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第一九〇話    四番目の報復者

 

 

 それらは、寒空の中を飛行していた。

 群青色に塗装された二〇〇を超える飛翔物体は、金属を二度鉄槌で叩く様な耳障りな音を響かせた後、長くも甲高い排気音を響かせるという動作を繰り返しながらの飛行する。近づきつつある戦野の砲声に掻き消されて何人の耳朶を叩く事はない。

 曇天の中、舞い散る氷雪を切り裂き、先端部の計測用回転子(プロペラ)を回転させ進む姿は死神の一突きに相応しい威容を備えていた。

 空盒(アネロイド)気圧計による高度修正を繰り返し、回転慣性計測機(ジャイロスコープ)による方向制御は精密とは言い難いものの、極少数の脱落のみを出すに留まっている。

 無論、それは魔術的な誘導によるところが大きい。

 神州国で多用される式神では馴染み深い、魔力波を追跡するという術式を流用した魔術的な誘導機構だが、魔術の飛び交う戦場では誘導性を確保できない。よって戦場に近づいた今となっては時間制御によって切断され、空盒(アネロイド)気圧計と回転慣性計測機(ジャイロスコープ)計測用回転子(プロペラ)の併用のみによって誘導されている。

 本来であれば、飛距離を算出する計測用回転子(プロペラ)が一定回転数に達すると機関停止し、弾体を急降下させることで目標を直撃するが、その機能は切断されていた。

 そして、現在の飛行で使用されている三つの制御装置もまた今この時を以て切断される。

 慣性飛行への移行。

 眼下には皇国本土防衛に於ける最後の砦たるマリエンベルク城郭の威容が窺え始める。

 意志を持たぬ報復兵器(Vergeltungswaffe)は、その機能を行使するだけであり、眼下の光景に感傷を抱く事はない。後に続く五〇〇以上の同胞達もまた同様である。

 脱落した一八基を省き、マリエンベルク城郭上空へと殺到したV四号飛行爆弾の数は五〇二基。

 それらは人工の風に捉えられて戦場の高空を舞い、続く突然の下降気流へと身を委ねる。推進器である間欠燃焼式機関(パルスジェットエンジン)の推力も加算した降下は、急降下爆撃騎のそれに勝る速度を手にしていた。

 薄汚れた白色に塗装された彼ら。大規模な砲声の交響曲に掻き消され、本来であれば十分に接敵に気付く程の騒音は直前まで見逃された。

 一部の帝国軍将兵が空を指差すが、既に手遅れである。

 本来であれば彼らの頭上を守るはずの魔導士達による魔導障壁は、マリエンベルク城郭内から砲撃を繰り返す要塞駐留軍砲兵隊の曲射弾道に合わせた角度を前提に展開していた。

 その存在が露呈した時点で、垂直に近い落下角度を手にした飛行爆弾の進路を妨げ得るモノはなかった。

 そして、空盒(アネロイド)気圧計による高度測定が高度一〇〇を切った。瞬間、V四号飛行爆弾は後部に取り付けられた点火用火薬に火が灯され、巨大な弾頭部の外装が剥離(パージ)する。

 姿を現す複数の化学弾頭。

 この世界では多弾頭の概念は未だになく、地上から見上げる帝国軍将兵からすると直前で自壊したかのようにすら見えたが、喜ぶ暇はない。五〇〇基を超えるV四号飛行爆弾が広範囲に渡って彼らの頭上で同じ光景を繰り広げたのだ。

 個々人で魔道障壁を頭上に展開する魔導士も少数ながら存在したが、一軍の頭上を防護する為ではなく、自身の頭上を護る為の咄嗟的なものであった。無論、 広範囲を防護する魔道障壁とは集団魔術であり、短時間で展開できるものではない。何より大多数の魔導士は、マリエンベルク城郭内からの曵火砲撃に対抗すべ く前方の空へと魔道障壁を展開していた。

