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第二〇二話    二つの邂逅

 

 



「後背からの襲撃は失敗か。ラムケ少将が不甲斐ない訳ではなさそうだが」

 トウカは双眼鏡を、護衛を務める鋭兵へと手渡して、溜息を一つ。

 イヴァン大霊廟はあくまでも儀礼的な施設としての重要視に留まっていると見ていたトウカだが、実際に近付いてみれば鋭兵すらも容易に決定打を得られない 二小隊規模の魔導騎士が堅固な守りを見せている。トウカとヨエルが、ラムケと合流後に到着した時点で既に衝突は始まっており、トウカはラムケに迂回襲撃 と、ヨエルに誘引を命令して現在に至る。

「ああ、面倒臭いな。大霊廟諸共に吹き飛ばしたいところだが、それでは戦利品まで吹き飛ぶ」

 指揮官と思しき将校は二人ほど垣間見えたが、石材の遮蔽物が多い為に狙撃は難しい。小銃擲弾や手榴弾の投擲も行われたが容易に魔導障壁で阻止されてい る。膂力に優れた鋭兵であればこその手榴弾の遠距離投擲だが、相手もまた精鋭である。大剣の剣背で弾き返すという真似をしてのける魔導騎士も少なくなく、 炸裂しても破片効果をものともしない魔導騎士が相手では分が更に悪い。

「このまま押し切れるが……総力戦だな。時間がない。全く、己の無能に反吐が出る」

 防備が皆無に等しいと踏んだ己の見識の甘さをトウカは呪うが、状況解決は行動によってのみ成される。時間制限が迫る中、策謀の時間はない。

「総員、襲撃行動に移る! 此方が優勢だ。交戦中の友軍を支援しつつ進撃する!」

 トウカの命令に対して周囲の一個分隊の兵士が刀剣や鈍器を構える。中にはイヴァン大霊廟までの進撃時の交戦で武装を喪失したのか鹵獲品の武装や建材と思 しき鉄骨を構えた者もいた。魔導甲冑を装備する相手には、斬撃と打撃が最も有効であるとは言え、返り血や戦塵などに塗れている事も相まって野盗と変わらな い有様である。膂力に任せてヒトを捥いで砕いて潰して進撃路を切り開いた結果と言えた。

 大多数の者がこれまでの戦闘中に鉄帽を捨てているが、被っていた一人……曹長の階級を付けた年嵩で彫の深い神州系の鋭兵が、トウカに自らの鉄帽を被せる。

「死なれては困りますので、ね。臭くて申し訳ないが、被っていて下さいや」

 略帽の上からであるが、確かに異臭がする。当然、トウカも連戦によって汗と戦塵に塗れており負けてはいない。トウカに不満など起きよう筈もない。ただ、天使であるヨエルの体臭はどうであったかという疑問が鎌首を擡げる。

「ふむ、考えてみれば天使の香りというのも意識する暇がなかったな……生物学的興味だぞ? 曹長」

 胡散臭い視線を向ける曹長だが、次の瞬間には大剣を下段に構えて躍進する。

 石畳を踏み砕く一個分隊は疾風となり、僅かな間を以て銃火の射程を詰めて魔導騎士に躍り掛かる。

 トウカは小銃を追い紐(スリング)で回そうとするが、後には必要ないと思い立ち、槓桿(コッキングレバー)を引き、未だ小銃弾の連なる装弾挿(クリップ)を引き抜いて投げ捨てる。小銃も序でとばかりに足元に落とす。

 代わりに背に負い(スリング)で背負った軍刀の鞘を掴み、腰の軍帯(ベルト)に佩刀した上で抜刀する。鞘走るかの様に極自然な鈴鳴りを以て抜き放たれた闇色の刃に意識を向ける者はいない。

 自身に対する脅威度が低めに見積もられているのか、或いは極めて劣勢の戦況でトウカに気付く余裕がないのか。恐らくはどちらもが正しいのであろうと、トウカは歩を進める。

 澱みなく、確りとした足取りで進むトウカは周囲に視線を巡らせる事もない。既に形勢は空挺部隊の圧倒的優勢となりつつある。複数の方角からの波状攻撃に 対し、戦力比では同等であった筈の魔導騎士二個小隊は、敵の正確な数を知り得ぬ為に受動的な防禦行動にならざるを得なかった。それが明暗を分けた。

 帝国軍防禦指揮官は複数方向からの攻撃に対し、少なくとも包囲可能な人員を要していると想定せざるを得なかった。斥候や歩哨を、警報を発する間もなく殺 害し、奇襲的要素を増大させた相手を過大評価した結果、イヴァン大霊廟の四方全周囲に均等に戦力を割り振るという判断を下した。例え、密集していた場合 や、予備隊を編制していた場合でも、天使達……航空歩兵の航空攻撃を受けては短時間での壊乱は避け得ない。近接航空支援を得た時点で空挺部隊の有利は揺る がない。

 重要なのはイヴァン大霊廟攻略に要する時間である。最早、余裕はなく、これ以上の遅滞は許されない。墓荒しの時間を想定すれば尚更であった。

 打ち捨てられた魔導騎士の遺体。鋭兵の遺体も少なくない。鋭兵の四割は戦死したと見て間違いなく、遺体は撤退に合わせて処分せねばならない。持ち帰る余 裕などなかった。ただ、中位種や高位種の遺体は帝国主義者に辱められる可能性が高い為、イヴァン大霊廟諸共に爆破する心算であった。鋭兵も元より敵地への 単独突入である。全員、覚悟の上であり、トウカも例外ではない。

 敵の指揮官は既に抵抗を止めている。魔導騎士の大多数が戦死した上、指揮官は魔導甲冑を装備していない。抵抗は無意味であり、交戦を止めて降伏の意思を示す事は間違いではない。

