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第一五五話    それぞれの大衆酒場 前篇





「諸君、闘争を始めよう」

 舞台上で嗤う戦争屋。

 優れた容貌の者が多い耳長(エルフ)族と比較するには些か酷であるが、自らの美的感覚に基づいて同世代の人間種と比較するならば、及第点は与えられる程度に整ったその(かんばせ)。ヴェルテンベルク領邦軍憲兵隊の軍装を身に纏った年若き女性は興味深げな瞳で、その年若い権力者を見据える。

 巷では、少年将軍や常勝将軍と呼ばれているが、最たる異名は簡潔にして明快なものである。


 軍神。


 それが、サクラギ・トウカに冠された異名である。

 軍を統率するは神の如くと称するに値する指揮を成す者であるからこその“軍神”という異名である。その神髄は疾風迅雷の用兵と神算鬼謀の戦略にあると、領邦軍憲兵隊の軍装を身に纏った年若き女性は考えていた。

 齎した思考形態と技術大系を見るに、恐らくは異世界の者であろう。

 少なくとも主君であったマリアベルは、そう考えていた。

 ヴェルテンベルク領邦軍憲兵隊司令官を拝命している、年若き女性は溜息を一つ。


 クレア・ユスティーナ・エリザヴェータ・ジークリンデ・ハイドリヒ中佐。


 この公式文章を発行する上で非常に面倒な名前を持つクレアは、多くの場面でクレア・ハイドリヒと名乗っているが、その愛称はクレアやティナ、リーザなど があり煩雑な事この上ない。クレアは自身の名をあまり好いてはいなかった。何より、エリザヴェータという帝国人女性のような名前は誤解を受ける事も少なく ない。

「あれがサクラギ中将……偉丈夫、という訳ではなさそうですね」

 小鳥の囀りを思わせる可憐な声音と、浅葱色の髪を右で束ね、憂いを帯びた(はしばみ)色の瞳を備えた、清楚可憐にして美貌の憲兵中佐に近付く者はいない。その周囲だけが除草剤を撒いた大地の様に開いている。

 ヴェルテンベルク領邦軍憲兵隊はマリアベルの直卒組織であり、その意味するところは情報部と同じく腹心中の腹心ということに他ならない。マリアベルは情報部を北部統合軍に合流させる事を許容しても、領邦軍憲兵隊だけは断固として許さなかった。

 領邦軍憲兵隊は、マリアベルの政治闘争の最前線に立つ戦力なのだ。

 好ましからざる情報を遮断し、言論を誘導する情報部に対して非合法組織の殲滅や反動的な主義者の弾圧、政府の影響下に警務官の監視などを行う組織が領邦 軍憲兵隊である。つまるところ、マリアベルにとって不利益を生じる行動を取る領内の人物や組織を殲滅、或いは捕縛する実動戦力と言える。マリアベルが手放 さなかったのは当然と言えた。

 そして、そのヴェルテンベルク領邦軍憲兵隊の頂点に立つのがクレアなのだ。

 マリアベルの腹心と見られているが、実際のところマリアベルは情報部による情報の遮断と言論の誘導によって領民から比較的良好な評価を得ており活躍の機 会は少ない。領地の産業化と保障制度、教育体制の充実など、そうした複合的な要素はマリアベルを名君足らしめていたと言える。領内に於ける”表面上の”反 抗的な勢力は憲兵隊が本格的に動員される程ではない。

 よって、クレアの活躍は然したるものではない。

 だが、一度活躍すれば血の雨が降り、鋼鉄の統制を以て弾圧に望む姿勢は有名であった。

 夥しい死傷者を出したヴェルテンベルク領発展期の難民問題での武力弾圧は、時の天帝からも苦言を呈される程のもので、近年でも匪賊の跳梁に対して法的手段を経ずに現場で処刑していた事から鉄血の弾圧集団と捉えられている。

 当然であるが、決してクレア自身がそれを望んだ訳ではないが、与えられた任務を果たす事こそが軍人の使命。そこに否はない。

 そして、そうした背景もあってクレアは、トウカと然したる面識がある訳ではなかった。領邦軍司令部の廊下ですれ違った程度の記憶しかなく、トウカは気に も留めていなかっただろう。なにせ、ヴェルテンベルク領邦軍に入隊した時点で、マリアベルから現在のクレアと同階級である中佐の階級を与えられた。そし て、導かれる様に戦功を重ねて半年も経ない内に中将まで上り詰めた戦争屋。接点など出来ようはずもなかった。

