第一六四話 憲兵の決意
「はい、主様。あ~ん」
ミユキは食堂の端で、トウカの口元へと突匙で次々と料理を運ぶ。
乙女として好いた男にこうした行為を行うのは一種の憧れである。ましてや要塞に引き籠って同じむさ苦しい男の顔ばかり毎日拝んでいる女性将兵達の眼前
で、自分の男との仲を喧伝するという快感は何物にも代え難い。思わず尻尾が大きく揺れそうになるが、不断の努力でそれを押さえつつ、次は突匙で野菜を突き出してトウカの口元へと運ぶ。
「主様、草(野菜)も食べないと駄目ですよ。栄養が偏っちゃいます」
「そう思うなら、ロンメル子爵家の献立が三食魚介類である点を是正すべきだと思うが」
トウカが野菜をもしゃもしゃと咀嚼しながら不平を漏らす。
――失敬です。魚介類は健康にいいんです。遠洋漁業に幾ら投資していると思っているんですか。
そうは思うが口には出さない。マイカゼよりトウカが献立の偏りに辟易としているとお叱りを受けたばかりなのだ。しかも、二人で焼肉を楽しんだらしい。怪しからん事である。
政治面での摺合せを兼ねた会食であるとは言われても、感情的には納得できないものがある。しかも剥れる自分を宥める為、トウカの副官になってはどうかと勧めたのだ。説得する建前と方便もマイカゼが用意し、トウカはそれを受け入れた。
どうもマイカゼの思惑通りに事態が進んでいる気がして、ミユキはいたく不愉快であった。マリアベルの前例があるので、例え母であっても油断はできない。 寧ろ、マリアベルと近しい雰囲気を持つマイカゼは、大いに警戒すべき対象である。副官云々という話題で二人の焼肉の宴会(マイカゼの方便によるところの会 食)の内容を聞き逃したのも気に入らない。
トウカと要塞司令部の面々の衝突から既に三日が経過している。
実際には衝突という程のものでもないが、大多数の将兵からはそう捉えられている。
ミユキは可能な限り多くの者を助けるべきだとトウカに進言した。トウカに受け入れられやすい形での進言だったが、実際は物別れに終わってしまった。
トウカは――
まぁ、俺が動くと帝国軍将兵を殺し過ぎるからな。今ここで不利を悟って引かれても国防面での懸念が燻ぶり続けるだけだ。長々と戦争をするのは、ミユキも嫌だろう?
――と苦笑するだけで、別段と動きを見せる事はない。
駆け引きの一端であるのは疑いないが、トウカの物言いを考えるに帝国に甚大な被害を与える事を重視している様に思えた。外敵が再度の外征を行わない様に甚大な被害を与えるのは、これからの皇国が国内問題で揺れると判断しての事であるのは疑いない。
つまり身内の問題に口と手を挟まれない様に殴り倒しておくのだ。実に単純な論法である。
「しかし、暇だな。後でもう一眠りするか」
口元を拭ったトウカは、そっとミユキの手を握る。
この五日間、トウカは与えられた貴賓室でひたすらミユキと怠惰な日々を過ごしていた。午後に起床するのは当たり前で、部屋に併設された風呂場で汗を流し合ったり、二人揃って同じ寝台の上で一日を過ごす事すらある。つまりは、そういうことである。
「えへへっ……主様、触るのは良いけど、時間と場所を弁えてくださいよぅ」
頬に触れてきたトウカを、ミユキはやんわりと押し留める。
とは言っても素気無くする事はできない。緩やかに二人で過ごす日々が国防の最前線で転がり込んでいる幸運を安易に手放す気にはなれなかった。
そんな、ミユキの思惑を知ってか知らずか、トウカはふと思い付いた事を口に出す。
「午後は近くの都市……エッセルハイムにでも行こうか。段階的に避難も始まっているから観光もし易いだろう。建前は視察という事になるが」
「えっと、軍人さんが遊んでいて怒られないですか?」
北部の臣民を大規模に避難させるという決断を陸海軍府や政府は許容したが、当の北部臣民達は一時的とはいえ、故郷を捨てるという選択を忌避する者が大多数であったのだ。そして、その提案をしたトウカを非難する声は少なくない。
だが、トウカは謝罪する事も頭を下げることもなかった。
――俺は最善を尽くしている。北部に迎え入れられ、半年程度で征伐軍を撃破して戦況を回天させた。貴様らにできない事をしてやったにも関わらず、自らの無能と無知と怠惰を棚に上げ、俺に無手で帝国軍に立ち向かえというのか?
