第二〇六話 謀略は厠所から
「そうか、高射砲の話は付けたか……そちらの怖い父龍殿も領邦軍に欲しがっているそうだぞ?」
リシアへと話しかけるトウカ。
トウカは、アーダルベルトを含めた中央貴族に対空火器の売却を許可していない。遺恨の有無ではなく、帝国と直接干戈を交える陸海軍への納入を優先した為である。交戦しない貴族領の安心感を得るという目的の為に兵器を置物にするという余裕は、現在の皇国には存在しない。
「迎撃は戦闘騎がより効率的なのだろう? 我が領邦軍でも皇州同盟軍航空隊を基準に、戦闘航空団を八つ編制した」
アーダルベルトがウィシュケの注がれた水晶碗を掲げる。酷く瀟洒な仕草は様になっており、良い歳の重ね方をした紳士と見える。娘の教育には失敗したが、政治手腕に関しては卓越したものがあるので似非紳士であるが。
北部臣民の大規模避難を破綻させずに留めのはアーダルベルトやフェンリス、レオンハルトの手腕によるところが大きい。トウカの中央貴族に金銭的負担を強 いるという目的を察して尚、受け入れた彼らの高潔は、当然ながら長期的視野に基づいた思惑がある。最たる理由は北部臣民の懐柔であろうが、そこに間諜が混
ざり情報収集や思想誘導をしている事は間違いない。流石の憲兵も大規模な避難民の総てを監視する真似はできない。まさか、密告制度を採用する訳にもいか ず、実情は完全な放置である。規格化された家屋による仮設住宅の製造は未だ量産体制が整っておらず、仮設住宅の造成は皇国各地より大工を動員しての総力戦 に移行しつつあった。
皇都もまた混乱の只中に在るのだ。
臨時国債の発行による中央貴族からの資金援助で難民となった北部臣民は受け入れられているが、それはトウカの想像を超える程に莫大な資金であった。簡潔 に言えば一二倍の資金が極短期間に拠出された。肥沃な土地であるが故に、中央貴族は貯蓄も多い。兎にも角にも、莫大な資金が難民支援という名目を得て世間 に認知された。
結果として起きるのは特需である。難民を助けるという“経済行動”に関わる労働者は膨大な数となる。その拠点は皇都であり、特需による人口流入は癒着や 談合による不利益を生じさせつつあった。それを取り締まる為に警務官と憲兵隊が動員され、更に皇都の人口が増えるという悪循環。
幸いな事に、皇国では極短期間で一件屋が建築できる為、難民に凍死者は出ていない。膂力に優れた種族が多く、尚且つ自宅を自身や親族、友人で建築すると いう風習が良い方向に働いた。無論、難民の建築経験すらも組み込んでいたが、彼らは資材と食糧さえあれば、大部分を解決できる。多民族国家の性とも言える
周辺諸国との軋轢から、都市は城塞都市の様に密集した構造となっている。有事の際の抵抗拠点としての運用を想定しているのだ。故に広域に人口が分散してい る事はなく未使用の平地が多い。
ダンケルクの奇跡よりも困難な大移動とも思えたが、少なくとも北部臣民は同胞意識を持っており、相互扶助の精神は大移動を大いに助けた。
正直なところ、トウカは《ソヴィエト連邦》に東方へ追い立てられた《露西亜帝国》の残存部隊の如く、相応の凍死者を出すと考えていた。幾ら魔力を持つ者 が当然の如く存在し、膂力に優れた種族が無数と居ても、弱者が存在しない訳ではない。老人や子供の死傷率は決して低くはないと、トウカは見ていたのだ。
しかし、トウカの予想は大いに裏切られた。
巨大な橇を転化した獣系種族が牽引することも有れば、転化した龍種が航空輸送で迅速に届けることもある。それらが民間で大規模に行われるのだから、問題の大部分は迅速に解決しつつあった。
