第一八〇話 誰が為の戦争 後篇
「貴方達は現刻より私の指揮下に加わる事になるわ」
リシアは、一個小隊ほどの整列した面々を相手に伝達事項を告げる。
ベルセリカが〈北方方面軍〉司令官としてリシアに部下を与えたのは、陸軍総司令部からの異論が出たものの、それにより組織の歪さが解消された事は疑いな い。〈北方方面軍〉の情報分野が極めて脆弱であったのは、独自判断による主体的な行動を制限しようとした陸軍総司令部と政府の意向による人員の制限による ところであるが、現状では意味を成していなかった。
皇州同盟と〈北方方面軍〉が連携を深めつつあるからである。
情報面での落伍を皇州同盟軍情報部が補う事によって〈北方方面軍〉の情報面での不利は解消されている。政府は国軍と地方軍閥の紐帯を阻止する動きを見せ ていたが、分断工作は現時点では失敗していた。帝国の脅威が明確となった今、国内の軍事組織との不和を政府が怖れたという側面もある。
「貴官らはヴァルトハイム元帥によって選出された人材です。ですが、望まれた人選ではない。元帥は本質的に相容れない者達を厳選し、ここに集めた」
その言葉に対しての動揺はない。
一個小隊に上る彼らの面子は統一性のないものであるが、その非公式の経歴は赫々たるものがある。部族連合内での民族問題への工作や、共和国への諜報活動、神州国内での各藩への不安定化工作などを担っていた彼らは汚れ仕事の練達者であった。その中でも北部出身者であり、任務に忠実な者が選出されている。
そして、敵性環境下で小規模部隊による破壊工作や非公式作戦に従事させる事を目的としており、諜報や防諜よりも攻撃的な任務を担う為の編制であった。
「この国の未来の為、そして国民の為、貴方達には外道となって貰います。天霊の神々の御許には往けぬ事、この場で了承して欲しい。無理ならば、この場より立ち去っていただいて結構。代わりの立場と地位も与えます。経歴の傷にもさせない」
リシアは、上座から作戦会議室内を睥睨する。
練石が剥き出しの無機質な作戦会議室内の座席に着いている者達は、一様に種族的にも民族的にも統一感がないが、それは各種魔術的擬装によるものである。彼らはそれが赦される立場にあった。
ある意味、戦死しろと命令の限界を超えた命令を下すよりも陰惨な命令をリシアは彼らに下さなければならない。信賞必罰は軍の依って立つところであるが、 非正規任務が主体の彼らには栄誉も勲章も名声も望むべくもない。権力の影で戦い、そして記録すら残されない死に様を迎えるかも知れない。
誰もが望むはずのない立場。リシアは眼前の軍人達にそれを強いる立場となろうとしている。自身が士官学校入学前に思い描いた理想の軍人像とは酷く離れつつあるが、それが権力を支えるという事なのだと、リシアは諦観の入り混じった納得を携えて彼らの前に立っていた。
リシアの問いに幾人かが目合わせすると一人の男が敬礼と共に立ち上がる。
人間種で言えば中年に差し掛かろうという佇まいの男性であるが、その背格好は何処にでもいる姿に見えて印象が少ない。そうした偽装なのだろう。
「我らは所詮、外道……今更です。ですが、ハルティカイネン大佐。一つお聞きしたく」
進み出た男がリシアを曖昧な笑みを其の儘に、しかしながら昏い瞳を湛えて見据える。
軍人である以上、命令という強制を以て統率することは不可能ではないが、リシアが彼らに求めるのは軍人としての矜持を国益の為に溝に捨てる行為である。故に可能な限りは慮る心算であった。