 だからこそ、この場にいるのだ。

 彼を見定める為に。

 大衆酒場(ブロイケラー)周辺には変装させた憲兵隊一個中隊が伏せており、中位種以上で編制された憲兵隊の中でも最精鋭……恐らくは同数の領邦軍鋭兵と互角に争う事ができると自負していた。それらが、クレアが耳元に付けている装飾具に偽装した魔導具からの指示で突入できる態勢を整えている。

 トウカが然して緊張すら感じさせることもない声音で主張を続けている。

「私は夢を見た……遺された願いを継承し、護るべきモノの為、命の限り戦い続ける人々の夢を……」

 建国時に集った初代天帝の逸話を語っているのだろう。酷く現実主義であるとマリアベルから苦笑される程のクレアから見ても皇国という国家の成立は奇蹟だった。それ故に未だ多くの者達を惹き付けて止まない。

「夢幻と現実の境界は、自らの力で道を切り開けるか否かに過ぎない。故に私は出来る限りの事をしていこう」

一旦、言葉を区切る異邦人。

「その為に、あの愛しき装甲姫は私をこの場に駆り立てたのだ」

 我等は再び夢を見るべきではないのか、と問うているのだろう。

 曖昧な物言い。政治屋の才覚もあるのだろう。

 期待される政治家とは、明日なにが起きるかを国民に予告できなくてはならない。そして、次の日、何故自分の予言通りにならなかったかを国民に納得させる能力がなくてはならないのだ。

逆にそうした状況に陥らない様に配慮した発言をしつつも、歓心を買う様に言葉を紡ぐというのは誰しもにできる訳ではない。

「先達は国家を望んだ。あらゆる種族が怯える事なく日常を紡げる国家を願った。同胞が安心して、鞭打たれる事なく暮らせる輝かしき大地の成立を」

 建国に携わった多くの種族が求めたモノはただひとつ。

 自らがありのままに過ごせる日常。

 それは、歴史上の独裁者達に比べれば細やかな夢だろう。

「そして、幾多の者達が初代天帝陛下の下に馳せ参じ、果てなき希望を胸に抱いて建国の軌跡を歩み始めた。彼の“英雄”の下、その夢に伸ばした手が届くと信じたのだ」

 トウカは小さな舞台の両端をなにかを求める様に、手を彷徨わせながらも歩を進める。

 何度も舞台の両端を行き交いなにかを求めた。

 演出家の才能も有るのだろう。或いは、誰かの模倣か。

 クレアは、舞台上のトウカに酷く冷めた視線を投げ掛ける。

 口にしている事は間違いではない。美麗字句が散りばめられている点は人の好みによるが、装飾品が好きなのは何も女性だけではなく、美麗字句という名の装飾であってもそれは変わらなかった。

「各地で転戦を続け、幾多の困難を撥ね退け、健気な挺身を以て建国を実現した。そして、英雄を中心とした英雄譚はそこで終幕となった」

 何かを掴み取ったかの様に右手を握り締め、聴衆へと拳を差し出すトウカ。

 輝かしき建国の記憶を、あたかも目にしてきたかの様に語るトウカに、多くの者達がその情景へと引き込まれる。皇国に住まう者達にとって、多くの種族を纏めるという難事を成した先達は何よりも敬意を払うべき存在であったが故に。

 《ヴァリスヘイム皇国》成立を主導した者達の物語。凛冽でいて、純粋無垢な彼らの願いが奏でる建国の小夜曲(セレナーデ)

 悲願を叶えた彼らは偉大だろう。

 クレアでさえも、その点は疑わない。

「そこから始まった《ヴァリスヘイム皇国》という名の神話は四〇〇〇年を越えて尚、旋律を奏で続けている」

 真に麗しい表現である。その旋律もまた異音が混じりつつあるというのに。

 ここからでしょう。肩に掛けた軍用長外套(ロングコート)を翻したトウカを見上げる。

「だが、先達が今この有様を見て、我らを神々の御許で歓喜を以て迎えてくれるだろうか!?」

 聴衆達は苦々しい表情をする者や憤懣やるかたないと頷く者……ありとあらゆる感情を発露させ、大衆酒場(ブロイケラー)を震わせる。現状は北部統合軍の将兵であった者でも、征伐軍の者でも、陸海軍の者でも満足できるものではないのだ。

