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第一五三話    溢れる涙と見果てぬ野心






「ちっ……どうも身体が上手く動かん」

 トウカは、揺れる船上で握り締めた右手を見下ろして舌打ちを一つ。

 短期間とは言え、多量の除倦覺醒劑(ペルビチン)を摂取した事による副作用と無関係ではいられなかった。除倦覺醒劑……トウカの知るところのメタンフェタミンであろうそれは、精神神経系の副作用だけでも興奮や情動不安、眩暈、不眠、頭痛などがある。

 第二次世界大戦では、連合国軍と枢軸国軍の両軍で航空機や潜水艦の搭乗員を中心に士気発揚や疲労回復の目的で運用され、大きな戦果を齎した。だが、二一世紀初頭では世界各国に於いて急速な蔓延が認められ、米帝などでは最も危険な薬物として見られている。

 そうしたものを利用して副作用と無関係でいられるはずがなかった。

 嘔吐や高熱がなかっただけ幸運と捉えなければならないと自身を納得させていたトウカだが、頭痛も断続的に続けば流石に煩わしく思えてしまう。その上、手足の感覚まで何処か鈍さを感じてしまうとなれば鬱屈した気分とならざるを得ない。

 シュットガルト湖上を巡航速度で航行する仮装巡洋艦の前甲板に立つトウカは、湖風を受けながら苛立たしげに手摺を叩く。痛みすら鈍い。

「ほぅ、それは弛んでおりますな。ならば、どうですかな? この老いぼれ神父と組手の一つでも」

 丸眼鏡をした従軍神官服のラムケの言葉に、トウカは曖昧な笑みを浮かべる。

 ラムケの剛腕はベルゲン強襲の際に目撃しており、正面から素手で組み合うなど無謀でしかない。柔よく剛を制すという言葉も、剛と柔の差が常識的な範囲でなければ適用されないのだ。ラムケの隣に立つエップも深い苦笑を滲ませている。

「神父とは思えないな。ラムケ中佐」

「宗教も科学も扱う者の有り様次第ですぞ。祈り願い、発展させるは容易くあっても、扱う人次第で救い赦しにもなれば、殺し奪うものとなる……違いますかな?」

 神父としては些か信仰心に欠ける発言であるが、トウカもエップもそれを咎めない。寧ろ、その言葉には好意的であった。


 科学はヒトを強力な弾道噴進弾(ミサイル)で、あの世まで吹き飛ばす事ができる。

 宗教はヒトを旅客機で高層建築物(ビル)諸共に、あの世まで吹き飛ばす事ができる。


 結果など、扱う者の意思次第。

 ある意味、その点を理解している宗教家であるからこそ、トウカはラムケを許容できるのだ。手段に過ぎない宗教を絶対視する者など視界に入れているだけで不愉快であり、精神が汚染されかねない。

「ところで、サクラギ中将は花束などはお持ちでないのですか? いけませんな、淑女の弔いに両手を開けたままというのは」

 エップの言葉に、トウカは声を上げて笑う。

 確かに、仮装巡洋艦に搭乗している面々は、マリアベルの葬儀の為に集っている。

 皇国の葬儀は、トウカの知る神道の神葬祭に近い形式のものが一般的であるが、種族によっても差異があり多種多様と言えた。

 しかし、マリアベルの葬儀は、余りにも略式に過ぎたものであった。

 既に遺体は火葬され、遺骨はシュットガルト湖に撒かれる手筈となっていた。

 何時の間に火葬したのかとセルアノに問い質したが、マリアベルの遺言の全貌を知り得るトウカは、それがマリアベルの望みであるとも理解していた。

 死して尚、家臣と領民を自身の権威が縛る事を懸念したのだ。

 自身の墓所や身の回りの品々が信仰の対象となり、政治的、思想的な中心となる事を忌避……嫌悪した。だからこそ、遺体は焼却した上でシュットガルト湖に撒く事で、物的対象となるものを遺さない様に配慮しているのだと、トウカは知っていた。

