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 第二〇三話    人造の煉獄

 

 


「久方ぶりですね、へたれ悪魔」

「五百年くらいね、色惚け天使」

 二人が視線と言葉を交わす。正確には五五二年越しの邂逅であり、それ以前の邂逅は少なくとも動乱という形で各国の歴史として記されているものもある。

 二人の最初の邂逅は、皇国建国時の解放戦争であった。


 方や彼方の熾天使。初代天帝に恋い焦がれて、天使を率いた盟友たるの天使。

 方や此方の大天魔。初代天帝を己がものにせんと、闇夜の眷属を率いた天魔。


 皇国建国時の解放戦争が複数種族による初代天帝の争奪戦であったとする歴史家も少なくないが、天使と悪魔が争ったと知る者は今となっては当事者のみである。

 ヨエル個人としては、エリザヴェータを好ましく考えていたが、歴史は常に互いを敵手とする事を宿命付けていた。或いは、初代天帝を起点とする数々の遺恨 が噴出した結果とも言える。皇国と帝国の衝突すらも、二人の遺恨に依る所が大きい。両国の建国当時から衝突は確定事項も同然であったのだ。少なくとも二人 を知る極少数はそれを理解しており、両国の衝突を前提としていた。そして、止め得ないと確信し、被害を低減する方向で状況が推移した結果として、エルライ ン回廊を中心とした攻防戦があった。

 その大前提を打ち砕いたのがエカテリーナとトウカである。二人の邂逅が、ヨエルとエリザヴェータの邂逅となるのは、ある種の必然性を伴っていたのだ。

「さて、此方の仕事は終えたので、引くならば見逃して差し上げますよ?」

「へぇ、貴女かこの私を? 貴女が見逃してくださいと泣きつくのが筋でしょ? ほら、跪け」

 二人が距離を取り、武器を構える。

 ヨエルは、どうしたものかと張り付けた隔世の笑みの裏で思案していた。二人の戦闘能力は互角であるが、吸血鬼の資質を有するエリザヴェータは完全に殺し 難い特性を有している。神性の権化たるヨエルの一撃であれば浄化できる筈であるが、エリザヴェータは何故か致命傷を負わない。挙句に神性を傷付け得るだけ の魔性を宿している。

 神魔戦争時に神々の陣営の次期主力兵器……広域殲滅型打撃天使として試作されたヨエルは大戦末期の試作兵器であることから極めて強大な戦闘能力を有して いた。本来は単独での大規模複合魔術による大量破壊を行う事を前提に設計されているが、それ以前の天使や悪魔、魔人を近接戦闘で遥かに優越するだけの個人 防禦能力もある。中距離戦闘に於いては魔導戦艦との魔導砲撃戦を意識している事を踏まえれば、全距離対応の最上級(ハイエンド)型と言えた。

 自己修復能力があるとは言え、各種技術と運用設備が喪われた為、全盛期よりも能力の劣化はあるが、それでも尚、ヨエルは強大な能力を有していた。本来で あれば、エリザヴェータに敗北し得る要素はない筈である。エリザヴェータの正体は不明であるが、悪魔と吸血鬼の素体を利用した魔導陣営側の兵器であると推 測できる。ヨエルと同様に試作型であったと言うならば、情報がない点も納得できる上、大戦末期の魔導陣営側は被弾面積の低減を意図して幼い容姿の悪魔や魔 人を積極的に生産していた。辻褄は合う。

 結果として二人の戦いは皇国建国以来、一度として決着が付いていない。特に霧へと転じる事が可能で身体の形状に囚われない点と、周辺の動植物から魔力吸 収が可能であるという点が、その撃破を著しく困難なものとしていた。神性を遮断する特性に、生物の傀儡化などの能力を有し、明らかに個人での戦線維持を意 識した能力を付与されている。本来、複数の能力を付与するという真似は極めて困難を伴う行為であり、少なくとも大戦末期での極一部の個体にした実装されて いない。無論、費用対効果(コストパフォーマンス)の問題もある。

 ヨエルとしてはエリザヴェータと好んで干戈を交えたい訳ではない。争点とも言えた初代天帝は既になく、双方共に旧時代の残滓に過ぎない。ヒトの子の時代に二人が積極的介入を行うのは酷く御節介な行為と言えた。

 エリザヴェータは、溜息を一つ。大鎌を下ろし、トウカに無遠慮な視線を向ける。

「それ、やっぱり本物なの? なんで今更」

「それは私にも分かりません。今では彼も神々の仲間入りでしょうから聞き様もありませんゆえ」

 ヨエルも戦斧(ハルバード)を下ろし、トウカに 視線を投げ掛ける。二人から視線を向けられたトウカは眉を顰め、エカテリーナまでもが興味深げな視線をトウカへと向ける。観念したのか頭を掻くと、肩を竦 めて見せたトウカは「人気者は辛いな」と苦笑に転じる。この危機に際して軽口を叩く様を見れば、やはりエリザヴェータも認めざるを得ないのか、天を仰ぐ。 仰がれた天壌の彼は居心地が宜しくないに違いないと確信できるだけの凄絶な笑み。

「いいわ、逃がしてあげる」

 大鎌が宙に投げ捨てられるが、落下せずに掻き消える。魔導礼装の類に違いなかった。エリザヴェータの興が削がれたと言わんばかりの姿勢に、ヨエルも拍子抜けするが、望む以上となった状況で異論を挟む真似はしない。

 一転して年相応の童女の笑み……と言うには些か勝気にして得意げな笑みを以て腕を組むエリザヴェータの姿に、トウカは警戒感を露わに、エカテリーナを盾 にできる位置へと移動する。良くも悪くも最善を尽くす行為であり、ヨエルの背後に移動するのは最大級の戦闘能力を拘束するべきではないという発想からで あった。

