第一六八話 憲兵と任侠者の空
「進路このまま。編隊崩すんじゃねぇぞ!」
ノナカの巻き舌気味の命令に、任侠者の様な仕草と声音で返す〈第七二一戦術爆撃航空団(TKG 721)〉の飛行兵達。中には腹部に晒を 巻き、白鞘を佩用している者もいる。飛行兵は、戦闘中に引っ掛かりや鞘走りを考慮して刀剣の装備は一様に禁止されており、銃剣などが主体であるものの、 〈第七二一戦術爆撃航空団(TKG 721)〉の一同は、規定など知ったことではないと言わんばかりに堂々と佩用していた。
――そもそも、白鞘は戦闘用ではないのですが……
一応、柄に包帯を巻いている様であるが、クレアとしては趣味と浪漫を前面に出す彼らに疑問を覚えた。
白鞘は“休め鞘”の別名を持ち、刀の保存用の鞘で、通常はこれに収めて置く。材料は朴の木で、これは松や杉とは対照的に脂も少なく、加工もし易く刀の保管には最適であるからであった。樹木は植物であることから経年劣化により伸縮するので、何十年も乾燥させたものを使用し、近年の皇国では曲剣や大剣用の白鞘も存在する。
元より、白鞘は左右に分離した木材を米粒で接着したものに過ぎない。軍人の蛮用に適するものではなかった。元来は保管用である。
浪漫で命を懸ける真似をしかねないと、クレアには見えた。武装に趣味や浪漫なる要素を持ち込む者は己の生き様にも、そうした要素を持ち込む。
「…………無事、生還したいものですね」
トウカが信頼を寄せる部隊である以上、それ相応の練度を有しているはずであり、新機軸の装備や戦闘教義の塊である事からも優秀だとは思える。
しかし、当人達は任侠を拗らせた軍人崩れにしか見えない。
――いえ、何よりノナカ中佐と、この面々を何処かで見た気がするのですが……
思い出せないクレアは、左からに垂れる纏めた髪を口元で弄る。思考時の癖であった。
クレアは憲兵隊長としてフェルゼンで、ノナカの様な身形の 宜しくない無頼漢共を相手に熾烈な市街戦を展開した事は一度や二度ではない。情報部の紐付きではない非合法組織など、機関銃と砲撃型魔術で吹き飛ばす事な ど日常茶飯事である。重機関銃や迫撃砲まで装備した憲兵というのは大陸を見渡してもそう居るものではない。多くの利益が複雑に絡み合うヴェルテンベルク領 は、非合法組織からすると危険を冒してでも勢力下に加えたいのだろう。
勿論、皆殺しである。
それが、今は亡き廃嫡の龍姫の希望であった。
ヴェルテンベルク伯爵位がマイカゼへと継承されてからは、炭鉱での監視付き肉体労働に変更となったが、その末路を考えれば然したる違いはない。
「いや、しかしあの鬼の憲兵殿と空の旅をするなんて世の中は分からんものだぜ。なぁ、野郎共」
「俺なんて、憲兵に素手で(ヤッパ)を折られちまったしな」
「それなら俺だって素手喧嘩で両手を圧し折られたぜ」
やはり彼らとは面識があるのだろう。
正直なところ、クレアからすると治安維持活動という名の害虫駆除は定例業務であった為、相手の顔など一々覚えてはいない。右手を振り下ろせば、金切り声 を上げる機関銃に相手が穴だらけとなって斃れるだけである。そして、その遺体は二日ほど現場に放置して領民の潜在的な不満を押さえ付ける事に利用した。領 主への反抗の結果を明確な形で突き付ければ、これ以上ない程に鞭となる。飴はマリアベル主導の経済的発展そのもので、憲兵隊は憎悪と敵意と隔意を集める鞭 なのだ。
だが、鞭を振るうことは義務であり、それ以上ではない。
だからこそ、クレアは知らない。
そして、そんなクレアの心中をノナカは察していた。
「そいつはぁ、記憶にないって顔ですかい? 歳の割にゃぁ中々の無表情ですなぁ」
副操縦士に席を任せ、無精髭を擦りながら現れたノナカの言葉に、クレアは小さく溜息を零す。
「失礼ですが、私は貴官と以前に面識があったのでしょうか? やはり鉄火場で?」
鉄火場とは非合法組織が抗争の場を指す際の隠語である。
如何なる場面であっても殺し過ぎるという風評を持つ憲兵隊指揮官からすると、死者の顔など記憶に留めておくという偽善になんら意味を見い出せない。その行為の是非と善悪を問うのは方針を示したマリアベルであり、彼女はそれを麗しき狂気と共に肯定した。
クレアは、今一度、自席からノナカの顔を見上げるが、やはり記憶はない。
「まぁ、俺らは直ぐに尻尾巻いて逃げたもんでなぁ。顔なんぞ覚えてなくとも仕方ねぇ。ほら、あれだ、二年前の港湾施設でのでかい抗争だ。あの時、あんたに斬り掛かって逃げたのが俺だ」
ノナカは両手で何かを握る仕草をすると、上段に構えて振り下ろす。
その姿に、在りし日の任侠者を思い出す。
あの土砂降りの中、非合法組織の二つと憲兵隊とが三つ巴となって争った阿鼻叫喚の地獄絵図。まさか神州国から商船で増援を送ってくるなど想定もしていな かったもう一方の非合法組織と憲兵隊は戦力を逐次投入せざるを得なくなった。市街戦を避ける為、港湾区画に釘受けにする必要があり、憲兵隊は軍事的愚策で ある戦力の逐次投入を決断した。
その中でクレアは彼と遭遇した。
刀傷の刻まれた顔に無精髭、土砂降りの中でも爛々と輝く紅瞳。青い色無地の上を腰帯まで捲り下げ、腹に撒いた晒には自動拳銃が差し込まれている姿はまさに任侠者。まさか皇国に於ける近代都市の代表格たるフェルゼンで時代錯誤の無頼漢を相対するとは思わず、虚を突かれたクレアは後れを取った。
物陰から手下と共に刀を手に吶喊してくる彼らは既に至近。
近接戦闘になるのは当然の流れ……であるはずだった。
しかし、彼らは一太刀浴びせた後、土砂降りの雨の中を走り去った。見事なまでの一撃離脱である。
クレアはその後、憲兵隊指揮官でもあった自身が襲撃を受け、混乱する憲兵隊を市街地へ混乱が飛び火する事を怖れて港湾施設を包囲しつつ後退。
近年で憲兵隊が唯一、黒星を付けた鎮圧活動であった。
思い出した。そう、彼は……ノナカはあの時の任侠者である。
思わぬ奇縁にクレアは笑みを零す。
諸々の罪は従軍によって有耶無耶にされた事は疑いない。気に入った相手であれば、マリアベルはそうした苦労を惜しまない。爪弾き者同士波長が合ったのか。そして、短期間で飛行兵となった彼らの努力と実力はかなりのものがあると推察できる。
「そう言えば、部下から幾つもの居酒屋で暴れ回る神州国系の飛行兵達がいると……」
「おう、それはうちの手下どもだな。元気だろう? はっはっは!」
軍人が治安を乱してどうするのか。
――まぁ、店の中位種に叩き出されることも多いと聞いていますから……
放置するに限る。
この時、クレアはこの奇縁が後々にまで続いて行くことになろうとは考えても見なかった。
クレアは、気が滅入ると話題を変える。
「ところで飛行は順調なのでしょうか? 夜の帷を利用するとは聞こえは良いですが厳密な方位を算出できるのですか?」
最近、渡洋爆撃戦略の体系化を意図して技術蓄積を続けている海軍航空隊の資料を見た限り、先導騎のない小型騎のみで攻撃隊を編制して出撃した場合、長距 離飛行であればある程に目的地への方角と差異が生じるという欠点がある。高精度の航空計器……方位磁針や定針儀などを搭載できないからであった。トウカの 提案した慣性計測装置(IMU)やそれを搭載した長距離航法装置(IRS)などは、未だ開発の目処すら立っておらず、海軍は従来通りの方法に頼った航法の 効率化を模索している。
ノナカはどの様な手段で方位を算出しているのか、クレアは大いに興味を惹かれた。
「まぁ、これだけ星が出てりゃぁ、天測で何とでも。こう見えても、うちの連中は船乗りの経験もある。星を見りゃ正確な方位はいちころよぅ」呵々大笑のノナカ。
精密性に欠ける手段にクレアは不安となるが、トウカの提案するところの灯火管制や探照灯、近接信管を装備した対空火器による弾幕射撃のいずれも有していない帝国の空は遮るものはなく、市町村から零れ出る明かりは位置把握に大きな役割を果たす事になる。
クレアは、一応は精鋭である以上、問題はないはずと納得し、この一連の戦略爆撃に対するトウカの思惑へと思考を裂く。
推察は難しい。
彼は純軍事的な視野だけでなく、政治とも連動した軍事行動を行う事が少なくない上に、至極個人的な感情を始末に負えない程に正当化して戦野に望む例もあ る。彼は自己の行動を正当化する術に長けているが、その裏を覗いてみれば、極めて不安定でいて刹那的な対応をしている例も少なくない。無論、事後に辻褄を 合わせる以上、理想主義の政治屋よりは余程に上等であるが。
皇州同盟軍情報部からクレアに与えられた情報はかなりの量となっている。
本来であればトウカの直卒に近い立場を持つ皇州同盟軍情報部であるが、トウカ自身がクレアに便宜を図ることを命令している事に加え、皇州同盟軍憲兵隊の重要人物であるクレアとの連携を意図して好意的な姿勢を見せている。クレアとしても望むところであり、そもそも皇州同盟軍情報部自体がヴェルテンベルク領邦軍情報部を前身としていることから勝手知ったる仲と言えた。