 ――死して尚、配慮せねばならないとは……

 トウカが無任所のまま曖昧な立場で済んでいるのは、マリアベルのそうした配慮によるところが大きい。もし、マリアベルが壮烈な戦死や指導者としての死を 選択していたならば、一部の者はトウカを擁立してマリアベルの方針を堅持する為に蠢動したかも知れないのだ。そうした動きがあれば、七武五公や中央貴族は 今以上にトウカを危険視し、場合によっては排斥され得る可能性とてあった。

 マリアベルは、唯、女として散った。

 家臣や領民への指示を遺さず、次期ヴェルテンベルク伯にマイカゼを指名した事で、それに向けた体制の形成と領内の復興に家臣も領民も全力を傾けている。 今は考える時間を与えず、常に復興という目的を与え続ける事で中央貴族や政府、七武五公に対する敵対心を芽生えさせない様に、マイカゼと家臣団が中心と なって動いていた。

 それは成功しつつある。眼前に存在する自らの生活を脅かす困難を前に、ヴェルテンベルク領は一つになりつつあった。

 マイカゼに対して隔意を抱いている家臣や領民も、復興が順調に進めば考えを改める者は多いはずである。そもそも、領内の行政や公共施設(インフラ)に関しては、セルアノを始めとした政務部が存続している事から不安はない。その上、マイカゼは政府や七武五公から資金を毟り取るべく行動を開始しており、トウカですら呆れる程に精力的な姿勢を見せていた。

 大量の資金を以てして復興を遂げようとしており、その上、領邦軍の縮小が決まっている為に再軍備の必要性がない。

 全力での復興ゆえに、急速に進むだろう。

 ――マリアベルが退場したからこその素早い復興か……

 不愉快ではあるが、領邦軍という手段に固執したマリアベルが健在であったならば叶わなかったと理解はできる。皇国の全ての貴族が領邦軍を縮小するという 方向性で合意しつつあるが、マリアベルならば軍備の縮小など断じて認めなかっただろう。元より民兵や傭兵という非正規戦力として、領邦軍の軍備を常に強大 化させる姿勢を見せていたマリアベルがそれを素直に護るはずもない。

「できればクルワッハ公の首を手に弔いに参じたかったのですがね」

 こんな事を口にするから警戒する者が多いのだが、自重する心算はない。

 不満を持つ者を、トウカの下に集める必要がある。何処まで押さえ付け、統制できるかはトウカにも分からないが、訳の分からない連中に焚き付けられる可能性を考えると放置はできない。

「それはまた……」

 エップのどう返していいか分らないという曖昧な表情に、トウカは満面の笑みを浮かべる。対するラムケは腹の底からの朗らかな声音で笑っていた。いいですなぁ、これから一緒に獲りに行きますか、と。

 三人でマリアベルへの供物には何が相応しいかと言葉を重ねるが、エップやラムケから出てくるのは奇想兵器や資源、金塊などという実際的なものばかりで あった。冗談交じりであるからこそだが、最終的にはウィシュケを持ってくるべきだったという結論になる。驚いた事に異世界でも葬頭河の概念があるとの事で あるが、渡し船の料金である六文銭すら彼女は踏み倒すと合意を見た三人は、金品は不要だろうとの結論を下す。

 そして、どのウィシュケが良いかという議論の最中に前甲板の喧騒が大きくなり、三人は艦橋の方へと視線を向ける。商船構造の仮装巡洋艦である為、前甲板は狭く喧騒の原因は一目で察する事ができた。

