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第一六三話    国防の最前線




「馬鹿共が……」

 トウカは司令部の隅に設置された席に深く腰掛け、眠たげな視線を投影魔術によって映し出された戦況に向ける。

 前時代的な兵器で前時代的な戦術を以て、前時代的な消耗が続いていた。代わり映えしない。

 エルライン要塞司令部。

 要塞駐留軍の上級司令部とも言える場所に、トウカは縁も所縁もないはずであったが、気が付けば何故かこの様なむさ苦しい要塞の最奥に押し込まれているという現実。不愉快が過ぎて発狂するかも知れないと、トウカは書類に視線を下ろす。

 北部の臣民を大規模に避難させるという提案は、詳しく条項を詰めるのは別として何の障害もなく認められた。中央貴族が安っぽい人道主義に踊らされたと皇州同盟軍司令部は祝杯を挙げたものである。

 念の為の避難計画であり、臣民の生命を最優先とすべきであるという建前は皇国の国是にも敵う。陸軍も後背を気に掛けながら戦う事を忌避し、そして突破さ れた際の熾烈な後退戦を考慮して容易に頷いた。北部貴族は復興の兆しが見え始めた時期にと抵抗すると思われたが、意外な事にそうした姿勢を見せる者は少な かった。マリアベルが帝国への脅威を煽り立てた結果として内戦となったが、同時に集団避難に対して有利に働いたと言える。彼らもまた恐れているのだ。何よ り他人の金銭で避難を行えるので、好意的な者も少なくない。

 だが、翌日、事態は急転した。

 中央貴族が北部の臣民を避難させるにしても、可能な限りエルライン要塞を持久せねばならない点は変わりないと言い出し始めたのだ。トウカとしてもそれに は大いに頷ける事で、皇州同盟軍の帝国軍迎撃の作戦計画では帝国軍が早期決戦を求める様に仕向け、北部の中央を横断しベルゲン近郊で衝突する予定であっ た。そうした思惑もあり、北部の臣民全てを避難民とするのは流石に不可能であるからこそ、避難民の数を減らす為に帝国軍が北部全体の制圧を選択しない様に する必要がある。北部でも北東部のヴェルテンベルク領や西に近い地域には進出させない様に手を打つ事も作戦計画には含まれていた。

 大多数は救う事ができるだろう。

 だが、北部の臣民の全員が避難を受け入れる訳ではない。

 従軍を志願するならばまだいいが、避難を拒否する者も少数だが存在する。

 ベルセリカによる幾度もの街頭演説による効果や、今年中に故郷を取り返すとトウカが明言する事である程度は沈静化したが、未だ混乱は続いている。陸海軍 と航空戦力、政府によって徴用された魔導車輛などによる国を挙げてと称しても過言ではない規模の輸送に加え、帝国軍に物資を残す訳にもいかないので、余っ た資源や食糧を買い取る必要も生じた。幸いな事に冬であることもあって食糧の殆どは収穫されており、田畑を焼くという真似はせずに済んでいる。

 そして、ベルセリカがそれらの指揮を直接、執っている。

 辛い事を任せているという自覚はトウカにもある。本来は、トウカ自身がそれを行う予定だったのだ。

「余計な事を……」

 ベルセリカは冷たい言葉を投げ掛けられ、裏切り者扱いされているかも知れない。それは本来、騎士ではなく軍人にこそ求められる役目だったのだ。

 あからさまにやる気がないという風体を、横に立っているリシアが見かねて声を掛ける。

「閣下、そろそろ不貞腐れておられずに動かれてはいかがですか?」

 トウカだけでなくリシアまでもがこの場にいるのは、北方方面軍が帝国軍の情報を求めているからである。特にエルライン要塞を追い詰めている新型戦車や、 部隊編制などの情報を得る役目を担っていた。北方方面軍が積極的に帝国軍と戦う事を前提としている姿勢として周囲には受け止められていた。

 胡散臭い目で見てくる要塞駐留軍司令部要員や将校を、トウカは睨み返した上で舌打ちして視線を逸らさせる。

仕事のできない人間の尻を拭くのが気に入らないという訳ではないが、軍には部隊や所属、兵科などの様々な編制と分野で縄張り意識があるのだ。下手に防御戦 闘の指揮に介入しても、それが受け入れられるかは別問題であった。何より、トウカにエルライン要塞駐留軍に対する指揮権はない。