 しかし、それは位置関係の都合上、ヨエルから距離を取るという選択でもあった。

不意にエリザヴェータの姿が消え失せる。現れたのはトウカの眼前。ヨエルが対応する暇もない。天魔の口が開かれ、左腕に噛み付かれるトウカ。軍人だけあって対応は早い。右手に手にした自動拳銃をエリザヴェータの腹部に押し付けて連射。弾倉(マガジン)に残存した実包全てを射耗し尽すが、エリザヴェータは何の痛痒も感じていないのか、銃弾のことなど気にも留めていない。実際、羽虫が肌を刺した程度にも感じておらず、衣類には発砲炎(マズルフラッシュ)による焦げもない。

 慌てたヨエルが距離を詰めて戦斧で殴り払おうとしたが、エリザヴェータは黒い霧となって掻き消える。霧を裂いた戦斧を引き戻し、トウカを背に護りの姿勢を固める。

「御馳走様。あなた、美味しいじゃない。負けてないわよ。でも、胡散臭い薬は止めた方が良いんじゃないかしら」

 エカテリーナの横に並び立つエリザヴェータは、口元の血を艶かしさすら感じる長い舌で掬いとる。トウカはその光景を前に、噛み傷を負った手を庇いもせず、自動拳銃を振るい弾倉を捨てると、腰の弾薬盒(パトローネンタッシェ)から新たな弾倉を引き抜く。

「あら、血を吸われた中で頭に血を上らせるなんて甘いんじゃない? その辺りは精進が足りないわね。頑張りなさい」

 息の荒いトウカを見て取ったエリザヴェータの嘲笑。

 吸血行為は激痛を伴う行為と見られがちだが、実際のところは酷く性的興奮を伴う行為である。蚊などは吸血をする際に痒みを伴う物質を注入するが、吸血 鬼……皇国法規に於ける吸血種は性的興奮を伴う物質を注入する。蚊の場合は、生理活性物質を含む唾液を注入した後に吸血を行う事で、血小板の凝固反応は妨 げて体内で血が凝固して摂取の妨げとならない様にしている。対する吸血鬼の性的興奮を伴う体液の注入は、対象の抵抗を削ぎ、興奮させることで血行促進をさ せる事で吸血をより効率的に行う為のものである。

 無論、見初めた相手であれば、性行為を行いながらの吸血も頻繁に行われるので吸血種にとって趣味と実益を兼ねた能力と言える。トウカに対する吸血は僅かな時間に過ぎなかったが、それでも尚、ヨエルは相手が悪いと眉を顰める。

 銃把(グリップ)を握り締めるトウカ。血走った瞳は、吸血種の唾液による効果が生じつつある事を示していた。本来であればかくも即効性を伴うものではないが、相手が例外的である為、ヨエルの知識は役に立たない。

 その姿に満足したのか、エリザヴェータはくすくすと癪に障る笑みを零す。

「じゃあ、ね。また、遊びに行くわ。次は閨で相手してあげる。血を滾らせておくことね」

「てめぇ!」

 トウカが、新たな弾倉を自動拳銃に叩き込み、遊底後退(ホールドオーブン)した遊底(スライド)遊底止め(スライドストップ)を押さえて元に戻すと、すかさず引き(トリガー)を引く。反動(リコイル)を押さえきれないが故に、集弾性に劣るものの、それは広範囲へ銃弾を撒き散らせる事を意味する。

 しかし、笑みを崩さないエリザヴェータの前に弾き飛ばされる。火花を散らして砕け散る銃弾。いかなる手段による迎撃であるかは、ヨエルにも読み切れない。

 幼女が女帝の腰を抱く。二人の姿が周囲に滲む。曖昧に同化して、僅かな間を以て掻き消えた。

「閣下、撤退準備を」

「……ああ、そうだな」

 ヨエルの言葉に、自動拳銃を拳銃嚢(ホルスター)へと仕舞ったトウカは天を仰ぐ。

 こうして帝都初空襲下で行われた空挺降下部隊は撤退行動に移った。










「霞網に絡め取っての撤退とは……天使は何時から害鳥となったのでしょう」

 座席に座したヨエルは悲し気に囁く。皇都では一年に幾度かは酔っ払った天使系種や鳥系種が電線に接触する“焼鳥事案”がある事など知りもしないという表情での一言に、戦略爆撃騎内は妙な静けさに包まれた。

魔道国家の異名を持つ皇国だが、大都市圏では電力による設備稼働も行われている。人口密集地域では魔力使用により大気中の魔力に差異が生じる為、安定して 動力を稼働させる必要性のある設備などは電力稼働が一般的であった。特に医療関係や政府関係、軍関係が予備電源として求める傾向にある。複数の動力源を確 保して有事の際に動力源の喪失に備えるという意義も大きい。

「でも、天使さん。貴女は直接乗り込んできたじゃないですか」

 隣席のミユキが興味津々とばかりに、ヨエルの(はね)を 触りながらも苦笑する。その瞳は何があったかを問い掛けたくて堪らないと語っており、それ以上に尻尾は激しく自己主張していた。その視線を感じたのか「こ の子が心配してるんですよ、私は副官として心配してるんです!」と己の尻尾を捕まえて誰かへの言い訳を重ねているミユキは誰からも放置される。

「で、閣下はどうしたのですかなぁ?」

「ラムケ少将……ただ少し大きな蚊に噛まれただけですよ」

 ラムケの問いに対するヨエルの答えは曖昧なものとならざるを得ない。

エリザヴェータという非公式な脅威の隠蔽などという問題ではなく、トウカの昂ぶりが露呈する事で生じる面倒を厭わしいと考えた為である。何が悲しくて昂ぶる男を慰める役目を望むであろうミユキとリシアを叩き伏せねばならないのか。という辺りがヨエルの心情である。

