実は仲が宜しいのではないか?とも思わないでもない光景だが、クレアは安易に口を挟む真似をしない。気分屋が多い狼種の骨肉の争いが他種族か ら見て突然に始まることが多いという統計を知るからでもなく、純粋に高位種の不興を“つまらない理由”で買う真似を避けたかったからであった。無論、手遅 れの感が否めないが。

 当然、不興とて必要とあらば全力で買い増しする。

「よく御存知で御座います、公爵閣下。(かつ)てはそうした名で呼ぶ者も居りました。……つまらない、つまらない過去です」

 クレシーダとはエスタンジアで時折、女性に使われる名前である。

 背後のザムエルとシュタイエルハウゼンの身動ぎする動作の衣擦れを耳に、クレアは外へと視線を投げる。交渉をと考えたが、望郷の念が溢れては思考を遮った。

 二人の狼は何も語らず、クレアを胡乱な瞳で見据えるばかり。フェンリスは、エスタンジア問題に思うところがあるのだろう。

 専制君主制と国家社会主義。

 二つの思想に引き裂かれた国家。

 皇国と帝国の狭間にあるエスタンジア地方一体に国土を持つ国家。本来は《南エスタンジア国家社会主義連邦》と《北エスタンジア王国》という二国に分裂し た分断国家であるが、双方共に国土も小さく経済規模もそれに応じたものでしかない為、一纏めに《南北エスタンジア》と呼称されることが多い。

 国土は峻険な山岳地帯が大半を占め、その事から周辺諸国から仮想敵国とされる事もなく存続してきた《エスタンジア王国》が、近年、発生した社会主義革命 によって《南エスタンジア国家社会主義連邦》と《北エスタンジア王国》に分裂した。大方の予想では社会主義勢力が一掃されるはずであったが、突然現れた男 性指導者の狂信的な扇動能力によって大方の予想を覆す。そして、帝国と皇国にとって地政学的には侵攻路となり得る為に要衝であり、互いに国土に面している 勢力を国家として承認し、緩衝地帯とした。

 帝国は《北エスタンジア王国》を支援し、皇国は《南エスタンジア国家社会主義連邦》に各種支援を行っているが、共に長年の戦争で疲弊していた。国土と人心は荒廃し、周辺諸国への亡命者が相次いでいる。

 そして、両国の戦争は二〇〇年近く干戈を交え続けている。

 その中で多くのモノが喪われた。

 歴史的に見れば、他愛のない戦争であった。世界中で行われ、垣間見る事のできる戦争である。

 ある日、突然に戦争が始まり、隣人同士で殺し合い、生家が軍靴に踏み荒らされ、家族が眼前で殴り殺され、友人が裏切る。

 何のことはない。残酷で日常的な世界の有様。

 クレアは一人で逃げ出した。多くを投げ捨てて。

 心の傷になったのかもしれないが、クレア自身にも分からない。

 だが、幼少期のクレアの本質の根幹を形成し、亡命先の皇国が喪われることを何よりも恐れた。嘗ての屈辱と悲劇、慟哭を避ける為、自らの生存圏となった皇国を如何なる手段と外道を尽くしても護らねばならない。

 再び喪わない為に。或いは取り戻す為に。

 今にも夢を見る。

 あの母が眼前で民衆に組み敷かれ、父が(すき)(くわ)の切っ先に串刺しにされた。妹達は誘拐され、恐らくは奴隷として売られたのだろう。

 クレアも何度も殴られ、慰み者とされた事もある。そして死に物狂いで逃げ出した。生き残る為に善意を見せた老婆を背後から刺し、子供を打擲(ちょうちゃく)するという日常は彼女の精神を苛んだ。そして、歩き続けて亡命する事に成功したクレアを皇国は優しく迎え入れてくれた。

 本来であれば、クレアはトウカを信用も信頼もしなかっただろう。同郷出身のエイゼンタールからの説得と説明がなければ敵対していただろう事は疑いない。否、説得と説明を受けても懊悩したのだ。

 それでも尚、手を携えて国難に当たる相手に足り得ると判断した最大の理由は、彼が皇国の生存圏(レーベンスラウム)に言及したからである。

 トウカは信頼に足る友好国を自らの手で建国し、共に経済圏を構築する事で資源供給源と工業製品の輸出先を創出するべきと発言した。最終的な状況は別としても、その手段が他国の少数民族や併合された地域への介入による戦争であるのは疑いない。