 彼らに取り得る選択肢など元よりない。

 幾つもの化学弾頭が降り注ぐ。

 姿勢制御の為、弾頭後部に取り付けられた細長い安定布に、点火用火薬の火が引火したものなどは火の尾を引いているものも少なくなく、流星群が舞い堕ちるかのような錯覚に見舞われる帝国軍将兵も少なくはなかった。

 地上に次々と着弾する化学弾頭。

 トウカの予想通り、それは帝国軍前衛だけでなく、エルライン回廊中央に展開する主力にまで降り注いだ。誘導精度に難があるからこその風魔術による誘導だが、吹き散らされることを懸念して、V四号飛行爆弾の最後尾が急降下した時期(タイミング)で解除されていた。

 駆け巡る不可視の死神。

 死神が姿を見せた事に彼らは気付かない。

 炸裂の威力と破片効果に乏しい事に怪訝な顔をする彼らに化学的殺意が纏わり付く。

 縮瞳という効果だけでなく、視界が薄暗くなり霞み始める。筋肉が収縮し、身体動作を阻害し、手足が立っていられないほどに痙攣する。

 だが、それを認識できる者は幸福であった。化学弾頭の着弾箇所から至近にいた部隊などは(たちま)ちに意識を喪失する。

 対して、最も悲惨な様となったのは、ある程度の距離がある部隊である。噴き上がる高密度の白煙を目にして毒瓦斯(ガス)であると気付き、一瞬で恐慌状態に陥った彼らは一斉に後方へと走り始める。そこに秩序はない。

 壊乱という軍事表現を使用する事も生易しい光景が帝国軍の各部隊で見られた。同胞を押し退け、踏み砕き、或いは小銃で撃ち、銃剣で刺し貫いてでも逃げよ うとする部隊と状況が掴めず混乱に巻き込まれる部隊……そして、命令の更新もなく軍務を全うせんと掴めず押し止めようとする督戦を担う部隊。

 不鮮明な状況下での壊乱は急速に感染する。

 この際の帝国軍の無様は練度不足として諸外国の軍隊から軽蔑されるべきものであるように見えるが、後世からもそうした声はなかった。

 毒瓦斯(ガス)という兵器が風魔術で容易に吹き払えるという観念こそを、投射手段の工夫を以て吹き払った軍神サクラギ・トウカの端倪すべからざる視点こそが広く周知されるだけっであった。

 今、この瞬間まで毒瓦斯(ガス)という兵器は、前方から可搬式高圧瓦斯容器(ガスボンベ)で 拡散するか、砲弾によって撃ち込むかという投射手段しかなかった。前者であれば発見は容易で、数々の工夫も存在したが、その全てが失敗している。大戦力に よる護衛では部隊規模が大きくなりすぎるが、魔術的な遮蔽で少数部隊に留めるという戦術も斥候に露呈する事が多い。特に嗅覚に優れた軍狼兵の索敵網から逃 れて化学戦を行う事は極めて困難と言えた。特に軍狼兵が多く、魔道国家とも言われる皇国軍であれば尚更である。

 対する砲弾による毒瓦斯(ガス)の投射は更に困難を極めた。

 大軍による対峙で双方が使用した例が帝国と共和国間の戦闘では無数にあったが、どちらもが曲射弾道上に魔導障壁を展開しており、敵兵より遥か直前で炸裂 し、尚且つ魔導障壁という壁に阻まれて浸透は難しい。そして、砲兵同士の砲撃戦となれば、魔導障壁を貫徹した一部の砲弾が毒瓦斯(ガス)を充填した砲弾を砲兵陣地で誘爆させる例も少なくない。砲兵隊に甚大な被害が生じたことで、諸外国の軍隊は毒瓦斯(ガス)を扱い切れないと判断していた。

