第一九二話 先鋒を担う者
「撤退を開始する」トウカは命令を下す。
帝国軍はマリエンベルク城郭内の重砲の射程外に展開し、沈黙を保っていた。
マリエンベルク城郭から上げられている偵察気球による観測では、帝国軍の陣地内では戦死者と思しき遺体が積み上がっていると報告が上がっていた。凍えた 大地を掘って埋葬する苦労など必要なく、本来であれば凄まじい規模で起きた砲兵戦の結果、地面に空いた無数の穴に落としてしまえば済むはずであるが、何故 かそれは成されていない。
遺体そのものが、まるで墓標であるかのように積み上げられている。何かしらの意図があるかまでは、トウカにも読めない。
トウカは、その報告を流した。友軍の軍事行動に影響を及ぼすものではないと判断したのだ。
「静かなものですな。遺体が片付けば、〈第三親衛軍〉だけで進出してくると思いましたが……」
タルヴェラの言葉に、トウカはエルメンライヒが座っていた要塞駐留軍指揮官の座席に腰を下ろす。どうかね、とエルメンライヒの様に目深に軍帽を被って両手を組む。トウカの近くで護衛を務めるエイゼンタールとキュルテンが苦笑を零した。
「リディアはそこまで無能ではない。中将は、この戦場での解と皇国防衛の解が違うものであると理解していないな」
「皇国防衛の解、ですか?」
戦術的視野と戦略的視野とも言える。
確かに、〈第三親衛軍〉の攻勢の前では大きく損耗した〈第一装甲軍団〉では不利なものがある。充足していたとしても、兵力規模に大差がある以上、勝利は難しい。
だが、機甲戦力との衝突で〈第三親衛軍〉は少なくない被害を受けるだろう。他部隊を投入したとしても同様である。
今まで犠牲を恐れなかった帝国軍だが、ここで毒瓦斯による予想外の大被害を受けた。直接の交戦を含めると戦列から離れるものは総計で四〇万を超えると推定している。この状況下で、有力な戦力を消耗させては皇国本土での戦闘で支障を及ぼす。
所詮は一個軍団。限定空間で大規模な兵力展開が不可能だからこそ互角の戦闘が可能であり続けている。ここで無理をして撃破する必要性は薄い。
元来、エルライン回廊での戦闘は、帝国軍からすると費用対効果が酷く悪い戦闘なのだ。
必ずしも必要ではない戦闘であり、回廊内での決戦を求める必要はない。マリエンベルク城郭のみが目標であれば、包囲戦という選択肢ある。敵に増援もなく、撤退行動をしていると思しき状況で、無理に決戦を要求する必要性は純軍事的にはない。
「リディアからすると、此方は所詮、消耗した一個軍団と野戦能力に劣る要塞駐留軍。しかも砲兵戦力の損耗は相手に露呈しているとみて間違いない」
弾火薬の不足で砲撃を中止した砲兵は少なくなく、何よりもマリエンベルク城郭の砲兵陣地自体の弱体化は曳火砲撃の減衰から感じ取っているはずである。
だが、此方には機甲戦力がある。その機動力から歩兵戦力が対処できない機甲戦力だが、砲兵との連携がなければ十全の働きはできず、寧ろ壊滅的な損耗を蒙るだろう。
にも関わらず、何故、展開し続けているのか?