 噛まれた左手の手当と鎮静剤を打ち、睡眠薬を飲ませて仮眠室に転がしたトウカが酷く苦しんでいる事は想像に難くない。本来であれば、ヨエルが手取り足取 り御慰めするのが順当で、寧ろ建国以来の約定と言っても過言ではなかった。主君に仕え、主君が望む事を成すのが天使の在り方である。

 嘗ての主君が願い、実現したこの時を恋い焦がれたヨエルの心は荒れ狂わんばかりに燃え盛っていた。総てを、一切合切悉くを捧げて寄り添うのが自身である と、少なくとも最終的にはそうなると確信していたヨエルだが、無遠慮に近付く仔狐と紫娘にこそトウカが気を許している様を見て心中穏やかではない。トウカ は戦略爆撃騎へ帰還した際、ミユキを呼び付けようとしたのだ。仮眠室に連れ込んで何をする気であったかは明白である。ヨエルがいなければ大参事である。航 空騎に高度な防音設備などあるはずもない。そこにリシアまでもが乱入すれば阿鼻叫喚であろう。

 無論、人間種に過ぎないトウカが、エリザヴェータの唾液の効果に理性を維持している点は大いに評価できる。少なくとも将兵の前では相応の立ち振る舞いを 維持していた。であるならば、ヨエルもまた彼の望む在り方を支えねばならない。彼が戦場から帰り副官に劣情をぶつけたなどという風聞を避ける為に、ヨエル は動かねばならなかった。

 望む事を与えるのが天使であり、堕落させる為ではない。

 ただ、折角の機会であったこともまた事実。無念である。

『セラフィム公……貴殿、正気なのか? いや、大丈夫か?』

「叩き落としましょうか?」

 アーダルベルトの言葉に「ヨエルは女運のない貴女にだけは言われたくない」と胸中で怒り狂っているであろうエルリシアを思い描く。前妻も随分な相手に見 初められたものであると同情する。無論、その前妻と全く同様の遺伝子情報を以て作られたリシアの有り様を見れば、似た者同士であるかも知れない、と同情の 念は忽ちに消え失せた。

「天使が言うのも宜しくないのでしょうが、今宵の神々はシュテッセルの賭博場(カジノ)で休暇中でしょう。後で叱っておきます」

 何とも言い難い表情の飛行兵達に、ヨエルは微笑み掛ける。ある種、神々の尖兵たる天使系種族のみに許される類の冗談を笑う者は……ラムケだけである。一番、敬虔である必要のある従軍神官の呵々大笑に騎内は更なる困惑に包まれた。否、厳密には憂色に包まれている。

 トウカが負傷したという事実は多大な衝撃を以て〈第一航空艦隊〉を駆け巡った。昨今の軍事に対して然して詳しくもないヨエルであるが、トウカが人事不詳 となるだけでとは考えもしなかった。ラムケですら表情に些かの影が見受けられる事から、トウカは想像以上に北部に於ける精神的支柱として存在感を示してい るのだと、ヨエルは予想を修正ざるを得なかった。こればかりは現地の所感を以てでしか推し量れない。

「致し方ないですね」ヨエルはミユキの頭を撫でる。

 座席から立ち上がり、ヨエルは思いの外撫で心地に優れたミユキの狐耳を今一度摘まむ。トウカが固執する理由が分からないでもない。

「では皆様方、私がサクラギ閣下の治療を行います。二〇分程時間をいただけますか?」

 溜息を一つ。成分が不明である以上、対応できるかは怪しいが、少なくとも熾天使が治療して暫く安静にしておけば治ると宣言すれば済む話である。ヨエルとしては、全く不都合はない。

「では、小官が同行します。他派閥の者と単独で合うのは双方にとり危険(リスク)となるかと」尤もらしい言葉に包まれたリシアの懸念。

 ヨエルはラムケへと視線を投げ掛ける。リシアが孤児院出身である事はヨエルも知った事実であり、ラムケがその孤児院で院長を務めていたことも同様である。

 察したラムケが進み出る。

「まぁまぁ、リシアさぁん。風俗の最短時間より短いのです。間違いは置き得ませんぞぅ」

 従軍神官らしからぬ発言。騎載機銃に祝福でもしていなさいと神託を騙りたくなる程の問題発言だが、神々を名乗る一団の次元世界規模の無責任を知るヨエルは咎める真似をしない。

 ミユキの視線が無言で背中に突き刺さるが、ヨエルは沈黙を選択した点に小さな驚きを抱いた。ヨエルを納得させるという不可能に挑戦するよりも、黙秘を貫いてトウカが現れた際に掛ける言葉でも考えるほうが合理的であるなどという建設的な理由からではないとは察せる。

「貴方は同行したくないのですか?」

 尻尾を抱いたミユキは沈黙を続ける。周囲が怪訝な顔をする。少なくともミユキという少女の行動力は、転化したアーアルベルトの髭を掴んで着艦したことか ら、〈第一機動部隊『サクラギ機動部隊』〉所属の面々は理解していた。そのミユキが沈黙を選択したという事実に驚きを禁じ得ないのは自然な流れであった。