リシアは頷き、問い掛けの許可を与えるが、返ってきた言葉は想像していたものとは違った。
「貴方は常に我らを許容して下さいますか?」
虚を突かれたと言っても良い。
貴女も外道に堕ちてくれるのかという確認や、戦死時の遺族年金の増額などを求めてくると予想していたが、酷く曖昧な赦しを求める声が上がるなど想像の埒外であった。
だが、無制限の許容は命令の拡大解釈や逸脱した行為を招くのではないかとリシアは危惧した。
「共に外道を堕ちろ、とは言わないの?」
「貴女は我々だけが外道に堕ちる事を許容できないはずです。不器用な女性だ」
憐れむような声音に、リシアは喉を詰まらせた。
リシアの為人を知る程度の事は容易いのだろう。其々が独自の情報網を以て独立した行動で軍務に付く彼らは直属の上官ですら把握できない部分が多々ある。
「我らは誰にも認められないし、赦されない」
天霊の神々すらも、と付け加える彼。自らを許容する絶対的支柱こそを彼ら彼女らは求めているのだ。
リシアは成り得るか。
薄暗い国家権力の影の下、形なき正義を求めて終わりなき戦いを指導するという不正義。悪ではない。損益からみて国益が優越するならば軍人はそれを悪とは呼べない。故に不正義である。
「指揮官にすら自らの行いを許容されぬと言うなれば我々は戦えない。今この場所にいる者達の中にも、そうした疑問を抱き続けている者が少なくないはずです」
頷く者が幾人か。
リシアは自らが穢れていく様な感覚に捕らわれていた。
歴史に残る程の国家なら必ず、どれほど立派な為政者に恵まれようとも二つの事に基盤を置いた上で数々の政策を実施する。それは正義と力である。正義は国内に敵を作らない為に必要であり、力は国外の敵から守る為に必要であるからだ。
だが、彼らは然したる力も明確な正義も持ち合わせない。時代の陰で蠢くだけだ。
だからこそ求める。
彼ら彼女らの観念の基準として、通念の示準としてリシアは確たる意志を提示し続けなければならないのだ。
国家権力でもなく普遍的正義でもないリシアの意志こそが基準となる。
だからこそ、自らの基準と示準によって示された如何なる結果をもリシアは許容せねばならない。自らの手先が刃を握り無辜の民を刺し貫いたとして、当人がその罪を避け得ない様に。赦しも慈悲もなき国家権力の闇で蠢く彼らは、何処かのか誰かによる許容こそを求めているのだ。
人のなす事業は、動機ではなく、結果から評価されるべきである。
だが、彼らが報われるのはその結果が歴史となった頃であろう。そうでなくては国家権力の暗部足り得ない。
リシアは背筋を伸ばして、特徴のない面々へ今一度、視線を巡らせる。
「貴官らが常にこの国を想って不正義を成すというのであれば、私は喜んで許容するわ」
覚悟は決めたはずだ。総てを手にするのだ。権力も名声も……彼も。
自身が穢れる事など気にしては追い付けない。
だが、彼の前では穢れた手先が見えぬ様に純白の手袋を用意する事も忘れはしない。
それが、リシアの不正義だ。
「でも、約束して」
将校が隷下の兵士に“約束”などとは赤面ものである。軍の統制上でも宜しくないが、既存の軍制度と状況からは大きくかけ離れた彼らの前に在っては無意味な“維持”だろうとリシアは拳を強く握りしめる。
「トウカは……サクラギ上級大将だけは裏切らないで」
それは如何なる理由か。
国家の為か?
自身の為か?
未来の為か?