 第一種軍装に千早を纏った出で立ちのアリアベルが、レオンディーネとリットベルクを伴って現れたのだ。前甲板で作業していた乗員達がざわめきながらも直立不動となる。

「皆様……姉の葬儀に参列していただいて有難うございます」三人の前へと進み出てきたアリアベル。

 気が付けば仮装巡洋艦は、その行き足を止めている。目的の位置へと到達したのだ。艦首下部の錨鎖庫から下ろされる錨鎖の金属音が響き、到着を騒がしく誇示している。

 トウカとしても今回のアリアベルからの提案は渡りに船であったので、礼を言われても困る。筋違いな話だと考えていた。無論、適度な敵対を忘れはしない。

「おや、先代ヴェルテンベルク伯に親族は居られませんでしたが?」

 少なくとも貴族として戸籍は別である。貴族として種族からの追放とはそうした意味を持つ。

 犬歯を向いて威嚇するレオンディーネを片手で制したアリアベルは、トウカに微笑み掛ける。

「あら、義理の妹を労わって下さらないのですか?」

次はトウカが顔を引き攣らせる。

 確かにマリアベルは伴侶たるを渇望し、トウカはそれを()け入れた。天女が己を望んだかの様な泡沫の祝言であった。今更、蒸し返すアリアベルは、男女の色恋を自身異常に理解していないだろうと、トウカは確信する。

 二人の遣り取りは軽妙であった。トウカも然して気負う事はない。マリアベルの死に未だ現実感を抱けないのだ。

 マリアベルの亡骸を抱いて縁側で、リットベルクと言葉を交わしていた際、トウカは実はまだ死んではいないのではないかと思う事が幾度もあった。その度に、マリアベルの頬に触れ、その冷たさに現実を知るという行為を繰り返していたのだ。

 だが、それでも尚、マリアベルの死に現実感を抱けなかった。

 それは、セルアノがマリアベルの遺言通り速やかに遺体を荼毘に付してシュットガルト湖に骨を撒いてしまった為である。翌日には、既にその有様であった 為、トウカは何時も通り、寝坊したマリアベルが午後から執務室にさも当然であるかの様な顔をして現れるのではないかとすら思い、開かない扉に視線を巡らせ る事も少なくなかった。

 マリアベルの手を握り、あれ程に泣いたというのに、未だ死を実感できないのだ。

 情けない話だ、とトウカは苦笑する。

 英雄の時代。

 幾多の英雄が生まれ、時代の波に飲まれて消えゆく様を、トウカはこれから幾度も目撃するであろうという確信があった。

 英雄は本質的に死なない。殉教者と同じく、その死は信仰の序章となるの。自らは肯定も否定もせず、その遺志を継承し、信奉する者の行動を、言葉を紡ぐ事もなく許容する絶対者。

 だからこそマリアベルは、自身が英雄として死する事を避け、信仰の立脚点とならない死に様を選択した。

 ああ、マリアベルは死んだのだ。

 貴族として、姉として、女として。

 そこまで思考が及んだことで、トウカの心は滲み出す様にマリアベルの死を実感する。

 緩やかに滲み出した水が山肌を犯し、やがては堰を切ったように山津波となる様に、悲しみがトウカの胸を押し潰そうとする。

 トウカは、マリアベルの面影が微かに窺えるアリアベルの顔から視線を引き剥がすと、シュットガルト湖の水面へと視線を逃れさせた。

 手摺りに手を振れ、湖面へと視線を下ろす。

 そして、湖面に映る情けない自身の表情に、視線を更に空へと逃す。溢れる涙が零れない様に。

「サクラギ中将?」

 些か驚いたという風の声音のアリアベルの問いに、トウカは答えない。応えられようはずもなかった。







「姫様……いけません」

 肩へ手を掛けられたアリアベルが振り返ると、リットベルクが若者の慟哭を嘆くかのように首を横に振っていた。

 アリアベルも、トウカの背に状況を察し、鷹揚に頷く。

 トウカの姿を隠す様に、ラムケやエップがトウカに背を向けて視界を遮る様は、彼らにそれ相応の繋がりを感じさせる。否、それ以上にラムケとエップの瞳に映る苛烈なまでの意思は繋がり以上のものを感じさせた。

