第二〇五話 全体主義者に花束を
ネネカが春風堂に赴かんとしている頃、軍神と大御巫は皇城の一角にある応接室で対面していた。
落ち着いた色調で統一された調度品は年代を感じさせるが、隙なく磨き上げられており維持には特段の労力が払われているであろう事を窺わせる。少なくとも 質実剛健の佇まいのヴェルテンベルク伯爵家よりは上品でありながらも遥かに工夫と手入れが成されていた。調度品や芸術に対する興味など皆無のトウカには、
少なくともその程度しか理解できない。寧ろ、資源浪費としか思えない光景に対しての感嘆などなかった。
二人で密室ともなれば良からぬ噂が立ちかねない為、トウカはラムケを伴い、アリアベルはエルザを伴っているが、二人の護衛はそれぞれの上官の背後で直立不動の姿勢を維持している。
「ロンメル子爵はどちらに?」
「ハルティカイネン大佐とセラフィム公を伴い評判の和菓子屋に。どうも、ハルティカイネン大佐が貴女の父君も護衛として引き摺って行ったようだが」
アリアベルの問い掛けに、トウカが答える。本来であれば、ミユキの護衛には相応の人物を充てたいが、リシアが居るのであれば少なくともアーダルベルトは 従うと見ていた。ヨエルは些か突き放してしまったが、少なくともトウカに対して敵対的な様子ではなかった為に、許可せざるを得なかった。
――問題はマリエングラム中佐か……符牒は正しいが、あの様な存在がいるとは。
男子厠で用を足している際に現れた女性将校。其の儘で聞いてください、と些か無理のある発言を前置きに、ミユキを影ながら護衛すると申し出た。トウカはそれを許可したが、実際のところ皇都で活動する諜報員全員の容姿と姓名を知る訳ではない。
マリアベルが皇城に間諜を潜入させ得る程の諜報網を皇都に構築していたという事実に、トウカはヴェルテンベルク領邦軍の手は驚く程に長かったのだと理解した。そして、相応の地位を持つ協力者を得ているのだろうと見当を付けた。
――国賊、米内光政の様に惨殺されねばいいがな。
共産主義者との内通が発覚して特高に惨殺された元海軍大臣という例が大日連にはある。戦時下での国賊討つべしという声は得てして抗い難いものがあった。理屈を受け付けず、利用もし易い為に利用する者は少なくないが、過ぎれば多大な混乱を招く。狂騒に身を窶した愛国者は常に売国奴を探し、国家の統制を軽視する。それは最早、害悪に他ならない。
よもやアリアベルではあるまいかとの疑念が過るが、トウカは詮無いことと苦笑する。
「取り敢えずは、土産に期待しよう」
「水羊羹であれば喜ばしいですね」
微笑むアリアベル。残念ながら、ミユキが何に心惹かれるかまでは、トウカにも分からない。因みにトウカは最中を望んだ。
トウカは咳払いを一つ。
「しかし、未だに群集が叫んでいるらしいな。右翼団体と在郷軍人会が練り歩いていると聞く。活発な“暴論”が朝野を満たせば軍事力の行使に吝嗇が付く事もあるまい。喜ばしい事だ」
「御同慶の至りです。経済が耐え得る限りに於いては、ですが」
アリアベルが紅茶で唇を濡らす。巫女装束もあって酷く艶めかしいものがある。嘗ての様に時間と戦況に追われてはいない為か、その表情や仕草には以前よりも余裕が滲む。
だが、内戦時に戦死した軍人の遺族からは相当の突き上げがあったと聞く。途中で完全に政府主導の軍事行動となった為、征伐軍を一概に完全な悪と断じる事 はできなくなりつつあるものの、批難する者が皆無な訳ではない。無論、一部では躊躇う政府を、自らを犠牲にして翻意させた至誠の人物であるとの擁護する意
見もあった。内戦状態が継続すれば一丸となって対帝国戦役に望めないので、結果的に陸海軍と北部勢力の連携に成功した為、積極的な内戦終結を目指す姿勢は 間違いではなかったという理屈である。
元を辿れば、アリアベルは国粋主義者であるものの、決して好戦的な人物ではない。毅然とした主張と行動を以て良しとするだけで、繁栄の手段として他国侵攻による積極的な収奪を率先垂範する様な人物ではなかった。いつかは、トウカと相容れなくなる点は確定している。
「経済対策は政府の仕事だ。北部はこちらで請け負う。どの道、北部の貴族や臣民は政府の政策を受け入れない。遺恨ゆえだ。まぁ、北部は上手くやる。帝国の侵攻さえ跳ね除ければ、帝国侵攻の一大策源地になるからな」
軍需施設を各地に建築し、経済発展の原動力とするのだ。無論、投入資金の割に民衆への還元と雇用が安定しない為、永続的なものとはできない。産業構造の転換は準備せねばならないが、ヴェルテンベルク領は元より重工業に秀でた企業も多い。協力を仰ぐ事は容易であった。
無論、北部臣民の大規模避難によって双方の確執はある程度の軟化を見るだろうが、根本的解決は時間経過による風化しかない。愚かしい人権擁護の授業や周 知の様に、知覚する者を増やして過去を掘り返して萌芽を作る真似はできない。風化させるのが最も有効な対策なのだ。無論、陣営を脅かさない新たな確執を演
出し、嘗ての確執を積極的に風化させる事が最も望ましい。現在ならば帝国を利用するのが最善である。
「まぁ、貴女の周辺の雑音に関しては暫く待つといい。ヒトは何時の時代も、批判できる敵を探している。ならば用意してやればいいのだ。貴女への批難もいずれ帝国に対するものに変わる。内戦が起きた原因も帝国にある、それが公式見解なのだから」