「昇進したとはいえ、皇州同盟軍上級大将の小官に指揮権のない皇国陸軍の部隊指揮に口を挟めと? それは中々の越権行為だ。模範的軍人の小官には承服しかねるな」

 白々しさをこれでもかと顔に張り付けたトウカの言葉に、リシアが口元を引き攣らせる。

 此奴(こいつ)ぅ!という表情のリシア。

 マリアベルの権威を笠に着て軍事を欲しい儘に操った御前がそれを言うのかというリシアの視線に、トウカは異論があるのかと横柄な仕草でリシアに視線を投げ返す。無理を通せば道理も引っ込む。

 リシアは溜息を一つ。そして、天を仰いだ。美人は何をしても様になる。

 そもそも、元を辿ればトウカを派遣するだけしておいて、エルライン要塞駐留軍に対する指揮権や影響力を行使できる様な職責や肩書を与えなかった者達に問題がある。可能な限り持久せよとの“依頼”なので、自らの立場で最善を尽くす“程度”で良いとトウカは解釈していた。

 だが、リシアも負けていない。

「閣下を当代無双の名将だと派遣なされた方々の風評、そして閣下自身の風評にも傷が付くかと」

 ある程度の成果は出しておくべきでは?とリシアが言いたい事は、トウカも理解得来た。

「逆だ。逆だな。いかんな。いかんぞ。ハルティカイネン大佐」

 勉強不足ではないかね、君ぃ、と新進気鋭の情報参謀と(なじり)りつつ、トウカは身体を(かし)ぐ。

 トウカをこの場に赴かせた者達の思惑は、トウカが軍事的に万能ではないと戦歴に黒星を付けさせる事である。リシアはそう見ている様子であるが、トウカはその点に関しては副次的要素であると見ていた。

 彼らは、自らが当代無双の名将と讃えるトウカですらエルライン要塞を保持できなかったという事実を欲したのだ。

 彼を派遣しても南部鎮定軍の攻勢を阻止できないという建前の創出こそ主目的なのだ。その点が正しければ、政府や中央貴族がエルライン要塞失陥の責任が政 治問題化する事を避けようと試みていると見て間違いはない。内戦で勝ちきれなかった陸海軍や政府、中央貴族。それを成したトウカを投じてすら要塞保持が叶 わなかった。その建前は、一定の妥当性を伴った主張となる。

 ――要塞失陥の原因を俺に求めて来たら楽しいんだがな。

 そこまで知能が足りていないなら、トウカが政治的主導権を得る事は難しくない。

 トウカはそんな事を言われると、ついうっかり“歴代天帝陛下の軍縮体制を彼らが非難している”と返してしまうだろう。責任は不在の者に求めるのが一番である。ある種の欠席裁判と言えた。

 無論、皇権保全を最優先する彼らは沈黙に反論と混乱する違いなかった。そうなればトウカは皇権を絶対的なものであるとするのは間違いであると彼らも認めたと声高に嘯くだろう。政治とは拡大解釈を以て政敵を叩く場でもある。

 エルライン要塞失陥は内戦と兵力不足が原因である。

 前者はトウカの失点でもあるが、後者は歴代皇王の失策によるものである。内戦に関しては北部に対する経済的締め上げもあり、一概に北部だけに責任が伴う訳ではない。

 よって、政府も中央貴族も……あらゆる諸勢力は、エルライン要塞失陥という政治的失点を軟着陸(ソフトランディング)させる必要がある。

 諸勢力にとって、エルライン要塞失陥はパンドラの箱である。失点が分散しているが故に政治問題化すれば燎原の火の如く諸勢力を焼きかねない。

 故にトウカはこの場にいるだけでいい。

 それが、諸勢力による暗黙のままの合意形成となる。

 下手に口を出して要塞駐留軍に嫌われる必要はないのだ。

 ――まぁ、俺の仕事はエルライン要塞が陥落してからだ。

 ミユキを後方に送り付けた上で、付近で演習中の〈装甲教導師団(パンツァーレーア)〉と皇州同盟〈ヴェルテンベルク軍〉を呼び寄せる。その上でエルライン要塞駐留軍の残存部隊を糾合して熾烈な後衛戦闘を行わねばならない。

 トウカは手にしていた書類を机に投げ置いて、尚も言い募ろうとするリシアを片手で制する。

「俺の仕事は要塞陥落後だ。機動防御と不正規戦の恐ろしさ南部鎮定軍は己が血涙を対価に理解するだろう。まぁ、ザムエルも趣向を凝らすそうだが」

 近接航空支援は数が揃っていない事と、帝国軍に直前まで対策を行われない様にする為、決定的な状況となるまで運用を控えるという方針が陸海軍と皇州同盟 軍の間で示されていた事もあり、現状での投入は不可能であった。何より帝国軍も中々に行動が早く、偵察に出た偵察騎がかなりの数の敵邀撃騎に遭遇している 点を見るに、それ相応の対策を取っていると見える。帝国は航空戦力をエルライン要塞に集中させつつある。人中の龍は、やはり居るのだ。