 しかし、トウカは違和感を抱いた。イヴァン大霊廟防衛は軍事的妥当性に乏しい事から、トウカは政治的意図や権威保全に関する意図を以て防衛しているもの と踏んでいた。最後の一将兵に至るまで抗戦して全滅すると考えるのが自然である。専制君主制国家に於いて、政治や権威を護るべく戦死するというのは名誉に 値するが、同時にそれが関わる戦闘で降伏や撤退を行う事は不名誉であるどころか、自身だけではなく家族や親族の死命に関わる事態となる事は避けられない。 今後を考慮して家族や親族を連座で処刑する事は、離反に対する抑止力として一定の効果を発揮する。

 だが、既に輪郭すらも明確に見え始めた帝国軍防禦指揮官は降伏を選択した。トウカとしては疑問しかない。

自らの死を覚悟していないのであれば単純であるが、或いはイヴァン大霊廟の失陥など霞む程の目的を以て戦闘を継続していた可能性が生じたと、トウカは苦笑を零す。

「一杯食わされたか。全く……」

 驚いた事に帝国軍防禦指揮官の階級章は元帥である事を示している。兵科章は騎兵であった。元帥であれば有力貴族である可能性があり、助命される可能性も あるかと考える程度の指揮官であれば容易い。この帝国開闢以来の困難に在って、有力貴族を敢えて処分して一層の綱紀粛正とする程度は容易に決断できる筈で ある。

 トウカは鉄帽を投げ捨て、帝国軍防禦指揮官の前へと至る。狂相を湛えて已まないトウカの横へと、ヨエルが音もなく降り立つ。翼に風が騒ぐ気配すらなく、ただただ視覚のみを以て認識が叶う程に自然を従えた光景に、元帥号を持つ騎兵将官が驚きを示す。

 だが、トウカは本当の指揮官を前に佇むのみ。

 それは純白の女性であった。丈の長い詰襟軍装は、金糸で形作られた象意の肋骨象意に、飾緒しょくちょ総付肩飾(エポーレット)袖章(カフタイトル)までもが金糸で統一されている。諸外国の軍制から落伍した軍装と言え、帝国軍の服飾規定からも逸脱している。腰や脚なども量産品の軍装とは違い必要以上に引き締められて、一層と身体の形状(シルエット)を判然とさせていた。肋骨服の流れを汲んだ象意の陸軍大礼装は隙なく純白であり、外套(マント)を翻した様は戦女神そのものであるが、トウカが注目した点はそれらではない。

 上衣前面左下に取り付けられている王族勲章。それは、彼女が帝族に連なる者であると示していた。トウカは軍装などを見ずとも、その女性が誰であるかと悟った。それ故の「一杯食わされた」である。

 トウカは軍刀を鞘へと納め、踵を打ち付けて敬礼する。石畳と踵の接触音が銃火の止んだイヴァン大霊廟を擁する土地に響く。

「やっと出逢えたな。息災で何よりだ、カチューシャ」

 それが軍神と女帝の邂逅の始まりであった。









 彼は来た。

 エカテリーナは空襲を受けた時点で確信していた。少なくとも高確率で彼が統率しているであろうと見当を付けていた。急速に組織規模を拡大した皇州同盟は、脆弱な政治基盤から一地方での圧倒的支持に留まっている。トウカには軍事的実績があれども政治的実績がない。

 帝都直撃によって帝国の政治基盤を灰燼とせしめた事は、手段が軍事力の行使でありながらも、結果として多大な政治的意義を持つ。そこに航空部隊を直卒するという美談が加われば、政治面でトウカの将来性を買う有力者も数多く現れるだろう。

 眼前に佇む軍神は、狂相を湛えている。決して大柄ではなく、皇国成人男性の平均身長を下回っている様にすら見える。エカテリーナとは僅差である。視線の位置はそう変わらない。

「貴方は写真で見るよりも素敵よ、トウカ」エカテリーナは万感の想いを胸に零す。

圧倒されかねない程に濃密な気配がある。揺れる軍用長外套(ロングコート)が闇夜に揺れて輪郭を曖昧なものと成さしめる姿は異様な程に畏怖を掻き立てる。闇夜に在って尚、大火で焦がされた天壌は彼を照らし得ない。

 顔立ちは整っているが、決して優れていると言える程ではない。容姿に優れた種族の多い皇国では十分な個性とは成り得ないと言い切れる。容姿通りであるならば神州国系であると推測できるが、その桁外れの知識量と質を踏まえれば出自の推測は無意味であると理解できた。

 大きく裂けたかの様な口角と酷烈な意志を湛えた瞳は爛々と輝いている。戦意と殺意に満ちた表情を隠さない軍神の右手がエカテリーナへと伸びる。

 トウカの手を遮ろうとするスヴォーロフを熾天使が遮り、トウカの右手はエカテリーナの腕を掴む。有無を言わせず抱き寄せられたエカテリーナ。汗と血のむせ返る様な臭気が鼻腔を(くすぐ)るが、それすらもエカテリーナの心臆を満たす一要素へと転じた。今更ながらに己の汗が無性に気になるが、トウカは力強くエカテリーナの腰を締め付けて離さない。

 背を這うトウカの手に言い知れぬ淡い掻痒感を得たエカテリーナもまた、トウカの腰に両手を回そうとするが、その前にトウカがエカテリーナを突き放す。急な出来事に二歩三歩と下がったエカテリーナ。

「この宝飾留具(ブローチ)、悪くない。仔狐も喜ぶだろう」

 気は突けば上衣の下に仕舞い込んだ母の形見である宝飾留具(ブローチ)が、トウカの手に握られていた。背に手を回したのは、鎖を外す為であったのだと、エカテリーナは悟る。