国軍はそれを疑問に思うだろう。阻止行動の構えから、そこに敵軍が勝機を窺っている可能性を探るだろう。
機甲戦力を、トウカがどの様に運用し続けていたかと言えば、高い機動力で主導権を取り続けたと言える。防御行動であっても、能動的な機動で一翼を撃破して側面を突き、後方を擾乱する。輸送車で随伴した装甲擲弾兵の直協支援によって戦果を拡大し、共に随伴する自走砲も準備攻撃や支援砲撃に柔軟に対応する。
正に陸を往く艦隊である。あらゆる状況に対応すべく様々な兵装を装備した戦闘艦。
だが、重要なのはそこではない。
重要な点は、機甲戦力が化学兵器に対する防護手段を有するという事である。
現にサリンを使用する際、戦車や自走砲、対空戦車などの装甲兵器は消耗を承知の上で前線を支えた。後退せず、歩兵の接近を赦しても尚である。特設の輸送車は別として、ヴェルテンベルク領で生産された装甲兵器の大多数は対化学戦処理が施されているからこその芸当であった。
「俺が何故、密閉性の高い装甲車輌を後衛にして敵を押し留めたと思う? 化学兵器に対応できると晒してまで。足止め? ああ、その通りだとも……そんな言葉を全面的に信じた奴ばかりで驚いたが」
トウカの世界でも、主力戦車などは対ABC防御……放射能に生物兵器、化学兵器への防護手段を備えており、神盾艦などにも搭載されている。第二次世界大戦(WWⅡ)でも、《大日本帝国》海軍が《亜米利加合衆国》海軍が艦隊決戦で化学兵器を使用するという誤情報を受けて、戦艦などの主力艦艇では対化学戦装備と専用訓練が行われていた。対化学戦訓練に於ける白霧に包まれた〈長門〉型戦艦の写真は余りにも有名である。
「確かに、装甲部隊の後退速度に歩兵主体の帝国軍前衛が追随できるとも……彼方の戦車は最高速度も御粗末ですからな。少数の騎兵……いや、そうか」
タルヴェラは鼬特有の細長い尻尾を丸める。
獣種は獣耳や尻尾で感情を表す事が多く、タルヴェラの様な戦国武将を思わせる巌の如き容貌でも愛嬌を感じてしまうことが多々ある。ザムエルの「女が接待 してくれるような店だと、尻尾付きの中年は受けがいいんだよ」という言葉も嘘ではないのだろう。感情を推し量る基準があれば組みし易い。
「毒瓦斯の使用時にも運用できる兵器があると見せつける為ということか!」
正解である。
意外なことに、化学兵器に彼らが肯定的であることにはトウカも驚いていた。それは皇国特有の魔導国家と謳われる所以の一つとされる国民の魔術習得率の高さからきているのは疑いない。国民の殆どが対策を常に手にして生活している以上、報復として使用されたとしても甚大な被害を及ぼす可能性は低い。その点が恐怖心を大きく低減させているのだと、トウカは見ているのだ。ましてや魔術的な医療手段まであり、血中の毒素を魔術的に休眠状態にできるとも聞く。
近代では人類の禁忌に等しい扱いをされたABC兵器の一角が矮小化されたという事実は、理不尽以外の何ものでもない。
トウカは曖昧な笑みを浮かべる。
「此方が常に毒瓦斯を使用する条件を揃えていると見せて、交戦を躊躇わせる訳ですな」
「その為に装甲車輌の部隊再編を露骨に城郭外で行っている」
露骨に装甲兵器だけが展開していれば、彼らが化学兵器を使用されぬ様に混戦に持ち込む意味は限りなく霧散する。
心理戦に近いそれに感嘆の色を隠さないタルヴェラ。
しかし、トウカはそれどころではなかった。
所詮、心理戦。確実な保証があるわけでもない。犠牲を前提にすれば、リディアが〈第一装甲軍団〉と〈エルライン要塞駐留軍〉を押し潰せるという点は変わらないのだ。
何より、化学兵器に対する効果的な防護手段が、魔術に頼ることで簡単に構築できるという事実に気を重くしていた。近い性質を持つ生物兵器すら怪しいものがる。
ABCの内、BCの効果を疑問視せねばならない。残りはAしかない。Aとは、即ち核兵器である。
あの金持ちの、持ち得る国の兵器を研究開発するなど悪夢である。実戦配備など容易に国を傾けるだろう。大日連がそれを成したのは、米帝や《欧州国家社会主義連合(EFU)》との力関係を維持せざるを得ないという状況からに過ぎなかった。《大日本帝国》世界最強の聯合艦隊を、太平洋で互角に争った《亜米利加合衆国》の海軍任務部隊を壊滅させたのは超重爆の維持管理と核爆弾、弾道弾配備であるとさえ言われているのだ。否、《亜米利加合衆国》に関しては、それ故の景気悪化が原因の一つとなり米帝が成立した。
