第一八五話 無邪気な狂相
「これは確かに心臓に悪い。マリィと険悪になった時以来の緊張感だ」
火砲が次々と着弾する様が投影され、一部の貫徹した徹甲弾の着弾が床を揺らす現状に、トウカは頭を掻く。
精神的負荷で倒れる兵士が出るというのも納得できる状況である。戦闘詳報によれば、気は触れた兵士が小銃を特火点で乱射し、その場で仕官に射殺されるという事例が幾つも生じている。兵力や各種物資、兵器性能は別として、前線の将兵の精神と士気の維持は難しい。士気崩壊の可能性とて有り得る。大多数のヒトは、恐怖心と存本能が愛国心に優越し得る事をトウカは知っていた。皆がリシアの様であるはずもなし。
トウカの漏らした言葉に、喉の奥で笑声を漏らすエイゼンタール。
「傷付いた女の言葉を疑った代償です、閣下。以降は注意なされると宜しいでしょう」
あの頃のトウカとマリアベルは協力者であって同盟者でも共犯関係でもなかった。目的の延長線上に在ると判断して互いに利用し合っている、とトウカは踏ん でいたのだ。故に駆け引きは苛烈なものとなり、互いに背後を警戒した。エイゼンタールは情報部だけあって、マリアベルの影響下でトウカの動向を探っていた のだろう。物言いが腹も立たない程に的確である。
以降は、というものは存在しないと知って尚、口にしているであろうエイゼンタールは実に楽しげで、嬉しさに動かされて反射的に微笑んだ様にすら見える。情報部は表情を造ることも容易いであろうが。
「マリィに次はなかったがな」
喪われたモノは取り戻せない。取り戻すを前提とする生き様、それは武士の生き様に非ず。
祖父のそうした物言いは、純軍事的に見ても合理的ではない。七武五公の武家や公家よりも更に現人神に近しい立場にある桜城家は、守護者であり統率者。将 軍家たる織田家が形骸化した時代に在っても、武家と公家の間を取り持つ重責は健在である。祖父の様に威のみを以て諸勢力を押さえ付ける真似を成せるのは後 にも先にも存在し得えず、大東亜戦争終結の立役者であるからこそ成せる無理無謀無茶なのだ。
喪ったモノも存在しないモノも手にする事はできない。出来るのは報復だけである。原因となった対象に同等の悲劇と不幸を求めるのだ。反知性的な行為に世 の人道主義者諸兄は眉を顰めるかも知れないが、歴史とは戦争と平和の連なりであり、それは貧困と報復を糧に革命と戦争を引き起こす。
結局、自身も歴史の歯車でしかなかったのだと、戦場はトウカに現実を教える。
曳火砲撃により魔導障壁を貫徹した一部の徹甲弾の着弾が総司令部を揺らす。天井から舞い落ちる埃が空気を汚し、不快な臭いを漂わせる。連戦では清掃も儘ならないのだろう。端的に言うなれば、地獄の釜が開いたというところである。地獄は臭いも不快である。
「……俺も気が触れそうだ。なにせ君が佳い女に見えてくる」
疑われて尚、佳い女として振る舞う様こそ愛おしい。特に凛冽な表情や厭世的な佇まいを見せる女性が、時折に窺わせる健気こそ愛すべきものであると、トウカは信じて疑わない。エイゼンタールの皮肉が戦野での健気に見えるなら、トウカの感情も甚だ磨滅していると言えた。
二人は眉を跳ね上げて、互いに遺憾の意を表明する。つまるところ端から見れば大いに余裕を持っていた。
「圧力増大! 軍団規模の戦力が前進中!」
「両翼にも軍団規模の戦力が部隊を伸張させつつある!」
「対砲迫砲撃来ます! 障壁展開要請を承認!」
次々と生じる報告の群れに対して要塞司令部の面々が矢継ぎ早に対抗策を命令している。声高に命令する事もなく、あくまでも防衛計画に基づいた判断による 命令であり、その口調に澱みはない。元来、拠点防衛という軍事行動自体が酷く受動的なものであり、多くの命令や不測の事態というものが起き難いものであ
る。想定外が起きた場合、状況を覆す事が非常に困難であるのは、帝国軍による重戦略破城鎚の使用によって証明されていた。
トウカはエルメンライヒを見やるが、その表情に焦燥を気取る事はできない。胸中では、増援の装甲軍団が本当に定刻通りに展開するのかと、トウカの襟首を掴み上げて尋ねたいと考えているであろう事は間違いない。
トウカは幾つもの手札を伏せている。
毒瓦斯やⅤ四号飛行爆弾などもその一つであり、そうした兵器を配備して実働体制に置かれている部隊も少なくない。ノナカの〈第七二一戦術爆撃航空団 (TKG 721)〉や重雷装艦を主体とした水雷戦隊なども同様であった。トウカの命令に即応できる体制を維持している。内戦時から存在する部隊に関して は、終結後も戦時体制を維持し続けている事からも、トウカの介入主義姿勢は窺えた。
