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第二〇四話    揺れる皇国

 

 

 




「〈第三親衛軍〉は後退しました。ヴァレンシュタイン中将の機動重視は戦域規模の防衛戦でも有用であると証明された事から、益々、陸軍としては離せません」

 皇国陸軍参謀本部、戦略会議室。

 合理的戦略を以て国体護持を図る集団の牙城と認知される煉瓦造りの建造物の一室。そこでの会議は現在、ウルム平原会戦に於ける〈ドラッヘンフェルス軍集 団〉の一次戦闘詳報を手に会議を続けていた。戦闘詳報の第一陣が届いて直ぐに招集された面々は、その内容に対して溜息と悲観を漏らしながらも意見を交わし ている。

 控えめに見ても地獄であった。戦況や被害規模という意味ではなく、双方共に大軍と呼べる戦力を率いながらも、史上稀に見る運動戦……トウカの示した戦闘教義で言うところの機動戦を展開する様は残酷な現実を参謀本部に突き付けた。

 カイゼル髭に禿頭という出で立ちの陸軍府長官ファーレンハイトを招いての報告であるが、参謀は何時も以上に言葉を着飾る真似をしない。喧々諤々の議論を 続ける参謀集団を傍目に、狐耳を揺らす幼女は戦闘詳報を今一度、流し見る。自らの踏み台と成り遂せた瀟洒な椅子に立ち、戦域図と戦闘詳報を突き合わせる幼 女の姿を気に留める者は既にいない。

 彼女、ネネカ・フォン・シャルンホルストは小狐族の女性であった。

 近年では幼女参謀の異名を持つが、既に三六歳となり公式記録上は大人の女性でもある。小狐族は男女共に背格好が幼少である比率が高い狐系獣人種であったが、そうした性質を持つ種族は他にもおり、取り立てて目を引く要素ではない。軍帽の切れ目(スリット)から突き出た狐耳に、軍袴(ズボン)から伸びる尻尾は狐種に多い金色で毛並みも相応のものであり、少なくとも身嗜みに乱れがあるとされない程度には手入れされていた。軍装や仕草は参謀将校然としたものである。

 本来、室内では軍帽を取る必要があるのだが、彼女は身体を大きく見せる為、敢えて軍帽を取らないでいた。周囲はそれを理解しており、一部の者達は微笑ましげな視線を向けるが、参謀本部の面々は彼女の特異性を十分に理解している為、一参謀として扱っている。

 議論が一端収束し、ファーレンハイトの視線が幼女参謀……ネネカを見据える。ネネカは、その意図を察し、戦闘詳報を乱雑に戦域図へと投げ置く。

「何故、サクラギ上級大将の名が戦闘詳報にないのでしょう?」

 確たる部分に基づいた意見などではない事を踏まえ、ネネカは想像以上に機動戦に優れた装甲部隊や随伴する自走砲や、多連装擲弾発射機……試験運用され始 めた歩兵戦闘車や装軌式輸送車輛などへの意見を避けた。誰しもが考える意見であれば、ネネカが重ねて口にする必要などない。妥当性の伴う多才な意見があっ てこその参謀本部である。

 各位に配布された戦闘詳報の提出者や関係者の名前確認を始める参謀達。

 ネネカは碌でもない事になりそうだ、と胸中で呻く。表面上は悠揚迫らざる仕草であるが、焦燥は過大なものであった。

 彼女はサクラギ・トウカを恐れていた。

 奇貨居くべしとばかりにマリアベルがトウカを重用したのは天晴れと言うべきものだが、ネネカは本当にマリアベルが病死であるかと猜疑の目を向けていた。マリアベルの死期は、トウカにとり最も理想的な時期(タイミング)で あったのだ。武功を挙げた内戦が終結し、帝国という脅威が目前に迫る状況。最も必要とされるのは内憂に有効な権威から、軍事的才覚のみに絞られたと言って も過言ではない。だからこそ、トウカの皇州同盟成立という立身出生は許されたのだ。内戦中であれば主導権確保を意図した派閥争いと受け取られ将兵の信を損 ない、帝国軍によるエルライン要塞陥落後であれば国難を軽視したと陸海軍が皇州同盟と距離を置きかねない。軍人の大多数は戦時下に派閥争いに勤しむ者に寛 容ではなく、民衆もまた風評に踊らされる。そして国難を横に主導権獲得を狙う姿勢は北部からも反感を招く。

 挙句にマリアベルの死は北部統合軍の戦意を挫き、内戦終結の切っ掛けとなった。否、内戦終結にクロウ=クルワッハ公に遺恨を露わにするマリアベルを邪魔 であると排除した可能性もある。諸条件を鑑みれば、あの北部での内戦と帝国による侵攻による狭間、その一瞬だけが、トウカが大多数に受け入れられる皇州同 盟成立の瞬間であったのだ。

 果たしてそれは偶然なのか?

 もし、偶然と言うのであれば、出来の悪い小説や英雄を中心に世界が回っているとでも考えねばならない事態である。だから、ネネカはトウカを恐れる。

 彼は期を見るに聡く、苛烈に果断を下し、同胞を犠牲にできる。

 もし、トウカがマリアベルを殺したとするならば、自らを栄達させた主君を殺したという事になる。状況証拠ばかりであるが、暗殺や世論操作という手段を平然と行うトウカが、主君謀殺を躊躇うとも思えない。

 絶対に接点を作るべきではない人物とトウカを定めたネネカ。

 しかし、彼は向こうからやってくる。慌ただしい足音。会議室の扉が開け放たれる。

 黒狼族と思しき伝令兵。足元に斃れるのは、各参謀の従卒であろう。必死に黒狼族と思しき伝令兵の足元にしがみ付いていて阻止の構えを崩さない従卒もいるが、種族差は如何ともし難い。