 今作戦に於ける化学戦は、既存の常識と基準に付け入ったからこそ成功しただけに過ぎない。V四号飛行爆弾の戦場への到達に先駆けて、エッセルハイムの航 空基地から駆け付けた三個戦闘航空団による制空戦闘で、一時的に帝国軍の上空に対する索敵網を麻痺させた事も大きい。航空索敵は陸上での斥候よりも遥かに 迅速であり、魔導通信が戦場に満ちた魔力の残滓によって使用が難しく、報告から行動までは間に合わないが、トウカは確実を期した。

 発令された時点で、帝国軍に対応できるはずもなかった。

 相次ぐ壊乱で前衛の指揮系統は喪われ、上級から下級の司令部全てが混乱に飲み込まれつつある。

 無論、前衛の中でも比較的後方に位置していた魔導戦力は壊乱に未だ巻き込まれず、総計すると二個魔導聯隊にも及ぼうかという兵力であった。

 この時、風魔術で吹き散らすという選択を行えば混乱を最小限に留められたとする者も後には現れるかも知れない。

 だが、壊乱はしておらずとも、化学弾頭の至近弾は受けていた。

 極めて広範囲に降り注いだ化学弾頭の投射量……飛行爆弾の積載総重量(ペイロード)は重砲の砲弾を遥かに凌ぐ。それが瞬間的に多数の部隊を襲撃した。

 統制など取れるはずもなかった。有線通信すら瞬間的に増大した情報量の増加で不正確さと混乱を生じ、各々の指揮官達は己の蛮声と暴力を以て酷く原始的に部下を纏め上げるしかなかった。

 魔導士達も混乱の最中、正確な命令のないままに壊乱に巻き込まれていくこととなる。否、寧ろ、彼らの一部は既存の対化学戦網領に従って混乱の度合いが大きい方角に向かって集団詠唱で風魔術を行使した。結果として被害は増大する。

 上空から全体に降り注いだ化学弾頭。

 甚大な被害と混乱が各所で生じていた。故に各魔導部隊が風魔術を使用した方角は多岐に渡る事になる。一斉に同方向に行使せねば吹き払う事が難しい規模である上、当初より広範囲に生じていた時点で彼らに選択肢などなかったのだ。

 不可視の死神が帝国主義者へと大鎌を振り上げた。









「前線の様子はどうだ!?」

 リディアは大型指揮装甲車の露天艦橋から周辺に視線を走らせる。

 毒瓦斯(ガス)が使用されたことは報告を受けているが、突然に広範囲の部隊から報告を受けて伝令や有線通信は意味を成さなくなっている。有線通信も断線ではなく、扱う通信兵が毒瓦斯(がす)で戦死しているのか交信が途絶している部隊も少なくない。

 既に最初の報告から三〇分が経過しているが、被害と健在な部隊すら分からず、督戦の中止命令が伝達できず更なる混乱を巻き起こしていた。

 リディアは手摺りに拳を振り下ろす。凹む手摺りから拳を引き抜き、リディアは軍帽の上から頭を掻き毟る。

 周囲に展開する〈第三親衛軍〉の部隊にも被害は生じている。精鋭であることと、着弾した化学弾頭が少数であったあことに救われたからこそ壊乱はなかったが、眼下では呻き声を上げる将兵が幾つもの天幕が整列する特設野戦病院へと運ばれていた。

 位置的に中衛に近い〈第三親衛軍〉だが、それはリディアがトウカの行動に不信感を抱いて直卒の戦力の進軍を停止させたからであった。急激な状況の変化に 即応できる様に、前衛を俯瞰できる位置で指揮を執ろうとしての命令であったが、それが明暗を分けた。前衛に対する大規模な督戦として〈第三親衛軍〉が展開 していれば、遠方に窺える壊乱に巻き込まれたえあろう事は疑いない。

「姫様、危険ですぞ! 御下がりあそばされよ!」

 慌ただしく舷梯(タラップ)を踏み締めて現れたブルガーエフの言葉を、リディアは鼻で笑う。

 リディアがトウカであれば、今頃は雲に霞と逃げ去る準備をしていることだろう。現にマリエンベルク城郭内からの砲撃は完全に途絶えている。無論、帝国軍も前衛に配置した火砲は健在なれども、壊乱したことで大多数が運用者不在となっている。運用者が不在の火砲など置物(オブジェ)に過ぎない。