今少しの時間が必要である。全責任を帝国へと遷移させる真似は難しいが、九割方で十分である。最悪、六割でも多数を占められる。国家を動かすとはそういう事である。
アリアベルは割り切れてはいないのか、物憂げな表情である。応接室の調度品などよりも余程に奥床しくも儚げで目を惹くものがある。素材として見た場合、実に惜しいものがあった。
「自責の念に駆られているのか? ならば貴女には才能がある。動乱の引金を引いて尚、被害者顔できるのであれば、貴女は紛れもなく優れた“政治家”だ」
心底と、そう思える。そうでなくては政治家足り得ない。悲劇の姫君を演じられる程に自身に酔えるならば、他者の意見に指針を曲げる事もない。政治とは公 明正大でいて明朗闊達な人物や、勧善懲悪にして勇猛果敢な有様を望みながらも、実情としては相反する人物達を必要とする。特に民衆を指導する人物とは斯く 在らねばならない。
悲劇と正義の十字架を背負い、嘆きながらも残酷な決断ができるならば、それは紛れもなく大衆受けする政治家である。トウカにはない要素である。トウカは軍人として栄達する以上、虚飾は同業の不興を買う。大衆への迎合に踊らされるのは実戦経験に乏しい兵士程度である。
「恐れながら――」
「――本当に恐れ多いな、黙れ」
エルザが口を挟もうとするが、トウカは許さない。アリアベルが望む望まずに限らず、彼女は立場に相応しく在らねばならない。彼女が望む愛国心を押し通すのであれば。そうでなくては内戦に於いて征伐軍に属した数多の烈士の挺身が徒になる。
「御前に選択肢などない。御前の命令で死んだ連中が徒ではなかったと思える振る舞いを続けろ。それが軍の指揮統率を担うという事だ」
「軍人の理論ですね……」
アリアベルが儚げに零す。レオンディーネの様に士官学校へ入学した訳でもないアリアベルに強制すべきものではないと、エルザの視線は語るが、最早、彼女は指揮官として一度、軍人達を戦地に進めたのだ。
「戦場の理論だ。戦場に兵を差し向けた以上、御前には義務がある。御前らの死が徒ではなかったと将兵達に理解できる形で示さねばならない」
「もし、示す事が叶わないならばどうしたらいいの?」
喘ぐようなアリアベルの問い掛けを、トウカは一笑に伏す。笑止千万、言うに及ばず。
「新たな兵を戦場に差し向けるのだ。将兵達が理解できるナニカを示せるその日、その時、その瞬間まで」
そうして戦争は泥沼化してゆく。国を傾ける程に莫大な規模で投じた一切合財悉くに似合うだけのナニカを求めて。ヒトはその最中で理性を喪失する。分の悪 い賭けを続ける。なれど、引く事はない。トウカもマリアベルを投じたのだ。彼女が望んだ未来を得るまでは、一連の戦争を終結させられない。アリアベルとト
ウカの依って立つところは、著しく感情的な産物に過ぎないが、相違点は戦争終結までの道筋を立てているか否かは大きい。
「一度、将兵を戦地に送れば、最早、成果を上げるまで逃れ得ないのですね……」
「理解が早くて助かる。指揮官に必要なのは手を穢す覚悟ではない。心を穢す覚悟だ。卑怯者になれ、悲劇の姫君」
戦地に将兵を投じる決断を下しながらも、悲劇の姫君という立場を大多数に錯覚させる。それこそが、大御巫の役目と言えた。手段は問わない。トウカとしては、御手並み拝見という立場である。
心底と腰の引けたアリアベルの肩に、エルザの手が静かに置かれる。伸ばされた盟友の手を追う自らの手を抑え、再び膝上へと戻したアリアベル。葛藤と罪悪 感に苛まれた様が窺えるが、少なくとも立場から逃れる心算はないと取れる。欺瞞と誤解を意図した動作でなければ、という前提が付くが。トウカは高位種を侮 りはしない。ましてや一度はトウカを騙し遂せたマリアベルの妹ともなれば尚更である。
潤む瞳で、トウカの仄暗く、知性と深淵を湛えた瞳に立ち向かうアリアベル。客観的に見れば、加害者は一目瞭然であろう事は疑いない。真に悲劇の姫君である。
トウカは溜息と共に応接椅子に深く 腰掛ける。沈み込む身体。最高機密として扱われた為に作戦名すら付与されなかった帝都空襲は空母機動部隊と戦略爆撃騎による強行軍であった。本来は、撤退
中に他の複数沿岸都市を爆撃する予定であったが、高位龍種の肉体的疲労と精神的消耗が想像以上に激しかった事もあり中止している。それでも尚、トウカの疲 労は絶大なものであった。大星洋上で早々にアーダルベルト単騎で皇都へと向かったトウカだが、それまでは航空攻撃に関する戦闘詳報作成に掛かり切りであっ
たのだ。余りにも問題の多い現状と、以降に生じるであろう世界への影響や推測などは、放置できないものである。
特に潜特型(伊四百型潜水艦)と同程度の潜水艦から戦略爆撃騎を発艦できる余地が生じた点は大きい。世界を相手取れる長所であり、大星洋の内海化を前倒 しせねばならない理由が生じた。その点だけでも、トウカの心労は多大なものとなっている。その上、宗教的象徴に被害者顔されるのだから世界は残酷であっ た。
「御前ら、俺が急進的な姿勢を望むのが私怨だとでも思っているのか? 馬鹿を言え。合理性と盟約に基づいた行動だ。御前は戦況を構成する要素に過ぎない。 怯えずとも最低限の義務を果たせば悲劇の姫君にはしてやる。それに、だ。クルワッハ公との連携を踏まえれば、御前は切り捨てられない」
正しい現状認識を教え込むトウカ。推測はできても確定事項として伝えねば納得しない者は往々にして存在する。それでも尚、納得できないとしても、アーダ ルベルトに直接尋ねれば解決する。アーダルベルトとトウカは、アリアベルに実権を与えずに飼い殺しにしつつ名誉を徐々に回復させるという方針で同意してい るのだ。