「ラムケ少将は鋭兵小隊を伴って霊廟探査。ヨエルは残りを指揮して周辺警戒。レーヴェニヒ少佐は上空からの警戒を。応戦は各自判断に任せる」

 「何をしている、急げ」とトウカの声に、周囲で待機していた士官達が敬礼する。

 降下猟兵部隊の運用の中心人物であるラムケ少将に、内戦時に航空歩兵部隊を率いてトウカの座乗する戦艦に突入した実績を持つレーヴェニヒ少佐であると見て取ったエカテリーナ。

 だが、最も在ってはならない存在がトウカの横に控えている。

「熾天使ヨエル……ネハシム=セラフィム公爵」

 五公爵に於ける筆頭格は皇国政治の中でも殊更に重要視されていた。初代天帝の意向を現在に至るまで遵守し続ける不可侵の存在として絶対的な権力を有している。時には歴代天帝の決断に再考を迫る事すらある彼女は、建国期より皇国を守護し続けた天使最高位の熾天使である。


 ヨエル・リエ・フォン・ネハシム=セラフィム。


 それは、トウカと皇国の中枢権力が結び付いたに等しい。軍事作戦に同行する以上、それは明確に過ぎる程の意思表示となる。トウカの決断が皇国の決断となる日はそう遠くない。

「なんだ。やはりそうなのか? まぁ、只の天使だとは思ってはいなかったが」

 トウカの呆れを滲ませた言葉に対し、無言で微笑むヨエル。

 エカテリーナは、トウカにとっても当初より想定していた同行ではないのだと悟る。それは、トウカの要請ではなく、ヨエル自身が独自にトウカを支援してい るという事を意味した。軍事行動にまで同行した以上、ヨエルが積極的にトウカを支持すると示したに等しく、ヨエルからの協力である以上、二人の関係に於い て主導権はトウカにあると見るのが自然である。ヨエルがトウカの主導権を認めたという事実は早晩に皇国を駆け巡るに違いなかった。今後、その力関係が続く か否かまでは不明確であるが、少なくとも現状を効率的に利用するだけの才覚をトウカは有している。

 ヨエルは何も語らない。エカテリーナは後で知るが、上空を飛翔する一際大きな戦略爆撃騎はアーダルベルトである。トウカの権勢が想像以上に皇国を蚕食している訳ではなく、利害が一致しつつある事を示していた。

「しかし、困ったな。御前がここにいるとは。もう少し、幻想的な状況を望むと分かる程度には乙女心を理解している心算だが」

 肩を抱いて歩く事を促すトウカに、エカテリーナは嫋やかな笑みを以て従う。

 双方共に今この時の出逢いがある種の奇蹟であると理解していた。そして、必然であり、ある種の妥協の産物であるとも。二人が本気で互いを欲して争えば両 国は焦土となりかねない。国力の削り合いこそが次世代の戦争であると理解しているが故に、人的資源の漸減に躊躇などあろう筈がなかった。

 それが二人の強みである。ヒトですら資源の一種に過ぎず、一切合財悉くを数値として可視化する事で事象を操作する二人は、何処までも異端であった。可視 化できる要素全てを可視化する。親兄弟や親族、恋人や友人ですら例外ではなく、それは正に命に値札を付ける行為に等しい。それらを当然の様に成せるからこ その政戦両略。

「あら? なら、男の幻想に付き合うなら、殺しなさい、辱めを受けるくらいなら、とでも言うべきかしら?」

 エカテリーナの軽やかな笑声混じりの問いを、トウカは一笑に伏す。一国の姫君を辱めるなどという行為は、然したる利益など生み出さない。寧ろ、自国の王 族に輿入れさせて子を産ませて継承権問題に干渉するか、亡命政権を樹立させて正当性を確保するなどという手段もある。順当に外交取引の手札とするという一 手もあった。出来の悪い官能小説なら有り得る展開かも知れないが、生憎と総力戦に挑みつつある両国の権力者に相手を辱めるという選択肢はなかった。リディ アなどの替えが効く前線指揮官ではなく、エカテリーナは国家方針に大きく影響する立場にある。安易な消耗は避けるべきであると、トウカは判断していた。

 生娘でもあるまいし、と何を話せばいいのかと悩むトウカは、軍装の衣嚢(ポケット)から携帯酒筒(スキットル)を取り出して中身のウィシュケを煽る。人肌で温められた所為もあって生温く妙に酒精(アルコール)の刺激が先立つ。

「どうだ、飲むか」

「あら、酔わせてどうする心算?」

 そうは口にしつつも躊躇いなく受け取るエカテリーナ。相手に気取られる程の躊躇を見せる程に二人は知らぬ仲ではない。

 酒を異性と酌み交わすという行為自体に意味が生じる例は、異世界にも存在する。トウカの世界でも、欧州で異性と酒を酌み交わす際は、酒の選択に注意を要する。酒毎に花言葉の如く意味があり、誤解されては面倒が生じる。酒精強化果酒(フォーティファイド・ワイン)香檳酒(シャンパン)などを食前酒として嗜むと“今夜はお付き合いします”という意味を存外に含ませる事になる。それらの酒で相手と安易に酌み交わせば、閨を共にするとの意思表示と取られかねない。

 トウカの手渡すウィシュケに然したる意味はないが、同様の工程で製造されるウィスキーは軍事に関連した逸話を多く持つ。

「小父様臭いものを好むのね。感心しないわ」

 そうは口にしつつも躊躇なく携帯酒筒(スキットル)を煽るエカテリーナ。ヴォトカというウォッカに類似した高度数の蒸留酒を国民酒としている帝国の姫君に相応しい気っ風の飲み方である。