《ヴァリスヘイム皇国》は中小国ではないかも知れないが、大国であるという訳でもない。少なくとも帝国という大国が存在し、周辺大陸には大陸統一を果たした《ローラシア憲章同盟》や《エルゼンギア正統教国》という超大国が存在する。
その国力差は隔絶したものがある。核兵器の開発と生産が成功し、尚且つ、投射手段を実戦配備したとしても、その技術情報が大国や超大国に露呈した場合、 どのような結果となるか、トウカには分からない。少なくとも魔導技術による空間遮断や冷却、質量操作……それらを使用した場合、明らかに実用化までの難易 度はトウカの知る開発過程よりも低下する点だけは確実である。
皇国が大陸統一すら果たせない状況で核兵器による冷戦構造の成立は好ましくない。
しかし、冷戦構造すら成立しない可能性とて有り得る。何処かの阿呆が 通常兵器感覚で使用し、無秩序な応酬とならないとも言い切れない。増してや超大国の二つも禄でもない。大日連や米帝、欧社連(EFU)などの様に聡明な指
導者に統率されている訳ではなかった。《エルゼンギア正統教国》は胡散臭い宗教を国是に頂く宗教国家である。対する《ローラシア憲章同盟》も多種族、多民 族国家として成熟しておらず、国民は国際的視野など持ち合わせてもいない。国民という無分別な暴君に率いられた国民帝国主義とでも言うべき国家である。
つまり、今暫くは通常兵器による単純な軍拡競争となる。そうせねばならないし、何よりそうするしかない。強力な兵器を知識として理解しても、その研究開発の時間と資金を捻出する為、皇州同盟はまず何よりも帝国主義者を通常兵器で圧倒せねばならない。
「要塞駐留軍の撤退完了時刻に合わせて我々も撤退する。要塞爆破の準備も進めておけ」
今は受け身となるしかない。要塞防御とはそうしたものである。少なくとも、帝国を含めた諸外国にはそう考えてもらわねばならない。
トウカは、皇州同盟がより多くを得る為に行わねばならぬ綱渡りに神経を尖らせていた。
「敵軍、撤退します!」
リディアは、その声に苦笑する。
余裕を持った撤退は、撤退ではなく後退と言う。その違いが判らない木っ端の師団長達が喜色を浮かべている。無論、リディアが直々に集めた人材で構成される〈南部鎮定軍〉司令部の面々は一様に沈黙していた。
異様な規模の被害を出し、それが直接的な要塞攻略だけでなく化学戦なども含んでいるという事実は大きい。
失われた兵力、約四〇万名。
このエルライン回廊を巡る一連の戦闘に於ける戦傷者数である。無論、戦死者だけでなく、戦闘不可能となって後送された将兵をも含めた数であるが、〈南部 鎮定軍〉は半壊とも言える被害を受けたことになる。当然、その大部分は当初から予定されていた二線級の師団や辺境軍、懲罰部隊が大半を占めているものの、 その規模から帝国の国防戦略に大きな影響を及ぼすのは疑いない。
「狂気の有様ですな。一つの戦役を上回る被害が短期間で生じるとは」
ブルガーエフの言葉を、リディアは鼻で笑う。
相手は多種族国家であり、その政戦にトウカが関わっている。戦力差など在ってない様なものに過ぎないと、リディアは確信していた。
殺意が軍装を纏ったかの様なトウカが、己の前に立ち塞がろうとしている。よって僅か四〇万名の戦傷者に過ぎないと言える。
これより先、遥か多くの犠牲者が生じるだろう。既にオスロスクなどの国内都市が爆撃を受け、最低でも二〇万名が生きながらに火葬されたのだ。本土爆撃を受けて尚、被害があまりにも甚大である事から死傷者数が判然としないこともあり、それ以上の死者数となる可能性が高い。
既存の戦争を超えた被害が短期間で生じており、それはこれからも続く。帝国の誰もがエルライン回廊を突破すれば兵力差によって圧倒できるという根拠なき 自信を抱いているが、リディアはそうは思わない。そして、エカテリーナも同様の見解を示しており、その上で犠牲を許容する構えを見せている。
誰も彼もが後になり気付くだろう。帝国〈南部鎮定軍〉が、皇国北部に誘い込まれつつあることを。
甚大な被害に加えて本土爆撃まで許して中都市が焼け落ちた。エルライン回廊の保持如きで満足するはずもなく、当初に謳われていた皇国全土の占領が声高に銃後では叫ばれている。
撤退という選択肢はない。
妥協という選択肢もない。
望むところ。自らの指揮統率の宜しきを受けて将兵を死地に送ろう。リディアはその覚悟を開戦以前に決めていた。
だが、それでいいのか?