そして、今回の動員に皇国内の諸勢力は唐突感を感じたはずである。行動に移るまでの期間が異様に短く、諸勢力に目的が伝わる頃には、既に封緘された命令 書を開封して行動に移行していた。主要な部隊には幾つもの有事を想定し、無数の封緘された命令書が配布されており、命令一つでそれらを開封した指揮官の下 で各部隊が一斉に動き出す故である。
無論、これは珍しい事ではないが、トウカはこれらの点について徹底していた。
封緘された命令書の開封条件は命令によるものだけでなく、諸勢力との偶発的な戦闘に陥った場合や、政治情勢の変化、時間経過などと多種多様であり、師団 規模の部隊指揮官などは二〇を超える封緘された命令書を手渡されている。事細かに開封条件が設定された今回の命令書もまたその一つであった。
エルライン回廊付近に於ける遅滞防御戦全般について。
本来はエルライン要塞駐留軍を囮にした帝国軍に対する漸減作戦を意図したものであった。しかし、航空攻勢を控える事が陸海軍と七武五公、政府の間で合意 された事や、当初の予想以上にエルライン要塞の失陥が急速であった事も相まって、複数の変更点が加えられながらも実行に移された。
そして、変更の必要性が生じた事から、トウカ自らがこの場に赴く事となった。以前から七武五公や中央貴族がエルライン要塞への梃入れをトウカに望み続け ている事もあり、対外的な方便としては容易に捏ねる事ができるが、陸軍総司令部の命令なく現場で皇州同盟軍と協力する決断を下したエルメンライヒは気が気
ではないだろう。事と次第によっては、総司令部の指揮系統から逸脱し、他の命令系統に許可なく従属したと捉えられかねない。事実上の兵力の私的運用……叛 乱と捉えられる可能性もある。
トウカは、異様な兵力が迫りくる状況に溜息を一つ。
「受動的な戦闘は好ましくないな」
トウカならば、エルライン要塞など帝国軍の本土への浸透を阻止する以上の役目を与えない。押し込まれた際の予備的な要素としは必要かもしれないが、近代 的な航空戦力を周辺諸国が実用化し始めれば、要塞の価値は暴落するだろう。魔導障壁があるとはいえ、高空からの水平爆撃は現在の要塞攻略の最有力手段とさ
れている列車砲による砲撃よりも遙かに費用対効果の面で有利であり、運用も簡便であった。
エイゼンタールは、トウカの物言いに苦笑を零す。
「閣下は短気であらせられますから」
神速と称されるトウカの軍事行動は、諸々の準備と手続きを正規軍ではない故の特例と強権によってなされる独裁の結果に過ぎないが、それは当人が巧遅より も拙速を尊ぶことを重視しているからでもある。近代戦に於いては意思決定速度が重視され、それが遅れた為に換装作業中の航空母艦の飛行甲板に航空爆弾を叩
き付けられた先例もある。何より、マリアベルも拙速なる姿勢を以て経済成長と技術躍進を成し遂げた。現状の悪化を踏まえれば、一般的な高位種こそが巧遅に 過ぎると言える。
短気である事を胸中で自己弁護しているトウカに、エルナが敬礼を以て近づく。
「閣下」
その一言にトウカは立ち上がる。十分である。
「来たか。彼らは来た、だな」
無論、《独逸第三帝国》はノルマンディーに上陸した連合国軍を、紆余曲折を経て三カ月に渡る攻防の末に大西洋に叩き落としたので、この場で使う表現として”彼らは来た“という言葉は相応しくない。
エルナに顎で報告を促すトウカ。
「〈第一装甲軍団(Ⅰ. Schutz Wehr -Panzerkorps)〉、現刻より作戦行動に移るとの事です」
鋼鉄の野獣達が到着したとの報告を受け、トウカは軍帽を被る。気が付けば、要塞司令部の面々が一様にトウカへと視線を向けていた。トウカは両手を胸板の前で力強く叩き合わせる。
「宜しい! 大いに宜しい! では、こちらも行動に移るとしよう! 要塞司令官殿!」
エルメンライヒも事ここに及んでは止む無しと腹を括ったのか、裂帛の意思を瞳に宿して椅子を蹴って立ち上がる。あまりの威勢に軍帽が落ち、佩用した軍刀が無遠慮な金属音を奏でた。
「良かろう! 者共、敵の鼻っ面を殴り付けた上で帰還するぞ!」
半ば自棄に見えなくもないのは、陸軍総司令部からの現状報告を煙に巻いているからだろう。無論、報告は要塞司令部に咎が及ばない様に、トウカが行っている。
貴族階級に搾取されている帝国の労働者への援助の為、洋餅を 投下した、などという妄言に激怒され、挙句の果てには通信に直接、ファーレンハイが現れた段階でトウカは現状と見通しを正直に語った。馬鹿な妄想を垂れ流
せば痺れを切らせて参謀本部の参謀長程度は姿を現すと見ていたが、陸軍府総司令官が直接現れたとなれば、どれ程に正規軍がエルライン回廊を巡る戦闘に神経 を尖らせているかが分かる。
――いや、神経を尖らせているのは俺の動きに対してか?
