第二〇八話 銃火と謀略の中で 中篇
「俺自身も歴代天帝には批判的だ。セラフィム公がどこまで利用する心算かで対応は変わるな」
トウカは皇都に在って敵中に孤立していると自覚した。否、当初より自覚していたが、想像以上に政戦を使役する者達が蠢動している。表立った貴族だけでは なく、今回の左翼集団の暴発という一件は警務官僚や商家も絡んだものと捉えるのが自然である。多数の国家から複数の種類の武器を複雑な経路で買い集め、尚
且つ警務府に見逃させるという部分もあるが、本番に下手な介入や反発を招いては後の組織運営に響く。長期的な組織の存続を考えるならば、根回しをするのが 無難である。
「御前が全ての差し金でないことも、俺の内戦介入の時期を踏まえれば分かるが、今この時期に馬脚を見せるのは気に入らない。最早、取り繕う必要もない、と?」
犯罪者の大量検挙や戦争という商機を踏まえれば、協力を得る事は難しくない。無論、その根回しを可能とするだけの肩書と資金が必要となる。その実現は相応の政治基盤を有していると示している事にもなる。
「そう思われるのであれば、各憲兵隊に確認を取って頂ければ潔白を――」
「――馬鹿を言え、御膝元を固めない政治屋がいるものか」
ヨエルが起点となり、クレアやマリエングラムが繋がっている。それも、非公式な工作を首都で他勢力に気取られずに行使できるだけの影響力を大多数に悟られずに有しているのだ。正に政治である。
脅威。可能であれば排除したいが、トウカが見限られなければ、その影響力は利用できる。
だが、政争に於いて後手に回るからこそ、トウカは軍事力を頻繁に用いるのだ。ましてや、クレアが紐付きであると知れた以上、憲兵隊の要職は押さえられていると考える事が自然である。最悪、情報部にもある程度の侵食がある可能性も捨て置けない。
トウカの不信感を気取ったクレアが取り繕う。
「言わせていただけるならば、セラフィム公の閣下への善意は紛れもないものです」
「善意、善意か」
その意図が善意であるというのであれば対価を求めないという事になるが、ヨエルの善意とは何処かでの誰かの幻影を通して得たものである。得られる善意の多大なること極まりないとは言え、姿形も不明な幻影に付き合う無理をトウカは行う心算はない。
無論、ヨエルの後ろ盾は魅力的であり、支障のない範囲で幻影の振る舞いを成す事を、トウカは躊躇しない。問題は幻影が不明確な事で、それ故に確執が生ず る事である。幻影が政戦に対する姿勢に制限を及ぼし、いつ途切れるかも知れぬ支援など当てにはできない。武門であるが故に確証なき理由を根拠にする事を忌 避した。皇州同盟は既に存続と拡大に於いて博打を行わねならぬ程に脆弱な規模ではない。
「何故の善意か? まさか一目惚れとでも言う心算か?」
冗談を続けてトウカは皮肉気に一方の口角を吊り上げる。狂相と言ってもいい表情。
善意の理由が分からぬ中での支援は致命傷を負いかねない。ヨエルとの連携は、諸勢力による政治的蠢動著しい皇都の政治を任せざるを得ない事を意味する。 果たして任せるに値する相手か。疑問の余地が生じる相手には任せる事は難しい。政治的に後手に回っている現状で政治的不利益を蒙れば、打開の為に今一度、 国内で軍事力の伴う行動を起こさねばならない状況に陥りかねなかった。
無論、クレアが眼前で言葉を重ねて食い下がっている様を見るに、ヨエルとは相応の関係であるとは察せる。個人的関係か意見一致による同盟か、或いは脅迫されているかまでは判断できないが。
「要点を言え! 戦闘詳報宜しく結論から言え!」
時間的余裕はあるが、いらぬ情報を吹き込まれ続けては結論を誘導されかねない。憲兵ともなれば、そうした誘導は職分ですらある。枝葉末節に興味がない訳ではないが、そうした情報は必要に応じて得ればよい。
身を竦めたクレア。幻想系種族の筆頭格である妖精種に連なる女性が、ただの人間種に過ぎないトウカの叱責を恐れる理由すら、トウカは思案せねばならない。軍事力か職責を失う事か、北部から排除され事か……