 二人はトウカに可能性を見いだしたのだろう。

 共に右翼的な活動を精力的に行う活動家として有名であった事から、軍事的成果を見せたトウカに好意的なのは不思議ではない。エップの場合は政治や思想の 強固な統制に固執していたマリアベルから冷遇されていたが、それでも尚、内戦に於いて従軍した事から熱心な愛国者であると理解できる。

 北部統合軍の将兵は、内戦に負けたとは考えていないのだ。

 帝国の脅威を鑑みて一時停戦したに過ぎず、そして一部貴族が離反して継戦能力を削がれた結果であるとすら考える風潮が吹き荒れていた。内戦という公式記録上は初めての戦闘であるが故に勝敗の線引きが曖昧である点も大きい。

 共に敗北していないと主張する現状。

 ならば、彼らが次に図るのは何か。

 当然、再戦に向けた組織の再構築である。

 帝国軍を退け、返す刀で北部に駐留した陸軍戦力の排斥をする事を夢見ているのだろうことは、アリアベルにも予想できる程に容易であった。何せ、夜の帷が下りれば市中の酒場でそう叫ぶ北方方面軍将兵は無数に見られる。彼らにとって皇国は統一された国家ではないのだ。

 意識や思想が乖離して何百年と経過すれば、それは最早、別国家なのだ。

 歴代皇王の失策。

 トウカはそうした旨の発言を内戦中に発している。それは、歴代皇王の政策に対する批判は禁忌(タブー)視されないまでも避けられる傾向にあった現状を、北部に於いてのみという前置きは付くものの変えるに足り得る事であった。

 意識や思想の統一は急務である。

 そこで必要とされるのがトウカである。

 彼は、あらゆる分野に於いて革新という嵐を齎す者なのだ。

 七武五公や中央貴族、政府官僚はトウカが北方方面軍で要職を占める事に対して抵抗しているが、陸海軍や一部の北部貴族などは渇望していると言っても過言 ではない。それ程にトウカの示した政戦両略の勇戦は武官と文官に限らず称賛に値し得るものなのだ。停戦によって開示された情報には、トウカが書き散らかし た戦術や金融政策、移民政策、世論戦などが数多く含まれており、陸海軍や政府では上へ下への大騒ぎであると、アリアベルは聞いていた。

 だが、所詮は若者の落書きに過ぎないと笑う者がいるのもまた事実。

 しかし、その若者は圧倒的な劣勢を覆し、クロウ=クルワッハ公に打撃を与えた者でもある。挙句にアリアベルに最低賃金保障法や労働基準法の成立を進言 し、雇用創出に合わせて低所得者の賃金の保障や労働基準の制定を行う下地を作らせた。不穏分子の温床である低所得者層の漸減を図るのは、統治費用対効果(コストパフォーマンス)の向上に繋がるなどの利点を挙げた書類によって、内務府などが議論を始めている。

 既に大きな影響を《ヴァリスヘイム皇国》に与えつつあるのだ。この期に及んで手放す事はできない。

 アリアベルは、トウカの北方方面軍への所属を容認している。

 寧ろ、中央貴族や政府官僚に対する根回しなどを積極的に行っている。そうする事で北部で失った天霊神殿の信頼回復を神祇府が意図したという事もあるが、 姉が己の兵権の全般を貸し与えるという伯爵としての全幅の信頼と、一人の女として愛を捧げた男であるという事実がアリアベルにトウカを信頼させた。否、せ ざるを得なかった。

 マリアベルの護った北の大地。トウカもまた護りたいと考えるに違いない。だからこそ、帝国から北部を護るという一点に関してのみ、トウカは誰よりも信頼を置く事ができるのだ。

 ――姉様はなんて罪深いヒトなの……でも、羨ましい気もします。

 愛する者を見付けられたのだ。

 政略結婚も多い貴族に在って、恋愛によって伴侶を見い出すというのは貴族令嬢にとって憧れであるが、アリアベルは大御巫であり叶わない立場にある。増し てや添い遂げるべき次期皇王が行方不明である現状を鑑みれば、伴侶がどうなるかなどアリアベル当人にすら想像できないことであった。

