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第一五七話    動き出す者達




 トウカは、(くしゃみ)を一つ。

「頭が痛い喉が痛い腕が痛い……」トウカは布団の中で唸る。

 風邪を引いたトウカは、軍医によってロンメル子爵領の邸宅へと送還されたのだ。

 体調を崩した原因は明白であり、不眠不休での演説活動であった。

 北部地域の中でも有力な都市を戦闘爆撃騎で回り、寒空の下で演説活動を続けた結果であった。腕の痛みはフェルゼンの大衆酒場(ブロイケラー)で二階席から飛び降りてきたリシアを受け止めた代償である。その瞬間を写した写真が翌日の朝刊に乗っていたのは、憲兵隊の怠慢か情報部の離脱による混乱か判断に悩むところであった。検閲能力の低下は領地運営の死活問題となり得る。

「主様、大丈夫ですか?」

 絞った手拭いをトウカの額に乗せたミユキが、心配そうに覗き込んでくる。

 トウカは無言で頷くと、布団から右手を差し出す。

 ミユキは、太陽の様な笑みでトウカの右手を両手で包み込む。

 ヒトは病気になると弱気になるというが、トウカは自身が例外であると考えていた。しかし、実際にその立場に置かれると分かる。眼前にいる最愛のヒトを護れない程に力を削がれる感覚というのは、考えていた以上に焦燥感に駆られるものがあった。

「辛そうです……」

 問題ない、そう口にする事すら億劫な状況。

 ただミユキの手を握るしかない。

 だが、それだけで酷く落ち着く。

 トウカにとってヴェルテンベルク領での日々は、その未だ然して長いとは言えない人生の中でも特別なものであった。戦時下で、尚且つ要職にあった為、相対 的に重大な状況への対処に追われたというコトもあるが、そうした理由があるからこそマリアベルと巡り合えたことをトウカは理解している。ミユキもマリアベ ルも、闘争の時代であったからこそトウカに赦された贅沢なのだ。

 武力を効率的に用いるという長所が彼女達を繋ぎ止めたのだ。

 ――全く……詰まらないことばかり考える。

 だが、ミユキを見ているとそんな思いは紛れる。

 この大地へと堕ちて比較的早い段階で階級という地位を得たトウカにとって、そうした部分なく自身を見た女性というのは数える程しかいない。ミユキとマリアベルは勿論、二人を除けば近しい人物としてはベルセリカ程度のものである。

 そして、トウカは猜疑心と不信感に依って立つ男であった。

 皇国陸軍中将の立場を得たトウカにとって、自らに笑顔と好意を持って近づく女性は全てが何かしらの意図と思惑を携えているに等しい。現に北部貴族や大商 家からは令嬢を紹介され、愛人で良いので貰ってやってくれないかという紹介状が幾つも舞い込んできている。そうした紹介状は、リシアがそれを見て欠点を(あげつら)った上で、ミユキが狐火で念入りに焼却処分していた。

 権力者に群がる有象無象は、あらゆる状況を利用する。権力者の恋愛感情も例外ではない。

 トウカには、権力の後ろ盾を得て自らの前に立ち、恋愛を語る女性が酷く汚らわしく見えた。無論、ミユキやマリアベルが、自らが何も持たない異邦人であっ た頃に出逢えたのは偶然に過ぎず、現状で声を掛けてくる女性達の中にも純真な気持ちを胸に抱いている者達がいるかも知れないとは理解している。

 だが、それでも、トウカの心が忌避感を叫ぶのだ。

 御前の目的は何だ? 何故、近付く? 何を隠している?

 心にまで踏み込ませる程に想いを寄せる事はできない。リシアの場合は明確に好意を示しながらも、トウカを利用して野心を満たすと明言している。清々しくあり、油断はできないものの戦友としては信頼できた。

 そして、マリアベルが喪われた今、ミユキだけが唯一無二となった。

 トウカにとって、この北の大地こそが今の故郷なのだ。

 定めに背いた瞳に映る仔狐の笑顔。

 それは光を齎すもの。

 既に己の瞳の色がどの様なものであったかなど忘却の彼方。

 己の戦争屋としての力量のみが仔狐の生存圏(レーベンスラウム)を……《ヴァリスヘイム皇国》を救うとトウカは信じていた。乱世に在って現状を打開するのは政戦両略を可能とする能力であり、優しさや善意ではない。無論、民主主義でもなければ自由主義でもない。そうした時代なのだ。