アーダルベルトはその辺りの全てを読み切っていた節がある。間髪入れずに北部臣民の大規模避難を受け入れた訳ではなく、結論は一時間後に伝えられた。 よって、その辺りを一時間で読み切ったと取れる。トウカは、死者が生じるであろう問題の責任を共有する事で非難を躱そうとしていたが、アーダルベルトは死 者は出ないと見たのだ。
トウカはアーダルベルトより軍事を理解しているが、アーダルベルトはトウカより政治を理解している。厳密には皇国に於ける政治であるが、それは長年、臣 民と情勢を体感し続けた事で叶う感性に近いものがある。トウカにはどうしても獲得できない要素である。知性の牙城としての皇州同盟軍参謀本部もまた軍事偏
重な人材であるが故に、民衆という“輸送品”が自発的に“輸送品”を輸送するとは考えなかった。
「困りますね、軍編制の真似をするのは。特許料の振り込みは終えていますか?」
紳士的に資金を無心するトウカ。中央貴族の懐が思いの外に豊かであると知り、資金を巧取豪奪する方向に切り替える。和菓子を齧るミユキは、トウカに和菓 子も要求すべきだと言わんばかりに尻尾を振っていた。餌付けしようと目論んだ狐は、更なる餌を要求している状況である。よって慈悲はない。
トウカがリシアを一瞥すると、彼女の白魚の様な指先に挟まれた書類が動く。高価な紅水晶の机に、妙に〇の並んだ金額が記入された書類が置かれる。
商人の儀礼とばかりに、トウカは手揉みして甲高い声を出す。
「対空砲の価格、この程度となっております」
トウカの到来以前より生産されていた七五口径八五㎜ Pak九四対空砲は、月産約三五〇基を誇る。真っ先に生産工程拡充を命じた兵器であるが故であった。その上、準同型の七五口径八五㎜ Pak99対戦車砲で配備されているものを七五口径八五㎜
Pak九四対空砲へと改修する事で数を更に確保。売買可能な備蓄は一か月後には八七〇基となる。
「三個歩兵師団を編制できる金額だな」アーダルベルトが眉を顰める。
しかも高射装置は別売である。精密機器の複合物である高射装置は簡単に生産数を向上できるものではない。無論、そこは耳長族 の砲手を練兵する事で一時的な対処としている。現状では弾幕展開を重視している為、個人の技量の影響は低い。寧ろ、対空射撃の知識を有した観測員の育成が
遅れていた。その点もまたトウカの対空砲売却を決意させたのだが、それは陸海軍や中央貴族の領邦軍もまた同様である。否、対空目標への警戒は最前線である 北部より低い事から更に払底している。
「良かろう。私が一括で購入しよう。下手な人物に売却されると法外な金額で転売されかねん」
貴族間の政治交渉の材料として仕入れられる危険性を踏まえた上での決断ならば大したものであるが、アーダルベルトであれば自らがそれを成そうとするだろ う。あの帝都上空で邀撃騎を咆哮のみを以て退けたアーダルベルトの領地に対空砲が必要とは思えない。高位龍種の巣窟なのだ。
「御買上有り難うございますです、はい」
資金調達に御満悦のリシアを尻目に、トウカは胡散臭い言葉と声音で頭を下げる。胡散臭い商人を演じているのは、親近感を得ようと試みた結果であるが、どうも受けが宜しくないと彼は咳払を一つ。
「実は公爵閣下が熱い視線を送られている噴進弾を利用した対空兵器もあるのですが――」
「言い値で買おう……」
トウカは「出費が嵩みますな」と、リシアに契約書を出させる。
単に多連装擲弾発射機を 対空火器に手直ししただけの噴進弾に過ぎないが旧海軍のものを参考にした為、完成度は高い。連射性で劣るが、構造が単純で、発射台の強度を必要としない。
何よりも大火力で、近距離の対空防禦に絶大な威力を発揮すると見込まれている。旧海軍の噴進砲で問題になった発砲炎による射手や装填手の火傷は、魔導障壁 によって解決し、装填速度は優れた膂力と身体強化が解決した。無論、それは大型擲弾を利用した空対空無誘導噴進弾の開発過程から派生させたに過ぎないが、 原型が既に大量生産されつつある兵器である為、量産開始までの時間を削減できた。