――ならば貴様は家族と一緒に帝国軍と戦って死ね。自決の権利まで俺は奪わない。惨たらしく死にたい莫迦者と、帝国軍兵士に凌辱されたい変質者までをも助ける余裕は俺にはない。
――不満を口にするなら軍に志願しろ。帝国という脅威に立ち向かえ。勇敢に戦え。本来は異邦人であるはずの俺が戦っている。郷土を護りたいと嘯くならば、俺と共に戦野で肩を並べろ。不満はそれから聞いてやる。
控えめに見ても冷酷だったが、トウカが口にした言葉は残酷なまでに正論であった。貴軍官民の誰しもが、トウカの狂相と相まってその言葉に口を噤むしかなかった。
トウカは自らへと不平を漏らす者に対して声高に応じた。真摯な対応を行うベルセリカとは対照的な姿勢は賛否両論であるが、皇州同盟軍の将兵は肯定的に捉えている。
トウカが避難を選択したという事実が、帝国の侵攻に対してエルライン要塞が持久し得ないという皇州同盟の公式見解を示している。そのような状況でもトウカ は残酷なまでに無駄な動きをせず、効率的な戦略を展開させ続けていた実績があった。それらの前に皇州同盟のみならず北部臣民までもが沈黙を選択した。
理性は彼に任せるべきだと告げているのだ。如何なる劣勢に在っても、口にした目標を完遂してきたという実績は大きい。
既に、トウカは北部を故郷とする者を心服させ得るだけの権威を手にしていた。
無論、北部で敵対者が現れないのは、確実に北部臣民の生命を護れると明言できる度胸と方策を持つ者がいないからである。トウカは代案なきままに不満と否定を口にする者に容赦ない非難を叩き付けた。その凄まじさは、地方議会に招聘された際、声高に吝嗇を
付けてきた女性議員を“政治に関わる資格と素養、知識が欠如している”と罵倒し、号泣して泣き崩れるまで言葉という刃を振り翳し続けた程である。トウカは 無知で無能な有識者を正論という棍棒で叩き潰す事を何ら躊躇しない。自らの意見に途中で反論しようとした者に「御前は学校で人の話は最後まで聞けと言われ
なかったのか、ああ?」と返して場を引っ掻き回してすらいた。故に付いた異名が“喧嘩屋”である。
正直、ミユキは最近の、トウカのそうした遣り方に反発を覚えているのも事実であるが、やはり皇国には余裕がない。
残念ながら、現状では無知で無能な者が政戦に関わる事で亡国に繋がる可能性が高い。無論、これも諫言してきた者に対し、トウカが口にした言葉である。
トウカは《ヴァリスヘイム皇国》の人間ではない。
だが、それでも皇国の為に戦場を駆け、敵を迎え撃つ為に幾つもの作戦計画を立案している。
トウカは実力主義者なのだ。苛烈なまでの力の信奉者であることは、高位種の将軍や提督すらも戦略的視野を持ち合わせていないと判断したならば、容赦なく皇州同盟軍の要職から外している事から察せる。
だから、ミユキは何も言わない。
ミユキは要塞駐留軍の将兵を一人でも多く助けるべきだと進言し、トウカは受け入れた。ならばトウカは最短時間でそれを成す為に動いているはずである。 今、動きを見せないという事は、それが最善なのだろう。ミユキはトウカの副官であり恋人なのだ。何よりも信じねばならない立場にある。
トウカは、ミユキの手を取り立ち上がる。
「我々は皇州同盟軍の軍人だ。下手に内戦に関わって国防の最前線を疎かにした何処かの国の陸軍とは違う。歓迎される事はあっても、敵対される事はないだろう」
トウカの嘲笑混じりの言葉に、ミユキは曖昧な笑みを浮かべるしかない。
幾ら独立独歩の気風が強いエルライン要塞駐留軍とは言え、陸軍である事には変わりはなく、何より中央軍集団などからの増援も受け入れている。しかも、士 官用とはいえ、共用の食堂なので聞き耳を立てている者は少なくない。先程から噎せ返る音と咳払いをする声が周囲で頻発していた。
トウカが「そうだろう?」とミユキを抱き寄せて視線を背後へと巡らせる。
「サクラギ上級大将。そうした会話は控えていただきたいのですが……一介の中尉には些か返答し難くあります」