 心底、羨ましい。

 マリアベルは、自らの死を以て最愛の戦争屋を北の大地に縛り付ける事に成功したのだ。

 それは、途轍もなく残酷で、それでいて愛おしい事であった。

 最愛のヒトに看取られ、その者が事後を託すに値する人物であるという奇蹟。貴族令嬢にとって望外の幸福と言える。

 アリアベルもまた、トウカに背を向けた。

 今はまだ、トウカも心の整理が付いていないのだろう。現状は切羽詰っているが、若者が一人、未来へと目を向ける為の時間を捻出する程度はあるはずであり、将兵達もまた不満を述べはしても異を唱えはしないだろう。

 北部統合軍に所属していた将兵は、多くの意味で混乱の渦中にあった。

 特に将官の問題は大きなものとなっている。

 彼らは北方方面軍への所属か、縮小された領邦軍への貴族、或いは退役という道しかない。だが、警備隊規模の軍勢に将官が所属したとしても俸給の問題から主君たる貴族は喜ばない。彼らの選択肢は自然と陸海軍への編入か退役の二者となる。

 そして現状では、その大多数が退役を選択している。

 せめて、トウカが北方方面軍で重要な職責を任されていれば、陸海軍への編入を拒否している者の多くは馳せ参じてくれるだろう。勝率の低い戦いを五分にま で持ち込んだトウカが所属していたならば、捨て石にされる可能性や冷遇される可能性を彼らは排することができた。政治に対するトウカの苛烈さは北部貴族だ けでなく将兵であれば誰しもが知っている。ベルセリカの名声に騙される年若い兵卒は別としても、少し先の見える下士官や士官、将官などの政府や中央貴族に 対する不信感は根深いものがある。

 つまり、それ相応の人事でなければ、陸海軍への編入を危険視するのは当然と言えた。ヴェルテンベルク領邦軍情報部などは、陸海軍への編入を躱す為に些か 個性的な手段を用いてすらいる事から、情報を司るものですら政府や陸海軍の統制下に入る事を危険視していると取れる。そして、その動きは内戦で活躍した者 であればある程に大きい。

 突然の停戦と再編制であるという以上に、元を辿ればトウカを冷遇する姿勢そのものが問題であって、責任は中央貴族や政府、七武五公に帰属する。もし、今 それ相応の要職を与えられたとしても、その要職を与えられるまでに時間が掛かったという事実は大きい。後々までトウカと中央貴族や政府、七武五公という者 達との確執を示す一例として語られるだろう。

 ――誰も彼もが好き勝手に……眼前の脅威が見えないの?

 無論、アリアベルがその点を口に出す事はない。蹶起軍に対して第一皇妃を名乗り、鎮圧を命じたのは他ならぬ自身であるが故に。

 儘ならないものだと思い、アリアベルは溜息を一つ。

 そして、リットベルクとレオンディーネを伴って艦内へと舞い戻った。







 リシアは困惑していた。

 眼前には、クロウ=クルワッハ公アーダルベルトが腕組みをして立っている。

 声を掛けられては無視をする訳にもいかない為、リシアは敬礼するものの、周囲の視線が突き刺さるかの様な感覚に冷や汗を流す。七武五公の一角と近しいと思われては不愉快である上に白眼視されかねない。

「公爵閣下、何用でしょうか? 一大佐如きなれば、閣下の御手を煩わせた覚えはありませんが」

 存外に、とっとと失せろや……と言わないまでも迷惑だという事を匂わせた言葉であった。それでも尚、困惑の表情を続けるアーダルベルトに、リシアは敬礼 を解いて直立不動の体勢を取る。軍階級はあっても宮廷序列などないリシアからすると、アーダルベルトは対応に困る相手でもある。揚げ足を取るのは好きだ が、取られるのは好ましくない。