「報告、皇州同盟軍、〈第一機動艦隊〉が帝都イヴァングラードを直撃! 帝都は大火災により被害甚大とのこと!」

 心底と上気した表情で通信文を読み上げる伝令兵。

 会議室に書類が舞う。参謀達が一斉に投げたのだ。そして歓声と蛮声と怒号が続く。想定すらしていない皇州同盟軍の軍事行動に対する称賛と見積、憤怒と悲 哀……様々な感情が入り混じった参謀達の議論が始まるが、ネネカは椅子から飛び降りて、伝令兵の手から通信文を受け取る。

十日ほど前より帝都封鎖の事実は流布していたが、正確な情報は未だ把握しきれていなかった。政変に伴う帝都での市街戦であるとの見方も根強くあり、陸軍もその可能性を捨てきれないでいた。斯くにも相当の規模での封鎖である点だけは疑いない。

「……行われた航空攻撃は爆撃と空挺。サクラギ上級大将が陣頭指揮を執り空挺を敢行。帝城は半壊、現状での推定死者一〇〇万~二〇〇万。なんて規模、これでは戦争終結は無理だ」

 最早、既存の戦争とは桁違いの被害規模になりつつあることに、ネネカは天を仰ぐ。天井の輝光照明(シャンデリア)が嫌になる程に輝かしい。

「政治的名声を求めた一撃は想定していたけど此処までとは……いやはや」

 国内規模で収まる名声ではない。世界規模の名声であり、彼は血塗れの英雄としてその名を世界史に刻み付けた。彼は皇国に於ける軍事力の代名詞となるに違 いなかった。世界がそう見る以上、世界は彼の意志こそが皇国が振り抜いた軍事力という名の軍刀の切先であると錯覚するだろう。政治家がそれを理解しないな らば、トウカは諸外国との積極的な連携の下で皇国に於ける主導権確保を目指す可能性がある。特に神州国との連携の可能性は十分に考えられた。

 だが、先ずは軍人達がトウカに引き摺られる。軍人は武功を挙げた者の意見こそを雀の千声鶴の一声とばかりに重視するのだ。特に年若い軍人達は、彼の背を通して身の丈に合わない幻想を抱くだろう。若さ故の無謀であり特権である以上、それを留める術を年長者達は持ち得ない。

 年若いネネカがそれを指摘するのは酷く滑稽であり、また無意味である為に口にはしないが、衆議院に属する政治家達の焦燥だけは留意せねばならない。衆議院は選挙で選ばれた民衆出身の政治家からなる議員である。

 迎合するにしても敵対するにしても強大に過ぎる相手となれば、その対応も苛烈なものとなりかねない。民選された以上、彼らは臣民の目に見える形の成果を 必要とする宿命にある。故に現実性よりも耳目を集める発言に重きを置く傾向を持つ。結論として民選によって決まる政治家の中でも、著名な者とは自己顕示欲 の肥大化した者が多い。所謂、世間では碌でなしと言われる連中である。

 ネネカは政治家を嫌悪する。そして、トウカはそれ以上に嫌悪していると確信していた。

 民衆の熱狂は時として国を滅ぼす。だからこそ、それを誰かが統制せねばならない。それを、権威を以て統制する役目こそが天皇大帝最大の役目と言っても過言ではないが、その天帝の地位は空位となって久しい。

 不満は蓄積しつつある。トウカはそれを理解している筈であり、同時に嫌悪している。故に暴発により多くが生命と財産と尊厳を喪う結果となる決断を容易に下せる筈であった。

 彼女は近付いてきたファーレンハイトに通信文を手渡す。胸中で荒れ狂う危機感を押さえて。

「どう思うかね?」

「……国家体制に対する脅威かと」

 御前らはそんな事も分からないのかと、吐き捨てたくなる怠惰であるが、彼らの大多数は政治家ではなく生粋の軍人である。国難に応じて軍閥と手を組む以上の要素をトウカに見い出していない。トウカの権威が膨れ上がる点を懸念する立場にはなかった。

「その意見、政府でも出ておる。成程、貴官は軍政家としての資質もあるな」

「光栄です。しかし、御国在っての軍人かと」

 あくまでも国家護持の為に軍人があり、軍人以上の視野はあれども二心を抱く真似はしないとの意思表示をネネカは示す。「慎重なことだ」とファーレンハイトは笑うが、ネネカとトウカの戦略には類似性がある。同類であると危険視される可能性は十分にあった。

 目下最大の問題は、ネネカをトウカがどの様に見るかである。

 政戦で綱渡りを続けるトウカに迎合するなどという真似は有り得ず、さりとて望んで敵対するには苛烈に過ぎる相手でもある。情報部による暗殺と憲兵隊による間諜の狩り出しを見れば、積極的な敵対は惨殺という結末となる。

「閣下、どうなさいますか?」

「敵国に大打撃を与えた英雄を同じ軍人である我らが跳ね除ける事ができるか? 無理であろうな。ましてや、エルライン回廊は失陥しておる」

 ファーレンハイトの言葉に、ネネカは「閣下も軍政家ですね」と苦笑する。

 エルライン回廊失陥という未曽有の国難を招いたのは陸軍の怠慢であるという意見も少なくない。本音を言えば、不敬を覚悟で歴代天帝陛下の軍縮の成果であると、ファーレンハイトも叫びたい筈なのだ。

 しかし、トウカが帝国を苛烈に軍事力で打擲すればする程に、ファーレンハイトの立場も強化される。皇州同盟と連携し、その武力行使に多大な支援を行って いる陸海軍は皇州同盟軍が活躍すれば、それに応じて評価を受ける。ファーレンハイトの失脚を、という声が極少数に留まっているのは、皇州同盟との連携を積 極的に推進したからである。

 今回の帝都空襲は陸軍の戦果とも成り得る。ファーレンハイトを批難する声は完全に封殺され、寧ろ、少ない軍備を補填すべく皇州同盟と連携した点を評価されるに違いなかった。

 トウカは陸海軍に配慮した発言や交渉も行っている。兵器売却や合同訓練などは明らかに陸海軍の利が大きく、その点からもファーレンハイトの立場は強化さ れたと言える。陸軍府長官の罷免ともなれば、皇州同盟は先の不透明感から踏み込んだ交渉に難色を示すであろう事は疑いなく、関係悪化は避け得ない。

 ――ファーレンハイト長官は徐々に立場を強化しつつある。来年度予算を見越して?