直立不動の姿勢で困り顔のエルナに、トウカは「聞く耳は持っていると言ったはずだが?」と追い打ちを掛けて楽しんでいる。
こうした陸海軍に堂々と反発する姿勢こそが対等の立場を演出する行為の一つだとトウカは口にしているが、些か度を越したものである。提案を素気無く有耶 無耶にした事を根に持っているのか、そもそも征伐軍に付いた陸軍に対して思うところがあるのかは判断が付かない。どちらにせよ、女性を言葉攻めにしている 姿を人目がある場所で晒し続けるのは都合が悪い。
「もぅ、主様っ! 中尉さんに言っても仕方ないですよ」
「……そうだな。続きは陸軍府長官にでも言うべきか」
決してそうした意味で口にした訳ではない。
別で面倒が起きそうな予感にミユキは尻尾を揺らす。弁が立つのは陸海軍将兵や政治家、貴族との答弁で嫌という程に皇国中が理解している。情報部を投じて 経歴を調べたのか、笑顔で相手の古傷を抉る上、不利と見れば相手陣営の不正献金問題や不正投票などの問題を持ち出して有耶無耶にするのは当たり前という有
様である。今ではトウカを叩く事で知名度を上げようなどという無謀を試みる者は皆無であった。絶対的な報復は、敵対的な意見の鎮静化に対して大いに役立っ ている。
――う~ん、つるつる髭のおじさんが大変なことになりそうだけど……
だが、ファーレンハイトは元より苦労するべき立場にいるので、ミユキは直ぐに思考を切り替える。
「えっと、バルツァー中尉さん。私達はエッセルハイムに行こうと思うんだけど、列車って使えるかな?」
「は、はぁ。確かベルゲンまで戻る軍用列車がエッセルハイムに一時停車すると聞いていますが……」
エルナはエルライン要塞という巨大な軍事要塞を支える為、無数に存在する軍用列車による貨物車輌の車列の一つがエッセルハイムを経由すると伝えてくれる。即座に輸送列車の時刻と規模を口にできるとは思わなかったミユキは、トウカに問い掛ける視線を向ける。
トウカは鷹揚に頷く。
「では、それに便乗させて貰うとしよう……いや、その前に余分なものは置いておくべきだな」
トウカは自らの左胸に誂えられた“装飾品”を溜め息交じりに撫でる。
それは各勢力の有力者から与えられた勲章の略綬であった。
装身具式となっている略綬板には幾 つもの略綬が連なっており、皇州同盟有功章、戦捷記章、北部統合軍成立記念章、北部戦役従軍章、皇州同盟建軍記念章、クラナッハ戦線従軍章、ベルゲン強襲
従軍章、陸軍殊勲十字章、海軍勇戦章、ヴェルテンベルク領邦軍突撃章、ヴェルテンベルク伯爵有功章……その他、北部貴族の各領邦軍から送られてきた勲章の 略綬で埋め尽くされていた。
視覚的にけばけばしいが、勲功の証明でもある。
端的に言えば評価されている事実をこれ以上ない程に示すものであるが、大半が北部の貴族から送られた勲章の略綬であり国際的に有名なものは何一つない。 内乱を激化させた人物に政府が勲章を渡す程に皇国が錯乱していない点は、ミユキにとっても喜ばしい事実である。熱に浮かされた様に政府が国民に愛国心を説 き始めれば、最早手が付けられない。
サクラギ・トウカが何を目指しているのか。それは誰にも分からない。
トウカは自らの行いこそが正常であり、常道であると演説でも明言しているが、ミユキはトウカが口にする事が正しいのか否か判断が付かなかった。
それでも尚、信じるしかない。
既に《ヴァリスヘイム皇国》という国家は、トウカという異邦人の存在を前提に胎動を始めている。今更、総てを投げ出すなどできようはずもなかった。
「信じてますからね、主様」トウカの軍装の袖を掴み、ミユキは身体を寄せる。
「ザムエルでもあるまいし、女を引っ掛ける真似はしない」
そういう異名ではないが、そちらも“前科”があるので油断できないので、ミユキは否定しない。戦場でマリアベルを引っ掛けた“実績”のあるトウカが真顔で否定しても説得力がなかった。