「……ミユキ」

「はい、主様……」

 握ったミユキの手に軽く力を籠めると、ミユキは尻尾を揺らして微笑む。

 トウカは風邪で動きを止めた。

 だが、ヴェルテンベルク領を中心とした駆け引きは激化の一途を辿っていた。










「死ね! どいつもこいつも! ああっ、金がないからって人の家の金庫を当てにするなんて良い度胸じゃない! このマリィの儀式で忙し……いやいや、それは」

 ヴェルテンベルク領政務部の執務室でセルアノは、執務机の天板を両手で叩き激怒していた。

 妖精が激怒する光景は幻想種としての威厳や神秘性を大いに失わせている。執務室に一人しかいない事は高位種の印象(イメージ)戦略にとって極めて幸運であったと言えた。神秘性の確保は幻想種にとっての至上命題の一つなのだ。

 セルアノは、手元の書類をびりびりと引き裂いて宙へと投げる。

 書類の紙片は執務室を舞い、そして床に落ちる前にセルアノの一睨みによって燃え尽きた。

 ヴェルテンベルク伯爵家の政務を取り仕切るセルアノは、爵位がマリアベルからマイカゼに継承されても尚、首席政務官の座にあった。財務府などからの招聘を、文字通り蹴り(官僚を足蹴にするという意味で)、ヴェルテンベルク領で辣腕を振るい続けている。

 特に陸軍からは教導官の派遣や装甲兵器と航空騎用装備の提供、海軍からは戦艦二隻と艦載砲の技術提供の依頼が舞い込んできており、それを上手く捌くには トウカだけでは無理があった。対価に資金を巻き上げられるだけ巻き上げようとするならば、セルアノの活躍は不可欠なのだ。

 しかし、余りにもトウカが強欲に過ぎた。

 海軍が〈剣聖ヴァルトハイム〉型戦艦二隻を欲した為、来年度予算に重巡洋艦二隻分程度の特別予算を計上させて、それと引き換えにするという提案で双方が一旦は合意した。合意したのだが……

「“現状”の〈剣聖ヴァルトハイム〉型戦艦二隻を永久貸与する……ええ、サクラギ中将は嘘を言っていない」

 嘘は言っていない。

 ただ〈剣聖ヴァルトハイム〉型戦艦二隻が共に船渠内で大中破している。

 それを、そのまま曳航して引き渡そうとしたのだ。

 海軍は当然ながら卒倒。

 自らが保有していない長砲身四一cm砲を搭載した大型戦艦に恋い焦がれていたと言っても過言ではない海軍としては、万全の状態で引き渡されるとばかり考 えていたのだろう。海軍は主力戦艦二隻を戦列から永遠に喪い、新型巡洋戦艦一隻を擱座させている。即座に戦力化できる主力艦を渇望しているという点を利用 して、トウカが交渉を自らの思惑通りに進めたのだ。

 その上で、トウカは修理するなら“別料金”だと嗤ったのだ。

 確かに、長砲身四一cm砲の生産設備は稼働停止状態であり、再稼働させるには時間も資金も必要となるが、それを差し引いても吹っかけた金額に海軍総司令 部は大激怒。しかも、トウカは砲身の再生産など面倒だと、“別料金”を受け取り次第、共通規格となっている機動列車砲の砲身を転用する心算であると、セル アノは聞いていた。

 激戦によって摩耗し、砲身命数が限界に近づきつつある砲身を搭載しようというのだ。鬼畜の所業である。演説で挙国一致を訴えながらも、足を引っ張るとこ ろでは確りと引っ張り、毟れるところでは抜け目なく毟る。優れた軍政家や戦略家というよりも、人格の破綻した守銭奴にしか見えなかった。

 海軍が激怒する事も致し方ないことである。

 しかも、長砲身四一cm砲の生産設備も纏めて“別料金”で売りつけようともしていた。

 挙句の果てには機動列車砲を可能な限り欲している陸軍と長砲身四一cm砲を欲している海軍の間で受け渡しの割合を交渉するように提案すらしていた。陸海軍の不和を意図した遣り方であり、製造企業のタンネンベルク社にまで声を掛けてそうした方向に誘導する心算でいた。