 既に戦時下であり緊急予算編成も行われているが、一過性の予算増大では意味がない。長期的に拡大した軍備を維持する必要性から莫大な予算を必要とする。特に装甲部隊拡充には多額の予算を必要とした。

「今後、サクラギ上級大将はどの様に動くと思うか?」

「さて、それは何とも。ですが、直近の行動ともなれば些か心当たりが、直ぐにでも皆が知る事になるかと」

 ネネカは、トウカの政戦両略の視点を偏見なく推察できた。勝利の為ならば一切合切悉くを巻き込む姿勢もまた嫌悪など抱かない。ネネカがそう振る舞わないのは陸軍という組織ではそれが望まれないからに過ぎず、必要とあらば断行する腹心算であった。

「通信文を見るにクロウ=クルワッハ公も同行しているとの事です。そして帝都空襲は政治的演技(パフォーマンス)に他なりません。それを最大限に活用するには――もう、来た様です」

 耳障りな不協和音。極最近、整備された空襲警報である。無論、訓練ではない。

「皇都に直接とは、遠慮がありませんね」とネネカは肩を竦めながらも窓際へと進む。爆撃の場合、窓際は至近弾による硝子の飛散の可能性があり危険が増大する。ネネカは爆撃などないと確信するが、参謀の一部は廊下へと出て付近の兵に確認を取っている。

「閣下、この耳障りな警報を停止して貰えますか?」

「よかろう。おい、貴様」

 隣に立つファーレンハイトが士官を呼び止めると、空襲警報停止を命令する。そして、ついでとばかりに葉巻の吸い口を毟り取り銜えると、魔術で火を付けた。老将なりの泰然自若とした己を示す仕草なのだ。

「報告! 巨大な不明騎が単騎で皇都上空に侵入しつつあり!」

 会議室に飛び込んできた伝令兵の報告。ネネカは振り向く事もない。今更であり、ファーレンハイトも朧げに状況を察しつつあった。

「クルワッハ公でしょう。そちらの航空参謀に確認を取れば、直ぐに判明するかと」

「確かにな。航空参謀、どうか?」

 ファーレンハイトの言葉に、背後で進み出た航空参謀が直立不動で答える。

「はっ、確かにクルワッハ公かと。配備している迎撃騎も怯えて出撃できぬでしょう」

 航空参謀は高位龍種であり、アーダルベルトの強大な気配を気取れる筈であり、同時に巨龍へと転化したアーアルベルトの姿を知る筈であった。迎撃騎が要撃に現れぬ点もまた、アーダルベルトであると示しているに等しい。

「空襲警報を止めろ。対空砲部隊に友軍であると周知させろ。どちらにせよ、我らが保有する対空砲では傷一つ付けられぬであろうがな」

 アーアルベルトの命令に、参謀から明確な指示を受けた伝令兵が会議室を飛び出る。

 皇国政治に一石を投じる事になる一幕が始まろうとしていた。







「先輩、特種(スクープ)ですよ! 急いでくださいって!」

「ええい、わぁってるよ。御前こそ三脚なんぞ置いとけ! 邪魔だ!」

 中年に差し掛かった人間種が銜え煙草を灰皿に捻じ伏せて叫ぶ。相手は年若く見える白の獣耳と尻尾を持つ狼系種族の女性である。

 皇都新聞社の中でも問題児として知られる二人組(コンビ)は喫茶店の机に御釣りが生じるであろう銀貨を惜しげもなく叩き付けて扉を開け放つ。狼系種族の女性は三脚を抱えて店を飛び出そうとするが、案の定、扉に引っ掛かる。

「ええい! そんな長物持ちやがって!」

「わぁあ! 先輩この三脚凄く高いんですよ! あ、店員さん預かっといて!」

 呆然とする店員に三脚を押し付けて二人は空襲警報によって混乱する民間人の波濤に身を投げ出す。空襲警報が制定され、避難場所などの選定も終え、つい先 月に第一次避難訓練が行われて改善すべき点が多いと判断されたばかりである。民間人は慌て逃げ惑うよりも困惑に足を止める者が最も多い有り様であった。そ れらを掻き分けて二人は進む。

「皇城だ! 急げ!」と、中年は後輩を急かす。

 十日前、帝国の帝都が何かしらの攻撃で甚大な被害を受けたとの噂が世界を駆け巡った。当初は武装蜂起(クーデター)ではないのかと見られていたが、帝国政府からの正式発表はなく、帝都近傍には有力な陸軍部隊が展開して封鎖状態にあるという噂のみが先行した。敵対国であるだけに皇国の記者が情報を得るのは第三国を通さねばならない為、真偽の程は未だに不明である。

 だが、彼ならばやるのではないかと、トウカに“期待”する者は皇国臣民にも少なくない。エルライン要塞の敵討ちとばかりに帝都を攻撃する事に成功したならば、明日は多くの企業が臨時休業となり、酒場が賑わうに違いなかった。

 現状の空襲警報が帝国の報復であるとは考え難い。北部には皇州同盟軍隷下の複数の戦闘航空団が展開しており、それらを突破して皇都上空に現れるのは無理 がある。であれば友軍騎であると考えるのが必定。少なくとも彼はそう考えていた。実際、トウカの行った航空母艦より戦略爆撃騎を飛ばすという手段を知り得 ないからこその判断であるが、帝国の軍備を踏まえれば強ち間違いでもない。

「友軍の癖に友軍の迷惑を顧みない連中となりゃ、あれは皇州同盟軍だ!」

 酷い所感からなる判断であるが、皇国臣民の皇州同盟軍に対する印象とは、非常識という軍旗を掲げた無礼千万な指揮官に率いられた悪鬼羅刹の将兵達である。陸軍の管轄であるからという理由が有効でない相手であるのは、皇国臣民の誰もが知る真実である。