 それでも尚、ヨエルはミユキを見下ろす。

「……私、主様を信じてます。どんな時でも信じるのが私の罰です。そう思うんです」

 促されて絞り出た言葉。ヨエルは無言で踵を返した。

 彼女だけがその意味を察した。察せざるを得なかった。








 主様が自分だけの主様じゃなくなっちゃった……

 眼下で燃え盛る光景は、端的に今この時代の煉獄が何処(いずこ)にあるかを示していた。少なくとも、ミユキはそう捉えた。

 灼熱の市街地。燃え盛る無数の建造物。住宅も高層建築物も分け隔てなく灼熱の溶鉱炉へと溶け消えていく。川岸に群がる人々の影が、行き場のない彼らの状 況を示している。熱さに耐えかねて川へと身を投げる人々。幼子を抱えた女性に、踏み倒されて人海に消える老人、子を庇う父親の背中、恋人を護る若者……そ の全てがミユキには見えている。

 視覚に優れる高位種であり、戦略爆撃騎は現在低空飛行で帝都から撤退しつつある。欺瞞進路を見せつける為の欺瞞進路であるが、それ以前の爆撃でも命中精度を重視して低空飛行による爆撃と砲撃による近接航空支援が行われていた。

 眼下の光景を見る機会は十分以上に存在した。存在してしまった。対空砲火も殆どなく、要撃騎の襲撃も散発的なものに過ぎず、箱型陣形(ボックス・フォーメーション)による銃撃と魔導射撃の集中は容易く敵騎を跳ね除けた。中には練度不足か、生来の臆病が表面化したのか、アーダルベルトの威容に飛行兵の指示に従わずに遁走した龍もかなりの数で存在する。高位種が転化した群れ相手に、只の龍が抗し得る筈もない。

 兎にも角にも低空飛行の機会があり、多くの者達が大規模空襲の”成果”を見せつけられた。

 これでは虐殺ではないか。

 そう叫びたい者は多い筈である。当初は爆撃の視覚効果も相まって歓声を上げていた飛行兵達も真下には何百万人という民衆が住まうと理解する者が増えるにつれて人目を憚る様に沈黙していった。

 トウカの「人的資源の漸減こそが戦争の早期終結を実現する」という言葉を、軍人達の多くは称賛したが、それが民間人を積極的に殺害するという点を端的に 理解できるものは少なかった。そして、それを実行する部隊に在って割り切れる者は更に少ない。トウカは嘘を言わなかった。数値の上では、寧ろ誠実さすら伴 う。だが、それを実現するべく戦場に立つ者達は心に大きな傷を負う事になる点を、彼は軽視していた。

 人間種であるリシアも双眼鏡に望遠術式を追加展開して眼下の地獄を見ていた一人である。

「耐えかねた龍種も居るみたいね。沈静術式の使用が始まっているわ。催眠暗示なんて高位の龍が情けない話よ」

 殺し殺されるのが戦場なのに、とリシアは嘯くが、その表情は暗い。龍種による戦略爆撃騎は卓越した能力を有するが、同時に航空騎が感情を有しているに等しい。彼らが負う心的外傷は箱型陣形(ボックス・フォーメーション)となって表れている。あのアーダルベルトですら沈黙を強いられている現状、戦略爆撃は龍種により多大な心的負担を強いている。

「戦争は傷付け合いだけど、どう頑張ってもやっぱり一方的な事にはならないってことかな?」

 限りなく虐殺に近い彼我被害数であるのが望ましいとするトウカだが、彼にとり航空騎が心的外傷を負うなどというのは考慮するべき事項ではなかったのは間 違いない。ミユキは知っている。トウカの知悉する航空戦力は感情など持たないと。鋼鉄の翼を翻して群れを成す人造の凶鳥は、それを駆る飛行兵の意思の赴く ままに戦空を舞う。航空“機”という戦闘単位(ユニット)に一つの意思しかない。複数人が搭乗しても意思決定は機長が行い、航空機自体が意思を持つ訳ではなかった。

 大前提として、トウカの望む航空戦力とは違うのだ。その結果と過程に変化があるのは当然である。

「クルワッハ公もこの作戦には参加しているのよ。皇国は政府や中央貴族も今作戦を正義だと吹聴しなければならなくなるの。トウカにとっては追い風でしょうね」

「えっと……そうなの?」ミユキは首を傾げる。

帝都空襲を批難した場合、参加したアーアルベルトに対する批難となる為、それは事実上の敵対となりかねない。政府としても有力者として最上位にあるアーダ ルベルトが国家方針と乖離したと思われるが如き発言により、他国からの付け入る隙となることを恐れる筈であった。龍種主体の“偉業”を龍種の有力者達は最 大限活用すると予想され、これに対する批難そのものが龍種との軋轢の原因となりかねないともなれば、批難はに対する及び腰は容易に想像できた。無論、ミユ キはそうした背景まで察せないが、少なくとも「偉い人の活躍に吝嗇(けち)を付けて揉めたくない?」とまでは想像できた。

 リシアは、唸るミユキを放置して視線を上へと投げ掛ける。

「クルワッハ公……帝都五〇〇万名余りの生命が対価としての龍種の地位向上です。他人の懐を当てにして悲願を叶えるのですから、さぞ喜ばしい事でしょう?」

 ここ最近で一番の得意げな表情に、ミユキは「うわぁ」と声を上げるが、呵々大笑のラムケの声に掻き消された。確かにアーダルベルトは直前に押し掛けたの みで、資金や資源を拠出した訳ではない。発艦時の協力はあったが、それも確実に必要なものであった訳ではなく、間違いなく他人の懐……便乗したに等しい。 その上、龍種地位向上の対価を支払ったのは帝国臣民であり、アーダルベルトは二重の意味で他人の懐を当てにしたと言えなくもない。