 これは阻止行動である。既存の手段は違えども遅滞防御の一種と言える。リディアはそう確信していた。

「これ程に苛烈な遅滞防御とはな! 御前(おまえ)が攻勢に転じれば、どれ程の喜劇になるんだぁ! ああっ、楽しみだぞ! それでこそだ!」

 リディアは今すぐ彼を追い掛けたいが、眼前には目障りな肉塊が蠢いている。

 ――嗚呼、何故に貴様らはそんなにも脆いッ!

 度し難い脆弱さに身を委ねるのかと、リディアは心底と憐憫を感じた。脆弱な人間種でありながら、若くしてあれ程の戦技と智謀を得たトウカがいるのだ。彼が成した以上、人間種のいずれにも奇蹟を起こす機会はある。

 志し、手段を問わず、咆えて魅せろ。

 ――それこそが、神々がヒトに与えた輝きの真価ではないのか!

 酷く苛烈な有様を彼女は隷下の将兵に求めていた。トウカという輝きを失わない独裁者を目にし、その明瞭なまでの決断を風聞した結果である。同時に隷下の将兵の卑怯未練でありながらも何事をも成さない低能との比較ゆえでもあった。

 大国たる大日連を来たるべき第三次世界大戦に於いて勝利に導く為に“製作”された機構(システム)一点(ワンオフ)部品と、効率的な教育制度なく、築き上げた歴史も薄弱な世界の粗製乱造品と比較するという理不尽。

 リディアはトウカの境遇を知らず、帝国臣民の諦観を知らぬ故の心情。慈しむべき対象である臣民。だが、その内部にさえも軽蔑すべき怠惰と無秩序が潜んでいる事をリディアは知っている。愛すべき将兵……臣民は、やはり彼女と肩を並べる程の資質を持ち合わせない。

 だが、彼は……トウカは違う。

「どうだ、爺! 私のオトコは凄いだろう! 手も足も出せないぞ!」

 両手を広げ、頬を紅潮させたリディアは金色(こんじき)の長髪を振り乱して哄笑を挙げる。雌の匂いすら感じさせるリディアの無邪気な笑みと色香に、周囲の将兵が心奪われた様に魅入るが、リディアは有象無象の視線など気には留めない。

「姫様! 悦ばれるのは宜しいが、今となっては全軍の停止を以て持久する他ありますまい」

 慌てて駆け寄ったブルガーエフが、リディアの顔面に防毒面(ガスマスク)を押し付け、続いて露天艦橋に現れた〈南部鎮定軍〉総司令部の高級将校達が車輌内へと引き摺り込む。

 神々に魅入られたかの様に興奮状態のリディア。

 各部隊の指揮系統の寸断に加え、総司令官の錯乱によって〈南部鎮定軍〉は、その指揮統制の回復に多くの時間を必要とするのであった。








「想定よりも敵の混乱は甚大だな。下級司令部や中級司令部が防毒設備を有していない事は確認していたが……」

 トウカは後退を始めた〈第一装甲軍団〉の多連戦闘指揮車内の司令部で壁の戦域図に次々と書き込まれる情報に思案を深化させる。

 ――リディアは死んだか?