「非常識な連中がやらかすなら皇城だ! 俺に任せろやぁ!」

 尤も非常識を演出するなら上空が飛行禁止区域であり、権威主義国に於ける聖域たる権威者の居城、内裏(だいり)にして禁裏(きんり)たる皇城一択となる。少なくとも特種(スクープ)の為に非常識を敢行する彼には、同じ非常識をやらかす相手の思惑を察する事が出来た。

 無論、冷静なところでは皇国の権威の象徴たる歴代天帝の政策を声高に批判するトウカであれば、そう出るであろうという推測もある。

「おい! 後輩! 何処だ! 遅いぞ!」

「先輩! 前ですよ、前!」

「おめぇ、はえぇな! よし、いつものだ!」

 煙草の所為で機能低下した肺が早々に悲鳴を上げる現状に、彼は何時も通り矜持(プライド)と尊厳を側溝へと投げ捨てる。矜持(プライド)と尊厳で飯は食えないという真理を彼は理解していた。

「もぅ! 仕方ないですね!」

 速度を落として並走した後輩狼娘の手が中年の草臥(くたび)れ た上衣の袖を掴んで抱き寄せる。そして、足を掴んで間髪入れずに抱え上げて横抱きにする。所謂、御姫様抱っこというものであるが、年若い狼娘が無精髭の中 年を抱える姿は多種族国家であっても耳目を集めるものの、今は非常時。ぞろぞろと建造物へ避難しようとする者達の意識は二人に向けられない。

 狼種の健脚を以て加速する二人。縁石を飛び越え、街路樹を蹴り、網柵(フェンス)を踏み台にする。隘路に等しい脇道を駆け、大通りを一足で横切る。

 皇城の尖塔が建造物の群れの間隙より窺える様を前に、後輩狼娘は言い募る。

「でも、先輩。天帝陛下不在の皇城に意味なんて……」

「三日前に大御巫(おおみかんなぎ)が戻って来てるだろ! 散々に叩かれるのを覚悟で、だ!」

 あっ、と後輩狼娘が声を上げる。彼はずれそうな後輩の丸眼鏡を直してやりながらも、サクラギ・トウカの政戦は連続性を伴ったものだと戦慄していた。馬鹿な政治家は、耳目を集める言葉を垂れ流すだけだが、トウカは常に次の政治的優位を確保し続ける手段として行動している。

 大御巫たるアリアベルの内戦への介入が統帥権干犯であると批判されている中、彼女は皇都へと帰還した。陸海軍の遺族を中心に神祇府の前での抗議活動は未 だに続いており、自らの権威を傷付けるだけの帰還など自己満足に過ぎない。無論、内戦介入が自己満足に等しい結果となったのは事実だが、以前より彼女は国 粋主義者であった。その行動には国家を想うという“嗜好”が潜む筈である。それがトウカの動きと連動していると見るのは自然な流れである。何より、アリア ベルは皇州同盟に於いて盟主と呼ばれる立場にあった。御飾である事は明白。だが、損なわれた権威を放置できない理由が、トウカにはある。

 クロウ=クルワッハ公爵との関係修復を彼は望んでいる。

 航空戦力増強には龍種の長たるアーダルベルトの積極的協力が不可欠である。北部地域自体の龍種の数は他地方よりも少ない。高位龍種は特に限られる。対す るアーダルベルトは六〇〇〇騎以上を短期間で集結させ得ると諸外国の武官の前で証明していたが、武装や航空戦術は有していない。トウカとアーダルベルトが 互いに互いを求めるのは陣営を統率する者ととして酷く自然な結果と言えた。その中にアリアベルの名誉回復を意図した行動があっても不思議ではない。アリア ベルはアーダルベルトの娘なのだ。

「皇城正面ですね!?」と、問う後輩狼娘。

「おうよ! 一芝居打つなら皇城の外郭……正門だ!」と、彼は返す。

 皇城の外観は石造であり、軍事施設を内包した皇城の敷地を総構えの形で防護している。敷地内には飛行場や近衛軍司令部、近衛聯隊駐屯地、小規模な兵器廠 も併設されており、単独で敵軍の侵攻に対抗できるだけの設備を備えていた。皇都自体が城塞都市である点を踏まえれば、天帝の居城は二重の防護が成されてい る事になる。実際は、皇城の役目は皇都失陥の際、南側にある大規模な軍港から民間人を脱出させる為の遅滞防御を担う防禦施設であり、初代天帝の政治姿勢が 窺える。無論、サクラギ・トウカとは相容れない事が明白な政治姿勢であった。

 正門前の広場へと駆け込む二人だが、既に人垣が出来ている。

「ちっ、遅かったか! いや、御同業はまだか! よし、位置取りだ!」叫ぶ彼に、「先輩、あそこにしましょう!」と後輩が広場を挟んで正門対面付近にある喫茶店を指差す。勿論、二階席ではなく、屋根が狙い目である。

 抱えられたままに、草臥れた上着の下に潜ませた懐中の撮影機を、彼は揺れる中で準備する。時折、落下の危機に晒されるが、給料四ヶ月分の最新機種は分割 する事で小型化を実現していた。軍用単眼鏡の構造を模しただけあって頑健であるが、狼娘が駆ける中で地面に落とせば部品単位での解体が避け得ない点に変わ りはない。

 後輩狼娘が喫茶店の屋根へと降り立つ。狼種の脚部によって軽減された衝撃を経て屋根に降り立つ先輩の勇姿に対する後輩の視線は些か厳しいものがある。種 族毎に身体能力差があるのは明白にして避け得ない事実だが、望んで煙草臭い中年男性を抱えて全力疾走したい乙女など居はしない。

「おい! 延伸(レンズ)はどこだ!」「自分の腰ですよ」「三脚はどこだ!?」「さっき置いてきたじゃないですか」「お、おう……」と、最早、恒例となりつつある現場の遣り取りを経て験を担いだ二人は、傾斜する屋根上でしゃがみ込む。