「貴方……虫歯ができたら飲酒の理由にするでしょう?」

「失敬な。殺菌には最低でも八〇度は必要だ。ウィシュケでは足りないだろう」

 科学的見地から否定して見せるトウカだが、風邪を引いた際、保温の為にウィシュケをミユキに所望して叱られた記憶が脳裏を過ぎる。酒精(アルコール)による体温上昇は純粋な熱量の増大ではなく、熱量が排出される事による錯覚で、後は一段と身体を冷やす結果となる。知っても尚、酒を求めるのが男である。

 亜米利加合衆国初代大統領であるジョージ・ワシントンは、「軍人魂を高めるにはウィスキーが一番。暑い時、寒い時、 雨に打たれた時、疲れた時、ウィスキーなしでは軍隊は何もできない」という至言を遺している。生命の水という語源を持つウィスキーを得た軍は、確かに圧倒 的優位を誇っていた《大英帝国》の本国軍すらも撃破し、《亜米利加合衆国》建国の原動力となった。そして、引退後のジョージ・ワシントンは、酒作りに精励 したとされている。

 エカテリーナの胡散臭い視線を受けたトウカは、肩を竦めて見せる。

 二人の苦笑が霊廟前に流れる。不審の視線を向ける鋭兵の気配を振り切り、二人は相対する。他愛のない会話の最中にも、二人の頭脳は目まぐるしい速度で自 陣営に利益を齎す言葉を模索し続けていた。互いに相手との遭遇が想定外であった以上、正面からの言葉の応酬に至るには時間を要する。

 しかし、それも此処まで。思考を終えた二人が言葉を交わす。

「別に御前を殺しも連れ帰りもしない。当初の目的以上の打撃は帝国に取り致命傷になるだろう」

 トウカは現時点での帝国の崩壊を望んでいない。有力な敵性国家の侵攻能力喪失は、皇州同盟の相対的価値を著しく減衰させる。敵在っての皇州同盟である。 軍事と軍需主体の皇州同盟は、その勢力拡大に危機感と悲劇を前提としていた。強大な敵がある事は望ましい。帝国の滅亡や内乱ともなれば、次の皇国内の勢力 争いは政治主体となると推測でき、新参の皇州同盟は著しく不利な立場に置かれる。軍事力行使に躊躇する程にトウカは優柔不断ではないが、国内に軍事力を振 り翳す真似は、数々の遺恨を生む。長期的に見て不利と不信を招きかねない。

 エカテリーナという隔絶した政戦両略の女帝を喪えば、帝国は対外的な軍事力誇示を控える様になりかねない。本土爆撃により危機意識を煽動したが、国家指導部混乱を名目に政戦の再編に突入する可能性も捨て切れない。

 エカテリーナは思案の表情も見せず、ころころと笑声を零す。

「あら、乙女を捨て置くなんて酷い。攫われて差し上げても良くってよ? 無理でも敵国の姫君と一夜の過ちくらいは願うと思ったのだけど」

「空前の武功に対する褒美よ」と続けるエカテリーナの胸中をトウカは図り切れない。

 エカテリーナ個人に対する行動の提示ばかりで、政戦に関わりが薄い言葉であったが所以である。確かに二人の逢瀬で子供ができれば継承権に皇国が口を挟めるが、あくまでも手札が一枚増える程度で決定的なものではなかった。

 リディアには一夜の過ちを勧めたのでしょう?と、口元を閉じた扇子で隠したエカテリーナに、トウカは明言を避けた。下手に応じては有力者の女性を次々と口説いている浮気者と騒がれかねない。

「良い性格をしている。御前は優秀だが、居なくなれば取り返そうとする者は少ないだろう? 寧ろ、御前の権利を奪おうと醜い争う真似が先立つ」

 鋭兵の姿が見えない霊廟の影で、トウカは端的な事実を述べる。貴族による争いとは権力と資金を互いに蚕食し合うものであり、隙と見れば間違いなくエカテ リーナの持ち得る総ては収奪される。特に帝位継承権を持つエカテリーナを引き摺り下そうと目論む者は少なくないと容易に推測できた。

「そうね……それに嫌気が然して黒衣の軍神様に攫われる姫君を演じたいと思ったの。なんて筋書きはどうかしら?」

「それは……」

 トウカの逡巡には見向きもせず、扇子を投げ捨てたエカテリーナは、続けて上衣の(ボタン)に手を掛けると、一息に引き千切る。

 内側に着込んだ純白の襯衣(シャツ)が露わになる。その見事な身体の曲線美に視線を向けるよりも先に、エカテリーナは領帯(ネクタイ)を一息に引き抜く。

 宙を舞う領帯留め(ネクタイピン)を傍目に、黒衣の軍神様とは白馬の王子様の対義語かとの生じた疑問を抑え込み、トウカは思案する。

 帝国を取るか、エカテリーナを取るか。

 前者である一先ずの維持を大前提としていたトウカだが、躊躇いを見せたのは、後者の才覚が在れば政治闘争を優位に進め得る可能性を見たからである。同時に獅子身中の蟲となりかねない危険性があり、北部に浸透した間諜(スパイ)の存在も捨て置けない。未だ排除し切れたという確証はなく、結合した場合の被害は計り知れない。