 否、有り得ない。前衛に六割程度が落下し、二割が主力に降り注ぎ、二割がエルネシア連峰の峰々や部隊が密集していない前衛と主力の間隙へと降り注いだ。

 命中率約八割。

 観測騎の報告を総合するとそうした結果となるが、直撃前に分散する多弾頭であることと、搭載物が無色透明であるが故に航空偵察では判然としない部分が少なくない。

 タルヴェラが気遣わしげに進言する。

「三個戦闘航空団を呼び戻しますか?」

「……対地装備を持たぬ上、機銃掃射では戦果拡大の程は知れている。一応は機銃掃射も航空攻撃だ。禁止されている」

 トウカの諫める声に失笑が各所から零れる。

 戦略爆撃に加えて物資集積地点などへの航空攻撃を、敵野戦軍に対する攻撃は条項に含まれてはいないと屁理屈を()ねて行った前科があるトウカの諫める声音に、隠しき切れない諧謔が潜んでいるからであった。トウカが顔を顰めてみせると、失笑は一段と大きくなる。

 実は戦果拡大はトウカも考えていた。死屍累々の〈南部鎮定軍〉前衛に襲い掛かれば、被害は加速度的に増加するだろう事は疑いない。視覚を失い、重度の鼻汁(びじゅう)流涎(りゅうぜん)に呼吸を犯された将兵が這い蹲る大地を〈第三親衛軍〉が突破することは難しい。

 戦車で轢殺しながら進撃する事は士気の維持だけでなく、物理的な面からも難しい。特に帝国陸軍正式採用戦車であるT―7は足回りの耐久性に難があるという問題もある。

 皇国陸軍正式採用戦車であるクレンゲルⅢ型歩兵戦車は、車体形状こそ類似しているものの、魔導技術の使用によって高耐久性を実現しており、皇州同盟軍正 式採用戦車であるⅥ号中戦車などはそれ以上の性能を有していた。皇州同盟軍の主力戦車であるⅥ号中戦車による機甲戦であれば優位の確保は容易い。

 だが、蠢く将兵の絨毯に戦車を突入させれば、どの様な結果を迎えるか?

 行動不能になる筈であった。装備している小銃や機関銃、車輛が履帯や転輪の動きを阻害する上に、砲撃によって生じた穴や火砲を迂回しながらとなれば複雑な機動を行わざるを得ない。履帯の切断の危険性も上がる。

 そして、将兵の人体そのものも戦車には負担となる。限定空間で折り重なる様に敷き詰められた遺体の数は、想定を超える。脆弱な足回りは戦車によって踏み 砕かれた無数の手足を巻き上げ、履帯と転輪に纏わり付いて機能を低下させるだろう。人骨とは一般人が想像する以上に強靭であり、撒き散らされる血液や脂分 は履帯すらも滑らせる可能性を秘めている。

 或いは無理な突入は全てを失うかも知れない。当然、リディアが考えるのは士気に関する点だろうと、トウカは踏んでいた。所詮は一個装甲軍団と三個歩兵師団規模の兵力が相手なのだ。それを相手に致命的な士気崩壊(モラルブレイク)を承知で撃破する程の戦略的価値はない。被害と戦果の計算ができる指揮官ならば、放置するだろう。致命的な隙を見せる〈南部鎮定軍〉前衛に対して攻撃の意思を見せない以上、皇国側の意図が撤退時の阻止行動を予防する目的であると察するはずである。

 トウカも苦悩した。

 今一度、現有戦力の全てを以て攻め掛かるべきではないのか?

 サリンの効果絶大なること甚だしく、前衛は死者の葬列となりつつある。今一度の混乱があれば一層と惨たらしい地獄を演出できるのは疑いない。

 だが、再度の混戦はリディアに決断を強いるかも知れない。帝国軍将兵の屍の上で機甲戦をするという決断を。

 敵軍が侵攻してきた以上、大多数を護る為に装甲部隊を進出させねばならないという名目を与える事に繋がりかねない。

 戦場に於ける指揮官の決断は、結局のところ限定された情報と感情、人間関係に左右されたものとなる傾向にある。

 本来の目的を逸脱した欲目を、トウカは嗤う。


 決断とは、目的を見失わない決心の維持に他ならない。


 ――成程、初期に設定した目的を貫徹する事は斯くも難しい。

 トウカは苦笑する。敵は心の内にも存在する。

 欲を出して全てを失う愚を犯しては、大東亜戦争の先達達に笑われるだろう。下手な戦線拡大で失態を犯した民衆将官によって生じた劣勢を挽回したのが武門 の将官達である。彼らの存在こそが皇国の衰亡を抑止したといっても過言ではない。金銭や階級への羨望から逸脱し、歴史と伝統に裏打ちされた血統を持つ武将 達こそが祖国を救うと民衆が錯覚したからこそ、大日連には現在に至るまで武家が存続している。