「もし、それすら果たせぬと言うのであれば、御前は演説中に左派団体の凶弾に斃れる事になる」
流石のアーダルベルトもこれ以上の権力闘争を看過し得ない筈である。もう一度の内戦など誰しもが望まない。アリアベル自身も内戦後は然したる動きを見せ ていない事から、祖国の現状に一応の満足を得たと見える。少なくともアリアベルが不用意に動けば監視している複数の勢力の間諜が初動を捉える筈で、完全に 後手に回る可能性は低い。
「そして、帝国が左派団体と繋がっているとすれば、最早民意は皇州同盟の行く手を阻めないと思わないか?」
尚も戦うのであれば、敵国の凶弾に斃れて貰うしかない。彼としては、それが最も望ましく、マリアベルとの約定もあって、やむを得ぬ状況は阻止したいと考 えていた。無論、もし喪う事になるのであれば、皇国にとり最大限の利益を齎す舞台を用意する心算である。そうでなけれアーダルベルトも納得しない筈であっ た。
「その悲劇の英雄の役目。貴方や剣聖殿にお任せ致します」
アリアベルが毅然と言葉を返す。少なくとも、一応の現状維持を受け入れた様子に、トウカは「宜しい。大いに宜しい」と両手を広げる。
「同盟は継続だ。神祇府も今回の茶番で抑えられるだろう?」
引き下ろす動きは内戦中より存在し、内戦後はそれらの動きに対して掣肘を加える事に、アリアベルは躍起になっている。帝都空襲という戦果を以て、神祇府内で蠢動する敵対勢力を掣肘する事は容易い筈である。
堪え切れずと言った表情で口を挟むエルザ。近衛騎士という立場にある以上、主君に対する横柄な発言は耐えられないとの事であろう。黙殺して忠誠を疑われては職務に差し障りがあるので、彼女の立場を踏まえれば致し方ないものがある。宮仕えの苦し事情である。
「閣下! 失礼ながら大御巫とは天霊神殿が象徴です! 幾多の神々を祀るが故に絶大な影響力が――」
「――その大御巫とやらは、戦車師団を幾つ持っているのだ?」
残念ながら一近衛軍中尉の心情を斟酌する必要を、トウカは感じない。トウカという後ろ盾とは、即ち軍事力という後ろ盾に他ならない。それを明確な形で告げる。軍事力こそが大御巫を護っている、と。
トウカは「話は終わりだ」と立ち上がる。返答を聞くまでもない。
ラムケが恭しいトウカの肩に軍用長外套を 掛ける。彼はそうした振る舞いを部下にさせる事に未だ馴れないが、権威とはそうした所作より生じる要素でもある。意外な事に、汚れや擦り切れを綺麗に直し
てみせるラムケを前にしては断り難いものがある。孤児院の院長を務めていただけあって、彼自身は面倒見が良い。口先と顔立ちが恐ろしげであるが、やはり神 官なのだ。この顔立ちで孤児の衣服を縫うと思えば妙な愛嬌すら感じられる。
扉へと進むトウカは、今一度振り返る。
「では、失礼。貴方に神々とやらの加護がある事を戦野から祈念する」
口元を歪めて敬礼するトウカ。アリアベルは立ち上がり一礼した。
「ノナカ大佐もシュタイエルハウゼン提督も勲功抜群だ。彼らの槍働きには満足している」
トウカは、素直に称賛の言葉を口にする。心よりの称賛である。二人は帝都空襲に於いて獅子奮迅の活躍を見せたと言っても過言ではない。
無論、佐官と将官を複数搭乗させたのは、トウカが現場指揮に不安を持っていたからである。長年、現場で指揮官を務めた彼らであればこそ、細部にまで視野が 及び、咄嗟の判断を下せる。知識や才能ではなく、経験だけがものを言う世界は存在するのだ。航空指揮官として、艦隊指揮官……野戦指揮官としての経験は時
を重ねねば得られない部分が多岐に渡る。トウカは自身に不足している部分を知悉していた。補う術は心得ている。
「シュタイエルハウゼン提督は、帝都の運河閉塞には及ばなかったものの、多数の商船と補助艦艇を撃沈。ついでに洋上の違法建築物も撃沈している」
奇妙なまでに積み上げられた艦橋を持つ旧式戦艦が停泊していたらしく、これ幸いにと雷撃で撃沈したとの事で間違いなく勲功抜群である。混乱の最中での暗号化されていない通信を捉えた限りでは嚮導戦艦という艦種らしく用途は不明であった。
シュタイエルハウゼンに関しては、海軍軍人として干戈を交えた過去があり、戦艦を喪った挙句に敵方に付いた為に海軍とは確執がある。トウカは彼に対して 可能な限りの便宜を図らねばならない。海軍が裏切り者とシュタイエルハウゼンを拒絶するのであれば、トウカは強力に彼を擁護せねばならない。裏切らせたの
がトウカであるという事実よりも、双方から白眼視されて終生を過ごすというのは、武功を以て国家に報いた者の在り方ではないからである。信賞必罰は軍の 依って立つところであるが、それは後に続く者達が躊躇わぬ様にする為でもあった。栄光なき勇戦に憧れる者などいない。
「昇格と勲章は当然だが、なにかしらの演出も用意するべきか」
「そいつぁ、彼らも喜ぶでしょうぅなぁ」
ラムケがウィシュケを煽りながらも同意して見せる。
二人は現在、クロウ=クルワッハ公爵家が皇都に保有する屋敷の一角で寛いでいた。当初はラムケがノナカと飛行兵達を誘って色町に繰り出そうと言い募って いたが、トウカは暗殺を懸念して彼らの誘いを断った。結局、ラムケはトウカの護衛として残り、ノナカは飛行兵達を率いて色町へと向かった。支払いはクロ ウ=クルワッハ公爵家持ちであるので、彼らへの慰安としては十分なものである筈であった。