 一つの岐路と確信したトウカだが時間がない。

「残念だが――」

 冒険を控え、当初の方針を維持しようと口を開いたトウカに、エカテリーナが飛び込もうとする。誰しもが憧れる御伽噺の様な光景は訪れない。

 しかし、軍神は二歩下がりながら軍刀を抜き放つ。

 そこには油断も浪漫もなかった。










「皆が私を畏れて距離を取る。貴方もなの? 私を失望させないで頂戴」

 圧倒的な軍事力を背景に相対した男ですら自身を避けるという事実に、エカテリーナは少しばかり傷付いた。

 リディアを相手に公私共に大立ち回りをして見せたというトウカであれば、己を小娘が如く扱って見せるのではないかという期待が胸中にあった。帝国内では 誰も彼もが対等足り得えず、不満を抱えていた。異性に対する過度な期待は、リディアと同様であり、それは父たる現皇帝の若かりし頃の威勢を知るからであ り、あらゆる不利を跳ね除けて皇帝の座に就いた奇蹟に憧憬を抱いたからである。それ故に自身よりも下位の帝位継承者にすら寛容ではない。並み居る上位の帝 位継承者を退けて至尊の頂へと登り詰めた前例があるが故に、下位の者に対しても警戒を示さざるを得ないという現状は、継承権争いを一層と苛烈なものと成さ しめた。

「御前がその程度の女なら残念だ。リディアに劣る。場末の娼婦にでも堕ちろ」

 軍刀の切っ先が近づく事を赦さぬ中、トウカは路傍に伏す乞食を見下すかの如き視線を隠さない。心底と汚らわしいものを一瞥するかの様な仕草に、エカテリーナは背筋を振るわせる。

 くつくつと堪え切れぬ笑声が女帝の口元から零れる。

「貴方、本当に良いわぁ。ねぇ、帝国に来なさい。私の夫に迎えてあげる。女帝夫君を目指しなさい」

 容易く情に流されるとは思わなかったが、近付く事すら赦さないという徹底した警戒は、彼女にとり酷く好ましい事であった。或いは自身の之までの所業に依る所であるかも知れないが。

 今一歩、近付こうとするが軍刀の切先は揺るがない。

「俺が奪ったのだ。同じ遣り口で奪えるとでも?」

「あら、分かる? 一応それ、母の形見なの。返して欲しいわ」

 取り上げられた宝飾留具(ブローチ)を奪い返そうと目論むエカテリーナの意図は元より露呈していた。

「いずれ皇国に取りに来い」

「戦犯として連行されるのかしら? 有象無象の慰み者は嫌よ。それなら貴方がいいわ」

 それは偽りのない本音である。女帝夫君が最も望ましい展開だが、皇州同盟軍指導者の妻という立場も帝国の安全保障という前提を除けば次点としての魅力を有している。否、乱世を愉しむにという点に於いては後者こそが望ましいとすら、エカテリーナには思えた。

「私で手打ちにできるかしら?」

「残念だが、敵在っての皇州同盟だ」

 可能性としての問い掛けを、トウカは一蹴する。酷く曖昧な問いに即答したトウカに、可能性への思考は行われたのだろうと推測する。戦犯としてエカテリーナが皇国で処罰を受け、両国間で和平交渉を行うという行為は不可能な様に思えるが、実は難易度は低くはない。

 帝族として国状を深く理解するエカテリーナと、軍事力を担保に皇国内での発言力を確保したトウカによる和平案の提唱ともなれば両国は無視し得ない。皇国 は元より戦争という行為自体に積極性を持たず、好戦的な帝国もまた皇国を攻め切れなければ食糧難を乗り越え難い。和平交渉で皇国方面への兵力展開削減など の妥協で、見返りに食料供給などを盛り込めるならば初期目標は達成し得るのだ。当初の食料供給量には満たないが、麦一粒すら収奪が叶わない状況下で、更な る軍事力の行使は致命的なまでに食糧備蓄を切り崩す事になる。それは、最早博打ですらない自滅行為に等しい。

 エカテリーナであれば反対するであろう門閥貴族を沈黙させ得る自信がある。不正と暴虐がヒトの形を成した者達を相手にするに十分な情報を有している。ま してや、自身は皇国という安全地帯から門閥貴族を弾劾できる。自勢力など帝国内では弱小なのだから然して惜しくもなく、損切りを躊躇する必要もない。皇国 侵攻の咎すらも賛成した門閥貴族に押し付ければ良く、エカテリーナに関しては正式には皇国に対する言動を行っていないので、身代わり(スケープゴート)を用意すれば、容易に戦犯指定を躱せる。

 悪くはない一手。帝都空襲がなければという大前提があれば、であるが。

 ――流石に帝都空襲を泣き寝入りするとなれば、納得できる者なんていないもの。ふふっ。なんとも致命的なこと。

 専制君主制の大国が軍事的に侮られる状況で講和した場合、周辺諸国からの圧力が著しく増大する。その上、帝国は武力併合で国土を拡大した歴史がある。未 だに不満分子が広大な辺境には跳梁跋扈し、それらと諸外国の結合は大規模な内乱を意味する。そこに諸外国の軍勢まで加われば、皇国との講和の意義すら喪い かねない。

 トウカはその点を踏まえて否定した筈であるが、決して長期的視点からの答えなど口にしない。相手も理解しているという前提で話を進め、エカテリーナもそれを良しとしている。

「為政者にとり、殴り付ける相手が居るというのは幸福だ。何せ、問題が起きれば殴り付けて相手の責任とすればいいからな」

 トウカの隠しもしない事実に「少数派は大変ね」と肩を竦める。決して親近感を持つことはないが。トウカは少数ながらも皇国の政戦に於ける方針に多大な影響力を有しており、エカテリーナとはその一点が違えた。

 結束するには敵がいる。帝国は敵を作り続けた故に首が回らなくなりつつあるが、トウカは敵との和解や合流、共通の敵を演出しての関係改善までをも手掛けており、帝国の政策よりも優れたものがある。