不安そうな顔をする要塞司令部の面々を一瞥し、トウカは銃後の懸念を胸中で嗤う。
彼らの奉ずる権威や権勢、正義や大義ではなく、純粋な軍事力こそが国家を救うのだ。本質は軍事力にこそあって、決してそれらの正当性を担保する要素ではない。要素はあくまでも付随する一部でしかなく、本質がなければ機能を満たさず、国防は叶わないのだ。
さぁ、戦争の時間だ。
「諸兄! 俺は死して護国の鬼など祖国は望んでいない!」
熟練の将兵に一時の浪漫主義に酔われて損なう事など国家の損失でしかない。戦争は何十年と続くのだ。
「七たび生き延びて、逆賊を滅ぼし、祖国に報いよ!」
即ち、七生報国。七回死線を潜り抜け、祖国の為に戦うのだ。
「現在、要塞に攻め寄せている兵力は八万前後。既存の要塞防御には捕らわれるな。短期間で一人でも多くの帝国主義者を殺害する事を重視せよ!」
エルメンライヒが咆える様に叫ぶ。その威容も相まって、彼が鬼神の如く思えたトウカは、祖父を目にしているかの様な錯覚を受け、軍帽の鍔で目元を隠す。
「現刻より積極的防衛を開始するッ!」
後の世に言われるエルライン回廊撤退戦の始まりであった。
軍団幕僚に気取られぬよう、敬遠なる天霊神殿の信徒の如く祈りを捧げる体を装いながらも、己が身に起きた不幸を北鼬族の壮年男性は胸中で嘆く。
ラムケにエップ、フルンツベルクにディスターベルク、アルバーエル、シュタイエルハウゼンなどの内乱に於いて一躍国内外で脚光を浴びた将星達ではなく、騎兵聯隊を統率していた自身が副軍団長に任命された理由を知るのはトウカだけなのだ。
政戦両略の軍神の一存で決定した人事に己が関わるという不幸。
あの政敵に諜報戦を仕掛け、経済に軍事力で指向性を持たせるという、恐らくは国内で誰よりも強権を行使することを躊躇わない人物を上官に仰がねばならな い。その上、自身より遙かに年少でいて、出自が不明確と来ている。軍務以外の会話ですら気を付けねば不興を買う恐れがある。
門外漢のシュタイエルハウゼン提督は兎も角、エップ中将やディスターベルク中将を臨時で副軍団長に据えるという人事もあったはずである。装甲兵器に詳しい皇州同盟軍総司令部装甲兵参謀であるハウサー大佐なども装甲兵器を扱う上で優れた人材であった。
鼬種は小柄な体格ながら、非常に勇猛な事でも知られており、彼もまたその例に漏れないが、敵対者に対しては粛清も辞さない構えを見せる独裁者が相手では臆するものがある。
緊張の面持ちでトウカが姿を現す瞬間を待ち望んでいる軍団幕僚の中で、唯一緊張を見せない大男が一歩進み出て、何が誇らしいのか胸を張り、その肺活量にものを言わせた大音声を披露する。
「どうしましたかな? ダルヴェラ中将! 神々は死者の魂を導く事に忙しくありましょう! 超過勤務の神々に祈るのは不信心であるかとぅ!」
訳の分からぬ講釈を至極真面目に垂れる不良神父に、北鼬族の壮年男性……タルヴェラは空虚な祈りを止める。
神々が超過勤務などという資本主義の悲劇に捕らわれているとは考え難いが、彼ら彼女らにも労働に見合う対価が齎される事を祈るばかりである。
「寧ろ、サクラギ上級大将閣下に願うべきでありまぁしょぉ! 閣下ならば、汚らわしき帝国主義者などぉ、鎧袖一触! 活殺自在! 国士無双!」拳を握り絶叫する不良神父。
信仰する対象を違えている気がしてならないが、戦争屋の言葉など滅多と聞き入れてはくれない神々に縋るよりか確率論的に有効であるのもまた事実。暴虐なる軍神殿に祈るしかないのだろう。
〈第一装甲軍団(Ⅰ. Schutz Wehr –Panzerkorps)〉の多連戦闘指揮車の与圧と常温が維持された空間は戦野とは思えぬ程に快適だが、先程からの熱意と狂気に些か息苦しい。
多連戦闘指揮車とは、通信設備と上級司令部幕僚の収容が可能な五連結された二階建ての指揮車輛である。先頭車輌が四〇mm機関砲二門を備えた砲塔を正面 に備えた装軌車輛で、後部に連結される四輌の車輌が装輪車輛という編制の多連戦闘指揮車は師団以上の移動式指揮所として皇州同盟軍と陸海軍で運用が始まっ ていた。
無論、当初予定していた陸上戦艦の費用対効果の悪さに財務と輜重を司る皇州同盟軍工兵司令部が悲鳴を上げた事が原因である。これを重く見た総司令部が皇州同盟軍工兵司令部に設計開発を依頼、既存の設備と車輛を利用する事で共通規格化と低費用対効果を実現した。
科学と魔導の両技術によって維持された空間も、狂気から人心を防護する機能は装備していない。
そこで、突然、軍団司令部の扉の方向から声が響く。
大人に成り切れない男性の声音。酷く落ち着いたものでありながら、身体の未熟を窺わせる声音という相反する要素を兼ね備えたそれに、タルヴェラは慌てて立ち上がると教本通りの敬礼を行う。一歩遅れた軍団幕僚達も後に続いた。