 喫茶店であると示す構造物を利用して撮影機を保持した彼は、正門上に瞳の焦点を合わせるが、撮影機の(レンズ)にちらつく影に眉を顰める。

「先輩、天使ですよ! しかも六枚翅も居ます!」

 相棒の驚喜と困惑に頭上を見上げれば、見事な六枚の白翼を羽ばたかせた熾天使が皇都上空を無数の天使を従えて飛翔している。

 思わず撮影機を構えて天使の影に追い縋る。

 連続撮影しつつ捉えた天使の姿は、見た事もない長銃身の機関銃を手にしたもので、階級章や腕章、国章も見当たらない。明らかに非正規任務を意識したもので、翅や軍装に戦塵や血と思しき汚れが目立つ。

「まさか、戦地から直接来たのか? 流石は戦争屋」

 トウカは“奇襲こそが戦争で成功を収める最大の要素である”との言動通り、常に相手の意表を突き、想定外を狙い、(まぐ)れを突く事に腐心している。戦略戦術に技術思想と、あらゆる要素を手繰り寄せて相手の最善の一手を悪手と成さしめるという狂気。常識的な一手はトウカの前には、非常識な悪手と成り下がる。

 兎にも角にも、常識が通用しない相手である。寧ろ、自らを常識として相手を非常識と罵る人物である。戦場で相手に自らの論理と心理を強制し、政治でもそれを躊躇わない。それ故に軋轢を生み出し、彼ら文屋の仕事を喪わせないのだ。愛すべき碌でなしである。

 (レンズ)越しに、千早を纏う巫女装束の乙女。アリアベルである。紅白の装束を翻し、金色の前天冠(まえてんかん)には紫苑桜華の枝が差し込まれ、祭儀用礼装であると彼は当たりを付けた。

 対する正門上に現れた軍神は、天使達と同様に戦塵と血潮に塗れているのか、黒衣の軍装ながらも汚れが見て取れる程である。露骨なまでに戦野より直接舞い戻ったという風体であった。

 片膝を突き家臣の礼を取る軍神と、千早を揺らして向かい合う大御巫。

『大御巫の命により、臣サクラギ・トウカ。帝都空襲の大命を果たし此処に帰還せり』

 軍神の奏上。それは、風魔術によって拡大され、皇都に拡散する。

 皇城正面広場は騒然となる。

 市井にも帝国の異変は伝わっている。ドラッヘンフェルス高原周辺で唾競り合いを繰り広げつつあった戦況が一時を境に、攻勢は完全に停止した。戦線維持は 行えども積極的な侵攻を行わず、寧ろ限定的とはいえヴァレンシュタイン中将隷下の装甲部隊がそれを奇貨として限定的ながらも反攻戦を演じている。そうした 情報は既に流布していた。国民の戦意を燃やし、結束を強固とならしめる必要が政府にはあるのだ。

 トウカは、軍用長外套(ロングコート)を翻して立ち会がある。

 相対する軍神と大御巫。

 彼は咄嗟に撮影する。無意識の動作。僅かな機械音が零れる。

 苦笑を零し合う二人。半ば茶番を楽しむかの様な仕草は様になっている。戦地より舞い戻った軍人を恋人が恥じらいを以て受け入れる様にも思える一幕。

『我が皇軍は帝都を襲撃せり。帝都は帝城諸共に石材へとなり下がりました』

 家臣の言葉ではない。対等な口調を以て応じるトウカ。そこに中央への唯一の伝手とも言えるアリアベルと、他地方を敵視する北部地域との板挟みを窺わせる 光景である。翌日の朝刊では、中央で刊行されるものは、大御巫に首を垂れる軍神の姿を一面に飾るだろう。そして、北部で刊行されるものは対等に言葉を交わ す姿を一面に飾るに違いない。少なくとも北部においての情報統制を実現しているので情報操作は容易い。対する中央は“取り敢えずの”連携を意識する政府や 陸海軍によって誘導されるに違いなかった。

 勿論、彼もそれに乗る。長いものに巻かれながらも権力者から顰蹙を買わない程度に先手を打って号外を刊行する。それが彼の処世術であった。ヒトが霞を食べて生き抜けない事を、彼は良く理解していた。利益あっての商売である。

 二人の会話が続く中、彼は戦慄に肩を戦慄かせていた。

 ――しかし、帝城が倒壊だって? こいつはいい! 別の選択肢が帝国内で生じるかもなぁ。

 帝国主義国家が権威を喪えば、下剋上を意図した行動が配下より生じる可能性が常に付き纏う。それを阻止する結果としての内戦もまた歴史上を賑わせてい る。そして、権威の象徴たる帝王崩御の可能性は帝国政府が未だに情報遮断している事から決して皆無ではない。もし実現したならば、トウカは紛れもなく救国 の英雄である。

 親しげに語らう二人。正門上でのこれ見よがしの露骨な演出であるにも関わらず、恋人の様な仕草を以て芝居とも思わせない。作為的なものか偶然か、彼には判断が付かないが、少なくとも大衆受けはしていた。

『大義である。今後も軍神たるの本懐を遂げられよ』

 アリアベルの称賛。トウカは胸に手を当てて慇懃に一礼をして見せるが、そこには不敵な感情が滲んでいる。少なくとも撮影機の写るトウカの口元は盛大に歪んでいる。

『恐悦至極。なればこそ、今一度、臣たる小官に皇軍軍閥の長として一切合財悉くの朝敵を打ち払えと勅を頂きたい』

 群衆がざわめく。彼も驚いた。

 勅。即ち勅令を意味する。勅令とは法律執行、或いは秩序維持、天帝主体の政策発令を主目的として初代天帝が制定した皇国で最も強大な執行形態である。その運用は天帝のみに帰属し、有事の際は皇妃がその発令権を有する。