「価値のある内に全てを捌く心算か? 卿は商才があるな。商人であれば皆にとって喜ばしい事であっただろうに」
アーダルベルトの「心底と思う」との声音に、トウカは肩を竦める。実は、マリアベルとの盟約以前は商人という選択肢も考慮していた。無論、武器商人となって政戦に関与するという選択肢は排除していなかったので、結果としては変わらない。
「尚も喜ばしい事にヒトを殴る方が得意なので。何より、役に立つのは人を殴れる人間だけだ。そう思っております。特にこれよりの時勢は」
世界は残酷で、それ故に覚悟を示さねばならない。少なくとも彼そう考えていた。残酷な時代。ヒトを動かすには武勲が必要なのだ。彼の独裁者は軍役に就いていたというだけで、少なくない軍人の賛同を得た。
アーダルベルトの憐れむかのような視線は酷く不愉快だが、世間一般で未成年が小銃を取る事を健全だと嘯く程に軍国化が進んでいないと考えれば怒りも湧かない。
「でも、主様。戦わずに済むならその方がいいですよ。それに、勝てない相手に挑みかかっちゃ駄目ですよ?」
ミユキの心配げな言葉。尻尾が項垂れる。
フェルゼン市街戦に於ける転化したアーダルベルトとの軍事衝突を指しての言葉であると察したトウカは「あれは公式見解では引き分けなのだが」と口にするが、ミユキの尻尾が応接椅子を叩くと「善処しよう」と返すしかない。
だが、これよりはトウカの主戦場は前線ではなくなる。現在、皇都にいるのはフェルゼンに帰還した場合、皇州同盟の後援者一同に称賛と罵声を浴びせられる と理解したがゆえであった。空前絶後の戦果に、最高指揮官が敵地上空を舞うという無謀。功罪相打つという意見は流石に戦果の規模より生じないであろうが、
最高指揮官としての自覚を持っていただきたいという小言が炸裂(主にセルアノ)するであることは疑いない。よって、皇都での政治的成果を以て相殺する心算 であった。それが対空兵器売却による資金捻出である。対空兵器の価値は内戦を経て帝都空襲で決定的な上昇を見ると見たトウカは事前に対空兵器の増産に力を 入れていたのだ。
「戦後、北部を立て直すには資金が必要です。どうせ政府は吝嗇るに決まっている。ならば商取引として引き出すまで」
「だが、これで卿は皇都の政治闘争に介入したことになる。気を付けるがいい。皇都の利権は複雑だぞ」
アーダルベルトの忠告に、トウカは「相手との遺恨が生まれぬ様に徹底的に壊滅させましょう」と応じる。組織や企業と遺恨が発生するならば潰してしまえばいい。個人に成せる事など限られているのだ。宗教が絡まぬならば、相手の破壊工作も低調である。
「自由に動く心算ならヨエルを伴うが良い。あれはどうも卿に依存している。天使を誑し込むとは……貴様、よもや呪われてはおるまいな?」
余りにも酷い言い草に、ミユキとリシアが笑声を零す。対するトウカは笑わない。ヨエルの瞳に潜む狂信を理解しているからである。挙句に、それは自らの知り得ない第三者を通した想いである。どう転ぶか分からない代物を身近に置く危険を冒す真似を彼がするはずもない。
天使の寵愛を呪いと称するアーダルベルトの物言いは酷く滑稽だが、戦艦に強行突入する蛮勇を有する彼女達は心に狂おしいまでの情熱と修羅を宿している。侮る真似はできない。
トウカは嘲笑を以て時代に応じるが、いかなる時代であろうと、人々はその時代に合わせて生きていると内戦で思い知った。彼らの生き様を異邦人の基準で図る事は無意味である。後世の立場から、嘗ての時代を貶す者は多いが、その時代にの柵と困難が形作った体制が現在へと続いている点を忘れてはならない。時代とは正邪や効率の問題ではない。過去の悲劇なくして、現在の教訓はないのだ。