 つまり、《南北エスタンジア》への侵攻もまた有り得る。

 あの屈辱を濯ぐ機会が戦火の中で見い出せるかも知れない。一切合財を焼き払い、帝国主義者を根絶やしにし、国家社会主義者を弾圧し、屈辱の記憶を戦火で燃やし尽くすのだ。

 彼と共に皇国を救い、敵国を滅ぼすのだ。そして過去の汚辱も焼き払う。

 他の者達が皇国の領土と経済の維持を掲げる中、彼だけは明確に敵国の滅亡と経済復調の方策を提示した。

 口先だけの者ばかりの中で、確たる実力を示したのは彼だけであり、その上、明確な方法まで提示している。方策の提示は少なくとも多くの分野に波紋と変化を投げ掛け、賛同と罵声を無数に得た。だが、そうした方法があると公式に提示した意義は大きい。

 軍事的には最有力のトウカだが、政治的には諸勢力の中で最も脆弱と言える。

 そうした中で政治を語る事は不利としかならない。

 政治など揚げ足の取り合いに過ぎず、明確な主張は攻撃を受ける材料としかなり得ないからだ。

 だが、それでも口にしたのは、自らが失脚し、多くが失敗した時、その方策を何処かの誰かが思い起こすのを意図したものに違いなかった。それ以外には考えられない。

 彼は真に皇国の未来を憂え、そして自らが失脚した場合も考慮している。

 それは一体、如何(いか)なる理由からか?

 分かりきったこと。あの仔狐の生存圏(レーベンスラウム)を維持する為である。

 トウカの生存圏に対する言動は至極論理的で妥当性を伴ったものであるが、彼にとっての最大の理由と目的は間違いなくミユキに起因する。

 それは置いておこう。一先ずは、とクレアは煌びやかな装飾に満ちた天井を仰ぐ。

 兎にも角にも彼の示した能力と方策は、クレアの目的を果たすに有益なものであった。

 少し危うい言動と政治姿勢だが、それはセルアノやカナリス、リシア、そして自身がいることで補い得るはずであると、クレアは踏んでいた。

「私の過去など現状の打破に比しては羽毛の如く軽く御座いましょう」

 そう、軽く、彼の振るう軍事力ならば容易に吹き払えると信じている。

 クレアは微笑む。

「嘗てはクレシーダという名でしたが、今はクレア・ユスティーナ・エリザヴェータ・ジークリンデ・ハイドリヒです」

 クレアという名は捨てたが、字(あざな・ミドルネームの意)は捨てなかった。そこまでをも許す屈辱に耐えられなかった。それ故に帝国を連想させる名である為に白眼視された事もあったが、彼女は優秀であるが故に全てを実力で撥ね退けた。

 無論、受けた屈辱を忘れはしないが。


 クレア・ユスティーナ・エリザヴェータ・ジークリンデ・ハイドリヒ。

 この公式文章を発行する上で非常に面倒な名前を持つクレアは、多くの場面でクレア・ハイドリヒと名乗っている。その愛称はクレアやティナ、リーザなどが あり、煩雑な事この上なく、クレアは自身の名をあまり好いてはいなかった。何よりエリザヴェータという帝国人女性の様な綴りの名前は誤解を受ける事も少な くない。

 フェンリスがクレアの過去を知っていた事からも、今こそが限界だったのだろう。

 帝国からの間諜の規模と経路がある程度把握されつつあり、クレアの周辺に不信感を向け始めていたのだ。

 机の下の両手が汗ばむ感触をクレアは感じた。間一髪である。

 クレアの失脚はトウカの失点となる可能性が高く、北部の混乱は致命的なものとなるだろう。トウカは北部にとって安定剤という側面をも持っている。彼がい るならば、例え一時的に郷土を喪っても奪還してくれるという根拠なき確証。それを北部の臣民に唯一、抱かせ得る人物こそがトウカなのだ。それだけはベルセ リカでも叶わない。

 彼は伝説となりつつある。

「私は皇国軍人として、皇国により良き未来を齎す心算です。サクラギ閣下と共に」

 確かに彼に(かしず)くという選択肢しか取り得なくなっていたが、それでもクレアは最後には彼に縋っただろう。

 ベルセリカの痛ましい視線が煩わしい。クレアは現状に満足しており、決して不幸な身ではないと確信しているが故に。

「なればこそ協力せよ、と。……どの道、間諜の排除は成さねばならんか」

 止む得終えぬで御座ろう、と独語するベルセリカ。

 彼女にとって北部の混乱はその北方方面軍総司令官という役職と、剣聖という称号からしても許容しかねる事態であるのは明白。ベルセリカの協力を得られる 可能性が高いことは当初より踏んでいた。これでリシアが自身の周囲を嗅ぎ回る事もないだろうと、クレアは内心で安堵する。帝国への戦略爆撃に対して提案を してきたのも、戦略爆撃の限界を試すという部分だけでなく、失敗した場合にクレアを封じ込める材料にする心算だったのだろう。トウカの思惑に、リシアの思 惑が重なったのだ。