 アーダルベルトの返答を待つリシア。

 貴族の宮廷序列など知った事ではないと言える程、階級という軍事序列を持つリシアの立場は盤石ではない。特にマリアベルの死後は、その傾向が強く、英雄でありながらも政治的には脆弱な立場のベルセリカによる後ろ盾だけでは心もとないものがある。

 隙を見せる訳にはいかない。

「ああ、いや、そうだな……夕食でもどうかな? 御嬢さん(フロイライン)

「…………はぁ」

 面映ゆいのか頬を掻くアーダルベルトの苦笑交じりの誘い。

 何処かマリアベルの無邪気な笑みを思わせるそれに、リシアは気の抜けた声を漏らすしかない。

 冗談ではない。二人だけでの会話など、何処で如何疑われるか分かったものではない。リシアは緊張を強いられる。離間の計ではないのかという懸念もあった。

 北方方面軍司令部として運用される事が決まったフェルゼン海港部に位置する旧ヴェルテンベルク領邦軍鎮守府。その廊下で相対する情報参謀とクロウ=クルワッハ公。

 この場では多くの者が見ているが故に証人の心配をする必要がないが、二人で顔を合わせるとなればその限りではない。胡散臭い噂が背鰭(せびれ)尾鰭(おひれ)を付けて独り歩きし、評価と査定に響く事は間違いなかった。無論、それだけで済めば良い方で、裏切り者扱いされて極右に暗殺される可能性や七武五公の派閥に属したと思われて北部貴族から排斥される可能性もある。

 リシアにとってアーダルベルトとの会話は何ら利益を齎さないのだ。寧ろ、不利益にしかならない。

「分かりました。定時後に行き着けの大衆酒場(ブロイケラー)で双方共に同行者を一名、連れていく形で宜しいでしょうか?」

 少なくとも下手な関係に思われない様に、布石を打つ程度の配慮はせねばならない。

 困惑顔のアーダルベルトに再び敬礼すると、リシアは踵を返す。そして廊下の角を曲がったところで全力疾走。

 面倒な事になった。

 最悪の場合に備えてザムエルに話しを通し、〈装甲教導師団(パンツァーレーア)〉の人員を借り、備える必要がある。訳の分からない問題に巻き込まれるのは御免であった。

 山積する問題に、リシアは内心で頭を抱えた。







「はぁ、夜にクルワッハ公と逢う、と?」

「そうよ、文句あるの? ……いえ、文句大ありよ!」

 ばしばしと粗雑な造りの机の天板を平手で叩くリシアは、机上に置かれた陶器椀(シュタイン)を荒々しく手に取り、残った濃麦酒(ドゥンケルヴァイツェン)を飲み干す。

 場末の酒場といった雰囲気の漂う大衆酒場(ブロイケラー)の 隅に誂えられた一席……粗雑な造りの丸机を間に挟み、足長の座席の小さな椅子に座るリシアとトウカ。白昼堂々であることもあって浮いた存在であったが、私 服である為にそれを訝しむ者はいない。リシアに限っては紫苑色の長髪を認識阻害術符で擬装している為に髪が鴉の濡れ羽色となり、近しい者であっても気付か ない姿へと様変わりしてすらいた。

 その上、先程まで続けていた軍務は、北方方面軍総司令部で「体調不良よ! 酒飲んで帰るわ!」と宣言していたので、まさかリシアが言葉通りそれを実行していると思う者はいないだろう。完璧な策であった。敢えて事実を語る事で錯覚を誘うのだ。

 対するトウカは、エップやラムケに連れられて少し遅めの昼食を摂りに来きたのか鉢合わせる事になった。そして、リシアの髪色の偽装と初めて見る私服姿に 初見で気付けなかったトウカが、「失礼、御嬢さん(フロイライン)。何処かでお会いしましたか?」と抜かしたので、問答無用の平手打ちを敢行したのは、決 して自身に責任がある訳ではないとリシアは確信している。自身が買い与えた髪飾りが見えないのかと憮然とせざるを得ない。