 防人が防人たるの使命を果たせない。それも同胞の専横によって。総ての勢力が他勢力をそう捉えれば、国防に支障が出るのは当然の帰結と言えた。

 現状の皇国で権力に携わる者なら誰しもが抱いているであろう不満を以て扇動するという姿勢に、クレアは合理性と狂気の一端を垣間見た。洗脳よりも遥かに労力を必要とせず、誰しもが同然の様に諦めていた点を指摘する事で生じる混乱。

 ――彼は狂騒を望んでいると言うのですか。

 トウカが手を振り払う。なにかを一蹴するように。

「そんな事は分かり切っている! 有り得ない、と! どの面下げで彼らに胸を張れようかッ!」

 至極当然なことを口にするトウカに、クレアは思案する。

 マリアベルの意志を継ぐというのであれば七武五公に敵意を集中させる事で、この場の者達を纏めようと図ると考えていたのだ。しかし、その言い様を聞くに 他勢力との協調を考えているようにも思えた。それでは納得しない者も多いはずであり、トウカの支持は砂上の楼閣となり有名無実化するだろう。

 大きく身振り手振りをして、表情を憤怒と悲哀に歪ませて彼は舞台上で咆哮している。

 鋭く、抉る様に国家の矛盾を暴き、皇王の権威に対しても喰らい付く姿勢。

 暴力的なまでの音の氾濫が大衆酒場(ブロイケラー)を蹂躙する。思わずクレアが顔を顰める程のそれは収まる気配を見せない。

「私は、総てを()ってこの場に在るのだ」

 何かを口走ろうとしていた者達を見据え、トウカがそれを片手で制止する。

 それだけで、喧々諤々の場が寂寥たる荒城の如く静まり返る。

 玲瓏でいて、何故かそうせねばならないと思わせる様な強制力を持った声音。

 催眠的な大衆の熱狂をクレアは経験した事がなかったが、それ以上に指揮下にない有象無象の聴衆……上位の階級の者や貴族、商人、技術者の全てを沈黙させたのだ。それは形なき権力……権威と呼ぶべきものに近い。

 彼の青ざめた顔は内なる狂信の発露かも知れない。

 その両の眼があたかも征服すべき怨敵を捜し求めるかのように左右を一瞥した。その視線は、尚も声を上げようとしていた者達を俯かせる。

 彼に、この不可思議な力を与えたのは一体誰か?

 クレアは、ふと、トウカの胸衣嚢(ポケット)に添えるように差し込まれた、桜華を模した花簪を目に留めて全てを察した。


 マリアベル。


 クレアは愕然とする。マリアベルは、未だトウカの後ろ盾足り得るのだ。

 彼は折れないのだろう。

 断固として、手段を問わず、総てに抗うはずだ。マリアベルの様に。

「悲しい別れも帝国主義者の脅威も、天帝陛下の御不在も、北部の……そして、皇国の運命も……私は変えられると知っている。例え私の遣り様が万人に受け入れられなかったとしても」

 思い上がりも甚だしい。そうは思うが、周囲はそうとは考えていない。

 再び飛び交う蛮声はそれを支持する声で満たされ、鯨波となって大衆酒場の酒精混じりの空気を震わせた。軍人はその類い稀な軍略を目の当たりにし、貴族は未曽有の脅威を感じとり、技術者はその洗礼された発想に驚喜し、豪商は空前絶後の商機を見いだしたのだろう。

 総てを満たし得る人物は、クレアの知る限りでもトウカしかいない。

 だが、不安なのだ。

 マリアベルは孤立した事で、その能力を《ヴァリスヘイム皇国》全体に及ぼせなかった。急進的な存在は忌避されるのだ。

「愛するヒトが護り、そして恋したヒトが生き、好きだと慈しんだこの大地を護り往きたい……そう切に願う。遺された我等に、残された想いに。そして……愛する人の悲願に総てを捧げて私は応える」

 トウカが大衆酒場を睥睨する。

 それだけでざわめきが収束する。

 その言葉の意味するところは明白である。

 曖昧な立場をとり続けていたトウカが、マリアベルの意志を継承すると口にしたに等しい。

 ――状況を踏まれれば独立は不可能……北部の大公国化でしょうか?