 トウカは、ふと表情を緩やかなものとして言葉を続ける。

「俺はいつか御前を助けるだろうな」
「私もいつか貴方を助けるでしょう」

 言葉の意味を察して即座に応じる。所詮は口約束。両国の行く末が致命的なものとなった際、互いに相手を救うという担保なき約定。担保をどうしても用意できない状況での約定ならば、この程度が精一杯であると、平素であれば一応の満足を見て引き下がったであろう。

 だが、この時ばかりは何故か納得できなかった。トウカが口元に滲み嘲笑を隠さないからか、或いは確実な約定という実に乙女な夢想を見たからか。それは彼女自身にも把握し難い。

 条約が有効なのは、私にとって有益な間だけだ、と考えていても不思議ではない相手に、或いは確実な約定を望むべきではないのかも知れないが、象徴するナニカが存在したならば気に掛ける程度は有り得るだろう。

 少なくとも彼女自身が忘れぬ事を証明せねばならない。石造の構造物へと視線を向ける。使える。

「さぁ、座りなさい」

 トウカを手招きして石造の構造物へと腰を下ろす。元を辿れば歴史ある大霊廟の周辺を彩る花壇の縁。戦火に晒されて半ばまで崩れ、色彩豊かなに見る目を楽 しませたであろう時華達と、それを育む肥沃な壌土が零れ落ちている。庭師達が丹精込めて整備したであろう花壇最後の務めは二人の憩いの場となる事であっ た。

 僅かな逡巡の後、微妙な距離を置いて腰を下ろしたトウカは、軍刀を鞘に納める事もない。トウカが警戒を見せたのは、自らが習得する剣術が基本的に肘や腰が大きく上下する動作を控える傾向にある為であるが、エカテリーナは、体臭を気にしてかしら、と眉を顰める。

 イヴァン大霊廟を見上げる位置に座した二人だが、トウカは何とも言えない微妙な表情を其の儘にエカテリーナへと視線を投げかける。

 エカテリーナは純白の軍袴(ズボン)が汚れるのを気にせず、上体をトウカへと向けると、満足げに微笑む。極上の笑み。数々の男を陥落させてきた、舞踏会の対外的な仮面ではない、心の底よりの笑み。トウカは視線を逸らして咳払いを一つ。

 自覚のない心からの笑みを一層と深くしたエカテリーナは、左手を開いてトウカに見せつけると、花壇の縁を押さえ付ける様に下す。

 トウカも花壇の縁に置かれたエカテリーナの左手へと視線を下ろす。

 対するエカテリーナは、右手で近くに散らばる砕けた花壇の石材の礫……石礫を掴む。数ある礫の中でも目に留まった最も鋭い部分を持つ礫である。

 怪訝な顔をするトウカであるが微妙な距離もあって警戒は薄い。軍事教練も経ていない細腕の小娘の腕力であればこそ。

 今一度の笑み。トウカとエカテリーナの視線が今一度、交錯する。


 機会は一瞬。エカテリーナは手にした石礫を振り下ろす。


 慌てて距離を取ろうとするトウカを尻目に、それは狙い過たずエカテリーナ自身の左手薬指を襲う。その程度の制御は叶うが、やはり身体鍛錬すらしていない為か隣の指も切り傷を負う。

 飛び散る鮮血が頬や髪、軍装を濡らすが、気にも留めずにエカテリーナは再度振り上げた石礫で自らの左手薬指を襲う。

 痛苦に涙が滲まぬ様に歯を食い縛り、血管が潰され、筋が切れ、骨が砕け、自らが長年の手入れによって得た、白魚の如く白く透明感のある指が血に染まる。

 三度目の打擲の為に振り上げた石礫。それは、トウカが軍刀を手にしていない左手でエカテリーナの右手を掴んで止める事で阻止された。力強く掴まれた事で、血に塗れた石礫は石畳へと転がり落ちる。

「御前は莫迦かッ! 意味のない真似を……っ!」

「意味はあるのっ!」

 トウカの非難を、エカテリーナは強い言葉で否定する。

 同時に、その驚きようからトウカの意図を始めて優越したと理解したエカテリーナは痛苦を超える悦楽を感じた。常に奇襲を受ける立場であったエカテリーナ は、初めて反転攻勢の切っ掛けを得たと、驚きを隠さないトウカに微笑み掛ける。それは痛みの意識の中の痩せ我慢に過ぎないが、それでもエカテリーナは女帝 を演じる。

「これは貴方に対する約定の証よ。帝族最大の武器である婚約ができなくなる。貴方だけのモノになったという証明として、私は薬指を差し出すの」

 切り落とすのが最上であるが、エカテリーナは降伏に当たって武器の全てを取り上げられ、刀剣も拳銃もない。指を落とすのは難しく、まさかトウカが武器を与えるはずもない。持ち得る選択肢の中で最良を選択した。

 皇国初代天帝によって流布した婚約時に、相手の左手薬指に指輪を付けるという風習は大陸全土に広がりを見せ、今では帝国ですらも普遍的なものとなってい る。自国成立以前よりの風習ともなれば帝国人も隔意を抱き難い事もあり、貴族間の婚約でも指輪を女性に与えるという行為は行われていた。

「意地を通す為だけに指一本を潰すのか? 非効率な……任侠者でもあるまいに」心底と呆れたと溜息を零すトウカ。

 エカテリーナの左手を掴み、軍刀を納めると、右腰の雑嚢(ポーチ)か ら包帯と包装紙を取り出したトウカは手当をしながらも不平を零し続ける。追い詰めたはずが追い詰められた気がすると零す様は、どこか父たる皇帝と重なり、 エカテリーナは唇を尖らせる。小言と皮肉が多い様は、褒められたものではない。年若き英傑なれば瀟洒とあって然るべきという幻想を彼女が抱いている訳では ないが、要らぬ半畳を挟まれる事を好まないのは大凡の者達と同様であった。