 それでも尚、時間の捻出は難しくない。

 地の利のある者達が何万名という規模で不正規(ゲリラ)戦を行うのだ。

 しかも、個々で卓越した能力を有する中位種や高位種が混じっているというだけで無視し得ない脅威度となる。その上、皇州同盟軍は狙撃兵の比率が多く、狙撃銃と重狙撃銃(対物狙撃銃)などが数多配備されており、不正規(ゲリラ)戦に対応した訓練も短期間ながら行っている。夜襲と伏撃に関しては可能であると見ていた。

 問題は小規模な部隊を指揮する下級指揮官が、浸透戦術に近い不正規戦を理解しているかという事である。自由裁量権が極めて大きくなり、現場での独自判断 を最大限に尊重することによって機動の速度のみならず、意思決定の速度に於いても敵軍に優越することで、敵軍に不利な戦況を積極的に強要して主導権を獲得 する機略戦(Maneuver warfare)という部分を理解してこそ意味がある。一々、総司令部に指示を仰ぐ会戦の様な有様では困るのだ。

「まぁ、ヴァレンシュタイン少将とエップ中将ならば、その辺りは理解してくれているか」

 〈装甲教導師団〉はザムエルが師団長を務めており、皇州同盟軍、〈ヴェルテンベルク軍〉はエップが軍司令官を務めている。共に内戦時からトウカの作戦を 目の当たりにしていた人物であり、近代的な機略戦の一端を理解しているはずであった。将校にも座学を施したので、一応は問題ないはずである。

「一度、抜けて演習を見に行くか……」

「閣下……」

 リシアが汚らわしいものを見るかの様な瞳を向けてくるが、自身の今までの独断専行の経歴を棚に上げての言動なのでこれ以上は無視する。

 そこで軽やかな足取りで一匹の狐が要塞司令部の一室へと入室してくる。

 上衣はヴェルテンベルク領邦軍正式採用の軍装で、大尉の階級章よりも情報部を示す徽章と少しきつめなのか張っている胸元が視線を吸い寄せる。だが、それ以上に目を引くのが足回りの(スカート)であった。

 外観は股下が分れた軍袴(ズボン)状の武道袴で、ヴェルテンベルク領邦軍正式採用の軍装の色に合わせた黒であるが、広がりがある造りの為に戦野に赴く恰好ではない。そして、大きく右に傾かしいだ形で被っている軍帽は一方の狐耳に引っ掛かり、もう一方の狐耳はそのまま出ている。

 完全に陸軍の服飾規定を逸脱しているが、ヴェルテンベルク領邦軍の軍規を基本とした皇州同盟軍の服飾規定は曖昧なままであった。いずれ厳格化するとはしつつも他の軍規を策定する時間を優先し、未だに軍の編制すら終えていないので後回しになり続けている。

ヴェルテンベルク領の軍組織、あのマリアベルが着物を纏ったままに軍を指揮していた以上、その指揮下の将兵の服飾規定も驚く程に緩い。兵士に関しては流石 にそれ相応に決められていたが、将校……特に佐官以上は酷かった。狙撃兵の良い的になる様な軍装を平気でしている。高位種が多いとは言え、極めて不用心と 言える。傾奇者や花魁が指揮を執る軍隊など前代未聞であった。

「主……じゃなくて総司令官閣下、似合ってますか?」

 その場でくるりと一回転し、武道袴の端を摘まんで軽く礼をして見せたミユキ。

 余裕のある造りの武道袴がふわりと広がりを見せ、漆黒の衣裳(ドレス)を纏い、舞踏会を舞う御令嬢のような姿は、要塞司令部に詰めていた面々の目を惹いた。トウカ個人としては、目を惹くのは困るのだが。

「似合っている、ミユキ。(あつら)えたのは義母上か?」

「はいっ! なんか可愛くなかったから直してもらいました」

 元気よく尻尾を振って駆け寄ってきたミユキを抱き止めつつ、トウカはマイカゼの余計な配慮に内心で毒づく。触るだけでも高級生地であると理解できる上 に、上衣もまた少し違った象意と構造をしている事が見て取れる。ロンメル子爵家の当主であると言えば皇州同盟軍であれば押し通せない事も少なく、マイカゼ は露骨にトウカの横に侍るミユキを演出する事で天狐族の立場を示そうとしているのだ。