そして、決定的な一言が放たれる。
「憧憬と懐古に基づいたものである事が赦されるならば、まことに一目惚れかと思います」
覚悟を決めた……否、皇国軍人らしく言うなれば腹を括ったとでも言うべき表情のクレア。
他者の恋心に対する言及からなる覚悟とは思えないが、この場ではトウカに対するヨエルの潔白の証明に対する言葉の一つに過ぎない。別段、価値ある言葉ではない。
トウカが眉を顰めただけに留まる様に、クレアが困惑を隠さない。
憧憬と懐古という想定外の言葉であるからこそ表情が歪んだのだが、クレアはそうは受け取らなかった。美貌の憲兵少将が尚も言い募る。
「小官も詳しい事は聞かされておりません。ですが、ただ一度。セラフィム公は仰られました」
一瞬の逡巡。
トウカは転がった軍帽を拾い上げながらも、その言葉を瞳で促した。
意を決したクレアが、トウカを正面より見据える。
「彼が遺した者の意図は総てに優先します。神々も認めました。それが皇国最古の願いです、と」
一世一代の覚悟と思わせる表情のクレアだが、トウカは天を仰ぐ。
トウカはこの世界に漂着した故に、誰かに遺されたという点を否定できる。異世界に於いてトウカの存在意義と意図は突然と顕現したに等しい。トウカの過去など異世界には一つとして存在しなかった。整合性の合わない一言と言える。
対照的に、神々の認可という点については不明である。神々が存在する世界であり、高位種の中でも御使いとされる天使種の頂点に立つヨエルともなれば、種族的には確証がないものの整合性が取れる。
皇国最古の願いという点も、ヨエルが初代天帝陛下の御代より存在する股肱の臣である。政戦への干渉は最低限だが、その存在感は多大なるものがあった。皇国建国戦争時には既に史上に名が記されている事から辻褄は合う。
三つの主張は客観的な確認ができないものであり、トウカとしては意味のないものである。
「貴官、話が大きくなれば誤魔化せるとでも思っているのか?」トウカは溜息を一つ。
言い募る内容には、クレアは幼少の砌より、ヨエルによって養育されていたとのものがあった。紐付きなどというものではなく、ヨエルの尖兵といっても過言 ではない。当人より教育を受けたとの証言は、寧ろ自らを不利に追い込むだけであり、それが油断を誘う為か、誠心を示す為のものかすら、トウカはには判断が
付かない。余りにも多大な情報量は、彼の判断力を鈍らせたが、少なくとも情報の飽和による思考擾乱を意図した会話術が存在する事だけは理解している。
トウカは立ち上がる。
「憲兵隊は綱紀粛正と防諜のみに専念せよ。諜報と工作は情報部の管轄とする。重複する職務には情報参謀のハルティカイネン大佐の承認を得よ。次はない」トウカは、背を向けて決定事項を告げる。
此度の謀略は、どちらかと言えば憲兵隊ではなく情報部の分野であるが、憲兵隊と情報部は重複する分野も多い為、重なる作戦行動も多い。特に謀略と防諜に 関しては、間諜捕縛の為、家屋に踏み込んで憲兵隊と情報部が互いに銃口を向け合うなどという例もある。共に秘密主義的な部分を必要とする組織であり、現地
での遭遇は珍しい事ではない。特に皇州同盟軍では陸軍の様に憲兵隊が軍人の犯罪行為を取り締まる野戦憲兵隊と、政治家や貴族の犯罪に対する国家憲兵隊に分 かれておらず、職分が曖昧な部分は陸軍よりも多い。
トウカはこの時、情報部と憲兵隊、各治安維持組織などの活動重複を避ける為、管轄分野の調整を担う組織の立ち上げを繰り上げる事を心に決めていた。名称は国家保安本部。悪名高い名を与える事はある種の皮肉である。
いずれ警務府を影響下に置けば、治安維持分野と国内防諜分野を効率的に指導する必要性に迫られる。無論、国外諜報活動は別となるが、それは近い分野の統合で一組織の影響力拡大を避ける事を避ける意味でも有効であった。
トウカは扉を開けて先に一室を出る。
踏み出した広間ではマリエングラムが敬礼を以て出迎える。扉の横で待機していたという位置だが、全く気配を気取らせず、敬礼と共に口を開く事で初めて知覚できた。