「おうおう、嬢ちゃんは、こんな胡散臭い文章を読めるのかいなぁ」
勝手にクレアの書類を手に取り、流し読みするノナカ。
機密書類ではないが、女性の扱いを絶望的なまでに理解していないノナカに、クレアは溜息を一つ。無論、軍事組織の中で性別に配慮するなどお笑い草であり、そうしたことを指摘する心算はない。
「なんでぃ、あんの戦争屋の為人? 行動原理? 思想? 狐? 個人のことばかり……あれか。あの狐を追い落として――」
「それ以上は止めていただけますか、ノナカ中佐。私は優秀な航空部隊指揮官に不慮の事故で死亡していただきたくはありませんので」
腰の拳銃嚢に収まったP98自動拳銃の銃把に手を添える。
もし、ミユキの耳にそうした言動が入れば、昇進が遅れるどころか僻地への移動すらあり得る。少なくとも皇州同盟軍の主流派ではなくなる。狐の聴覚は侮れない事を、クレアは憲兵という兵科上、良く理解していた。物理的にも比喩的にも。
肩を竦めるノナカ。
クレアに、トウカにそうした感情を抱いていない。
だが、知りたいだけなのだ。深く、深く……彼が何を成し、何処へ行こうというのかを推察するのだ。
「まぁ、乙女の心情の機微なんぞ別として、あれはそう難しい男じゃぁないんだがなぁ」心底と怪訝な表情をするノナカ。
彼にとってトウカという人物は、般的な印象通りの人物なのだろう。優秀な指揮官にして軍国主義者。高位種の女性を次々と籠絡して政治的立場を強化する英雄。破天荒にして神代の英傑の様な行動は人々を惹き付ける。
ノナカもそう考えているのだろう。
「おぅおぅ、胡散臭い顔してるな、嬢ちゃんも……だがな、あんたの考えとはちいっとばかし違うんだよぅ」
ノナカは煙草を咥えると、皮肉げな笑みを湛えて呟く。
サクラギ・トウカの行動原理は、彼にとり酷く納得できるものなのだろう。その表情には賛同と同情の色が窺えた。神州国の無頼漢と皇国の軍神の共通点を見 い出せず、クレアは困惑と共に思考を巡らせる際の癖……纏めた髪の毛先を弄ぶ所作を見せながら、ノナカに鋭利な視線で言葉の続きを促す。
しかし、返ってきた言葉は、クレアの思考の遙か外にあるものであった。
「あの戦争屋の行動原理は単純だ。……護りてぇんだよ」
護る。
それは国か、ヒトか、意志か、矜持か……酷く漠然とした物言いである。
クレアは一泊の間を置いて応じる。
「先代ヴェルテンベルク伯の意志、いえ、ロンメル子爵でしょうか?」
それは一般に流布している回答と言える。
サクラギ・トウカを語る上で二人を外す真似はできない。
マリアベルは彼を寵愛し、自らの持ち得る権力と軍事力、政治力を成すが儘に与えた。対照的にミユキは表面的な部分ではマリアベルに劣るものの、トウカの精神面に多大な影響を齎し得る人物である事から子爵という階級以上に重視されている。
ノナカはクレアの言葉に胡散臭い顔をする。本当に理解しているのか?と言わんばかりの表情である。
「それは知らん。ただ、護りたいという意思はなぁ、時として暴走するんだよ。俺も神州国では組の看板を背負ってたもんでな。対象は兎も角として、護る為に無理をする男は見りゃ分かる」
無頼漢ではなく、極道者であったと当然の様に吐露するノナカの言葉に、クレアは小さく頷くに留める。自身の過去を言ってのけたノナカの言葉は聞かなかった事にする。後に話題を総浚いにするかも知れない皇州同盟軍の軍人が元極道者では些か風評が宜しくない。
――極道者……己が生命よりも仁義を通す武侠に生きる者達ですか。
神州国の気風を体現した生き様であり、その生き様は世界中に知られている。無論、風聞や物語による影響もあるが、その生き様は今尚、現実にして事実であった。
「あれは普通とは違う視点を持ってるがな、その本質は変わりねぇよ。必死なんだよ。マリアのお嬢を喪って、その上、他種族を許容できない帝国の襲来は、ミユキの嬢ちゃんの生命の危機に直結すんだ。あれは戦うだろうよ。総てを利用し、総てを巻き込んでなぁ」
独語するかの様なノナカに、クレアは無言を貫く。
確かに、最近のトウカの急進的姿勢を裏打ちする要素として、マリアベルの死は納得できるものがある、そして、帝国に対する抗戦の姿勢を露わにするのは、 ミユキの生存の可能性を保障する為と考えれば辻褄が合う。誰もがマリアベルの死によって、トウカが野心を剥き出しにしたと考えているが、実際は護る為に咆 哮しているだけに過ぎないのかも知れない。
男は護るべき女の為に咆える生物である。
クレアは母親に、そう教えられて育てられた。
そして、男達に護られるに値する女になれと、常々、言われてきた。無論、憲兵隊指揮官として、クレアは多くを護る側に立ち、護られる程に軟な女ではない。護れるものならば護って魅せませい、という気概を持って軍務に当たる事こそがクレアにとっての誇りであり矜持なのだ。
「……貴方もそうだったのですか?」
護る為に全てを捧げ、総てを敵に回すという挺身。
そして、それを成してまでも護られるミユキに、クレアは同じ女性として嫉妬の念を抱いていた。
彼女にそれ程の価値があるのか?という疑念は何もクレアだけのものではなく、皇国の権力者の間では度々、話題に上がるものであった。蟄居し たマリアベルは致し方ないとしても、権力や名声と寄り沿うならば、ベルセリカとの政略結婚やアリアベルとの婚約を視野に入れてもいいのではないかという意 見は数多い。突飛な意見の中には、神州国の有力華族の令嬢に輿入れして貰う事による関係強化を目論むというものまである。
無論、婚約者という立場が現時点で埋まっているのは好ましくない。
「いえ、詮無い事を聞きました。私の使命は閣下の在り方に左右されるものではありません。……そうであってはならないのです」
「いかんなぁ、最近の若者は。誰も彼もが本心を隠して言葉を重ねやがる」
心底、呆れたと言わんばかりのノナカは、無精髭を撫でながら盛大な溜息を吐く。
重爆撃騎下部に装備された装甲籠の中は薄暗く、灯火によって存在が露呈しない様に蛍光塗料によって示された各種機器の数値や指針のみが薄くノナカの横顔を照らしている。
暗闇に浮かぶ無精髭の武侠者の表情。硬派精神を体現した佇まいを其の儘にクレアの隣席へと腰を下ろす。
「いいか? 嬢ちゃん。強い男ってのは大抵が何かしらの為に総てを擲つ覚悟をしてるんだよ。それが雌の為か、国の為か思想の為か……物好きな奴なら仁義の為。色々あるが、腹を決めた雄ってのはな、時には信じられねぇ活躍をする事がある」
それが、トウカによる北部での内戦であったと語るノナカ。
正直なところ、クレアには理解しかねる範疇に話題である。
女一人の為に権力者の性能が著しく増減するなど認められない事である。
特に不確定要素の排除に腐心するトウカの立脚点が、不確定要素であるなど笑えない。しかしながら、合理性に欠けるミユキという伴侶の選択は、ノナカの言葉を後押しし得る要素と言えなくもなかった。
険の滲むクレアの容貌に、ノナカは笑声混じりの言葉を投げ掛ける。
「まぁ、あんたも雄に総てを擲つことが当然と思わせる様な良い雌になりな」
生き様や心構えに近い意見だが、クレアよりも多く歳を重ねたノナカの言葉には、男が狂おしいまでに求める女の在り方が垣間見えた。大多数の者達からすれ ば酷く偏った意見と捉えられるであろうそれは、軍人や任侠者、武辺者などの生命を削り合う生業とする男共にとっての理想なのかも知れない。
彼らは縋る対象が欲しいのだろう。
賢くも可憐であり、麗しくも凛冽であり、気高くも儚いという矛盾を併存させた象徴を求めているのだ。
縋られるのを許容するか迷惑と感じるかは女性次第であろうが、クレアもまた一人の軍人として彼らの心情を理解できた。生命の遣り取りは精神を疲弊させる が故に、正当性や正気を形あるものに体現させようと縋るべき対象を見い出そうとする。それが指揮官であり主君であり、マリアベルなどは隷下の将兵にとって 正しくそうした対象であった。
トウカにとってミユキとは縋るべき象徴なのかも知れない。
「それが、良い雌ってもんだ」ノナカはそう締めくくる。
細巻に火を付けようとしたノナカの手から細巻を叩き落としつつ、クレアは窓越しに星天を見上げる。
雲上を飛行する航空騎からの星空の眺めは壮観の一言に尽きるが、星々の輝きが自らを燃焼させる消費行動の一環であると知り、そして何よりも今この瞬間に光を届けている星は既に燃え尽きているかも知れないとまで解明された。
恐らくは、年若い女と言うのはこうした悲観的な考え方をしないのだろうと、クレアは思考を弄ぶ。脳裏に浮かんだリシアが、天象儀に引き摺り込めばいいのよ、と宣っている気すらした。
「儘ならないものですね、憲兵とは」
他兵科よりも戦火に乏しく軽視される傾向にあるが、扱う軍務内容は酷く繊細でいて政戦を揺るがし得る例も少なくない。そこに光を当てたのがマリアベルであり、トウカは一層と憲兵を活用しようとしている。
――私は彼にどう接したらいいのでしょうか?