「特別扱いせざるを得ない、か」

 副官である事を厳しく求めようとしたが、いざミユキを前にすると叱責するなどできようはずもない。ましてや、トウカもマリアベルに特別扱いを受けていた身であり、皇州同盟軍自体が領邦軍の延長線上であるという理由もある。無論、最たる理由は惚れた男の弱みであるが。

 トウカは開き直ってマイカゼの思惑に乗る事にした。

 ミユキを全力で特別扱いである。

 少なくともマイカゼがトウカに与する事を利益になると判断しているならば、トウカとミユキの関係を後押しするはずであった。ならば現状を享受する事に何の躊躇いもない。既成事実を積み上げて事実を確固たるものとするまでである。

「ロンメル大尉。貴女、不用意に閣下の下を離れるのは副官としての役目を――」

「――え、リシアは主様と二人が嫌だった?」

 リシアの諫言にミユキが平然と溜口で言い返す。

 階級はリシアが遙かに上であるが、所属している軍が違う為、ミユキの上官であるトウカが黙認してしまえば大抵の場合は有耶無耶になる。無論、無遠慮に周 囲に溜口を使う様であればトウカも諌めるが、リシアだけである為に放置していた。本来ならば軍の統率上宜しくないが、皇州同盟軍の実質的な盟主はトウカで あり、〈北方方面軍〉もトウカとベルセリカの強い影響下に置かれている。陸軍が編制を急ぐ為、ベルセリカとトウカの影響力を排除することを諦めたからで あった。

 うだうだと会話を続ける二人を尻目に、トウカは戦況を記していた戦域図に視線を落とす。

「両翼に戦車を集中させて中央は開けているな。中央を戦車の残骸で満たしたくはない? 歩兵の進軍路か? いや、違うな。突破後の通路確保などに配慮している余裕はないはずだが……」

 本当に坑道戦の為に、中央の地下に影響が出ない様にしているとも考えられなくもないが、歩兵や砲兵は進出している上に塹壕も弾雨の中で形成されつつある。

「戦車は残骸でも遮蔽物に使われている……エルライン回廊という遮蔽物の少ない上に火力集中がなされやすい限定空間では遮蔽物が重要だと“錯覚”するのは当然かもしれないが」

 空という戦場を本格的に意識し始めれば、遮蔽物という概念は大きく変化せざるを得ない。だが、現状で遮蔽物を求めるという帝国軍の選択は間違っておらず、厳に進出と擱座、破壊を繰り返して膨大な損失を出しつつも、エルライン要塞と距離を詰めている。

 このままでは、要塞城壁に取り付かれるのは時間の問題だろう。

 要塞砲の消耗は酷く、陸軍が増援と共に引き連れてきた砲兵は城壁越しに曲射砲撃を以て支援しているが、これ以上、要塞へと接近されれば帝国軍の前衛は曲射砲撃の射角外へと進出してしまう。

 エルライン要塞は、エルライン回廊というエルネシア連峰にできた細い回廊にある。会戦であれば一〇万名規模の二つの軍が辛うじて衝突できる程度の広さの 回廊に皇国が建築したのが、エルライン回廊を完全に塞ぐ形で存在する三重防護壁と後方の稜堡式城壁を備えた巨大要塞からなる防御施設である。

 その歴史は古く、既に建築から四〇〇年近くが経過しており、皇国北方鎮護の要である事から度重なる改修と改築が続けられている。要塞砲の更新や堡塁の増 設、障壁魔術式の刻印変更、星形要塞から多角形要塞への変化、掩体壕の設置などと幾度もの増強と変更が繰り返された事もあり、極めて強靭な要塞であると周 辺諸国に知れ渡っている。

 トウカからすると、何とでもなる程度の要塞でしかないが。

 航空攻勢の有効性が広まるのが確定した今となっては、要塞自体が廃れ往く運命にある。

「皇州同盟軍の短距離弾道弾聯隊の編制が早期の内に終えていれば流れを変えられたのだがな」

 中距離弾道弾の実験を元に短距離弾道弾の試作が始まっており、飛行場や橋梁、要塞などの要衝、重要目標を攻撃する為の手段として期待されているが、トウ カの一声によってそれの量産は一時中止されている。皇州同盟軍への武器弾薬の供給を優先するという理由もあるが、航空攻撃も満足に迎撃できる装備を持たな い周辺諸国を相手に迎撃不可能な速度と高度から飛来する弾道弾を運用する必要性が薄いことからであった。無論、早期に模倣と対策を行われる事を避ける為と いう理由もある。

