第一八八話 確定した未来
「弾火薬の消耗を気にする必要はない。射耗し尽くしても構わない」
トウカは尚も弾火薬を渋る姿勢を見せた要塞駐留軍砲兵参謀へ、弾火薬の使用制限緩和を求めた。要塞駐留軍砲兵参謀は、エルメンライヒに視線を投げ掛けた上で、その命令に応ずる。
戦野は熾烈を極めていた。
限定空間である回廊の大地は、既に度重なる曳火砲撃の応酬に雪化粧を剥ぎ取られ、大きく耕されている。報告では余りにも起伏が激しくなった大地には大穴 が空き、両軍の兵士に転落死が発生しているという報告まである。そうした報告を中心とした数々の熾烈さを物語る現状に口を噤む者は多いが、トウカは至って
平然としていた。砲撃による大穴に雨水が溜まり、そこに転落した兵士が溺死するという悲劇は、第一次世界大戦中の塹壕戦では頻繁に起きている。然して驚く 程の事ではなかった。
北部内戦を経て、歴史の表舞台に姿を現した火力戦は正式に世界史に名を刻むだろう。
だが、トウカは世界が火力戦を尚も軽視すると踏んでいた。そう、日露戦争に於ける塹壕陣地と機関銃の効果的運用を局地戦に於ける一例として軽視した様に。
自国が兵士の屍を積み上げねば気付く事も対応する事もできないのだ。
軍隊は、その機構に確変を加えようとする傾向を持つものに対して、本能的に怖れを抱くものである。
無論、国家も例外ではなく、何かしらの損失と不利益を以てして思い知ること幾多に上る。組織とは大規模となればなる程に、方針の転換と再編制が困難であ り、専制君主制の様に主権者が唯一であったとしても例外はない。派閥争いに権力闘争、自陣営内に内包するあらゆる集団の調整を図らねば不和と猜疑を広げる 結果となりかねない。状況次第では陣営の空中分解も有り得るだろう。
エルライン回廊に於ける火力戦は、今暫くの間は諸外国に偶然の局地的な惨劇と考えて貰わねばならない。皇国側は安全が保障できないと観戦武官を後送して いるが、帝国側は武威を示す好機とばかりに多数の観戦武官を引き連れているのは疑いなかった。大陸最大規模とも言われる純粋な軍事要塞の陥落は格好の宣伝 材料となり得る。
――纏めて毒瓦斯で神々とやらの下へ転属して貰いたいが……難しいだろう。
総司令部に配置されている者もいれば、各師団の司令部に配置されている者も多いはずであった。分散している以上、全滅は難しく、同時に敵陣深くを精密攻撃できる兵器を《ヴァリスヘイム皇国》側は現時点では有してはいない。
既に、トウカが陣頭指揮を執り、三日目となる。
一度、帰還してエルメンライヒへの直訴へと訪れたのだ。
トウカは、要塞駐留軍司令部の面々を信頼してはいない。土壇場で臆病風に吹かれて要塞防御に固執すると睨み、念押しの為にエイゼンタールを伴って要塞駐留 軍司令部へと姿を見せたが、エルメンライヒはそれだけで総てを察しただろう。皮肉の一つでも零すかと思えば「無事だったか」と重々しく訊ねるだけであっ た。
トウカは再び城郭外に赴かねばならない。
〈第一装甲軍団(Ⅰ. Schutz Wehr -Panzerkorps)〉は今も戦い続けている。城郭外周に展開しての防衛線……ではなく、〈南部鎮定軍〉の形成した前線への一点突破である。
多連装噴進弾発射機と重榴弾砲による煙幕の展張を、前線の目先に有らん限りに叩き付けての突撃は想定よりも遙かに少ない被害を以て成功裏に終わった。成功は要塞砲兵による曳火砲撃による敵の意識と魔導障壁の誘引による効果の結果でもある。
帝国軍は、兵力に劣る皇国軍が反攻戦に転ずるとは想定していなかった。否、一部の戦力が前線突破後に第三親衛軍隷下の重装魔導騎兵聯隊が即応して見せたことから、リディアか、或いは総司令部の一部は想定していた。隷下の上級部隊指揮官は軽視していた様であるが。
「上級大将閣下、質問を宜しいでしょうか?」
「……構わん。言ってみろ」
定刻までには時間がある、とトウカはエルナの質問を許す。
エルナの表情はあまりにも不安定であり、それ故に思惑を推し量るは難い。