憲兵とは腐敗を正す者であると同時に、政敵を排除する役目を負っている。通常は前者のみが任務であるが、ヴェルテンベルク領では後者も担っていた。それをマリアベルが求めたからであり、トウカもまた間違いなくそれを求めている。
政治闘争に於いての認識の齟齬は破滅を招くからこそ、クレアという憲兵は権力者に寄り沿う形で任務を行う。
――私は彼の心と思惑に何処まで踏み込めばいいのか。
ヒトの心の機微など、クレアの得意とする分野ではない。憲兵は弾圧者にして統制を司る者。人心を操り、他者を籠絡する情報部員とは本質的に違う。
「なんなら、おじさんで良い雌のなんたるかを実践して見ねぇか?」
「あ、いえ、無理です申し訳ありません無精髭剃って下さい」
二人の遣り取りに、航空兵達が失笑を零す。
そんな中、〈第七二一戦術爆撃航空団(TKG 721)〉は迂回飛行を終え、目的地へと騎首を巡らせた。
「おやっさん! これは何処に……」
《スヴァルーシ統一帝国》陸軍、〈第三四六予備砲兵聯隊〉所属のバザロフ二等兵は、両手一杯に木箱を持ち、聯隊付輜重中隊の曹長へと問い掛ける。脆弱な輜重部隊が常の帝国軍に在って〈第三四六予備砲兵聯隊〉は、眼前の鬼曹長の手腕によって酷く珍しい例外となっていた。
「そこ置いとけ! しかし、まだまだ弾火薬が足りんな」
「もう一度、行きますか?」
無論、強固な紐帯を見せる戦友一同による野盗団に扮した“友軍”輜重部隊に対する襲撃である。これは、輜重部隊も合意の上の演出であり、輸送中の物資を 襲撃で紛失したとして折半し、双方が懐に収めるのだ。無論、盗賊団の退治を怠ったと憲兵隊を非難する事で責任を逸らす点も忘れない。
当然、これは私腹を肥やす為ではなく、部隊の生還率を向上させる為である。輜重部隊も懐に収めた物資を他の部隊に非合法で供給しており、所属している〈第一三二師団〉の生存率を少しでも向上させようと危ない橋を渡り続けていた。
国家が師団を維持するべく最善を尽くさないというのであれば、師団が自ら最善を模索せねばならない。
「馬鹿者、何度もしては気取られかねん」
「そう言えば、憲兵隊が野盗団を討伐する為に出撃したそうです。ここが引き際かも知れません」
実在する野盗団に輜重部隊の偽情報を流して釣り上げ、憲兵隊に始末させる事で事態を収束させるという演出まで行っている以上、そう簡単に事が露呈するはずもない。部隊内の政治秘密警察の構成員を割り出して……疑わしい者は手当たり次第に宴席に引き摺り込んで行動不能にするという手間もあるが、手段を選んでいられる段階ではなかった。
帝国建国以来の大攻勢。
そう表現すると聞こえは良いが、その内情は無理な動員による瞬間的な面制圧でしかなかった。
しかし、エルライン要塞が想像以上に頑強である為に被害が蓄積しつつある。
否、恐らく総司令部は被害を想定内だと考えているはずであった。
兵力が減少すれば糧秣の消耗を避ける事ができる。現在、エルライン要塞攻略に投入されている部隊の内情を見ればそれはよく理解できる。使い捨てにしても 惜しくない少数民族を主体とした部隊や懲罰部隊などを主体としている事から、全滅を前提とした相手の消耗を誘う為の戦力として見られているのは間違いな い。督戦隊の規模を踏まえれば、彼らは狭隘なエルライン回廊で前後を挟まれて敵軍の銃弾か友軍の銃弾で戦死するしかない。
帝国政府や軍としても、反政府的な勢力を擦り減らす事ができると判断しているのは確実である。演習での死者を顧みない姿勢を見れば嫌でも理解できようというもの。
死神の鎌から逃れる可能性を僅かでも上げるには、一欠片でも多くの物資を備蓄せねばならない。敵を退ける為の砲弾を、腹を満たす為の糧秣を、生命を繋ぐ為の医薬品を……友軍を犠牲にしても手にせねばならない。
〈第一三二師団〉は話の分かる師団長の下、そうして生き延びてきた。
二人は倉庫での“戦利品”の整理を終え、汗を拭きながら外へと足を踏み出す。
比較的温暖とされる帝国南西部だが、それでも尚、冬となれば肌寒いでは済まない。しかしながら、軍事施設内に関しては移動式軍用魔導炉心から供給される 魔力を利用した気温制御術式によって比較的心地良い温度に保たれている。無論、時折、停止するのは帝国では珍しい事ではないので気に留めるものはいない。
バザロフは聯隊付の輜重中隊の曹長……通称“おやっさん”へと笑い掛ける。
「今日の晩飯はなんでしょうかね? 残しておいてくれるって聞いてますけど」
「シチューだろうな。輜重中隊総出の獣狩りの成果だ。肉も随分と入っているだろうよ」
おやっさんは、仕方ない野郎だ、と苦笑しつつも言葉を返してくれる。
怒れば怖いが、不平を言いつつも言葉を返してくれる上、危機に際しては泰然自若のままに年若く頼りない上官の襟首を掴んで正気に戻させてくれる。これ以上ない程に頼り甲斐のある上官である。
ぽつぽつとすれ違う兵士に適当な挨拶をしつつ、食堂を目指す。
勝手知ったる自部隊の駐屯地で敬礼と答礼の遣り取り等は行われず、師団長や聯隊長ですらも敬礼を受けると答礼せずに手をひらひらと振って面倒な事はする なと指図するだけである。極めて家庭的な部隊と言えるが、それは殆どの将兵が同じ地域から招集された師団である事も影響している。帝国という広大な、子午 線を幾つも跨ぐ領土を有する国家にとって、言語や認識の差異というのは軍事行動に於いて無視し得ない程に多様性がある。
それを防止する為、帝国陸海軍は同一地域から集中的に将兵を徴兵する事で編制を行っていた。無論、分断して統治せよという方針を堅持し続けている事か ら、民族性溢れる編制による部隊内での不和による指揮統制の低下と混乱を避ける為の苦肉の策とも言える。無論、叛乱を行った特定の民族に対しての懲罰行動 に運用し易くする為という理由も少なくない。
叛乱に於いて主力となる二〇代の若者達の多くを徴兵し、他地方へ再配置する事で少数民族の共同体から切り離す。それが帝国の国策であった。
そんなことを知らないバザロフは、同じ民族ばかりの部隊に配属されて幸運だったと満足している。この帝国という強権国家に在って、信頼に値する同胞というのは何よりも得難い存在であった。同じ民族であり、周囲が他民族ばかりであるが故に彼らは強固な団結と結束を見せる。
「そう言えば、エルライン要塞の火力に陰りが見えているそうですよ? 若しかすると今回は落とせるかもしれませんね」
バザロフからするとエルライン要塞というのは難攻不落の戦略拠点である。大小何十と行われた攻略戦の総てを跳ね返し、子守唄では帝国主義者の墓場であるとも歌われていた。陥落するところを想像するのは難しい。
「あれは正気の奴にゃあ、落とせねぇだろうな。まぁ、裏で動いている二人の姫様は全員が大層な気違いって噂だからな。有り得るかも知れん」
おやっさんの言動は政治秘密警察の耳に入れば面倒事となりかねないものであるが、現在の帝国では政府の統制も瓦解しつつある為、こうした不満が噴出し易い。尤も、おやっさんの場合は昔からであるが。
バザロフは、この戦争の行く先を明確に推察する程に大した頭脳がないと理解しているが、膨大な屍が築かれる事だけは理解できた。
エルライン要塞さえ陥落さしめれば、後は圧倒的優勢な兵力に任せて戦線を押し上げる事ができるというが、バザロフはあれ程の要塞を建造し、強大な種族と 最新鋭の兵器で武装する彼らと運動戦で衝突することすら不安に感じていた。この寒空の下で運動戦をするという恐怖もある。一度の敗走で負傷者は落伍し、凍 死を避け得ないだろう。そして、そこは敵地なのだ。
溜息しか出ない。
「なんだ、不景気な顔しおって。ん、戦が怖ぇのか? まぁ、心配すんな。うちの師団は戦略予備だろう。皇国内での決戦での決定打として使われるんだろうよ」
第三親衛軍に次いで野砲が充実している軍団に所属している事からそうした意図は明白であった。部隊の中には、エルライン要塞攻略戦を断念する決断が下されれば戦わずに済むと考えている者も少なくない。
食堂から漂う食欲をそそる臭いに悲観的な思考を打ち切るバザロフ。
気分を高揚させたその姿を見て取ったおやっさんが、孫を見るかの様な優しげな表情で苦笑を零す。顎髭を撫でながらの姿は中々に渋い。
満天の星空のなか、思い思いに動く兵士達の人ごみを掻き分けて二人は進む。
一大後方拠点であることもあり、商魂逞しい民間の商会などが軍の駐屯地前で熾烈な客引き合戦を繰り広げており、中には原住民の女性が結婚相手を探しに来ているという例もある。
軍という巨大な兵力を有する消費集団が動けば、数多くの物資を消費する。食糧に飲料水、下着や靴下などの被服、煙草に酒類などの嗜好品。無論、性欲を満たす為の異性もまた物資に数えられる。
彼らからすると莫大な利益を得る好機なのだ。
戦塵に霞む動乱の時代であるが、それでも尚、人々は逞しく生きている。バザロフはそうした光景が嫌いではない。気を抜けば嗜好品や女を押し付けられて金 を毟り取られていく事さえなければ文句などないが、親兄弟のいないバザロフは故郷に仕送りする必要もなく、多少の浪費には目を瞑る事もできた。おやっさん の機嫌を取る煙草さえ入手できれば、後の諸々は許容誤差でしかない。