 しかし、アーダルベルトはリシアの指摘に苦笑を零す。

『機を見るに敏いとの称賛、素直に受け取ろう』

「ちょっ! この! ……良い性格してるじゃない」

『貴官ほどではない。ところで陸軍所属の貴官も中々に他人の懐を――』

「それを言うならば閣下も娘の教育を酷く失敗して――」

 紫苑色の少女と神龍の長による不毛な言葉の応酬。そして、ラムケの野太い笑声。ミユキ釣られて苦笑を零すが霧の降りた心情は晴れない。

 既に皇国と帝国による今回の戦争は犠牲者数で、比類なきものとなりつつある。厳密には交戦状態が常に続いているのだが、一つの区切りとして近年の交戦を 見た場合、死者は一年程度で何百万となったのだ。既にエルライン要塞攻防と三都市への爆撃で一〇〇万名を超える死傷者が生じている中での帝都空襲である。 近代史上、これ程短期間で何百万という犠牲者が出た例は皆無である。厳密には皇国に於ける内戦も帝国の関与が認められる為、犠牲者として計上できた。その 場合、犠牲者は更に増加する。

 最早、戦争は純粋に敵国の人間を根絶やしにせんばかりの総力戦になりつつある。トウカが指摘した殲滅戦争の始まりであり、彼は望んでその実現に情熱を燃やしている。被害者にならない為、積極的に加害者として敵を鏖殺する途を選択した。

 ゆえに、ミユキの以前よりの懸念はこれ以上ない程に鎌首を(もた)げた。

 もし、ミユキがトウカに招聘された理由を告げていれば、皇国は慈悲も救済もない戦争へと挑む必要はなかったのではないのか?

 ミユキにとっての至上命題である。一層の苛烈な闘争を以て現状の打開を図ると思えるかも知れないが、トウカが十分な権力を有して国家指導に望むならば国 力増強や技術革新に重きを置く筈で、積極的に敵国と干戈を交えると、ミユキには思えない。現在の戦闘の連続は、トウカの政治基盤の増強という意味合いが大 きい。その辺りを達成できていたならば、敵国の妥当ではなく、如何に敵国の資源と国力を損なわずに併合するかという点に重きを置くはずである。常に費用対 効果を気に留めるトウカが、意義の乏しい戦火拡大を行うはずもなかった。

 しかし、トウカに至尊の立場という然るべき地位を指し示す事は、ミユキが隣に立てなくなる事を意味する。大多数の権力者にして自身の存在が目障りになる と、ミユキはマイカゼより教えられた。トウカの権威と権力に護られ、ただ与えられるままに隠れ潜むという選択肢があるかも知れないが、僅かな邂逅では共に 成せる事も少ない。ミユキはそれに満足できなかった。

 己の我儘が、或いは戦争を激化させているのではないのか。皇国の未来を一層と流血と屍に彩られたものとしているのではないか、という恐怖を、ミユキは今一度突き付けられた。

 一頻り皮肉の応酬を終えたリシアが座席に荒々しく腰を下ろす。形勢不利を自覚した様子であった。

「何をうじうじとしてるのよ。情けない。あなた、そんな顔でトウカに合う心算? 陰気臭いわよ」

 ミユキの右の狐耳を引っ張り、リシアが注意する。否、注意ではなく不満の発露と言えた。リシアは帝都空襲に対する現状を手放しで称賛する数少ない軍人で ある。他にはラムケしかおらず、大抵はやり過ぎではないのかという懸念を抱いていた。軍人が敵を打つのは称賛を受ける行為であるが、眼下の民衆は前線に姿 を見せた訳ではない。

「ベルゲン空襲の時、トウカは言ったわ。義務を果たしたいならば忘れろ、と。他の兵士共も辛気臭い顔をするな! 胸を張れ! 笑いなさい!」

 リシアが大音声で飛行兵達を威嚇する。トウカの前で湿気た顔をしたら殺すと言わんばかりの声音に、飛行兵達が敬礼する。リシアは立ちもせずに答礼。

「まぁ、だから私は眼下の不幸なんて忘れる事にするわ!」

 貧相な胸を張るリシア。ミユキは「うわぁ」と呻き声を上げる。清々しいまでの自分本位である。或いは、自らを基準として曲げる事を知らぬ意思の持ち主で ある事こそが悲願を引き寄せるのかも知れない。リシアのやりたい放題は皇州同盟軍や陸軍のみならず、北部臣民の間でも有名である。

「まぁ、でも私も孤児だから、家族が纏めて死ねる様には祈ってあげる」

 確かに纏めて死亡すれば孤児は生まれない。斜め上に飛んだ思考であるが、子供が一人で生き抜く困難を思えば、生きる事そのものが苦行足り得る。特に貧富の差が激しい国家ともなれば悲惨さは増す。伝え聞くだけでも悲惨である以上、実情は更に悲惨であることは疑いない。

 無論、積極的に殺害を実行した者達に感謝する者はいないだろうと、ミユキが思うが、リシアの得意気な顔を見れば被害者の前でも態度を変えないであろうと 確信できた。誰も彼もが望んで煉獄に飛び込もうとしている様に、ミユキは自身が斯様に成り切ることはできないと、所在なさげに揺れる己の尻尾を抱き寄せ る。

「いえ、神様はぁ残念ながら賭博場だそうなので祈っても意味がありませんなぁ」

 ラムケはヨエルの言葉から神の不在を公式見解とする。天使の見解である以上、神職に付く者は無視し得ない。言いたい放題の割に、長いものには確りと巻かれている従軍神官であった。