無論、その点に於いても、惚れた女の弱みとしてミユキは信じるしかないのだが。
「いえ、任務ですので不満はありませんが?」
クレアは流麗な眉を上品に顰めて見せると、駐騎している重爆撃騎を管制塔から無機質な声と共に見下ろす。
陸海軍と共同で立案した作戦計画を笑顔で無視すると断言した姿には、驚きよりも呆れが先に来る。その上「戦争で一番に戦死するのは作戦計画書だ」と正当 化する構えを見せており、皇州同盟軍航空参謀であるキルヒシュラーガー少将も、露骨ではないが見逃して欲しいと言わんばかりの表情をしている。無論、それ
を見越した上で最初の命令をクレアに発令したのは疑いない。憲兵総監から命令書が手渡され、その上で同行するとなれば手を抜く真似も部隊移動に手間取る不 手際を演出する真似もできない。
「だけどね、お嬢ちゃん。陸軍府長官に睨まれるのは勘弁だよ。全く、ここまで躊躇わない子だとは思わなかったわ」
軍装を纏った妙齢の夫人……キルヒシュラーガーの呆れた声に、クレアは沈黙を以て応じる。愚痴を零したいと考える胸中と状況は察して余りあるが、皇州同盟軍として見るならば、トウカの命令は決して不利益を齎すものではない。
現時点では表面化させる事ができる作戦ではないが、陸海軍に武威を示す事で風下の立場に甘んじる程度の軍隊ではないと示せた。政府や中央貴族も、現状で行われている必要以上の干渉を控えるのは間違いない。
武威とは政治に於ける手札足り得る。
例え、大多数に喧伝できずとも、有力者に対して有効足り得るならば手札としての価値は大きい。その規模から陸軍の指揮下で皇州同盟軍を運用する事になりつつある流れに一石を投じたいという思惑をトウカが抱いていると、クレアは読んでいた。
亡国の縁に在っても尚、多くを理解しつつも政治闘争を続けている点を、実はクレアは高く評価していた。
各兵科士官学校で軍事行動の為に純粋培養された軍人は、貴族の政治的紐帯への配慮や政治家の理想論に対する理論武装に疎い面がある。皇国陸海軍だけでな く、軍人が積極的に政治に介入しない姿勢を打ち出している国家の国軍であれば、そうした面は必ず存在していた。故に歴代皇王の下で国防戦力を削がれ続け た。政治に抵抗する術を知り得なかったのだ。
だが、トウカは違う。政治に抗する術を理解、否、政治を敵視している。
必要とあらば、政治家にも銃口を向けるのを躊躇わないクレアですら、トウカの政治に対する嫌悪感と過剰な現実主義には目を背けたくなるほど。彼程に政治を軽視している者は初見である。
言う事を聞かぬならば、聞くまで殴り続ければいい。端的に言うなれば、まさにそれである。
そうした姿勢を取っている理由と経緯はクレアにも分からないが、最早、トウカしかいない。皇国北部を未来へと存続させる為には彼しかいないのだ。
対抗馬がいれば、トウカも政治に配慮する姿勢を見せたかも知れない。だが、ベルセリカがトウカの騎士であるかの様に振る舞い、当代ヴェルテンベルク伯で あるマイカゼが強く推すトウカに、単独で政戦共に比肩し得る者が皆無である皇国北部にとって、トウカこそが対外的な代弁者なのだ。
当初はエルゼリア侯やダルヴェティエ侯、シュトラハヴィッツ少将の紐帯の可能性などを探ったが、彼らの多くは自領の復興……最近では領民の大規模避難に追われてそうした動きをする事すら不可能であった。
恐らく、サクラギ・トウカは、それを見越した上での大規模避難を選択した。
現にヴェルテンベルク伯爵領やロンメル子爵領などのトウカに好意的な勢力の策源地は大規模避難を免れている。そうした部分を織り込んだ上で陸海軍と共通 の戦略を摺合せたと見える。避難をするのは、主に北エルライン要塞からベルゲンに至る地域の領地ばかりである。それは、早期に帝国に決戦を強要するという
建前の下で認められたが、今にして思えば、それはトウカに対して旗色を明確にしない貴族の影響力を削ぐという思惑も含まれていたに違いないのだ。
恐るべき鬼才!