リシアは語らない。
総ては波打つ歴史の波濤に消え往く感情に過ぎないのだから。
「第三城塞線陥落! 〈第五二歩兵聯隊〉、〈第九八歩兵聯隊〉が後衛戦闘を継続中! 火力支援要請を承認エルナは戦況を叫ぶ。
血涙と戦塵に塗れた軍装を其の儘に要塞司令部を闊歩する将校達の姿は既に珍しいものではなく、叩き付ける様な怒声に満ちている。故に報告は声を張り上げるしかない。
敵軍を阻止可能なのは三つの城塞線のその間に在る六つの塹壕戦の九つであるが、最早、そのどれもが帝国軍の大攻勢の前では意味を成さないだろう。塹壕線など早々に飲み込まれる為に放棄するしかなかった。
要塞司令官であるエルメンライヒは重々しく頷くのみ。
受動的な要塞防御戦に在って指揮官の采配が大きく影響する例は少ない。寧ろ、長期化する傾向のある戦闘での士気を重視して精神的支柱となり得るであろう 者が選任される傾向があった。そして、副官や副参謀などは人望や豪放磊落な任物が選ばれている。要塞防御戦に特化した司令部とはそういうものであった。
「押し切られたか……重砲の城郭内への移動を急がせろ。列車砲の状況はどうか?」
「最後の一門が牽引車輛と連結作業中です」
エルメンライヒと砲兵参謀であるルフトザイル少将が言葉を交わす。
長射程でいて威力に優れる列車砲だが、速射性に大きく劣り、何よりも展開と再配置に少なくない時間が必要となる。要塞司令部を擁する星形城郭を残すのみ となった今では、城郭に取り付かれて砲兵での直射を受ければ喪われる可能性があり、三つの城塞線による阻止が不可能となった今では損耗の可能性が大きい。 寧ろ、必要なのは多数の重砲や野砲であった。
エルナは喉に焼き付く様な焦燥を感じていた。
第一と第二要塞線は重戦略破城鎚によって崩壊し、第三城塞線は圧倒的物量の歩兵と砲兵の突撃によって喪われた。重戦略破城鎚の運用に難がある為か、一度に纏まった数が投入されなかった事もあって段階的な後退は辛うじて成功した。
しかし、組織的な抗戦能力が著しく低下した事には変わりない。
難攻不落を自負していた要塞の失陥の危機である。
士気低下は免れない。
陸軍総司令部は失陥を前提に動き始めている。
そして、〈エルライン要塞駐留軍〉には可能な限りの持久と独自判断での撤退行動が命令されていた。
エルナは、何と身勝手なと憤ったが、陸軍は兵力の損耗を避ける為に増派には酷く消極的である。決戦を行う時期と場所を定めているのだろうとエルナは見ていた。
エルライン要塞の最終防衛線とも言える星形城郭は要塞司令部が置かれており、弾火薬の集積地としても予備兵力の収容施設としての機能を有していた。
だが、星形城郭は第一から第三の城塞線の様に敵軍の侵攻路を高度な次元で阻止する機能を持たない。
皇国側、エルライン回廊の開けつつある場所に建造された星形城郭の主目的は後方拠点であって、回廊の左右一杯まで城壁を築いている訳ではなかった。それは、開けつつある地形を横断する様に上再選を構築する事が距離の問題で難しかったからである。
つまり星形城郭のある中央以外の左右の空間は、遮蔽物がない侵攻路足り得た。
無論、星形城郭内に展開している火砲の砲撃区画を突破する事が前提であるが。
第一から第三の城塞線に配備されていた火砲は半数近くが喪われたが、帝国が今侵攻で使用した重戦略破城鎚は一度での使用数が限られている事と、その次発 投入に時間が掛かる事も有って後方への再配置が叶った火砲も少なくなかった。破壊された城塞線の瓦礫によって敵の侵攻が阻害され続けた点も大きい。
火砲の総数は重、軽合わせて三〇〇〇門を越えるだろう。
星形城郭……マリエンベルク城郭は砲台、堡塁、特火点、高射砲陣地、司令部、観測所、弾火薬庫、糧秣庫、給水設備、通信施設、兵舎、地下交通路、医療施設などを備えた永久陣地である。無論、度重なる近代化改修を経て、各施設や設備が地下通路で接続されており、極めて強力な防御力と火力を発揮した。
だが、問題は弾火薬の損耗である。内戦終結と共に補給は再開されたが、敵軍の規模もあって嘗てない規模で射耗しつつあった。
弾火薬の払底がエルライン要塞失陥の時期となるだろう。
火砲による左右の侵攻路の阻止行動が不可能となれば、素通りされる事になり存在意義を喪う。被害の増大を抑えるなら射耗させて、二〇万程度の兵力で包囲 下に置けば問題は解決する。負傷者と後方支援要員を撤退させた為、エルライン要塞、マリエンベルク城郭に展開している兵力は五万を僅かに超える程度でしか
ない。全体に占める砲兵の割合を踏まえるならば、後衛戦闘を行いつつの撤退行動は火砲を放棄しても難しいと判断されていた。
だが、敵軍が輜重線の至近に健在な要塞が存在し続ける事を忌避したら?
殲滅戦になるだろう。
互いの憎悪は長い要塞戦で高まり、無秩序に垂れ流されつつある。捕虜はその場で殺される事は当然の様にあり、だからこそ両軍共に死に物狂いで抵抗する。 軍に於ける女性比率の高い皇国軍だけあり、捕虜の末路は悲惨の一言に尽きた。獣種であれば尻尾や獣耳を切り落とされた上で強姦されるという例すら少なから ず見受けられる。
エルナは幸いにして尻尾も狐耳もないが、末路は同じなのだから他人事ではない。
無論、生きて虜囚の辱めを受けず、という精神を実践する心算である。半裸で引き摺られて見世物にされる事は断じて避けたい。
「でも、只では死んでやらない」
殺せるだけ殺すのだ。
薄汚れた第一種軍装の襟を掻き寄せ、エルナは殺伐とした感情を胸に要塞司令部を後にする。
きっと自分は死ぬだろう。
エルナは上を向く。
死にたくない。生きたい。恋をしたい。
でも、口には出せないし涙も流せない。
それが将校というものだと、彼女は士官学校で教官に幾度も教えられた。残酷な戦場で上に立つ者が動揺すれば、隷下の将兵達もまた道を見失う。赦される事ではない。
足を速めつつ、それでいて駆け足にならぬ程度の速度でエルナは外を目指す。この時ばかりは複雑で長い通路が煩わしい。
二〇分以上の時間を掛けて訪れた場所は、長射程の列車砲の為に用意された観測所の隅……そこで手摺りを掴んで曇天を見上げる。幸いな事に列車砲は後送されており、周囲に観測要員の姿は見受けられない。
遠方で蠢く深緑の軍勢は帝国主義者が振り翳した剣の切っ先である。
そして、エルナは皇国が醜の御盾の一翼を担う者である。
気高く在らねばならない。それは使命であり、自己暗示でもある。
だが、感情を揺らす、良く通る、人に命令を下す事に馴れた声音が、エルナの心を乱す。
「君、いかんな。将校がそんな儚げな表情をしては」
振り向けば漆黒の軍装を纏った軍神。
何故ここに。そう思った。
「サクラギ上級大将……なぜ、何故ここに……」
汚れ一つ見受けられない軍用長外套の裾を風に揺らして佇むトウカに、エルナは二の句が継げない。白麦酒の酒瓶を片手に微笑む姿は不良少年にしか見えないが、その皇州同盟軍第一種軍装と上級大将を示す肩章、司令官を示す金色の将官飾緒が彼の立場を示していた。要塞内の誰もがその権威に咎める事を躊躇しただろう。
「なに、狐耳の新妻の監視が煩わしくてな」監視付きで戦争は好かん、と快活に笑うトウカ。
エルナは曖昧な笑みで流そうとするが、トウカはそれを組み取ることもなく言葉を重ねる。
「男には自分の時間が欲しい時がある。戦時下でもな」
野戦に合わせて野戦用と称される濃緑茶褐色の飾緒を纏うのが通例であるが、トウカは明らかにそうした配慮をしていない。
「爪哇の極楽、緬甸の地獄、死んでも帰れぬ巴布亜……だな。全てを体験できるとは幸運じゃないか。ま、社会思想で殺すのも種族的差異で殺すのも変わらんだろう」
何を言っているのか分からないが、彼は自らの知り得る戦場と眼前の戦場を比較しているのだろう。北部の内戦では叛乱軍は現地であった為に極めて補給状況が良かったと、エルナは耳にしている。対するエルライン要塞は補充に損耗が追い付いていない。
「太太しくあれ。厚かましくあれ。傲慢であれ。それが結果に繋がる最低限の条件だ」特に危機に際してはな、と付け足すトウカ。
危険視されて孤立する理由はそこにこそある事を彼は理解していないのだろう。彼が他勢力に理解を示し、配慮する姿勢を見せれば状況は大きく変わったのではないかという意見はエルライン要塞駐留軍にも根強く存在する。
無論、エルライン要塞の失陥は彼の責任ではない。
もし、エルライン要塞の状態が内戦もなく万全であったとしても重戦略破城鎚が投入されれば失陥は免れないという推測が要塞司令部では出ている。現在の帝国軍上層部は、以前までの者達ではない。斯くたる実力主義者を据えた軍事組織だ。
その時、銃声が響く。
二人は思わず顔を見合わせる。聞こえたのは自動拳銃の射撃音。高初速の小銃弾と見るには低音で、短機関銃の速射性を感じさせる連射音でもない。
だが、自動拳銃にしてはかなりの射撃速度があり、それなりの連射をしている様に聞こえる。音楽性すら感じさせる秩序ある射撃音を聞くだけでも、射手が自動拳銃の扱いに卓越した技量を持つ事が理解できた。
「申し分けありません、閣下。部下が間諜を射殺しました」
トウカの影から燃える様な紅い髪をした女性将校が姿を現す。
トウカよりも長身の女性将校の姿が直前まで見受けられなかった事をエルナは疑問には思わない。情報部や憲兵隊の人員であれば光学迷彩魔術や視覚遮蔽魔術など造作もない事である。
「多種族多民族国家であるからこそ相手も浸透が容易い、か」
「やはり間諜が紛れ込んでいましたか。此方でも対処しているのですが」
城塞線陥落の影響で歩兵による混戦も無数に散見された。混戦の最中であれば敵軍の軍装を纏って浸透する事は双方共に容易い。
「魔術的な防護もあるからこそ隠蔽は更に難易度が下がる、か。糞っ、くたばれ、幻想浪漫め」トウカは楽しそうに悪態を吐く。
そして、白麦酒を煽りながら、トウカはマリエンベルク城郭内の飛行場に駐騎している輸送騎を指差す。そこには、飛行輸送中隊規模の大型輸送騎の群れに直掩と思しき飛行戦闘大隊規模の戦闘騎の群れが窺えた。
あの航空部隊に便乗して訪れたという事なのだろうが、エルナの記憶では航空部隊が到着する予定はなかったはずである。しかもどの騎体の識別番号も陸海軍に所属する航空隊の符丁からは外れていた。つまりは皇州同盟軍の騎体ということになる。
「あの飛行隊で来た訳だが、酒が足りんだろう? だから持ってきてやった」ついでに煙草と医薬品も、と付け加えるトウカ。
あの大型輸送騎に群がっている兵士が運んでいるのは嗜好品と医薬品の類なのだろう。確かに医薬品は兎も角として嗜好品の補充は遅れており統制が始まっていた。
訊ねようとしていた事を次々と先に口にされたエルナは、大元の疑問をぶつける。
「サクラギ上級大将閣下、一体、前線に何用でしょうか?」エルナは敢えて一線を引いて訊ねる。
皇国陸海軍では本来、階級の後に“閣下”という敬称を付ける事は義務化されていない。戦場で悠長に敬称を付ける事を忌避する効率主義の結果であるが、他国でも海軍であれば敬称を省く例は少なくなかった。
トウカは酒瓶の白麦酒を一息に煽ると、その酒瓶を背後の燃える様な紅い髪をした女性将校に投げて寄越す。
そして、両手を広げて峻烈な笑みを湛える。
「一体、何を、だと? 決まっている。戦争だよ、君」
それが新たな混乱と狂騒の始まりであったとエルナが知るのは、随分と後の事であった。
「愚か者が、死んで詫びろ」リディアは引き金を引く。
銃声が幾度か響き、金色の薬莢が回数に合わせて弧を描く。寒空の下、輪胴式拳銃の銃口から棚引く硝煙の酸化臭は気にならない。装薬はニトロセルロースが主成分で、燃焼に於いては主に窒素酸化物が生じる。臭気は銃弾用火薬を精製する為に用いられる煙硝遅延剤や添加剤の燃焼による僅かな酸化臭しかない。
対する帝国陸軍の重砲の一部は砲弾数を稼ぐ為、安価な黒色火薬を用いている。
その影響が、周囲には酷い硫黄化合物の臭気が満ちていた。燃焼時に硫化カリウムと酸素が反応して生じる二酸化硫黄の臭気は、嗅覚を麻痺させる程のもので ある。使用時に大量の白煙と火薬滓を発生させるが、相手が限定空間の機動しない要塞であれば問題はないと、このエルライン要塞攻略戦では盛んに用いられ