 だが、フェンリスは沈黙を保ったままである。

 彼女こそが最大の壁である。

 皇国陣営に属する情報機関や情報媒体の多くを押さえる彼女は、基本的に抵抗した者に対して容赦も許容も見せない。二匹目の泥鰌(どじょう)を目論む者を出さない様に、徹底的に弾圧する。無論、暗殺や摘発も実例が無数にある。クレアとしても、現状で皇州同盟に敵対するのは国家分断を招く恐れがあるとフェンリスが判断すると踏んだからこそ交渉に臨んだ部分もある。

 フェンリスは小首を傾げる。

 妙齢の御婦人とは思えない仕草だが、それが様になるフェンリス。高位種とは各種資質だけでなく、容姿の面でも他を圧倒しているが故に特別視される。クレ アは妖精種であり、皇国の法的区分上では中位種という事になるが、やはり高位種とは隔絶したものがあり、ましてや相手は七武五公が一角。

 トウカは用兵に於いて七武五公切っての名将であるアーダルベルトを打ち破ったが、それが可能なのは実力と技術と運を身に付けた稀有な例のみである。

 クレアよりも遙かに、多くの分野で優位性を誇るフェンリス。

その口が開かれる。

「貴女……トウカ君のこと、好き?」

 ナニヲイッテイルンダ。

 咄嗟に返す事ができないクレア。

 身構えて自身の退役や国外退去、自害まで考慮に入れていたクレアにとって、その言葉はまさに虚を突くものであった。だからこそ高位種は高位種足り得るのかも知れないと内心で毒付きながらも、クレアは一拍の間を置いて応じる。

「例え、そうであったとしても、私には叶わぬ事です」

 小鳥の(さえず)りを思わせる可憐な声音と、浅葱色の髪を左で束ね、憂いを帯びた(はしばみ)色の瞳を備えた清楚可憐にして美貌の憲兵少将は苦笑する。

 それが正直な感想であった。

 ミユキを始めとしたトウカを取り巻く高位種の女性達を押し退け、自らが隣に立つというのは至難の業である。ミユキだけでも、同性からすると呆れるばかり に多くの好ましい要素を取り揃えている。一種族の姫君としての立場に爵位。何よりも男を魅了する身体の起伏と愛くるしい容姿は、きっと多くの女性のトウカ への恋心を萎縮させただろう。

 リシアの様に正面からミユキに応じる者などそうはいない。

 背後からの噎せ返る音。ザムエルとシュタイエルハウゼンからしても、フェンリスの問い掛けは予想外のものであったのだろう。

 フェンリスは楽しげにころころと笑っている。無邪気でいて悪戯に成功した子供の様に表裏の感じさせない笑みは酷く苛立ちを掻き立てた。

 一頻り笑い終えたフェンリス。

 そして呟く。


「ふぅん、そう。好きなの……だそうよ? エル……リシアちゃん」


 視線を投げて寄越した先。

 それは、クレアの背後。

 息が詰まりそうな程の圧迫感と、明確な敵意を背に感じて振り返る。

 そこには紫苑色の長髪を揺らした美貌の陸軍大佐の姿があった。

 何時も通りの勝気な表情を其の儘に、クレアを一瞥したかと思うと、シュタイエルハウゼンに顎で指示して椅子を引かせると、彼女は隣席へ腰を下ろす。階級ではリシアよりもシュタイエルハウゼンが上位なのだが、リシアはさも当然の如き表情で脚を組んでいる。

「ハルティカイネン大佐です、公爵閣下」

 貴女に親しく振る舞われる理由がありません、と続けるリシアの視線は、一心にフェンリスへと注がれている。

 クレアの事など眼中にないと言わんばかりの態度だが、クレアはそれに対して不満など抱かなかった。無論、上官に対する態度ではないと苦言を呈する真似はしない。色恋に纏わる話の最中に、軍の階級序列を楯にする行為を彼は唾棄するが故に。