 騒ぐリシアとラムケ。トウカの治療に爪弾きにされた腹いせか、手当たり次第に有力者や将官に言い掛かりを展開するリシアはどこか輝いていた。

 ミユキもそうした混乱を目に、苦笑を一層と深いものとした。









「あらあら、リシアちゃんは優しいのね。ううん、違うのでしょうね。貴方の為よ」

 簡易寝台上で苦し気に呻くトウカの前髪を撫で付けるヨエル。

 リシアの健気は酷くヒトらしい献身と自己犠牲に満ちている。アーダルベルトもそれを察したからこそ下らぬ雑談に応じたのだと理解できる。内心では感心し ないと考えているに違いなかった。さりとて恋する乙女が健気に男を護ろうとする様に負けた様子であるが。ラムケは単純に長いものに巻かれただけだが、ヨエ ルとしては神々を信じてはいないという点に、神官としては信用できると確信する。神々の声すら聞こえぬにも関わらず、神託を謳う神官よりも余程、地に足が ついている。地に足が付いていないのは神々だけで十分である。物理的にも政策的にも足が付いていない。

 鎮静剤と疲労で朦朧としたトウカには、リシアの健気とミユキの落ち込みを理解できないに違いない。そして、飛行兵や転化した高位龍種達の苦悩と疑念もまた同様である。念の為と、個室から音が漏れない様に一方からの遮音としたが必要ではなかったかもしれない。

 彼は軍事力を行使する為に生まれてきた。正確には、祖国の軍事行動を参謀として支えるべく製造された一点物の部品である。国家という機構の代え難き歯 車。理詰めであらゆる要素を詰めようとする彼は、ヒトの感情を理解できていない。或いは国民感情の大部分が誘導できるのであれば、他は考慮する労力を割く に値しないと考えているに違いなかった。勲章という名誉と、特別手当という利益を与えれば感情など容易に曲げ得るとすら思っているだろう。適正な名誉と公 平な利益分配は、感情論に基づくものではなく公正な基準であるとの意思表示に過ぎない。

 彼は持ち得る能力以上の分野に手を出さざるを得なく成りつつある。

 それは悲劇だろう。

 だが、トウカの率いる皇州同盟は隆盛する状況にある。運命や宿命という妄言からなる確信ではなく、国民感情に基づく判断である。結局、政治は極端から極 端への連続である。一つの主義主張が失望されれば、それとは正反対の主義主張へと期待が集約される。有力者が不支持や失敗により失墜すれば、反対の性格と 実績を持つ有力者に期待が集約する。失敗こそが敵対陣営の隆盛を促すのが政治である。現状の皇国は天帝不在であり政府の統制力低下が低下の一途を辿ってい る。近年の歴代天帝下の政府が平和主義路線を踏襲して失敗を続けている以上、軍備拡充と他国への積極的介入を主張するトウカに支持が集まるのは避け得ぬ事 である。当たり障りのない中道や中立など国難に在っては誰の心にも響かない遅疑逡巡に過ぎない。

 彼はそれを理解している。国難こそが自らの躍進の機会であると。だからこそ戦火を大規模なものにすべく彼は苛烈になる。

「おまえ……」

 焦点をヨエルへと合わせて見上げるトウカの視線。ヨエルは木漏れ日の様な笑みを湛え、トウカを抱き起す。

「閣下、現状説明が必要でしょうか?」

「……被害報告を」

 荒い吐息を零し、寝台へと腰を下ろしたトウカの問い。最初の問いが被害報告となるのは想定していたので、ヨエルは現状が纏められた詳報(レポート)を手に取る。比較的被害が軽微であった為、集計は極短時間で終えている。

「〈第一航空艦隊〉に戦死者は皆無。要撃騎との交戦時に機銃の加熱で火傷した者が数人いたようですが、治療は終えています。ですが、空挺部隊は半数近くが 戦死。遺体は回収できない為、当初の予定通りと致しました。あと、対地攻撃に使用した機関砲は海上投棄。重量軽減に成功しています」

 箱型編隊の戦略爆撃騎に対する要撃は容易ならざるものがある。少数騎であれば、どの角度から襲撃を行っても何十、何百という騎載機銃、機関砲からの集中 砲火を受けて火達磨と化す。機銃座からの銃撃は命中率に乏しいが、数を頼みの弾幕となれば話は変わる。忽ちにと炎と黒煙の投網に絡め取られて肉片となっ た。挙句に戦略爆撃騎自体の魔道障壁は飛行中で低下しているとはいえ、一五・五cm以上の直撃弾でなければ不可能と算出されている。空中要塞と言っても過 言ではない。よって戦略爆撃騎への被害は皆無に等しい。

 対する空挺部隊は半数近くを喪った。撃墜された航空歩兵もいた。交戦に次ぐ交戦ともなれば疲弊は避けられず、最終的にイヴァン大霊廟付近での魔導騎士と の戦闘で大被害を蒙った。遺体は周辺で一時的に優位を確保できた為に全てを確認できたが、撤退行動の為に放棄せざるを得ず、最終的には予定通り、イヴァン 大霊廟と共に爆破された。

「そうか。ならばいい……」苦し気に呻くトウカ。

イヴァン大霊廟での戦利品に言及しない様に、相当に無理をして押さえ付けていると見て取れた。相手が悪いの一言に尽きるが、幸いな事に魔術や呪術的な気配は窺えない。純粋に高位吸血種の効果に苦しんでいるだけと言える。生命活動に支障を及ぼすものではない。

「この倦怠感と、その、何だ。妙な興奮は魔術で治らないのか?」

 妙な興奮。言ってしまえば性的興奮なのだが、そうした言葉を正面から直接ぶつけられない程度には女に見られているのだと、ヨエルは花咲く様な笑みを以て両手を胸元へと引き寄せた。