た。砲兵が煤塗れになりながら本来は頻繁に清掃の必要のない砲腔内を清掃する姿に、リディアは幾度も溜息を吐いたものである。
――砲撃速度と投射数の問題はあるが、悪い事ばかりではないな。御蔭で溜息を吐いても顔を顰めても臭いの所為にできる。
「ブルガーエフ中将。その生ごみを埋めておけ。私は寝る。起きるまでに、あの城郭へ攻め掛かる準備を完了させよ、良いな?」
輪胴式拳銃の撃鉄を倒してブルガーエフに手渡すと、リディアは戦車と火砲の移動で均された雪上を軍靴で確りと踏み締めて通り過ぎる。
「はっ、承知いたしました、元帥閣下」
リディアは背後からの声に、乱暴に右手を上げるに留める。
早々に大型指揮装甲車へと歩を進める。
移動司令部でもある帝国軍の大型指揮装甲車は、車体が極めて大きく、帝国陸軍が採用している主力戦車の無限軌道を多数使用し、その上、帝国海軍で採用さ れている小型艦艇用魔導機関と魔導炉心を搭載していた。それらの点を踏まえると、装甲車などと呼称するよりも陸上艦と表現するのが適切である。納入単価と 稼働率に大いに問題がある為、帝国陸軍でも戦野に現れるのは極めて稀であった。
三つの城塞線の瓦礫の一部を辛うじて撤去し、無理に展開した為か工兵によって足回りの整備が並行して行われている。
リディアは敬礼する工兵達に答礼を返すと、舷梯を登る。
舷梯の先、車内への重厚な扉の前で騎士然とした女性……ナタリア・ケレンスカヤが直立不動でリディアを待っていた。
万華鏡の様に表情を明るいものへと移り変わらせたリディア。悪く言えば気分屋であり、移り気とも取られかねない姿勢だが、はその自由気儘な在り様がいた く似合っていた。その笑みは咲き始めたばかりの蕾の如く薫り高く、初々しい。花弁の奥から滲み出るような甘く、気品に満ちた色気が武骨な大型指揮装甲車の 装甲を彩る。
例え、深緑を基調とした帝国陸軍第一種軍装を身に纏っていたとしても、その美しさには一片の翳りはない。
そして、何故か暴力的なまでの姿勢すらも似合う。
だからこそ彼女は、喪われつつある祖国で暴力集団と化した軍隊を統率できるのだ。
「御機嫌は……麗しくない様ですね」すくり、と上品に笑みを零すナタリア。
リディアは鷹揚に頷いて見せると笑みを返す。
「愚か者が多くて困る。特に帝国は男が情けない。非力な女子を組み敷く事しかできぬと見える」皇国男子は死中に尚、一兵でも道連れにせんとしているが、と続けるリディア。
そこには会話の内容は兎も角として年頃の少女達の雰囲気があったが、眼光だけは鋭いままである。過酷な軍務生活は少女達を戦人にしたのだ。損なわれた人間性と培われた戦技だけは自らを裏切らないと確信した者だけが魅せる貌。護衛を兼ねていた将兵達はその姿に目を奪われるが、リディアが一瞥すると慌てて目を逸らす。
二人はその姿に肩を竦めあう。
ナタリアが開けた重装甲の扉を潜り、リディアは車内へと足を踏み入れる。
幾つかの区画を抜けて司令部へ足を踏み入れると、その姿を認めて一斉に立ち上がって敬礼する参謀達にぞんざいに手を振り座らせ、リディアは更に進む。従 兵や副官の詰めている一室を抜け、従兵が敬礼を以て開けた自室への扉を、答礼を返す。続けて、呼ぶまで誰も入るな、と告げるとナタリアを伴ってリディアは 自室へと踏み込む。
そこからは乙女らしからぬ振る舞いとなった。
乱雑に軍靴を脱ぎ捨て、軍装の上衣の釦を全て外すと領帯を抜き放って執務机に放り投げる。ついでとばかりに佩用していた曲剣を鞘諸共も投げ置く。
金属質な音色が奏でられ、書類が舞うが、リディアは気にも留めない。自身は応接椅子へと身を投げ出した。