「閣下は、十年後の皇国を予想できますでしょうか?」
面白い。無任所の中尉如きが、斯様な視点で祖国を見るか、とトウカは座席で己の身体を一層と傾ぐ。
「十年後か、近いな。だが、妥当なところだ」
戦略兵器を多数配備した世界最強の戦闘国家。或いは周辺諸国の草刈り場となった亡国か。それ以外の選択肢はない。周辺諸国の総てが国難に対抗する為に力を得ようと隣国の国力を削ぎ、権益を奪おうと蠢動する今この時代。現状維持は叶わない。
トウカは、諌めようと口を開こうとしたエイゼンタールを片手で制する。
「天帝陛下に限らず、然るべき者に権力が集中するならばこの国は助かるだろう。帝国は周辺諸国による草刈り場となり、皇国は大陸一の経済大国となる」
そう考えている者は少ない。幾多の叛乱を容易に鎮圧し続ける帝国の崩壊を予期する者は少なく、現状の皇国経済の停滞から発展を見いだす者も少ない。多種 族国家に於ける潜在的要素は彼らにとって当然の如く存在するものであり、軍事分野以外で生かそうと考える概念に薄いのだろう。
「亡国となった場合は、国土の大半は帝国のものとなり、壮絶な絶滅政策が実施されるだろうな。見てくれが人間種と離れた種族は根絶やしにされるだろう。……それは一方的なものにはならないだろうが」
高位種や中位種の死に物狂いの反発を帝国軍を軽視しているだろう。無論、天狐族の隠れ里を襲撃した事から高位種などの単体での戦闘能力を重く見ている事は窺えるが、トウカはそれでも詰めが甘いと見ていた。
七武五公を向こうに回して一軍を統率したトウカだからこそ分かる。
本来であれば“分断して統治せよ”を実施するべきであるが、帝国の国是は人間種以外の種族の人権を認めていない。低位種の獣系などへの対応は比較的柔軟なものがあるが、戦術兵器に等しい中位種や高位種への対応は熾烈を極める。
無論、人間種主体の周辺諸国を併合して強大化した帝国による統治政策を、トウカは高く評価していた。膨大な人口を何百年も統治し続ける点だけを踏まえれば、《大英帝国》にも勝る手腕と言える。その地政学的要素は《露西亜帝国》に近いものがあり、海上権力ではなく、陸上権力による影響力拡大を方針としてきた。神州国が絶大な海上権力を有しながらも、《大英帝国》とは違い植民地政策を推し進めなかった点や、《露西亜帝国》の隆盛を妨げた要因となったモンゴル=タタールの軛の様な他民族による支配が起きなかったにも関わらず、帝国が大陸の過半を支配する事に失敗している点には理由があった。
それら総ての原因は歴代の七武五公にある。
《ヴァリスヘイム皇国》は建国戦争以来、侵略をしていない事を積極的に内外へと宣伝している。
だが、実情は違う。
軍の近代化以前の時代、帝国の伸張に対して七武五公などは多種族の保護を名目に政府の統制を受けない領邦軍の投入によって“現地民の保護”と“政治的亡命の支援”を行っていた。
それは、建国時の理念が発露したという建前が理由ではなく、当時の高位種や中位種の人口的不利を解消する為の施策であった。無論、帝国が現在、領有している地域にも積極的に”進出“し、各地で諸国の軍隊と衝突した。
帝国が異様な程に高位種や中位種を危険視するのは、その際に於ける夥しいまでの被害ゆえである。巨大な体躯を以て都市を蹂躙する高位種の姿に、本能的な畏怖と伝承となる程の衝撃を遺伝子規模で刻み込まれたのだ。そして、神州国が積極的な植民地政策を打ち出さなかったのは、大陸進出を意図した陸上戦力を皇国が残酷なまでに阻止した反動に過ぎない。悲劇的なまでの敗北は彼らの対外政策を内向きにさせ、“栄光ある孤立”を選択させた。
総ての原因は、圧倒的戦力で他国を睥睨しながらも、人間種を主体とする国家の恐怖心を一代限りのものであると軽視した皇国にこそある。
トウカは大和民族である。何処までも大和民族に銭を無心する半島の問題児を隣人としているのだ。隣人として付き合うには些か不快であるが、彼らはヒトという種の本質追及に於いては有用な一例と言える。