「主様、なんか要塞のヒト達が大変そうです。助けないんですか?」

「管轄違いだ。当人達の依頼がなければ難しい。なにせ、俺には直卒の部隊すらない」

 皇州同盟軍は、未だに多くの切り札を隠している。

 重擲弾筒大隊や航空艦隊、重自走砲聯隊など新兵器や転用兵器が数多く存在し、狙撃銃や機関銃、対戦車砲なども改修型を陸軍よりも先んじて大量配備しつつ ある。満足できるだけの練度を有した部隊の編制よりも、兵器の配備速度が速いという状況は皇国の高い工業力を示すものであるが、人員の運用面で非効率な部 分が多い事もあって戦時体制への移行には時間が掛かる。

 トウカは、ミユキを自らの膝に座らせると、要塞司令官へと視線を向ける。


 エルライン要塞、要塞司令官ゴットフリート・フォン・エルメンライヒ。


 威風堂々をその身で体現した巌の様な体躯の初老のエルメンライヒの威圧感は宿将と呼ぶに相応しいものであるが、陸海軍府長官や七武五公、気紛れな北部貴族を相手にし続けていたトウカからすると臆する程のものではない。

 先程から意味ありげな視線を向けてくる老人というのは気味が悪いものである。

 いや、トウカとて理由は分かるのだ。

 トウカから意見具申を行い、それをエルメンライヒが受け入れたという形にすれば要塞司令部側としても面目が立ち、士気を下げる事を避けられると考えてい るのだろうが、トウカとしては心底どうでもいい話である。要塞駐留軍の砲兵以外は既にトウカの考える決戦戦力として数えられておらず、場合によっては“玉 砕”となっても問題がない様に国威発揚の為の宣伝を行う為の計画は立てていた。

 御国の為、北部臣民避難の時間を稼ぐ為に最後一兵まで戦う忠勇無双の皇軍兵士。実に麗しい事である。

 トウカとしては自らの命令で喪われる訳ではない以上、手助けをする心算はなかった。トウカは彼らに対して責任を持つ立場ではなく、自らが積極的に口を挟 んで助けようなどという気が起きるはずもなかった。陸軍は言わば連携組織であるが、統一された命令系統がある訳でもないので、下手に口を挟んで失敗した場 合、責任を押し付けられる可能性を否定できない。

 陸軍と皇州同盟軍は、その国体護持という目的が競合しており、場合によっては相手の失脚を意図した計略や優位に立つ為の方策を行使し合う事になるかも知 れない。現在は未だ両軍とも相手との関係を計りかねている部分がある為、そうした部分が表面化しないが、帝国軍を撃退する、或いは大敗したとなればそうし た動きは必ず生じる。敵は前方だけにいるのではない。

 だからこそ、あらゆる状況下でトウカが隙を作る訳にはいかない。ミユキという権威と隙を手にしたトウカにこれ以上の妥協は許されないのだ。

「年寄りからの熱い視線と言うのは何とも……」リシアが噴き出す。

 何故か、トウカは老齢の者に好かれる傾向にある。無論、その好意には消極的なものから熱烈なもの……一風変わったもので同情からというものがある。

「持久は後一ヶ月……撤退は夥しい戦死者を出した上で、だ。ミユキ。これが戦争だ」

「……別に戦争だから、虐殺だからって起きている事に変わりはないですよ?」

 トウカは現実を知るべきだろうとミユキに言葉を投げ掛けたが、ミユキは然して取り乱した様子もなく、首と尻尾を傾げるだけである。

 ミユキは傭兵達の仕事場に遭遇した事がある。だからこそ戦争や虐殺に規模以外の然したる差を見いだせないのだろう。この死が満ち溢れた、戦争が全ての者 に寄り沿う様に存在する世界で喪われ往く命。過程に差異はあれど、他者からの理不尽によって喪われる事に変わりはなく、ミユキからすると戦争であれ犯罪で あれ命が喪われる事に変わりはないのだ。