 大日連では憲法上の法律に纏わるものではない事項を対象とした勅令だが、皇国では法律や憲法よりも上位に勅令が位置し、より独裁色を強めていた。勅令以 外に、軍に関するものは軍令、皇室に関するものは皇室令、政治に関するものは政令と定められていたが、これらにすら勅令は上位に位置する。その絶大な命令 権は、専制君主制の諸外国よりも遙かに強固で絶対性を有した。多種族の総攬者にして民族統合の先導者。世界史に於いて悉く失敗し続けた試みを明確にしてこ れ以上ない程に強固な制度化を以て望んだ初めての国家。幾多の困難を伴う事業に対して、絶対的な権力を有した絶対者は必要不可欠。

 だが、今この時、国難であるからと若き男女が勅令すらも欲しい儘にしつつある。そう報道する新聞社も少なくない筈であるが、彼はそれよりも“皇軍軍閥の長”という言葉に妙な可笑しさを感じて肩を揺らす。

 皇軍軍閥の長。

 酷く曖昧な物言いである。そも軍閥とはなにか?となると実は明確な定義はない。諸外国では、統一国家の軍隊に存在する派閥や、軍事力を背景にして地方に 割拠する武装集団を指す。前者と解釈すれば陸海軍を含める事も可能であるが、後者と解釈すれば地方の武装集団である皇州同盟などの軍閥のみを示す言葉とな る。方便として扱える要素がまた一つ増えた。

 トウカは、政略に関しても常に配慮している。

『さし赦す。勅令である。汝、悉くを率いよ……して、どれ程に打ち据える?』

 アリアベルは勅令を口にするが、帝国への打撃の程度を見据えた問い掛けを重ねる。

 戦争を決断するのは容易いが、終結させる労力を進んで払う者は少ない。少なくとも交戦状態が明確である以上、手打ちの機会は必ず必要となる。無論、いつ も通りであれば敵軍を完全に帝国領へと撃退する事で終結宣言が出されるが、エルライン回廊が失陥した今、帝国もまた更なる戦果を求めていると見ていい。こ の機会に皇国占領を実現せねば被害のみが重なる結果となる。

 トウカは胸に手を当てて朗々と謳う。

『滅亡を。帝国の人口と国力の積極的漸減を以て滅亡へと』

 群集のどよめき。否、蛮声と言うべきか。悲鳴とも怒声とも歓声ともつかない大音声が周囲を満たし、後輩が狼耳を両手で押さえる。

『先達たる先代貴族院議長、フォルクヴァルツ子爵が口にした「まさか帝国を滅ぼす事など、もはや叶うと思う者も居るまい」という言葉。貴官も知っておりましょう』

 帝国建国の黎明期であれば兎も角、これ程の規模にまで拡大した帝国を完全に無力化する事など不可能ではないとはいえ、国際情勢や経済維持を踏まえれば多 大な労力と資源を浪費する事となり現実的ではない。それを指してのフォルクヴァルツ子爵の言葉であるが、それは普遍的な真実として貴軍官民の大多数に受け 入れられていた。それを否定して見せたトウカに対して多種多様な感情を向ける群集達の行動は不自然なものではない。

 だが、彼は広場の光景に、否定的な言動が少ない事を見て取った。否、正確には急進的姿勢を否定する声はあるが、トウカが帝国滅亡を行えるかという点に対 する疑念の声はない。当たり前である。圧倒的劣勢の内戦を相打ちにまで持ち込み、エルライン要塞攻防戦では化学戦を含めて四〇万名以上を殺害し、挙句には 帝都を焼き払った彼ならばという潜在的期待。群集は期待しているのだ。意識的なものではなく、未だに無意識である者も少なくないが、寧ろ、彼の敗北をさも 当然の様に疑わない流れができつつあるのは確かである。

 トウカは「不愉快な!」と吐き捨てる。大御巫の眼前で口にする言葉ではない。対するアリアベルは愉快気な表情でトウカに微笑む。面白い見世物を眺めるかの様な視線。

 軍神が肩に掛けた軍用大外套(ロングコート)を翻して正門下の広場を埋め尽くす群衆へと向き直る。

「笑止! 今ここに、皇州同盟軍最高指揮官たるサクラギ・トウカ上級大将がその言葉に応えよう!」

 振り払われた右手。そして右手が翻され、拳が決して大きくはない胸板を叩く。

「そのまさかが、この俺であると!」

 彼は一拍遅れて撮影を重ねる。

 群集の言語から外れた蛮声。実績を伴った者が可能であると口にした事実は大きい。権力者の誰しもが口にできなかった悲願を口にした。これが単なる国粋主義者や軍国主義者であれば嘲笑を以て戯言と断じる事も叶うだろうが、トウカであればという漠然とした期待がある。

 群集は可能だと見た。帝都すら焼き払った男であれば可能と見たのだ。

 その情熱はまるで恋の様ですらある。

 暴力的で止めどない感情の発露。理性で恋が叶い、理性で本能を押さえ得るならば、恋など有り得ない様に、焦燥と暴風に似た感情は理論と常識を押し流す。

「私は帝国を滅ぼす! 故に、この声を耳にした戦友達が為すべきことはただ一つ。我に続く事だ!」

 それは宣言。

 断じて成すという強烈なまでの宣言である。問い掛けるものではなく、ある種の強制力すら伴う。

「軍へ志願せよ! 敵を打ち払え! 国家に栄光を齎すのだ! 皇国万歳!」

 トウカの軍拡への熱意と帝国への殺意は群集へと伝播し、群集は鯨波となった自らの蛮声に酔いしれる。何時の時代も愛国心とは熱病の様なものなのだ。










「では、帝都空襲は予期していた、と?」

「帝国の主要都市を狙った攻撃が行われる可能性は以前より提言させていただいておりました」

 ネネカは、ファーレンハイトの言葉に胡乱な声音で言葉を返す。

 陸軍参謀本部の会議室で二人きりで相対した陸軍府長官と参謀本部の若き俊英。トウカの独断によって行われた茶番劇が皇城正門で行われているとの報告に、 会議など手に付かないと判断したファーレンハイトの一存で会議は終了した。参謀の大部分は情報収集へと走った。トウカが初めて皇都に姿を見せ、大御巫まで 引き摺り出して政治的演出を行っている。余波が何処に生じるか分からない。右派団体による大規模な示威(デモ)行進ならば良いが、皇州同盟軍の動員による作戦行動がないとも限らない。空挺は戦場から前線という概念を揺るがして久しい。