二人は見受けられる屋台に時折、視線を奪われながらも食堂を目指す。つまみ食い程度ならばこの場で済むが、腹に溜まるものとなれば難しい。
呼子の誘い文句を無視して進む二人だが、おやっさんは何故か尉官や佐官などから敬礼をされている。酷く横柄な答礼を返すという階級を考えれば逆の振る舞 いに、バザロフは見て見ぬ振りを決め込む。軍務一筋のおやっさんには色々と謎が多く、師団長ですら配慮した言動をする。軍の闇に足を踏み入れて不慮の事故 死など笑えない。
「……気にらねぇ風だ」
「? 風、ですか?」
突然に呟いたおやっさんに、バザロフは首を傾げる。
おやっさんは軍人として必要不可欠な鋭い嗅覚を持っている。
鋭すぎる程に。
危険予知という範疇を越え得たそれに助けられた事もあり、バザロフは彼の嗅覚を誰よりも信頼しているという自負がある。
「火事ですか? 屋台からの出火かも……憲兵を呼びます」
「ああ……いや、分からんな。胡散臭ぇ」
作業帽の上から頭を掻くおやっさん。
その困惑顔にバザロフは周囲を見回すが、人ごみの中に在って異変を気取ることは唯の人間種に過ぎない身では酷く困難であった。
困惑して周囲を見回すバザロフだが、おやっさんは不意に星空を見上げる。
「……いや、呼ぶのは対空の連中だ」
その言葉に追随するかのように警報が鳴り響く。聞き馴れない警報音。
空襲警報である。
浸透してきた軍狼兵による奇襲などによる襲撃警報ならば訓練で聞き馴れているが、空襲警報は空襲という戦術自体が軽視されがちな帝国に在ってその警報は耳慣れないものであった。
「逃げるぞ! 郊外だ!」
おやっさんがバザロフの手を掴み、走り出す。
初老とは思えない脚力に足が縺れそうになるバザロフ。しかし、倒れても引き摺られそうになる程の強引さに意地でも付いていく。年寄りに負けては帝国軍人の名折れなどという威勢の良い建前からではなく、引き摺られて身体を地面で擦り颪にされるのを怖れたが故である。
重砲の砲弾の飛翔音とは違う、大質量物質による自由落下の風切り音。間延びした音であるが、それが決して重砲に劣らぬ威力であると察したバザロフは間に合わないと判断し、近くの屋台脇へとおやっさんを押し倒す様に飛び込む。
「糞ッ! 哨戒の連中は何をしていやがった!」
「寝てるのでしょう!? さっき酒飲んでるの見ましたよ!」
喧騒と混乱の中で二人は地に伏せたままに言葉を交わす。
戦略爆撃をバザロフは知る訳ではないが、砲撃と同じく炸裂による破片効果の被害を意図しての行動を咄嗟に行った。立ったままでは爆風に弾き飛ばされる可 能性や破砕された構造物の破片などの直撃を受ける可能性があるからであり、それは間違いではなかった。咄嗟に隠れた物陰が装甲車輛であったのも幸運であっ た。
聴覚の限界を越えた炸裂音。
耳鳴りによってお品われる平衡感覚だが、伏せている為に躓く事もない。
バザロフの経験したことのない規模の攻撃である。
砲兵による制圧砲撃を受けた事はあるが、世界に冠たる帝国陸軍砲兵隊の規模を踏まえると一方的に砲火に晒される事はない。戦場の神様たる砲兵だけは充足率を満たしている為、即座に応射が始まり、問答無用の砲兵同士の殴り合いが行われるのが常である。
しかし、今回の敵は爆撃騎。
砲兵に抗する術はなく必要なのは対空砲であるであるが、帝国軍は航空戦力に対する兵器を重視していない。主力足り得ない航空戦力に対抗する兵器の必要性 を感じていないからであった。無論、迎撃の任務に当てる戦闘騎も広い国土に分散しており、集中運用するという概念はない。実験部隊による運用が稀に行われ る程度である。
襲い来る爆風に耐える二人。
若干の熱風と降り注ぐ破片。
頭を押さえて息を潜める。下手に呼吸をして気管を火傷すると酷く恐ろしい現実が待ち受けている事を理解しているからである。そして、帝国の医療技術は大多数の周辺諸国に対して酷く劣っていた。何より兵士とは代替容易な消耗品なのだ。
バザロフは与り知らぬ事であるが、この時、投下された九九式二五番航空焼霰爆弾は隣接する倉庫街を狙って投下されたものであった。
灯火管制もなく煌々と光を夜空へと零す都市に隣接する軍事施設への航空攻撃は酷く容易なものであった。例え、夜間であっても、対空射撃に妨害される事も 探照灯で照らされる事もない以上、彼らが選択した低高度からの爆撃は間違ったものではない。そして、酷く容易なものでもあった。
潜伏する工作員による火事で目標が示されていた事も大きく、彼らの爆撃の大部分は成功する。
次々と上がる火柱。
絨毯爆撃という概念のない帝国では想像も付かない断続的な炸裂に、バザロフは重砲の曳火砲撃に匹敵するとおやっさんの頭を地面に押し付けて只管に耐える。
一際大きな爆発音が轟き、夜天を焦がす。
伏せているにもかかわらず浮き上がる様な感覚。
屋台の残骸やヒト、石材の破片に地面の土くれ。
あらゆるものが宙を舞い、熱風が全てを焦がす。
音響効果によって喪われた平衡感覚によって立ち上がる事が難しい。背を覆う破片を振り払うことすら億劫になるほどに霞む意識の中、下に庇ったおやっさんの苦しげな表情が何故か印象に深く刻まれた。
倦怠感の滲む身体を叱咤し、バザロフは顔を上げる。
既に爆撃は違う区画へと移っており、健在な建造物の屋根越しに窺える火柱の規模を考えれば弾火薬庫に引火した事は嫌でも理解できる。各種野砲の砲弾を大量に備蓄しているが故に、その火柱が齎す被害は甚大なものであった。
地下深くに建造された弾火薬庫にまで貫徹するとは運が悪いとバザロフは奥歯を噛み締める。
バザロフには知る由もないが、この時、使用された爆弾は九九式八〇番地中貫通爆弾という弾頭が鉄鋼により重量の七割を占める爆弾で、地表及び地下構造物の天井部を貫徹した後、炸薬が爆発する様に作製されていた。
無論、それは見事に地下弾火薬庫の上面装甲を貫徹した。
元より後方拠点としての機能のみを付与された上、航空攻撃によって直上からの脅威に晒される事は想定されていなかった。重砲の直撃を意図した対策のみを行っていた為、抗う術などないままに易々と貫徹されたのだ。
爆発によって火の玉となった無数の砲弾の薬缶や燃料缶などが降り注ぐ。
「これは堪らんなぁ……!」おやっさんが呻くように呟いた。
そこで、バザロフは気付く。
知らぬ内におやっさんの被っていた作業帽は爆風で吹き飛ばされたのか、何処かへと消えていた。おやっさんは服務規定に厳しく、周囲がどれ程に乱れていても服を着崩す事はないが、この状況下では乱れることも致し方ない。
だが、その姿を……頭部に付いているモノを見れば納得できた。
「おやっさん……その耳は……」
獣耳だ。
犬か狐か……判別が付き難いが、紛れもないヒトならざる者の要素がそこにはあった。
「おぅ、帽子が何処に飛んだか……秘密だぜ」
バザロフの頭に辛うじて引っ掛かっていた作業帽を奪い、口元を歪ませて呟く。
本物だろうかとその獣耳を触ってみるが、おやっさんにその手を叩き落とされる。
「中年の耳を触って何が楽しい! それより逃げるぜ!」
バザロフから取り上げた帽子を被り、おやっさんは立ち上がる。
物陰であるがこれ以上、この場にいる訳にはいかないのは確かである。周辺を見渡せば火の手が周囲を包みつつある。都市外縁に爆撃を集中しているのか、火 災は短期間で都市を覆いつつあった。消火を行うべき消防団も同時多発的な火災では能力が全く足りず、軍もまた軍事施設周辺の防護と対空戦闘に注力してい る。
後方が戦場となる事は珍しくない。戦争なのだから。
だが、これ程まで後方が……要塞と連峰という要害を挟んだ上、距離的にも開きがある拠点を叩かれるという経験は帝国という国家にとって初めてのものであった。否、大陸の戦史を紐解いても、これ程に敵地深くを奇襲した例は少ない。
周囲には建造物などの破片だけではなく負傷者や遺体が転がっているが、二人はそれを無視して郊外へと歩を進める。
最早、火災を止める事は難しい。
帝国の諸都市……特に寒冷地帯に位置する都市は火災という概念に薄く、大規模となる事例もまた皆無に等しかった。軍も浮足立ち消火どころではなく、空襲後の襲撃を警戒して防御陣地の構築を始めている。空襲だけであるとは考えていないのだろう。
今、この時、有り得ない事が起きた。
故に陸上戦力による襲撃を警戒するのは心情として納得できるものであった。
二人は、流石にエルライン要塞攻略に展開している南部鎮定軍主力とエルネシア連峰を大規模戦力で浸透突破する事は不可能であり、ましてや空襲と時刻を合わせての襲撃となれば更に難易度は上昇する。
冷静に考えれば有り得ない事なのだ。
しかし、それは一般兵士の視線からの判断であり、上層部……〈第一三二師団〉の師団長を始めとした歴々は、皇国陸軍……皇州同盟軍であれば可能であると踏んでいた。
彼らは空挺を用いた軍事行動が行われた事を知っていた。
大規模でなくとも、戦火拡大を意図した少数精鋭の空挺部隊の投入があるかも知れないという恐怖が彼らの積極的な行動を妨げていたのだ。
「くそっ、上の連中は何をしているんだ! このままだと市街地が……」
「いや、もう手遅れだろうよ!」
寧ろ、空襲後の炊き出しの為に物資を放出する準備をせねばならん、と呻くおやっさん。