 守銭奴も甚だしく、セルアノとしては呆れて声も出ない。

 確かに、ヴェルテンベルク領の復興には多額の資金が必要となる。北部の公共施設(インフラ)、特に鉄道の敷設や道路建設にまで手を伸ばす事で権益を得ようとしている以上、資金はどれ程あっても困る事はない。

 ヴェルテンベルク伯が筆頭株主となっているヴェルテンベルク領内の軍需企業に増産命令を出し、陸海軍への優れた兵器を供給する対価を計算しても未だ目標 としている予算には届かない。資金を貪欲に集めるトウカを、資金を用意できなかったセルアノは非難できないでいた。彼女は世の中が金銭で動いている事を良 く理解しているのだ。

 寧ろ、自身が恨まれずに資金が調達できるならば望ましい事である。そう考える事で、彼女は心の余裕を捻出していた。

「エスメラルダ首席政務官、海軍艦政本部長から会合(アポイントメント)を求める通信が――」

「三日後に昼食を御一緒すると言いなさい!」

 秘書室へと続く扉から顔を出した秘書官の言葉に、セルアノは怒鳴り返す。

 トウカの金策によって生じたツケは、セルアノが後始末をしているのだ。

 必要な事であるとは理解できるが、トウカに「必要だからやれ」と言われて行うのは、不愉快極まりない事である。自分からマリアベルを奪い、好き勝手に振る舞った女帝夫君の如きトウカに対し、セルアノが好意的であるはずがなかった。

 ――何が借りは後で寝台(ベッド)の上で返す、よ! 手籠めにしたら何とでもなるとでも思っているのかしらね!

 書類の内容に目を通しつつ、セルアノは溜息を一つ。

 ミユキもマリアベルも、何故あの男に好意を寄せたのか分からない。或いは共に横柄な態度を取り、尚且つ自らより身体能力と魔導資質に劣る者が魅せる気概 というものにでも惹かれたのかも知れない。自らの限界へと挑むかの様に、人間種でありながら並みいる高位種を押し退けて自身を護ろうとする難儀な男性が好 みであるというのか。そうであるならば、嘗てセルアノやイシュタルがマリアベルに紹介した男性達が一蹴された事も納得できなくもない。

 セルアノは、トウカを危険視する事を放棄できなかった。

 マリアベルはそれに対して良い顔をしなかったが、咎めなかった事からトウカの危うさを理解しているのだ。

 現在のトウカによる脅威は、軍産複合体の形成を意図した活動である。

「艦艇に戦車、火砲……さぞ作り甲斐があるでしょうね。手間と時間が掛かる上、費用対効果(コストパフォーマンス)もいい。大消費同然の大規模な軍需生産によって、慢性的な北部の不景気を改善していく……」

 解るのだ。正しい。

 《帝国という仮想敵国に対し、軍縮体制から抜け出そうとしている陸海軍という状況は軍需産業にとって極めて好ましいものである。ヴェルテンベルク領周辺 は天然の要害に近い地形をしている為に防衛も比較的容易であった。現状では軍需産業の拡充の為に政府や陸海軍との交渉も続けられており、資金や人員、資源 などの各種支援も大規模に受けられるだろう。

 皇国内の諸勢力にとって、北部の軍産複合体の成立は望ましい事なのだ。

 ましてや、トウカが帝国への脅威を高らかに唱えている状況は、臣民の危機感を増大させた。軍産複合体の成立を支援する事で臣民に諸外国の脅威に抗するという姿勢を示せる上、軍産複合体自体に影響力を持つ事も期待しているのだろう。

 或いは、軍産複合体を形成する核とも言える皇州同盟への牽制を意図したのか。

「でも、それは錯覚なのよ? 軍拡に伴う一時的な消費拡大に過ぎない」

 軍事産業は他産業と比較した場合、雇用数と比較して膨大な資金が必要になる事から、常態的な産業として選択できない。それを理解せずに行って亡国となった国など歴史上、掃いて捨てる程に存在する。

「最終的に膨大な負債が手元に残るだけとなりかねないでしょうね……」セルアノは執務室内を天女の様に舞う。

 妖精種は左右六枚の羽根に魔力を循環させる事で、空気中の魔力と反発させて浮遊する事ができる。原理は龍種と同様であるが、左右六枚の羽根がある為、龍種よりも遙かに小回りの利く飛行と浮遊が可能であった。そして、就寝時には浮遊している姿も珍しくない。