 同じくヒトが死ぬだけであり、だとするならば戦争と犯罪に然したる境界線はない。

 強いて違いを挙げるとすれば、ヒトが擁する最大組織である国家規模の衝突であるという点と、それによって生ずる夥しい死者数くらいものである。

 だからこそなのだろう。

「だから、助けられるヒトは助けるべきだと思います」

 その中で彼女は“後悔”しない道を選択する。

 ミユキにとって戦争で喪われる命も、道端で損なわれようという命も同価値なのだろう。

「力があって策があって余裕があるなら手を差し伸べてあげるべきです。……誰でもない主様の為に」

 故に助けるべきだと口にする。

 誰でもない自分の為に。トウカの為に。

 本心は兎も角として、曖昧ではあるがトウカの利益と感情を慮った様な言い回しは他人行儀な気がして好ましくはないものの、不用意に善意を振り翳す真似を しなくなった点は貴族としての成長が感じられる。例え、その行動の本質に於ける部分が善意であったとしても、それを理由とした動きを見せる事は公式の場で ミユキに常に赦される贅沢ではなくなったのだ。貴族であるが故に。政争の渦中にあるが故に。

 あくまでも別の建前を用意して意見を述べてくるミユキ。その成長に、トウカは何とも言えない気分となった。

 実際、トウカは手を貸す事に異論はない。

 責任問題の押し付け合いは望むところである。耳目を集める理由が悪評であったとしても構わないのだ。扇動とはそうしたものである。

 だが、指揮系統の問題と、そもそも素直に言う事を聞くかと考えれば否だろう事は疑いない。更には要塞司令部が未だにエルライン要塞の死守を前提とした戦 略を選択している事もまた大きな意味を持つ。徹底的に持久して帝国軍の撤退を誘発するというのは従来の戦略である。帝国が流れるような手順で皇国の内乱と 国力低下に付け入るような戦略を取っている以上、従来の戦略で対応する事は確実な防衛手段とは言えない。だが、要塞という機動しない防御陣地を主軸とした 防衛戦は、取り得る手段が極めて少ない受動的なものでしかなかった。

 要塞の堅持は難しい。それは要塞司令部も理解しているが、一進一退の攻防と帝国軍の甚大な被害は一握の可能性を見せている。

 故に思ってしまう。被害の規模が大きくなれば敵は撤退するかも知れない、と。

 恐らく要塞司令部の将校は理解しているだろう。だが、それを面と向かって断言する勇気も、要塞放棄を進言するに値する確証もないのだ。

 ――人中が龍はよくやる。此方に確証を持たせず、可能性を感じさせる事で安易に決断をさせない。南部鎮定軍も消耗しているが、此方の陸軍も消耗している。

 《スヴァルーシ統一帝国》と《ヴァリスヘイム皇国》ではヒトの命の価値が大きく違う。

 無論、軍となれば更に大きな差が生じるだろう。

 帝国軍は三カ月程度の速成訓練を行っただけの兵士に小銃と手榴弾を持たせて督戦隊を後詰めに前進するという有様である。捕虜の証言から判明しており、そ こから推察される事実は捨石の練度の低い急造の歩兵部隊を磨り潰しながら前進し、特火点である堡塁などを破壊していく事にあると見て間違いはない。大量の 戦車の残骸が榴弾の破片効果を著しく制限し、歩兵の浸透率が上昇していることも相手の思惑である事を踏まえれば、見事だとしか言いようがなかった。

 エルライン要塞の失陥は免れないが、下手に口を挟めば責任転化される可能性がある。

「良いだろう。戦争の時間だ。似非帝国主義者に教育的指導をしてやるとしよう」

 決断は早かった。

 責任問題など歴代天帝の融和路線による戦力の縮小だと盛大に天帝批判を展開すればいい話で、そうなれば大事にしたくはない中央貴族の権威主義者一同から陸軍に大層な圧力が加わるはずである。なまじ事実であるが故に大事にできないのだ。

 立ち上がったトウカは軍帽を被り直す。

 この時、歴代天帝の軍事政策面での失点の有用性に気付いたトウカは破顔していた。否、当人は自身が笑みを零している事に気付いていたが、その笑みが酷く卑しいものであることには気付かなかった。

「エルメンライヒ要塞司令官、小官に一つ愚策が」

 軍刀を杖の様に手にしたトウカの軍帽の下で、爛々と輝く漆黒の瞳は眼前の宿将ではなく遙か遠方の”敵“を捉えていた。








「第一城壁を爆破するなど……」

 背後に控える副官のエルナ・バルツァーが愕然とした響きの声音で呟く。

 孫娘程に年齢の離れた、中尉の肩章を付けた副官のエルナは、今は亡き戦友の忘れ形見であった。だが特にエルメンライヒの目を引いたのは、戦術に対する造 詣の深さであった。士官学校を次席で卒業した頭脳を持つだけあって帝国軍の変化を見て取るのも早い。そのエルナですらも愕然としていることから周囲の参謀 の意見を求めるまでもなかった。

「だた、爆破する訳ではない。敵の有力な戦力を引き付けた上で下敷きにする様に爆破するのだ」

 トウカは、エルナや参謀達の遣り取りを興味なさげに一瞥すると、エルメンライヒへと視線を向けてきた。

 どうする気か?