瓦礫に押し潰された将兵に、鉄片が突き刺さった民間人。遠くでは子供の泣き声が炸裂音の中で微かに響いている。焼け焦げてのた打ち回る者の姿は心胆寒か らしめるものであった。あの美しく着飾っていた娼婦達も炎に捲かれて布面積の少ない薄着を焼かれ、肌を焦がして泣き叫んでいる。
「敵の狙いは弾火薬庫の様だ! うちの糧秣庫は焼かれてないぞ!」
「まぁ、見た目が貧相ですから爆撃対象にならなかったのでは!」
炸裂音と建造物の倒壊音に負けぬ様に会話しながら走る二人。
彼らの地獄は始まったばかりだった。
ノナカの巻き舌気味の命令に、任侠者の様な仕草と声音で返す〈第七二一戦術爆撃航空団(TKG 721)〉の飛行兵達。中には腹部に晒を 巻き、白鞘を佩用している者もいる。飛行兵は、戦闘中に引っ掛かりや鞘走りを考慮して刀剣の装備は一様に禁止されており、銃剣などが主体であるものの、 〈第七二一戦術爆撃航空団(TKG 721)〉の一同は、規定など知ったことではないと言わんばかりに堂々と佩用していた。
――そもそも、白鞘は戦闘用ではないのですが……
一応、柄に包帯を巻いている様であるが、クレアとしては趣味と浪漫を前面に出す彼らに疑問を覚えた。
白鞘は“休め鞘”の別名を持ち、刀の保存用の鞘で、通常はこれに収めて置く。材料は朴の木で、これは松や杉とは対照的に脂も少なく、加工もし易く刀の保管には最適であるからであった。樹木は植物であることから経年劣化により伸縮するので、何十年も乾燥させたものを使用し、近年の皇国では曲剣や大剣用の白鞘も存在する。
元より、白鞘は左右に分離した木材を米粒で接着したものに過ぎない。軍人の蛮用に適するものではなかった。元来は保管用である。
浪漫で命を懸ける真似をしかねないと、クレアには見えた。武装に趣味や浪漫なる要素を持ち込む者は己の生き様にも、そうした要素を持ち込む。
「…………無事、生還したいものですね」
トウカが信頼を寄せる部隊である以上、それ相応の練度を有しているはずであり、新機軸の装備や戦闘教義の塊である事からも優秀だとは思える。
しかし、当人達は任侠を拗らせた軍人崩れにしか見えない。
――いえ、何よりノナカ中佐と、この面々を何処かで見た気がするのですが……
思い出せないクレアは、左からに垂れる纏めた髪を口元で弄る。思考時の癖であった。
クレアは憲兵隊長としてフェルゼンで、ノナカの様な身形の 宜しくない無頼漢共を相手に熾烈な市街戦を展開した事は一度や二度ではない。情報部の紐付きではない非合法組織など、機関銃と砲撃型魔術で吹き飛ばす事な ど日常茶飯事である。重機関銃や迫撃砲まで装備した憲兵というのは大陸を見渡してもそう居るものではない。多くの利益が複雑に絡み合うヴェルテンベルク領 は、非合法組織からすると危険を冒してでも勢力下に加えたいのだろう。
勿論、皆殺しである。
それが、今は亡き廃嫡の龍姫の希望であった。
ヴェルテンベルク伯爵位がマイカゼへと継承されてからは、炭鉱での監視付き肉体労働に変更となったが、その末路を考えれば然したる違いはない。
「いや、しかしあの鬼の憲兵殿と空の旅をするなんて世の中は分からんものだぜ。なぁ、野郎共」
「俺なんて、憲兵に素手で(ヤッパ)を折られちまったしな」
「それなら俺だって素手喧嘩で両手を圧し折られたぜ」
やはり彼らとは面識があるのだろう。
正直なところ、クレアからすると治安維持活動という名の害虫駆除は定例業務であった為、相手の顔など一々覚えてはいない。右手を振り下ろせば、金切り声 を上げる機関銃に相手が穴だらけとなって斃れるだけである。そして、その遺体は二日ほど現場に放置して領民の潜在的な不満を押さえ付ける事に利用した。領 主への反抗の結果を明確な形で突き付ければ、これ以上ない程に鞭となる。飴はマリアベル主導の経済的発展そのもので、憲兵隊は憎悪と敵意と隔意を集める鞭 なのだ。
だが、鞭を振るうことは義務であり、それ以上ではない。
だからこそ、クレアは知らない。
そして、そんなクレアの心中をノナカは察していた。
「そいつはぁ、記憶にないって顔ですかい? 歳の割にゃぁ中々の無表情ですなぁ」
副操縦士に席を任せ、無精髭を擦りながら現れたノナカの言葉に、クレアは小さく溜息を零す。
「失礼ですが、私は貴官と以前に面識があったのでしょうか? やはり鉄火場で?」
鉄火場とは非合法組織が抗争の場を指す際の隠語である。
如何なる場面であっても殺し過ぎるという風評を持つ憲兵隊指揮官からすると、死者の顔など記憶に留めておくという偽善になんら意味を見い出せない。その行為の是非と善悪を問うのは方針を示したマリアベルであり、彼女はそれを麗しき狂気と共に肯定した。
クレアは、今一度、自席からノナカの顔を見上げるが、やはり記憶はない。
「まぁ、俺らは直ぐに尻尾巻いて逃げたもんでなぁ。顔なんぞ覚えてなくとも仕方ねぇ。ほら、あれだ、二年前の港湾施設でのでかい抗争だ。あの時、あんたに斬り掛かって逃げたのが俺だ」
ノナカは両手で何かを握る仕草をすると、上段に構えて振り下ろす。
その姿に、在りし日の任侠者を思い出す。
あの土砂降りの中、非合法組織の二つと憲兵隊とが三つ巴となって争った阿鼻叫喚の地獄絵図。まさか神州国から商船で増援を送ってくるなど想定もしていな かったもう一方の非合法組織と憲兵隊は戦力を逐次投入せざるを得なくなった。市街戦を避ける為、港湾区画に釘受けにする必要があり、憲兵隊は軍事的愚策で ある戦力の逐次投入を決断した。
その中でクレアは彼と遭遇した。
刀傷の刻まれた顔に無精髭、土砂降りの中でも爛々と輝く紅瞳。青い色無地の上を腰帯まで捲り下げ、腹に撒いた晒には自動拳銃が差し込まれている姿はまさに任侠者。まさか皇国に於ける近代都市の代表格たるフェルゼンで時代錯誤の無頼漢を相対するとは思わず、虚を突かれたクレアは後れを取った。
物陰から手下と共に刀を手に吶喊してくる彼らは既に至近。
近接戦闘になるのは当然の流れ……であるはずだった。
しかし、彼らは一太刀浴びせた後、土砂降りの雨の中を走り去った。見事なまでの一撃離脱である。
クレアはその後、憲兵隊指揮官でもあった自身が襲撃を受け、混乱する憲兵隊を市街地へ混乱が飛び火する事を怖れて港湾施設を包囲しつつ後退。
近年で憲兵隊が唯一、黒星を付けた鎮圧活動であった。
思い出した。そう、彼は……ノナカはあの時の任侠者である。
思わぬ奇縁にクレアは笑みを零す。
諸々の罪は従軍によって有耶無耶にされた事は疑いない。気に入った相手であれば、マリアベルはそうした苦労を惜しまない。爪弾き者同士波長が合ったのか。そして、短期間で飛行兵となった彼らの努力と実力はかなりのものがあると推察できる。
「そう言えば、部下から幾つもの居酒屋で暴れ回る神州国系の飛行兵達がいると……」
「おう、それはうちの手下どもだな。元気だろう? はっはっは!」
軍人が治安を乱してどうするのか。
――まぁ、店の中位種に叩き出されることも多いと聞いていますから……
放置するに限る。
この時、クレアはこの奇縁が後々にまで続いて行くことになろうとは考えても見なかった。
クレアは、気が滅入ると話題を変える。
「ところで飛行は順調なのでしょうか? 夜の帷を利用するとは聞こえは良いですが厳密な方位を算出できるのですか?」
最近、渡洋爆撃戦略の体系化を意図して技術蓄積を続けている海軍航空隊の資料を見た限り、先導騎のない小型騎のみで攻撃隊を編制して出撃した場合、長距 離飛行であればある程に目的地への方角と差異が生じるという欠点がある。高精度の航空計器……方位磁針や定針儀などを搭載できないからであった。トウカの 提案した慣性計測装置(IMU)やそれを搭載した長距離航法装置(IRS)などは、未だ開発の目処すら立っておらず、海軍は従来通りの方法に頼った航法の 効率化を模索している。
ノナカはどの様な手段で方位を算出しているのか、クレアは大いに興味を惹かれた。
「まぁ、これだけ星が出てりゃぁ、天測で何とでも。こう見えても、うちの連中は船乗りの経験もある。星を見りゃ正確な方位はいちころよぅ」呵々大笑のノナカ。
精密性に欠ける手段にクレアは不安となるが、トウカの提案するところの灯火管制や探照灯、近接信管を装備した対空火器による弾幕射撃のいずれも有していない帝国の空は遮るものはなく、市町村から零れ出る明かりは位置把握に大きな役割を果たす事になる。
クレアは、一応は精鋭である以上、問題はないはずと納得し、この一連の戦略爆撃に対するトウカの思惑へと思考を裂く。
推察は難しい。
彼は純軍事的な視野だけでなく、政治とも連動した軍事行動を行う事が少なくない上に、至極個人的な感情を始末に負えない程に正当化して戦野に望む例もあ る。彼は自己の行動を正当化する術に長けているが、その裏を覗いてみれば、極めて不安定でいて刹那的な対応をしている例も少なくない。無論、事後に辻褄を 合わせる以上、理想主義の政治屋よりは余程に上等であるが。
皇州同盟軍情報部からクレアに与えられた情報はかなりの量となっている。