だが、ヨエルは違う。トウカと同じで異邦人の視野を持っている。異世界よりの視点を持つトウカに対し、遥か過去の第三者を起点にした視野を持つヨエル。 二人はこの時代に生きている様に見えて生きてはいなかった。自らの基準と価値観を絶対としている。そして、それを押し付ける事に遠慮も容赦もない。
リシアに応接椅子に座る様に促す。右のミユキに左のリシア。挟まれたトウカだが、今となっては有事の即応など気にする必要もない。それはヨエルの宣言に依るところである。
私はサクラギ上級大将を庇護する。ありとあらゆる事象よりの守護を彼に与える。
その宣言は前日に行われて、皇都を更なる混乱と狂騒に陥れた。
玉座に侍る者という異名を持つヨエルが人間種の若者に多大な庇護を与えたという事実は、熾天使は皇権以外に興味を示さないという何千年と続く常識を覆し た。本来であれば天使系種族もトウカに賛同する場面であるが、それがまばらである為、ヨエルはそうした根回しすらしていないと窺える。有り難い事である が、政戦に根差した行動ではなく、酷く感情的な行動に、トウカは戸惑っている。
重低音で笑声を零すアーアルベルトだが、トウカにとっては喫緊の懸案事項が増えた形である。政戦に寄与しない感情的な賛同の意味するところをを理解できず、トウカはヨエルに対して行動を起こせないでいた。
今もアーダルベルトの屋敷には文屋が張り込んでいる。昨日に買い込んだ和菓子を齧るミユキはご機嫌だが、無くなれば再び外出を望むだろう。トウカは文屋とは、ヒトの不幸に群がって面白可笑しく書き立てる事で日銭を稼ぐ連中だと考えている。故に友人にしたいとは思わないし、慈悲も許容も赦しも必要ない。しかし、騒ぎ立てれば耳障りな事この上なく、排除は確実に一撃で終わらせねばならない。
「私はどの様に言われてもかまいません。ただ、外で騒ぎ立てる連中が北部まで訪れるというのであれば、憲兵隊が持て成すと思いますが」
一両日中には、クレアが可憐な笑みを湛えて、自白を供述した書類を携えて執務室に訪れるに違いなかった。しかし、ここは皇都でありそうはいかない。皇都憲兵隊は動かせないのかという迂遠な要請に、アーダルベルトが顔を顰める。
陸軍所属でありながらも、独立捜査権を持つ陸軍憲兵隊は事実上の独立した組織である。年間予算に占める割合を固定する事で予算による掣肘を受けることま で避けている陸軍憲兵隊への介入は極めて困難である。クレア隷下の皇州同盟軍憲兵隊とは連携を深めつつあるとの事であるが、内戦などを踏まえると失点の多 い組織でもあった。
――さて、どうしたものか。
クレアも皇都に訪れているとの事であるが、その動向は不明瞭である。襲撃を警戒しての事であることは疑いなく、そうした警戒行動に彼も不満はないが、連 絡が困難となっているのも事実であった。律儀な人物であるクレアであれば、トウカの下へ挨拶に来そうであるが、そうした事が不可能な状況にあると見てい い。協力は望めない。
「そう言えば、卿。軍旗はどうする? 将官ともなれば専用の将旗の運用が認められる。あの品のない若造もあると聞いている。貴官もなくては恰好が付くまい?」
アーダルベルトは幾分か無邪気な声音となって尋ねる様に、トウカは軽く驚く。
父龍曰く、専用の軍旗の運用を許されるというのは皇国男児の夢の一つであるらしいが、これより後方が主戦場となるトウカには今更である。戦場に一度とし て翻らない軍旗に意味などないとすら彼は考えていた。旗は飛び来る弾丸に破るる事こそ誉なれ、という『敵は幾万』に歌われているそれは日本男児の精神を示
している。無論、軍旗の記紋しは昇る朝日子でもなければ、そもそも聯隊旗ですらないのだが、どちらにせよ前線での戦闘に参加しないトウカは将旗に興味を持てなかった。