 そう問うているのだ。

 有象無象の意見などどうでもいい。御前が決断しろという無遠慮な視線に、エルメンライヒはトウカが風聞に劣らぬ程に過激な人物であると遅まきながらに理 解した。自らの意見を押し通す為に最短の行動と言動を以て事を成す姿に、組織人としての配慮などは一片たりとも窺えない。その言動ではなく、行動までもが 急進的な在り様こそが北部統合軍の苛烈な戦闘の原動力だったの疑いない。

 とても自身の思惑に配慮も協力もしてくれる男ではない。

 エルライン要塞である程度の持久と、帝国軍に可能な限り被害を与えるという陸軍総司令部と皇州同盟軍の目標を第一に考えた発言と作戦案は、要塞司令部に 対して一切の配慮がなされていないものだった。可能であれば要塞司令部の意見を尊重する形での作戦提案を望んでいたのだが、そんなものは知ったことではな いと言わんばかりの態度と言動である。無論、配慮を明確に口に出した訳ではないが、シュットガルト湖畔攻防戦でのトウカとアーダルベルトの高度な戦略…… 軍事的遣り取りを戦闘詳報で見れば、トウカがエルメンライヒの意図に気付かないはずがなかった。

 意図した上で無視されたのだ。

 トウカは副官である狐種の女性を抱き寄せて、参謀達の遣り取りを一瞥すると戦域図へと視線を向けている。参謀の喧々赫々の遣り取りなど興味がないのだろう。彼にとって既に答えの出た結果を他者が再検討するというのは意味のない行為だと感じているのかも知れない。

 サクラギ・トウカは当代無双の名将である。

 その手段は人道的にも道義的にも、皇国軍人としても常道ではないかも知れない。だが、少なくとも北部では熱狂的にして狂信的な支持を受けたままに状況が 推移していることからも分る通り、全ての者が全く受け入れ難いものではない。トウカによって北部統合軍と北部貴族は“栄誉ある停戦”を勝ち取る事ができた が故に、北部地域の領民からの評価は絶大なものがある。

 しかし、他の地域や勢力からすると一転して“内戦を長期化させた人物”でしかない。

 そうした人物からの提案を素直に受け入れられる者は少ない。ましてやそれが要塞放棄を前提としたものであれば尚更である。

 陸軍は持久できないのであれば止むを得ないが、可能であればエルライン要塞を保持したいと考えている。つまりは帝国軍の行動に対して対応するという曖昧な形でエルメンライヒは指揮を行わねばならない。

 その点こそがエルメンライヒを悩ませていた。

 どの様な戦術で要塞を防衛するか。
 どの状況で要塞放棄を判断するか。

 多くの参謀達は要塞の堅牢たるを信奉しているが故に要塞防御に固執している部分があり、要塞放棄の時期を見誤る可能性があるとエルメンライヒは懸念していた。そうした部分も含めてトウカに期待していたのだが、提案された作戦は事実上の段階的な要塞放棄であった。

「まぁ、好きになさると宜しい。小官の任務でもなければ、責任でもありませんからな……今まさに喪われつつある将兵には同情しますが」

 残念だ、と狐種の副官を抱き上げたトウカ。

 小さく悲鳴を上げた狐種の副官だが、躊躇いもなくトウカの首に両手を回しているところを見るにそうした関係なのだろう。軍務など貴様らで好きにするといいと言わんばかりの態度に参謀達が激怒するが、トウカは狐を抱えたままにエルメンライヒに背を向ける。

「作戦計画書は提出しているので、切羽詰ってから見てくださっても結構」

 義理は果たした、とトウカが狐を抱き上げたままに要塞司令部を後にする。

 その後ろ姿を見た参謀達が一様に不満げな表情をする。砲兵参謀などは露骨に舌打ちすらしている。

 ――貴様に女ができんのは幼女趣味(ロリコン)だからだ、僻むな。

 参謀達は帝国軍の戦力に圧倒されつつある現状への対処を相談し始めている。エルメンライヒはそれを横目に要塞司令官席へと座り、机上に置かれていたトウカが提出した作戦計画書を手に取った。