「閣下、暴徒は撃退されつつあります。終結後も危険が御座いますので小官が警護いたします。つきましては――」「――公爵邸は不案内で困る。侍女を一人付ける」「御手を煩わせて申し訳御座いません」
マリエングラムという多数にして個人、そして組織でもある彼女らも謎は多いが、マリアベルの意向を受けて行動する極小規模の諜報組織である事だけは明ら かとなっている。カナリスやクレアなども概要は理解している様子であるが、詳しい組織形態と任務は不明であった。マリアベル亡き後も、彼女らはマリアベル
の非公式な命令を遵守し続けているとの事であるが、その命令すら明らかとなってはいない。トウカが尋ねても機密事項につき申し上げられないと返される。
トウカは広間で指揮を執るシュタイヤーへと足を向ける。
「シュタイヤー少佐、混乱に乗じた公爵邸内への別経路での浸透は想定しているか?」
「閣下……想定しております。無論、内応も」最後は顔を近づけての小声。
敵は軍事行動に対する素人な様に見えて、指揮官はそれを弁えた指揮をしている。或いは退役軍人である可能性もあるが、そうであるからこそ一部の浸透という選択肢も思い付くだろう。地中に下水道などという防護し難い部分からの突入を意図する可能性もある。
クレアは襲撃が行われる様に誘導したが、作戦計画を知っている訳ではない。トウカの宿泊場所と行動計画、武器を用意したのみである。襲撃時の作戦行動にまで口を挟めば流石に関与が大々的に過ぎ、他の治安維持組織に足を掴まれる余地が生じると見たの
最も問題なのは内応……即ち、公爵邸の者が刺客となった場合である。恫喝や人質を取られてという可能性もあるが、元よりトウカに対する遺恨を有している者を抱き込んだ可能性も考慮せねばならない。
トウカはフェルゼンに空襲を行った〈特設航空軍団〉を全力で迎撃した。その結果、数多くの敵航空騎を撃墜したが、そこにはクロウ=クルワッハ公爵家の門 閥に名を連ねる者も存在する。最たる例としては、〈特設航空軍団〉司令官を務めるジギスムント・フォン・デュランダール中将である。彼もまた戦死してい
る。〈第四二五強行偵察飛行中隊〉中隊長であった敬礼気を持つヴィトゲンシュタイン中尉は、今となってはロンメル領邦軍に仕官しているが、未だに監視は継 続されていた。
元より陸軍航空隊はクロウ=クルワッハ公爵家が多大な影響力を有しており、関係者も多い。遺恨でトウカを害そうと目論む者がいないとも言い切れなかっ た。龍種にとりトウカとは、航空騎による活躍の可能性を提示しながらも、同時に航空騎に対する対空戦術確立に熱心な人物として功罪相打つ人物と見られてい る。
アーダルベルトは現在、皇国議会に参加しており公爵邸には不在である。軍事費の増大と外交関係の変化は予算編成に於ける困難を齎した為、国務の要職を担う貴族は多忙を極めていた。
――アーダルベルトは……いや、ヨエルはどうしているのか。
神龍として公式な権勢を有するアーダルベルトに対し、熾天使として非公式な権勢を有するヨエル。絶大な権勢である事に変わりはないが、ヨエルの権勢は不 可視のものである。認識し難く、最悪の場合は認識した時点で手遅れという事も有り得た。アーダルベルトもそうした一手を打ち得るであろうが、ヨエルが持ち 得る手札は恐らくは、トウカの予想すらも優越する。
「困った事だ」鼻頭を掻いて、トウカは苦笑する。
己が謀略を主体に抗おうとしているという奇妙に、彼は些かの諧謔味すら覚えた。
そうだ。そうなのだ。自身の得意分野で解決すれば良い、と、トウカは狂相を湛えて広間の中央へと進む。
「サクラギ上級大将、いかがなさいましたか?」シュタイヤーが心なし腰が引けた様で問う。トウカは「これは戦争だ」と満面の笑みで両腕を広げた。「か弱き婦女子の戯言ではないのだ、少佐」まだ分からないのか、とトウカは、シュタイヤーの肩を掴む。
戦争とはそもそも危険なものであって、これを論ずるのに婦女子の情をもってするほど恐るべき誤りはない。