 だが、決して不貞寝をしている訳ではない。

 これからの皇国の行く末を考えているのだ。

 無論、トウカは軍需産業に依存する危険性を理解していると見ていい。民間企業に軍需に関連しているとは考え難い技術開発を依頼してもいる事から、民需転換の余地は見受けられる。

 そうなれば思考は常に同じ予測に行き当たる。

「少なくとも北部の経済状況が好転するまでは、戦争状態が継続すると見ている?」

 帝国との交戦状態が常態化するという判断であっても、常に交戦状態という訳ではない。帝国軍による皇国への侵攻は、規模こそ大きものの頻繁な事ではない のだ。周辺諸国と常日頃から軍事衝突を繰り返している帝国にとって、予算や兵力の問題から皇国に短期間に幾度も攻め入るのは難しかった。

 国内情勢さえ安定すれば、軍縮体制を解除する“程度”で帝国の侵攻は十分に防ぐのは可能である。

 ならば、どの様な状態で戦争状態が継続するのか?

 演説で口にした大陸統一を叶える為の他方面作戦か、或いは帝国領内への侵攻か。

 どちらにせよ傾国の一手としかセルアノには見えない。少なくとも採算は取れない。

 北部貴族は領地復興に多忙であり、政治勢力としての連帯を失いつつあるが、政府や七武五公に相談を持ちかけて、トウカに露呈した場合、暗殺されかねない。

 現にエップの指導の下、〈第八〇〇特務重装鋭兵中隊『ブランデンブルク』〉を中心とした義勇兵団である“皇州同盟軍”の編成が始まっている。

 皇国内では匪賊の増大や辺境の不安定化が生じた際、傭兵団を雇い入れる必要がある事に加え、建国以来から続く種族の存亡を掛けた戦争を続けていた。故に 臣民への武装が認められており、武装集団の編制に対して法的制限もない。流石に内戦の影響もあり制限する動きが出ているが、先んじて編制する事で常態化さ せようという意図が透けて見える。

 皇州同盟と、その指揮下にある皇州同盟軍。

 政治と経済にまで根を下ろした勢力が独自の軍事力を得ようとしている現状。

 内戦前夜と何一つ変わっていない。

 陸海軍に北部統合軍の過半数が吸収され、北部の統制から外れた戦力が多くなったものの、皇州同盟は貴族院と衆議院、企業との結び付を強めようとしている。露骨に政治や経済の中枢に踏み込みつつある以上、現状は重症化しつつあると言っても過言ではない。

 内戦は北部を護る為に発生したが、次は国家主権を握る為に発生しかねない。

「最後になるかも知れない会話は色気もないものになりそうね、全く……」執務室の窓を開け放ったセルアノ。

 そして一人の妖精がフェルゼンの空を舞った。











 紫苑色の髪を滴らせた女が、激しく咳き込む。

 押さえた手から溢れ、掛布団に零れ落ちるが紫苑色の髪の女が、今更それを気にする事はない。既に幾度も繰り返された事であり、掛布団の膝元までが白地よりも赤が目立つ有様は、既にその女性に遺された時間が僅かである事を語っていた。

「マリィ、儀式の用意があと少しでできるわ」

 襖を開けて室内へと足を踏み入れてきた盟友の言葉に、マリアベルは深い翳の射す表情で頷く。既に取り繕うのも億劫であるが、或いは盟友との最後の会話になるかも知れないと考えれば邪険に扱う気は起きない。

「……では、始めるとするかのぅ」

 準備が整ったならば、直ぐに実行すべきだろう。自らの命が燃え尽きる前に。

 室内を舞う様に漂うセルアノの表情は気遣わしげであるが、何百年来という付き合いのマリアベルには、それ以外の感情を見て取れた。セルアノという妖精は公私を使い分ける事に長けており、マリアベルやイシュタルの前では自由気儘に振る舞っている。

「何か気掛かりでもあるのかえ?」

 掛布団を押し退けて、壁際の文机に設えられた座椅子へと倒れ込む様に座ったマリアベルが、セルアノへ問う。セルアノ自身も儀式に関わる以上、懸念を残したまま挑むのは得策ではない。何より、マリアベルはセルアノの懸念を推察できた。