 北部の中央に対する反感を低減し、形だけでも帝国に抗する為の挙国一致体制を実現するには、その程度の妥協を政府と中央貴族にさせねばならないとクレアは考えていた。それを成せるか否かこそが、トウカが最初に示すべき真価と言える。

「私は必ず出来るはずだ……その力があるはずだ。私は我等は負けない……絶対に負けない……私がいるから……諸兄らがいるから……だから力を貸して欲しい!」

トウカが声を張り上げる。心からの叫び。少なくとも表面上はそう見える。

 クレアは、演出としては悪くないと瞑目する。

 貴族の様に要求する訳でも政治家のように承認せよという形ではない。あくまでも“御願い”という形を持って、彼らに積極的に自らの行動を支持させて一体感を演出しようというのだろう。

 次々と応じる声が上がる。

 救国の意思を体現しようとしている者に助けを求められて協力するという誘惑と満足感。それは甘美なものであり、地位や金銭で十分に安定した立場を得てい た者達には魅力的なものだろう。自らの持ち得る一部を差し出し、英雄の成立を手助けするという“建前”は真に麗しいものであるのだから。

 トウカは、応じる声に荒々しく手を振り上げる。

「私に力を! 権力を! 国難を悉く薙ぎ払い、怨敵を隷属させ得る武力を! 明日の食事にも不安を抱く家族や労働者に安定した職を与える政治力を! そして、それらを成す為の政治的支援と莫大な資金を!」

 総てを自らに集約させるのだろう。

 権力の分散こそが皇国の諸問題を複雑化させていた点を踏まえれば、それは間違いではないが、幾多の種族と職種、階級を纏め得る事が果たしてトウカにでき るのか。それが極めて困難なことであるからこそ現在の皇国は混乱し、今までは天帝の権威なくては統制し得なかった。天帝という存在自体、建国に携わった初 代天帝を始めとした者達が苦悩の末に生み出した体制の産物と言える。

 トウカは、そうした体制からの脱却を意図しているのかも知れない。

 それは好ましくない。

 天帝という存在は貴族にとって、七武五公にとって彼が考える以上に特別なのだ。政戦に於いて優れた才覚を皇国史上で示し続けていた七武五公が、明らかに 行動を起こすべきであるはずのこの内戦で後手に回った。それは天帝の権威が侵犯される事に繋がる状況が発生する可能性を考慮したからなのだ。国家の長期的 不利益を見て動けなかった。動くならば一撃で、或いは短期間で決着を付けねばならない。だからこそ、エルゼリア侯爵領攻防戦での空挺輸送である。

 トウカは、それを忌避し、軽蔑すべき怠惰と受け取ったのではないのか?

 違う。それは違うのだ。

 幾星霜の時を経て生じた権力の変質が七武五公の手足を縛った。門閥貴族というあらゆる階級と組織、法律、意識……数えきれない程に影響を受ける立場。故 にそれらを意識せねばならない七武五公だが、だからこそ皇国に於ける切り札なのだ。それを切る事は即ち、皇国の限界を諸外国に示すに等しく、また同時に多 方面への抑えを損なうに等しい。

 中央貴族は優秀な者が多いが、あくまでも自領の統治や近隣領地に目を向ける程度で皇国全体を俯瞰する事をしない。各種族の有力者から派生した一種の諸侯による連邦制は中央貴族の危機感を失わせ、国防によって生じる被害は地方の貴族に強いることとなった。

 七武五公は緩衝剤だったのだ。決して弾圧者ではなかった。

 中央貴族の北部貴族に対する反骨精神染みた独立独歩の姿勢に対する嫌悪感を押さえ付け、北部貴族にある程度の掣肘を加えつつも一部の要求を受け入れた。 硬軟を織り交ぜつつ、皇国の一翼を今の今まで担わせ続ける事に成功した手腕は卓越したものと言える。帝国建国から四〇〇年近い時が経つが、その時より生じ 始めた皇国各地の不満を抑え続けた実績は確かなものがあった。