 御嬢さん(フロイライン)という物言いが、アーダルベルトに似ていて気に入らなかったという意図や、人が情報部を失って苦労している情報参謀を務めている中、中年連中と昼間から大衆酒場(ブロイケラー)に来ていたという無任所将官に腹を立てたという訳ではない。断じて。絶対に。

 リシアは、長い脚を組み直し、頬杖を突いたままにトウカへと視線を巡らせる。

 トウカは、リシアの視線を知ってか知らずか、杏子茸(プフィッフェルリング)と豚肉の白葡萄酒(ワイン)煮の柔らかな豚肉へ突き匙(フォーク)を刺して口に運んでいる。煮崩れする手前まで煮込まれているので、卓上短刀(テーブルナイフ)で態々、切り分ける必要がないのだ。

 ――今度、作ってあげようかしらね?

 杏子茸(プフィッフェルリング)と豚肉の白葡萄酒(ワイン)は、決して難しい料理ではない。

 橄欖油(オリーブオイル)を引いた鍋に刻んだ大蒜(ニンニク)を入れて香りを出し、大きめに切った塩、胡椒した豚肉の表面を焼く。そして、肉の表面が焼けたら白葡萄酒(ワイン)を投入して沸騰させ、豚肉が浸されるまで薄めの煮出し汁(ブイヨンスープ)を入れて一時間ほど煮込む。途中で幾度か豚肉を引っ繰り返し、形が崩れそうになるまで煮込むと、ここに口にし易い大きさに切った杏子茸(プフィッフェルリング)を入れる。煮出し汁(ブイヨンスープ)に絡めて味が染みてきたら出来上がりである。

 実に簡単な煮込み料理と言える。

 ヴェルテンベルク領では、魔導資源や鉱物資源の採掘を行う労働者達が多い為に濃い味付けが多いが、軍人ともなればそれは嬉しい限りである。軍隊の濃い味付けに馴れてしまえば、高級料理店の薄味よりも、大衆酒場(ブロイケラー)の肉料理が恋しく感じられるのだ。味覚が鈍くなっていると言われればそれまでであるが、リシアもトウカも共に軍人である今、それを指摘する事は不毛と言える。

「そんなに美味しいの?」

「…………ロンメル子爵家は三食魚介類が一週間以上、続いているからな。正直なところ、この上なく有り難い。ラムケ中佐は良い店を知っている」

 トウカの疲れた声音の言葉に、リシアは苦笑する。

 リシアもまたラムケに、この大衆酒場(ブロイケラー)を教えられた立場であり、ロンメル子爵家の食糧事情を知る者としてトウカには理解と同情を示すしかない。

 ちなみにロンメル子爵家の食糧事情というのは、シュパンダウに天狐族の入植者が増え、歓迎の為に天狐族の隠れ里では希少であった海産物を日夜振る舞い続 けているという点を指している。魚介類は狐の好物であり、トウカが狐に囲まれた生活をしている以上、魚介類が主食になるのは当然の帰結と言えた。

 ならば、不満を言えばいいものを、と口にしようとしたリシアであるが、狐に囲まれた食事ではそれも言い難いのだろうと口を噤む。

「まぁ、健康に良い事は確かで、皆が美味しそうに食べるからな。遠慮させるのも可哀想だろう」

「あら、巨大蜥蜴(アーダルベルト)に絡まれる私も十分に可哀想でしょう?」

 杏子茸(プフィッフェルリング)と豚肉の白葡萄酒(ワイン)煮の付け合せとして添えられている潰し馬鈴薯(ジャガイモピュレ)に、自身の突き匙(フォーク)で襲い掛かる。流石に豚肉を襲うほど薄情ではないのだ。