「困るな、国士無双は些か自信がない。だが、活殺自在に関しては常日頃からそう在りたいと願ってはいる。無論、戦乙女の超過勤務に関しては彼女らの労務環境が不明ゆえに言及しかねるが」
答礼を行いながらも、卑しく歪んだ口元と言葉は、心底、他者の生命に対して干渉を求める事を渇望している様にも思える。
総司令部前には仕切られた室内とは言え、幾人かの鋭兵科出身の衛兵が詰めているが、誰何も到着の伝達もなかった。遮音防壁の展開された室内の音声を盗み聞きする事は難しく、恐らくは元より室内にいたのだろうと見当を付けたタルヴェラは、諧謔味を帯びた表情を造る。
「戦乙女は知りませぬが、閣下が斯く在られるのであれば、我らも戦野で定時上がりが叶うかと。喜ばしい事です」
神々が超過勤務で、戦争屋が定時上がりでは、神々の加護は益々と友軍の手元を離れる事は間違いない。軍神の暴虐は果たして帝国主義者に手痛い一撃を加え、見事、神々の加護の代替品となり得るのか。
タルヴェラは、本日付で開封を命令された封緘書類の内容を思い出し、胸中で一世一代の大博打だと喚く。
「斯く在りたいものだ。では、皆で大いに楽しく戦争をしようか」
満更でもない表情と言うには些か凶相が色濃いが、タルヴェラは年長者の面々にも臆した気配のないトウカに、将官としての資質は最低限備えていると判断した。
「しかし、連携も定かではない装甲部隊主体の戦力での機甲突破に半包囲。確かに不確定要素は多い」
軍用長外套の雪を払い落しながらも最奥の席へと歩を進めつつ、トウカが端的に状況を吐露して見せる。
軍団幕僚は一様に顔を見合わせているが、タルヴェラは盟友たるアルバーエルの印象通りの人物であると納得していた。内戦時、前線視察中に捕まえて部隊の指揮権を一時的に押し付けた事を根に持っているのかも知れないと考えていたが、中々どうして良くできた戦争屋である。
「だが、その点は問題ない。我らの役目は単純だ。馬鹿な羊を追い立てる役目に過ぎん」端的にして明快な表現である。
タルヴェラは鷹揚に頷く。
〈第一装甲軍団(Ⅰ. Schutz Wehr‐Panzerkorps)〉は、一つの軍団としては急造編制も甚だしいものがある。内戦末期に各領軍の各聯隊や旅団を統合した師団戦力を主力単
位としていた北部統合軍から改編された戦力は一つの軍団として有機的な機動が練度と連携の面から難しい。ましてや装甲部隊はヴェルテンベルク領軍の〈装甲教導師団〉以外の戦力は基本的に大隊規模の装甲戦力として編制されていた。防勢主体となるが故に各師団が求める戦場の火消としての役割ゆえである。
だからこそ装甲大隊以上の装甲戦力を運用した指揮官や幕僚も少なく、各装甲大隊も装甲部隊同士の連携に対する知識に乏しい。
結論からすると、複雑な機動と作戦目標を理解した上で適度な独断を必要とする機動防御は難しい。後衛戦闘時の機動防御は困難である。
各師団や大隊に独自の後退戦を命令するという提案も軍団幕僚からは上がっていたが、大戦力を相手に多数の部隊が独自行動を行えば、後退の遅れた部隊が敵中で孤立しかねない為、タルヴェラは退けている。無論、一部の狙撃兵を投入する事に関しては賛成であったが。
トウカは〈第一装甲軍団(Ⅰ. Schutz Wehr-Panzerkorps)〉の欠点を理解している。
最奥の軍団司令官席に座したトウカ。
気が付けは、燃える様な赤髪を持つ傷顔の女性佐官と、中性的に過ぎて性別を悩む可憐な尉官がトウカの席の両隣を固めている。少佐と中尉の階級章を付けてはいるが、兵科章もなく、軍装の手首付近に袖章も見られない。非公式な運用が成されている部隊の士官であろう事は容易に想像が付いた。
着席を促したトウカ。
問題はもう一つある。
畏れ多い事ですが、と前置きを付け加え、タルヴェラは軍団幕僚全てが抱いているであろう疑問を訊ねる。
「帝国軍の要塞攻略の基本を逆手に取る点は承知しました。しかし、我が軍団と要塞駐留軍の戦力では、帝国軍に迫撃を躊躇わせる程の被害を与える衝撃力とは成り得ませぬ」
そう、トウカは決戦戦力に纏わる部分を封緘された命令書にも記してはいなかった。
トウカがタルヴェラを一瞥する。威圧的なものではない。寧ろ、よくぞ聞いてくれたと無邪気にも見える喜色に彩られた表情は年相応のものがある。
「不可視の死神に衝撃力などない。在るのはただ絶望だけだ」
その一言に、一拍の間を置いた軍団幕僚がざわめく。
不可視の死神。
その意味するところを察したが故である。