あの何時かの赤子を川に投げ捨てようとしていた貧しき母を救い上げることが、戦争によって叶うのかという疑問は多くの決断に付いて回った。
しかし、ここで負ければ国内の困窮は一層と酷いものとなる。
リディアは知っている。国際的に帝国臣民が政治的成熟度の面で酷く劣っているとされている事が事実ではないと。
確かに、不満はあれども、誰が政権を握るかという点や、いかなる政治体制を選択するかという点について帝国臣民は然したる関心を示さない。教育制度の不 備からくる低い理解度という要因もある。だが、それ故に重要視するのはどのような政治が行われ、どのような結果が出るかという点であった。その点のみを見 ていると言っても過言ではない。
故に民主共和制の様に口先で咄嗟的な支持を取り付けられない。善政を布くならば、指導者の主義主張や政治形態など気にも留めない。ただただ、政策から生じる結果のみを以て支持する。
神聖にして不可侵たる帝王でも門閥貴族の精華たる大公でも、大軍の指揮権を掌握する元帥……誰であれ結果を出すならば許容する。無論、赤い教典を携えた 書記長でも例外ではない。寧ろ、生活水準を上昇させ、平民階級の権利拡大を唱える彼らは絶大な支持を受ける要素を有している。
指導者の容貌や性格、過去、主義主張という部分に囚われず、実感した結果のみを判断材料とする。民主共和制下にある民衆よりも遥かに端的な判断基準であり、力量ある者を区別せずに政治を行使することを許容するというある種の苛烈さ。
リディアは、そうした部分を踏まえ、帝国臣民が政治的に未成熟だとは思わない。善政を布き続けるならば、指導者や政治体制など民衆は問わないという意味では彼らは酷く現実主義とすら言える。
ただ力量のみを帝国臣民は追及していると言えるのではないか?
建前や誹謗中傷も邪心も酷薄も、善政という結果の前には許容されるという割り切り。だからこそ如何なる者ですら指導者に成り替わる余地がある。結果を出せば簒奪すら当然の如く肯定されるのだから。赤い教典を携えたミリアム・スターリンですら、簒奪後に結果を出せば許容されてしまう。
そう、リディアの敗北は、祖国の滅亡に繋がりかねない可能性を孕ませている。敗北によって結果を出せない事が明確となれば、結末は歴史は示している通りとなる。
「勝たねば、な」
座した窓際から曇天を見上げ、リディアは呟く。
然して大きくもない声音。その一言に〈南部鎮定軍〉司令部の面々が沈黙する。参集した各師団長すらも例外ではなかった。その自然体にして遠くに想いを馳せたかの様な横顔。誰もが沈黙を余儀なくされた。
しかし、沈黙を破る者が現れた。
「元帥閣下に御進言致したく!」
「ユーリネン少将か」
一人の歳若い少将。
三〇に辛うじて届くか否かという顔立ちに、貴族然とした気品ある所作を以て窓際のリディアの前に進み出ると、軍用長外套を翻し、右手を胸に当てて傅く。
酷く何処かの神に愛されたであろう顔立ちは流麗であり、世の女どもが目を奪われるであろう造形をしている。今は亡き文明の彫刻が如く細やかであった。
リディアは一瞥するに留める。見てくれだけの男など現世には数多く在る。然して感情を呼び起こすものでも目を奪われるものでもない。
「はい、元帥閣下」
「申せ」
優し気な笑みを湛え、名を覚えていたリディアに好意を向けるかの様な眼差しを捨て置き、リディアは短く進言を促す。
「敵軍の動向を探るべく、我が師団に露払いをお任せいただきたい」
ざわり、と〈南部鎮定軍〉司令部の空気が揺れる。こうも堂々と一番槍の栄誉を求める者が出てこようとは思いもしなかったが故である。エルライン回廊攻略 戦に於ける命令違反で処分された将校は三〇〇名近い。将官からも六名が銃殺されており、リディアの〈南部鎮定軍〉司総令官の権威は苛烈な信賞必罰によって