「それにしてもクルワッハ公も気風が良い。他の戦略爆撃部隊の連中にも相応の褒美を用意する必要があるが……帰還報告は?」
「既に。戦略爆撃騎は先行してヴェルテンベルク領に帰還。艦隊はまだ大星洋上ですなぁ」
ラムケの言葉に、トウカは鷹揚に頷く。
戦略爆撃騎が大規模な編隊を組んで帰還する光景を北部各地で見せつける行為は、示威行為に他ならない。皇州同盟軍の権威を確かなものとし、未だに続いて いる大規模避難で落ち込んだ雰囲気を打破する事を目的としていた。希望があれば、避難民も自棄を起こす事も少なくなる。トウカは勝利と可能性を演出し続け る義務があった。
「そう言えば、奥方を外に出して宜しいのですかぁな?」
何処か面白がるかの様な表情のラムケ。トウカは「宜しくあるものか」と眉を顰める。リシアにアーダルベルト、ヨエルという同行者がいる以上、外敵を気に する必要性は薄いが、アーダルベルトに全幅の信頼を置く真似はできない。無論、物理的拘束が可能なヨエルと、精神的拘束が可能なリシアがいる以上、アーダ
ルベルトの軽挙妄動はある程度抑えられる。寧ろ、暗殺を危惧せねばならないのは敵拠点に居るに等しいトウカであった。当然、犯人が明らかな場所での暗殺な ど行わないだろうという確信もある。もう一度の内戦をする余裕など現在の皇国にはない。
窓より窺える皇都の情景を一瞥し、トウカは魔都の一面を持つと確信する。
「マリエングラムとやらも護衛に就いている。どうも敵わんな。マリィの四〇〇年の恨みは想像以上に根深いらしい」
多種多様な種族と民族を内包するという事は、多種多様な文化と風習を内包するという事である。種族的紐帯や政治的連携、経済的結合、宗教的団結……様々な繋がりがあり勢力が入り交じる大都市。無数の思惑が交錯し、駆け引きが行われる様は正に魔都に他ならない。
「まぁ、小官もあの娘の遺恨は測りかねぇておりまぁしたからなぁ」
多くを許容する土壌は皇都より始まったが、それは北部には届かなかった。厳しい気候に希薄な人口が発展を妨げ、状況の打開には集権的な指導力を必要とせ ざるを得なかった。北部貴族はそうした中、強力な指導力と権限を用い、自助努力によって領地をある程度の形に纏めたが、それは独立した陣営の成立に他なら ない。連携なく繁栄を目指した結果、一領地で必需品の大多数を賄える様になった。
強力な指導力の到来は、多くの場面で画一化を招く。天帝によって一応の纏まりを得た奇跡的な多様性だが、北部では多様性の排除の為に強力な指導力を伴っ た者達が擁立された。発展の為に必要最低限の多様性のみにまで切り捨て続け、彼らは皇都や他地方とは根本的に相容れない存在となった。必要に迫られたが故
の不寛容は、何百年という時を経て彼らの常識となったのだ。寛容的な多様性を北部臣民は唾棄すべき頽廃や嫌悪すべき惰弱としか見ない。思想的分断とは正に これである。
トウカは対面に座るラムケが並々と水晶碗に注いできたウィシュケを啜る様に口に含む。思わず息を漏らす様な複雑な味わいだが、まるで並々と注がれた日本酒を啜る中年の様な飲み方に妙な可笑しさを覚える。
「美味いな。ウィシュケとしての完成度が高い。銘柄を見るに単一麦芽の筈だが……」
基本的に混合麦芽と比較すると単調になり易い傾向にある筈だが、口に含んだ限りでは相当に多面的な香りと味を持っている。皇都は酒にまで多様性を求めたのかと思わずにはいられない。
それを水の如く喉に流し込むラムケに、トウカは天を仰ぐ。決して味の分からない相手に出してよい一本ではなかった。或いは、この一本を用意する事で多面的な姿勢を示したとも受け取れなくもない。無論、単一麦芽主体の北部の者に珍しいものをと配慮されただけと、トウカは見ていた。思うならば直截に述べる。アーダルベルトとはそういう男であった。
「さて、唾棄すべき全体主義者としてはどうしたものか?」
不寛容の代名詞として、トウカの名は皇都に知れ渡っているのかも知れない。トウカはそれを否定しないどころか肯定する腹心算である。現在は有事であり、 敵国は国力に勝る軍事大国なのだ。多数の分野での画一化により無駄を排除する事を戦時体制への移行が必要不可欠である以上、初代天帝の姿勢を保持したまま での戦争など狂気の沙汰だと、トウカは考えていた。
「種族的協調を示す光景だ。我ら北部臣民すらも迎え入れる懐の広さと不用心。それを助けて国益に繋げるはずの天帝陛下が不在。しかして彼らは北部の全体主義を認めない」
賑わいを見せる皇都の情景に蠢く臣民は多種多様な種族と民族である事が窺える。トウカは人類最大の発明が国境であると疑わないが、それ以外の選択肢を選 択した皇国という国家を理解できなかった。この光景を実現する為に四千六百年の時を費やしたが、国内安定のみにそれ程の時間を掛けるのは不条理に過ぎた。
もし、ある程度の妥協の下に各種族の融和と安定を留め、二千年も前に積極的な外征政策に転じていれば、大陸は統一されていたに違いない。帝国との戦争も起 こり得なかった。占領地の安定とて相手の大多数が人間種などの低位種である以上、思想的にも心情的にも併合するのは二百年もあれば十分。資金の拠出は別途 考えねばならないが。