本来であれば、限定空間であり魔導戦力に乏しい一帝国軍ですら魔導戦力を集中し易いエルライン回廊。そこに於ける毒瓦斯の運用は極めて効果が薄い。上空へと吹き散らされ、山風に運ばれてしまう為である。密集した軍隊を相手に毒瓦斯が有効であれば、近代軍はその須らくがトウカの到来以前に散兵戦術を主眼に置いた戦闘教義を採用していただろう。過去の失敗を学んでいるタルヴェラや軍団幕僚は毒瓦斯という兵器に対して不信感を抱いていた。忌避感や嫌悪でもなく、純粋に効果が限定的となるが故に重要視されないという喜劇。
トウカも、それは理解しているはずである。例え、魔導技術に依らない技術大系の発展を重視しているとはいえ、彼は酷く現実主義者なのだから。
「視界に捉える事の叶わない死を振り撒こう。楽しいぞ。帝国主義者の絶望こそが祖国を救うのだ。これ程に望ましい戦争はない」
無邪気な喜色は斯くも容易く、そして何よりも自然に凶相へと変質する。何時の間にかの変化は、彼にとって両者は本質的に同様であるが故かも知れない。
或いは無邪気な狂相か。
戦争とは死と破壊と絶望を振り撒くものである。より相手にそれらを振り撒いてこそ勝利を得られる。綺麗事や胡散臭い軍記物の様な互いの有能を前提とした停戦など現実ではそうはない。経済の停滞や思想で衝突した国家が一方の破断なく手を携える事など滅多とないのだ。
彼は戦争の為に訪れた。誰よりも効率的に死と破壊と絶望を振り撒く為。この一戦は悲惨にして陰惨な事になる。その点はタルヴェラにも保証できた。
タルヴェラは首元を真綿で締め上げられるような圧迫感を感じる。不可視の死神はトウカの立ち振る舞いこそではないのかとすら思える程の圧力。軍団幕僚も沈黙を余儀なくされている。
「さ、諸君。戦争だ。疾く実行したまえ」
「進め進め、無敵の皇軍装甲師団よ! 帝国主義者の尻を蹴り上げて見せろ!」
車長用司令塔から上半身を乗り出して叫ぶ。
〈第一装甲軍団(Ⅰ. Schutz Wehr-Panzerkorps)〉、〈第一武装親衛軍装甲師団『親衛部隊サクラギ・トウカ』(SW-Panzer-Division Leibstandarte SW Toka Sakuragi)〉、〈第五一九重戦車猟兵大隊〉大隊長のアルベルト・エルンスト大尉は、ザムエルの部下であっただけあり、その薫陶は幾軍将校が眉を顰
める程に行き届いていた。
〈装甲教導師団〉出身の将校の特徴は口汚く敵を罵り、下品な言動を垂れ流すこと甚だしい。そう指導を受けた陸軍装甲部隊が議事録や指導書の端々に困惑を滲ませた事からも口先の悪さは窺えるというもの。優秀者意識を醸成して適度な組織内競争を実現し、実力集団として育成したい陸軍の思惑を背骨から圧し折るザムエルの行いは無意識のものである。後の世に、荒くれ者の装甲集団の異名を冠される事になる皇軍装甲部隊の萌芽は、この時既に姿を現しつつあったと言えた。
「準備砲撃は結構だが、こうも地面が荒れてちゃ叶わんぞ!」
敵軍に対する突進の前段階では、準備砲撃によって敵戦力の漸減が行われるのは通例である。皇州同盟軍に関しては、ここに奇襲的な要素の強い航空攻撃が加 わるが、現在は航空攻撃を抑制する方向で作戦計画が策定されている為に砲兵隊による砲撃と魔導砲兵による砲撃型魔術に絞られている。
準備砲撃とは、野戦で突撃を行う前段階に、敵の塹壕や特火点などの陣地、地雷原や鉄条網などの障害物を破壊する為に行う砲撃である。戦域が固定される傾 向にある場合は熾烈なものとなる準備砲撃だが、要塞などの有力な防御施設の破壊に対し、費用対効果に釣り合う被害を与える事ができない。寧ろ、攻撃発起地 点が露呈するという攻勢側の攻撃地点の選択という優位を捨てる結果が生じた。
よって、現在では短時間で集中して行われるのが通例である。こうした戦訓だけでなく、皇国は野戦に於いて装虎兵や軍狼兵を主体とした運動戦を重視してい た為、短時間での集中した準備砲撃が特に進んでいた。皇国陸海軍が航空攻撃を重く見たのは、移動力と奇襲、極短時間での精密な投射量が砲兵の要素を補い得 ると判断したからでもある。
問題は、要塞という巨大な特火点と〈第一装甲軍団〉の有力な砲兵戦力が、限定空間であるエルライン回廊の中で目標地点を絞った砲撃を行う事で、突入地点の地形を著しく悪化させる点である。戦場が完全に固定されている為、砲撃の応酬が長期化していた点も大きい。
履帯を備えた車輛とは言え、不整地での機動には相応の危険が伴う。履帯の切断や脱落は勿論、乗員の負担が増える事で継戦時間が減少する。皇国装甲部隊独自の耳長族の砲手による行進間射撃も困難となる。
だが、足を止める訳にはいかない。
旧態依然とした帝国陸軍の師団編制は一万五千名~二万名程度の数を擁しており、兵力に於いては皇国陸軍の師団編制の二倍近くなる事も少なくない。対する装虎兵や軍狼兵によって機動力向上が著しい皇国陸軍は、機動力に於いての優越と師団数を揃える事を優先した。