さぁ、熾天使が夢見る乙女か否か、確認しようではないか。神々や皇国最古の願いなどという婦女子の戯言を押し通せるか、実に楽しみですらある。
「議会は現状の混乱により中断している筈だ。審議中断で暇をしているクルワッハ公爵に戒厳令の承認要請を出すのだ」
その一言に広間の喧騒が止む。玄関と庭先からの銃声と魔術の炸裂音だけが響く中、近くの他者を窺う様な仕草が目立つ。トウカの言葉には、それだけの威力があった。
戒厳令。
それは、兵力展開により一地域、全土を“警備”する場合、国民の権利に関わる諸法の効力の一部を停止、行政や司法を軍部の指揮下に移行する事を指す。致命的な治安悪化や大規模な暴動鎮圧の為に発令される軍事法規であるが、歴史上、軍部による武装蜂起に利用される例が多い為、非常に悪名高いものがある。
軍人であれば、誰しもが躊躇する進言と言っても過言ではない。
それをさも楽しそうに力説するトウカを、シュタイヤーは蒼白な表情で見つめている。
「これは皇都で起きた武装蜂起に他ならない。それも皇国の忠臣たる偉大な龍の巣に対する攻撃だ。帝国主義者だ。帝国主義者に違いない。或いは隙と見た共和主義者やも知れぬ。左翼を騙る等、主義者の風上にも置けない。なぁ、少佐」
トウカは、震えるシュタイヤーを捨て置き、通信機を扱う士官を一瞥する。
震えている。奮えている。その場に在る一切合財悉くが。それは、戒厳令という一種の禁じ手に対する恐れか。それを容易くも決断したトウカに対する畏れ か。無論、トウカは己に対するものであるなどとは露程も思ってはいない。アーダルベルトの選別した者達が己に畏れを抱く余地などないという確信からであっ た。
気が付けば、大剣を手にしたラムケがにたにたと卑しい笑みを隠しもせずに横に並んでいる。碌でもない護衛である。トウカは風評被害を受けているとすら考えていた。畏れられているのは、ラムケが原因であるに違いない。無法者を率いるなど国家社会主義者の所業である。
あまりの愉快さに、狂相に一層と笑みを刻む。
「戒厳令を! 陸軍総司令部と海軍軍令部も呼び出せ!」
誰も彼もが動乱の時代で最善を求めて進む。
一体、誰が大きな間違いを犯しているのかと、後世の者は歴史上の容疑者を探す事に熱心になるが、実際のところ大きな悲劇が個人によって生じる余地は少な い。皆が少しずつ間違い続け、そして大きな悲劇に繋がるのだ。事に歴史に於いては、大きな悲劇の起きる理由に、大きな間違いがある例など稀なのだ。
「さぁ、諸君。国家の一大事だぞ」
厳密には、トウカこそが一大事と足らしめるのだが、進んで理不尽と不利益を背負う決断を示した彼に多くの者は畏怖と敬意を隠さない。
こうして悲劇と英雄は生まれ往くのだ。
「あの若造ぅぅぅぅぅぅ……」
頭を抱えたアーダルベルトが思わず奇怪に身体を曲げる様に、ネネカはトウカの意図を図りかねている為、無言を通すしかなかった。隣で支援を求めるファーレンハイトの視線が煩わしい。
トウカを取り巻く状況は複雑化の一途を辿っており、その全容を知る者が居るかすら怪しい。孤立主義的な北部に、強権的な指導者ともなれば、その実情の推測には魑魅魍魎が巣食う。独裁的な国家の指導者の推測が、時に想像を越えた方向へと転がる様に。
リシアの、どやっ、という表情が憎らしい。
フェルゼンに於ける市街戦にまで縺れ込んだ内戦といい、化学兵器を奇策で用いたエルライン要塞攻防戦といい、トウカは……皇州同盟軍は、取り敢えず問題 を大きくすれば責任や批判が分散すると考えている節がある。問題の解決ではなく、共犯者の拡充に重きを置くのは、組織人としては甚だ不適格な遣り様だが、
少なくとも責任を回避、乃至、分散させるには有効な一手でもある。複数の権力者が関われば、複数の方面からの異論は威勢を失う。非常時に同胞を声高に批判 できるのは、真に無能な者だけなのだ。
アーダルベルトは右手で応接机を叩き割る。
「あの若造、話を大きくしおって。話が大きくなれば誤魔化せるとでも思っているのか!」
奇しくも、トウカがクレアに乙女の戯言と切り捨てた際の言葉と同様である。