「失礼ね。乙女の純情の発露よ」

「……御前の純情を鑑みて衛生兵は呼ばんからな」

 本当に良いのかという疑念を滲ませた声音に、エカテリーナは当然とばかりに頷く。

 乙女としては、素直に男らしく約定を果たすと口にして貰えれば満足であったが、トウカの担保と保証のない約定に対する不信を感じたからこその行動である。

「貴方が私を組み敷くと言えば済んだのだけど」

 姫君が純潔を捧げるとなれば、少なくとも女として約定に恰好が付く。必要以上に女性に幻想を見ているのはトウカの身辺調査を纏めた資料からも読み取れ た。彼は嬉々として軍事力を行使しているが、その理由を特定の個人に求める傾向にある。護ろうとする意志こそが惨禍を招く実情は皮肉であるが、或いは特定 の個人に傅くからこそ苛烈になるのかも知れない。

 ――どんな過去を持つのか、気になるわね。調べても出てこないみたいだけど……

 運良く子を成せばトウカを縛れるやも知れず、政治闘争に於ける新たなる選択肢を与える事ができる。亡命政権という選択肢も有り得る。

「何故か俺が悪い気がしてくるから不思議だ。行きずりの女を抱かぬと、当然の言葉を口にして後悔する事になるとはな」

 正直、帝都の民衆を焼き殺した事実よりも気が重い、と嘯くトウカ。彼にとり面識のない人間の死は取るに足らないものである事は明白であるが、生来、ヒト という生物はそうした側面を有している。遠くの戦争での犠牲者に興味を抱き得ない様に。無論、当事者にして実行者の立場に在っても尚、死者に対して何の痛 痒も感じないトウカは稀有な存在と言える。ヒトとしては異端であるが、それ故に有事ではこの上ない程に苛烈になれる点を踏まえれば、正に乱世を愉しむべく 生を受けた言っても過言ではない。

 そうしたトウカが相手だからこそ、エカテリーナも退屈しない。打破し難い閉塞感に苛まれていたエカテリーナに取り、常識を次々と砕き、奇蹟を幾度も実演 したトウカは、リディアを超える程の可能性に他ならない。望むならばくれてやろうと思う程には……望まずとも押し付けてやろうと思う程には、エカテリーナ はトウカに期待している。

 エカテリーナは愛国者であるが、愛国心にも限度があって然るべきであり、十分に尽くしたという自負がある。これ以上の継承権争いや政治闘争での資源と時間の消耗は許容できる限度を超えていた。

「そろそろ往くとする。見送りは結構だ」

 立ち上がったトウカの差し伸べた手を、エカテリーナは取る。

 あら、涙を流しながら手拭(ハンカチ)を振ってあげようと思ったのだけど。そう口にしようとしたが、トウカはエカテリーナの背後へと視線を投げ掛けいる。興味の範疇が移った。

 背後を振り向けば、そこには帝国の暗闇を支配する小さな天魔が佇んでいた。








「何処かの貴族令嬢か? まぁ、そんな訳はないか」

 トウカは危機感を抱いて、咄嗟に振り向きざまのエカテリーナを抱き寄せる。

 周辺を鋭兵が固める中、その警戒網を抜けて訪れたであろう相手である以上、外観と能力に大きな乖離があると見たトウカは、左手をエカテリーナの腰に伸ばして抱き寄せ、右手は自動拳銃を引き抜く。僅かな間での動作である。

 この期に及んで捕らわれの御姫様で申し訳ないが、エカテリーナはされるままに抱き寄せられている。

「あれは誰だ?」エカテリーナへと問う。

 トウカの戦争屋としての本能が、眼前の幼女を重大な脅威と認識した。生じる威圧感はアーダルベルトと相対した一時を思い起こす程である。

 酷く現実感を欠く光景でありながらの存在感。人間種であれば一〇歳を超えるか否かの身体は当然ながら貧相で、極一部の男性以外には望まれないかも知れない。露出皆無の胸元を真紅の胸飾(シャボ)や、長裳(スカート)に配された蝶結(リボン)などは愛らしさを際立たせ、見る者を自然と微笑ませるだろう。

 上衣(トップス)と足首まで続く長裳(スカート)部分が一続きになった衣裳(ドレス)。肩の膨袖(パフスリーブ)に、袖がなくも両腕を彩る真紅の袖止めは姫袖の様に喇叭(らっぱ)状に広がりを見せている。衣裳(ドレス)全体に縫襞(ピンタック)と布寄せ(シャーリング)によって複雑な象意を施されていることもあり、それが酷く手の込んだ一着であると窺わせていた。

 ふわりと柔らかさを感じさせる鈍色の髪は肩まで届かぬ程度。目深に真紅の大きな蝶結(リボン)が左に留められた淡紅の睡眠帽(ナイトキャップ)を被った姿は酷く人目を惹き付ける。

 堕天使と吸血鬼を掛け合わせた旧文明時代の“死に損ない”と自称する彼女は、ヒトの感覚とは違う美的感覚を窺わせる要素を無数と見に纏っている。

「天魔殿……エリザヴェータ・トラヴァルヴィ。帝国建国時から暗躍する魔性よ。でも、何故……」

 無機質な声音のエカテリーナと、愛らしい顔立ちを狂相に歪めたエリザヴェータ。

「じょーきょーが変わったの、じょーきょーが。あんたは下がってなさい、って掴まってるし。莫迦なの?」

 犯し難い鈍色の髪に真紅の瞳が、勝気な笑みでエカテリーナを睥睨する。

 トウカの思考は、帝国を構成する新たな要素の出現に、楽しげに微笑む。

 元より皇国だけに種族的優位性があるなどという幸運を何千年と維持できるはずもない。諸外国も国営に有益な種族の引き入れを図るのは自明の理で、そもそ も高位種が建国を図る事とてあっても不思議ではない。帝国の急速な拡大の影には、幼き天魔が居たともなれば、説明の付く事象も多い。近年のエストランテ僭 帝大乱に於ける支持貴族の不審死なども、眼前の幼女に依るものとなれば納得できる。