皇州同盟軍もそうした姿勢を踏襲していると言っても過言ではない。寧ろ、装甲兵器の充実と自動車化の決定によって機動力と火力は更なる向上を実現しつつある。
エルンストは双眼鏡を手に地平線を見やる。雪原を染め上げる曙光は、両軍の威容をも露わとするが、今となっては全てが決したに等しい。
夜の帳に紛れた〈第一装甲軍団〉は、黎明の時を待って突進を開始した。圧倒的な機動力を背景に、エルライン回廊へ忽ちの内に侵入。マリエンベルク城郭の影、皇国側に身を隠しながら進出、その長大な防護壁を東方から右回りに迂回しつつ、攻め寄せていた。
本来ならば帝国軍も襲撃に備えて然るべきであったが、増援が五個軽師団であると判断していた点と、長距離偵察行動に出た偵察騎や騎兵、軍狼兵が次々とエ ルライン要塞駐留軍所属の遊撃戦力に打ち減らされた事もあって〈第一装甲軍団〉の存在を認識する時期を逸した。元来、エルライン要塞駐留軍の任務が、帝国
勢力の内地への浸透阻止にある為、浸透を意図した長距離偵察への対応は手慣れたものがある。トウカが厳格な浸透阻止を求め、エルメンライヒが応じたという 経緯もあるが、最大の理由は両軍の熾烈な火力戦と要塞防御の為、魔導通信の阻害や意識が誘引されたという理由も大きい。
帝国軍は要塞に対する夜襲を奨励している。
砲撃目標が不明瞭な夜間の弾薬消費は著しく増大する。移動しない要塞が相手であれば重要視されないが、通常の部隊が相手であれば話は変わる。照準が困難 になる事に加え、戦果確認などでも誤報が相次ぐ。要塞戦での夜間砲撃に於ける優位は帝国にこそあった。帝国が夜襲を行うという過去の戦訓を鑑みた作戦とし ては、順当なものである。
帝国軍主力から分離した増援部隊は既に進出を始めている。
だが、マリエンベルク城郭の影から突然に進出し始めた〈第一装甲軍団〉主力の発見が遅れていた事もあって動きは鈍い。即応できたとしても装甲部隊の機動力には叶わない。その証拠に〈第一装甲軍団〉主力は、マリエンベルク城郭の影から既に抜けている。
要塞に攻め寄せていた帝国軍から野砲と魔導砲撃が〈第一装甲軍団〉主力に対して放たれる。轟く砲声に、魔導の煌めき。
「応射! 撃ち返せ!」
エルンストは遮光眼鏡越しに、敵の発砲炎を見据える。
大部分が陣地転換容易な軽砲である。重砲は更に後方の陣地からの砲撃に徹しており、何より要塞駐留師団砲兵隊の曳火砲撃を受けて拘束されていた。両軍の砲声に頭上を飛び交う砲弾の風切り音、そして悪路を疾駆する装軌車輌特有の振動。
前進する前方の戦車大隊の砲煙が流れて、エルンストの鼻孔を刺激する。慌てて白の襟巻き(スカーフ)を口元に引き上げる。
雪原で装甲車輛から身を乗り出して指揮を執る装甲部隊の将兵にとって、襟巻き(スカーフ)は遮光眼鏡と並んで欠かす事のできない実用品である。無論、戦闘車輌の車長用司令塔には魔術的な防護が施されているが、這い寄る冷気や雪原を照り返す日光までをも遮断する訳ではない。戦闘車輌の司令塔車長用司令塔は、
稼働中は魔導障壁で全周防護が成されているが、簡略化と予算の問題から頭上においてはその限りではなかった。襟巻き(スカーフ)に関しては、ザムエルが内 戦中に航空攻撃中の戦闘爆撃騎の機関砲の薬莢が上着の中へと滑り込んだ為に火傷したという経緯もあって、自費で上質なものを用意している戦車兵も少なくな い。
次々と〈第一武装親衛軍装甲師団〉のⅥ号中戦車B型の長砲身四五口径八五㎜対空砲(85㎜ FlaK95)から撃ち出される高初速の徹甲弾が、戦車を含めた帝国軍の戦闘車輌を撃破していく。
不整地に過ぎる為に命中率は低く、装填速度も見るべくもない程に低下しているが、それでも尚、命中率は友軍側に圧倒的優位であった。人間種ばかりの帝国 軍装甲部隊や砲兵隊に対し、耳長族などの風を読む事に長けた種族で砲手を統一した皇州同盟軍装甲部隊の命中率は諸外国の基準からすると驚異的なものがあ る。
だが、エルンストからすると納得できるものではない。
「後背に回り込め! 一番槍の誉れは我が師団のものだ! 帝国主義者を轢き殺せ!」
エルンストをしても一瞬であったと思える程の機動は、帝国軍からすると悪夢に等しい。要塞に攻め寄せていた八万を超える戦力は忽ちに迂回され、その後背を突かれようとしている。
帝国軍の通信傍受や捕虜からの情報を要塞駐留軍から受け取った限りでは、敵は損耗した五個師団を再編制した戦力との事で、そこに複数の戦車大隊や砲兵大隊、工兵大隊などを増強した集成戦力であると見て取れる。