 結局のところ、酷烈なまでの決断を下せると大多数に思わせた者こそが多くを手にする事が叶うのだ。そして、民意よ切り離された武家は政治家よりも果断に優れる。

「撤退だ。可及的速やかに。要塞駐留軍も火砲も(ことご)く収容する。我々はマリエンベルク城郭外周に展開。敵に後衛戦闘の意思を見せる」

 状況次第では、再度の後衛戦闘も有り得る。

 トウカの言葉を正確に理解した〈第一装甲軍団〉司令部の面々は、了解の意思を口にする。

 再編制の為、魔導通信を扱う通信兵に駆け寄る装甲参謀や、戦線の再設定の要項を詰める歩兵参謀、突破破砕線との連携を確認する砲兵参謀……無数の参謀達が各々の職務を全うせんと動き出す光景を、トウカは座席から眺める。

 長年の訓練と実戦経験に裏打ちされた専門職の動きは、知識のみによって戦野を俯瞰するトウカとは違う効率性がある。突如として現れた年若い上官を受け入 れるだけの度量があり、共に大軍を相手に戦うという実績を経た以上、彼らはトウカからしても最低限の信用を与えるに値する存在となっている。

 トウカの沈黙を見て取ったタルヴェラが近付いてくる。

 顔立ちと苛烈な指揮からは想像も付かないが、タルヴェラは想像以上に年若い上官であるトウカの心情を慮っている。当人が〈第一装甲軍団〉軍団司令官であるにも関わらず、その運用に於ける重大な部分では、トウカの意見を窺うことを忘れず、同時に尊重してもいた。

 無論、皇州同盟軍総司令官であるトウカの同意があれば、失態の際も責任を分散できるとの打算があるのかも知れないが、トウカは有り難く感じている。本 来、戦場で明確な指揮権の優先権を持つ軍団司令官としては、隣に階級に勝りながらも年齢が下である総司令官を擁して戦場に立つというのは悪夢に等しい。

 ――装甲部隊の運用に不安があるからだろうが。

 そうした点を補うべき装甲参謀は配置されているが、その装甲参謀自体も実戦経験はあるものの、複数の装甲師団の運用という点に不安を抱いているのは疑いない。

 皇州同盟軍に限らず、陸軍でも装甲大隊以上の規模を持つ装甲部隊指揮官の存在は稀有なものである。どちらの軍もトウカが機甲戦力を活用するまでは分散配置が基本で、大隊以上の編成はザムエルの〈第一装甲聯隊『ラインバッハ』〉の一例しかない。

 実は、ザムエルという男はその軟派な言動と若さからは想像できないが、皇国諸勢力に於ける代表的な装甲部隊指揮官と言える。。聯隊規模以上の装甲部隊の 運用経験の年数で彼を優越する者は、いかなる高位種にすらも存在し得なかった。陸軍が、あの教育に向いているとは思えないザムエルを〈装甲教導師団(パンツァーレーア)〉と共に迎えたのは選択肢がなかったからでもある。次点のアルバーエルですらも将官の階級を得ていながら指揮した装甲部隊の運用は大隊規模に留まっていた。

 ――通信設備の改良は急務か。

 装甲部隊の運用に於ける難易度上昇の原因は、通信設備の脆弱性が大部分を占めると言っても過言ではない。各戦車に搭載されている魔導通信が魔力波の乱れ る戦場では著しく性能を低下させるという点や、指揮車輌の通信設備すら組み立てによる大規模なものでなければ大隊規模の展開範囲を掌握できないという制約 も大きい。車輌間を有機的に結合した方式への転換すらも時間を要するという現状では、聯隊や師団規模の機甲戦力の効率的運用は著しく困難であった。