確立されたと言っても過言ではない。命令を遵守し、尚且つ活躍を見せた者には野戦昇進が言い渡されるが、命令違反からなる失敗には速やかなる銃殺を以て応 じる。
そうした経緯もあり、リディアに直接意見具申する師団長は少ない。〈南部鎮定軍〉司令部付きの将官達を経由する。本来はそれが普通であり、以前の欲に目が眩んだ者による直接な意見具申こそが異常であった。
今となっては、ユーリネンの意見具申は珍しいもがである。
「先鋒を望むか?」
「はい、望みます」
即答して見せたユーリネンに、リディアは気概と打算を気取った。
ユーリネンは子爵位を拝命している貴族であり、陸軍少将として然したる活躍を見せたとはリディアも聞かない。師団長を務める師団は〈第二六四狙撃師 団〉。長銃身によって一m五〇㎝程にまで全長が延伸された狙撃銃を装備する部隊を擁する歩兵師団である。それ以外に特筆すべき点はなく、策源地は帝国東部
に位置する沿岸都市ドヴィナ。帝国東部は人口が少なく、主要な政治勢力の介入が見られない土地でもある。
なれば、政治的必要性からの意見具申ではない。無論、戦果という実績を手にどこかの政治勢力に自身を高く売り付けるという可能性は付き纏うが、他の活躍を狙う師団長達を出し抜いた点を、リディアは“面白い”と受け取る。
師団長達はどこかの政治勢力に所属している者が少なくない。それらの顰蹙を買う事を承知で進み出る真似をするのは中々に冒険である。足を引っ張られ、敵 意を示され、行動を制限されかねない。勝算があるならば良し。打算があるならば良し。負けても皇州同盟軍の動向を探る程度の交戦は可能なはずである。
野心と言うのであれば、尚更に好ましいが、リディアは問わない。その行動を以て示すならば良し。
「アンドロポフ少将とアレクセイエフ少将も連れていけ」
リディアとしても中々な戦巧者と評価している二人の師団長の名を告げる。共に政治色のない武辺者で、政治が軍事に介入することを酷く嫌う職業軍人であった。軍事行動に於いて派閥意識を持たず、軍事的知見のみを判断基準に指揮できる帝国に在っては稀有な将官である。
この瞬間、三個師団が先鋒を担う事が決定した。
「姫様っ!」
「佳いのだ、爺や」
慌てるブルガーエフを、リディアは視線も向けずに制する。
どの道、偵察は行わねばならない。リディアの見たところ皇州同盟軍は、散兵戦術の延長線上とも言える戦術を基本としている。その本質は少数部隊による擾 乱と、高機動部隊による迂回行動に突破。遅滞行動と後方兵站線への攻撃にあった。砲兵部隊の重視は主力の足止めを目的とし、装甲部隊は迂回と突破、それら の運動的な軍事行動を支援する為の航空部隊。
より広範囲を戦場とし、空までをも戦火に染め上げた。全ては敵軍の後背を突く為に。
リディアは軍事すらも感覚的に判断するが、それ故に本質を捉える。
通常の戦略ではトウカに優越できないと、姫将軍の直感が叫ぶ。故に帝国陸軍に於ける既存の戦略を無視した先鋒を差し向けるのも悪くはない。
硬直した大軍による戦闘ではなく、現場判断に基づく三個師団による能動的な偵察であれば、或いはトウカの思惑の梯子を外せるのではないかという期待も あった。最悪の場合であっても、戦巧者であるアンドロポフのアレクセイエフであれば被害を最小限に撤退できるとの打算もある。
「好きにやって見せるといい。だが、余計な被害を出すな」
ブルガーエフの、感心しないという視線を感じつつ、リディアは厳命する。