トウカは歴代天帝の尻拭いをせざるを得ない立場に在るが、同時にそれが止むを得ないとも理解しつつあった。大陸に統一した思想と規範を拡げても、妥協し た各種族の融和と安定が問題として残る。歴代天帝は決して有能ではなかったが無能でもなかった。大陸統一と各種族の融和と安定を同時に実現しなかった以 上、それは物理的に不可能だったのだろう。故に融和と安定を優先した。
しかし、大陸統一という明らかに武力に頼る必要性のある課題が残置した事は幸いであった。少なくとも、トウカにとり各種族の融和と安定よりも得意とする分野である。
――俺が漂着したのも、ある種の必然か。
必要とされる場面に、それを解決する能力のある者が現れた。
「面倒ばかりだ。……そう言えば、国民に対する布告もあったな。どうした屁理屈を捏ねたものか」
魔導通信による全国への皇州同盟軍最高指揮官としての宣言を行う予定が二日後に決まった。今ならば受け入れやすいという打算と、皇州同盟軍が明確に陸海 軍と連携しているという宣言は陸海軍府長官と共に行われる。これにより、国家予算編成もまた皇州同盟を認知したものとして組まれる事になる。
「宣誓文は決めておりぃますので?」
ほろ酔い気分のラムケが尋ねるが、トウカは肩を竦めるに留める。実際のところ、その場で考える心算であった。文章など用意してしまえば、添削されるのは 目に見えている。当たり障りのない宣言であれば行う意味などない。苛烈に七生報国を謳い上げるのだ。アリアベルに言った様に、トウカもまた自らの命令と計 画によって喪われた“友軍将兵”の為に戦い続けなければならない。
「ない。ただ、国民は我らを受け入れねばならない。それが外敵を放置し続けた代償だ。それは認めさせる」
それすら認めないならば、戦略爆撃騎部隊による皇国各地での訓練飛行が行われる筈であった。諸都市を爆撃目標に見立てた訓練飛行である。権力者は思い知るだろう。最早、軍神には慈悲も許容も赦しもないのだと。
「全体主義者が必要とされる時世は必ずある。いずれば自国民に否定され、排除される運命にあれども彼らが必要とされ時世は必ずあるのだ。それが国家を長きに渡り存続させるという事であり、知性と理性を発展させるという事に他ならない」
多大なる困難に対し、国家は適応する。その中で全体主義は生まれ出る。困難を体験した事もない国家であれば良いが、そんな国家はそうあるものではない。 あったとしても紐帯に乏しい弱小国に過ぎない。争い続けた歴史を持つ国家こそが主要国となるのだ。歴史と世界地図を見れば明白な事実である。
皇国も争い続けなければならない。総ての種族を受け入れる多種族国家という生存権を断固として守りたいならば。弱小国として守り切れる看板ではないのだ。
後世で後ろ指を指される事になる全体主義者。或いは、自らが全体主義の片棒を担いだ意識すらないのかも知れない。彼らの大多数はそれを理解せずに戦野に 赴く。哀れでいて健気である。なけなしの愛国心すら否定されるかも知れないというのに。それらを率いてトウカは戦うが、自らが喪われているであろう後世の 評価まで確定させる事は難しい。ただ、願うしかないのだ。
「死にゆく全体主義者に花束を」
水晶碗を掲げ、残ったウィシュケを煽るトウカ。
今この時も、軍神と大御巫の宣言により感化された若者達はこぞって志願の為に出頭し続けている。皇国は戦時体制へと移行しつつあった。
「う~ん、悩ましいです」ちらりとミユキがアーダルベルトを窺う。リシアはその光景に全てを察した。
皇都で最も歴史と由緒のある和菓子屋の展示の前で、ミユキがしゃがみ込んで唸っている。豊かな尻尾が床へと投げ出される様が印象的であった。踏み付けたい衝動に、リシアは駆られる。
「……全部買ってやる。おい、全てを十ずつ包んでくれ」
アーダルベルトが割烹着に着物の店員に、まとめ買いを指示する。ミユキが尻尾を揺らしてアーダルベルトの腕へと抱き付く。話の分かる小父様に対する善意は無限大である。背後からのリシアとヨエルの視線など気にも留めない。
店員と楽しげに会話するミユキを尻目に、リシアはアーダルベルトに並んだ。
「貴方、ちょっと楽しんでるでしょ? 私達は貴方の娘じゃないわ」
二人の娘と反目したアーダルベルトに年頃の娘に甘えられるという経験がある筈もない。ましてやクロウ=クルワッハ公爵という肩書は甘える相手としては絶 大に過ぎるものがある。無論、見た目だけ年若い娘であれば周囲には無数といるであろうと、リシアはヨエルを一瞥する。トウカと何かあったらしく気落ちした 佇まいのヨエルは淡く微笑むに留まっていた。
「娘と上手くいかない中年の慰めにすら吝嗇を付けるのか」
恨めしい視線のアーダルベルトに、リシアは黒檀の扇子で口元を隠して軽やかな笑声を零す。扇子はマリアベルから嘗て受け取った物で、まさかマリアベルも 受け取った者がアーダルベルトを笑う際の道具として用いられるなどとは予想だにしなかった筈である。廃嫡の龍姫も草場の影で笑い転げているとリシアは確信 している。斯くして、歴史は奇縁と奇妙と奇蹟に彩られるのだ。
「こうした日常など来ないものと思っていた。どうだ? 御前も何か欲しいものはあるか? 序でに買ってやる」
なんとも機嫌良さげなアーダルベルト。他の七武五公の面々が驚くであろう光景なのだ。それは背後のヨエルが証明している。
「御父様。私、陸軍府長官の地位が欲しいわ」
「御前な……親補職は無理だ」