 特に適切な独断専行に理解のある皇国の諸勢力では、兵力の所在が掴めないという現象が多々ある。長距離偵察や威力偵察、斥候を担う軍狼兵部隊などはその 典型である。そして、機甲戦力は集中運用による打撃力こそを精髄とする以上、突破や防御の際には当該地域の装甲部隊で対応しつつも、周辺地域の機甲戦力を 可及的速やかに集結させねばならない。それが不可能であるからこそ、マリアベルも運用に手間取った。

 元より集結させておき、決戦時に集中投入するには機甲戦力の配備は費用が膨大であり過ぎた。前線に当初より寄与しない決戦戦力を編制するのは費用対効果(コストパフォーマンス)に 酷く劣る。何より、弾力的な運用ができなければ決戦戦力として運用できない可能性が少なくない。装甲部隊の速度に合わせた運用ができないのであれば、その 戦力価値は大きく下がる。受動的な戦闘や主導権が敵軍にある場合、決戦地が友軍の意思で選択できない事も珍しくないのだ。速度による優位を喪失しかねな い。

 ならば、ザムエルは何故、指揮ができたのか?

 直感なのだ。
 山勘なのだ。

 トウカも他の指揮官を育成するに当たってザムエルの提出した過去の戦闘詳報(バトルレポート)に 目を通したが、隷下の装甲部隊との意思疎通に関する項目はさも当然の様に省かれていた。魔術的な工夫があるのかと当人に尋ねてみれば、「昔から一緒に悪さ してる兄弟分だぜ。どんな動きをやらかすかなんて大体、想像できるだろ?」と返されて、トウカは頭を抱えた記憶がある。確かに調べさせてみれば、〈第一装 甲聯隊『ラインバッハ』〉の聯隊司令部要員は全てがザムエルと幼少の頃から繋がりを持つ者か士官学校の後輩達であった。マリアベルが孤児院や教育機関に多 額の資金を投じていたのは、そうした連携を可能とする絆を育む場所として望んだのではないかと邪推してしまう程の返答である。偶然ながらも、装甲兵器研究 開発の開始時期と教育投資増大の時期は合致することもある。

 郷土兵(ラントヴェーア)という家族や親戚、友人、恋人、知人……在りし日の将兵の日常を構成する者達と共に戦列を形成するという部分を極限まで生かされた形である。

 本来、軍隊では近しい者を同部隊の編成に加えるのは避けることが基本。感情が命令を妨げる余地が生じるからである。

 ヴェルテンベルク領軍、郷土兵(ラントヴェーア)が勇猛であることは、シュットガルト湖畔攻防戦に於ける〈義勇装甲擲弾兵師団(フライヴィリゲンパンツァーグレナディーレ)〉が証明したが、トウカは戦列を共に形成する近しい者達を護ろうとする感情の発露であると考えていた。しかし、〈第一装甲聯隊『ラインバッハ』〉の存在を踏まえると、意思疎通の面で通信以上の速度での連携というものを長年の人間関係に期待したのかも知れない。