 トウカの意図をネネカは正確に察していた。ファーレンハイトも同様であり、恐らくは主だった権力者の面々は皇都来襲の意義を察していた。帝都空襲という 戦果を携えたトウカの出現は新たなる政治勢力の台頭である。恐らくは、アリアベルの口添えによる右派団体を支持母体とした議員団との協力体制の宣言なども 用意されていると見ていい。アーダルベルトも居ることから、航空戦力の更なる拡充を意図した龍種貴族による連携の確認などもあるかも知れない。

 一晩で政治勢力が塗り替えられるだろう。

 七武五公もまたアーアルベルトの協調によって、トウカを明確に支持せざるを得ない。七武家にも龍種の武家が一つ存在し、その点を突破口とした説得が行わ れる筈である。帝都空襲で設定的な戦争へと舵を切らざるを得なくなった以上、トウカの協力は不可欠。ましてや、内部でもめ事を起こす余裕などない。相手は 人口三億五千万を超える大国なのだ。

 陸軍としてはどうするのか、とネネカは考えようとして止める。眼前で楽し気に皇帝(カイゼル)髭を揺らす禿頭を見れば方針は明白である。

「決戦だな。ある程度の持久を行い、戦力が整えば反撃に転ずる。まぁ、皇州同盟軍との盟約通りだ。あれが政治屋共の尻を蹴り上げてくれるならば、反撃時期も前倒しできような」

 葉巻を燻らす宿将。女性を前に煙を吐くなど配慮が足りていないが、性別云々よりも軍人である事が優先される軍では煙如きに非難の声を上げるものなどいな い。寧ろ、硝煙と煤塗れの砲兵隊指揮官にしてくれるわ、と言わんばかりの仕打ちを受けかねない。ちなみに砲兵将校は火気厳禁の規定が厳しい事から煙草を吸 わない者が多い。

 さり気なく手袋に刻印された魔術陣で風魔術を発動し、そよ風で自らへと迫る煙を受け流していく。皇国陸軍軍人であれば一般的な技能である。無論、本来は砲煙や着弾煙を吹き散らしての視界確保を目的としていた。

「閣下、小官を東部で編制予定の師団へと加えていただきたいと思います」

 諸々の思案を経た結果、ネネカは東部防衛の任を担うべきであると判断した。

 無論、政治的理由でも軍事的思惑でもない。予想されるトウカの魔手より逃れる為の一手である。東部というトウカの主戦場から離れる意図を明確にする事 で、トウカの不信感から逃れようと目論んでいた。東部であれば不穏な動きを見せる神州国への対応として説明できる為に要望も通り易い。元より、〈東方方面 軍〉はネネカの古巣であり、参謀本部への抜擢がなければ未だに所属していたはずである。

「第一部作戦課課長では不満か? 貴官はまだまだ若い。急がずとも良かろう」

 別に戦果が欲しい訳ではない。寧ろ、トウカに対抗する為か、ネネカを新進気鋭の参謀将校として取り立てる真似をするからである。無論、トウカの機動戦に 対する提出論文や、火砲の迅速な陣地転換を意図して魔導車輌への搭載を、それ以前より提案していた事から、トウカに近い視野を有していると判断された為で あるが、今にして思えば迂闊以外の何ものでもない。

 トウカは自らの優位に永続性があるなどと己惚れてはいないが、恐らくは優位を可能な限り長期的なものとならしめる為の労力は惜しまないと、ネネカは睨ん でいた。詰まるところ、自身の価値観と視野に近しいネネカは、トウカにとり酷く邪魔なのだ。陸軍軍人であり続けるならば、排除対象である可能性は高い。

 陸軍中央とは距離を置くのは、自らの生命を損なわない為である。ネネカは命が惜しいし、両親も愛している。迷惑は掛けられないし、ましてや巻き込むなど親不孝の極みである。

「いえ、神州国の侵略の意図は明白です。サクラギ上級大将が帝国に当たるならば、小官は神国に当たるべきかと思いまして。不正規戦や浸透突破は小官の得意 とするところ。海軍戦力に劣る以上、初戦の主導権は神州国にあります。後手からの反撃であるならば小官も一部隊を率いるべきかと」

 伝われこの悲観とばかりに、宿将を見上げる小さな参謀。

 ちなみにネネカは〈東部方面軍〉時代、内戦で現れたネネカはトウカに極めて批判的であった。それは感情論からではなく、義勇装甲擲弾兵師団という民兵と 大都市を拠点とした交戦によるところである。ある種の民間人を盾にした防衛行動であり、その遺恨が後世に齎す影響を軽視しているという部分に対してのもの であった。その主張は現在でも政府から高評価を受けていた。

 現にトウカは内戦の遺恨によって北部以外で政治的孤立を深めている。

 本来、そこで逼塞する運命にあった。或いは、エルライン要塞陥落後の北部防衛で戦力を打ち減らされて見るも無残な有様になると、彼女は睨んでいた。現に トウカをエルライン要塞防衛の手助けとして増派するという意向を示した政府の根拠は、彼女が齎した主張によるところであるのは疑いない。皇州同盟軍との連 携は難しく、そして危険である。よって帝国軍に皇州同盟軍をぶつける事で双方を消耗させ、同時に時間を捻出。疲弊した帝国軍を戦備の整った陸軍で排除する という予定を政府は描いたのだ。

 いや、正直に言おう。ネネカはトウカを潰そうとした。いつか正規軍になり替わるという意向を露わにしたトウカを途方もない脅威であると認識したのだ。北 部の自助防衛を許容すべきという発言の意図を、トウカは正確に察している筈である。そして、眼前のファーレンハイトがそうした政治に対するある種の働き掛 けを、ネネカが行ったと理解している。無論、政治権力に諂うものではなく、彼らの耳触りの良い意見として彼らの目に付く様に“配慮”しただけに過ぎない。 政治屋とは政敵を罵倒する理由を常に探している連中である。右派勢力が擁護するトウカを叩ける理由を混合すれば、誘導する事は容易い。