――あの品のない若造……ザムエルの事か。
いつぞやにミユキと二人で敷物代わりにしていた記憶のあるトウカは、どうしたものかと思案する。確かに、将たる象徴とは、幼い頃に夢見て、そしていつの間にか何処かに落としていた夢でもあった。
旭日旗はヴェルテンベルク領邦軍艦隊から皇州同盟軍艦隊の軍旗になっているので使用できない。トウカとしても、海軍旗とも言える旭日旗が陸上にしか翻ら ないのは我慢がならない。無論、陸軍もまた日章旗を掲げてはいるのだが、藩軍の影響を受けて中隊以上の部隊は独自に制定した部隊旗を使用しているので影が
薄い。軍艦と違い、所属の違いを示す要素が曖昧になりがちな陸軍部隊の士気高揚と対抗意識の醸成に一役買っている。
「俺は軍神らしいからな。毘沙門天に肖って“毘”の文字を掲げたいところだが……宗派が違う……」トウカの独り言。
毘沙門天は仏教における天部の仏神である。神道であるトウカであれば、日本神話に於いて剣神と名高い建御雷之男神を祀る鹿島神宮や、或いは経津主神を祀る香取神宮の右三つ巴の紋や御名を掲げるべきかも知れない。諏訪神社に祭られるを建御名方神も
武勇に秀でているが、戦国時代に武田家の崇敬篤い諏訪神社を桜城家は織田家による侵攻の混乱に紛れて焼き討ちしているので望ましくない。遺恨があるのだ。 元より関東方面には桜城家と遺恨のある武家や神社仏閣は少なくないが、近畿でも業突く張り日吉大社などを焼き討ちした事で未だに関係は宜しくない。考えれ
ば考える程に敵が多い一族である。無論、現在のトウカも先祖に胸を張れる程には負けてはいない。
遺恨こそ軍人の誉れ、汚名こそ武人の矜持。家訓を彼は先祖以上に実践している。
興味深げな様子でトウカの言葉を待つ周囲。彼は肩を竦めて見せた。
「まぁ、適当に決めるさ。どうせ、国民に対する布告には間に合わない」
アーアルベルトの発言は、国民に対する布告時の見映えを気にしての事であるが、既に近日に迫っている以上、製作は間に合わない。
「いや、七生報国を謳い上げるのだ。楠正成の菊水に肖るのも悪くないな」
欧州の如く複雑な紋章が乱立する皇国だが、大日連出身のトウカは複雑な紋章を望まない。無論、菊水の紋章を掲げるのであれば、『非理法権天』も掲げねばならない。
――さて、俺にとっての“天”とは何を意味するのか。
大東亜戦争時には“天”を昭和帝として、戦意高揚に利用したが、本来は神々を指す言葉とされる。しかしながら、トウカは神々が実在する世界で彼らを “天”とするには多大な抵抗があった。大海巫たるアリアベルを担ぎ上げても、神祇府の同類と見做される行為は避けねばならない。将旗一つとっても政治であ る。
やれやれ、と酒精に火照る頭を掻く。
「少し席を外す」と、トウカは廊下に出る。リシアが続こうとしたが「御前は厠所にまで付いて回る心算か」と言えば「閣下が望まれるなら」と答えたので、小突いて黙らせた上である。
廊下を進むトウカ。厠所を目指しているのは間違いないが、本当に望んでいるのは、マリエングラム中佐との邂逅である。酒精に火照る身体と、和菓子の甘味を持て余す口内を無視して、トウカは窓際を避けて廊下を進む。
前方より一人の侍女が近付いてくる。トウカを見て取った侍女は、客人として扱われるトウカを避けて窓際に立ち頭を下げる。
トウカは一礼する侍女の前を……過ぎ去らない。
「……中佐か?」
朧げに窺い知れる以前に聞いた足音に、トウカは歩を止めた。頭を上げさせると、見覚えのない顔が現れる。容姿は違うが、以前に僅かに見た独特の歩法が隠 しきれていない。彼女は恐らくは体術主体の鍛錬を行っているのだ。トウカの知る日本傳流兵法・本部拳法に近い。近接戦闘に於ける入身を意識した動きにトウ
