第一六五話 《エッセルハイム》の一時 前篇
「貴官は、俺の命令に異を唱えると?」
無表情で異論を封殺しかねない程のトウカを傍目に、クレアは緩やかな微笑を浮かべたままに遣り取りを傍観している。否、甲斐甲斐しくしく、その場にいる者達の硝子碗に急須で黒茶を注ぎつつも、周囲の高官の様子に目を配っていた。
皇州同盟軍参謀本部航空参謀であるキルヒシュラーガーが、トウカの無機質な視線に晒されている中、エルナも無言を貫いていた。表情に窺える戸惑いに、クレアは気付いていない仕草を以て平静を装うが、内心は大いに戸惑いを見せていた。
自身の知るトウカとは随分と印象が変質している。
鋭い刃のような気配を漂わせている印象は、クレアが目にした事のないもの。
シュットガルト湖畔攻防戦時は、除倦覺醒劑を使用していた事もあり、その前後のトウカは荒んだ人物であった。それ以前は過激な言動が多い人物であったが、少なくとも礼儀は弁えており、急進的な姿勢を曖昧にする事で周囲に気を払う場面もあった。
しかし、今は偽る真似をしていない。
既に自らの権力が確立したという自負があるのか。
演説や貴族への対応の端々にも、そうした部分は見受けられる。急進的な企業や有力者が次々と参加しつつある皇州同盟を背景とした国権に依存しない勢力の指導者は、通常の貴族議員や政治家には選択できない手段も講じる事ができる。
何よりも国権に依存しないが故に。
国体護持の為に集い、勢力を形成したトウカが、最も国家の影響を排除した行動を取れるという皮肉と現状は、クレアからすると全く以て好ましいものであった。
「閣下、小官は陸海軍と協調すべきであると提案しているのです。決して閣下の命令と権威に異を唱えている訳では……」
キルヒシュラーガーの言葉に、トウカは無言で見つめ返すだけである。
無機質なその瞳で思惑を見透かそうとでもしているのか、何か言葉を発する事もないトウカに、キルヒシュラーガーが居心地悪るげに身動ぎをする。そして、 助けを求める様に我関せずの立場を取っていたエルナへと縋る様な視線を巡らせた。陸軍所属のエルナの前で会話している以上、早晩に陸軍総司令部へと伝わる
だろう事は疑いなく、それを意図してキルヒシュラーガーは、この場でトウカに問い掛けたのだろう。
トウカは、これを反抗的だと判断するのか。見ものである。
だが、トウカは然したる動きを見せない。
「まぁ、良い。手元に重爆撃騎が来た以上は何とでもなる」
トウカは、キルヒシュラーガーが手をぞんざいに振り払う事で退出させると、エルナへと視線を向け、笑声混じりの声で告げる。
「どうした、君。要塞司令官に伝えないのか?」
「あ、いえ……ど、どうしましょう?」
上官の質問に質問で返す無礼にも、トウカは優しく微笑むだけである。
答え難い質問に対してエルナは、曖昧な表情で唸っている。
エルナが陸軍か要塞司令部からのトウカに対する御目付け役であろう事は疑いないが、トウカはそれを然して重要視していない様に見える。つまり、トウカは 既に陸海軍と生じるであろう問題を解決する手段を手にしている可能性がある。重要視していないだけである、という事も有り得るが。
クレアはトウカの背後……副官として控えているミユキの横に、直立不動で佇みながらも思考を巡らせるが、トウカの方策に行き当たる事はなかった。
トウカは「時間だ」とクレアへ……ミユキへと向き直る。