参謀による進出地域の策定なども本来は行うべきであり、当初の作戦計画も存在するが、三人の才覚による行動からなる多様性に委ねるべきであると、リディ アの直感が告げていた。当然であるが、皇州同盟軍が既存の帝国陸軍の戦略に沿って十分な規模の戦域で大軍による攻撃であることを想定するならば、〈南部鎮 定軍〉はその思惑に乗らねばよい。
その判断要素に敵の戦力配置を加えるべく三人に先鋒を命じるのだ。
「はい、了解しました、元帥閣下」
衣擦れの音と共に下がる気配。
リディアは曇天を見上げ続けていた。ブルガーエフが近づく足音など気にも留めない。
リディアは気付いたのだ。このエルライン回廊を巡るトウカとの戦闘で。
或いは、己個人ですら臣民に利益を齎せるならば帝国臣民に肯定されるのではないか、と。
そう、簒奪は誰しもに赦された贅沢なのだ。
「その様な視線を向けられる謂れはあるのですが、向けないでいただけませんか?」
これでは話ができない、と青年は言葉を重ねる。
アレクサンドル・ドミトリエヴィチ・ユーリネン。
金髪碧眼に一流の彫刻家が仕上げたかの様な造詣美を其の儘とした美丈夫のユーリネンに対するは、二人の硬骨の武人であった。
大層と立派なカイゼル髭を揺らすアレクセイエフに、無秩序な口鬚を蓄えたアンドロポフだが、二人は体格も近しいことから並ぶと異様なまでの威圧感を醸し出す。片眼鏡越しに垣間見える知性を持つアレクセイエフ少将と、凶暴なまでの戦意を湛えた瞳を振り翳すアンドロポフは指揮官としては相反する気質を持つが、戦場での連携は阿吽の呼吸と呼べるものがある。
痩躯のアレクセイエフが探る目付きで、ユーリネンを見据える。
「実績のない男の隷下に付かねばならない危険性は貴官も知っているだろう」
曇天を仰ぐアレクセイエフ。となりのアンドロポフが顔の下半分を覆う程の口髭を揺らして笑声を零す。
帝国軍に於いて平民、或いは下級貴族の将校は自らが捨て石とされない様に細心の注意を払わねばならない。捨て石の範疇は政戦問わずであり、他国の軍人達 が考えるように帝国軍の将校が政戦問わず上層部の意向に関心を寄せているのは立身出世の為だけではなかった。無謀な作戦に参加せずに済ませる為、或いは参 加已む無しの状況で後手に回らない様にとの保身である事が大多数である。
今回のユーリネンの言葉からなる突然の予期しない軍事行動。アレクセイエフもアンドロポフも、共に青天の霹靂であったに違いない。そして、それはユーリネンにとっても同様である。
「まぁ、いいじゃないか、戦友。槍働きの機会が増えたんだ。しかも、自由裁量だ」
アンドロポフが野太い声音で喜び、アレクセイエフの肩を抱く。
意外な事であるが、好戦的な様に見えて防戦の名手であるのがアンドロポフである。対するアレクセイエフは冷徹な意思を潜ませた瞳を持ちながらも攻勢に強 い指揮官であった。ヒトは見かけには寄らない例であるが、二人が政治にも優れた手腕を持つことは平民でありながらも少将の階級を拝命している事からも察せ
る。帝国には政治的無関心えあるがゆえに出世できるという幸運などありはしない。適度な政治的関心こそが、己の立場を堅持する。軍組織もまた政治による派 閥争いの主戦場なのだ。
「どちらにせよ、命令は下令されたのです。何より、御二方の人選は一重に元帥閣下によるもの」
そう、ユーリネンも兵力が三倍になる事など想定していなかった。二人の師団を隷下に付けるという判断は、リディアによるものでユーリネンの望むところではなかった。
戦力は三倍。つまり、一個軍団相当の規模となる。
有力な打撃戦力。ユーリネンの思惑は、他ならぬリディアによって修正を迫られた。