軍人、それも戦時下の方面軍指揮官という激務はリディアの精神を蝕んでいた。否、決済や稟議書の類は軒並み参謀達に丸投げしている為に身体的負担は少ない。対照的に隷下の将兵に対する不満と失望は絶大なものがあった。
捕虜を取らずに皆殺しにする事は咎めない。
捕えた女性兵士を強姦する事も咎めない。
戦術的視野すら持ち得ない事も咎めない。
ここは戦場。この世の地獄。
共に覚悟を持って国家の威信を背負う戦野。
自らの末路に責任を持ち得ないなどという寝言は許さない。特に皇国軍は志願制であり、自らの処遇と人生を選択できるのだ。戦野に打ち捨てられるのもまた自己判断の結果である。
失敗と誤判断には失点と悲劇を。
決意と決断には明確なる結果を。
それらに伴う利益と損失を。
それらを明確に有権者に突き付けてこそ、彼らは真摯に国営に向き合う。
この被害を以て皇国は目覚めるだろう。
その前に甚大な一撃を加えねばならない。
リディアは、応接椅子の上を這い進み、横の机上に置かれたヴォトカの酒瓶と硝子碗を手に取る。
「ナタリアも一杯やれ。部下の不始末は飲んで寝て忘れるに限る」
「では、御言葉に甘えて」
堂々とリディアの座る応接椅子に腰掛けたナタリアに遠慮は感じられない。堂々と身体を傾いで座るリディアの横へと座る姿は様になっており、剰えその長い足まで組んでいる。だが、その踏み込んだ姿勢をリディアは好ましいと感じていた。
ナタリアに手渡した硝子碗にヴォトカを注ぎながら、リディアは苦笑を零す。
嘗ての戦野に在って、幕営でこうして二人で酒を酌み交わした記憶は懐かしい。なれど彼女達は友人ではない。
共に目指すものの為に互いを利用しているに過ぎないのだ。互いに自らを友人であるかと尋ねる真似をしないのは、それを理解しているからであって恐れているからではないと、リディアは確信していた。
「馬鹿な部下の不始末に」
「元帥閣下の御苦労に」
硝子杯と酒瓶の注ぎ口が接触し、軽やかな音色を奏でる。盃を交わすなどという上等な真似ではない儀礼に過ぎないが、やはり軍人という生物は縁起を担いでしまう。次もまた共に酒を酌み交わせるように、と。
ヴォトカを躊躇いもなく煽る少女二人。
皇国に飲酒に関する年齢制限がない様に、帝国もまた同様である。決して張り合った訳ではない。前者の様に多くの種族的差異に対応させる事を諦めた結果でもなく、寒冷地帯であるが故に暖を取る手段として奨励されたに過ぎない。
早々に空になったナタリアの硝子碗に、リディアは新たヴォトカを注ぐ。少し零れて豪奢な絨毯を濡らすが、それを気にする事ではない。そして、自らが口を付けたヴォトカであるがリディアは気にしないし、ナタリアも同様である。戦野で異性や回し飲みを気にする者など新任少尉くらいのものであった。
互いにヴォトカを煽り合う少女という光景は煽情的なものがある。特にリディアに倣ったナタリアが煩わしい軍装の釦を軒並み外し始めたとあっては、目も当てられない状況に短時間で陥るのは避けられなかった。蒸留数を安物よりも繰り返しているだけあり、度数が高い高級ヴォトカは二人の思考を容易に蝕む。
快適な温度に保たれた室内だが、蒸留酒を煽っては些か以上に身体が熱を帯びる。
胡乱な瞳で二人は言葉を交わす。
話す事は軍事から政治、現状への不満に色恋沙汰と右から左へと蛇行するが、宴席の会話とは得てしてそうしたものである。
「オスロスクは壊滅か……怖いな航空騎は」
「兵士が怯えて塹壕から出てこないとも聞きます。死後の事など死んでから考えればいいものを」
リディアの素直な言葉に対して、ナタリアは現状を鼻で笑う。
臆病風に吹かれたわけではないが、剣戟の届き得ぬ高空より一方的な爆撃を行う相手に攻撃手段のないリディアとしては見上げる事しかできない。エカテリーナから貰い受けた神剣である銀輝の神剣であれば可能であるかも知れないが、将兵の前で堂々と使えば所有が露呈するかも知れないと、目下のところ室内の素振りでしか活躍していなかった。