 ――そう言えば、リシアが指揮官だった歩兵大隊の司令部も友人と後輩を集めて編成していると言っていたな。

「……閣下? 宜しいですかな?」

 怪訝な顔をしていたのか、タルヴェラの声音には気遣う色がある。

 口元に右手をやれば、知らず知らずの内に笑みが浮かんでいた様で、トウカは表情を引き締めて応じる。

「ああ、済まない。そう怪訝な顔をしてくれるな。なに、装甲姫の偉大さを改めて実感しただけだ……それで、何用か?」

「はい、閣下。再終結後は被害集計と再編成を行いますが、機甲戦力は三割を喪失。兵力は二割を失ったと推測されます」

 大凡(おおよそ)の被害集計に、トウカは鷹揚に頷く。

 想像以上に喪った。

 六個師団を壊乱状態に持ち込み、一四個師団を超える戦力を相手に遅滞防御を行ったのだ。敵砲兵戦力の漸減を意図した装甲聯隊の突入も被害増大の理由の一つである。

 無論、対戦車戦闘の彼我被害数(キルレート)で言えば、三六対一を超えていると推測されている為、純粋な消費行動としては悪いものではない。有力な対戦車兵器のない帝国陸軍を相手に、携帯火器対策として魔導障壁や空間装甲(シュルツェン)を装備したⅥ号中戦車B型は大きな優位性を確保している。対空戦車中隊の機関砲も彼我被害数(キルレート)を稼ぎ出すという点では戦車に負けてはいなかった。

 無論、空間装甲(シュルツェン)の装備で複雑化した整備や、障害物に接触することで破損して履帯に巻き込む事などを防止する為、支持架に引っ掛けるだけとなっていることから、走行時に金属の軋みと接触音で評判が悪かった。それを強制した甲斐があったというものである。代償に履帯部分の空間装甲(シュルツェン)撃破符号(キルマーク)の塗装を黙認する事になったが、陸軍を相手に自慢して回る程度なら懐は痛まない。多少の見栄を張らせこその度量である。二次大戦後の新任総理大臣が戦時中に一政治家として独断で停戦を模索し、戦後は軍の権威を(もっと)もらしく掣肘するかのような発言で左派勢力を台頭させて国力を蕩尽(とうじん)させた例もあるのだ。どれ程に尤もらしい発言をしようとも政治家は結果が全てである。そして、軍人もまた同様である。

 タルヴェラが窺う様に提案を口にする。

「〈第五航空艦隊〉所属の三個戦闘航空団……詳細な内訳としましては〈第一四戦闘航空団『ベリヘライ』〉、〈第一五戦闘航空団『ワリウネクル』〉、〈第一六戦闘航空団『クトゥネシリカ』〉ですが、これらによる制空行動を継続させてはいかがでしょうか?」

 V四号飛行爆弾の存在とマリエンベルク城郭内の撤退準備行動が航空偵察に晒されぬ様に輪番(ローテーション)で制空権の確保の為、エッセルハイム近傍の航空基地より進出していた。

「噛まずに言えた事は褒めてやるが……〈第五航空艦隊〉は功を焦っているのか?」

 既に相手も遅滞行動だと判断しているだろう。

 現状での積極的な制空権確保は敵軍に積極的な行動を選択させる可能性がある。

 再度の毒瓦斯(ガス)使用に対抗すべく混戦に持ち込むなどという行動を取られた場合、トウカは大きく数を減らした戦力で対応せねばならなくなる。

「閣下であればそう仰られると思っておりました。いえ、其方(そちら)もあるのですが、帝国軍航空戦力を可能な限り漸減したいとの意向です」

 理解できないでもない、とトウカは頷く。

 ここで皇国側の航空戦力が増大した場合、帝国側も航空戦力の増援を図るだろう。装備と練度の面で劣る彼らの航空騎だが、航空優勢の原則が広く知られるにつれて順次増強されることは疑いない。そうなる以前に航空騎を一騎でも漸減しておこうとする意図は理解できた。

「今回は却下だ。だが、その機会は作る心算だと伝えろ」

 以前は冷遇されていた航空部隊だが、これからの戦争の主役と成り得る可能性が認知された事で、彼ら自身も焦燥と欲を見せている。心情は理解できるが、指揮統制の都合上、手綱を今一度握り直す必要があるかも知れないと、トウカは表情を引き締める。

 ――ハイドリヒ少将に相談すべきかもな。

 この時、トウカはクレアが困難に直面していた事を知らなかった。

 

 

 

 

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 決断とは、目的を見失わない決心の維持に他ならない。

               《亜米利加(アメリカ)合衆国》連合国遠征軍最高司令官 陸軍元帥ドワイト・デヴィッド・アイゼンハワー