 トウカは、それを見ていない。

 ――貴方が七武五公に変わって皇国内に渦巻く不平不満を押さえ付けることができるというのですか。できないのであれば唯の扇動家です。

 クレアは軍用長外套(ロングコート)の下、脇の下に身に付けた脇下拳銃嚢(ショルダーホルスター)に収まったP98自動拳銃を意識する。

 動くべきである。

 だが、軍用長外套(ロングコート)の開襟から手を指し込もうとしたその右手を、不意に横から伸びてきた手が万力の様な力で掴む。妖精種と人間種の混血種に過ぎないクレアには抗いえない握力に眉を顰める。

「エイゼンタール少佐ですか……何様(なによう)でしょうか?」

 右頬の刀傷、燃えるような紅蓮の長髪をぞんざいに後ろで纏めた元情報部少佐に、クレアは無機質な瞳を向ける。妖怪とも言われるカナリス中将の隷下の中も特に優秀な将校であり、シェレンベルク中佐と共に情報部の行動で先鋒を担う烈女でもあった。

 そして、クレアの友人でもある。

「外の憲兵隊はどうなりましたか?」

「何もしてはいない。そもそも情報部に正面切って憲兵隊と遣り合う兵力はないだろう」

 私含め情報部は人員のほとんどが退職しただろう、と咥えた紙巻煙草に指を鳴らす動作で起動した火炎魔術で火を灯すエイゼンタール。

 面白い冗談ですねと、クレアは溜息を一つ。

 フェルゼンの吸血鬼の異名を持つキュルテン大尉と、人員と装備が一切不明である〈第八〇〇特務重装鋭兵中隊『ブランデンブルク』〉を引き抜いた以上、市 街戦の兵力としては侮れないものがある。しかも、ロンメル子爵家がその運営の為の資金を捻出している為、十分に戦力が維持されていた。

「貴女は、あの戦争屋を支持するのですか?」

 クレアは、何時も通りに飄々とした親友に問う。

 廃嫡の龍姫が愛した戦争屋。

 それがヴェルテンベルク領邦軍将兵のトウカに対する主な評価であった。マリアベルの死後にトウカが然したる動きを見せなかったのは、気落ちしていた事に 加えて政治的後ろ盾を失った事と、無任所に置かれた事で影響力を大きく減じていた為と考えているものも多いが、クレアはそうは考えていない。

 トウカは、この場で気炎を吐いている。

 そして、この大衆酒場(ブロイケラー)に、これ程の人材を集める準備と行動力を示した。

 つまり十分に打算と勝算があるという事であろう。勝機があると見たからこそ動き出したのだ。

 二人の視線が交差する。

 トウカの張り上げた声音が何処か遠い。

 其々の思惑が渦巻く大衆酒場(ブロイケラー)の熱は、未だ加熱の一途を辿っていた。









「政府は我等に更なる妥協を強いようとするだろう。自らの怠惰が招いた結果であるにも関わらず、だ! 政府はこの内戦を自国内のものだと考えていない。あの時、両軍が同胞に銃を向け合った汚名がいかに耐え難いものかを知らないのだ!」

 若き軍神の言葉に、多くの者が頷く。

 共に国防の一翼を担う者達が皇軍相撃を行ったという事実。

 それを真に憂うる者が当事者であるという点を理解している者は少なく、特に内戦後に七武五公の後ろ盾を得て急速に中央集権を推し進めようとしている政府との軋轢は新たな騒乱の火種となりかねないものであった。

 当事者にすらなり得なかったにも関わらず、停戦条項の策定にまで口を挟んでくるという厚顔無恥の政府を罵る北部統合軍と征伐軍の将兵に対し、政府もまた これ以上の内乱を避ける為に大きな動きを見せていた。解体されたとはいえ北部統合軍は少なくない者が陸海軍に編入され、そして征伐軍の基幹戦力が陸海軍で あったが故にその余波が及び、動揺は広がりつつある。

 巌の如き体格に、それに不釣り合いな厚みがありながらも温かみのある顔立ちと優しげな眼差しを湛えたフランツ・バイエルライン少将は、厚みのある唇を震わせる。

「全く以て正しい……でも、どうかな? 君は余りにも殺し過ぎた」

 北部統合軍に所属していた将兵……現在の〈北方方面軍〉の支持は得られるだろう。熱烈な程に。だが、対照的に征伐軍に所属していた陸海軍の将兵の支持を 受ける事は難しいはずであった。陸海軍は内戦で、そこまでするのかと狂える程に底なしの市街戦に巻き込まれたが故にトウカの狂気を危険視しているはずで、 海軍に至っては主力戦艦二隻を撃沈されている。