「そうね。儀式までもう少し時間があるから……」壁際の文机に置かれた茶器を手にしたセルアノ。

 振動魔術で茶器内の水を振動させて加熱しながら、どう切り出そうかと悩んでいるセルアノの姿を尻目に、マリアベルは文机の引き出しから加湿保管箱(ヒュミドール)を取出して蓋を開ける。そして閲兵式宜しく整列している葉巻の一本を抜き出す。

 葉巻を手に取り、葉巻切断器(シガーカッター)を手に取ると、吸い口を切り落として巻き付いていた金属表示(ラベル)を取り払う。

 今際にあっても尚、葉巻を手放さないマリアベルに非難の視線を向けるセルアノを無視して、手にした葉巻をゆっくりと回しながら、先端部を魔導式点火器(ライター)で暖め始める。

「トウカのことであろう?」

 程よく葉巻の先端部が炭化し、慣れた薫りを楽しみながらマリアベルは苦笑する。

 トウカとセルアノ。

 基本的な発想は類似しているものの、トウカが軍事を担い、政治をセルアノが担っているに等しい状況では、立場上、手を取り合う事は難しい。トウカはヴェ ルテンベルク伯爵家と親しい軍需企業や領邦軍の将兵や装備を利用して政治にまで圧力を掛けようとするのは容易に想像ができる。対するセルアノは、ヴェルテ ンベルク伯爵家の利益を最上位に置いた治政を成しており、その目にはトウカの行動は自身の為のものと映るだろう。

 否、トウカの行動は自身の為のものでもある……当人もそれを隠す様な性格ではない。

 彼はヒトとしての重要な部分が欠けている。トウカを育てた者達には、碌でもない意図があったのだろう。

 民衆を憎み、不特定多数を唾棄し、民主主義を軽蔑する。軍事学を愛し、戦野に恋い焦がれ、軍人を慈しむ。

 近年に隆盛しつつあったはずの風潮に対して悉く背を向けたら姿勢は一体、どの様な意図を以て成立したのか?

 否、分かり切っている。

 彼は不特定多数という隠れ蓑と、分散する責任によって堕落した国家を、強権と暴力を以てして統制する為に“製作”された“兵器”なのだ。

 きっと、トウカに近しい者達は、彼を育てる為に“箱庭”を用意し、彼が物心ついた頃より自らの思想を植え付けたのだ。魔術の気配がない事から、彼は長い時間を掛けて作製……否、調律されたのだろうが、それが恐ろしく入念で大規模であるのは容易に想像が付く。

 トウカの過去は、何処かの国家の権力を取り巻く状況の一部であったのだろう。

 正直に言えば、マリアベルもまたトウカのそうしたヒトであることを放棄した部分を危ぶんでいた。

 しかし、最早、《ヴァリスヘイム皇国》には彼しかいないのだ。

 無論、セルアノの懸念も理解できる。

 トウカが自らの利益を図りながらも勢力の利益を図る事のできる人物であると、セルアノには思えないのだろうとマリアベルは推測していた。

「何よ、分かっていたの。……もう限界よ。あれは自分の野心の為にヴェルテンベルクの利益を食い潰している。領邦軍司令官の地位だけは与えるべきじゃなかった」

 羽根をばさばさと揺らして非難がましい視線を向けてきたセルアノ。

 トウカへの権力集中を危惧する声は大きい。

 皇国陸軍中将、ロンメル領邦軍司令官、ヴェルテンベルク領邦軍司令官、そして皇州同盟軍総司令官。組織で得ている役職だけでも四つもあり、そのどれもが 実動戦力を運用し得るもので名誉職などではない。しかも、皇州同盟が内戦中に技術協力を行った軍需企業や北部貴族などとの連携も実現しつつある現状とな り、最早、手の付けられない集団も同然であった。

 挙句の果てには、軍需企業から試作兵器などの無償貸与や商家の資金援助、貴族の政治的後ろ盾を受けてフェルゼン近郊で軍事演習を開始していた。義勇兵や 領邦軍、陸軍などからも合流した将兵に加え、徴募した新兵を加えて正規軍以上の演習を行う姿は諸勢力を刺激し続けている。