「ミユキ。そろそろ時間の様だ。行こうか」
トウカは懐から取り出した懐中時計を見やり、ミユキへと笑い掛ける。
隣に立つクレアは、トウカもこの様な笑みを浮かべる事ができるのか、と胸中の驚きを表情に出さぬように注力する必要性に迫られた。軍帽の鍔に手を這わせ、目元を隠すクレアはトウカの移動の邪魔にならぬ様に一歩下がる。
トウカは、ミユキの手を取って歩き始める。
さて、自身はどうすべきか? 続くべきか見送るべきかと思案するクレアに、トウカが言葉を投げ掛ける。
「ハイドリヒ中佐。貴官には感謝している。後はハルティカイネン大佐と相談の上で“作戦”を実行せよ。なに、問題にはならん。なにせ“国内”での作戦ではないからな」
トウカがミユキの肩を抱き寄せて無邪気に笑う。
子供の悪戯程度とトウカは考えているのかも知れないが、その思惑に思い至ったクレアは曖昧に頷くしかできない。
確かに、陸海軍と立案した作戦計画では『エルライン回廊での戦闘で航空戦力を投入せず、増強を図りつつも決戦に備える』と記されており、エルライン回廊ではない戦域を見いだして航空戦力を投じるならば作戦計画を反故にしたとはならない。
限りなく顰蹙を買う手段と論法ではあるが。
そして、その先鋒を担うクレアは、将来的に陸海軍に移籍するのは難しくなるだろう。皇州同盟軍内での栄達しか道はなく、自らの命運を眼前で狐娘と戯れている戦争屋に完全に預ける事になるのだ。
――いえ、私が他勢力に移籍できない様に巻き込んだのでしょうか?
本当にそれでいいのか?
覚悟は決めていたはずだが、憲兵である自分に軍事行動の指揮を命じるという展開に、クレアは作為的な意図を感じざるを得なかった。自分を高く買っている などと考える程、クレアは楽天的ではなく、寧ろ憲兵というヒトに猜疑の目を向ける任務に就いている為、悲観的な発想が思考の基準となっている。
リシアが関わるというのは、帝国に関係する情報を元に作戦行動が行われるという事と取れる。つまり自分は作戦失敗時に、リシアの身代わりとなって処罰されるということなのか、とクレアは悩む。だが、トウカは、そうした単純な遣り方を好まない。
そもそも、軍事行動での失敗を、トウカは失敗と思わせない様に取り繕う事ができる。
大御巫であるアリアベルの殺害に失敗したベルゲン強襲。
野放図に戦域を拡大する理由となったバルシュミーデ子爵領攻防戦。
空挺作戦の前に撤退を余儀なくされたエルゼリア侯爵領攻防戦。
凄惨な市街戦を演じたにも関わらず停戦となったシュットガルト湖畔攻防戦。
トウカは一度も戦術的勝利をしていないのだ。
ただ、大多数の者達に勝利したと錯覚させる事に長けている。副次目標を幾つも用意しておく事で、主要目標に失敗したとしても副次目標の成功を喧伝する事 により、虚構の勝利を印象付ける。そして、これからの勢力争いを考慮すれば、部下を簡単に切り捨てる姿勢を見せるのは失点となる。
自分が切り捨てられる可能性は低い。
「……確かに、作戦計画書上では問題にはなりません。ですが、憲兵である小官が航空作戦を指揮するのは問題ではないでしょうか?」
リシアは〈北方方面軍〉の情報参謀であり、皇州同盟軍隷下の重爆撃騎部隊を指揮することは指揮系統の違いから困難であったが、それは憲兵に航空作戦を指揮させる事実を肯定するものではない。
何故、自分なのか?