カは妙な既視感があった。大日連の頃の他流試合に於いて自身を滅多打ちにした相手を彼は思い出す。
「御明察、恐れ入ります」
一歩距離を取ったトウカに、マリエングラムが一礼する。
ヴェルテンベルク領邦軍では、剣術や近接格闘術は土着のものを発展させて大系化して運用していた。剣術に関しては示現流の系譜に似た髪一本分でも早く打 ち下す雲耀の発想で長剣を振るうものであったが、近年では廃れつつあった。銃火器の長射程化と威力増大、そして銃剣が近代史に姿を現したからである。士官
では、リシアの様に長剣より軽量な曲剣を佩用する者が大多数であった。対する近接格闘術は、当身技を主体とした相手に瞬発的に外傷を負わせる技を主体としているが、マリエングラムのものは些か趣が異なる。或いは、捕縛などを意識した独自の近接格闘術を採用している可能性があると、トウカは見た。
トウカは歩き始める。マリエングラムは背後に続く。そして厠所に入る。さも当然の様に男の厠所にマリアエングラムも続くが、廊下も厠所も無人である事を確認した上であった。
「貴官は随分と厠所に縁があるな」
「閣下の周囲を探る者は、閣下が考える以上に多く御座います。厠所以外であれば奥様の居られない日の臥所もありますが、宜しくありましょうか?」
侍女を臥所に連れ込んだなどという風評は、トウカも望まない。両手を上げて皮肉を取り下げる。
マリエングラムは、トウカとの接触に多大な労力を払っている。恐らくは、認識阻害や遮蔽工作などを幾つも行っているであろうが、トウカには分からない。諜報員の技術と魔術、科学、多種族が入り交じった世界では魑魅魍魎染みた駆け引きが生じるであろう事は疑いない。
厠所の幾つかの洗面台の蛇口を捻り、水を全開にしたマリエングラムが口を開く。
「閣下、極左団体による襲撃が予定されています」
恐らくは流水で会話が外部に漏れる事を防止する目的であろう行動を経たマリエングラムの一言。声音には険がある。
「貴官だけでなく、俺にも警戒が必要ということか」
「無論、厠所でも事が露呈すれば、閣下に連れ込まれて御寵愛を賜った侍女という体裁で遣り過ごします」
侍女を臥所に連れ込む為の警戒ではない。
「……御前、俺に恨みでもあるのか」
御寵愛を賜ったという言葉自体が矛盾である。英雄色を好むと言うが、そうした評価はトウカの望むところではない。現在も副官や近習にと貴族令嬢の推薦が止まないのだ。助長する真似は避けたい。無論、最大の懸案事項はミユキであるが。
以前とは違い酷く魅力的な造形美を誇るマリエングラムに、トウカは「マリィの性格の継承者であるようだな」と苦笑するが、次の言葉に笑みは潜む。
「邸宅の正門に文屋が最も集まった瞬間に極左団体の襲撃がある予定です」
彼女らに対する指揮権を、トウカは有していない。存在が曖昧な非正規部隊である以上、指揮系統も曖昧である。その発言の意図が奈辺にあるか考える必要があった。
「魔導車輌爆弾か? 身体に爆弾を巻き付けた連中か? いや、銃火器で武装したならず者か?」
トウカの知る民間での襲撃であればその辺りが妥当である。無論、自爆をやらかす程の極左思想などそうあるものではない。車輌に爆薬を満載しても攻撃も、未だこの世界では魔導車輌の普及率が限定的ある為に現実性に乏しい。不自然が際立つ真似はできないのだ。
「帝国製と共和国製、皇国製の火器で武装した者達による銃撃です。政治利用は閣下にお任せ致します。しかしながら、ハイドリヒ憲兵少将は、皇都憲兵隊による間諜摘発の強行の理由としたいとの意向をお持ちの様子」
クレアにも繋がっているという事案に対し、トウカは眉を顰める。