「それで、どうなさるのでしょう? はみ出し者の情報参謀である私であっても御国の為に働かねばなりませんの」

「あらあら、本当にそっくりなのね。その憎たらしい言葉遣いと態度……本当に懐かしいわ」机に肩肘を突いて微笑むフェンリス。魔性の笑みであった。

 相対するリシアは、傾いだ姿勢を以て舌打ちを一つ。

 クレアが調べた限り、リシアに確たる後ろ盾はない。マリアベルの隠し子であるという噂や、歴代皇王の遺児であるという風聞は流布しているが、そのどれもが合理性を伴わない妄言の類であった。

 それでも尚、斯様に振る舞うのは腑に落ちない。

 大衆酒場(ブロイケラー)でのアーダルベルトとの会談などの噂もあるが、それはトウカの皇州同盟成立の宣言に伴う一連の遣り取りの一つとして、情報部と憲兵隊では処理されている。

 彼女は無鉄砲だ。

トウカとは対を成す立ち振る舞いである。トウカは無理無謀無茶を理論と戦略で押さえ付ける真似は行うが、決して初手から打算のない行動は行わない。適当でいて無造作に見えても、振り返ればそこには何かしらの意図があった。

 リシアには、それがない。

 〈北方方面軍〉司令部付、情報参謀という肩書以外の一切を失った彼女に、多くの政治的策略を巡らせる程の権力はない。情報参謀は諜報ではなく、司令部の 情報活動としての情報収集と防諜などを担当する参謀に過ぎない。作戦行動に於ける情報担当であり、諜報戦力は隷下に有してはいなかった。あくまでも作戦課 や防諜課、企画課・統合情報課を指揮下に置く情報部を統括しているに留まる。陸海軍府が隷下の方面軍が独自に対外的諜報活動を行うのを忌避しているという 事もあるが、それ以上に各方面軍の政治活動の尖兵として利用される可能性を憂慮したからであった。現共和国では予算獲得の政治活動の為に運用され、社会問 題となっている。

 つまり、リシアは政治を動かす権力もなければ、隷下には戦闘部隊も有していない政戦共に極めて脆弱な立場にある。

 無論、皇州同盟軍情報部と連帯している事から、他方面軍の情報参謀よりは高い影響力を持つが、エイゼンタールと連帯しているクレアには動きが手に取るように伝わる。

 だが、誰も彼もがリシアを特別視する。紫苑色の髪というだけでは説明が付かない。神聖である事は近代の政戦を覆す理由にはなりはしないのだ。

「まぁ、良いわよぉ。間諜の件は協力してあげる。アーダルベルトも暫くは協調するべきだって言っているもの。私だけが(むく)れていても仕方ないもの、ね」フェンリスは苦笑する。

 本当に仕方のない仔ね、と。

 やはり何かがあるのかも知れないが、それはクレアには想像も付かない事であった。

「結構です、ヴィトニル公」

 言葉短く告げると、リシアは自ら椅子を引いて立ち上がる。そこには舞踏会に於ける淑女の立ち振る舞いの片鱗は見受けられず、酷く男性的な佇まいと言えた。しかし、リシアはそれが似合っている。

 リシアは、何故か無礼が赦される雰囲気がある。

 酷く曖昧でいて明確な表現がし難いが、そうとしか思えない。その点に関してはトウカと類似しているかも知れない。無論、トウカに関しては赦される数よりも激怒させる数が圧倒しているが、リシアには大多数に対して好意を勝ち得ている印象を受けた。

 立ち上がったリシアが軍装を翻す。

 特注であろう肩幅や胴囲、太腿周りが引き締められた軍装である事も相まって、その振る舞いは男性的であるが、揺れる紫苑色の長髪が蜜を感じさせる女の薫り漂わせる。端々に窺える女性的な仕草をより華やかに演出していた。

 揺れた紫苑色の髪を左手で押さえ、リシアがふと振り返る。

 座したままのクレアを見下ろす視線。

「出来損ないの薄汚い妖精。覚えておくといいわ」

 種族としても階級としても上位のクレアは、その威風堂々たる振る舞いに気圧された。

 トウカやベルセリカと違う強制力を伴った声音。

 強いて言うなれば、マリアベルのそれである。

「私、貴女のこと嫌いよ。凄く。周囲を嗅ぎ回られるのも気に入らないわね」小脇に抱えた軍帽を被り直すリシア。

 帝国本土への航空攻撃に関する一件を、自身の失脚を狙ったものではないかと訝しんでいたが、彼女の正面切って当人に不満を口にする辺りを考慮すると呉れの予想は違えていた事になる。