大国であった《大清国》には貢物をしつつも、その貢物の内容の質や量を誤魔化し、影では民族差別の理論を国内で声高に叫び、夷狄と侮蔑する姿勢を国内で示す。その上、浸透する文化を弾圧して国内統制を強めた。
トウカはそれらの点を批判する心算はない。寧ろ、ヒトという生物の弱さや卑劣さの実体として検証するに値するとすら考えていた。性悪説という思想を、実体験を伴う要素として補強する存在は貴重と言える。
性悪説とは、大陸の思想家である荀子が、孟子の性善説に疑問を抱いて提唱した人間の本性や本質を追求した思想である。
人の性は悪なり、その善なるものは偽なり。
そうした発想を骨子とした性悪説の悪とは、人間があらゆる意味で脆弱な存在という意味である。その弱さ故に悪事や犯罪に関わらずに生を全うするという場 合もあるとも論じていた。些か悲観的な思想だが、トウカは政戦に於ける心理戦では性悪説こそが根幹を成すと考えている。検討考察の対象として極端な民族と
いうのは非常に有益であった。無論、遠方の国家として存在してくれるのであれば尚のこと好ましいのだが。
ヒトも有り方次第では一〇〇〇年先でも過去を引き摺り続けるのだ。脆弱であるが故に。
「国運を賭けた戦争に負けたとしても、帝国が相手の敗北となると、その時点から生存を掛けた果てのない消耗戦……いや、御託を口遊む前に生存競争だ」
敗戦を迎えても尚、種の存亡を賭けて戦い続けねばならないのだ。
強大な軍事力と、近年は常に敵国の侵攻軍を完全に阻止していた事から臣民の大多数はその点を忘却の彼方に追い遣っている様子であるが、生存競争は在り得 る未来の一つであり続けている。トウカがアーダルベルトに手傷を負わせても尚、七武五公という抑止力の存在感が損なわれていないという理由もあった。
「正直なところ、俺にはどちらがいいのかも分からん」
「後者は夥しい死者が出るはずです」
非難がましいエルナの視線に、トウカは苦笑する。
「現状で帝国軍の戦費はどれ程だろうな。そして飢饉が表面化しつつある。皇国という泥沼には嵌れば嵌る程に国力を消耗していくだろう……どちらにせよ、行き着く先は亡国だ」
単純に軍事力による侵攻を阻止するのではなく、北部という縦深に引き摺り込んでの包囲殲滅戦をトウカが意図しているのは、その点を踏まえた上である。
《スヴァルーシ統一帝国》を消耗させるのだ。
戦費調達は帝国が辺境と呼ぶ、嘗て占領した地域からであろう。苛烈な植民地政策は悍ましい形での反発を呼ぶ。そこに共産主義者が背後からの一突きを加える。帝国の内憂は致命的なものとなるだろう。
民族的な分断と思想的な分断は別である。
未だこの世界は、思想的紐帯がどれ程に感染力が強く始末に負えないかを理解していない。民族的紐帯などよりも遙かに大規模で対象を選ばない感染力は、帝 国のあらゆる階級層を蚕食するだろう。夢も希望も見えない農奴階級、飢餓と経済難に喘ぐ民衆。そして、それらと祖国を憂うる知識人達は目新しい思想に嬉々 として手を差し伸べるはずであった。その副作用を知らずに。
共産主義は貧困層に根差す哲学であり、貧困層の行き場のない怒りが行き着く終着点である。そして、後がないと理解しているからこそ過激化し、収奪を躊躇 しない。小規模政党でありながらも大規模政党を押さえ付け、政治的主導権を掴んだ実績が共産主義にはある。怒れる政治の革を被った宗教である。経典は、貧 困層の憤怒と嫉妬、渇望。
つまり、主体性なき自身の欲望と感情で国政を論ずる連中が、どうしても他の主義や思想よりも幅を利かす余地が多分に生じる。
勢力拡大の機会が国家の斜陽深まる最中である以上、共産主義は他の主義よりも遙かに成立過程で狂騒を掻き立てる。しかし、国家社会主義をも上回る過激思 想が政権奪取を実現するには、そうした致命的な状況以外にない。トウカは、その点に付け入るのだ。ルーデンドルフの様に、共産主義者を軽く見る真似はしな い。