ヴェルテンベルク領邦軍情報部第九課、ヴァルトルーデ・マリエングラム中佐に、皇州同盟軍憲兵隊総監、クレア・ハイドリヒ少将。演出と後の間諜一斉摘発 を踏まえれば皇都憲兵隊も一枚噛んでいるとみて間違いない。複数の憲兵隊と情報部が噛んでいるとなれば、最早、止め得ない。或いは陸軍情報部や複数の特務 機関も関係している可能性がある。
トウカは、そこにある種の狂騒を感じた。時代が加速しているとでも言うべき速さで、皇国の闇で体制維持の為に蠢く者達が糾合され、軍事行動の阻害となる 対象を排除すべく邁進している。自身が望んだ未来でもあるが、皇国の闇で蠢く彼らこそが最も危機感を抱いているのかも知れない。
対外情報に接する機会の多い組織は、多種族国家である皇国がある種の奇跡の上に成り立っている事を思い知っていても不思議ではない。膂力と魔導資質に優 れた複数の種族が特徴を生かして連携すれば、他国の間諜や犯罪者、主義者を圧倒できる。そして、他国で小数種族が肩身の狭い状況に在る様を目にしていれ
ば、皇国の保持に対して懸命になる心情は当然のものと言えた。北部臣民は危険を冒してエルネシア連峰を走破して帝国から逃亡してくる低位種族が稀にいるの で、元より危機意識は高いが、他地方は違う。それらの危機感を扇動する為の手段として極左団体は利用されようとしている。
暴発させる御膳立ての準備と浸透は、トウカの到来以前より成されていたと見るべきである。短期間で左派組織内で信を得られるとは思えない。
――問題はクルワッハ公も連携しているかだが……
恐らくはしてないと、トウカは見ていた。クロウ=クルワッハ公爵家や七武五公の諜報能力がどの程度か不明であるが、少なくともフローズ=ヴィトニル公爵家以外は然したる噂を聞かない。七武五公内で分業化している可能性もある。よって、最大の懸念はフェンリスであった。
「狼は知っているのか?」
「いえ、御存知ありません。ですが、憲兵総監は問題なし、と」
マリエングラムの返答に、トウカは眉を顰めた。フェンリスの相手はクレアには荷が勝ちすぎると考えたからである。彼はフェンリスの暗躍を知らないが、三人の公爵が内戦で絶好の時期を
以て介入した時点で、諜報戦に優れた人物であるという人物像が出来上がっていた。クレア隷下の憲兵隊とカナリス隷下の情報部を出し抜いて北部情勢を正確に 推し量るだけの陣容を誇る諜報部隊を有していると推察できる。疑うべくもない。あの猜疑心に満ちたマリアベルの警戒をすり抜けて北部に根を張る諜報網を構 築するのは簡単な事ではないだ。
無論、それはクレアの複雑な立場を理解しないが故の推察であったが、間違った認識を前提とすれば、トウカとて正しい推察を導けない事を示してもいた。
トウカは鷹揚に頷く。
実行者はトウカではなく、マリエングラムもまた各諜報機関や憲兵隊の連携を取り持つ立場を堅持しているという点が言葉の端々に滲む。クレアもまた皇都で 動員できる戦力は皆無に近い。主力は皇都に多大な影響力を持つ陸軍憲兵隊や情報部などとなる。最悪、露呈しても皇都内の問題として強弁できる程度とも言え た。
「承知した。存分に、と……そう言いたいところだが、秩序警務の公安も抱き込めるか? 一部でいい」
暴力集団や思想集団、無政府主義者などを取り締まる武官側隷下の戦力として警務府隷下秩序警務に公安警務が存在する。全体の賛同を得ずとも、一部の危機 意識を持つ者達を抱き込めば、文武双方が国家存続の危機に手を携えたという実績ができる。現場の危機意識が暴走し、文武の上層部に決断を強いるのだ。
「些か時間的に厳しいものがありますが、事が起きた際に協力姿勢を示す者達を作る事は可能かと」
「では、その様にしろ。……最悪、事が露呈すれば、黒幕は俺という方向に誘導しろと各組織には伝えろ。憎まれ役を分散させるのは国体護持の上で非効率だ」