貴方の命が欲しいと言わないだけの優しさを察したのか、親補職“は”無理だというアーダルベルトに、リシアは乾いた笑みを零す。血筋の成せる技であろ う。危うく取り込まれそうになる程の厚遇である。これ以上の発言は立場を危うくすると、扇子で口元を隠して彼女は沈黙する。
そこで、店内が事実上貸し切りであった中、皇国陸軍第一種軍装を纏った二人が暖簾を分けて姿を見せる。
片や元帥号を持つ禿頭に皇帝髭の 偉丈夫。片や狐耳を揺らす参謀飾緒を肩に吊るした愛らしい幼女。性的な犯罪を窺わせる組み合わせとも見えなくもないが、それ以上に可愛くて堪らない孫娘に
皇都の案内をしている様に見えた。小さな狐の参謀将校が軍装でなければ、憲兵事案であったかも知れない二人に、ヨエルが話しかける。
「御機嫌よう、ファーレンハイト長官。そちらの愛らしい方は? よもや……」
憲兵事案かとの視線に、ファーレンハイトの表情は倦厭に満ちた表情となる。既に幾度か類似した出来事を経た結果であろう。小さな狐の参謀将校も些か笑みが引き攣っている。
ファーレンハイトが口を開く素振りを見せるよりも早く、小さな狐の参謀将校が見事な敬礼を以て官姓名を名乗る。
「小官は、ネネカ・フォン・シャルンホルスト大佐です。小狐族で第一部作戦課課長の任にあります。ハルティカイネン大佐と御見受けしますが、その認識で宜しいでしょうか?」
紫苑色の長髪から見当を付けたであろう事は推測できるが、五公爵の内の二人がこれ以上ない程の存在感を示している中で、緊張も見せずに応じる様は彼女が容姿とは釣り合わない戦歴を経ていると確信させる。
「ええ、陸軍〈北方方面軍〉情報参謀、リシア・スオメタル・ハルティカイネン大佐。貴女の御高名は聞き及んでいます。サクラギ上級大将閣下も貴女の事を高く評価為さっていますよ」
無論、それ以上に警戒している。感激した面持ちで「光栄です、大佐」と述べるネネカに、尻尾は掴ませないかと狐の尻尾を一瞥する。ミユキに負けず劣らず良い毛並みをしている。呪いあれ。
護衛としての役目に戻る心算か、ヨエルは無言で距離を置いている事とは対照的に、和菓子の詰め込まれた大きな紙袋を抱えるミユキが近付いてくる。同じ狐系種族に興味津々といった様子であった。
ネネカがミユキに対しては僅かな緊張を見せる。現在は皇国に於いて狐系種族の最上位にある天狐族の姫君が相手では無理もない。予期しない遭遇であれば尚 更である。蜥蜴が龍に遜る様に、猫が虎に阿る様に、犬が狼に傅く様に。同じ系統種族でも序列が存在する。無論、稀にベルセリカの様に種族差など覆す存在も
あるので、一概に優位とは言えない。それぞれの分野に特化した特色を持つ種族もまた存在した。
ネネカが敬礼する。ミユキの両手が塞がっているとはいえ、皇州同盟軍大尉に皇国陸軍大佐が先に敬礼するというのは軍の慣例からは逸脱したものがある。とは言え、周囲は心情を察してか指摘する事も咎める事もない。
リシアは呆れた様な表情を隠しもせず、ミユキの手から和菓子の紙袋を受け取ると、アーダルベルトに押し付ける。女の子の買い物に付き合う男性の宿命である。きっと、アーダルベルトも男冥利に尽きると喜んでいるに違いなかった。表情は確認しないが。
ミユキが慌てて答礼する様に、これでネネカがミユキを上位に置いたという既成事実ができたと、リシアは満足げに頷く。宣伝戦の材料は多いに越した事はない。無論、酷く弱い材料であるが。
「えっと……ネネカちゃん?」
「はい、シャルンホルスト大佐です。その、階級の問題がありますので、どうかここは軍の慣例に従って頂き――」
「――小っちゃくて可愛い! 妹みたい!」
全力で上官侮辱を敢行するミユキ。挙句に近付いてネネカの両脇に手を差し入れて持ち上げる。姉が妹にするかの様な光景だ。連携を実現しつつある陸軍と皇州同盟軍であれば、問題を大事とはしない公算が高いが、いらぬ面倒が増えた点は変わりない。
「ハルティカイネン大佐……」
「うっさい、アレをしたら殺すぞてめぇ」
アーダルベルトの物欲しげな声音に、リシアが吐き捨てる。言わんとしている事を察してしまった己すらも彼女は憎らしい。
皇州同盟軍大尉が皇国陸軍大佐に無礼を働いたのだ。皇国陸軍大佐が公爵に無礼を働くのも似た様なもの。少なくとも軍序列としては暴言も問題はない。
「私、ネネカちゃん欲しい。おじさん、頂戴!」
「おお、しかし、大変にお高くなっておりますぞ、狐の姫君。そこはサクラギ上級大将に相談せねばなりますまいな」
炎狐族でもあるファ―レンハイトは、一歩譲る姿勢を見せながらも高価買取されるならばという姿勢を見せた。ミユキの思い付きでトウカが譲歩を迫られる危 険を止めるべきか、或いは新進気鋭の参謀将校を得られる機会とばかりに便乗するかと悩む彼女に、ヨエルが小さく首を横に振る。
――そうね、その通りよ。皇州同盟軍に神算鬼謀の将校は二人もいらないわ。
それではトウカの重要度が相対的に低下する。誰もが追随を許さない神算鬼謀であるが故の軍神なのだ。軍神は一人でいい。複数人となれば派閥争いの原因と なりかねない。排除する程に頭角を現してはいないが、警戒せねばならない相手である。陸軍府長官であるファーレンハイトと二人で出歩く程には陸軍総司令部 と結合している点も無視できない。それがリシアの下した判断であった。
「ミユキ、上官への無礼は駄目よ。許されるのは公爵まで。良いわね?」
肩をこれでもかと掴むリシアに、ミユキが渋々と頷く。宮廷序列最上位の公爵相手である場合、門閥貴族や衆議院が動きかねないので、下手をしなくとも上官侮辱よりも面倒が待ち受けている。