 マリアベルは、それを予期していた。

 だが、トウカが想像を越えつつあるのを、マリアベルは知らなかった。

 軍需産業と連携しつつ技術を出し惜しみしてその希少性を向上させ、戦術や戦略、戦闘教義(ドクトリン)を皇州軍による演習で先鋭化させる事で価値を上げる。

 陸海軍より優れた戦備と戦略を備えた皇州同盟軍。

 そう遠くない将来、皇国に政府の統制を全く受け付けない強大な軍事組織が成立する事は明白であった。〈右翼義勇軍(フライコール)〉という義勇兵団を率いていたエップや〈鉄兜団〉のディスターベルク大尉を始めとして、正規軍ではない軍事組織の運営に対しての知識(ノウハウ)を持つ者の層が厚いということも幸いしている。

 次々とセルアノが口にする言葉に、時折咳き込みながらもマリアベルは笑みを浮かべ続ける。

 己の可愛い戦争屋が世界を相手取る事を決意したのだ。喜ばしい事である。

 多くの者が死に追いやられるだろうが、現状のままでは皇国は帝国に蹂躙されかねない。トウカはそう見ている。

 どの様な結末を迎えるかは分からない。

 しかし、トウカの隣には、ミユキもいればリシアもいる。ベルセリカやザムエルといった武勇に優れた同胞もいる。総ての始まりとしてはマリアベルよりも多くを手にしており、或いは皇国の現状を大きく変えられるかも知れない。

「死ねぬのぅ、まだ死ねぬ……」

 それは、心からの言葉だった。

 死ねない。

 サクラギ・トウカの軌跡を見届けたい。

 何を成すのか。
 何を刻むのか。
 何を生むのか。

 ミユキの様に彼の隣に立てぬ事を、幾度と神々に憎悪したが、今ではそれもまた悪くないとマリアベルは思う様にしていた。心からそう思っている訳ではないが、トウカの日常にしか寄り沿う事ができないミユキとは違い、マリアベルは政戦の両面でもトウカに寄り沿う事ができる。

 今は座視するが、いずれはミユキすらも押し退けてトウカに寄り沿う心算である。

 トウカは、何れ求めて已まなくなるだろう。一度、己の手中から零れ堕ちたはずのマリアベルを。

 口の中で煙りを転がして燻らす様にゆったりと、葉巻の薫りと風味を楽しみながら、マリアベルは喉の奥から笑声を零す。

「ちょっと、笑い事じゃないのよ! このままじゃもう一度内戦よ!」ばしばしと羽根で器用に文机を叩くセルアノ。

 恐らくは、偶発的な軍事衝突に発展する可能性を見ているのだろう。

 マリアベルは、その可能性は低いと考えていた。

 陸軍や中央貴族、七武五公、政府もこれ以上の内戦は致命傷を負うと理解しており、帝国軍がエルライン回廊に侵攻してきている現状で後背に敵を作る真似を する愚を犯すとは思えない。対するトウカが成立させたと聞く皇州同盟も、見方によっては陸軍の戦力は座視するだけでエルライン回廊近傍の戦いで消耗すると いう点を考慮すると、他勢力に対して積極的な敵対的な行動を取るとは思えない。ましてや編制と組織拡大を始めたばかりであり、複雑な作戦行動に耐え得るま で育成するにはそれ相応の時間が必要となる。今のトウカにとって再度の抗戦は不利益が大きい。

「あれの思惑は妾にも読めぬ部分があるが……エルライン要塞が危機に陥る。或いは失陥するとでも考えておるのやも知れぬな。その上で皇州同盟軍を使い、それを撃退する……若しくは帝国軍を辛うじて撃退した陸軍を叩く……などというのも有り得るやもしれぬのぅ」

 政治的な落としどころを何処に設定しているかまでは推し測る事のできないマリアベルは、トウカの軍事行動をある程度は予想できても完全に絞り込む真似はできない。

 恐らくは、想像を超えているであろうトウカの思惑を、マリアベルは楽しみ感じていた。

 実際は斜め下の予想となる事を、マリアベルはこの時点では知らない。

「有利だと見れば、どの勢力相手でも仕掛ける……本当にそんな男がこの国を救えると思っているの?」

 セルアノの言葉に、マリアベルは苦笑する。

 ――愚か者め。国家の存続? 皇州同盟の成立を以てその可能性は消え失せたに等しいのやも知れんぞ?