合法的に敵対者の勢力を削ぎ、中立勢力に掣肘を加える戦略を、陸海軍や政府、中央貴族に認めさせたのだ。並大抵の方法ではない。
陸軍はヴェルテンベルク領の軍需施設が国防戦力の増強に必要不可欠と判断し、海軍もまた〈剣聖ヴァルトハイム〉型戦艦二隻の改修が続けられているヴェル テンベルク領を放棄できない。そして、政府と中央貴族は北部貴族と領民の懐柔と、帝国に対する防波堤という点での有効性を説いたと判断できる。無論、主導
したのは七武五公……動きを見るに大御巫であるアリアベルを中心とした天霊神殿もそれに協力している。北部での求心力低下を重く見た結果であろう事は疑い ない。
七武五公は、忽ちに北部を席巻しつつある皇州同盟の威勢を削ぎたいと考えているはずである。大規模避難地域に指定された貴族領は、政府や中央貴族への依存が深まり、北部を一勢力に統一させない為に、トウカの提案を飲んだに相違なかった。
各勢力の懸念や疑念、利益と損益に付け入り、有力者を軸に自身の発案した帝国軍を迎え撃つ戦略を承認させた手腕は卓越したものである。七武五公と大御巫、陸海軍府長官を押さえたからこその芸当だが、彼らもまたトウカの手腕を理解しただろう。
そして、尚も反対した貴族や政治家に不審死が相次いでいることも。
皇州同盟軍の憲兵隊と情報部は国内の防諜の最前線を担っている。
トウカの命令により帝国以外の国家に対する諜報任務は全てが中断され、国内での扇動や各種工作へ人員が割かれている。本来は情報部が担うべき任務も人員 不足も手伝って難易度の低いものは憲兵隊が実行している事もあり、皇州同盟軍の憲兵隊と情報部にとって主敵は国内の他勢力なのだ。
「最早、我らに選択肢などありません。敗北し、総てを喪いつつあったとしても皇都が石材と鉄骨に成り果てるまで戦い続けるしかないのです」
それが、クレアの覚悟である。
時代は北部に軍神を産み堕とした。彼が居なければベルセリカも現れなかったと考えれば、トウカ以外の選択肢など、元より北部には与えられてすらいなかった。危うい部分が多くとも、選択肢がない以上、クレアの答えもまた一つしかない。
だから、クレアはトウカに総てを賭けた。
自分の能力と身体と生命と……あらゆるモノを投じ、奉仕するのだ。それが皇国の、北部の未来に繋がると信じて。
「貴女、正気なの? ……いえ、正気なのよね」
狂ってるわ、と溜息を吐くキルヒシュラーガーに、クレアは貴族の御令嬢の様な佇まいをそのままに口元に緩やかな笑みを貼り付ける。
小鳥の囀りを思わせる可憐な声音と、浅葱色の髪を右で束ね、憂いを帯びた榛はしばみ色の瞳を備えた清楚可憐にして美貌の憲兵中佐に、周囲で作業をしている管制官達も聞き耳を立てていた。
「閣下はあの日、演説で仰いました」
そう、だからこそ、クレアはトウカに従って血塗れの勝利か、亡国へと続く敗北かを見届ける途を選択したのだ。
「逃げ道など、もう何処にもないのだ……と」
一貴族や領民が嘯くのではなく、軍神がそう口にしたのだ。
その時の彼は酷く、恐れ、怒り、そして悲しげであった。
トウカは既に覚悟を決めている。
総てを薙ぎ払う腹積もりであろう。
或いは、総てを喪う覚悟であろう。
「尚も逃げるというのであれば、即刻軍装を脱がれるべきです。我々は祖国の存亡を賭けた闘争の最中に在るのですから」
挙国一致が叶わないならば、背後を気にせねばならない。そして、トウカの背後を政治的に護るべき立場にあるのが自身であるとクレアは自負している。それこそが憲兵隊の長たるの責務なのだ。
命令違反も叛逆も虐殺も、必要とあれば行うべきなのだ。
幾つもの手段を選択するだけの余裕は、既に皇国にもクレアにも残されていない。情報部を経由して得た報告書には、国防の最前線が内外から瓦解しつつある現状が克明に記されていた。自身の憲兵隊に陸軍に対する査察権や逮捕権があれば、駆け付けて悉くを処刑台に送る事ができるというのに、クレアはこの場で重爆撃騎を見下ろすしかできない。
歯痒くあった。
「閣下も、このエッセルハイムに向かっているとの事です」
一度、腰を据えて話しをしてみるべきだろう。
好意的ではなかったが、敵対的でもなかった以上、自身を危険視する事はないとクレアは踏んでいた。
トウカは、自身を優秀な憲兵程度としか考えていないが、クレアは北部統制の先鋒であると自負していた。陸軍の野戦憲兵隊と国家憲兵隊にとって北部地域は 自らの影響力の及ばない土地であり、対する皇州同盟軍の憲兵隊は北部貴族の各領邦軍から抽出した憲兵隊を統合して編制されている。つまり、北部地域では皇 州同盟軍の憲兵隊こそが最も治安維持に適した組織と言えた。
総てに掣肘を加える事のできる組織へと、憲兵隊を拡充するのだ。
「私はサクラギ閣下を信じます。血塗れの勝利を掴むその時まで……或いは、築き上げた総てが瓦礫の山となるその日、その時、その瞬間まで」
クレアは敬礼すると、キルヒシュラーガーに軍装を翻して背を向ける。
誰も彼もが無責任に国家の存続を信じている。愚かしい事である。常識や基準など、軍事力の前には意味を成さないというのに。
そして軍事力を振るう者達こそが次の常識や基準となるのだ。
彼女は護らねばならない。
穢れた己を受け入れてくれた第二の祖国を。
さぁ、どうしようもなく愚かしい時代が始まる。
「大蔵府長官、卿の気持ちは分かりますがね……」
長帽子に長髪、整えられた顎鬚。上品に仕立てられた燕尾服などの第一正礼装に身を包んだ中年男性は紳士然とした佇まいで、激怒している強い顔をした中年男性を宥める。眼前で激怒されて唾を撒き散らされるのは、不愉快以外の何ものでもない。
強面に眼鏡を掛け、鼻下に髭という顔立ちに軍人の様に筋骨隆々とした佇まいの大蔵府長官……ルイス・クラウス・リヒャルト・シャハト伯爵は、整えられた髪を掻き毟って絶叫している。岩窟人族のシャハトには似つかわしくない断末魔の叫びに秘書官が怯えるが、それも致し方ないことである。
《ヴァリスヘイム皇国》という国家の財政は行き詰りつつある。
天帝不在による政治の停滞に加え、軍事的脅威による情勢の不安定化は経済危機を齎しつつある。行き先の不安から国民の財布の紐は一層と締まり、国内外か らの投資は減少して経済面での流動性は喪われた。相対的に国庫へと流入する資金は減少し、資金難は増税を考慮せねばならない状況になりつつある。無論、増
税が中長期的に見ても更なる資金の流動性の低下を招くのは明白であるが、現状が続けば避けられない。
そんな状況下で陸海軍は、膨大な予算を申請する。
シャハトが激怒するのは何ら不思議ではなく、陸軍との折衝ではファーレンハイトと取っ組み合いを演じている。陸海軍は先代天帝の下で冷遇されていた為に 予算減少の一途を辿っている事に加え、帝国軍による侵攻に対抗する為の臨時予算を含めた申請予算は、五年分の予算を一括で要求しており、シャハトでなくと も卒倒する程のものである。
長帽子を机へと置き、皇国首相の肩書を持つ男は溜息を一つ。
クリストフ・シュトレーゼマン。
この難局に在って皇国首相という職責は重責に他ならない。シュトレーゼマンの心身を諸事情が蝕んでいたが、交渉の成果もあって資金拠出の目処が付く算段を立てる事ができた。
セルアノ・リル・エスメラルダ。
浮世離れした容姿の狼種の女性……だと思っていたが、その正体は幻想種とも言われる神代妖精種だったと最近になって報告を受けた。恐らくは、皇国建国時 に既に生まれていたであろう相手に、交渉に赴いた閣僚如きが優位を勝ち取る事ができるはずもない。無論、シュトレーゼマンもシャハトも、セルアノから見れ ば閣僚と比しても誤差でしかないのは疑いない。
「あの強欲妖精に手札もなく挑む不利は分かるが、国債を譲渡するのは危険だ!」シャハトが口から泡を飛ばして叫んでいる。
既に決まった議決を蒸し返したくなる気持ちは理解できるが、既に閣議で決まった事であり、同時に政府が皇州同盟相手に切れる手札は最早”国債”しかな い。北部地域はヴェルテンベルク領以外は甚大な経済的被害を受けており、多くの北部貴族は経済難に塗炭の苦しみを味わっている。だからこそ七武五公からの
提案である、領邦軍の縮小と引き換えに北部貴族に対する一〇年間の各種税の免除や、公共施設整備への公的資金の大規模導入を政府は受け入れた。その時点で、政府が可能な妥協や譲歩は殆どが行われた。
しかし、現実はどうか!