「どの道、帝国は滅亡する」
「……確信なされていると?」
トウカの断言に、エルナが怖れを滲ませた瞳と共に問う。
確信。愚かしいことである。トウカは、嘲笑を零す。
「有象無象の都合や意見は知らない。だが、俺がそう決めたのだ」
何時の間にか要塞駐留軍司令部の面々の視線がトウカへと集まっていた。その瞳に窺える感情には怯懦と恐怖の混合物が窺える。決定事項を口にするだけで周 囲が畏怖するというのであるならば、喜ばしいことであるとトウカは考えた。有象無象の畏怖は、独裁者としての印象を補強するこの上ない要素である。
「故に滅ぼす」
卑しく歪んだ口元に狂相を湛え、トウカは嗤う。
「滅ぼす、ですか?」
「ああ、俺がな」
尚も言い募るエルナに、トウカは言葉を返さない。
確実性の高い利益と対案を用意しない不満と不安など耳を傾けるに値せず、最早、トウカの意志は北部という地域の怨嗟の叫びに等しくあった。トウカは漠然とした殺意と敵意に指向性を与える先導者なのだ。
「そろそろだな……外周魔導障壁の解除用意! 手順は魔導参謀に一任!」
定刻であると確認した上の命令に、エルメンライヒが鷹揚に頷く。
作戦計画は既に伝達されている。
後は、時期次第である。
「さぁ、諸君! 帝国主義者を煙に巻くとしよう」
「総員、砲撃に備えよ! 魔導士は砲兵を護りなさい!」
エルナは叫びを上げながらも駆ける。
帝国軍砲兵隊による曳火砲撃の前に、エルライン要塞最後の防衛線であるマリエンベルク城郭は打ち砕かれつつあった。
魔導炉心より供給される高純度魔力による大規模魔術の結果こそが、要塞や城塞を庇護する重複合魔導障壁の正体である。それらは近代に於いて増大の一途を 辿る火力に対抗する形で発展し続けきた魔導技術の精華と言えた。特に皇国は魔導国家と称されるに恥じない発展を遂げており、他国の防御魔術全般に対して優 れた特徴を幾つも兼ね備えている。
その加護が喪われたのだ。
近代戦に対応すべく研鑽された技術を捨てて尚、城郭が無事である理由などない。
古めかしい尖塔を利用した観測所が心胆を寒からしめる程の轟音を立てて倒壊を始める。ゆっくりと、それでいて徐々に速度が加速して崩れ落ちる様に滲む涙を袖で拭う。
袖章が擦れた痛みを引き剥がし、エルナは走る。そして、盛んに応射を繰り返す砲兵陣地へと滑り込んだ。
土嚢を飛び越え、弾薬箱を蹴飛ばして降り立とうとしたエルナだが、打ち捨てられた軍缶を踏みつけて仰向けに倒れる。幸いなことに、頭部と背中を打ち付けた個所が土嚢であった為に悶絶するのは避け得たが、背中への強かな衝撃で逃げ散った空気を求めて肺が激しく動悸する。
のろのろと立ち上がったエルナの肩を掴み、近くの士官が立ち上がらせようとする。
「手を放してくださいッ!」
エルナは少尉の階級を付けた砲兵士官の手を払い除ける。
勘違いしては一大事だ。相手が。
美しい女性士官がうだつの上がらない万年下士官と結婚する例というのは意外と多い。戦野という極限状態に置かれた雄と雌は、時として道を誤るのものなの だ。分不相応な相手を唯一と錯覚する不幸とも思わない不幸を、エルナは幾度も目にしてきた。寧ろ、同期の披露宴の友人代表を務めてきたのだ。同期が身の丈 に合わない結婚生活を送ることも、次々と独身の同期が失われていく事も気に入らない。
弾着音と砲声で聞き取れないが、周囲の砲兵達は一様に諧謔に満ちた表情を隠さない。戦火の下では、上官を笑いものにする程度の娯楽は然して珍しくもなかった。無論、それを理解した上での言葉である。
「この砲兵陣地の指揮官は?」
「小官です、中尉殿。一体、何用でしょうか」
エルナが手を払い除けた砲兵少尉が敬礼を以て応じる。国防色の軍装は煤と黒煙に塗れ、その顔すらも浅黒く、不敵な笑みの零れる口元から覗く歯だけが妙な白さを主張していた。
「この区画の火砲が応戦を控えているのは何故ですか!?」