 マリアベルは知っている。

 トウカの瞳がどの様な宿命を負っているか。

 別れ際に見たトウカは、マリアベルに思いもよらない奇蹟を魅せた。

 しかし、その奇蹟に依って立つ心算はないのだろう。

 自身の意志に依る処か、ミユキの誘導に依る処かはマリアベルにも推し量れないが、ベルセリカやマイカゼではないのは間違いない。性格と時期を考えればそれは極めて困難である。

 過程はどうあれ、トウカは己の才覚のみを頼りに、この戦乱の時代に勢力を築きつつある。

「この国を救う?」

 愚かしいことだ。最早、そんな事に意味はない。

 唯一、この国を救済し得る宿命を背負った男が、その宿命に背を向け、在るが儘に振る舞おうとしている今この時。

「皇国は滅ぶ。避けられぬよ」

 マリアベルはそれでも良いと思い直し始めていた。より良い国家が成立するのであれば、《ヴァリスヘイム皇国》が存続し続ける必要性はない。

 そう考えるマリアベルは、皇国貴族として異常であろうが、国家とてヒトが作りしものであり、常に滅びを内包している。例外なく何時かは滅びる定めにあるのだ。

 ならば今、この時代に滅びようと何ら不思議な事でも有り得ぬ事でもない。

「そんなことは……」セルアノの否定の言葉は弱い。

 祖国の現状を一身に、皆の期待を背負い悉くを打開する人物を見い出せないのだ。マリアベルも、トウカを見い出すまではそう考えていたが、そのトウカは皇 国を絶対視している訳ではなく、国家体制に然して固執している訳ではない。状況によっては新たな政体を生み出す可能性とて有り得る。

「次期皇王は現れぬ」確固たる確信を以て、マリアベルは告げる。

 セルアノの探るような視線に、マリアベルは葉巻を燻らせるに留める。

「そもそも、今まで総てが上手く回っていたのが奇蹟と言えような。多種族国家の矛盾の全てを皇王という個人に押し付ける政治体制など、考えてみれば政治体制と言うには烏滸(おこ)がましくあろうて、のぅ?」

 今更ながらであるが、マリアベルは皇国という国家の政治体制にトウカを巻き込む事への忌避感があった。

 総てを解決する存在は、総てを統率するに当たって、総てを喪う宿業を背負うのだ。

 無論、この程度の遣り取りでセルアノが自説を曲げるとは思わない。皇国臣民にとって至尊の頂は斯くも当然の存在であり、揺るぎなき日常に在って一切合財 須らくの担い手なのだ。日常を体現する存在の不在だけで総てが機能不全を起こし、それ故に臣民の悉くが到来を願う至尊の頂。

 だが、その至尊の頂がそれを忌避した今この時。最大の可能性は消え失せた。

 しかし、その最大の可能性が違う形で祝福の大地に新たな形を与えようとしている。

 何という皮肉か。

 それは、なにものにも勝る悲劇。
 それは、なにものにも劣る喜劇。

 そして、その悲劇に喜劇に縋らねばならぬ状況というものが、どうしようもない国政の薄汚さの一面を表していた。

「大陸統一を成し遂げた大国……それが、御主が仕えるべき国家で、それを建国するのはトウカに他ならぬ」

 共に戦乱の道を転げ落ちる様に突き進み、大陸統一を成し遂げるしかないのだ。それを拒むと言うならば政治の表舞台でセルアノの名を見ることは二度とないだろう。敵対者をトウカは決して許さない。そして潜在的脅威も、良くて無力化されるはずであった。

「トウカに力を貸してやってはくれぬか? あれに足りぬのは政治面を助ける者であろうて。御主ならば……」

 マリアベルは、右手の手中で葉巻を圧し折ると文机上の灰皿に押し付ける。

 セルアノへと向き直ったマリアベル。

「妾からの最後になるかも知れぬ願い……聞いてはくれぬかの?」

 盟友への最後となるかも知れない願い。

 最愛のヒトを手助けして欲しいという願いであるが、実際は皇国内で行われている勢力争いの渦中に飛び込むことを意味する。それを願う事への気後れはあるが、セルアノ以外に条件を満たす者はいない。