或いは自身が人生の、歴史の分岐点にいるのではないだろうか、とクレアはある種の錯覚を抱いた。無論、錯覚であると理解した上で、トウカの言葉を待つ。
「貴官に中佐の階級章は似合わないな。少将くらいがいいだろう」
トウカは、クレアに無造作に手を伸ばし中佐の階級章を撫でる。
大佐と准将を飛ばして三階級特進させるという意味なのか。つまり、クレアを昇進させる為にトウカは“戦果”を用意したのだ。憲兵を昇進させるという事は、皇州同盟軍の内部統制について、トウカが気に掛けているという証左である。
これから、クレアは多忙になるだろう。
頬が紅潮する様を感じながらも、クレアは直立不動で敬礼する。
「実戦で活躍した新進気鋭の憲兵少将。実に宜しい事だ。皇州同盟軍に在って、総ての不合理を押さえ付ける役目を期待して良いか?」
外連味を感じさせるトウカの問いに、クレアは静かな、それでいて熱を帯びた声音で応じる。
「御任せ下さい、閣下。一命を以て閣下の政戦の一翼を担わせていただきます」
他の兵科と比して評価され難い兵科の憲兵が、これ程に最高指揮官から配慮を受けるという事実は、冷厳とも称されたクレアの胸中に消える事なき熱を与えた。
「さぁ、咲き誇る花を踏み付けて戦空に赴くといい」
トウカは答礼すると、ミユキの腰に手を回して抱き寄せて廊下へと続く扉を開ける。
その後ろ姿に、クレアは今一度、敬礼を以て答えた。
「機関車って凄いですねっ! こんなに早いなんて」
ミユキの驚嘆の声に、トウカは苦笑を零す。
魔導機関車の発展は、皇国陸軍の苦しい台所事情から生まれた産物である。四方を仮想敵国とする堅実な国防政策を取る陸軍は、常に戦力不足に苦しんでいる事から、輸送能力の向上による戦力の短期的な集中投入によって問題の解決を図ろうとしていた。
何処かで聞いた話である。
第一次世界大戦で《仏蘭西共和国》と《帝政露西亜》に挟まれた《独逸帝国》が、時間差で両勢力を短期間での戦力の集中投入で撃破しようとした点と類似し ている。ヴィルヘルム・グレーナーの鉄道兵站の構築は異世界でも有効である事を《ヴァリスヘイム皇国》皇立鉄道は示していた。
実際、鉄道だけで兵站を賄う事ができないのは、シュリーフェンプランの失敗を見れば分かるが、皇国陸軍はそれを放置せず、鉄道の規模を大きくする事で対 応している。問題を放置した《大独逸帝国》よりも余程上等な心構えであると称賛できるが、その方向性に関しては渇いた笑声を零すしかない代物であった。
皇国陸軍の充足した編制の一個歩兵師団が一日に消費する物資は合計で約二〇〇tを越える。それが一ヶ月……この世界の暦を踏まえて三〇日と考えれば、一 個師団を一ヶ月間維持するには、約六〇〇〇tの物資が必要に迫られる。つまり、一個師団を展開するだけでも輸送能力の高い鉄道を利用する必要性に迫られ
た。これが装甲師団や機動師団となれば更に必要とする物資の数と規模は増大し、装甲兵器などの重量物の輸送には多大な困難が伴う。現に《独逸第三帝国》は、《ソヴィエト連邦》国土の縦深に酷く苦しんだ。
だからこそ、皇国は鉄道を大型化させた。
特に北部の鉄道路線は、軌条に各種車 輌、整備施設……鉄道に関わる設備の総てを異常な程に大型化させたのだ。トウカの祖国である大日連の三倍に届こうかという規模は、鉄道と評するよりも戦艦
と評する方が相応しい威容を誇っている。三階建ての客車が基本であるというだけでも十分に他国から見れば異常であろう。家屋に車輪が付いていると評した他 国の外交官もいる程で、周辺諸国の鉄道愛好家が集う姿も珍しくない。
勿論、諸悪の根源はマリアベルである。
皇国北部の鉄道のみが大袈裟な肥大化を遂げた理由は、一重に大口径列車砲を単線で運用する為である。工業都市としての側面もあるフェルゼンの運用目的に も合致した事から、タンネンベルク社主体で北部での鉄道敷設が大規模に始まったのだ。列車砲に自発装填機構を搭載し、速射性を高めるなどという無茶を要求 したマリアベルの我儘の産物である。
無論であるが、“ある程度”の大型化を考えていた陸軍によって敷設された鉄道の軌条は一・五倍にも満たないもので、都市部での敷設を考慮していた。北部では主要な鉄道輸送を大型鉄道が行い、狭隘な地形や都市部では陸軍が制定した鉄道を運用している。
北部の各貴族の領邦軍からすると、陸軍が制定した規格の鉄道は軽便鉄道に過ぎない。
駅弁をもしゃもしゃと楽しむミユキを尻目に、トウカは頭を掻く。
「北部の中央に対する対抗心の賜物か……」
あらゆる部分で中央貴族や政府に対して上を往きたいのだ。子供の背比べと言えばそれまでだが、権力者達までもが、それに取り付かれて国家全体で行うべき 効率化に目を背けている。この鉄道にしたところで、中央や他地方からエルライン要塞に鉄道輸送されてくる物資はベルゲンで“軽便鉄道”からの積み替えが行
われている。北部での鉄道工事を請け負っていたタンネンベルク社に強い影響力を持つマリアベルによる陸軍に対する嫌がらせの産物であった。
「国内ならば良いが、敵地に侵攻した場合、敵国の鉄道がそのまま転用できる訳ではない。その辺りも配慮せねばならないか」
鉄道だけで補給が充足するとは、トウカも考えていない。
鉄道では前線の要求量を満たせず、兵站でモルトケ一族が戦略規模の掣肘を加えられていたのを踏まえれば、輸送車の大量生産などにも踏み込まねばならない事は疑いない。ましてや鉄道では移動が路線上に限定される為、機動戦を行う装甲師団には十全に追随できない。
問題は山積していた。
だが、トウカが問題を認識したことから、後に兵站と輸送(戦略輸送・戦術輸送)、陸、海、空、近衛の五軍の共同戦術や指揮方法、装備の試験と実用化、訓 練などを通じて、相互運用性と統合運用能力の向上による総合戦力の強化を目指す“統合戦力軍”が一軍として編制される事になるが、それは暫し後の話であ る。
「主様、もう到着するみたいですよ?」
窓に頬を張り付けて進行方向に目を向けるミユキの尻尾が揺れる。
こうした日常も悪くない。
全てを投げ出してミユキと二人で終わりなき旅路へと考えるには、トウカは些か多くの死を見過ぎ、命じ過ぎたが、戦い続ける事で活路を見い出す腹心算であった。皇国という国家で確たる立場を得れば、誰に憚る事なく、ミユキと肩を並べて婚姻が可能となるだろう。
「ほら、口元を拭け。食べてばかりだと太るぞ?」
「わ、私は大丈夫です! 運動してるからっ!」失敬なと言わんばかりに、ミユキが尻尾を振る。
確かに夜の営みでミユキの身体を見るに無駄な肉などなく、それでいて必要なところは十分に実っており、健康的な肉体にトウカは満足していた。寝台の上で 時折垣間見える寛容性と母性をトウカは好んでいた。ミユキも確りと女であり、昼と夜で表情を使い分けている。マリアベルの様に円熟した人生を経ておらずと も女はやはり女であった。
「まぁ、夜も運動しているからな」
「も、もぅ! そんなことばっかり言って! 他の兵隊さんもいるんだから」
剥れるミユキに、トウカは肩を竦めて苦笑する。
減速し始めた軍用列車の揺れを感じつつ、トウカはエッセルハイムへと視線を向けた。
「見てください主様。大きい宮殿ですよ!」
ミユキの声に、トウカは軍事施設の如き偉容を持つ建造物へと視線を向ける。
宮殿であろうことは外観からも理解できるが、決して華美な外装をしている訳ではなく、質実剛健な有力者の建造物である事が窺える。皇国の歴史を見るに、 建国戦争での転戦や種族の存亡を賭けた闘争が続いていた為か、建造物は権威よりも実用性を重視している場合が多い。軍事前提の都市計画を推し進めていたの は北部だけではなかった。
トウカは手にした冊子に視線を落とす。
「正確には“エルザス離宮”と言う様だ。帝国の建国に合わせて国民に生じた不安を払拭する為、当時の皇王陛下がエッセルハイムでの国家指導に拘った結果、建設されたらしい。……軍事費を出さずに政務をする場所を変える事で国民を納得させようとしたのだろうな」
軍事費とは、本質的には捨て金である。
だが、それは航空電子機器などの電子技術の向上により、質が量を超越しつつある程の発展を遂げて以降の話である。
一般的な認識として軍事費は投じても利益となって回収できる見込みのない資金であり、国防上の理由から必要であるが、投じた資金以上の利益や権益を生み 出すものでは決してないのだ。米帝ですら半世紀も掛けて好意的な属国を増やし、高額兵器の重要技術を隠匿しつつ売り付けるという真似をしても投じた資金を
回収できていない。国家の近代化と兵器の技術発展は、軍事産業を弱体化させる。兵器の大威力化が最終的に人々に大多数の戦争を思い留まらせるが故に商機が 減るのだ。
だが、今ならばできる。否、トウカならばできる。
兵器の数を必要とする戦略を基本とし、安価で優秀な性能を持つカラシニコフ(AK)突撃銃系統や、同様に安価で非力な女性や子供でも装甲戦闘車輌を容易 く撃破できる携帯式対戦車兵器の対戦車擲弾発射器(RPG)系統の爆発的普及による非対称戦争が成立していない、今この時代。軍事産業は方法次第では十分 に産業足り得る。
トウカは溜息を一つ。
「軍事費をそこまでして削減しようという部分に作為を感じるな。汚らわしい」
「もぅ、主様。こんな時くらい戦争の話題からは離れてくださいよぅ」
ミユキが頬を膨らませ、トウカは苦笑する。
戦争屋に戦争を語るなとは、と口にはしてみるが、女の子といるときに配慮が足りないです、と返されては、トウカとしては返す言葉もない。マリアベルやリシアと同じ感性で接していては普通の女性に失礼である。
トウカは右手を差し出す。
「では、行きましょうか。御嬢さん」
ミユキに右手を差し出したトウカ。
ミユキは尻尾を揺らすと、周囲を見回してからその手を掴む。
気恥ずかしさから周囲を確認したのであろうが、最初に大規模避難の対象となったエッセルハイムの人口は既に十分の一程度にまで減少している。ましてや観 光地であるエルザス離宮に訪れる者など皆無であった。内戦に加え、帝国軍による侵攻と動乱の続く地域の観光地は、既に放棄された場所も少なくない。
エルザス離宮に関してはエッセルハイムの象徴的な施設であった為に維持されていたが、〈陸軍第二二歩兵師団『クリストフ・アルガイエル』〉の司令部が設置されることが決まり、司令部設備の移設の為にまばらながらも陸軍将兵の姿が見受けられる。
だが、それでもトウカの正体に気付く者はいない。
「大通りの景観が有名だそうだ。見に行こうか」
「誰もいないと独り占めできちゃいそうですねっ!?」
ミユキも露天などが閉じられているのは察しているのか、料理を楽しもうとは口にしない。
エッセルハイムの主要な大通りはエルザス離宮の正面にあり、二人の立つ位置からでもその一部が窺える。
しかし、北部で最も建造物が立ち並ぶするヴェルテンベルク領のフェルゼンで過ごしたトウカからすると、機能性に欠ける建造物ばかりである為に見るべきと ころはない。しかしながら芸術的な視点で目にした場合は、恐らくは高評価なのだろうとも思える部分がある。色彩色豊かな建造物が隙間なく整然と列を成して いる様は壮観の一言に尽きた。
「寒冷地で色合い豊かな建造物群というのは珍しいな」
砲撃の測的に利用される、とは言わない。
「シュパンダウに帰ったら塗料を取り寄せて色塗りの時間ですよ」
短期間で建設する為にヴェルテンベルク領邦軍監修の下、積層工 法で建設したシュパンダウの街並みは些か無個性な姿である為、塗装で外観が大衆受けするのであれば、トウカにも異論はない。内装は兎も角として、望むなら
ば外装は装飾でも発注し、観光都市として売り出したとしても、トウカは構わないと考えていた。無論、戦況が落ち着いて以降の話であるが。
ミユキは頻りに感心しているのか、懐から取り出した手帳に何やら書き込んでいる。覗き込めない訳ではないが、トウカにはその勇気がなかった。ロンメル子 爵領はミユキの手帳通りに動いていると言っても過言ではなく、遠洋漁業や干物生産に精を出す領民の方向性は一重に、今眼前でミユキが手にしている手帳から 出てきた案だった。
トウカは曖昧な笑みをそのままに、ミユキを抱き寄せる。
無人と見紛うばかりの麗しき大通りで、好いた女を抱き寄せるというのは、吟遊詩人や文豪からすると一瞬の幻想かも知れない。
自身が、この近代では限りなく困難な現実を創り出していると思うと、自身の権勢が万能であるのではないかと錯覚してしまう。
宜しくない事である。
しかし、愛した女が望む現実をこの手で作り出すという現実は酷く甘美なものである。廃滅しつつある国家の中での奇蹟であっても例外ではない。
「戦争が終わればシュパンダウにも産業を誘致しよう。経済が回り出した時、その恩恵を受けられる様に人の流れを作らねば」
「海産物を満喫できる観光都市にしちゃいましょう。経済封鎖が終わったから、観光も活発になるはず……経済の話からも離れてくださいよぅ!」
再び剥むくれるミユキに、トウカは、ふむ、と思案する。
一般市井の恋愛観というものを知り得ないトウカからすると、そうしたミユキの願いを聞き届けるのは限りなく難事であった。マリアベルとの逢瀬でも軍事や政治に言及する事が多く、一般的なものとは掛け離れていた事はトウカにも察することができる。
――さて、どうしたものか……
仕方ない、とトウカは大通りから逸れた小道に覗く色彩色豊かな宿に視線を向ける。全ての建造物が麗しい景観を演出する為に塗装されている事もあり看板で判断するしかないが、宿であるのは辛うじて見て取れる。
「なら、あそこで休憩するか?」
閉店している屋台や料理店、宿、装飾品店などは、当然ながら大半が扉を閉ざしており、選択肢は元より限られている。
「つ、連れ込み宿なんて下品です! 主様の変態ッ!」
ばしっ、と尻尾で背中を殴打されたトウカは、めげずにミユキの腰に手を伸ばして抱き寄せる。
「……我儘だな、ミユキは」
連れ込み宿とは知らなかったトウカであるが、知らなかったと弁解しても喪ったものは取り戻せない。ここは戦術的転換を以て現状を打開すべき時である。
「なら、あの高台にでも行こう。景観で有名ならば壮観な光景を見る事が叶うはずだ」
「それで我慢してあげます……」
未だに不満そうなミユキであるが、渋々とトウカの言葉に頷く。揺れている尻尾を見るに満更でもないことは経験上から察することができる。
ミユキの手を握り、トウカは高台の覗く山間へと歩を進めた。
「すごく綺麗ですね! やっぱり都市建設の時から計画していたのかなぁ」
ミユキは、手摺を掴んでエッセルハイムの市街地を見下ろす。
統一された景観は中都市とは言え、一朝一夕で完成したものではないはずである。小都市と言うのも烏滸がましい程に細やかな規模のシュパンダウですら、空襲の被害によって都市計画を推進し易くなっているにも関わらず一五年は掛かるとされている。
多くの作業員や工員、工兵などの技術者が帝国の侵攻に合わせて軍需産業に従事しており、国内全体で兵器の増産体制が進みつつあった。帝国軍侵攻の予兆は 半年近く前から確認されていた為、以前よりそうした動きは生じている。その代償として、土木作業の為の人数を集めるのは困難となりつつある。
ミユキは隣に立つトウカを盗み見る。
何時も通りのトウカだが、ミユキの前で見せる表情ではない。
無論、皮肉と嘲笑に歪んだ戦争屋の表情でもなく、それは紛れもなくトウカ個人の本質的な感情。
語彙の少ないミユキには表現しかねるトウカの表情……雰囲気は一体どの様な意味を持つのか。ミユキの疑問に気付くことはなく、今まで目にした事のない表情で、トウカは複雑な色合いに満ちた街を見下ろしている。
愧じているのか。或いは後悔しているのか。
ミユキには分からない。
だから手を伸ばす。何処かへ消えてしまわない様に。
右手を握られたトウカは、眉を揺らして驚きの感情を一瞬だけ浮かび上がらせるが、それでも尚、ミユキに言葉を投げ掛けなかった。何時も通りの曖昧な笑みでミユキに語り掛ける真似もしない。
ただ、左手で頭を掻いたトウカは、ぽつりと呟く。
「組織を統率するという事が、これ程に困難だとは」
偽りなき本心。
トウカは戦略家として名を馳せているが、それはトウカ自身にとって望まぬ事なのかも知れない。無論、知将と某将の要素を併せ持つトウカは、そこの気質までもが戦略家として最適のものだとベルセリカは口にしていた。
だが、当人はそれを素直に受け入れられないのではないのか?
トウカは自身の感情を隠す術に長けている。無論、長命種の中には見抜く者もいるかも知れないが、トウカは幾つかの感情を出す事で隠すべき感情を上手く隠蔽しているのかも知れないと、ミユキは最近になり考えるようになった。
理性的であるはずのトウカが、皇州同盟の盟主になって以降は感情的な発言を繰り返すようになったからである。
見栄えの良い事実を飾り立て、極端な美麗字句で大衆を沸かせる姿は勇ましくもあり誇らしくもあった。結局、トウカの持ち得る先天的資質は、後天的要素を優越するのだ。
何時の日か、こんな日が来ると、ミユキは確信していた。
詰まるところ、ミユキが真実を隠蔽しても皇国という国家がトウカを求めている現実は止まない。
「辛かったら裏方に徹しても良いと思います。主様が後ろ盾なら誰だって活躍できちゃいますよ?」
ベルセリカに北方方面軍司令官と皇州同盟軍司令官を兼務させればいいと、ミユキは考えていた。少なくとも政略と戦略方針はトウカが決め、それ以外はベル セリカと北方方面軍と皇州同盟軍の参謀が連携して当たれば良い。北部統合軍自体が北方方面軍と皇州同盟軍に分割された形になったので、統合を行えば北方方 面軍に所属した陸軍部隊を含めると勢力は内戦時よりも向上する。
それは、ミユキにでも分かる計算。
勿論、トウカが統合を考えないはずがない。
最近のミユキは、貴族になった為にそうした部分にも気を払う様になっているからこそ、政治的配慮なのだろうと見当が付いた。無論、段階的に配慮を止めていくトウカを間近で見続けているミユキは確信してもいたが。
トウカは疲れた笑みで首を横に振る。
「俺は郷土防衛の名目で大勢に死を命じた。彼らがそれを望んだ一面もあるが、自身の命令で散った者達の意志から目を逸せる程、俺は“強くない”心算だ」
軍人は自らの命令で死した者、或いは隣で散った戦友の意志を受け継ぎ戦い続ければならない。リシアはそう口にして、ロンメル領邦軍司令官への就任を求めたミユキを嘲笑と共に一蹴した。
不器用なのだ。或いは、自らの行動に自己満足という名の正当性を求め続けているのか。
トウカが自らの指揮の下で散って行った将兵の為、その死に意味を与えようとしている。それが更なる屍山血河を築き上げると知りつつも、トウカは止まらない。
「それに……御前を護りたい、そう想った。手放せない。御前を形成する総てを護る為に」
権力を、と続けるトウカに、ミユキは小さく頷く。
総ては自身の為に成されているのだと考えると、正常な判断と意識など叶うはずもない。
全ての権力を皇州同盟に。
トウカは大多数の前で、そう嘯いた。
個人を護る為に国家の総てを求めようとする姿勢を好いた男が取るという誘惑に、ミユキは抗えない。女として雌として、男が、雄が万難を排して自らを護ろうという意志を見せる姿に抗えるはずもない。
――御前、かぁ……私をそう呼んでくれるんだ。
時折、そう呼ばれるミユキは、その呼び方を密かに好んでいた。ぞんざいでいて、在るが儘の呼び方は、己がトウカの雌であると強く思い知らせている様で、ミユキには堪らないものがある。
だが、トウカがそう呼ぶ事は少ない。トウカにとり、それが恋の形なのだろう。
だが、ミユキとしては気安く接されているリシアを見て羨むのを止められないのもまた事実であった。気安い言葉ではないという事実は、身構えられていると も受け取れる。それでは本当に言いたい事を言えず、ミユキは遠慮されている様で悲しくあった。現にロンメル子爵家の料理が海産物を使用したものに酷く偏っ ている事も、ミユキに直接伝える真似をせず妥協している。
それが酷く悲しい。
「御前。御前……おまえ……」
幾度か口にする。良い響きである。トウカの真似をするならば、真に宜しい、である。
なんだろう。何と言えばいいのか。
雄の雌であるという充足感に包まれるとでも表現すべきか。
好いた男が自身を荒々しく抱き寄せる様な口調とでも例えるべきか。
不器用な言葉を口にしながらも実は凄く悩んだ末の考えとでも言うべきか。
そうした酷く不恰好でいて、精一杯な態度は嫌いではない。
否、寧ろ好ましい。
自身を好いていてくれるのだと心底想えるのだ。
ばたばたと尻尾が揺れる。
仕方がない。女の子なのだから。
だが、トウカはそれを不快に感じていると受け取ったのか、眦を下げて困り顔。
「失礼、恋人に向ける言葉ではないな」トウカは頭を掻く。
本来、人称代名詞としては尊敬の意を表す“御前”という言葉であるが、近世後期以降……現在は自身と対等、或いは下位の者に対して用いる人称代名詞となっている。世間一般では、確かに恋人に向けるものとしては不適格とされる言葉かも知れない。
ミユキは、小さくなったトウカに頬を緩める。
「御前でいいですよ? ううん、御前がいいの」
そうだ、”御前”でなくてはならない。
大切に扱われているのは理解できるが、同時に一線を引かれている様な気がしたミユキは、この際に全てを解決しようと思い立つ。
「恋人に遠慮なんておかしいです。私には遠慮も配慮も止めて欲しい。私は主様に甘えるだけの安い女じゃないから……マリア様の代わりになれるか分からないけど……私、頑張るから」
自分では物足りない部分があったからこそ、トウカはマリアベルにそうした要素を求めたのだと、ミユキは信じて疑わない。
彼女は、マリアベルとトウカの関係を今となっては裏切りだとは考えていない。
寧ろ、近しい女性の願いを叶えたトウカを、ミユキは評価していた。内心は複雑であれども、捨て置く真似をしなかったトウカの行動に、ミユキは彼の優しさを見い出した。
マリアベル亡き今、トウカがマリアベルに求めた部分を誰に求めるかという点を気にしている者は少なくない。各領邦軍から推薦されて皇州同盟軍に参加した 高級将校に、マリアベルの面影や妖艶な佇まいを見たミユキはそう判断していた。既に誰しもがトウカとマリアベルの関係を知り得ている。最早、トウカの隣に 立つという行為でさえ一種の政治であり権力闘争と言える。
だからこそ、ミユキは負けられない。
リシアもベルセリカもマイカゼも……普段は佳き同胞にして盟友、血縁者であっても誰もがこの点に於いては脅威なのだ。
「さぁ! お・ま・え、です! お・ま・え!」
ミユキはトウカの両手を取り、ぶんぶんと上下に振る。
トウカは困り顔であるが、暫くすると観念したのか渇いた笑声を零す。どの様な心境かは判断が付かないが、少なくとも落ち込んでいた雰囲気は既に見受けられない。
「…………おまえ」
「あなた」
ミユキは尻尾を揺らす。
恋人達は不器用で、それでいて健気だった。
全ての権力を皇州同盟へ。全ての権力をソヴィエトへと嘯いたレーニンに同じ。大衆的英雄精神の発露である。邪魔する奴は公式記録からも抹殺するのだ。十月革命のペトログラードの写真のように。