 潰して牛酪(バター)牛乳(ミルク)、塩で味付けした単純なものであるが、柔らかめに仕上げられているのか舌触りは優しい。

 時期を考えると乾燥保存されていたであろう杏子茸(プフィッフェルリング)だが、杏子(アプリコーゼ)の香りは未だに健在で、白葡萄酒(ワイン)煮出し汁(ブイヨンスープ)の風味に紛れて、リシアの鼻孔を擽る。

「食うか? そんなに見られると食い辛いのだが」

 そんなに物欲しそうな視線をしていたのだろうか、とリシアは咳払いを一つすると、口を開けて寄越せと催促する。

 料理店で異性に“あ~ん”をして貰うというのは一種の憧れである。きっと異世界でもこれは共通していると、リシアには断言できる。

「あ、すまん……(きのこ)の髭が……」 

 差し出された突き(フォーク)に刺さった茸が、リシアの鼻の下にへばりつく。(わざ)とだろう。

 だが、どちらかと言えば、隣の席で机を叩いて大爆笑のラムケの方が遙かに不愉快である。

「若い二人の恋模様を肴に今日も酒が美味い!」

「酔いどれ神父……破門にでもなればいいのよ」

 呵々大笑のラムケに、一生懸命に堪えているエップ。

 思わず手にした突き匙(フォーク)を投擲したくなるが、乙女を自負するリシアは振り上げた突き匙(フォーク)を鋼の精神で押し留める。今ならば中隊規模の銃剣突撃に単独で抗することすら可能だと錯覚する程であった。

 陶器碗(シュタイン)を打ち鳴らして、乾杯するラムケとエップは正に糞爺(クソジジィ)

 振り上げた=突き(フォーク)をトウカの皿の豚肉に振り下ろし、問答無用で略奪する。

 柔らかな豚肉を咀嚼するリシアは、その味を楽しむ事も程々に、濃麦酒(ドゥンケルヴァイツェン)で胃袋へと押し流す。

 白麦酒(ヴァイツェン)とは違う長く焙煎された麦芽(モルト)の薫りが、リシアの口元を満たす。

 焙煎の目的は色や香り、風味に影響し、ピルスナー型の麦酒には比較的色の淡い麦芽を使い、色の濃い黒麦酒(スタウト)などには良く焙煎した色の濃い麦芽を使うことで色合いと味に深みを出している。

 個性の強い麦酒であるが、濃い味付けや刺激物を好むものが多い軍人には好まれる一杯に、リシアは思わず溜息を零す。

 仕事終わり(早退であるが)の一杯は、何物にも代え難いものがある。

 ――この際、陸軍の備品に酒を入れるように“また”動こうかしらね。そう、これは離間の計よ。酒の種類毎に陸軍総司令部内で派閥を作らせて対立させるわ。間違いなく情報参謀の職務よ。

 友軍司令部内の対立を煽る時点で情報参謀として問題なのだが、酒精(アルコール)に思考を浸食された者が正常な思考をするはずもない。

「そう言えば、なんで貴方が此処にいるのよ?」

 トウカの更に盛り付けられている肉汁をこれでもかと吸い込んだ杏子茸(プフィッフェルリング)を、突き(フォーク)で串刺しにしたリシアが問う。最早、トウカの料理を啄む事に躊躇いはなかった。

 まさか、本当に魚介類以外の料理を口にしたいなどという理由で大衆酒場に訪れるはずがない。

 トウカは、口元を手拭い(テーブルナプキン)で拭く。

 思案の表情を浮かべたトウカだが、面倒になったのか手拭い(テーブルナプキン)に置くと、小さく笑う。

 傾いだ身体に、軍帽によって影の落ちた目元。

 だが、口元だけは卑しい笑みがありありと刻まれている。

「政治をしにきただけだ……罵声と悲鳴を伴った政治を、な」

 無邪気でいて戦意に満ちた野蛮な瞳は、暴力的な意志を湛えたものであり、それはリシアが見た久方ぶりの野心に満ちたものであった。

 

 

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