「閣下……申し訳ありません」

 近づいてきたエルナの謝罪に、エルメンライヒは「うむ」と頷く。

 エルナは一番トウカに噛み付いた者であったが、だからこそ参謀達とトウカが口論になる事を避けることが叶った側面がある。無論、エルナはそれを意図して 行っていたのは表情を見てみれば容易に察せる。これ程に申し訳なさそうとも思っていない謝罪というのも珍しい。上官に横柄な態度を取る事を躊躇わない姿勢 は、エルナの父にして今は亡き盟友と酷く類似している。その姿を微笑ましく感じるが、要塞司令官としては頭を撫でてやる事はできない。

「以後、気を付けよ」

 短くそう呟くが、参謀達は白熱しているのか、此方に意識を向けていないので問題ないと判断する。

「どうだ。サクラギ上級大将は? 結婚相手としては申し分ないと思うが」

「今は軍務に精励したく御座います、閣下。それに、一介の陸軍中尉など、サクラギ上級大将閣下は気にも留めないかと」エルナは直立不動の体勢のままに、冷静に言葉を投げ返してくる。

 心の琴線にトウカは触れなかった様である。

 エルメンライヒは優良物件だと考えているのだが、確かに天狐族の副官を相手にするのは容易な事ではない。天狐族の御令嬢と、その母親は当代ヴェルテンベ ルク伯という短期間で北部貴族の有力者となり、陸海軍にも噂を轟かせている。そして前者こそが狐種の副官であるという事もまた広く知られていた。政治的な 連携を端的に示す手段としてはこれ以上ない程に有効なものである。彼は政治もできるのだ。

「貴様も負けていないとは思うのだがな。どうだ、誑し込んでみてはどうだ?」

「…………御命令とあらば」

 心底不満そうな表情……という訳ではないが、面倒だと内心で思っていることは間違いない。生真面目過ぎて婚期を逃すのではないかというエルメンライヒの懸念を知りもしないエルナ。何時の時代も、年長者の懸念など若い娘は気にも留めないのだ。

「取り敢えずサクラギ上級大将と意思の疎通を図れ。得ることは多いだろう。彼の前では既存の陣地防御など役には立つまい」

 そう、トウカは要塞に然したる価値を見い出していない。その様を推し量り戦闘詳報を見るに、トウカは機動戦こそを得意とする指揮官であり、敵を攻囲する 事こそを戦略の精髄としている。そして、如何にして敵の野戦軍の後背を突くかに全てを投じていた。ある種の狂気とも思える程に敵野戦軍を包囲し、壊乱させ る事に腐心している姿は異様と言っても良い。シュットガルト湖畔攻防戦では、揚陸作戦による機甲部隊と陸上戦艦の迂回攻撃という軍事史上で初めての試みを 実戦で大胆にも行ったのは博打以外の何ものでもない。そうまでして、敵の後背を突く事に腐心しているのだ。

「彼は優秀だ。恐らくこの要塞に然したる価値を見い出していないのだろう」

 使い潰す心算だろう。

 そして、長期的に見てそれを問題としないトウカは、既に皇国陸軍の基本戦略など気にも留めていないのだ。

 電撃戦理論と縦深戦術理論。

 トウカによって二つの大系化された理論は最重要機密書類と指定されたが、それ以前に旧北部統合軍などの司令部や参謀本部では少なくない数が流布していた。その一つをエルメンライヒは増援部隊を指揮していたファルケンハイン大将より受け取って推考を重ねていた。

 トウカが書き散らかした理論や論文は、軍事分野や各種工学分野、経済産業分野を震撼させているが、実際のところ大多数は政府と陸海軍府主導で機密文章指 定とせざるを得なかった。理由は、皇国の国際戦略や国防戦略を根底から崩壊させ得る可能性を酷く端的に示していたからでもある。

 ――要塞に価値を感じぬのも当然、か。さて、どうしたものか……

「取り敢えずは、聞く耳はあると示しておくべきか」

「……やはり小官ですか?」

 心底嫌そうなエルナだが、エルメンライヒとしては少なくとも先入観をこれでもかと持っている参謀達にその役目を任せる訳にもいかないと考えた。敵対者と 政敵の罪を“作り上げ”てでも排除することを躊躇わない男である事は、北部の権益を露骨に浸食しようとした議員や貴族、商人などの有力者が次々と不審死し ている点を見ても理解できる。

「彼に付いて配慮している姿勢を見せろ。陸軍府長官からの指示もある」

 そうするしかない。
 厳しい状況である。

 国内の派閥争いによって、国防最前線が最善を尽くす事を妨げられている現状に、エルメンライヒは溜息を吐いた。

 

 

 

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