 遣る瀬無さげにセルアノが溜息を零す。

「卑怯よ。そんな言い方されたら断れないでしょう……」

 退路を断つような物言いであることはマリアベルも理解している。

 自らの最後の願いになるかも知れないというだけでなく、政治を楽しむことを無上とするセルアノに、排除される可能性を示すことは余りにも不誠実であった。

「すまぬ」短い一言。

 しかし、そこには万感の想いが籠っていた。

 マリアベルは、ふらつく足を叱咤して立ち上がる。

「では、再び運命が交錯するならばの……友よ」

 ここからは自らの力のみが結末を左右する。

 結局、何時いかなる時も、自らの運命を決めるのは自身の力だけなのだ。










 廃嫡の龍姫は縁側を進む姿を、後を追う妖精は唯見据える。

 最期になるかも知れない。

 秘術と言える叛魂の呪法によってマリアベルの魂を他の“入れ物”に移し替える事は、理論上は可能であるが、基本的にヒトの身体とは、その魂に合わせて生 まれ落ちたその瞬間から形成され、最適の形へと変化を続ける。科学的には成長といい、魔術的には最適化と言われる所以であった。

 だが、魂と身体が最適化するにつれて、その形は複雑化し、唯一つの個性となる。血縁であっても尚、適合しない可能性が圧倒的である以上、それを無理やり合わせるには強大な自我や、峻烈な精神力を必要とする。

 自らの自我で押し広げ、自らの精神を削り、その意志を以て魂を他者の身体へと遷うつす。

「貴女の未来を決め得るは、貴女の意志の力のみ……誰もそれを助けることはできないわ」

 セルアノは、寒風の吹き込む縁側を踏み締めて呟く。

 マリアベルは答えない。

 絶対の自信があるのか、不安を感じているのかは分からない。
 だが、その一端の原因をサクラギ・トウカという異邦人(エトランジェ)が担っていることは疑いない。

 セルアノはトウカが嫌いである。

 自らの最も得意とする軍事という手段で、あらゆる諸問題を解決しようとするからである。自らにもそれ相応の政治を成す才覚を持つにも関わらず、劇薬である軍事を多用する姿勢が例えようもなく汚らわしく感じられた。

 しかし、マリアベルをこの現世へと留め得る楔と言える存在となった点だけは感謝できた。

「叛魂の呪法は、膨大な魔力を使うの。だから魔力の奔流の中で貴女の座標を完全に固定し続ける事は難しい……だから、この世界の何処かに飛ばされることは覚悟して」

 辛うじてこの世界へと繋ぎ止める事はできるが、全く同じ座標へは固定できない。使用する魔力が余りにも膨大であるが故に操作に困難が伴うのだ。皇王招聘の儀が大規模でもない妨害を受けて失敗した理由もまた同様である。

 寧ろ、この世界内に繋ぎ止め得るだけでも、セルアノの魔術に対する適性を神祇府や皇立魔導院の者達は称賛するだろう。

 無論、この叛魂の呪法に関する“魔法陣”の構築にはステアも関わっている為、セルアノ一人の成果とは言えない。セルアノはステアという女性と然したる面識はなかったが、その魔導に対する造詣の深さは神々に比肩し得ると判断していた。

 叛魂の呪法は“魔法”であり、“魔術”ではない。

 魔導による術式――即ち、“魔術”。
 魔導による法則――即ち、“魔法”。

 あくまでも既存の法則に従い魔力を利用して行使する魔術に対して、膨大な魔力によって法則を改編し、曲げることで行使される奇蹟への過程を魔法と称する。

 叛魂の呪法は奇蹟であり魔法なのだ。

 本来であれば神々や天使が扱う魔法による奇蹟をヒトが扱う以上、一部に不具合は必ず生じる。それを完全に払拭することは、セルアノとステアが万全を期しても不可能と言えた。

「佳よい。新たな“入れ物”に(うつ)れば魔術も使えようて」

 マリアベルは素足のまま、縁側から広大な神州庭園へと降りる。

 その先に神州庭園全体を利用して描かれた広大にして緻密な、幾何学的にして幻想性すら感じさせる魔法陣の中央には桜色の貴婦人が安置されている。

 着物を脱ぎ去り、長襦袢の姿と成り、魔法陣の中央へと進み出る。

 セルアノは。その光景に背を背ける。

 既に魔導結晶による膨大な魔力の備蓄は完了しており、セルアノにできることはない。そして、それに視線を向け続ける時間は残されていない。

 セルアノは進まねばならない。

 マリアベルの行く末がどうであれ、進み続けねばならないのだ。

 背後からの蒼き魔力の奔流。

 最後までセルアノは振り向かなかった。

 

 

 

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