 彼は徹底的な闘争を演出した。義勇軍とは言え民間人まで動員した彼は、まさにマリアベルの意志を継ぐものだろう。総てを犠牲にしても尚、抗う者なのだ。

「それでいいのか!? 先祖に恥ずかしいとは思わないのか! 子孫に恥ずかしいとは思わないのか! 建国の英雄達に恥ずかしいとは思わないのか!」

 考え付く限りに抵抗を示したトウカであるからこそ、そう言えるのだ。

 冒頭の低い声で躊躇いがちに、些か内気に、演説というより一種の語りかけを始めていった様子であったが、今の一変した姿に他の政治家や将校とは一線を画 すものを、バイエルラインは感じ取った。心のままに金切り声を上げる扇動家や制服を着て大見得を切る夢想家が多い御国の現状を考えれば、まったく相反して いただけに好感が持てるのもまた事実。

 なにせ彼には実績があるのだから。これからの戦乱の世を切り抜ける才覚を既に示しているのだ。

 怒号と同意による咆哮が響き渡り、気が付けば大衆酒場(ブロイケラー)の外からも聞こえる。恐らくは、聞き付けた将兵が集まりつつあるのだろう。

 飛び跳ねるような手と身体の動きと、印象的な言葉の音程は聴衆に催眠的な効果を齎すのか、トウカの口にする内容が徐々に合理性を欠き、人々を煽る様なものへと変質していく事など気付きもしない。

 ――大した役者だ。この様に一体感を演出するとは。

 その様子に、バイエルラインは小さく笑みを浮かべる。

 彼は扇動家だと自身の理性が忠告するが、同時に自身の愛国心が彼を支持するべきだと叫ぶ。軍人は友軍の被害を抑え、勝利を齎す者にこそ尊崇の念を抱くのだ。

 彼に一抹の不安を思える者は多いだろう。暴力的なまでに多くを求める姿勢を危険視する者もいるはずである。頼もしい指導力と歓迎するほど、バイエルラインも若くはない。

 だが、皇国を救う可能性を残した者は彼しかいないのだ。

 トウカの張り上げた声に、聴衆の歓声は高まるばかりであった。

 しかし、その最中に誰もが然して気に留めなかったトウカの一言に、バイエルラインは下唇を噛み締める。


「逃げ道など、もうどこにもないのだ……」


 誰もが既に異様な熱狂に思考を浸食される中、トウカの言葉の内容など気にも留めていない状況にあって、その一言だけがバイエルラインの耳に酷くこびり付いた。








 長い喧騒の時間を、トウカは沈黙のままに見守る。

 今までの内容は、野戦将校や好戦的な姿勢を見せる者達に向けた内容であり、それらの言葉だけで大多数を満足させ得るとは考えていない。好戦的とされる野戦将校寄りの者達でも、それぞれに姿勢(スタイル)があり冷静沈着を旨とする者も少なくなかった。ましてや政治に配慮し、戦略的な視野を持つ高級将校や商人、貴族などはそうした“中身のない言葉”に心を動かされても、同意するほど容易くはない。

 トウカの沈黙に、狂騒が静まりつつある。

 熱気をそのままに彼らは新たな新たに投じられる言葉を求め、トウカへと視線を向ける。

 ――憎悪と悲観からなる熱狂を振り撒き続けるのだ!

 総てを認めさせる為に。

 憎悪に肯定的な者は稀有な例だが、興味深い事に憎悪を無視も座視もできる者は皆無に等しい。表面上は無関心と見えても、必ずその行動はどこかでそうした感情に引き摺られている。

 ましてや大多数の一端を担えば、周囲の感情にも引き摺られるのだ。

 つまりは集団心理。

 集団心理を醸成する土壌は、場の雰囲気であり、場合によっては真実よりも多数派の意見を重視してしまう傾向がある。多数派の主張する嘘の事実を本気で信じてしまう現象が起こるのだ。

 特に主観的な問題が混ざり、利害が成立した場合、自身に望ましくない状況が成立してしまった事実を覆すべく自らの価値と思考を変化させる事を無意識下で行う傾向がある。つまり、集団心理は容易に発生し社会に影響を及ぼすのだ。