トウカとヨエル。
発想は近しいものがあるが、未だそれに気付いている者はいない。ネネカですら二人の因縁など想像の埒外にあった。
だが、目下の対応は決まっている。
「戒厳令を発令するべきかと。今この時、公爵邸が襲撃を受けました。及び腰な対応では、二匹目の泥鰌を狙う輩共が現れかねません。何より、これが単独の襲撃である保証もないかと」
因みに皇国にも泥鰌は生息している。主に南部地域に生息しており、トウカの知るそれよりも一〇倍近い規模であった。
ネネカの言葉に、アーダルベルトとファーレンハイトが渋々と頷く。部屋の隅で紅茶を啜るエッフェンベルクは他人事である。海軍自慢の陸上戦力である陸戦 艦隊は内戦での被害を補填するべく策源地の東部地域に再展開している。神州国に対する抑止力という意味もあったが、それ故に海軍は皇都で迅速に運用できる
兵力を持たない。積極的な軍事行動の選択肢を彼らは持たない。故に他人事である。流石に海軍府は海軍所属の者を掻き集めて臨時編成した陸戦艦隊で防備を固めるであろうが。
「こうなっては止むなしか……」
「茶番など止めるべきでしたな」
アーダルベルトとファーレンハイトの遣り取りに、ネネカは違和感を覚える。無論、それは襲撃の一報を受けた時点で抱いていたものであった。
陸軍国家憲兵隊や陸軍情報部などが厳重に目を光らせる皇都での大規模な擾乱など、偶発的に発生する筈もない。そこには相応の規模の勢力の手引きがあって然るべきである。続く会話から二人が主導したとは思えないが、看過したという事は、その目標は限られた。
トウカである。
つまりは自作自演。否、戒厳令の要請を踏まえると、二人の予定をトウカが逸脱しつつあるという事であろうと、ネネカは当たりを付ける。しかしながら、リシアがネネカと共に居る時期で行う理由は推測できない。
リシアが強く進言する気配もない事から、彼女にとっても想定していなかったのは明白である。何より、公爵邸襲撃の一報を受けた際の動揺を見るに、明らか に蚊帳の外であった。だからこそ、ネネカはファーレンハイトや陸軍総司令部に、性能評価試験に加えて陸軍の必要とする追加装備の研究に従事していた装甲大
隊の即時投入による“暴徒”の鎮圧を提案した。幸いな事に朋友たる皇州同盟軍最高司令官であるトウカの要請ももあった。名目は十分で、陸軍総司令部や参謀 本部も恩を売る機会とばかりに即応した。
ネネカは戦車という兵器の威圧感を以て暴徒の戦意を削ぐ事を目論んだ。トウカの積極的な交戦を避け、包囲に努めよとの提案も、そうした意図を以て行われたとばかり考えていた。
だが、本当にそうだろうか? 或いは、皇都付近に存在する唯一の装甲戦力を、包囲や交通網の遮断という名目で“拘束”したのではないのか?
「いや、軍狼兵部隊も装虎兵部隊もいる……近衛だって……」
ネネカは皇都周辺に展開する部隊を脳裡に浮かべる。
総兵力では三個師団近い。軍狼兵大隊や装虎兵大隊、三個歩兵聯隊も存在する。そこに国家憲兵隊や警務府警務隊も加えれば五万名を超える動員が叶う。それは他勢力の追随を許さない規模である。装甲大隊一つを拘束する理由は乏しい。
「陸軍は軍事法規に則り戒厳令を敷く。海軍も良いな?」
ファーレンハイトの言葉に、エッフェンベルクが頷く。海軍は戦力規模を考えると蚊帳の外だが、陸海近衛の三軍の二つが賛同する意義は大きい。
「クロウ=クルワッハ公爵家も支持する。他の三公にも私が伝えよう。いや、議会でも私が説明する。貴官らは戒厳体制の確立を急げ」
アーダルベルトの言葉に、陸海軍府の長二人が頷く。
神龍の積極的な協力は政治的意義も大きい。ともすれば軍事蜂起とも受け取られかねない戒厳令に対する配慮としては最善に近いものである。流石に大御巫に皇妃として承認させるという無理を、ファーレンハイトやエッフェンベルクも望まない。一度、内戦で担いだが故に、二人はアリアベルに対して引け目がある。
複雑な状況と関係に三人の権力者の視線が交錯するが、ネネカは口を挟む。男の感傷や懐古など“戦況”には然したる影響を及ぼさない。