付近に着弾した砲弾に頭を抱えてしゃがみ込みながらも、エルナは問う。地面を掘り、尚且つ土嚢を積み上げて破片効果から逃れる工夫がされた砲兵陣地とは言え、直撃は勿論、至近弾でも貫徹する破片は存在する。
「弾火薬の欠乏です。こうも障壁なしで殴り合えば、地下連絡通路でも全滅を免れませんよ!」
マリエンベルク城郭北側に位置する砲兵陣地の一角での会話。それは、周辺の砲兵陣地でも盛んに行われているものであった。
本来であれば、弾火薬は城郭内地下深くに設置されている弾火薬庫から各所の弾火薬集積所に移送され、そして必要に応じて各砲兵陣地に輸送される手筈となっている。しかし、現状では北側は急速に砲兵戦力を喪いつつある。
無論、集中砲火を受けて喪失した火砲も少なくないが、それ以上の問題は地下連絡通路の遮断であった。無数に張り巡らされていても、圧倒的投射量の前には無意味。次々と地下連絡通路は砲撃に押し潰されていった。
「やはり砲撃で!?」
「はい、はい、中尉。火砲への直撃を免れても、周囲への着弾で崩壊した地下連絡通路は少なくありません!」
心胆寒からしめるという表現すら生温い腹の底を殴り付けられるような炸裂音の重奏の中での遣り取りは怒鳴り合うが如きものとなる。
無論、砲撃中断の理由はそれだけではなく、皇軍が有史以来、体験した事のない程の熾烈な火力戦に、弾火薬の砲兵陣地への輸送が元より追い付いていなかったことも大きい。
トウカ隷下の〈第一装甲軍団(Ⅰ.Schutz Wehr-Panzerkorps)〉では、敵砲兵戦力漸減を意図して機甲戦力による前線突破を図ったとの報告は受けたが、成果は一個砲兵聯隊と三個重迫撃砲大隊の壊乱に留まるとも耳にしていた。
トウカは優秀だった。否、狂気に彩られていた。
最初の煙幕展張による突撃は、マリエンベルク城郭付近で壊乱させた帝国軍五個師団と混戦を行いつつのものであり、帝国軍砲兵は要塞駐留軍砲兵の火力だけ ではなく、友軍を人質に取られるという形で封殺された。人命軽視も甚だしい帝国主義者であるからこそ、友軍に砲撃を加えては戦意を維持できない。状況次第 では致命的な壊乱となりかねないのだ。
接近しての乱戦は両軍にとって凄惨なものとなった。〈第一装甲軍団(Ⅰ. Schutz Wehr-Panzerkorps)〉の被害も決して小さくはないが、混乱と誤射、壊乱の頻発によって忽ちに統制を喪う何十万という軍勢。要塞駐留軍砲兵 の曳火砲撃に対抗すべく、密集して魔導障壁の面積を削減しようとした点も不利に働いた。
何より、何十万という帝国軍前線部隊……約二四個師団が攻撃発起地点として集結していた地点への突撃である。
大規模な壊乱を迎えた敵中で、装甲部隊は猛威を振るった。限定空間で撃てば当たるという状況、戦果拡大は容易であり、同士討ちで自滅する敵はあらゆる被害数を上回ったと見られている。
結局、前線に配置されていた帝国軍装甲部隊による友軍を轢殺しながらの機甲戦によって、それは抑えられた。
その数、推定二五〇〇輌。皇国陸軍に於ける戦車保有数を遙かに優越する数であった。
混乱のままに終わるのではなく、更なる混乱を承知の上で、帝国の総指揮官であるトラヴァルト元帥……リディアは阻止を決意したのだ。砲兵による露骨な友軍誤射ではなく、装甲部隊であれば壊乱状態下での悲劇に収まるという判断と推測された時、エルライン要塞駐留軍司令部は沈黙に包まれた事をエルナは覚えている。
即応して見せたことから、その判断が極短時間の内に行われたと理解したからだ。
トウカもリディアも地獄に薪を焼べるかの如く戦力を効率的に捨てながら戦いを今も続けている。
前線の様子を聞きたがる砲兵少尉に、適度な取捨選択を行いつつも、エルナは可能な限りの情報を伝える。弾火薬の不足で一時的に応射不能に追い込まれた砲 兵陣地。直撃すれば肉片すら残らない大口径砲弾による弾雨の下での会話は、エルナ自身の恐怖を紛らわせる上でも有効であった。