 トウカは、彼らを騙さねばならない。

 沈黙を保ったトウカに言葉を促すかの様に、聴衆の声が鳴りを潜める。

 今一度、トウカは聴衆を睥睨する。

 期待に不安、失望に驚喜……多主体様な感情が見て取れる種族も立場も階級も違う者達による戦列……人波にトウカは鷹揚に頷く。


「私には、もう戦い続けるしか道はないのだ」


 我々ではなく、自身のみを指す言葉。

 そう、トウカは戦い続けるしかないのだ。

 ミユキの手を取り、ベルセリカを伴って逃げ出すなどと考えていた頃とは状況が違う。トウカはマリアベルと出逢い、この北の大地で多くの者と共に肩を並べ、外敵と干戈を交えた。

 最早、逃げ出すという選択肢はない。

 そして、皇国の象徴という地位に駆け上がりつつあるアリアベルは、自らに比肩し得る戦略眼を持たず、七武五公も内輪揉めの収拾に熱を上げて周辺諸国を見ていない。

 安心して皇国の行く末を預けられる者を見い出せなかったのだ。

「規則や法律は護る為にこそ存在しているが、それを何時どの様に破るのか決断できる事こそがヒトの真価であると私は疑わない」

 遂に再度の蹶起に関する内容か飛び出すのかとどよめきが広がるが、トウカはそれを片手で制する。

 この期に及んで内戦の再開など有り得ない。

 無論、皇国国内の連携を乱すような事も、これ以上繰り広げる事はできない。

 最早、時間はないのだ。

 能天気共に教えてやろうではないか。残酷な真実を。望む以上の闘争を。

「だから真実を話したいと思う」

 総てを纏め上げるには、“彼”が行ったように国民の大多数が憎悪する対象を演出せねばならない。危機感煽り立てて、見えない敵との対峙へ無理やり国民を推し立てる。いつの時代も変わらない扇動家の十八番(おはこ)を成さねばならないのだ。幸いなことに、その件の“憎悪する対象”が戦意を漲らせて押し寄せてきているという事実であり、皇国は存分に彼らを憎む事ができた。押し付ける罪が千や万ほど増えたところで然して問題のある話ではない。

 国家が団結するには共通の敵が必要で、現在の皇国はその敵に不自由していない。

 既に醸成された差別意識を煽る事で敵意へと昇華させる。

 差別意識が手に負えないものであるとトウカは理解していたが、それでも尚、利用しなければならない状況まで皇国は追い詰められている。

 決定的な一言。


「この内戦は帝国による工作によって引き起こされた」


 その言葉に、聴衆が絶句する。

 内戦に向けて征伐軍と北部統合軍(当時は蹶起軍)の双方が軍を相手に差し向けた段階で、混乱を助長させる為に帝国軍はエルライン要塞への攻撃を開始し た。以前までのエルライン要塞攻防戦は最短でも一ヶ月以上行われるのが通例であり、一週間足らずで集結した一連の動きがエルライン要塞攻略以外を目的とし たものと取れることは、高級将校や参謀であれば誰しもが推測できる事に過ぎない。

「前回のエルライン要塞への攻撃は、結果として征伐軍を北部に誘き寄せた。そして、北部へと到着した頃には、帝国軍はエルライン回廊より撤退し、北部統合軍は防御行動として防衛線を構築……衝突するに至った」

 会談での妥協を探り、双方が軍を後退させれば最善であったなどという声は上がらない。

 共に面子があり、護るべき対象と権利を背に軍を動員したのだ。特にアリアベルの場合は政治的結果を欲していた事から、帝国軍を退け得たという名声以外を 早急に手に入れる必要があり、マリアベルは冬季戦装備の充足率に悩む征伐軍を早期に北部の縦深に引き摺り込みたいと考えていた。

 二人の龍姫の名誉とトウカの打算の為に口には出されないが、両軍で要職を得ている者が共に早期の戦争を望んでいたが故に起きたのだ。

 この点だけならば偶然と言えるが、それだけではないのだ。


 トウカは胸衣嚢(ポケット)から一枚の硬貨を取り出す。


 さぁ、騙りを始めよう。

 

 

 

 

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 期待される政治家とは、明日なにが起きるかを国民に予告できなくてはならない。そして、次の日、何故自分の予言通りにならなかったかを国民に納得させる能力がなくてはならないのだ。

       《大英帝国》 首相 サー・ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチル