第一八六話 仔狐の焦燥と大いなる矛盾
「あれ? ここって大きな岩があったのに……どうしたのかな?」
馴れつつある軍装の開襟に合わせて真紅の襟巻を巻きながら、ミユキは昨日に見た大岩が影も形もなくなっている事に気付いた。
ドラッヘンフェルス高地は大車輪で姿を変えつつあった。塹壕に特火点、 機関銃陣地、砲兵陣地、射撃指揮所、観測所などが次々と構築され戦線を形成しつつある様は壮観の一言に尽きる。後方でも物資集積所などが建設され、雪の高
地は様変わりしつつあった。自然を薙ぎ倒し、鉄火が埋め尽くさんとする姿に、ミユキは戦争に動員されるのはヒトだけではないのだと痛感する。
遠方で響く掘削の為の炸裂魔術を背に、ミユキは曇天を見上げる。中隊編制の戦闘爆撃騎が飛び去りつつあった。近接航空支援の訓練である。
皇州同盟軍は、陸上戦力に関しては未だ錬成不十分と判断した大部分を後方での訓練に当てているが、航空戦力に関しては例外である。
一心不乱の大動員。内戦の活躍によって志願する龍種は、速成訓練も程々に前線に再配置されつつある。無論、最低限の編隊飛行による水平爆撃任務に絞るとは言え、その任務遂行すら難のある航空部隊が存在する事をミユキは知っていた。
トウカの副官という地位は、皇州同盟内……否、皇国の政争で殊更に特別視されつつある。最近、陸海軍が組織間の迅速な連絡をと一名ずつ副官を押し付けよ うと妙齢の女性将校を派遣してきた事も記憶に新しい。当然ながら酷く容姿の優れた高位種で、陸軍からの女性将校に関しては狐種であった。
ミユキ、大激怒である。怒髪天を衝くとはこのこと。狐の場合、髪よりも狐耳が逆立つのだが。
結局、ミユキが「あの二人、絶対に美人局に間諜ですっ!」とラムケに泣き付いた結果、ラムケが監視という名目で、全力で絡む事で原隊復帰の自己申告を実現させた。実に性的嫌がらせな部分があり、ミユキも内心では汚らわしいと傍目に傍観していたが、ラムケの女性に対する配慮の欠如は生来のものであると盟友であるエップは苦笑している。
ともあれ、ミユキは自身以外の副官を認めなかった。トウカは、その行動に対して「そうか」の一言に留まり、興味なさげであった。
巷では種族間融和の象徴。或いは、サクラギ閣下の良心には狐耳が付いているとも言われるミユキだが、トウカは決してミユキの言動に流される男ではない。 軍神の戦意の根幹に仔狐がいる事は、皇州同盟の人間関係に詳しい者であれば周知の事実であるが、ミユキの言動を以て戦局に関与する真似をしない。
しかし、当人の一人であるミユキは、トウカの役に立っていない事を気にしていた。対するリシアはトウカの私生活に足を踏み入れ、軍務に於いては陸軍将校 として辣腕を振るっている。派閥争いの急先鋒として、〈北方方面軍〉内に於ける佐官や尉官の取り込みを積極的に行っていた。陸軍はトウカの派閥と言えるリ
シアやザムエルを皇州同盟軍から移籍させたが、現時点では獅子身中の虫でしかない。他地方に転属させないという玉虫色の判断が、リシアに関して大きく有利 に働きつつある。
ミユキはリシアの台頭を酷く気にしているが、実際のところそれは極めて困難な事と言えた。彼女が〈北方方面軍〉に移籍したのは、紫苑色の髪を持つ女性を 手元に置く事で叛服常無しと判断される事を他方面の軍が忌避した結果である。ファーレンハイトですら陸軍総司令部に加える事を危険視した。
政争の道具を手にしたと、政府や中央貴族に見られかねない。複雑な駆け引きと牽制の連続によって、リシアが〈北方方面〉軍司令部付、情報参謀に押し込ま れた事を、ミユキは知らない。偶然という奇蹟を踏み台に、自身が至尊の座に迫りつつある事を、ミユキは……世界は未だに認識していなかった。
ミユキとリシア。
相反する要素を持つ二人は互いに相手を意識し、自らの立場を固め始めた。それは健気な乙女心からなる抵抗。周囲も、そう見ていた。
だが、未来までもがそうであるとは限らない。
恋は戦争なのだ。
そして、戦争とは不確定要素からなる複合物。彼女達の思惑は大きな海嘯となって国家を揺るがす事になる。
だが、それは暫し未来の話。今、彼女らは注視されつつも、政戦の一翼とは見られていない。
「あ、中尉さん! 訓練終わったの?」
シュットガルト=ロンメル子爵領邦軍より、皇州同盟軍に移籍したヴィトゲンシュタインの姿を認めたミユキは走って近付く。
「ロンメル大尉、困ります。規範となるべき尉官が慌てて駆け足というのは……」心底と困り顔のヴィトゲンシュタインが、ミユキを迎える。
周囲には航空部隊の将兵である事を示す袖章が 縫い付けられた軍装を纏う者達が集っている。尉官ばかりであるが、尉官の最高位である大尉であるミユキに対し、どの様な態度を示すべきかと、ヴィトゲン
シュタイン以外は一歩距離を取っている。貴族令嬢が軍役に就いている事は珍しくないが、背後に爵位や権威を気にも留めない戦争屋が付いているミユキは、下 手に関わる事を躊躇するだけの危険性があった。
ミユキも、その点を認識している。
ヴィトゲンシュタインに関しては、ロンメル領邦軍に移籍後、ミユキの移動手段としての輸送騎を扱っていた為に知らぬ仲ではない。ミユキが虎の威を借る狐ではない事を実感していた。
軍帽を脱ぎ、降雪によって付着した雪を払うヴィトゲンシュタイン。ミユキは、ヴィトゲンシュタインの言葉に尻尾を一振り。出来る限り厳めしい表情?をして見せる。
「大尉……貴女はありのままが宜しいかと」
前言を翻したヴィトゲンシュタイン。ミユキも自身の表情を確認するべく頬に手を当てるが、当人に分かる筈もない。ミユキのその姿に、航空部隊の尉官達が 笑声を零す。皇国軍特有とも言える容貌と種族の大きく掛け離れた尉官達。その顔の中に見覚えのある顔を幾つか認めて、ミユキは航空戦力の主体になっている
のはヴェルテンベルク領邦軍の出身者である事を思い出す。現に彼らの胸には、フェルゼン会戦従軍記章の略綬が縫い付けられている。
「うぅん、将校って難しいですね。でも、あんな風には振る舞えないかなぁ」
トウカの立ち振る舞いを真似する事など出来る筈もない。その胸中を察したであろうヴィトゲンシュタインの、「やはり、そのままが宜しいかと」という念押しの様な言葉に、一際大きな笑声が周囲を満たした。
笑声に気恥ずかしくなったミユキは、話題を変える為、彼らの任務を口にする。
「えっと、近接航空支援(CAS)と戦場航空阻止(BAI)の訓練じゃないんですか? いっぱい航空騎は飛んでますけど、行かなくていいんですか?」
航空爆弾による攻撃は極最近に確立された攻撃手段である。急降爆撃に水兵爆撃、絨毯爆撃、対地襲撃など、トウカが現時点で示している攻撃方法だけでもか なりの数に上った。それだけではなく、攻撃方法が変われば既存のものとは違う陣形が必要となる。航空部隊同士の連携、その連携を統括する為の前線航空管制
(FAC)の育成など、付随する要素は多い。一括りに近接航空支援と言うは易いが、それを構成する為の訓練に技術、編制、兵器は多種多様である。
ヴィトゲンシュタインは、緩やかな笑みを以てミユキの疑問に応じた。
「前線航空管制に必要な示準などを陸上部隊と決める為の会議があるのです」
ミユキは首を傾げるが、軍人が厳しい訓練を経て、前線で苛烈に戦うというのは軍隊の極一部の情景に過ぎない。尉官ともなれば、連携確認や兵器運用、戦術 習得の為に座学も多い。常に新たな戦術や兵器が生まれ、それに合わせて編制が変わる。挙句に、軍に求められる任務にも多様性が生じ、必要となる知識は上昇 の一途を辿っている。
「内戦中は誤爆も少なくありませんでしたから、その辺りの改善も話し合われます」
前線航空管制は、攻撃騎を適切にして効率的に統制する為に必要な技術である。誤爆を防止し、前線に展開する友軍陸上部隊の対地攻撃支援、安全確保の為に 運用された。航空管制がなければ、陸上部隊の求める目標に対する攻撃ができない事もあり撃ち漏らしも生じる。内戦中は連携不足から敵戦力を見逃す例も散見
された。そこで爆撃効果判定(BDA)も任務に含む事で、砲兵の前進観測班(FO)が射弾観測で常に火砲を統制して砲撃している戦術を航空部隊でも試みる という目的もあった。
「現在は航空管制官を別に用意しようとしているのですが、意見交換したところ、砲兵の前線観測と任務内容が類似しているので押し付け……いえ、任せられないかと思いまして」
砲兵部隊との意見交換で可能そうであれば上申しようかと、と言葉を続けるヴィトゲンシュタインに、ミユキは尊敬の眼差しを向ける。できる女性である。
己の分野で活躍するヴィトゲンシュタインを、ミユキは眩しく感じた。誰も彼もが職責を全うし、国家存続の為に最善を尽くしている。その中にあって自身だけが、然したる役割も貢献もなく我儘を言うだけに終始していた。そんな事は当人も理解している。
「ロンメル大尉?」
「あっ、えっと、頑張ってくださいね」
必要なら私から主様に話を通しちゃいますよ、と言うべきかともミユキは悩んだが、一副官が一部の将校の意見に口添えをするのは不公平であると気付いて口を紡ぐ。
ミユキは、形容し難い焦燥を抱え、その場を辞した。
「順調だな。今のところは、だが」
トウカは与えられた座席から、壁一面に広がる地形図に記された兵力の推移を一瞥し、虎の子の装甲兵器を投入した意義に思いを馳せる。
政治の為に彼らは死ぬ。
郷土を護るや愛国心の発露などというものでもない、他ならぬトウカの政治的立場を盤石とする為に。北部以外では低評価の自身が、中央や他地方の貴軍官民 に一定の支持と理解を求めるには、正規軍である陸軍の窮地を劇的に改善したという評価が必要なのだ。他地方に対して敵対的な姿勢を露わにする北部の政戦を
担う者達や民衆達の視線がある以上、中央や他地方への妥協は北部からの支持を損なう行為に等しい。故に双方が評価する施策が必要となる。
双方の共通の敵が帝国である事から、帝国を叩く事が最も理解を得やすい。オスロスクやエカテリンブルクなどの帝国南部都市に行った戦略爆撃は、民間人にも大きな被害を齎している事から、皇国人の印象は芳しいものではなく、彼らも受け入れ易い戦果が必要である。
多種族国家の大前提を認めず、根絶やしにする意志を露わに攻め寄せる帝国主義者の銃後を相手に、尚も同情を向ける皇国人の精神性は大日連の大和民族に近 しい部分がある。戦略爆撃が手放しに称賛されないのは、負の部分を強調する様に報道へと働きかけた中央貴族や政府の蠢動に依るところでもあった。権力を求 めるトウカに、掣肘を加えようとする諸勢力。
七武五公の動きが沈静化した事は喜ばしいが、皇州同盟軍を積極的に帝国軍に押し遣る事で軍事力を漸減しようという意図があるのは明々白々である。戦後、 トウカの“期待通り”に神州国軍が来襲してくれなければ、皇州同盟は諸勢力によって権力と権益を蚕食される立場となるだろう。
帝国軍を軽微の被害で退け、相応の軍事力を保持し続ければ撥ね退ける事はできるが、それは不可能である。彼我の戦力差に絶望的なまでの開きがある以上、 何処かで無理をせねばならない。皇州同盟は、皇国が軍事的脅威を受ける事でしか存続できないのだ。大いなる矛盾。北部臣民の大多数の支持を受ける皇州同盟
は、北部臣民の大多数の感情を慮る事で戦場を戦い抜き、将兵を喪う定めにある。皇州同盟軍の将兵も、元を辿れば大多数が北部出身者であるにも関わらず、で ある。
北の意志が北の臣民を殺しているのだ。
他勢力の打倒を最重要目標に据えた大多数の意思は、同胞の屍山血河すら許容する。否、直視する事を避けた。それこそがヒトの弱さの本質であろう。大規模 避難が続けられている北部の現状は、対帝国戦争に否定的な言動を行う程の余裕すら奪っている。誰も彼もが北部臣民を避難させる事に注力しており、その原因
となった帝国主義者に遺恨を抱いた。大多数の民間人が考える敵とは、自らの生活を抑圧する者なのだ。
下手を打てば、トウカやベルセリカこそがそうした対象となりかねず、情報部を中心とした宣伝戦は 熾烈を極めた。皇州同盟の影響下にある新聞社などを利用した情報操作は、帝国主義への憎悪を掻き立て、皇州同盟が一時的に北部を喪う姿勢を見せている事す
ら霞ませる勢いを見せている。元より不倶戴天の敵であった以上、宣伝戦の材料には事欠かず、潜在的脅威として帝国主義者が見られている事も大きい。これば かりは中央貴族や政府であっても如何ともし難いものがある。曖昧な儘に民意を誘導する事すら失敗していた。
自らの怒りが、どの様な結果を齎すか。誰も彼もが理解していない。それはトウカ自身も例外ではない。
「堪らんな……」
大多数が脅威を直視しないままに本土決戦を強いられることは、軍人にとって最大の不幸。
敵味方が入り混じり、国土という戦場で戦う軍人の精神は、無論であるが気高く戦意に満ちた場合が多い。祖国を守るという決意の天晴れなる槍働きは、あのグルジア産髭親父と不愉快な仲間達(共産主義勢力)ですら示す事ができた。
だが、それは国民の危機意識に裏打ちされた支持と支援があってこそ。国民の危機意識が薄弱な場合、戦況の流転次第では銃後すらも敵となる可能性があっ た。祖国を命懸けで護る軍人は、その行動が国益と国家を保全するものであるならば敬意を払われ続けなければならない。そうでなくては士気を維持できない。
――他地方に当事者意識を植え付ける、か。避難民を押し付けたとは言え、現状では難しいな。可能なのは“次の戦争”を見据えて適度な恐怖心を帝国主義者に植え付けさせる事か。
帝国に有力な龍種がいるのであれば、高高度爆撃で皇国中部の都市を空襲したという“事実”を演出する事もできたが、現状では誰が見ても不可能な芸当である。リディアによる皇都襲撃を強調する動きは情報部も行っているが、やはり決定打となり得る規模ではない。
トウカは軍帽を被り直しながら立ち上がる。
「機甲戦力による襲撃は成功です、閣下。何処か問題がありましょうか?」
背後からエルナが言葉を投げ掛けてくる。
職業軍人は戦争だけに傾注していればいいので羨ましいという考えが脳裏を過ぎるが、彼女達はエルライン要塞で事実上の死守を実行せねばならない立場にある。道を踏み外せば、屍を晒す事に変わりはない。
陸軍は未だに死守に固執している。否、固執する一派の勢力が陸軍総司令部内で一定の勢力を誇っていた。当然、ファーレンハイトがそれに迎合するはずもな く、その真意は撤退戦に対する追撃に対して戦線が野放図に拡大する事を避ける為に要塞駐留師団の全滅も已む無しという部分にあるのは間違いない。ドラッヘ
ンフェルス高地の防衛陣地構築と集団避難が未だに完了していないという現状もある。要塞駐留軍の全滅と引き換えに時間を捻出できるのであれば費用対効果の 面から割に合うとの判断かも知れない。
トウカとしては、最悪の場合、郷土防衛の理念を謳い、北部臣民の大規模動員、学徒動員も含めた動員によって大規模な不正規戦を展開すべきであると考えて いた。北部貴族領は匪賊の跳梁や魔獣被害から領民の武装化率が極めて高く、各領邦軍も有事の際の民兵編制を考慮して小火器に限定されるものの武器弾火薬を 十分に備蓄していた。
無論、これはトウカの心中に秘された思惑である。
推定死者数は五〇万を越え、戦況次第では一〇〇万を超えるかも知れない。そうなれば北部の生活基盤は弱体化を免れず、工業や農業も甚大な被害を蒙るだろ う。戦後復興は致命的なまでに遅れ、他地方の支援を積極的に受け入れねばならず、皇州同盟は政治的に不利な立場に追い遣られる。
トウカは陸軍総司令部による要塞駐留師団に対する死守命令に嫌悪感を抱いていた。祖父が最も嫌悪した命令であり、大日連の軍事組織はそれが遺恨となり戦後は瓦解状態まで追いやられた。
大戦後期は被害低減の為という美名の下、積極的な核兵器運用すら行われ、超重爆撃機富嶽による絨毯核爆撃を受けた北米地域には死の荒野が複数生み出された。内地も各所に放射能が降り注ぎ、根刮に喪われた人材は戦後復興を妨げた。
否、死の荒野を生み出す事すらできない皇国に、核の傘による平穏は望めない。
死守は総てを喪う途である。
しかし、あらゆる遺恨を遺すが、必要とあればトウカも命令するだろう。
だが、後が続かない。一度、認めてしまえば、各地で死守命令が乱発される可能性もある。人口に乏しい北部は、有益な人材の損耗を許容できない。死守命令という選択肢がある事すら度し難い。
ここにサクラギ・トウカの本質があると言える。
無数の軍人の無為な戦死を、民衆の動員よりも嫌悪するという事実。一見すると矛盾している様に聞こえるが、これには大日連が辿った歴史に帰属する問題でもある。
軍事組織という外敵を排除する機構の弱体化によって人口……人的資源という母数を損耗する決断が下されるくらいならば、例え民衆の被害増大に眼を瞑って も、軍事組織の保全に未来を託すべきではないのか。民主化による左派勢力の増長によって政戦が壟断されるのであれば、適度な人的資源の損耗による悲劇に
よって対外的な融和姿勢を是正するべきである。軍事組織が健在で一定期間、国土防衛を可能とするのであれば、その間に人的資源の回復を期待する事ができる のではないか。そうした感情こそが、大日連軍上層部の根底に潜んでいた。
無論、彼らもそうした匙加減が難しい真似をして幸運を得られるなどは考えていない。それ程に左派勢力の伸張に大日連軍が抑圧されていたとも言えるが、半世紀を越えて尚も軍編制が異様な程に攻撃的であり続けている様を見れば誰もが口を噤む。
民衆の生命を絶対視しない軍隊。
それが、一定の民主化を実現しながらも、国民軍ではなく国体護持軍であり続ける途を選択した《大日本帝国》陸海軍の成れの果てであった。大量の大陸間弾道弾や艦砲用核砲弾、戦略重原子力潜水巡洋艦などを装備した皇軍の姿は、軍人達の猜疑心の発露なのかも知れない。
トウカにも、その血脈が保たれている。
エルナの問いに対し、トウカが答える。
「装甲部隊は強力だが、現状を打破するだけの戦場を与える事ができるか不明確に過ぎる」
口から出た言葉は、胸中のものとは全くのものである。
だが、エルナは想像以上に優秀であった。
「確かに、北部は森林や湖多く、戦域次第では平原での機動戦が困難なものとなるかも知れません。……ですが、帝国領内へ進出しての機動防御よりは目があるかと」
最期に些かの逡巡を見せて付け加えた一言は、暗に帝国への進出は許容できないという姿勢を示す意味合いがあったのだろう。トウカとしても“現時点”ではその心算はない。それ以前に眼前の敵を押し返す事すら現有戦力では難しかった。
楔形装甲戦術による突撃こそが、装甲兵器による突破の精髄であるとトウカが信じて疑っていないのは、機動防御でも積極的に用いている事から窺える。楔形装甲戦術は、戦車を主軸に据えた装甲車輛により形成する突撃陣形の事であった。重装甲の車輌を先頭に押し立て、それを中心に楔型陣形を形成する。先頭を重戦車が担い、両翼を中戦車や軽戦車が担う陣形の打撃力は想像を絶するものがあった。
無論、有力な近接航空支援の前には無力であるが。
エルナは不安げな表情を隠さない。
常日頃から逆侵攻による報復を叫ぶ極右軍人の評価などなきに等しい。正常な懸念と判断である。寧ろ、陸海軍が無条件に賛成するならば、トウカはこの国の行く末を儚み、早々に無謀な独立戦争に突入する決意をしていたかも知れない。
「しかし、砲戦の最中に魔導障壁を解除するのは……」
――其方か。
トウカは苦笑を零す。
その姿を見て取り、慌てて弁解に回るエルナだが、その心情は分からないでもない。上官の決定した命令に対する猜疑に近い形となって口から洩れても致し方ないものがある。トウカも咎める真似はしない。
要塞は火力戦の隆盛と共に廃れた防御施設である。第二次世界大戦でも要塞に頼った防御は然したる成果を上げなかった。楯より鉾の進歩が秀でていたからである。
対するこの世界では魔導技術の発達により、火力の発達に防御手段が十分に対応していた。故に要塞による拠点防御が廃れず、世界的に隆盛を維持している。 特に皇国の大都市における防護壁建築率は群を抜いて高いものがあった。平和主義が吹き荒れても尚、一部の長命な種族は、嘗て虐げられた悲劇を忘れてはいな い。防護手段の確立と維持だけは欠かしていないのだ。
その防御の要たる魔導障壁の展開を解除するというのは、作戦としても歴史上存在し得ないものであった。
無論、トウカはエルライン要塞の被害など然して考慮していない。
「寧ろ、帝国軍の皆様方が自らの弾火薬を射耗して撤退時の破壊を支援してくれると考えれば感謝が在って然るべきだろう? 〈第一装甲軍団(Ⅰ. Schutz Wehr-Panzerkorps)〉が敵の重砲部隊を押し込むと同時に要塞内の砲兵を含めた大多数の将兵の撤退行動に移る……宜しいですね?」
エルメンライヒに向き直り、トウカは念を押す。
魔導士や一部の守備隊には残存して貰う必要がある。重要な役目がある。
だが、彼らだけに危険な任務を押し付ける訳にはいかない。
「作戦内容に一部変更を加える許可を頂きたい」
その一言に要塞司令部の要員達が顔を見合わせる。
自由気儘に指揮統制に介入しておきながら今更、許可を求める事に対する警戒もあるのだろう。生じるかも知れない責任を押し付けるという懸念を彼らは拭い切れないのだろう。
だからこそエルメンライヒに対して直言するのだ。
要塞司令部の要員達を挟めば議論となり、不確定要素を論われるのは疑いなく、最高指揮官の言質を直接に得る事こそが確実な手段と言える。政戦問わず、対象組織を指導する者の同意を得る事こそが意味を成す。有象無象を間に挟むのは、同意形成による長期化を招く。
周囲を一瞥し、トウカは言葉を紡ぐ。
「小官が〈第一装甲軍団(Ⅰ. Schutz Wehr-Panzerkorps)〉の陣頭指揮を以て、帝国軍を足止め致します」
三個師団約三万名を以て、一〇〇万名を超える帝国軍と相対するという宣言。
作戦計画では適度に距離を取りながら拘束する予定であった。既に陽光は陰りを見せ始めているが、未だ夜の帳の到来までは時間を要する。夜間の陸戦は、い くら多種族国家《ヴァリスヘイム皇国》に闇夜に強い種族が存在するとは言え、軍の運用となれば総合的な向上が必須となった。避け得るならば避けるべきであ る。
対する帝国も、夜間は砲兵による砲戦以外は避けている節がある。それすらも非移動目標の要塞が相手であるからこそで、夜間戦闘は陸海に限らず指揮統制に難があり、測的と戦果確認の難しさから著しい射耗も強いられる。
帝国軍は夜間に運動戦を行わない。大軍で限定空間という制約の中、夜間戦闘を行えば大規模な同士討ちを招く可能性も高く、その判断は妥当なものと言えた。
エルメンライヒが露骨に眉を顰める。
「……〈第一装甲軍団(Ⅰ. Schutz Wehr-Panzerkorps)〉司令部は要塞内に仮設しているはずだが? 貴官が陣頭指揮を執る必要性は薄い」
実に明快な返答に、トウカは苦笑を零す。
純軍事的な返答であり、政治を全く考慮していない。無論、そうした人物であるからこそ陸軍総司令部はエルメンライヒをエルライン要塞駐留軍司令官に任命 したであろう事は疑いない。積極的に政治活動をする指揮官を国防の最前線に据える程にファーレンハイトは無能ではなかった。
「閣下、死守命令も小官が事実上、撤回させました。何より、皇州同盟軍は陸軍の統制下にある訳ではありません」
死守命令は既に解除されている。トウカが死守によって捻出できる時間よりも、多くの時間を捻出すると確約したからであり、失敗すれば皇州同盟の権勢を削 ぐ事ができると陸軍総司令部を説得する様に進言したからでもあった。所詮は陸軍も政治勢力に過ぎず、対抗勢力衰退の機会の魅力に抗える筈もない。
陸軍総司令部内の意思統一が短時間で終えられた点を見るに、皇州同盟に対して陸軍中枢で好意的な者は少ないのだろうと推測できる。内戦で激戦を繰り広げた事による遺恨が容易に解消できると考える程、トウカも楽観的ではない。
死守命令が撤回された事は既知となっているが、誰もが困惑し続けている。胸中としては、死を厭わない訳ではないが、ここで撤退した場合、祖国が崩壊する のではないかと危惧しているのだろう。撤退という後退に対し、敵が進出と迫撃を意図した行動を図ろうとするのは軍事学的にも容易に想像が付く。
彼らが背を預け、祖国の命運を託す相手とするには、陸軍将兵からの皇州同盟の信頼は足りぬものがある。
「好きにすると良い。だが、要塞司令部の撤退は最後だ」
最悪の場合、殿軍……後衛戦闘を自らが指揮するという宣言に他ならぬエルメンライヒの一言。
要塞司令部の面々の表情は様々なものがある。
致し方なし、と佩用した曲剣の柄に手を添えて頷く者。
溜息を吐いて拳銃嚢からP89自動拳銃を抜く者。
皮肉げな笑みを顔に張り付け、軍帽を被り直して敬礼する者。
だが、其々の所作は違えども、要塞司令官の必死を覚悟した決断に追従する姿勢である事だけは明確である。エルナでさえも直立不動でエルメンライヒを見上げていた。
ある人物を評価するに際して最も簡単で確実な方法は、その人物がどの様な人々と付き合っているかを見る事である。何故なら、親しく付き合っている人々に影響されないで済む人など、殆ど皆無と言ってよいからである。
そして、思慮に富む武将は、配下の将兵を、止むを得ず戦わざるを得ない状態に追い込む。
部下の様子を見るに、エルメンライヒは名将たるの資質を備えているということになる。自由意思で自らの希求する死地に共に赴く姿勢を見せる部下は千金に 勝る価値がある。トウカはそれを部下に求める事を忌避している以上に、自信がないからこそ義務や金銭や組織、思想によって複数の戦う理由を隷下の将兵に与
え続けていた。個人の求心力に頼った組織とすることを忌避したこともある。
エルメンライヒは、重々しく部下の一人一人へと敬礼を以て視線を巡らせている。そこには確かな絆と自負があった。
「……羨ましい事だ」
心の底からトウカはそう思える。英雄とは斯く在るべしという情景は、嘗て見た祖父と綺羅星の如き将星達との紐帯を思い起こさせる。
英雄などというものは、戦場の那辺にあること甚だしいが、一際と輝く一等星として将星が存在する事もまた事実である。名もなき兵士に英雄が存在する事をトウカは信じて疑わないが、やはり戦野で輝く為に生まれてきた者は存在した。
「サクラギ上級大将、残念だが貴官の後塵を拝するばかりでは要塞駐留軍の来年度予算に響く故な。貴官ばかりに戦わせる訳にもいかん」
硬骨の士を体現した表情を、一転して惚けたものとするエルメンライヒに、要塞駐留軍司令部の面々が戦場に似合わぬ軽やかな笑声を零す。
要塞が失陥すれば予算など付かない事を承知で、それを言ってのけるか、とトウカは笑みを零す。
そこには、来年までに要塞を取り返すという明確なまでの意志が窺える。トウカとしては、彼らが後衛戦闘を行うと決断した以上は口を差し挟む心算はない。 元より、トウカに要塞駐留軍の指揮権はなく、自らの邪魔とならぬのであれば異存はなかった。要塞駐留軍の主力と大多数の火砲が健在であるならば、軍事的な 目的は達成できたに等しい。
トウカは彼らの生命に対する義務を負ってはいないのだ。彼らもトウカも、今この時、命を賭す時節なのだ。ならば遠慮はいらない。煉獄に招待するとしよう。
神々へと祈りを捧げる愚かしさを認め、銃を手に取り戦野へと赴くは今を於いて他になし。
政戦の分水嶺を自覚したトウカ。
だが、時を同じくして、政戦のみならず恋愛の分水嶺までをも覚悟した少女が銃後に存在することを、後世の歴史は記さない。
ある人物を評価するに際して最も簡単で確実な方法は、その人物がどの様な人々と付き合っているかを見る事である。何故なら、親しく付き合っている人々に影響されないで済む人など、ほとんど皆無といってよいからである。
思慮に富む武将は、配下の将兵を、止むを得ず戦わざるを得ない状態に追い込む。
《花都共和国》外交官、ニッコロ・マキャヴェッリ