 二人の視線が交差する。

「気高くあるか否かは、そう在らんとするか否か。それだけよ。つまらない打算や権力も武力も必要ないわ。こそこそしてないで正面から来なさい。不愉快よ」

 そう口にすると、リシアはクレアの言葉を待たずして、背を向けて去って行った。









「久方ぶりだな、若造」

 アーダルベルトは、眼前でウィシュケを嗜むトウカへと言葉を投げ掛ける。

 舞踏会に名を借りた互いの値踏みが行われている舞踏会場……アルフレア迎賓館の別館で二人は対面していた。

 アルフレア迎賓館から渡り廊下で連結した別館は、その名称とは裏腹に神州国の四阿(あずまや)の如き造りをしており、周囲の庭園もまた神州庭園であった。アルフレア迎賓館の裏手にある為に人目には付き難く、だからこその国風の違う造りなのだろうと、アーダルベルトは娘の風流など気にも留めない姿勢に呆れるしかない。

 アルフレア迎賓館は、ただ只管(ひたすら)に壮麗な造りを体現していた。

 北部全体の失業率を補う為、専門職の者達に叶う限りの凝った造りをさせるという思惑から建築されたという経緯もある。そんな皇都の歴史的建造物すら圧倒する程の荘厳さを持つアルフレア迎賓館の裏手に、このような光景が広がっているなど予想できる者はそうはいないだろう。

 アーダルベルトは、四阿(あずまや)の縁側に腰を下ろす。

 隣のトウカは新たな硝子碗(グラス)にウィシュケを注ぐと、アーダルベルトへと差し出す。

「御久し振りです。御父義上」

 アーダルベルトは硝子碗(グラス)を受け取りつつも、苦笑する。

 何度、その物言いにアーダルベルトは腹を立てたか分らない。だが、今となっては然したる感情を抱く事もなかった。何もできなかった男が、女と共に戦い抜いた男に不平を零し続けるのは、アーダルベルトの矜持が赦さない。

 彼の漆黒の軍装の胸衣嚢(ポケット)に射し込まれた銀の簪。

 最近では、それを見る度に居た堪れなくなる。多くを殺し、それが娘の為であったという一端は覆せない。

 その若さでヒトの死命に関わり過ぎだ。人格に歪みが出ているのではないかと、アーダルベルトはトウカを憐れんですらいた。

 彼は最早、戦死者を書類上の数字にしてしまっている。

 それが悪いとは、アーダルベルトは言わない。

 真摯に戦死者数を減らす努力をしているならば、将兵は彼が戦死者を書類上の数字としか見ていないと知っても後に続くだろう。将兵は自らを最も生還させてくれるであろう者に敬意を払う。決して自らを慈しむ姿勢を見せる者ではない。それでは野戦指揮官に留まる。

 だが、彼は政治に介入し始めた。

 効率的であれば赦されるとは限らないのが政治である。至極個人的な、それでいて潜在的な感情論に掣肘を加え、宥め、時には迎合する事で国政をより良き方向に導かねばならない。

 しかし、トウカの姿勢は違う。

 同意できないなら死ねと言わんばかりに冷遇し、敵対的な行動で相手陣営の結束に軋轢を生じさせようともする。

 特定の企業に対する過度な厚遇と、偏執的な冷遇は特に顕著である。特許や技術の共有や格安での資源供与に、認可(ライセンス)生産などを含めた包括的な企業間交渉の仲介などは皇州同盟が率先して行っている。複数の企業が連携し、複合企業(コングロマリット)化を成し、異業種企業が相乗効果を発揮し始めていた。

 本来であれば、合併を繰り返して成立する点を以て複合企業(コングロマリット)と呼ぶ筈であるが、巨大企業となって税金が嵩むのを避ける為、複数の企業が皇州同盟という利害調整組織の下で協力しているという体裁を取っていた。

 結果は企業の囲い込み。

 参加しない企業は、いずれは資源入手や技術発展、研究開発で不利となり、そう遠くない将来に不利な点が表面化するだろう。言わば、国内での閉鎖(ブロック)経済圏構築である。