 考えてみれば、戦塵と汗すら流れ落とす事が困難な騎内である。トウカの男特有の汗の臭いは、ヨエルの胸中を酷く落ち着かないものとさせた。狭い個室は二人の熱と臭いを絡ませる。剥き出しの金属基材によって無機質に感じるが、それもまた酷く情的な一面を窺わせた。

「……出来ません。血液内の成分を取り除くのは流石に」

 トウカの緩められた軍装から覗く胸板で右手を撫でる。震えるトウカの胸板。決していかがわしい目的ではなく、血中の様子を把握する為である。

 血中から特定の物質のみを輩出するのは魔術的に極めて困難とされている。特定物質を特定することは可能であるが、体内に無数と拡散した物質を把握し続け て全てを輩出させるのは多大な時間と労力を要する。毒素であれば間に合わない可能性が高く、治療は薬剤による中和に重きが置かれ、医療技術も中和を主体に 研究されている。幸いな事にトウカの血中に流し込まれた物質は生命を脅かすものではないが、同時に排出の術はない。同時に物質として生命に危険を及ぼすも のではない為に中和剤の研究は全くと言って良い程にされていなかった。

 トウカは顔を顰める。魔術に詳しくないが故に、魔術に対して妙な万能性を幻視しているトウカ。何処かで見た光景に、ヨエルは懐かしさと切なさに囚われた。

「なら下がれ。貴官は魅力的に過ぎる。苦痛が増す」

 顔を背けた若き軍神の姿に、どこか子供の様な仕草の片鱗を感じるが、ヨエルはトウカの左手を取りそっと包み込む。

「閣下、天使に願われませんか? 魔術でなく奇蹟に頼れば宜しいのです」

 天使とは御使いである。神威の体現者であり、奇蹟を行使するもの。理屈や法則に優越し、人の世の理を超越する。

 無論、それは神代の話。天使種は嘗ての権能を顕現できない程に混血化が進み、最早魔導資質に優れた飛行可能な人間種でしかないが、ヨエルは例外である。 生きるに生きたる五〇〇〇年と言われる通り、建国以前に生まれていた。交配を繰り返す事で血統の劣化を招いた他の天使とは違い、ヨエルは今尚、強大な権能 を有している。元より熾天使族という天使種最上位の血統であり、現状ではヨエルこそが天使種の棟梁であった。

 ヨエルは寝台へ腰掛ける。

「なら、任せる」

 トウカは躊躇も見せずに、ヨエルの“治療”を受けると口にする。然して考え込む様子もないことから、最低限の信頼を獲得する事には成功したのだと、ヨエ ルは清楚可憐な笑みを一層と深くする。実際、トウカが安易に詳細を詰めずにヨエルへと投げたのは、熱病に浮かされたかの様に霞掛かった思考によるところで あった。

 陰りもない犯し難き笑みを湛えたヨエル。一分の陰りもない笑みは、数多の尊崇を受けるだけの包容力と、神聖不可侵な在り方を示していた。佇まいを検めざるを得ないだけの気風や威風というものはそこにはある。

 熾天使の抱擁に軍神が包まれる。

 そして、ヨエルは胡乱な瞳のトウカの唇を奪う。

 両の頬を抑え、貪る様に奪い、トウカの抵抗を許さない。近接戦闘よりも魔導戦闘に重きが置かれる天使種とは言え、“今は”人間種に過ぎない軍神一人を押 さえるなど造作もない事である。無論、腕力などという無粋なものによるものではなく、その高位種たるの畏怖と美貌を以てのものであった。

 暫しの間を置いて二人の唇が銀の糸を引いて離れる。

 天使の唾液には多種多様な効果を持つ。天使種とは神々の尖兵であるが、同時に神々に侍る者でもある。容姿を含め、多くの権能を得ているのはその為であっ た。勇士としての戦乙女というだけでなく、王侯貴族に侍る侍女に近い側面を持つ。寧ろ、元は後者の為に運用されていた。神魔戦争に於ける戦局の悪化に伴 い、軍事転用が成されたのが現在の天使系種族の祖先である。

 その体液は原点回帰を本質とする。決して治療のみに使用される訳ではなく、魔術触媒として優れ、野戦に於ける神霊召喚や陣地の聖域化などにも使用されていた。悪しきを鎮め、嘗てを取り戻し、過去を賞賛する。それは、人間種の身体に紛れ込んだ異物に対しても有効である。

 相手が悪いものの、トウカが受けた“呪い”は徐々に解呪される。トウカが胸元を押さえる。急激な変化は身体に負担を及ぼす。春先の急激な変化に人間種が体調を崩す様に。その点に関しては対処のしようがないヨエルは、トウカの肩を押さえて寝台へ寝かせようと右手を伸ばす。

 その手をトウカが荒々しく掴む。突然の事に眉を跳ね上げたヨエル。次の瞬間には抱き寄せられていた。相手の事など考えない荒々しい抱擁。嘗ての面影に重なる光景に、ヨエルの身体は絡め取られた。

 再びの口付け。否、唇を奪われた。

 ヨエルを求めてではない。その口付けに効果があると理解した上で貪られたに過ぎないと、ヨエルは理解したが、それでも尚、突き放す事はできなかった。

 主導権を奪われるなど想定もしていなかったが、それもまた血族の成せる業であると、ヨエルは腕でトウカを掻き抱いた。











「悪いな。セラフィム公。助かった」

 トウカは寝台に腰掛けたヨエルに視線を向ける。

 緩やかに微笑む熾天使の姿には、神聖視されるだけの理由を見たトウカは視線を逸らす。乱れた襟元を正し、口元を袖で拭う。空挺後の汗水に塗れた軍装であり、汚れは致し方ないが、着衣の乱れがあっては妙な誤解を招きかねない。