要塞駐留軍の戦力を消耗させる為の捨て駒である事は疑いないが 大兵力である事も事実。後背を取れば要塞と挟み撃ちにできるなどと考える程に、サクラギ上級大将が甘い男ではない事をエルンストは知っている。流石に皇国 軍編制に基づいて兵員を一万名前後としている皇州同盟軍装甲師団三個で八万名を超える帝国軍を短時間で撃破するのは難しく、現に後背へ展開されることを怖
れて幾つかの聯隊規模の歩兵を中心とした戦力が後衛戦闘に挑もうと陣地転換を開始している。
しかし、遅い。
常に敵が前方に展開している要塞攻略戦を戦い続けていた帝国軍からすると、エルライン回廊という限定空間で後衛という概念は限りなく磨滅していたに等しく、命令が遅れる事も致し方ない事であった。
無論、迂回を阻止する為に帝国軍主力に動きがみられる。
「大尉! あれを!」
「……重装魔導騎兵か! 我が隊はあれを阻止するぞ! 後続にも伝えろ!」
首元の喉頭音声変換器を押さえて叫ぶエルンストの命令に、〈第五一九重戦車猟兵大隊〉に所属する三個対戦車砲中隊、四二輌の対戦車自走砲が進撃路から外れる。
本来であれば後方の通信小隊から指揮を執るべきところであるが、瞬発的な状況の推移に対応するべく、多くの野戦指揮官が戦闘車輌や戦闘指揮車に同乗して 前線で指揮を執っていた。魔導通信の低い信頼性に、強力な通信設備を運用できない野戦指揮官達は、前線の車輌から指揮を執る事を余儀なくされているのだ。 トウカの求めた機動戦に指揮伝達の機構が追随できていなかった。
――この辺りも戦闘詳報に書かんとな。書類仕事は好かんが、こればかりは……
エルンストは急停車に備え、車長用司令塔の縁を目一杯に掴み、命令を続ける。
「一二時、聯隊規模の重装魔導騎兵に対する阻止行動! 周囲の着弾痕を利用して車体を遮蔽する! 弾種は徹甲榴弾! 三〇〇(3000m)でも貴様らなら討ち取れるはずだ!」
潤沢な予算からなる十分な訓練と、内戦という実戦を経て練達と称しても差し支えない練度を得た部下達に絶大な信用を寄せていた。
〈第五一九重戦車猟兵大隊〉に所属する三個対戦車砲中隊の全ての車輌が、Ⅳ号対戦車自走砲(Attentat)である点も大きい。Ⅵ号中戦車の車体に横 幅一杯に、そして砲塔を廃して搭載された固定式戦闘室は、車体前部から後端を一部突き出る程に大きなもので、皇国軍の装甲兵器とは一線を画す佇まいであ
る。二〇㎜厚の戦闘室は鋼板でしか構成されておらず、魔導障壁も貧弱なものであり、ヘルミーネを始めとした技術者はその有用性を疑問視していた。後部に乗 降用の扉を備えている事は、その貧弱な防御力によって乗員が戦死する可能性を低減させようという意識の表れでもある。
だが、それらの欠点を補って余りある火力がある。
車体前部を飛び出す程に長い七五口径八五㎜対空砲(85㎜ Pak94)を改修した七五口径八五㎜対戦車砲(85㎜ Pak99)は、既存の戦闘車輌の全てを決戦距離で貫徹する性能を有していた。魔導障壁があるとは言え、それは圧倒的な防御を保証するものではない。高初 速と大威力の火砲には、諸共に貫徹される事を避けられなかった。
既に友軍装甲部隊は、マリエンベルク回廊に張り付いた五個歩兵師団を主体とした帝国軍へと襲い掛かっている。
マリエンベルク回廊からの火砲を主眼に据えた塹壕陣地は血涙と狂気を以て構築したのか、一週間足らずとは思えない程の規模を誇っている。塹壕前に友軍兵士の遺体を積み上げてまで遮蔽面積を捻出している様は、帝国主義者の狂気を何よりも表していた。
無論、対戦車壕はない。短時間で出来るものではない。
皇州同盟軍工兵大隊の様に大型重機を幾つも揃えているならば兎も角、彼らの塹壕構築手段は円匙主体である以上、当然の帰結であった。優先されるのは、火砲を防護する為の特火点としての塹壕である。
当然、帝国軍も両翼に対する防護が皆無ではなく、装虎兵や軍狼兵の浸透を阻止する為に塹壕線を構築していたが、その規模は小さい。既に幾多の履帯が踏み潰している。
その状況をマリエンベルク城郭の要塞駐留軍砲兵隊が座視するはずもない。
折り重なる様に斃れた兵士と流れ出た血涙で作られた血河。死臭はない。冬季であるがゆえだが、春が訪れて雪解けとなれば、彼らの亡骸は水分を含んで醜く爛れ、腫れあがって近寄り難い腐敗臭を放ち始めるだろう。
敵軍ながら正視し難いものがあるが、それでも尚、エルンストは嗤う。己の指揮に従う健気な部下にとっての理想の指揮官であり続ける為に。
着弾痕に入る振動に耐えつつも、前方を見据えれば聯隊規模の重装魔導騎兵が、重騎兵に遙かに勝る優速を持って突撃を敢行する構えを見せている。
本来であれば騎馬も、その装甲の重量で疲弊するはずであるが、風魔術を中心とした術式による補助などで長躯進撃を可能としていた。何より、帝国陸軍に とって重装魔導騎兵は花形兵科であり、機動戦の主兵力である。魔導資質に優れた者を集中的に育成し、騎馬自体も魔獣と交配させた種という概要は巷にも聞こ えていた。