 左派勢力が恋焦がれる軍神の経歴に傷を付け、皇州同盟軍に多大な被害を与える。政治家はその為に蠢動し、中央貴族もそれを受け入れた。七武五公すらも、トウカの実力を図る為、それを許した。

「貴官の戦略眼を陸軍総司令部も参謀本部も高く評価している。留意して貰いたいところだ」

 ファーレンハイトは、紫煙を吐いて留意を促す。

 陸軍府長官は陸軍総司令部という軍政機関の長である。ネネカの政治家に対する蠢動を評価するのは、ある種の必然と言えた。

 トウカは当然であるが、ネネカもまた非凡な才覚を備えている。エルライン要塞失陥を想定していたのだから。無論、それは重戦略破城鎚を想定していたから ではない。トウカと同様に以前の幾度かの要塞攻撃と同様の手段を取らず、食糧難に喘ぐ中で勝算のない博打を打つとは思えないという客観的事実を繋ぎ合わせ た結果に過ぎない。

 眼前の宿将は軍政機関の長であるが、同時に参謀本部は陸軍府長官の指揮下にある。本来、部隊運用を十全とならしめる準備が軍政の範疇で、軍事力行使に関 わる部隊部分は軍令とされるが、実情として軍政と軍令を明確に区分する事は難しく、皇国では共に陸軍府長官の指揮下にあった。諸外国の様に省庁と参謀本部 の間での権限争奪、責任の押し付けが生じる余地を防止したが、それ故に軍政と軍令が結合したが故に個人が絶大な権力を有する事になる。そこで皇国では憲兵 隊が陸海軍の指揮下ではなく、独自の組織として運用されていた。陸海軍に対する監査権を有し、陸海軍府の長官は常に憲兵隊による警護を受けている。端的に 言えば監視である。

 軍政と軍令の双方に対しての権限を有するが故に、彼らは実戦部隊と政治の都合の兼ね合いに配慮せねばならない。政戦に秀でた感覚を有した者であるのが通例である。ファーレンハイトも外見は兎も角として、政治的視野に優れた人物であった。

 簡単には手放して貰えない様にも思えるが、本質的には武辺者である事に変わりはない。内戦で戦斧を振り回した経歴を見るに、最終的には夷狄(いてき)の脅威を重視する筈である。

「閣下、どうか今一度、小官に兵を率いて朝敵と相対する許しを」

 一礼して(こいねが)うものの、ファーレンハイトは深く唸る。

 才気走る真似をした若手将校が再び戦地に赴こうとする熱意を見せる……という言動で言い募ってはみるが、ファーレンハイとの表情は芳しくない。

「……ならん。あれの破天荒を読める貴様は貴重だ。いずれは主席作戦参謀にしてやる。留意しろ」

 最終的に絞り出された言葉は、ネネカを絶望へと突き落とした。

 ネネカの瞳が潤む。少しの罪悪感がファーレンハイトを襲ったらしく、皇帝(カイゼル)髭の禿頭が所在無さげな表情になる。思い知れ。乙女の純情を踏み躙った冷血漢めとばかりに宿将を見上げるネネカ。

 ネネカはこの時、ファーレンハイトが自身をどの様に見ているか理解して胸中では荒れ狂っていた。決して政治の“誘導”を評価された訳ではなく、トウカの 戦略に近い提言を以前より行っていた慧眼に基づく点こそを評価されたのだ。別に根拠地襲撃と連続的な奇襲はヴァレンシュタイン中将や先代ヴェルテンベルク 伯も近い言動を以前よりしており、陸軍内でも皆無という訳ではない。ネネカは自身である必要性を感じていなかったからこそ気付き得なかった。

 だが、今ならば彼女にもファーレンハイトの意図が分かる。

 陸軍という自らの陣営の中で、トウカに近い戦略眼を持ち、最もトウカに嫌悪感を抱く人物としてネネカを見い出したのだ。トウカと敵対的であればある程に、トウカとの連携の可能性は低減できる。つまりは裏切らない。

 どちらにせよ、トウカは己に敵対的“だった”ネネカを許さないだろう。そして、ファーレンハイトも今まで以上にネネカを重用すると明言している。磔にさ れてトウカと相対するに等しい。あの国内での暗殺すらも躊躇わない相手に自らの保身と昇進を万全とならしめる事など不可能に近い。高位種に立ち向かった初 代天帝陛下の心情を彼女は理解する。トウカもまた高位種最高峰のアーダルベルトに立ち向かったのだが、そんな自身にとり救いようもない事実は頭脳から綺麗 に抜け落ちていた。

 争うしかない。まずは両親の安全を確保せねばならない。両親共々、分かりやすい正義に共感し、分かりやすい悪を嫌悪する人物で、軍人よりも寧ろ警務官こ そが天職と思える様な人物である。身辺を警戒するなどという真似ができる筈もない。しかし、自前の戦力を有さないネネカにできる事など限られる。

 自身と両親の身の安全に対する手段を思案するネネカの頭に、ファーレンハイトの武骨な掌が乗せられる。

「あとで氷菓子(アイス)を買ってやる。好きな味をくれてやるぞ」

 それが私の心労への対価というならば、余りにも安価ではないのか。ネネカは狐耳を立てる。まさか参謀本部の購買で済ませようなどとは人道に反する行為である。

「……春風堂の最中(もなか)がいいです。こしあんを所望します」

 可能な限りの対価の釣り上げに挑むネネカ。

 参謀本部で仁義なき戦いが始まろうとしていた。

 

 

 

 

 

 

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奇襲こそが戦争で成功を収める最大の要素である。

           《亜米利加合衆国》 陸軍元帥 ダグラス・マッカーサー