「大体ね、魔性はあなたでしょ? いえ、貴方の血縁ね。私の餌場に勝手に名前を付けて統治するなんて真似をしてるじゃない」

「貴方は餌が増える。我々は富を得る。真っ当な取引であったと自負しています」

 あどけない顔立ちを得意げに歪めたエリザヴェータ。エカテリーナの反論に鼻を鳴らす。

 その光景に、トウカは眼前の幼女が、非公式でありながらも絶大な権力を有しているのだと悟る。

「エリザヴェータか……ならリーザやリーリャと呼ぶべきか」

「前者にしときなさい。後者で呼んだら殺す。体中の体液を啜って干物にするわ」

 親しみを込めた一言に、エリザヴェータの癇に障る部分があったのか、尖った言葉を返される。垣間見えた牙歯も尖っている。リーリャと呼ばれる事を厭う理 由までは不明であったが、トウカは「承知した」と応じた。幼女を怒らせてはならない。権力を有しているならば尚更である。

 しかし、エリザヴェータとはな。らしい名前じゃないか。

 エリザヴェータ……古代ヘブライ語ならば“神”と“誓い”を語源としており、魔宴(シェバト)とも関連付けられているとされる名である。天魔を名乗る幼女の名としてはこれ以上のものはないと思えるものがある。

 対するエカテリーナは、希臘(ギリシャ)語の“浄化”を語源としているという説もあるので、国是を踏まえれば、実に帝国らしい名称でもあるが、同時に帝族の視点ともなれば別の余地が生じる名でもある。国内の貴族や権力者に対する不敗や堕落に対する姿勢とするならば実に興味深いものがあった。

「体液を啜るとは困るな。エカテリーナを袖にしたばかりで、他の誘いを受けては些か外聞が悪い。自重して貰えると嬉しいのだが」

 左派系新聞社を倣った発言の切り取りで応じた。抱き寄せ続けたエカテリーナの足が、トウカの足の甲を踏み付けるが、合金で各部が防護された軍靴である為に痛みはない。

「その口先まで……本当に似てるじゃない。気が変わった。貴方、私の愛玩動物(ペット)にするわ」

「困るな、他の男に重ねられては。男の純情を弄ぶ気かな? んん?」

「あんたは知らなくても私は遺恨ありありなのよ! 気に入らない顔ね! ほんと、あの男そっくりよ!」

 喚く幼女に、トウカは溜息を一つ。

 次の瞬間、右手を振り抜いた幼女の手には大鎌。戦鎌(ウォーサイス)の様に槍に近い形状としたものではなく、草刈りや作物収穫に使用される刈り取りを意識したもので、取り扱いを容易と成さしめる為の補助柄(ハンドル)はない。塗装一つされていないそれは、月下の元に在っては鈍色に輝いて奇妙な存在感を隠さない。

 トウカは已む無しと、エカテリーナをエリザヴェータへ突き飛ばす。間髪入れずに親指で切替把(レバー)を連射へと変更し、エカテリーナの背中に向けて引き金(トリガー)を引く。乾いた連射音。新型弾薬である7.7×35㎜短小弾(クルツパトローネ)発砲炎(マズルフラッシュ)と共に次々と吐き出される。

 P89自動拳銃の後継として試作された北部兵商製の零式自動拳銃であるが、元より膂力に優れた種族の運用を意識している為に、トウカの膂力には過ぎたるものがあった。幸いな事に集弾性を然して気にする程の距離ではない為、反動(リコイル)による跳ね上がりすらも意識する必要がなかった。

 新型の自動小銃(マシーネンカラビナー)の弾薬として開発された7.7×35㎜短小弾(クルツパトローネ)は、現用の小銃弾と拳銃弾の中間を意識して開発されたもので、片手で構えての射撃ともなれば人間種には些か保持が厳しい程の威力を持つ。無論、トウカの元いた世界でも小銃用の実包の弾頭を拳銃の弾頭へと変えた強装弾があった為、運用は不可能ではない。

 少なくとも、女性を背後から撃つ分には十分な性能は備えていた。

 しかし、放たれた一二発の銃弾はエカテリーナを貫く前に宙で火花を散らして弾き飛ばされる。トウカの視覚など嘲笑う程の身体能力で移動した……訳ではなく、恐らくは魔術的な転移技術を用いた割り込みによって介入したエリザヴェータの大鎌が全てを弾いたのだ。

 それを理解した時、既にエリザヴェータはトウカの眼前にまで迫っていた。

 伸びる魔手。

 大鎌を使用しないのは、宣言通り愛玩動物(ペット)とする為であろうことは疑いないが、その魔手は新たに姿を見せた熾天使によって掴まれる。

「困りますね。お触りは禁止です」

 三対六枚の翅を展開した熾天使ヨエルであった。予想した通りの展開に、トウカは背中の冷や汗も無駄ではなかったと、自動拳銃を拳銃嚢(ホルスター)に仕舞う。

「来ると信じていた、熾天使殿。これを以て貴官への信頼の証と取ってくれると有り難い」

 トウカの一言に、ヨエルが木漏れ日の様な笑みを湛えて頷く。

 帝都の邂逅は決して一つではなかった。

 

 

 

 

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条約が有効なのは、私にとって有益な間だけだ。

            《独逸第三帝国》総統 アドルフ・ヒトラー