話を聞こうと砲兵陣地内の砲兵がぞろぞろと匍匐前進で近づいてくる様に、エルナは頬を引き攣らせる。持ち場の放棄を叱責するには、統制は既に致命的なまでに低下していた。彼らの士気を下げる真似はできない。寧ろ、トウカの“勇戦”を伝えることで持ち直す局面である。
だからこそ、エルナはこの場にいるのだ。定刻に合わせての撤退を指揮する為でもあるが。
司令部要員の一部が、要塞駐留軍内で撤退行動に遅滞が起きるであろう各砲兵部隊へと散っている。彼らに見捨てられたと思わせてはならない。辛く長い撤退戦では、兵力を喪う要員の大部分が敵軍の迫撃と落伍によるものである。
後衛戦闘は〈第一装甲軍団(Ⅰ.Schutz Wehr-Panzerkorps)〉によって行われるが、帝国軍の圧力を受け続けるには兵力が余りにも不足している。その上、連戦であるが故に弾火薬の損耗と疲労もあって然るべきだろう。
工兵隊によるマリエンベルク城郭南方への地雷敷設作業も行われており、大軍の通行は大きく妨げられるであろうが、退路確保の為の通路は残されている。一部の迫撃部隊による迫撃は有り得た。
トウカの“勇戦”に目を輝かせる砲兵達。
「そうなのですか。しかし、中尉殿も運がない! 下手をすれば逃げ切れずに帝国軍先鋒の蹂躙に巻き込まれますよ!」
「貴官らを見捨てないという司令部の決意の発露であると受け取って欲しい!」
最前線で遅滞防御を行うのは、トウカ隷下の〈第一装甲軍団(Ⅰ.Schutz
Wehr-Panzerkorps)〉であるが、陸軍内では皇州同盟軍に対して蟠りが存在するのもまた事実。総てを委ねる事に対する忌避感もあった。その辺りを踏まえて、司令部の要員を弾雨の下に配置して、士気の維持に努めている。
例え司令部から戦死者が出たとしても、司令部要員までもが戦死する激戦を兵と共に戦い抜いたという印象を内外に与えることができる。それは、要衝より敗走するエルライン要塞駐留軍に対する否定的な印象を幾許かは低減すると期待してことでもあった。
「あと少しで撤退時刻よ! 向かい風への移動だけど負傷者は纏めているわね!?」
「はい、抜かりなく!」
塹壕に土嚢を積み上げた砲兵陣地であるが、徐々に勢いを増しつつある寒風は隙間から陣地内へと流れ込みつつある。
風魔術。
難易度が低く、属性魔術よりも戦闘へ寄与しないという点や、鋼鉄製の兵器の台頭で敵への打撃に対する不足も顕著となった点もあって、近年では軽視される傾向にある属性魔術でもあった。
要塞全周を防護する複合魔導障壁の維持の為、軍用魔導炉心より莫大な魔力を供給しているが、それの大部分を投じてまでの大規模魔術の行使に、魔導士達は 掛かりきりである。中にはこの三日間の想像を絶する超過勤務に晒され続け、一部には過労で倒れた者も出た。難易度の低い風魔術とは言え、大規模化によって
その過程は複雑化する。術式刻印や供給回路構築などの作業は工兵聯隊も協力する事で間に合った。
要塞内の間諜を気にして長期間の準備を忌避したトウカの意向で作戦計画が直前まで伝えられなかった要塞司令部は熾烈を極めていた。彼は軍内や国内に敵国の間諜が数多く存在することを前提にしており、ある程度の情報漏洩を前提としている。
皇国史上最も大規模となるであろう風魔術はこうして発動した。
皇国側のエルライン回廊終端である南方から、マリエンベルク城郭の方角である北方へと指向性を伴った突風が吹き荒び続けている。地上付近では肌寒さが増した程度だが、上空では航空騎の飛行に制限が必要な程である。
トウカは、その突風を必要とする正確な理由を教えてはくれないが、大まかな推測はできる。
エルナは寒風が吹き荒ぶ空を見上げた。
今少しすると夜の帳が降り始める。
明日の曙光は一体、何を照らし出すのか。
それが皇軍の勝利であることを、エルナは切に願った。
軍隊は、その機構に確変を加えようとする傾向を持つものに対して、本能的に怖れを抱くものである。
《仏蘭西共和国》 陸軍 シャルル・ド・ゴール中佐
人の性は悪なり、その善なるものは偽なり。
大陸の思想家 荀子