 彼は敵対者を赦さない。完全に息の根を止めるまでは警戒を続ける。

 アーダルベルトとトウカが、この場で肩を並べて座しているのは、一重に軍事力が均衡し、強大な対外的圧力の下にあるからに過ぎない。

 だが、それで良い。

 目先の問題で協力できるならば、アーダルベルトはそれで構わないと考えていた。後の問題は、寧ろあらゆる面での均衡を演出すれば膠着状態になるだろうとすら判断している。

 彼の影響を受けたのは北部の貴軍官民だけではない。皇国の多くの分野に属する者達が、その技術や手法、政策を模倣し、発展させようという試行錯誤と議論を始めている。

 彼は最早、一つの潮流である。

 その果てに皇国の発展があるならば、それは良き未来と言える。現状の鬱屈とした世情を打破できるのであれば、トウカと言う存在もまた許容し得るのだ。

 だから二人はこの場にいる。

「あの部屋です。マリィを初めて抱いたのは」

 トウカが指差した先には露台(テラス)付きの小さな部屋が見て取れる。幾つも並んだ小さな部屋の連なりの中央に位置する一室を指差して呟くトウカに、アーダルベルトは返答しかねた。なれど、その声音と仕草、表情は、アーダルベルトに対する隔意も敵意も感じさせない。

 嫌な男だが、健気でもある。痛々しい程に。

 多くの者は、トウカを華々しい戦果と苛烈な言動から、強引で傲慢で強権的な人物だと考えているだろうが、アーダルベルトはそうは考えない。

 年相応の大人になり切れていない人物像が垣間見える。

 それは、マリアベルの有様と類似している。

 無論、だからこそ危険なのだ。時に感情で国家を危うくしかねない。

 なまじ政戦の実力があるだけに、周囲を巻き込む術を知っており、多く者が知らず知らずの内に踊らされた。それが内戦の真実である。

 当初、彼が執った大規模航空攻勢が物資集積所を始めとした後方の補給線などへの攻撃を重視した作戦を目の当たりにした際にアーダルベルトが感じたのは、真綿で首元を締め付けられるような圧迫感。

 相手は冷静で冷徹な戦略家である。アーダルベルトは当初、そう考えた。

 しかし、実際に目にしてみれば思っていた以上に感情的な若者であった。

 知識と判断力に特筆すべき部分があるものの、その本質は酷く不安定で曖昧である。

「貴様は相変わらずだな。……あれは満足して逝ったか?」溜息と共に、アーダルベルトは訊ねる。

 トウカとマリアベルの関係は、既に市井にまで流布している。種族違い、それも低位種と高位種の色恋である。政治闘争と軍事行動の連続であった北部では、色違いの話題として燎原の火の如く噂が駆け巡り、他地方でも話題を呼んでいた。

 死した事によって、その死に様によってより多くに認識された愛娘。

 哀れだろうが、アーダルベルトは哀れまない。マリアベルも、その母も、憐憫を向けられるを何よりも嫌悪したが故に。

 総てが終わる様を蚊帳の外で報告を受ける事しかできなかった。

 これは罰なのだろう。

 しかし、罰の象徴たるマリアベルは現世より消失したが、その罰を自身に求める男が台頭した。

 そして、強大にして有力な軍事力と、他者を睥睨する程の権力を手に自身と相対しているという皮肉。死して尚、マリアベルはアーダルベルトを赦してはいないのだ。

「微笑んでいました。翳のある哀しげな(かお)で」

 ここで慰めの言葉を掛けてくれるような男ではないのは百も承知。

 長命であるという事は多くの宿業を背負い生き続けるということ。その宿業の葬列にマリアベルの名が加わったに過ぎない。その重みを肩に受けて尚、祖国の為に立ち続けねばならないのだ。それが公爵位を持つ者の宿命である。

 娘である、家族であるなどという事実は、その大義の前に影響を齎すものではあってはならない。

 アーダルベルトは私情を挟む事を避けたが故に、内戦への介入時期を窺い続け、対するトウカは軍事行動の根幹を私情として行動している。

「無念だったでしょう。腹立たしかったでしょう。屈辱でしたでしょう。彼女には成したいと切に願う事が幾つもあったはず。……でも、その手は悲願と理想に届かなかった」

 確認事項を告げるかの様な声音に感情は窺えない。それは確認なのだろう。

「彼女の手は短かった」

 確認であるが故に、その評価もまた素っ気ないものであったが、アーダルベルトはその言葉に異を唱えた。

「違うな。掲げた悲願と理想が遠すぎたのだ」

 七武五公を排除し、中央貴族を退け、帝国を撃破する。

 そのいずれもが、一地方の伯爵が掲げるべき目標ではない。

 それらを“手が届かない”の一言で済ませるのは、些か酷であろうとアーダルベルトは考えていた。自身がマリアベルの立場であってもそれらを成す道筋を立てるのは難しいのだ。

 トウカは首を傾げる。

 異端者である自身を基準とするトウカにとり、多くの有力な権力者や軍人の評価は当然の如く厳しくなる。それはマリアベルに対しても例外ではなかった。

「自分の手は届きそうでしたが」

 暗に“御前の命は奪えそうだったが?”と匂わせているのか、口角を釣り上げたトウカ。

 良い性格をしている。自身に臆さない若造に、アーダルベルトは苦笑する。

 含み笑いを零す二人。

 酒を注ぎ合い、言葉を交わす二人。

 此れからのこと、此れまでのこと、在りし日のマリアベルの逸話に経済活動や軍事行動、体制の是非までと実に無秩序な会話を日常会話の様に続ける様はただ只管(ひたすら)に混沌としていた。

 その中でアーダルベルトは、トウカに対するらしからぬ印象を一層と強くした。

 トウカは英雄ではない。

 そんな彼に英雄的決断を可能とする立場を与えるのは、果たして皇国の未来にとって最良のものと言えるのか?

 五公の会談ですら結論の見い出せなかった問題である。

 レオンハルトは政治活動に対して軍事行動で掣肘を加える点を危険視し、排除すべきだと提案。フェンリスは、その類い稀なる政戦能力と技術的知見を積極的に活用するべく皇国の体制に皇州同盟諸共に組み込むべきだと提案した。

 アーダルベルトは、前者は北部地域の暴発の可能性を踏まえれば暗殺は勿論、実権のない立場に追い遣る事すら危険であると判断していた。しかし、後者もまた獅子身中の虫となる可能性を秘めており、トウカもそれを可能とする組織体制を皇州同盟に敷いている。

 だが、七武五公はトウカに掣肘を加える事が可能な手札を持ち得ない。

 相手にはベルセリカやセルアノ、エルゼリア侯といった錚々(そうそう)たる顔触れが並んでいるにも関わらず、七武五公はそれを拮抗し得る人材を宛がう事が出来なかった。

 急激に軍備拡大を実施した北部地域やヴェルテンベルク伯爵領などを警戒はしていた。そして、蹶起軍への再編はある程度予想されていたが、北部統合軍に再編成され、更には皇州同盟となるとは考えていなかった。

 短期間での大規模な再編制の連続。

 北部に密かに浸透していた諜報網や政府に好意的な有力者は軒並み振い落されたと言っても過言ではない。蹶起軍から北部統合軍への再編制では、より能動的 な軍事行動と言える航空戦や機動戦に対応した指揮官達が重要な地位を占めた。北部統合軍から皇州同盟への再編制では、特定の兵器の運用に長けた将兵のみを 残し、他は経済や政治、企業などから選出された急進的な人物が重要な地位を独占した。

 七武五公や中央貴族、政府の浸透させていた諸々の影響力は皇州同盟成立に伴って自然と排斥されたのだ。

 無論、主流ではなかった将兵が一斉に登用され、七武五公や政府、中央貴族と繋がりのあった者達が軒並み皇州同盟成立に当たって弾かれたのは、背後の影が露呈したからではない。ただ純粋に彼らが目を付けていた人材をトウカが必要としなかったのだ。

 それは、トウカと彼らの視点が全く違うという事を意味している。今後の為にも、その点を理解しなければならないだろう。

 連携は既に二人の間では既定事項となっている。

 トウカが私情で拒む可能性を政府は憂慮していたが、アーダルベルトは優先順位と目標を考慮した対応を取ると踏んでいた。何よりも大規模な避難行動を実施している北部領民の存在が二人を協力体制とならねばならない状況に追い込みつつある。

 何百万という臣民の大移動を支える程の権力は皇王という一人の権力者のみが有するものであり、その皇王が不在である以上、複数の有力者が連帯するしかない。

「貴方は汚い。海軍にあの様な事を言わせるとは。聞きましたよ。エッフェンベルク海軍府長官から」心底呆れたという声音のトウカ。

 やはり彼は理解していた。

 真っ先に七武五公や中央貴族が融和を図れば、大戦力を有する皇州同盟軍と陸海軍の融和が困難となる。七武五公や中央貴族が経済政策を重視する為に陸海軍が規模を縮小せねばならぬ程に予算を削減した事実が、双方の陣営の関係に深い影を落としている。

 故に七武五公が真っ先に手を携えるべきではなかった。

 皇州同盟や陸海軍のどちらかに七武五公や中央貴族に連帯する姿勢を見せれば、一方は距離を置くか敵対する姿勢を表面化させるだろう。

 それは強大な戦力を有する二勢力が連携できない事を意味する。

 だからこそ七武五公は双方の組織と距離を取った。

 結果として皇州同盟と陸海軍は急速に連携する姿勢を見せた。

 共に露骨であるか否かの違いはあるが、七武五公や中央貴族に隔意を持つ勢力でもある。

 接近は容易に想像できる事であり、ましてや陸海軍は皇州同盟軍の兵器や装備、戦闘教義(ドクトリン)に酷く興味を示しており、皇州同盟軍は装甲部隊や航空戦力、新兵器開発に注力している。陸海軍の既存の兵科による大戦力を前提とした編制としているのだ。トウカが軍事分野の棲み分けを意図している時点で、アーダルベルトはその思惑に気付いた。

 だからこそ、表面上は静観しながらも皇州同盟軍と陸海軍が連携し易い状況を演出し続けた。政治勢力と軍事勢力が綺麗に分離した形となる。共に拮抗する軍事力を保有した上での敵対となれば、国内の不安定化を招くという思惑もある。

「此方の意図を察してくれる有能な政敵に感謝するばかりだ」

 トウカがその意図に気付かないはずがない。

 故に後から連携した皇州同盟軍と陸海軍に、七武五公や中央貴族が後から合流するという、アーダルベルトが目論む流れも読んでいるに違いない。

 七武五公が中央貴族と政府を説得し、陸海軍の予算を増額しつつ、特別予算も計上するという手土産を持って合流するのだ。帝国による侵攻が現実となった国難の今であれば、軍事予算が青天井となっても咎め難く、政府の説得も容易である。

 これで国内勢力を統一した意思の下で運用できる。

「皇州同盟軍と陸海軍の連携は、此方で中央政府に容認させる。経済に関する部分は、やはり〈南部鎮定軍〉という脅威を排除せねば難しかろうな」

「経済に関することはこちらで何とでもします。資源はありますので。それに、取り敢えずは目先の帝国主義者を打破せねば首が回りません」

 当面の目標は一致している。

 〈南部鎮定軍〉の撃退までは協力できる。

 一先ず、表面的な対立はこれから緩和されるだろう。

 経済界への恫喝も利益を得るという目的以上に、七武五公や政府へ譲歩を暗に迫るという側面がある事を、アーダルベルトは察していた。

 よって、軋轢は以降、減少するはずであった。

 ならば後の問題は、個人的なものである。

「ところで……アリアベルはどうだ?」

「? どう、とは?」なにを言っているのだ、御前は?という視線を向けてきたトウカ。

 アーダルベルは、アリアベルの将来を悲観していた。

 帝国軍の侵攻を利用して征伐軍を編制、諸勢力の何れもの裁可も許諾も受けずして蹶起軍と軍事衝突を行った罪は重い。死者だけでも二〇万名近い点を踏まえると、皇国の今後の国防政策にも暗い影を落とすだろう。遺族年金の大半を天霊神殿に拠出させるだけで済む問題ではない。

 現在、アリアベルの処遇が棚上げにされているのは、一重にトウカが皇州同盟と〈北方方面軍〉の後ろ盾として利用しているからに過ぎない。宗教的勢力の後ろ盾を欲したトウカの一存によって、アリアベルは生かされていると言っても過言ではなかった。

 残酷な事であった。歴史と時代が若者達に必要以上の背伸びを強いている。

「欲しいと言ってくれるなら有り難いのだが」

「俺にはミユキがいます。……マリィを抱いておいて今更ですが」

 二人が視線を交わす。

 アーダルベルトとしては、アリアベルとトウカが個人的な関係となれば、アリアベルが容易に切り捨てられる事はなくなるだろうという打算があった。マリアベルを見捨てず、勝算の乏しい戦争に挑んだトウカが近しい人物に対して情が深いことは明白である。

 彼は戦う。女の為に。

 例え勝算がなくとも、殺せる限りに殺して結露を開かんとするだろう。死中に活路を見い出す為、彼は如何(いか)なる行為をも躊躇いはしない。だからこその精強。痛々しい程に。

「その辺りの話は次回だな。取り敢えずは直近の問題についての話をするべきだろう」

「同感です。我々には時間がない」

 二人は重々しく頷く。

 こうして男達の夜は更けていった。

 

 

 

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