 僅かに朱が散る頬を押さえ、ヨエルは困惑した表情を見せる。

「ヨエル、とは呼んで下さらないのですか?」

 酷く悲し気な佇まいのヨエルに、トウカは苦笑を零す。

 五公爵の一柱を平素より呼び捨てにする程、トウカは身の程知らずではない。五公爵は貴族筆頭であり、政権運営にも関わる要職であるが、それ以上に各種族 の代表者という面を持つ。建国に功のあった五つの種族に公爵位を授けた経緯もあり、五公爵を筆頭とした種族は一つの陣営に等しい。五公爵の一人と敵対すれ ば、その種族との敵対を意味しかねない。無論、独立独歩の気風が強い北部では五公爵の権威は酷く低下しているが、それでも尚、完全に喪われた訳ではない。 特に獣系種族は同族の強者に対し、大なり小なり追従の傾向がある。獣の因子を組み込んだ故なのか、或いは指揮統制を踏まえて創造時に、そうした因子を敢え て組み込んだのかまでは推測の及ぶところではないが、トウカは後者であると考えていた。

 天使の傾向までは不明確だが、航空歩兵を戦闘回転翼機(ヘリ)の代替としたいトウカとしては、ヨエルとの関係を重視しなければならない。安易に熾天使を隷下に加えたかの如き振る舞いは、天使系種族からの顰蹙を買う懸念があった。

「公爵閣下を呼び捨てにするかの如き振る舞いは好ましくないかと」

 レオンハルトの様に突っ掛かってくる相手であれば、それ相応の振る舞いを返さねばな皇州同盟に示しが付かないが、そうではない現状での無礼は利益など生み出さない。

 ーー何より得体が知れん。些か知り過ぎている。熾天使には千里眼でもあったか? 記憶にないがな。

 トウカは記憶を辿るが、西洋の神学など対象外も甚だしい。天使という概念自体が実体化して眼前に生じる余地など想定外であった。基督(キリスト)教徒であれば歓喜に打ち震えたであろうが、トウカは神道国家の国民である。実害を及ぼさない他宗教を尊重しても仰ぎ見る真似はしない。

 熾天使とは、神学者である偽デュオニュシオス・ホ・アレオパギテースによって定められた天使の九階級の最高位に位置する天使である。三対六枚の翼を持 ち、二つで頭を隠し、二つで身体を隠し、二つで空を飛ぶとされている。神への愛で身体が燃えている為に“熾”という燃えるという意味を持つ字を冠した。ト ウカの知識としてはその程度である。

「誰も気にはしません。熾天使は特別です。さぁ、どうぞ」

 両手を広げたヨエル。名を呼べと言いたいのだろう。天使の笑みを見れば、それも良いかも知れないと錯覚してしまいそうになる。

 ――そう言えば、魔王も熾天使からの離反者だったか?

 魔王と呼ばれる存在が熾天使であった頃の名が、ルキフェル……英語にすると彼の有名なルシファーである。伝承に基づくならば、ルキフェルの翼は特別に十 二枚あったとされるが、言動のみを踏まえれば、ヨエルも十分に堕天使と言えなくもない。トウカは離反した天使が多数に上った事から神の人望……神であるの で神望と呼ぶべきかもしれないが、なかったものと考えているので天使や堕天使という存在に優劣や善悪を設ける心算はない。上司を選択できない世の中なの は、ヒトも天使も変わりない様子である。

「貴女の思惑は知らないが、男を惑わせて楽しむなら、貴女は堕天使だ」

「いかなる関係であれ、貴方と関係できるなら、私はその関係を愉しむでしょう。悦ぶでしょう。さぁ、私に声を、叶うならば名を呼んで欲しいのです」

 トウカの言葉であれば悉くを受け入れると、何故か無垢を感じる嬌笑を湛え応じるヨエル。トウカは本能的な恐怖を感じた。

 熾天使は一心に軍神を見上げているが、その瞳は奈辺を見ているのか。酷く大きく、真に偉大なものを讃えるかの様な憧憬。

「……御前は誰を見ている?」

 吐き捨てたトウカにも、ヨエルは表情を損なわない。その点がまた、トウカに受け入れ難いナニカを抱かせた。

 天使という生物は、本質的に狂信や妄信を内包した存在なのかも知れない。ナニカを求め続け、ナニカを願い続け、ナニカに縛られて、ナニカに縋り続けている。ある種、(さむらい)という生物に似ている。彼らもナニカの為、一つの感情で多くを血涙と戦塵で塗り潰す。それでなければ侍たり得ない故に。

「気に入らんな。俺は他の男の代替品じゃない」

 吐き捨てた一言。トウカは背を向ける。何故か、トウカにはヨエルのナニカが男であると理解できた。真に偉大で、気高く、尊崇に値する男っだったのだろ う。その瞳をみれば察せる。遺された者は何時でも喪われた者の影を追い、過大な期待を押し付ける。挙句に喪われた者の幻影は肥大化し続け、永遠に追い付く ことはない。トウカはよく理解している。生きて伝説となった祖父を追い続けるトウカは、皇国に漂着した事で祖父を永遠に届き得ないものとした。追い付いた などという確信を得る機会は永遠に喪われたのだ。

 何処(いずこ)かの死者の背を追う事を求められるなど御免蒙る。増してや熾天使に、それを求められるなど破綻する未来しか見えなかった。

 ヨエルの表情が崩れる。嗚咽がトウカの背を叩きそれを教えるが、それを気に留める事はない。知らぬ男の影真似をする心算も時間も、トウカにはないのだ。

「私は……ッ!」

 トウカは、ヨエルを置いて部屋を出た。

 

 

 

 

 

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