言い逃れも良い訳も容易いが、ここは彼らの危機感と行動力に対し自身が責任を負うべきである。トウカはそう考えた。自身が焚き付けた部分もある以上、彼らは自身の戦闘序列に加わったに等しい。ならば、指揮官たる自身が彼らの行動に対して責任を有するのは道理である。
無論、各諜報機関や各憲兵隊の信頼を得るという目的もある。困難に際して背を向ける者を、将兵は決して指揮官と認めない。何故なら、軍人とは国難という困難に立ち向かう使命を根本的に帯びているからだ。
憎まれ役が複数存在する事で国内に疑心暗鬼が生じる危険性も捨て置けない。一人を敵として全体が纏まる役目を負うのであれば、憎まれ役もまた立派な全体主義者だ。自覚しているなら尚更に。
一礼したマリエングラム。刹那に窺えた憂いの表情が酷く男を刺激する。厠所の臭気もまた淫靡な要素となり変わった。
その場を後にするべく背を向けたトウカは、はたと立ち止まる。
「……ああ、貴官。可能であれば、ハイドリヒ憲兵少将には頃合いをみて出頭する様に伝えろ。些か不愉快だ。憲兵が諜報の分野に深入りするのは」
知らないと思っているのか、とは口にせず、トウカはその場を後にした。
「役に立つのは、人を殴れる人間だけだ」
《独逸第三帝国》総統 アドルフ・ヒトラー
毘沙門天は仏教における天部の仏神である。神道であるトウカであれば、日本神話に於いて剣神と名高い建御雷之男神を祀る鹿島神宮や、或いは経津主神を祀る香取神宮の右三つ巴の紋や御名を掲げるべきかも知れない。諏訪神社に祭られるを建御名方神も
武勇に秀でているが、戦国時代に武田家の崇敬篤い諏訪神社を桜城家は織田家による侵攻の混乱に紛れて焼き討ちしているので望ましくない。遺恨があるのだ。 元より関東方面には桜城家と遺恨のある武家や神社仏閣は少なくないが、近畿でも業突く張り日吉大社などを焼き討ちした事で未だに関係は宜しくない。考えれ
ば考える程に敵が多い一族である。無論、現在のトウカも先祖に胸を張れる程に負けてはいない。
……戦国時代の桜城家は織田家を助けながら積極的に神道主体の宗教政策を進めていたので、現在に至るまで仏教勢力からは恨まれております。織田幕府成立 後も盛んに仏教徒の一揆勢を討滅していた訳ですね。自前の兵力を持ち、銭儲けに勤しむ仏門を手当たり次第に撫で斬りにしております。序でに言うと東南亜細 亜出兵の際も同様です。日本史に於ける宗教戦争の尖兵ですね。
「いや、七生報国を謳い上げるのだ。楠正成の菊水に肖るのも悪くないな」
欧州の如く複雑な紋章が乱立する皇国だが、《大日連》出身のトウカは複雑な紋章を望まない。無論、菊水の紋章を掲げるのであれば、『非理法権天』も掲げねばならない。
……楠木正成公が今際の際に謳い上げたとされるのが七生報国です。七回生きて国に報いよ、という意味ですね。大東亜戦争中に宣伝の為に盛んに使われた言 葉でもあります。朝日新聞も頻繁に使っていたような。その正成公が掲げた紋が菊水で、これは戦艦〈大和〉の煙突にも描かれていたなんて噂も有ります。
まぁ、乗員の話では唯一〈磯風〉のみが煙突に菊水紋が描かれていた様ですが。非理法権天が印された幟も掲げていたという噂がありますが、こちらも乗員に よって否定されていますね。
旗は飛び来る弾丸に破るる事こそ誉なれ、という『敵は幾万』に歌われている日本男児の精神を示している。無論、軍旗の記紋しは昇る朝日子でもなければ、そもそも聯隊旗ですらないのだが、どちらにせよ実戦に参加しないトウカは将旗に興味を持てなかった。
……軍歌の敵は幾万は、明治一九年(一八八六年)の曲なので諸々の権利問題は大丈夫かと思います。既に百年以上前の曲とは。大東亜戦争時の大本営発表で 戦勝発表の前後で流れた曲ですね。~敵は幾万ありとても~全て烏合の勢なるぞ~。作者は軍歌日本海軍でも有名な小山作之助氏です。