リディアは酒気混じりの苦笑を零す。
「エグゼターの傭兵は短気で困る。そんな事だと野戦将校止まりだぞ?」
無論、ナタリアが野戦将校の域を出る事を拒んでいることは、リディアも理解していた。現在の少佐という階級は帝国では辛うじて政治的な柵を受けずに過ごせる階級と言える。下手に目立たなければ、という前提が付くが、ナタリアの場合は事実上の無任所であって隷下の兵力を持たない。
「権威の七光りで元帥号を押し付けられましても……閣下も副産物がおありでしょう?」
こうも言いたい事を言ってくれる部下というのは、容易に得られるものではない。
政治という副産物を嫌うのはリディアも同様である。エカテリーナの手腕によって最低限に留められているとはいえ、貴族将校という精神的疲労も手伝って回復の兆しは見えない。二、三匹駆除してはみたが、害虫が仲間の遺体を見て自重するほどの知能を有していないことは既に幾度も証明されている。
リディアにできることは定期的に間引く事と、ヴォトカで不平を喉に流し込む事くらいしかなかった。無論、祖国を食い潰す無能を処分しておきたいという冷徹な打算がエカテリーナにあることは容易に察することができる。
だが、徴兵された兵士達が彼らの隷下にはいるのだ。皇国の様に志願した結果の死であれば自己責任とも言えるが、帝国は基幹戦力が徴兵によって集成された軍隊である。
「一人で死ねばいいものを。始末に終えん、なぁ?」
「いえ、寧ろ親族と一緒に、が望ましいでしょう」
清々しい笑みで言葉を重ねてきたナタリア。
実に合理的な返答に、リディアは唸るしかない。
先程銃殺した貴族将校も各々の実家が騒ぐかも知れんな、とリディアは早まったかも知れんとヴォトカを煽る。酒瓶は既に半分ほどまでに目減りしていた。
二人は意味もなく、酒瓶と硝子碗を互いに打ち付け合う。
硝子の音色が響く。そして、笑う。こうして不満を垂れ流し合う場がなければ、リディアはその堅苦しさと不純な組織体制に窒息していた事は疑いない。
「そう言えば、元帥閣下」ふと思い出したかのように、ナタリアが声を上げる。
顔に刻まれた深い笑みが、その言葉の先が碌でもない事を示しているものの、酒精の入ったリディアは鷹揚に言葉の先を許す。
「ん? なんだ? その厭らしい顔は気に入らんが聞いてやる」幾度目かになるか分からないヴォトカを煽るリディア。
政治的問題に対する疑問か、或いは今後の軍事展開への疑念か。その辺りだろう、とリディアは踏んでいた。他者から不干渉である様に振る舞うには、情報に対して鋭敏であることが求められる。
だが、ナタリアの言葉はリディアの想像とは違った。
「サクラギ・トウカとはどの様な出逢いだったのですか?」
ぶはっ。
口に含んだヴォトカを盛大に零す。
気管に入り込んだ高純度の酒精が体内で暴れ、リディアを悶絶させた。帝国軍による皇国侵攻で初めての実害がリディアを襲った瞬間である。
喘ぐリディアに、口元を隠して笑声を零すナタリア。
二人だけの酒宴は続く。
歴史に残る程の国家なら必ず、どれほど立派な為政者に恵まれようとも二つの事に基盤を置いた上で数々の政策を実施する。それは正義と力である。正義は国内に敵を作らない為に必要であり、力は国外の敵から守る為に必要であるからだ。
人のなす事業は、動機ではなく、結果から評価されるべきである。
《花都共和国》 外交官、ニッコロ・マキャヴェッリ
「爪哇の極楽、緬甸の地獄、死んでも帰れぬ巴布亜……戦域毎の状況の落差を指す。密林のビルマやニューギニアでは餓死者が相次いだのに対し、ジャワは巨大で豊かな島であり食糧も豊富だった。