「皆様、急ぐべきかと」
トウカはあろうことか、他の公爵邸や政府中枢への襲撃の可能性を滲ませ、権力者達に通信を行っている。建前上は、自身が襲撃を受けたが、それだけでは終 わらないかも知れないので警戒されたし、という善意に満ちたものだが、明らかに襲撃が皇都全体に波及するべく騒音を撒き散らしている。戦車を皇都内に突入 させるのも、鋼鉄の野獣によって危機感を扇動する為とも思えた。
三人が行動を開始する。
直接、武力を振るう訳ではないものの、其々の戦場には多大な困難を伴う。ネネカもまた、皇都の原状回復に対して責務を負うべき立場にいる為、怠惰であることは許されない。
「閣下、私は装甲大隊の下へ赴きます。進撃時に政治的判断を求められる可能性を捨て切れません」
「……それもあるか。よし、許可する。そこの紫芋も連れて行け」
ファーレンハイトは見向きもせずに、リシアの同行を命じる。
昨晩の親睦会に於ける無礼な発言に対して含むところがある訳ではなく、皇州同盟軍寄りのリシアを陸軍の意思決定の場所より遠ざけたいとの意向であるのは 明白である。ネネカにも別段と異論はない。寧ろ、賛成ですらある。目を離すよりも現場で軍務に忙殺させた方が蠢動を抑止できる。序でに皇州同盟を鎮圧行動 の当事者と周囲に示す事もできた。
「了解です。紫芋大佐、装甲大隊の作戦行動を支援いたします」
皮肉気に口角を釣り上げたリシアの敬礼。対するファーレンハイトは顔を引き攣らせた。
リシアが士官学校時代にやらかした密造酒事件……通常“紫芋事件”を思い出したのだろう。当時のネネカは「面白い者が居るんだなぁ」と呆れと感心を混交 させて唸った記憶があるが、関係者であったファーレンハイトとしては他人事ではない。今のネネカはその苦労を理解できた。
リシアが紫芋事件を想起させる表現を敢えてしたのは、間違いなく一度気付かなかった連中が二度目を気付けると思って?という意味を存外に含ませての事で あろう。陸軍府長官に対する皮肉としては気の利いたものであった。演説や戦闘詳報を見るに、どうも皇州同盟軍将兵は総じて一言多い人物が多い。国内での孤 立が長年続いたので、斜に構える性格が形成されたのかも知れない。
ネネカは不断の努力で無表情を維持する。
「貴官、笑ってもいいぞ? 咎めはせん」ファーレンハイトの誘惑。
嘘を吐け。昇進に響かせるに決まっている、とネネカは「滅相もない。義憤を感じております、閣下」と恐縮して見せる。胡散臭いファーレンハイトの表情は変わらない。
「そうね、焼酎を飲みながら義憤を語り……騙りましょう」リシアは追撃の構え。
どうせ叛乱の尻馬に乗ろうとする連中など碌でもないのだから、飲酒ついでに言い負かしてやろうという意図であろうが、明らかに自身が北部で蹶起に参加した事を忘却している。面の皮の厚さに関しては公爵に引けを取らない有り様であった。
ファーレンハイトは陸軍府に戻る為、飛び出た廊下を駆け足。国軍指揮官が急いている様は周囲を不安にさせるのだが、皇国議会議事堂は人気がない。ネネカ は体格から遅れ気味であると、隣接する陸軍府から皇国議会議事堂に駆け込む際と同様に小脇に抱えられている。傍目に見ると誘拐である。事案発生であった。
最早、ネネカに恥じらいなどなく、軍帽を落とさぬ様に押さえるだけだ。
諸々の手続きを以て話し合いに持ち込むより、直接会議場に駆け込んで「これより戒厳令を発令する!」と宣言した方が早いのは理解できるが、陸軍府の者達が小銃を配布していた事もあって陸軍が武装蜂起を起こしたと、案の定、誤解された。レオンハルトが蛮声を上げて飛び掛かる様に、ネネカは少し漏らした。リシアはちゃっかり会議場には踏み込まずに廊下で待機している。若くして大佐の階級を得ているだけに、直感と逃げ足も不足はない。呪いあれ。
アーダルベルトの一言で沈静化し、ファーレンハイトは議員の安全確保の為、皇国議会議事堂の“警護”を担うと宣言した事で事態は落ち着いた。公爵邸襲撃 とトウカの政府機関などに対する攻撃の可能性への言及に、彼らは陸軍の適正な独断専行を追認した。誰しも自らの生命を護る為に無理をした者を批難し難い。