北部貴族の各領邦軍は、確かに軍備を領地警備のみを目的とする規模にまで縮小させたが、北部統合軍は解体されたかと思えば、一週間程で皇州同盟軍という 巨大な義勇軍が成立している。挙句に、陸軍の北方方面軍司令官にヴァルトハイム元帥がアリアベルによって親補された事により、陸軍の一方面軍が陸軍の影響 下から離脱しつつあった。
内戦の停戦は、表面上は北部統合軍の敗北に等しいものであった。
だが、現状はどうか!
大御巫のアリアベルを戴き、陸軍の一方面軍を強い影響下に置きつつある。
これではどちらが勝者か分らない。
全力で他勢力の妥協と譲歩、善意に付け込んで勢力を拡充している。彼らは他勢力を敵視するのを止めてはいない。心情的な部分を解決するのが容易ではない のは、長命種であればこそ良く理解している。時間の経過のみが解決する要素足り得る事もあり得るのだ。その時間を短縮すべく手を打った心算であった政府だ が、皇州同盟はその様な思惑など笑顔で踏み躙りつつある。
シュトレーゼマンは、寝台特急でもある政府専用車両の窓から雪景色へと視線を逸らす。
時折窺える戦車や装甲車、火砲の残骸は、内戦時に鉄道路線を巡って行われた名前も付かない小競り合いによる戦いで喪われた兵器達。皇国に於ける内戦は軍事的転換期と成り得る可能性を秘めているという報告書が上げられており、シュトレーゼマンも概要は理解していた。
会戦という陣形を組んだ軍隊の衝突から、戦域そのものを広域として利用した大規模な散兵戦への変遷が一度の内戦で劇的に実証された。魔導士による魔導障 壁の展開は、その持続時間と散兵による多方向からの攻撃に脆弱に問題があり、それが内戦で大きく露呈した。挙句の果てには、機動する装甲した特火点である
Ⅵ号中戦車が雪原を疾駆し、それに対する防御が間に合わない戦況が多々あった。一方を指向しての会戦ではなく、兵力分散と機動力によって位置的優位を確保 する散兵戦……トウカが提唱する機動戦は、保有兵力と兵力損耗を低減できるが、それは予算の減少を意味しない。寧ろ、高度な士官教育と複雑に機械化された 無数の兵器の運用による諸兵科連合編制は、会戦以上に予算を必要とする。
「ヴェルテンベルク伯は、どの様に予算を捻出したのか」
無論、何百年の期間を領地の重工業化と機械化に費やしていたヴェルテンベルク領だからこそ、領邦軍の機甲化に成功したのだろう。
その資金源は、相も変わらず不明である。
その点に踏み込めば、恐らくはもう一度の内戦になるだろう事は疑いない。
「やれやれ……誰も彼もが自勢力の伸張に必死だ。国家存亡の危機に在って尚この様とは……情けない」
できればサキラギ上級大将とも会談をするべきだろう、とシュトレーゼマンは溜息を吐く。セルアノですら単独で顔を合わせるのを警戒するトウカが難物であるのは、内戦中の立ち振る舞いからも十分に理解できる。
「俺は寝るぞ! 寝る!」
シャハトが眼鏡を取り、荒々しく椅子へと腰掛ける。
今年は政府閣僚に“戦死者”が出ると口にする議員も少なくないが、場合によってはそれも有り得た。シュトレーゼマンはシャハトに、佳き眠りを、と呟くと、再び雪原へと視線を向ける。
遠目に、戦火に傷付いたベルゲンの城壁が見え始めていた。
自らの意見に途中で反論しようとした者に「御前は学校で人の話は最後まで聞けと言われなかったのか、ああ?」と返して場を引っ掻き回してすらいた。……こ れは議会でオットー・フォン・ビスマルクがそれに近いことを実際に言っています。主君の臆病を嗤って刃物を突き付けられたりと、彼は極めて愉快な人物なの です。作者の尊敬する喧嘩屋……政治家です。