だが、北部出身の者とは貴軍官民問わずにそうした生き物である。それは近年に至り国内で周知されつつある。否、内戦で思い知ったと言うべきである。反骨心 で政治と軍事を行使する土壌は、何も貴族だけにあるのではない。何より反骨心のある者を貴族が望み、領民の気高くも遠慮と容赦のない姿勢を肯定した事が大 きい。その精華の一つとしてリシアがあり、徒華としてマリアベルが存在した。
無論、ミユキ対する容赦などない。トウカに不利を齎すならば尚更である。彼女の視線にミユキも気取ったらしい。ネネカを下ろしたミユキ。
「じゃあ、お詫びにこれあげます」
最中をネネカの手に握らせ、序でとばかりに頭を撫でる。全く反省の色を感じない。問答無用でリシアは拳骨を落とす。呻くミユキ。
「小狐族って中央にしかいないから初めてだよっ。本当に小さいんですね」
「小官も天狐族は北部に集中しているので初見ではあります」
ミユキの印象から自由気儘な狐種という印象を受け、犬種と違い社会性に欠けるとされているが、実際、狐という生物は特定の地域を生活圏とする習性があ る。社会性に関しては犬種と違いあまり群れず、人里離れた地域に於いて家族単位で生活する事が基本であった。よって、天狐族以外に何百と群れて生活してい る例を、リシアは知らない。匪賊による襲撃の調査に訪れた際には彼女も酷く驚いた。
「陸軍の一番偉そうな建物にいるんだね。今度、遊びに行くね」
「事前予約をお願いします……」
一番偉そうな建物という点に吹き出すファーレンハイトを尻目に、事前の予約を求めるネネカ。
陸軍総司令部の見学は、志願兵が生じ易い雰囲気を醸成する目的で盛んに行われている。その枠内に収めて大過なく済ませようという意図が感じられる。策士で ある。トウカであれば、ミユキ襲来と同時に他の狐種を用意して宛がう事で災難から逃れようと目論むだろう。或いは、対応を見てネネカを見極めるという方法 もある。
ミユキとネネカの会話。周囲はそれを暖かい目で見守る。年頃の少女の会話であるが故に、周囲の者達にとっては珍しい。一応、リシアも人間種年齢に換算す ると辛うじて少女という年齢だが、日頃の言動と苛烈な姿勢も相まってそうした扱いは受けない。当人が望まないという点も大きい。
「ハルティカイネン大佐、先の演出。見事であった。筋書きを描いたのは卿であろう?」
ファーレンハイトの言葉に、リシアは存外に“一応、陸軍所属なのだから配慮しろ”という他意を感じ取る。リシアは微笑む。それは他者から見て酷く妖艶なものであった。
リシアが、ファーレンハイトの意見に付き合う必要はない。
「……高射砲、欲しくありませんか? 元帥閣下」
「卿……できるのか?」
高射砲の増産はヴェルテンベルク領の軍需施設で行われており、規格の砲弾は皇国各地で製造されている。認可生 産の話は既に出ているが、生産設備や資材流通が早々に整うはずもない。よって未だに要求数に対しては全く定数を満たしていない状況が続いている。予定して
いる定数が揃うのは五年後とされているが、トウカは各国が航空騎を積極的に採用した場合、定数は五倍程度必要であると見ていた。
そして、実際のところ対空砲の不足による取り合いは、陸海軍との連携の一環として取引材料の価値を高める為の工作であった。否、正確には対空砲の生産数は上限一杯であり、偽りのない数値を陸海軍に伝えている。
だが、対空戦闘可能な武装と言われれば、実は複数の種類がある。主流なのは四〇㎜以下の対空機銃と四〇㎜以上の高射砲だが、後者は皇州同盟軍で採用して いる対戦車砲と同等の共通規格で生産されている。高射装置があれば高射砲として運用可能なまでに共通化がなされている。対空機銃にしても騎載機銃や車載機
銃などとは共通化がなされており、生産の効率化が図られている。無論、陸海軍が欲しているのは、戦略爆撃騎からの高高度爆撃を危険視している為か高射砲で ある。彼らは射程さえあれば、その距離内全ての航空騎に取り敢えずは対応できると見ている様子であった。トウカが「甘いな」と冷笑していた為、リシアはよ く記憶していた。
特に高射砲を求める陸海軍。対する皇州同盟軍は彼らに対して大多数の供与を約束している。トウカの航空騎による反撃が暫くは大規模には行われないであろうという推測に加え、航空騎の邀撃は航空騎によって行うのが最も効率的と複数の戦闘航空団を編制している。
だが、準同型の対戦車砲は決して手放さなかった。それは対戦車砲もまた対空火器として見ているからであった。
本来は両用砲という名目であったのだが、敢えて対空砲に対戦車砲と分ける事で別種とされた対戦車砲は、実際のところ大仰角や優れた旋回速度などの特 徴……言ってしまえば高射砲と全く同様の構造を持っていた。高射砲は優れた弾道低下率を必要とし、高初速を実現する目的で長砲身の傾向にある。装薬量は多
く、それに対応した構造を採用していた。これらの性質は対戦車砲に共通する事から対戦車砲や戦車砲に流用できる。現に皇州同盟軍の主力中戦車の対戦車砲は 高射砲を流用している。製造兵器数を絞る事に熱心なトウカの指導の結果であるが、陸海軍は未だに気付いていない。防楯の構造と牽引方式に大きな差異がある
為、一目で準同型とは気づき難い為であるが、共に対応する射撃指揮管制装置があれば対空戦闘にも対戦車戦闘にも転用可能である。