本来であればトウカの直卒に近い立場を持つ皇州同盟軍情報部であるが、トウカ自身がクレアに便宜を図ることを命令している事に加え、皇州同盟軍憲兵隊の重要人物であるクレアとの連携を意図して好意的な姿勢を見せている。クレアとしても望むところであり、そもそも皇州同盟軍情報部自体がヴェルテンベルク領邦軍情報部を前身としていることから勝手知ったる仲と言えた。
「おうおう、嬢ちゃんは、こんな胡散臭い文章を読めるのかいなぁ」
勝手にクレアの書類を手に取り、流し読みするノナカ。
機密書類ではないが、女性の扱いを絶望的なまでに理解していないノナカに、クレアは溜息を一つ。無論、軍事組織の中で性別に配慮するなどお笑い草であり、そうしたことを指摘する心算はない。
「なんでぃ、あんの戦争屋の為人? 行動原理? 思想? 狐? 個人のことばかり……あれか。あの狐を追い落として――」
「それ以上は止めていただけますか、ノナカ中佐。私は優秀な航空部隊指揮官に不慮の事故で死亡していただきたくはありませんので」
腰の拳銃嚢に収まったP98自動拳銃の銃把に手を添える。
もし、ミユキの耳にそうした言動が入れば、昇進が遅れるどころか僻地への移動すらあり得る。少なくとも皇州同盟軍の主流派ではなくなる。狐の聴覚は侮れない事を、クレアは憲兵という兵科上、良く理解していた。物理的にも比喩的にも。
肩を竦めるノナカ。
クレアに、トウカにそうした感情を抱いていない。
だが、知りたいだけなのだ。深く、深く……彼が何を成し、何処へ行こうというのかを推察するのだ。
「まぁ、乙女の心情の機微なんぞ別として、あれはそう難しい男じゃぁないんだがなぁ」心底と怪訝な表情をするノナカ。
彼にとってトウカという人物は、般的な印象通りの人物なのだろう。優秀な指揮官にして軍国主義者。高位種の女性を次々と籠絡して政治的立場を強化する英雄。破天荒にして神代の英傑の様な行動は人々を惹き付ける。
ノナカもそう考えているのだろう。
「おぅおぅ、胡散臭い顔してるな、嬢ちゃんも……だがな、あんたの考えとはちいっとばかし違うんだよぅ」
ノナカは煙草を咥えると、皮肉げな笑みを湛えて呟く。
サクラギ・トウカの行動原理は、彼にとり酷く納得できるものなのだろう。その表情には賛同と同情の色が窺えた。神州国の無頼漢と皇国の軍神の共通点を見 い出せず、クレアは困惑と共に思考を巡らせる際の癖……纏めた髪の毛先を弄ぶ所作を見せながら、ノナカに鋭利な視線で言葉の続きを促す。
しかし、返ってきた言葉は、クレアの思考の遙か外にあるものであった。
「あの戦争屋の行動原理は単純だ。……護りてぇんだよ」
護る。
それは国か、ヒトか、意志か、矜持か……酷く漠然とした物言いである。
クレアは一泊の間を置いて応じる。
「先代ヴェルテンベルク伯の意志、いえ、ロンメル子爵でしょうか?」
それは一般に流布している回答と言える。
サクラギ・トウカを語る上で二人を外す真似はできない。
マリアベルは彼を寵愛し、自らの持ち得る権力と軍事力、政治力を成すが儘に与えた。対照的にミユキは表面的な部分ではマリアベルに劣るものの、トウカの精神面に多大な影響を齎し得る人物である事から子爵という階級以上に重視されている。
ノナカはクレアの言葉に胡散臭い顔をする。本当に理解しているのか?と言わんばかりの表情である。
「それは知らん。ただ、護りたいという意思はなぁ、時として暴走するんだよ。俺も神州国では組の看板を背負ってたもんでな。対象は兎も角として、護る為に無理をする男は見りゃ分かる」
無頼漢ではなく、極道者であったと当然の様に吐露するノナカの言葉に、クレアは小さく頷くに留める。自身の過去を言ってのけたノナカの言葉は聞かなかった事にする。後に話題を総浚いにするかも知れない皇州同盟軍の軍人が元極道者では些か風評が宜しくない。
――極道者……己が生命よりも仁義を通す武侠に生きる者達ですか。
神州国の気風を体現した生き様であり、その生き様は世界中に知られている。無論、風聞や物語による影響もあるが、その生き様は今尚、現実にして事実であった。
「あれは普通とは違う視点を持ってるがな、その本質は変わりねぇよ。必死なんだよ。マリアのお嬢を喪って、その上、他種族を許容できない帝国の襲来は、ミユキの嬢ちゃんの生命の危機に直結すんだ。あれは戦うだろうよ。総てを利用し、総てを巻き込んでなぁ」
独語するかの様なノナカに、クレアは無言を貫く。
確かに、最近のトウカの急進的姿勢を裏打ちする要素として、マリアベルの死は納得できるものがある、そして、帝国に対する抗戦の姿勢を露わにするのは、 ミユキの生存の可能性を保障する為と考えれば辻褄が合う。誰もがマリアベルの死によって、トウカが野心を剥き出しにしたと考えているが、実際は護る為に咆 哮しているだけに過ぎないのかも知れない。
男は護るべき女の為に咆える生物である。
クレアは母親に、そう教えられて育てられた。
そして、男達に護られるに値する女になれと、常々、言われてきた。無論、憲兵隊指揮官として、クレアは多くを護る側に立ち、護られる程に軟な女ではない。護れるものならば護って魅せませい、という気概を持って軍務に当たる事こそがクレアにとっての誇りであり矜持なのだ。
「……貴方もそうだったのですか?」
護る為に全てを捧げ、総てを敵に回すという挺身。
そして、それを成してまでも護られるミユキに、クレアは同じ女性として嫉妬の念を抱いていた。
彼女にそれ程の価値があるのか?という疑念は何もクレアだけのものではなく、皇国の権力者の間では度々、話題に上がるものであった。蟄居し たマリアベルは致し方ないとしても、権力や名声と寄り沿うならば、ベルセリカとの政略結婚やアリアベルとの婚約を視野に入れてもいいのではないかという意 見は数多い。突飛な意見の中には、神州国の有力華族の令嬢に輿入れして貰う事による関係強化を目論むというものまである。
無論、婚約者という立場が現時点で埋まっているのは好ましくない。
「いえ、詮無い事を聞きました。私の使命は閣下の在り方に左右されるものではありません。……そうであってはならないのです」
「いかんなぁ、最近の若者は。誰も彼もが本心を隠して言葉を重ねやがる」
心底、呆れたと言わんばかりのノナカは、無精髭を撫でながら盛大な溜息を吐く。
重爆撃騎下部に装備された装甲籠の中は薄暗く、灯火によって存在が露呈しない様に蛍光塗料によって示された各種機器の数値や指針のみが薄くノナカの横顔を照らしている。
暗闇に浮かぶ無精髭の武侠者の表情。硬派精神を体現した佇まいを其の儘にクレアの隣席へと腰を下ろす。
「いいか? 嬢ちゃん。強い男ってのは大抵が何かしらの為に総てを擲つ覚悟をしてるんだよ。それが雌の為か、国の為か思想の為か……物好きな奴なら仁義の為。色々あるが、腹を決めた雄ってのはな、時には信じられねぇ活躍をする事がある」
それが、トウカによる北部での内戦であったと語るノナカ。
正直なところ、クレアには理解しかねる範疇に話題である。
女一人の為に権力者の性能が著しく増減するなど認められない事である。
特に不確定要素の排除に腐心するトウカの立脚点が、不確定要素であるなど笑えない。しかしながら、合理性に欠けるミユキという伴侶の選択は、ノナカの言葉を後押しし得る要素と言えなくもなかった。
険の滲むクレアの容貌に、ノナカは笑声混じりの言葉を投げ掛ける。
「まぁ、あんたも雄に総てを擲つことが当然と思わせる様な良い雌になりな」
生き様や心構えに近い意見だが、クレアよりも多く歳を重ねたノナカの言葉には、男が狂おしいまでに求める女の在り方が垣間見えた。大多数の者達からすれ ば酷く偏った意見と捉えられるであろうそれは、軍人や任侠者、武辺者などの生命を削り合う生業とする男共にとっての理想なのかも知れない。
彼らは縋る対象が欲しいのだろう。
賢くも可憐であり、麗しくも凛冽であり、気高くも儚いという矛盾を併存させた象徴を求めているのだ。
縋られるのを許容するか迷惑と感じるかは女性次第であろうが、クレアもまた一人の軍人として彼らの心情を理解できた。生命の遣り取りは精神を疲弊させる が故に、正当性や正気を形あるものに体現させようと縋るべき対象を見い出そうとする。それが指揮官であり主君であり、マリアベルなどは隷下の将兵にとって 正しくそうした対象であった。
トウカにとってミユキとは縋るべき象徴なのかも知れない。
「それが、良い雌ってもんだ」ノナカはそう締めくくる。
細巻に火を付けようとしたノナカの手から細巻を叩き落としつつ、クレアは窓越しに星天を見上げる。
雲上を飛行する航空騎からの星空の眺めは壮観の一言に尽きるが、星々の輝きが自らを燃焼させる消費行動の一環であると知り、そして何よりも今この瞬間に光を届けている星は既に燃え尽きているかも知れないとまで解明された。
恐らくは、年若い女と言うのはこうした悲観的な考え方をしないのだろうと、クレアは思考を弄ぶ。脳裏に浮かんだリシアが、天象儀に引き摺り込めばいいのよ、と宣っている気すらした。
「儘ならないものですね、憲兵とは」
他兵科よりも戦火に乏しく軽視される傾向にあるが、扱う軍務内容は酷く繊細でいて政戦を揺るがし得る例も少なくない。そこに光を当てたのがマリアベルであり、トウカは一層と憲兵を活用しようとしている。
――私は彼にどう接したらいいのでしょうか?