大口径機関砲……三〇㎜対空機関砲を主砲位置に二段二列の四門、集束配置したⅣ号対空戦車(blasen)による断続的な重低音の射撃音を耳に、エルンストは〈第一武装親衛軍装甲師団〉が極めて優勢であると確信する。
対空戦車の大口径機関砲による対地掃射は、歩兵からすると悪夢である。内戦では歩兵の戦列を各地の戦野で血煙とした重低音による速射性の砲声は、火力戦による砲兵隊の砲声と同様に戦争神経症の兵士を量産した。
帝国軍は、その恐ろしさを理解していなかった。鎧袖一触である。
Ⅵ号対空戦車とⅥ号中戦車B型……鋼鉄の野獣達の支援を受け、装甲兵員輸送車から降車した重装備の歩兵部隊が次々と防衛戦としての役目を失った塹壕に手榴弾を投げ込み、爆発後に飛び込んで熾烈な白兵戦を展開していく。一部の部隊は塹壕を踏み越え、次の塹壕を目指す。
抵抗は皆無に等しい。迂回して後背を突いた鋼鉄の野獣の突撃に帝国軍五個歩兵師団の後衛は壊乱状態にあった。後方の重砲はマリエンベルク城郭内の要塞駐留軍砲兵隊の火力に拘束され続けており、〈第一装甲軍団〉の側面攻撃に対応できないでいた。
双眼鏡を手に見てみれば、何処かの装甲大隊が後続を無視して随伴の歩兵もなく突出している。混乱の原因はそこにあった。対戦車兵器がなく、対戦車戦闘に も疎い帝国軍部隊は有効な対応ができない。その状況下で、幾つかの督戦隊と下級司令部が攻撃を受けて指揮統制を失ったのだ。
結果は五個歩兵師団の壊乱。それは部隊全体の擾乱に繋がるだろう。
『大隊長! 重装魔導騎兵先鋒、射程に入ります!』
隷下の中でも特段と気質的に攻撃を好む第二中隊長からの催促が、喉頭音声変換器越しに聞こえ、エルンストは口角を釣り上げる。
敵に塹壕芸術に勤しむ暇を与えてはならない。トウカの訓示の一節をエルンストは思い起こす。
塹壕芸術とは、銃弾や榴弾の破片などの残骸を用いて塹壕生活時の兵士達が削り出す工作物の俗称である。場合によっては長期化する塹壕戦で、暇を持て余した兵士が作るそれらは、時と場合によっては兵士同士の交換や表現にも使われた。認識票や生活用品に娯楽品、彫刻を生み出し、機関銃弾が万年筆となり、不発弾が象意の凝らされた灰皿となる。
どの道、限定空間での熾烈な火力戦となれば、昼夜を問わずの砲声に悩まされて安眠すら叶わない。塹壕芸術に勤しむ暇など元よりないが、それでも尚その言葉を口にする以上、厳烈な攻撃であって然るべきであった。
「かなり遠いが……佳かろう。各車、砲射開始!」
エルンストの号令。一拍の間を置いて、〈第五一九重戦車猟兵大隊〉所属のⅥ号対戦車自走砲が砲口に大輪の花を咲かせる。
車体前部を飛び出す程に長い七五口径八五㎜対戦車砲(85㎜
Pak99)が仰角を掛けて一斉に火を噴く様は壮観の一言に尽きる。熱風は魔導障壁で防護できるが、砲声は喉頭音声変換器によって、閃光は遮光眼鏡によって防がねばならず、一時的に視覚と聴覚が減衰する。
視覚と聴覚の回復を待たず、エルンストは叫ぶ。
「後続が攻撃体勢に移るまで、済まねぇがここを死守だ! 戦車猟兵の真価を世界に示せッ!」
この一戦での活躍次第で、戦車猟兵の未来が決まる。戦車と装甲輸送車主体の電撃戦という戦闘教義は、 現在のところ対戦車自走砲を必要としていない。他国を含む周辺勢力に有力な戦車が配備されていない以上、対戦車戦闘を専門とした車輛が運用されるはずもな
かった。もし、戦車が配備され始めたとしても牽引式対戦車砲や戦闘攻撃騎のみで対応可能と皇州同盟軍総司令部が判断する可能性とて有り得る。前線をその装 甲と速度で突破して歩兵の直協支援を行う事が戦車の主任務であるものの、皇州同盟軍の戦車は大多数が対戦車戦闘も前提としている事もあり、これ以上、対戦
車車輛に資源を割り振る判断を避ける可能性が高い。
この一戦奈何では、対戦車自走砲部隊の拡充は見送られるかも知れない。トウカが立案した兵器であるが、費用対効果で割に合わぬと判断されれば、縮小や解体とて有り得る。
「俺らこそが鋼鉄の暗殺者(Attentat)だ!」エルンストが咆える。
応じるかのように、Ⅳ号対戦車自走砲(Attentat)達が砲声を轟かせた。
暗殺者(Attentat)
貴族階級に搾取されている《スヴァルーシ統一帝国》労働者への援助の為、洋餅を投下した……冬戦争での芬蘭に対する空爆に関し、「資本家階級に搾取されている芬蘭の労働者への援助のため、洋餅を投下した」と発言したソ連のモロトフ外相の一言からである。これを素面で言えるから共産主義者は戦争に強いのだ。ちょび髭伍長も真っ青である。