少なくとも自らの主張の為、自らを助けようとした者を罵倒する慮外者は皇国議員にはいないのだ。銃口を前に、そうした発言を自粛したという部分が大きい が。
尤も、ネネカは議員を一カ所に集めて警護する理由が分散して無責任に騒ぎ立てる状況を防止する為であると見ていた。事実、ファーレンハイトは、そう考え ている。少なくとも、大多数が実績ではなく自己表現や宣伝で権力者になった連中を信頼する程度の者がなれる程、陸軍府長官は安易な職ではない。
皇国議会議事堂を出ると、ファーレンハイトは護衛の兵士を伴って陸軍府へと駆け足。対するネネカとリシアは迎えに来た車輛へと足を向ける。
迎えに来た車輛は三輌。四〇㎜機関砲を主砲とした幾つもの戦闘車輪を持つ装輪式車輛。戦車の様に履帯でない為に不整地突破能力は登攀性には劣るが、都市圏や道路上での移動速度や瞬発性には勝る。何より履帯よりも安価で済み、軽量であった。
「……装輪式歩兵戦闘車輛? こんなものまで」
最近、皇州同盟軍に於いて運用開始したばかりの新型車輛にリシアが眉を顰める。皇州同盟軍への配備すら殆ど成されていない状況で陸軍に供給されているという事実を重く見たのだろう。
「サクラギ上級大将は、本当に商才がおありの様子。そして、戦上手です。詳しくは御当人から」
クレアを戦闘から二番目の車輛に押し込み、ネネカは三番目の車輛に搭乗する。兵員室に後部艙口から飛び乗る。
慣れない装甲兵用の軍装でぎこちない敬礼を以て三人の士官が敬礼してきた。ネネカは答礼する。
装備化されて間もないだけに未だ新品である事を窺わせる塗料の臭いが鼻に突く。塗装の剥がれもなく、傷や凹みもなければ、座席の緩衝材も反発力を失ってはいない。ネネカは尻尾に負担がかからないと満足した。
リシアには答えを口にしなかったが、ネネカは装輪式車輛に多大な興味と期待を寄せている。
安価である為に大量配備が容易であり、北部以外の地域は平野部や幹線道路も相応に存在した。不整地での打撃力は軍狼兵部隊と装甲兵部隊を集中させ、平野 部などは装輪式車輛部隊を打撃力として戦略を展開する事は不可能ではない。トウカもそれを見越して、元より陸軍に売り込む目的で装輪車輛を製造している
と、ネネカは見ていた。費用対効果を意識しているのか、歩兵戦闘車輌と兵員輸送車、自走一五㎝迫撃砲車輛などは共通の車体と部品である。部品共有も可能で修理や更新も容易で、前線での修理や部品発注も簡易化できるに違いなかった。
ネネカとしては装輪式車輛に戦車砲の搭載を研究させるべきだと提言していたが、参謀本部の装甲参謀がトウカにそうした意見を求めた際、「いや、装輪式だと大口径砲を搭載しても反動を吸収しきれんぞ?」と疑問視された為に停滞している。ネネカは魔術的に衝撃吸収は可能であると見ていたが、確かに走行時の砲撃や戦闘車輪ゆえの不安定、それらを含めた上での重心移動などを演算して砲身の制動を保つ射撃管制魔術式の開発にはかなりの予算と時間を必要とすると技術者が推測した。現時点での採用は難しい。皇州同盟軍は戦車による行進間射撃を射撃分野に秀でた耳長族の射手の集中育成という形で実現しているが、それでも命中率は半数を割り込む。ましてや、蛇行運転ともなれば更に下がる。
欠点はあるが、軍隊とは基本的に、それ自体が大規模な諸兵科連合編成である。個々の兵器の欠点は他の兵器で補えばいい。その規模から一つの兵器に複数の任務に対応する多様性を求めた皇州同盟軍とは違い、国軍たる陸軍にはそれができる。
この皇都擾乱での活躍次第では、或いは保有枠拡大が認められる事も有り得る。市街地に於いても装甲兵器が有用である事は既にフェルゼンで証明されているのだ。
ネネカは自らの開襟部を掴んで気を引き締める。
「進発開始。公爵邸付近の大通りを封鎖する。装甲大隊に合流せよ」
小狐の命令に、小さな揺れと共に装輪式歩兵戦闘車輛が進出を開始した。