憲兵とは腐敗を正す者であると同時に、政敵を排除する役目を負っている。通常は前者のみが任務であるが、ヴェルテンベルク領では後者も担っていた。それをマリアベルが求めたからであり、トウカもまた間違いなくそれを求めている。
政治闘争に於いての認識の齟齬は破滅を招くからこそ、クレアという憲兵は権力者に寄り沿う形で任務を行う。
――私は彼の心と思惑に何処まで踏み込めばいいのか。
ヒトの心の機微など、クレアの得意とする分野ではない。憲兵は弾圧者にして統制を司る者。人心を操り、他者を籠絡する情報部員とは本質的に違う。
「なんなら、おじさんで良い雌のなんたるかを実践して見ねぇか?」
「あ、いえ、無理です申し訳ありません無精髭剃って下さい」
二人の遣り取りに、航空兵達が失笑を零す。
そんな中、〈第七二一戦術爆撃航空団(TKG 721)〉は迂回飛行を終え、目的地へと騎首を巡らせた。
「おやっさん! これは何処に……」
《スヴァルーシ統一帝国》陸軍、〈第三四六予備砲兵聯隊〉所属のバザロフ二等兵は、両手一杯に木箱を持ち、聯隊付輜重中隊の曹長へと問い掛ける。脆弱な輜重部隊が常の帝国軍に在って〈第三四六予備砲兵聯隊〉は、眼前の鬼曹長の手腕によって酷く珍しい例外となっていた。
「そこ置いとけ! しかし、まだまだ弾火薬が足りんな」
「もう一度、行きますか?」
無論、強固な紐帯を見せる戦友一同による野盗団に扮した“友軍”輜重部隊に対する襲撃である。これは、輜重部隊も合意の上の演出であり、輸送中の物資を 襲撃で紛失したとして折半し、双方が懐に収めるのだ。無論、盗賊団の退治を怠ったと憲兵隊を非難する事で責任を逸らす点も忘れない。
当然、これは私腹を肥やす為ではなく、部隊の生還率を向上させる為である。輜重部隊も懐に収めた物資を他の部隊に非合法で供給しており、所属している〈第一三二師団〉の生存率を少しでも向上させようと危ない橋を渡り続けていた。
国家が師団を維持するべく最善を尽くさないというのであれば、師団が自ら最善を模索せねばならない。
「馬鹿者、何度もしては気取られかねん」
「そう言えば、憲兵隊が野盗団を討伐する為に出撃したそうです。ここが引き際かも知れません」
実在する野盗団に輜重部隊の偽情報を流して釣り上げ、憲兵隊に始末させる事で事態を収束させるという演出まで行っている以上、そう簡単に事が露呈するはずもない。部隊内の政治秘密警察の構成員を割り出して……疑わしい者は手当たり次第に宴席に引き摺り込んで行動不能にするという手間もあるが、手段を選んでいられる段階ではなかった。
帝国建国以来の大攻勢。
そう表現すると聞こえは良いが、その内情は無理な動員による瞬間的な面制圧でしかなかった。
しかし、エルライン要塞が想像以上に頑強である為に被害が蓄積しつつある。
否、恐らく総司令部は被害を想定内だと考えているはずであった。
兵力が減少すれば糧秣の消耗を避ける事ができる。現在、エルライン要塞攻略に投入されている部隊の内情を見ればそれはよく理解できる。使い捨てにしても 惜しくない少数民族を主体とした部隊や懲罰部隊などを主体としている事から、全滅を前提とした相手の消耗を誘う為の戦力として見られているのは間違いな い。督戦隊の規模を踏まえれば、彼らは狭隘なエルライン回廊で前後を挟まれて敵軍の銃弾か友軍の銃弾で戦死するしかない。
帝国政府や軍としても、反政府的な勢力を擦り減らす事ができると判断しているのは確実である。演習での死者を顧みない姿勢を見れば嫌でも理解できようというもの。
死神の鎌から逃れる可能性を僅かでも上げるには、一欠片でも多くの物資を備蓄せねばならない。敵を退ける為の砲弾を、腹を満たす為の糧秣を、生命を繋ぐ為の医薬品を……友軍を犠牲にしても手にせねばならない。
〈第一三二師団〉は話の分かる師団長の下、そうして生き延びてきた。
二人は倉庫での“戦利品”の整理を終え、汗を拭きながら外へと足を踏み出す。
比較的温暖とされる帝国南西部だが、それでも尚、冬となれば肌寒いでは済まない。しかしながら、軍事施設内に関しては移動式軍用魔導炉心から供給される 魔力を利用した気温制御術式によって比較的心地良い温度に保たれている。無論、時折、停止するのは帝国では珍しい事ではないので気に留めるものはいない。
バザロフは聯隊付の輜重中隊の曹長……通称“おやっさん”へと笑い掛ける。
「今日の晩飯はなんでしょうかね? 残しておいてくれるって聞いてますけど」
「シチューだろうな。輜重中隊総出の獣狩りの成果だ。肉も随分と入っているだろうよ」
おやっさんは、仕方ない野郎だ、と苦笑しつつも言葉を返してくれる。
怒れば怖いが、不平を言いつつも言葉を返してくれる上、危機に際しては泰然自若のままに年若く頼りない上官の襟首を掴んで正気に戻させてくれる。これ以上ない程に頼り甲斐のある上官である。
ぽつぽつとすれ違う兵士に適当な挨拶をしつつ、食堂を目指す。
勝手知ったる自部隊の駐屯地で敬礼と答礼の遣り取り等は行われず、師団長や聯隊長ですらも敬礼を受けると答礼せずに手をひらひらと振って面倒な事はする なと指図するだけである。極めて家庭的な部隊と言えるが、それは殆どの将兵が同じ地域から招集された師団である事も影響している。帝国という広大な、子午 線を幾つも跨ぐ領土を有する国家にとって、言語や認識の差異というのは軍事行動に於いて無視し得ない程に多様性がある。
それを防止する為、帝国陸海軍は同一地域から集中的に将兵を徴兵する事で編制を行っていた。無論、分断して統治せよという方針を堅持し続けている事か ら、民族性溢れる編制による部隊内での不和による指揮統制の低下と混乱を避ける為の苦肉の策とも言える。無論、叛乱を行った特定の民族に対しての懲罰行動 に運用し易くする為という理由も少なくない。
叛乱に於いて主力となる二〇代の若者達の多くを徴兵し、他地方へ再配置する事で少数民族の共同体から切り離す。それが帝国の国策であった。
そんなことを知らないバザロフは、同じ民族ばかりの部隊に配属されて幸運だったと満足している。この帝国という強権国家に在って、信頼に値する同胞というのは何よりも得難い存在であった。同じ民族であり、周囲が他民族ばかりであるが故に彼らは強固な団結と結束を見せる。
「そう言えば、エルライン要塞の火力に陰りが見えているそうですよ? 若しかすると今回は落とせるかもしれませんね」
バザロフからするとエルライン要塞というのは難攻不落の戦略拠点である。大小何十と行われた攻略戦の総てを跳ね返し、子守唄では帝国主義者の墓場であるとも歌われていた。陥落するところを想像するのは難しい。
「あれは正気の奴にゃあ、落とせねぇだろうな。まぁ、裏で動いている二人の姫様は全員が大層な気違いって噂だからな。有り得るかも知れん」
おやっさんの言動は政治秘密警察の耳に入れば面倒事となりかねないものであるが、現在の帝国では政府の統制も瓦解しつつある為、こうした不満が噴出し易い。尤も、おやっさんの場合は昔からであるが。
バザロフは、この戦争の行く先を明確に推察する程に大した頭脳がないと理解しているが、膨大な屍が築かれる事だけは理解できた。
エルライン要塞さえ陥落さしめれば、後は圧倒的優勢な兵力に任せて戦線を押し上げる事ができるというが、バザロフはあれ程の要塞を建造し、強大な種族と 最新鋭の兵器で武装する彼らと運動戦で衝突することすら不安に感じていた。この寒空の下で運動戦をするという恐怖もある。一度の敗走で負傷者は落伍し、凍 死を避け得ないだろう。そして、そこは敵地なのだ。
溜息しか出ない。
「なんだ、不景気な顔しおって。ん、戦が怖ぇのか? まぁ、心配すんな。うちの師団は戦略予備だろう。皇国内での決戦での決定打として使われるんだろうよ」
第三親衛軍に次いで野砲が充実している軍団に所属している事からそうした意図は明白であった。部隊の中には、エルライン要塞攻略戦を断念する決断が下されれば戦わずに済むと考えている者も少なくない。
食堂から漂う食欲をそそる臭いに悲観的な思考を打ち切るバザロフ。
気分を高揚させたその姿を見て取ったおやっさんが、孫を見るかの様な優しげな表情で苦笑を零す。顎髭を撫でながらの姿は中々に渋い。
満天の星空のなか、思い思いに動く兵士達の人ごみを掻き分けて二人は進む。
一大後方拠点であることもあり、商魂逞しい民間の商会などが軍の駐屯地前で熾烈な客引き合戦を繰り広げており、中には原住民の女性が結婚相手を探しに来ているという例もある。
軍という巨大な兵力を有する消費集団が動けば、数多くの物資を消費する。食糧に飲料水、下着や靴下などの被服、煙草に酒類などの嗜好品。無論、性欲を満たす為の異性もまた物資に数えられる。
彼らからすると莫大な利益を得る好機なのだ。
戦塵に霞む動乱の時代であるが、それでも尚、人々は逞しく生きている。バザロフはそうした光景が嫌いではない。気を抜けば嗜好品や女を押し付けられて金 を毟り取られていく事さえなければ文句などないが、親兄弟のいないバザロフは故郷に仕送りする必要もなく、多少の浪費には目を瞑る事もできた。おやっさん の機嫌を取る煙草さえ入手できれば、後の諸々は許容誤差でしかない。
二人は見受けられる屋台に時折、視線を奪われながらも食堂を目指す。つまみ食い程度ならばこの場で済むが、腹に溜まるものとなれば難しい。