規模が大きくなればなる程に、相手が阻止に投じる戦力も大規模なものとなる。そうなれば航空騎による対地攻撃も本格化すると見て間違いない。それを阻止する戦力が皆無に等しい状況下で空襲を受ければ一方的な戦闘となる。
ユーリネンは皇州同盟軍を、サクラギ・トウカを畏れていた。
彼の特筆すべき点を戦略や謀略とする者は多いが、ユーリネンからすると違う。彼の驚くべき点は、問題の大部分を軍事力で解決している点である。
戦略や謀略などではない。
確かに以前とは一線を画した戦闘教義や戦術を用いているが、ユーリネンの見たところ以前のものの発展形に過ぎない。軍狼兵や装虎兵による機動打撃を装甲車輌が担い、それに追随できる魔導車化歩兵。酷く進化はしているが、既存の戦闘教義や戦術の延長線上にある事は変わりない。
彼は既存の装甲兵器や航空騎を改良、それに合わせて戦闘教義と戦術まで改良したのだ。
だが、それだけだ。
戦略や謀略は意外な事に、然して複雑に講じている気配がない。端倪すべからざることである。誰も彼もがサクラギ・トウカを誤解している。彼の奇蹟の如き戦果に目が眩んで、精緻な戦略や緻密な謀略と讃えて内情を探り、取り入れようとしている。
――馬鹿らしい。複雑な謀略と緻密な戦略が成功するのは出来の悪い軍記小説だけだ。
複雑にして緻密。なんと心惹かれる言葉か!
それを成すには莫大な労力と正確な情報、厳密な未来予測、何よりも幸運に恵まれなければならない。可能性の低い博打に等しいのだ。多くのヒトが関わるということは、不確定要素が増すことを意味する。
故にサクラギ・トウカは奇跡の体現者などではない。
純粋に暴力たる軍事力の強化のみで相手を殴り付けて、従わせるという単純明快な有様。本来、戦略や謀略とは複雑にして緻密である事は許されない。多くの 軍人が関わり、敵も存在するという事実は無数の不確定要素があるという事を意味する。その中で複雑にして緻密である事は往々にして悲劇を招く。兵器の機構
と同様で、単純であるこそ蛮用が可能となる。ましてや多数が動員される戦略など、複雑化は致命的失敗を招きかねない。
意表を付いても複雑にして緻密ではなかった。ユーリネンは、その点こそを畏れた。
どの国の国軍の高級将校であれ、その点を理解していない者は多い。己の知能と知性が勝利を齎すのだと意味もなく確信している。だからこそ前線に於ける情報の錯綜と、戦力の混乱を無視した戦略を求める例が多い。
その点を二十歳に満たない者が理解している。脅威などという生易しいものではない。
サクラギ・トウカが帝国に、己が手にした軍事力という名の棍棒で殴り掛かってきた時、それはその棍棒が帝国を砕くと確信した時に他ならない。
不謹慎な事に、ユーリネンは心躍らせていた。
戦乱の時代が近づきつつある事は各国の軍人の誰しもが実感しつつあるが、その象徴的な出来事がサクラギ・トウカによる皇州同盟成立であった。孤立主義政 策による多種族の保護と、高位種による強大な軍勢を有する皇国に於いて成立した極右集団。その指導者は先進的な軍事的視野を持つ英雄でもある。
正直、正面から挑んで勝利を得られるとは、ユーリネンも考えてはいないが、なにも正面から戦うだけが戦争ではない。
帝国陸軍は兵力による優勢に固執する者が多いが、ユーリネンは寧ろ家業として猟師を営んでいた者達を中心とした狙撃兵による浸透を意識していた。彼らは獣の鼻を誤魔化す術を身に着けており、森林地帯での戦闘では極めて粘り強い戦闘を期待できる。
遮蔽物の多い戦域で、複数の歩兵大隊による分進合撃を基本とした戦術をユーリネンは戦術として体系化しつつあった。当然ながら帝国陸軍のみならず、世界中の軍隊では情報伝達能力の限界から兵力の分散……散兵戦術は指揮統制の低下を意味した。