対地対空の両用が可能な最新型の九九式六五口径一〇cm加農砲(10cm Kanone 99)は未だに試作型の試験が終えていないと、性能のみを伝えている。そちらに意識を取られているからこそ、既存の高射砲の構造が新規製造分から順次変化 したことを、量産効率化と資源節約、強度確保、性能向上などの言葉で納得させ得たのだ。無論、気付かれるのも時間の問題である。実戦を経れば互換性に気付
き、高射装置を用意する筈である。故に、トウカは、そうした中で対戦車砲として生産されたものを、防楯を取り外して最終的には売却する意向を持っている。 売り時を違えれば投げ売りとなりかねないが。
そうした交渉に選ばれたのはリシアであった。今ここで、その意図を匂わせておく事は悪くない選択である。
「良いのか? 皇州同盟軍の高射砲は足りてはおるまい」
「邀撃には戦闘騎を多用する心算の様です」
リシアは曖昧な笑みで逃れる。広範囲の領空を高射砲という兵器で防護するのは効率的ではない。陸軍は内戦中に、ヴェルテンベルク領での航空戦で多数の航 空騎を対空射撃で喪ったが故に、高射砲や対空機関砲という兵器による対空戦闘の効率に対して多大な勘違いをしているのだ。フェルゼン防衛に偏執的なマリア
ベルの都市設計と、トウカによる誘導と攪乱による成果である。対空砲の命中率が優れていたからではない。
リシアは潮時だとばかりに「では、この話は後ほど」と話題を切り上げる。
「そろそろ、帰りましょう。あまり時間を掛ければ、サクラギ上級大将がラムケ少将に遊郭へと引き摺られていくかも知れませんので」
ザムエルとシュタイエルハウゼンならば確実であるが、ラムケも神官でもあるにも関わらず“貧困調査”などという名目で遊郭に通っている。ヴェルテンベル ク領に於ける遊女は大抵が下手な職業よりも高収入であるので明らかに無理のある方便なのだが。兎にも角にも、ラムケであれば皇都でも“貧困調査”をしかね ない。
「それは大変だよ! 帰ろう!」
ミユキが一転してリシアの腕を掴む。高位種の膂力で引っ張られれば抵抗のしようもない。アーダルベルトとヨエルは、ファーレンハイトに会釈するとミユキの後を追う。
リシアはミユキの尻尾を引っ張る事で戒めより逃れると、軍装の開襟部を直し、ネネカに視線を向ける。何とも言い難い、まるで荒しに遭遇したかの様な有り様のネネカが胡乱な視線を返す。
「貴女、フェルゼンでの市街戦で、トウカが陸軍の進出をどうやって正確に確認したか分かる?」
トウカと、敢えて名を呼んで親密である事を強調しつつも問う。
「下水道、いや……電話、かと。フェルゼンは皇都と同様に電信網が各家庭に用意されていた筈です」
リシアは佩用していた曲剣の柄に掛けていた軍帽を手に取り、被り直すと、ネネカに背を向ける。
「そう、正解よ。誇るがいいわ」
リシアは暖簾を押し退けて和菓子屋より進み出る。外ではミユキとアーダルベルト、ヨエルが待っていた。停車した魔導車輌は送迎の為に、アーダルベルトが用意したものである。
晴天の皇都天頂を満たす太陽を、リシアは眩し気に見上げる。
フェルゼン市街戦で、トウカは陸軍の進出地域を正確に確認する為、軍狼兵や郷土兵以上に、電信網を頼りにした事実は有名ではない。総ての地域に通話を続け、通話相手に北部特有の諺と冗談の反応を窺う事で、北部統合軍将兵か陸軍将兵か確認したのだ。前者であれば陸軍が進出しており、後者であれば未だに北部統合軍が保持しているという事になる。それ故に北部統合軍の戦域図上で支配地域は常に正確に推移していた。
「本当に困った事ね……」
英雄は何処にだっている。ただ、自らの資質を知らず、立場を得る事もなく一生を終える者が大多数であるに過ぎない。トウカの言葉は正しかった。
世界は英雄に満ちているのかも知れない。
リシアの心情に反し、皇都上空は快晴であった。
「閣下! 失礼ながら大御巫とは天霊神殿が象徴です! 幾多の神々を祀るが故に絶大な影響力が――」
「――その大御巫とやらは、戦車師団を幾つ持っているのだ?」
チャーチル「ローマ法王は全世界のカトリック教徒に絶大な影響力を持っている。ローマ法王は……」
スターリン「そのローマ法王とやらは、戦車師団を幾つ持っているのかね?」
某ジョークですね。
フェルゼン市街戦で、トウカは陸軍の進出地域を正確に確認する為、軍狼兵や郷土兵以上に、電信網を頼りにした事は未だ伏せられている。総ての地域に通話を続け、通話相手に北部特有の諺と冗談の反応を窺う事で、北部統合軍将兵か陸軍将兵か確認したのだ。前者であれば陸軍が進出しており、後者であれば未だに北部統合軍が保持しているという事になる。それ故に
電話による戦域把握は、アントニー・ビーヴァー著作の「ベルリン陥落1945」から。陸軍総司令部参謀総長ハンス・クレープス大将の副官ロリングホー フェン少佐が、通信設備の用意が成されていなかった総統官邸の地下壕からの状況把握に使用した一手です。相手がロシア語を話していれば敵で、ドイツ語を話 せば味方という論法ですね。
フェルゼン市街戦の場合は、商業活動や民間人の利便性向上を狙って都市内のみに張り巡らされたそれを利用した形です。まぁ、マリアベルは民間人の監視の為に敢えて便利な通信機器を要して使わせる事で、会話を監視していたりという猜疑心の産物でもあるのですが。
そして、ラムケ少将は貧困調査なんてしていません(笑