呼子の誘い文句を無視して進む二人だが、おやっさんは何故か尉官や佐官などから敬礼をされている。酷く横柄な答礼を返すという階級を考えれば逆の振る舞 いに、バザロフは見て見ぬ振りを決め込む。軍務一筋のおやっさんには色々と謎が多く、師団長ですら配慮した言動をする。軍の闇に足を踏み入れて不慮の事故 死など笑えない。
「……気にらねぇ風だ」
「? 風、ですか?」
突然に呟いたおやっさんに、バザロフは首を傾げる。
おやっさんは軍人として必要不可欠な鋭い嗅覚を持っている。
鋭すぎる程に。
危険予知という範疇を越え得たそれに助けられた事もあり、バザロフは彼の嗅覚を誰よりも信頼しているという自負がある。
「火事ですか? 屋台からの出火かも……憲兵を呼びます」
「ああ……いや、分からんな。胡散臭ぇ」
作業帽の上から頭を掻くおやっさん。
その困惑顔にバザロフは周囲を見回すが、人ごみの中に在って異変を気取ることは唯の人間種に過ぎない身では酷く困難であった。
困惑して周囲を見回すバザロフだが、おやっさんは不意に星空を見上げる。
「……いや、呼ぶのは対空の連中だ」
その言葉に追随するかのように警報が鳴り響く。聞き馴れない警報音。
空襲警報である。
浸透してきた軍狼兵による奇襲などによる襲撃警報ならば訓練で聞き馴れているが、空襲警報は空襲という戦術自体が軽視されがちな帝国に在ってその警報は耳慣れないものであった。
「逃げるぞ! 郊外だ!」
おやっさんがバザロフの手を掴み、走り出す。
初老とは思えない脚力に足が縺れそうになるバザロフ。しかし、倒れても引き摺られそうになる程の強引さに意地でも付いていく。年寄りに負けては帝国軍人の名折れなどという威勢の良い建前からではなく、引き摺られて身体を地面で擦り颪にされるのを怖れたが故である。
重砲の砲弾の飛翔音とは違う、大質量物質による自由落下の風切り音。間延びした音であるが、それが決して重砲に劣らぬ威力であると察したバザロフは間に合わないと判断し、近くの屋台脇へとおやっさんを押し倒す様に飛び込む。
「糞ッ! 哨戒の連中は何をしていやがった!」
「寝てるのでしょう!? さっき酒飲んでるの見ましたよ!」
喧騒と混乱の中で二人は地に伏せたままに言葉を交わす。
戦略爆撃をバザロフは知る訳ではないが、砲撃と同じく炸裂による破片効果の被害を意図しての行動を咄嗟に行った。立ったままでは爆風に弾き飛ばされる可 能性や破砕された構造物の破片などの直撃を受ける可能性があるからであり、それは間違いではなかった。咄嗟に隠れた物陰が装甲車輛であったのも幸運であっ た。
聴覚の限界を越えた炸裂音。
耳鳴りによってお品われる平衡感覚だが、伏せている為に躓く事もない。
バザロフの経験したことのない規模の攻撃である。
砲兵による制圧砲撃を受けた事はあるが、世界に冠たる帝国陸軍砲兵隊の規模を踏まえると一方的に砲火に晒される事はない。戦場の神様たる砲兵だけは充足率を満たしている為、即座に応射が始まり、問答無用の砲兵同士の殴り合いが行われるのが常である。
しかし、今回の敵は爆撃騎。
砲兵に抗する術はなく必要なのは対空砲であるであるが、帝国軍は航空戦力に対する兵器を重視していない。主力足り得ない航空戦力に対抗する兵器の必要性 を感じていないからであった。無論、迎撃の任務に当てる戦闘騎も広い国土に分散しており、集中運用するという概念はない。実験部隊による運用が稀に行われ る程度である。
襲い来る爆風に耐える二人。
若干の熱風と降り注ぐ破片。
頭を押さえて息を潜める。下手に呼吸をして気管を火傷すると酷く恐ろしい現実が待ち受けている事を理解しているからである。そして、帝国の医療技術は大多数の周辺諸国に対して酷く劣っていた。何より兵士とは代替容易な消耗品なのだ。
バザロフは与り知らぬ事であるが、この時、投下された九九式二五番航空焼霰爆弾は隣接する倉庫街を狙って投下されたものであった。
灯火管制もなく煌々と光を夜空へと零す都市に隣接する軍事施設への航空攻撃は酷く容易なものであった。例え、夜間であっても、対空射撃に妨害される事も 探照灯で照らされる事もない以上、彼らが選択した低高度からの爆撃は間違ったものではない。そして、酷く容易なものでもあった。
潜伏する工作員による火事で目標が示されていた事も大きく、彼らの爆撃の大部分は成功する。
次々と上がる火柱。
絨毯爆撃という概念のない帝国では想像も付かない断続的な炸裂に、バザロフは重砲の曳火砲撃に匹敵するとおやっさんの頭を地面に押し付けて只管に耐える。
一際大きな爆発音が轟き、夜天を焦がす。
伏せているにもかかわらず浮き上がる様な感覚。
屋台の残骸やヒト、石材の破片に地面の土くれ。
あらゆるものが宙を舞い、熱風が全てを焦がす。
音響効果によって喪われた平衡感覚によって立ち上がる事が難しい。背を覆う破片を振り払うことすら億劫になるほどに霞む意識の中、下に庇ったおやっさんの苦しげな表情が何故か印象に深く刻まれた。
倦怠感の滲む身体を叱咤し、バザロフは顔を上げる。
既に爆撃は違う区画へと移っており、健在な建造物の屋根越しに窺える火柱の規模を考えれば弾火薬庫に引火した事は嫌でも理解できる。各種野砲の砲弾を大量に備蓄しているが故に、その火柱が齎す被害は甚大なものであった。
地下深くに建造された弾火薬庫にまで貫徹するとは運が悪いとバザロフは奥歯を噛み締める。
バザロフには知る由もないが、この時、使用された爆弾は九九式八〇番地中貫通爆弾という弾頭が鉄鋼により重量の七割を占める爆弾で、地表及び地下構造物の天井部を貫徹した後、炸薬が爆発する様に作製されていた。
無論、それは見事に地下弾火薬庫の上面装甲を貫徹した。
元より後方拠点としての機能のみを付与された上、航空攻撃によって直上からの脅威に晒される事は想定されていなかった。重砲の直撃を意図した対策のみを行っていた為、抗う術などないままに易々と貫徹されたのだ。
爆発によって火の玉となった無数の砲弾の薬缶や燃料缶などが降り注ぐ。
「これは堪らんなぁ……!」おやっさんが呻くように呟いた。
そこで、バザロフは気付く。
知らぬ内におやっさんの被っていた作業帽は爆風で吹き飛ばされたのか、何処かへと消えていた。おやっさんは服務規定に厳しく、周囲がどれ程に乱れていても服を着崩す事はないが、この状況下では乱れることも致し方ない。
だが、その姿を……頭部に付いているモノを見れば納得できた。
「おやっさん……その耳は……」
獣耳だ。
犬か狐か……判別が付き難いが、紛れもないヒトならざる者の要素がそこにはあった。
「おぅ、帽子が何処に飛んだか……秘密だぜ」
バザロフの頭に辛うじて引っ掛かっていた作業帽を奪い、口元を歪ませて呟く。
本物だろうかとその獣耳を触ってみるが、おやっさんにその手を叩き落とされる。
「中年の耳を触って何が楽しい! それより逃げるぜ!」
バザロフから取り上げた帽子を被り、おやっさんは立ち上がる。
物陰であるがこれ以上、この場にいる訳にはいかないのは確かである。周辺を見渡せば火の手が周囲を包みつつある。都市外縁に爆撃を集中しているのか、火 災は短期間で都市を覆いつつあった。消火を行うべき消防団も同時多発的な火災では能力が全く足りず、軍もまた軍事施設周辺の防護と対空戦闘に注力してい る。
後方が戦場となる事は珍しくない。戦争なのだから。
だが、これ程まで後方が……要塞と連峰という要害を挟んだ上、距離的にも開きがある拠点を叩かれるという経験は帝国という国家にとって初めてのものであった。否、大陸の戦史を紐解いても、これ程に敵地深くを奇襲した例は少ない。
周囲には建造物などの破片だけではなく負傷者や遺体が転がっているが、二人はそれを無視して郊外へと歩を進める。
最早、火災を止める事は難しい。
帝国の諸都市……特に寒冷地帯に位置する都市は火災という概念に薄く、大規模となる事例もまた皆無に等しかった。軍も浮足立ち消火どころではなく、空襲後の襲撃を警戒して防御陣地の構築を始めている。空襲だけであるとは考えていないのだろう。
今、この時、有り得ない事が起きた。
故に陸上戦力による襲撃を警戒するのは心情として納得できるものであった。
二人は、流石にエルライン要塞攻略に展開している南部鎮定軍主力とエルネシア連峰を大規模戦力で浸透突破する事は不可能であり、ましてや空襲と時刻を合わせての襲撃となれば更に難易度は上昇する。
冷静に考えれば有り得ない事なのだ。
しかし、それは一般兵士の視線からの判断であり、上層部……〈第一三二師団〉の師団長を始めとした歴々は、皇国陸軍……皇州同盟軍であれば可能であると踏んでいた。
彼らは空挺を用いた軍事行動が行われた事を知っていた。
大規模でなくとも、戦火拡大を意図した少数精鋭の空挺部隊の投入があるかも知れないという恐怖が彼らの積極的な行動を妨げていたのだ。
「くそっ、上の連中は何をしているんだ! このままだと市街地が……」
「いや、もう手遅れだろうよ!」
寧ろ、空襲後の炊き出しの為に物資を放出する準備をせねばならん、と呻くおやっさん。
瓦礫に押し潰された将兵に、鉄片が突き刺さった民間人。遠くでは子供の泣き声が炸裂音の中で微かに響いている。焼け焦げてのた打ち回る者の姿は心胆寒か らしめるものであった。あの美しく着飾っていた娼婦達も炎に捲かれて布面積の少ない薄着を焼かれ、肌を焦がして泣き叫んでいる。
「敵の狙いは弾火薬庫の様だ! うちの糧秣庫は焼かれてないぞ!」
「まぁ、見た目が貧相ですから爆撃対象にならなかったのでは!」
炸裂音と建造物の倒壊音に負けぬ様に会話しながら走る二人。
彼らの地獄は始まったばかりだった。