ユーリネンは散兵戦術の限界に挑み続けていたと言っても過言ではない。
だが、それは一足飛びに答えを見た。
サクラギ・トウカによるベルゲン強襲……そして後に続く内戦での戦闘であった。戦線が拡大し、大規模な会戦がなくなるという近い未来は各国の軍でも予測 されているが、対策自体は未だに模索段階にあった。ユーリネンは散兵戦術を突き詰め、それを支える組織体制と教育制度、兵器、戦闘教義の成立こそが次代の 戦闘体系の根幹を成すと踏んでいた。
彼はユーリネンよりも遙かに効率的な“散兵戦術”を行った。戦車による浸透は歩兵よりも遙かに強力な火力と装甲を有して平原でも進出できる。航空騎によ る対地攻撃は、戦線拡大によって著しく増大するであろう砲兵による火力支援要請を、圧倒的優速からなる広範囲への支援によって補い得た。挙句に、部隊運用 の迅速な点を見るに、通信大隊という部隊も関係していると見て間違いない。
ユーリネンは、散兵を指揮する指揮官の判断能力向上を急ぎ、隷下の〈第二六四狙撃師団〉では大隊規模でそれを成せるようにまで練度を向上させた。
しかし、サクラギ・トウカは通信能力の向上によってそれを成そうとしている気配がある。
ここにユーリネンの才覚の片鱗がある。
誰もが目を向ける装甲兵器と航空騎よりも、通信大隊を編制した点を重視したのだ。装甲兵器と航空騎はマリアベルによってある程度の完成を見ていた兵器で あり、以前の戦争でも使用された実績がある。それ故にユーリネンは割り切ったのだが、その割り切りこそが彼の長所であった。
ヒトを推し量る際、最も有効なのは、その最終目的を推察する事である。
装甲兵器と航空騎は確かに強力な兵器であり、その目的は高機動による打撃と、砲兵よりも精密な支援攻撃にあるのは明白である。だが、それらは攻撃の為の兵器である。既存の兵器に対して射程と威力は延長線上にあるに過ぎない。
しかし、通信大隊は違う。
〈ヴァレンシュタイン戦闘団〉は二個聯隊相当の戦力だとされているが、その内に大隊規模の人員を配置するというのは酷く偏った編制と言えた。一個大隊と は各国の陸軍毎に差はあれども、大抵は六〇〇~一〇〇〇名前後の人員を擁する。常識的に二個聯隊程度の部隊に大隊規模の通信部隊が配備された例は存在しな
い。詳しい顛末は報告書にも記されてはいないが、相応の規模の通信設備を有している事は疑いない。その輸送の為に相応の人員を必要としたに違いなかった。
彼は通信技術が広域化の進む戦場で有益だと判断している。
散兵を通信で統括できると見ているのだ!
ユーリネンは愕然とした。
海のものとも山のものとも知れない訳ではないが、魔術的な制約から魔力が乱れる戦場では魔導通信は度々、途絶する。魔導士による砲撃戦が起きれば、まず 断線は免れない。設備の大型化である程度は対応できるが、受信側にも相応の規模が求められる為、小規模な部隊には配備できなかった。
あまりにも多い制約を、サクラギ・トウカは打破できると踏んでいるに違いない。
そうでなければ大隊規模の通信部隊を編制し、運用を試みようとするはずがなかった。内戦中、複数の部隊……特に連隊規模の部隊には配備されていた。少な くとも機動打撃を担う戦力には必ずと言ってよい程に配備されている。情報の錯綜している陸上戦艦とも言われる兵器も、或いは通信設備を堅固なまま、迅速に 陣地転換する為ではないかと、ユーリネンは睨んでいた。
だからこそ、確認せねばならない。帝国崩壊後、新たに生まれる国家を支えねばならないのだ。
ユーリネンは往く。何よりも、己が至尊の頂へと上り詰める為に。
「些か個性的な提案をさせていただきたいのだが、宜しいだろうか?」